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薬を使用する際の葛藤・逡巡

病を巡る負担における力学について

松枝 亜希子
障害学会第4回大会 20070916-17 於:立命館大学

last update: 20151224

◆要旨
◆報告原稿
資料(pptxファイル 287k)

■要旨
 精神障害者当事者運動の中で薬剤の使用をめぐって、どのような主張がなされてきたかを整理する。その作業を通して、「薬をめぐる議論はどこへ落ち着かざるをえないのか」「薬の使用を媒介にした医療との関係において何が問題なのか」という点について考察する。
 資料としては、当事者が書いた手記・論文、当事者へのインタビュー記録など、公刊されているものを対象とした。
 精神疾患を改善するものとして、1955年に向精神薬が精神医療に導入された。当然、医療従事者においては向精神薬は肯定的に評価されているが、実際の使用者である当事者のそれへの評価はさまざまである。
 1970年代以降の欧米のメアリー・オーヘイガンやジュディ・チェンバレンが、精神医療を利用したことのある当事者によるセルフヘルプ活動と権利擁護活動を始めた。その精神医療ユーザー運動は、精神医療に対して批判的なものであり、向精神病薬についても否定している。その理由としては、口の中が渇くなどの副作用が深刻であり、また思考不能をもたらし人格の破壊にいたるということを挙げている。ジュディ・チェンバレンは「私を本当に支配したのは薬であった」と述べている。オーヘイガンらの運動においては<向精神病薬の否定>という言説が展開された。
 その一方で、服薬の中止を危険視する声が当事者自身からあげられている。つまり、服薬を中止すると精神疾患が「再発する」と、医療従事者のみならず、西風の会、べてるの家など当事者によっても考えられているのである。そのような認識から<薬への肯定的評価>という言説が生み出されている。それに加え、吉田おさみによれば、薬を拒否することで再発するという認識が逆説的に「薬物信仰」を生んでおり、薬への依存的状況をつくっているという。つまり、薬は「症状」を抑える上で一定効果的であると考えられているのだ。そのため、薬に対して吉田が言うように「便宜上の手段としては有効」という立場をとらざるをえなくなる。実際、苦痛が緩和される気がするという当事者も多い。
しかし、<薬への肯定的評価>という言説に対しては、薬で「症状」を抑えるのは肯定的なことかという疑問が投げかけられる。「クスリが効かないことが問題ではなくて、実は効くことが問題」、「クスリによって感情、意志などを統制することはどうみても異常な事態」、「本当の自己の喪失」であるという(吉田おさみ)。そこで、<薬が効果的なことが問題>という言説が生み出される。医療・薬で強制的に症状を「なおす」こと、医療・薬で人格・精神を変えることの問題性が提起されている。
 吉田はその著作の中で「薬はだれにとって効くのか」「だれが病気を治したいのか」と問う。そして社会にとって病気がないほうが都合よく、また社会がそれをなおすことを求めているのだという答えを用意する。「なおす」ことをめぐる力学は、社会の価値観の影響を多分に受けていると言える。前述したように、薬の使用には、身体的副作用、人格・精神を医療で変えることが持つ問題性という否定的側面と、症状、苦痛を緩和するという肯定的側面があると述べられてきた。それら薬の否定・肯定の価値観は社会のありようによって構成されると言える。薬の使用については、両価値を考慮して、服用するか否かは、<最終的には本人が決めるしかない>というところへ、帰結せざるをえない。そのような言説をつくりだすことで、薬の使用に関する両価値を両立しようと吉田は試みた。 
 病気が完治せず、副作用があったとしても、効果を認めるなら服薬するという、薬を否定も肯定もできない、という感覚は、ある種の開き直りとして吉田より後の世代で展開される。「かしこい病者になりましょう」と服薬して病気をコントロールするという積極的態度を、名月かな、宇田川健、べてるの家などは生み出している。
 病気の有無や、薬の服用・拒否に関わらず、人は何かしら苦痛や生き難さを感じている。本人だけが感受している苦痛をどう緩和するかの判断は、おおむね本人に委ねられている。しかし、「自分で決めるしかない」と当事者に語らせてしまう社会に問題があるのではないか。そこで支配されている価値とは一体何なのかをさらに追究する。


 
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■障害学会示説(ポスター)報告 報告原稿

薬を使用する際の葛藤・逡巡――病を巡る負担における力学について

松枝(金崎)亜希子(立命館大学大学院先端総合学術研究科)

  ◆資料(pptxファイル 287k)

1 問題の所在
  
  近年の精神医療の治療実践においては、薬物療法が広く採用されている。今や精神医療において、向精神薬は不可欠のものであると言っても過言ではない。精神医療における薬物療法は、1955年にクロルプロマジン(向精神薬の一種)が医療現場に導入されたのが、その始まりであると言われており、その後1960年代には一般化した。
  しかし、当初、精神疾患が改善されるものとして、大きな期待を持って受け入れられた向精神薬であったが、患者への大量薬物投与の常態化、医療従事者と製薬会社の癒着など、それをめぐる諸問題が徐々に表面化していく。
  1970年代前後には、反精神医学の運動が、専門家や研究者から起こり、薬物療法を含めた精神医療実践への批判的言説が流布することになる。そのような状況の中、1970年代以降の欧米において、当事者自身からのセルフヘルプ活動と権利擁護活動が始まったとされる。その一連の運動の中では、一貫して、精神医療しいては向精神薬を否定する主張が展開される。
  そのような、当事者による向精神薬否定の言説が展開されても、依然として精神医療において、向精神薬は供給され続けている。それに加え、当事者による主張も向精神薬を完全に拒否するものだけではなく、その主義・主張は多様である。
  そこで、本稿では、当事者による精神医療・向精神薬への異議申し立てという運動の経緯を踏まえた上でも、当事者が向精神薬の服用を選択する、あるいは選択せざるを得ないよう当事者を誘導する力学とは何かを考察する。その際に「薬をめぐる議論はどういうところに落ち着かざるを得ないのか」「薬の供給を媒介に当事者は医療とどのような関係を取り結ぶのか」を検討する。その際、国内外の精神障害当事者が書いた手記・論文、当事者へのインタビュー記録など、公刊されているものを分析対象とした。その際、精神障害当事者による運動史上において、重要な位置を占めるだろう文献を、立岩真也『看護教育』連載「医療と社会ブックガイド」(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2001000.htm)を参考に選出した。
  
  2 向精神薬の否定
  
  精神障害者による当事者運動は、1970年代以降の欧米にて始まったとされる。その代表者は、メアリー・オーヘイガンやジュディ・チェンバレンなどである。精神医療を利用したことのある当事者によるセルフヘルプ活動と権利擁護活動を始めた。その精神医療ユーザー運動は、精神医療に対して一貫して批判的であり、向精神薬についてもラディカルな態度をとっている。
  
  同じことは、精神治療薬をみても言えます。薬によって苦悩から解放される人もありますが、私たちはこれを精神医療従事者の奇跡が功を奏したとは見ていません。苦悩除去には大きな代償を払わねばなりません。すなわち、身体運動の障害、無感情、自発性や想像力の喪失、その他数多くの副作用が伴います。さらに悪い場合は、何の益もないままマイナス効果しか表れず、それを医者に訴えてもまったく信じてもらえないこともあります。『精神障害者の主張――世界会議の場から』(「精神障害者の主張」編集委員会編 1994:283)から引用
  
  向精神薬は、口の中が渇くなどの身体的副作用が深刻であるとされる。また、身体的副作用のみならず、頭がぼうっとするなどの思考不能の状態をもたらし、人格の破壊にいたるということを挙げている。ジュディ・チェンバレンはその著書の中で「私を本当に支配したのは薬であった」と述べている。
  また、国内においても、1980年代に当事者の立場から、精神医療などへの疑問をなげかけたのに、吉田おさみがいる。彼はその著書や論文の中で、精神医療や社会がいかに精神障害者にとって抑圧的であるかを主張した。精神医療における薬剤の使用についてもいくつか言及している。
  向精神薬が、精神疾患に効果的であると、社会や医療従事者が鼓舞すればするほど、吉田の中で一つの疑問が膨らんでいく。それは薬剤で「症状」を抑えることへの違和感である。
  
  また医療一般における現代のクスリ信仰に対して高橋晄生氏をはじめとするクスリ批判は、おおむね有効性(有害性)、安全性の見地からなされていますが、特に「精神医療」の場合、薬物治療の本質こそが根源的に問題とされなければならないでしょう。つまりクスリが効かないことが問題ではなくて、実は効くことが問題なのです。『"狂気"からの反撃――精神医療解体運動への視点』(吉田おさみ 1980:50)から引用
  
  他方、クスリをのむ個人(本人)にとってはどうか? たしかにクスリをのむことによって苦痛は除去されることは多いですし、社会に適応できるということは生活―生産という面からすればよいことに違いないでしょう。しかしクスリによって本当の自己は失われてしまいます。クスリによって感情、意志などを統制することはどうみても異常な事態です。もし私たちの怒りや喜びや悲しさ、嬉しさなどを全部クスリで統制するとすれば、それはもはや人間ではなくロボットにすぎません。『"狂気"からの反撃――精神医療解体運動への視点』(吉田おさみ 1980:51)から引用
  
  薬剤で精神や人格を変容させるのは「本当の自己の喪失」であるという。医療・薬剤で強制的に症状を「治す」こと、医療・薬剤で人格・精神を変えることの問題性が吉田によって提起されている。そこで問うべきなのは、「薬はだれにとって効くのか」「だれが病気を治したいのか」ということである。病気であると診断するのは一つの価値判断であり、「治す」ことをめぐる力学は、社会の価値観の影響を多分に受けている。M.Foucaultなどが指摘してきたように、精神疾患は、社会にとって都合の悪いものであり、社会はそれを統制しようとしてきた。しかし、吉田は狂気というものを否定しない。狂気は「健常者社会の抑圧に抗して自己を解放しようとする反逆の一つの形態」であると肯定的な見方を示す。狂気を否定することは、病者の性の否定そのものに結びつく危険性を有しているからだろう。
  
  3 向精神薬の容認
  
  薬剤の使用には、身体的副作用、人格・精神を医療で変えることが持つ問題性という否定的側面と、症状、苦痛を緩和するという肯定的側面がある。病気というのが価値判断である以上、薬剤に対する否定・肯定の価値観も社会のありようによって構成されている。それを踏まえた上で、当事者が薬剤を使用せざるを得ない局面へと追いやる力学とは何なのか。吉田のことばを参考に考察していく。
  
  私がクスリをのみ、他人にもすすめることがあるのは、クスリが「病気」をなおすもの、あるいは抑えるものだからではなく、ただ生活の便宜のため、便利だからにすぎません。要するに、クスリをのむのがよいか悪いかは一刀両断的に決定できるものではなく、クスリが現実に自分に及ぼす作用を見きわめた上で、最終的には本人の決断に委ねられるべきでしょう。『"狂気"からの反撃――精神医療解体運動への視点』(吉田おさみ 1980:52)から引用
  
  吉田……自分の配偶者が「精神病者」で薬のむ場合とのまん場合と全然違う。のまないと頭が冴えていて良く気がつくがこわい。こちらがやりこめられてしまう。薬をのむと人あたりは良くなるが物忘れがひどく睡眠時間が長くなってしまう。家は天理病院だと僕は冗談でいうんだが自分は薬をのめという立場に追いこまれている。薬のまないで妄想なんか出て来て病院に入れられたらかなわないので自分が健常者の立場に立って妻に薬を進めている。自分自身に関しては、薬に対する依存傾向を認めざるを得ない。「第4回 刑法理論の動向と保安処分:"病"者の立場から」『臨床心理学研究』19(2)(吉田おさみ1981:67)から引用
  
  薬剤を飲まずに日常をやり過ごせるなら、飲まないにこしたことはないが、吉田に「生活の便宜のため、便利だから」飲まざるを得ないと言わせてしまう力学とは何か。吉田は狂気、病気を否定はしない、あるいは否定したくない。また、薬剤で精神を変えることの問題性も認識している。
  しかし、病気の症状自体が当事者にもたらす苦痛、また発症によって日常生活を送ることが著しく困難になることを考慮すれば、何か方策があれば、少しでも緩和したいと考えるのは当然だろう。そこで、薬剤が医療によって供給されており、それを活用できる経路が開かれているなら、当事者は薬剤を利用せざるを得ない状況へと追い込まれる。そのような状況の中、薬剤を服用するか否かは、肯定・否定の両価値を考慮して、「最終的には本人の決断に委ねるしかない」というところへ着地せざるを得ない。そのような言説をつくりだすことで、薬剤の使用に関する両価値を両立しようと吉田は試みた。
  また、吉田は自らが当事者でありながら、精神障害者である配偶者をもつ家族でもあるという立ち位置にある。障害者や病者とともに暮らす家族とは、当事者に寄り添う可能性を持ちながら、社会の側にたつこともある両義的な存在である。そのような両義的な存在である家族は、さまざまなことを考慮して、当事者に薬剤の服用を勧めざるを得ない。その一つの配慮とは、目の前で苦しむ他者に対して、何とか苦痛を軽減したいというものだろう。
  それ以外に考えられる論点とは何か。精神疾患を持つ個人へのケア、および社会から見て生産性が低下した当事者を巡る負担は、現状では社会が分有するというよりも、概ね周囲の人たち、とりわけ家族が負わざるを得ないと言えるだろう。社会は生産性の面から精神疾患を治そうとする。吉田も「社会に適応できるということは生活―生産という面からすればよいことに違いないでしょう」と、薬剤によって症状をおさえるという治療法が意図するところを指摘している。このような状況を鑑みて、周囲の人たち、とりわけ家族は、病状を改善すると考えられているところの薬剤の服用を促して、負担の軽減を図るような処遇をとることになる。そのため、当事者の立場から、薬剤を肯定できない、あるいはしたくはないという吉田が、自分が精神疾患を有する配偶者を持つ家族の位置に立つとき、薬剤を飲まさざるをないというジレンマに直面することになる。
  また、上述したような薬剤の使用を巡る力学を考慮した上でも、薬剤に頼らざるを得ないという状況が、それへの依存状況を形成していると言えるだろう。
  
  私の経験からして、クスリをやめて入院、退院してクスリをやめて入院、ということを繰り返してきたように思いますので(もちろん誰も"発病"とクスリの因果関係を証明できない)、心理的にもクスリは私にとって欠かせないものとなっていました。つまり、クスリをのむことによって安心し、クスリに依存しているという現実が、残念ながら現在の私にもあるように思います。クスリはのまない方がよいとは決まっていますが、やはり現実世界に生きていくうえで便利だ、ということで麻薬と知りつつ飲み続けているのが実情です。『"狂気"からの反撃――精神医療解体運動への視点』(吉田おさみ 1980:245)から引用
  
  吉田は再発と服薬の因果関係を証明できないとの認識にある。しかし、現状では再発を防ぐ有効な手立てとして、薬剤が支持されており、その供給が保障されている以上、再発を何としてでも避けたい当事者は薬剤を服用するしかない。そのようにして、再発への不安を軽減し、心理的安定を得るという実践が、当事者の間に「薬物信仰」を生んでおり、薬剤への依存的状況をつくっているといえるだろう。
  
  4 向精神薬の肯定
  
  1970年代以降、国内において「ごかい」「友の会」などの、当事者集団が中心となって、当事者による出版物が次第に刊行されていく。向精神薬の副作用などの否定的側面を考慮した上でそれらを包含するような、服薬を推奨する言説が編み出されていく。たとえば、それは、服薬の中止を危険視する声にみてとれる。
  
  現代の精神医療は、外来が主体です。一般に薬物療法が行われています。しかし、薬を飲み続けることは、簡単なことではありません。薬の激しい副作用から逃れようとして、あるいは、病気が治ったと錯覚する思いから薬を飲まなくなります。また病気であることを拒否する思いもあります。しかし、薬の服用を止めた多くの場合は、再発、入院となります。
  ですから、「西風の会」の唯一の約束は、「薬を飲もうよ」というものです。これは、医療機関との正常な治療関係にあるということ、自らを精神障害者と認めていることを意味しています。『天上天下「病」者反撃!――地を這う「精神」者運動』(「病」者の本出版委員会 編 1995:200)から引用
  
  服薬を中止すると精神疾患が「再発する」と、医療従事者のみならず、当事者によっても広く考えられていることが見てとれる。薬剤は疾患による「症状」を抑えるのに、一定効果的であると認識されている。そのため、再発への大きな不安を、薬剤を服用するという行為を通じて鎮めようとする試みがなされていると言えるだろう。そのようにして、より強固に、当事者による薬剤への肯定的な評価が形成されていく。
  薬剤には副作用もあるし、病気を完治させるわけでもない。けれど、自らが感受している苦痛を緩和する可能性があるのなら、活用できる資源の一つとして積極的に利用して自分の病状および苦痛をコントロールしていく。そのような姿勢が、べてるの家や名月かななどの著作から読み取れる。
   
  で、「落ちつかない」となったらすぐにクスリをのむかというと、そうではありません。(中略)
  そしてそれらのひとと連絡がとれれば、クスリはつかいません。というか、頼りになるひとが誰もつかまらず、自分ひとりでなんとかしなければならないとわかったときに、はじめてクスリの存在を思いだします。
  ひとりでなんとかしなければならないけれど、ひとりではどうにもならないというときにはじめて、「あ、いまわたしはクスリを必要としているんや」と気づくのです。(中略)
  でもかなり自然な感じなので、ほんとうに<メレリル>が効いているのか、それとも時間の流れによって不安の波がおさまったのかは、はっきりしません。
  ただ、のまなければ30分経っても1時間経っても不安は消えないことが多いので、「おそらく効いているんだろう」と思うことにしています。そして、それくらいの効きめがあれば、いまのわたしには充分なんだろうと思っています。(中略)
  また実際には効いてないとしても、のむ動作をとおして「効く」という暗示がかかるのではないかとも思っています。だからほんとうは疑っているのですが、「これをのんだからもう大丈夫。不安はかならずおさまる」と、自分で自分に暗示をかけます。(中略)
  正直にいえば、わたしはクスリをつかうのは苦手です。
  それにクスリをのみたくない、化学物質で気もちの変化をコントロールしたくないという思いがつよいので、「クスリなんてどうせ」という思いがあります。また、クスリは一過性の効きめしかないものだとも思っています。(中略)
  だからクスリは鎮痛剤みたいなもので、その場その場の苦しみに対処できるだけで、根本的なところはわたしが変化しないかぎり変化しないだろうと思っています。
  それでもないよりマシなので、どうしてもひとりでいなければならないときに、しかたなくクスリをつかっています。『統合失調症とわたしとクスリ』(川村実ほか 2005:88)から引用
  
  薬剤は人為的なもので深刻な副作用もあるため、使用せずに日常をやり過ごせるなら、それにこしたことはない。しかし、薬剤が自らの病状、苦痛を緩和する手段として、当事者に開かれ、供給源を保障されているなら、当事者は服用せざるを得ない状況へと着地せざるを得ない。薬剤を否定も肯定もできないが、「うまく利用していこう」というある種の開き直りを実践していかざるをえないだろう。
  そして、薬剤の使用に対してラディカルな態度をとる集団がある反面、精神疾患への治療として、薬剤の使用が有効であるという言説が医療従事者、当事者から編み出され、それが供給されているという状況から、「薬物信仰」がより強固に形成されていく。たとえば、財団法人全国精神障害者家族連合会発行の雑誌『ぜんかれん』では、「自分に合う薬を探す」というテーマで度々特集が組まれている。薬剤が有効であるという言説が強固であるため、現在服用している薬剤が自分にとって苦痛を軽減するものではない際には、「薬が自分に合っていないため、症状が緩和されない。自分にもっと合う薬があるはず」と「より良い薬探し」に当事者や家族はかりたてられることになる。また、本雑誌は、精神障害者を持つ家族が主体となって発行されている以上、負担を負わざるを得ない家族の立場から「より良い薬探し」に関心が集まることは当然の帰結だともいえるだろう。
  「合う薬」探しや薬剤の減量、ひいては薬剤を使って病状を主体的にコントロールするよう試みる際には、当然ながら医師との協働作業が要求されることになる。また、精神医療の歴史を踏まえて、医療による一方的な支配を回避するために、医療・医師との協働関係を築くことの重要さが主張される。病気とつきあっていかざるをえない状況において、当事者も薬剤についての知識を獲得し、自ら薬剤で病状をコントロールする、「かしこい病者」になるという戦略がとられることになる。また、当事者が薬剤をうまく利用して、自ら病状をコントールしようとするのには、苦痛の軽減だけではなく、周囲や家族に負担を負わせたくないという意図もはたらいていることはいうまでもないだろう。
  
  5 考察
  
  なぜ、社会や周囲の人、家族は精神疾患を治そうとするのか。当事者の苦痛の軽減という視点に加え、個人の精神疾患の発症は、社会とりわけ周囲や家族に負担が余儀なくされるからである。社会が精神疾患の治療法として薬剤を推奨しようとするのには、個人の病状をおさえることで、低下した生産性を回復させようとする含意があることがわかった。また、当事者も周囲や家族に負担をかけたくないから、自らすすんで薬剤を求めるという力学もはたらいている。精神障害者による薬剤の服用を巡る力学を考える際には、従来指摘されてきた「狂気」をコントロールするという視点だけではなく、精神障害者をとりまく周囲の負担という視点を組み込んで読み解いていくことが必要であるといえる。
  また、薬剤を、病状を当事者自らがセルフコントロールするための手段と位置付けるも、それの供給元は医師に限定されている。薬剤を服用する限りは絶対的な医師の支配下に置かれることを意味し、当事者と医師との関係性が、薬剤の供給状況にダイレクトにかかわってくる。当事者が病状のセルフコントロールという試みを実践しようとしても、依然として、医師は絶対的な権力者としてその前に立ちはだかり、意図的にせよ、意図的でないにせよ、薬剤の供給を媒介にして、当事者を支配する危険性を大いにはらんでいると言える。それらは医師との「協働関係」を結ぼうとしたとき、どのような障害となるのか。検討が必要である。
  病気とつきあっていかざるをえない当事者が、薬剤で病状をコントロールするという日常的実践へと着地するとき、吉田が問いかけた「薬で人為的に精神を変容させることがはらむ問題性」という論点が再び浮かび上がってくる。薬剤で精神をコントロールするかぎり、社会から判断能力などを欠いた成員としてみなされ続ける。薬剤を否定も肯定もできない当事者がある種の開き直りとして薬剤を利用しようという戦略が、当事者にスティグマを負わせ続けることになる。社会の向精神薬への意味付与と、当事者のそれとの溝を、どのように実践によって埋めていくか。今後模索が必要だろう。
  
  6 今後の課題
  
  なぜ病や障害―本稿の場合は精神疾患−をめぐる苦痛だけが、薬剤の使用などによって除去の対象となるのか。また、当事者・家族が負わざるを得ない負担を社会で仮に分有された場合にも、なお後に苦痛は残る。その苦痛にはどう対処するのか、といった検討が残されている。
  また、薬剤を服用するか否かは、社会・周囲に決定されるよりは、「本人に委ねるしかない」というところに着地するということをみてきた。しかし、決定を本人に委ねるということと、当事者がすべてを決定するということは別問題で、すべてを本人が自己決定してもいいのかということを巡る問題への考察が課題として残されている。
  本稿では、統合失調症、躁うつ病など、多様な疾患へ処方されている薬剤をひとまとめに向精神薬として、それを巡る当事者の言説を追ってきた(しかし、おおむね今回引用した当事者の言説は統合失調症を対象とする薬剤についてのものである)。今後は、それぞれの疾患別に、当事者の語りから、どう医療と距離をとるのか、そのなかで薬剤はどのように位置付けられるのかを明らかにする必要がある。疾患ごとによって、医療処置を受けるプロセスの違いが医療との距離の取り方に影響しているだろうし、薬剤の供給の方法、薬剤の効能の語られ方も疾患によって多様である。そこで、疾患ごとの言説の違いをより際立たせるために、疾患ごとの患者たちの集まり、セルフヘルプグループに参加する当事者の語りに照準を合わせる。組織ごとの当事者の語りを詳細に分析することで、疾患の種類ごとに医療にかかわる言説の配置を考察していく。
  
<引用・参考文献>
  
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Chamberlin,Judi.,1977 On Our Own(=1996,大阪セルフヘルプ支援センター訳『精神病者自らの手で――今までの保健・医療・福祉に代わる試み』解放出版社.)
古川奈都子,2004,『心が病むとき、心が癒えるとき』ぶどう社.
川村実 佐野卓志 中内堅 名月かな,2005,『統合失調症とわたしとクスリ――かしこい病者になるために』ぶどう社.
Mary,O'Hagan,1991 Stopovers: On My Way Home from Mars(=1999,長野英子訳『精神医療ユーザーのめざすもの――欧米のセルフヘルプ活動』解放出版社.)
斉藤 道雄,2002,『悩む力――べてるの家の人びと』みすず書房.
「精神病」者グループごかい 編,1984,『わしらの街じゃあ!――「精神病」者が立ちあがりはじめた』社会評論社.
「精神障害者の主張」編集委員会編,1994,『精神障害者の主張――世界会議の場から』解放出版社.
全国精神障害者団体連合会準備会,(財)全国精神障害者家族会連合会編,1993,『こころの病い ――私たち100人の体験』中央法規.
友の会,1974,『鉄格子の中から』海潮社.
月崎 時央,2002,『精神障害者サバイバー物語――8人の隣人・友達が教えてくれた大切なこと』中央法規出版.
浦河べてるの家,2002,『べてるの家の「非」援助論――そのままでいいと思えるための25章』医学書院.
浦河べてるの家,2005,『べてるの家の「当事者研究」』医学書院.
谷中輝雄,1993,『旅立ち 障害を友として――精神障害者の生活の記録』やどかり出版.
吉田おさみ,1976,「"きちがい"にとって"なおる"とは:「される側」の論理」『臨床心理学研究』14(1):26-31.
――――,1976,「"病識欠如"の意味するもの:患者の立場から」、『臨床心理学研究』13(3):113-117.
――――,1977,「狂気・正気の連続-不連続性について:"妄想"体験から」『臨床心理学研究』15(2):20-25.
――――,1977,「<発題T>患者の立場からの発題(<シンポジュウムU>治すということ:心理治療をめぐって(発題部分))」、『臨床心理学研究』14(3):36-41.
――――,1977,「現存在分析論の「精神障害」観について」『臨床心理学研究』15(1):32-37.
――――,1978,「運営委員会に質問する」『臨床心理学研究』16(2):45-46.
――――,1978,「治療的要請と面会の自由」『臨床心理学研究』16(1):57-63.
――――,1978,「岡林春雄(臨心研15.2.)に抗議する」『臨床心理学研究』15(4):94-95.
――――,1979,「"患者"の"甘えと反抗":対等関係をめざして」『臨床心理学研究』16(4):70-78.
――――,1979,「宮崎忠男さんの疑問(17巻1号)に答えて」『臨床心理学研究』17(2):50-52.
――――,1980,「『精神障害者福祉法案』批判」『臨床心理学研究』18(3):96-99.
――――,1980,「監獄法改『正』と精神医療」『臨床心理学研究』17(3・4):120-125.
――――,1981,「第4回 刑法理論の動向と保安処分:"病"者の立場から」『臨床心理学研究』19(2):58-68.
――――,1981,「"人間科学"について」『臨床心理学研究』18(4):134.
――――,1982,「国障年思想を超えて:「病」者の立場から」『臨床心理学研究』19(3):38-42.
――――,1980,『"狂気"からの反撃――精神医療解体運動への視点』新泉社.
――――,1983,『「精神障害者」の解放と連帯』新泉社.


UP:20070808 REV:20070830,0905
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