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「青い芝の会」における知的障害者に関する言説の検討

会報『青い芝』を手がかりに

廣野 俊輔  2007/09/16-17
障害学会第4回大会 於:立命館大学

last update: 20151224

同志社大学大学院社会学研究科社会福祉学専攻博士課程(後期課程)
廣野 俊輔

◆要旨
◆報告原稿


■要旨

T研究における問い
 同じく障害者として同定される人であっても、その内部でさまざまな区別や順序づけがなされることがある。そして、このことはしばしば否定的に語られる。 たとえば、「身体障害者の人は,知的障害もつ人と一緒にされたくないと考えている」といったようにである。
 障害をもつ人同士の差別の存在を否定することはできない。しかし、一方には、異なった障害に対して、連帯への志向を強めていった運動があった。本報告で 取り上げる「日本脳性マヒ者協会青い芝の会連合会」(以下、青い芝の会)における言説は、知的障害者を強く脳性マヒ者と区別されるべき対象と位置付けてい たが、後に差別に立ち向かうために連帯すべき対象へととらえ直している。この言説の変化は、どのように起こったのか、そしてその変化はどのような意味を もっているのか、これが本報告の問いである。

U研究の方法
 研究の方法は、「青い芝の会」の会報『青い芝』のレビューによっている。会報『青い芝』は「青い芝の会」の機関誌のうち、全国誌にあたる。この『青い 芝』の1〜105を用いた。ただし、1971年以降、「知的障害」という言葉を用いている記事は、管見の限り見当たらず、結果として、具体的な言説を 示すことができるのは、1957年〜1970年までとなっている。

V研究の結果
 まず、「青い芝の会」において知的障害者に関する言説がどのように変容したかを示す。1960年中頃まで、「青い芝の会」の会員は、知的障害者と同一さ れることに非常な反発を覚えていた。言語障害ゆえに、知的障害者と混同され、社会から知的障害者と同様の偏見を受けることを危惧していたのである。このよ うな危惧は、たとえば、知的障害者と脳性マヒ者を混同している新聞記事への強い抗議によく示されている。さらに、1960年代に、重症心身障害児に関する 社会的関心が高まるが、この重症心身障害児という用語にも、知的障害者と脳性マヒ者の混同を助長するとして、非常な反発を示している。
 しかし、重症心身障害児の施策を促進しようとする団体との接触によって、それまでと異なった言説が出現する。すなわち、知的障害があったとしても、人間 としての尊さには変わりがない、といった主旨の発言がなされるようになるのである。
 さらに1970年には、脳性マヒ者と知的障害者を区別して考えるべきだという意見に、強く反対する見解が出現する。この見解は、知的障害も同じく差別さ れている存在として、中まであると考えなければ、自分たちの受けている差別もなくならないということを主張する。このような見解の出現の背景には、「青い 芝の会」全体が1970年前後を境目として、反差別の志向を強めたこの影響があるだろう。また、1970年以後の活動、たとえば,養護学校反対において、 すべての障害児の普通学級における教育の保障を求めたということから、このような見解が主流になっていったものと考えられる。
 続いてこのような言説の変容の意味について考察する。まず、発足当初から、1960年代まで支配的だった知的障害者との差異を強調する言説の意味であ る。この場合、差異の強調とは、インペアメントにおける差異の強調である。「青い芝の会」の会員は、知的障害者に差別的なまなざしが社会から向けられてい ることを、もちろん知っていた。会報記事の検討から、時には、彼らもそのようなまなざしを向ける主体となりえたといってよい。脳性マヒ者にとって、知的障 害者と社会から誤認されることは、当時の知的障害者が被っていた差別や抑圧を、脳性マヒ者が受けていた社会的な抑圧に加えて被ることになることを意味して いた。いわば、「青い芝の会」の会はディスアビリティの増加を回避するためにインペアメントの差異を強調し、社会に理解させるという方策をとったのだと考 えられる。
 では、続いて現れる言説の変容にどのような意味をもつのか。まず、「人間としての尊さは変わらない」という言説は、インペアメントにおける差異を強調す ることにより、知的障害者を事実上、同じ人間としてみていなかったこと、時には脳性マヒ者自身も知的障害者に差別的なまなざしを向けていたことに対する反 省的な認識が表れている。
 さらに続く、知的障害者を仲間であると位置づけない限り差別の解消はあり得ない、という見解はどのような意味をもつか。ここで注目しておきたいことは、 この時期から、「差別」という用語が会報に出現することになり、その1つには「社会の人達の差別」とはっきりと表現されていることである。このことは、社 会による差別や偏見といったディスアビリティを解決すべき主体として一般の人が指定されたことを示している。報告者の考えでは、この社会的な差別や偏見 (ディスアビリティ)を解決すべき主体として、社会を指定することによって、知的障害者は同じく社会的な差別や偏見を受けている者として、連帯の対象と なったのだと考えられる。「青い芝の会」における知的障害者をめぐる言説の変容、その背景には、差別や偏見といったディスアビリティを誰が解消すべきか、 についての認識の変化があったと考える。


 
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■報告原稿

Tはじめに

 同じく障害者として同定される人であっても、その内部でさまざまな区別や順序づけがなされることがある。そして、このことはしばしば否定的に語られる。たとえば、「身体障害者の人は,知的障害をもつ人と一緒にされたくないと考えている」といったように、である。
 障害をもつ人同士の差別の存在を否定することはできない。しかし、一方には、当初、異なった障害に対して、区別を強調していたにもかかわらず、連帯への志向を強めていった運動があった。本報告で取り上げる「日本脳性マヒ者協会青い芝の会連合会」(以下、青い芝の会)における言説は、知的障害者を強く区別されるべき対象と位置付けていたが、後に差別に立ち向かうために連帯すべき対象へととらえ直している。この言説の変化は、どのように起こったのか、そしてそのような変化はどのような意味をもっているのか、これが本報告の問いである。続くUとVで「青い芝の会における知的障害者に関する言説の変容を示し、Wで障害学の視点からその意味を考察する。

U混同への反発

 「青い芝の会」は1957年11月3日、脳性マヒ者だけの団体として発足している。創設者の1人、金沢英児が記録しているところによれば、創設者の3人(山北厚、金沢英児、高山久子)は身体障害者団体の会合に参加した際に、脳性マヒ者自身の団体の必要性を感じていたという(金沢,1957)。もちろん、障害種別に応じた団体をつろうとすること自体、少しもおかしなことではない。しかし、いったいなぜ脳性マヒ者が、いち早く障害別の団体を創設することを必要であると感じたのか。初代会長の山北は設立の挨拶において次のように述べている。

 また、身体障害者福祉法が制定され、各地に身体障害者の協会が出来はしましたものゝ、そこには各種の障害者が入会して居りますため、その要求せんとするところのものも各々に異なり、私たち脳性マヒ者の大半はその意志の発表器官に障害を来していますためにその発言権が極めて弱く、私たちが欲していることはなかなか実現しないのであります(山北,1957,p.4,傍点は報告者)。

 この発言は、他の障害者の中で言語障害をもつ脳性マヒ者が極めて不利であることを指摘しているが、このような意見は一度きりではなく、繰り返し表明されている 。脳性マヒ者はその言語障害ゆえに他の身体障害者との間に距離を感じていたのである。また、法的にも、当時の身体障害者福祉法が脳性マヒという障害に対応できていないということが、会員を悩ませていた 。こういった背景から、脳性マヒ者のみの団体が設立されたのである。
 しかし、他の身体障害者に対して、距離を感じていた脳性マヒ者ではあるが、一方では知的障害者と脳性マヒ者の区別を強調している。また、他者によって混同されることへの強い危惧を見出すことができる。金沢英児は次のように述べている。

 (脳性マヒ者は―報告者補注)即ち、そのおかしな格好や、よくしゃべれないこと、或は脳性マヒという言葉そのものから知能もやられているのではないかと思われ、しいては人格そのものものを疑われるわけである。(金沢,1959,p.2,傍点は原文)。

 初期の「青い芝の会」は、この金沢の言説にみられるような危惧を背景に、PR活動を重視していた。そして、発足当初の「青い芝の会」において、脳性マヒ者は自分たちを知的障害者とは異なる存在としてとらえていた。その上で、「青い芝の会」の脳性マヒ者は、健常者がしばしば両者を混同する場合があることを感じており、その混同を危惧していたのである。注意すべきことは、脳性マヒ者にとって他者から知的障害者として把握されることが、単なる事実誤認という意味だけではなく、「人格そのものを疑われる」という意味をもっていたということである。
 このような危惧は決して的の外れたものではない。一般的に脳性マヒ者と知的障害者が混同されていたことは、「数万と推定される脳性マヒ患者は白痴か精神病者として一生を終わるのが大部分」と報じている新聞記事に、端的に表れている(読売新聞1958・3・28)。脳性マヒ者についての知識のない者にとって、両者はしばしば同一の障害と感じられたのである。「青い芝の会」はこの記事について、大新聞が脳性マヒ者と知的障害者を混合するのは言語道断だとして抗議を行った、と報告している(『青い芝』3)。この抗議は、先に述べた、他者による混同への危惧が、具体化された行動である。ただし、脳性マヒ者との区別に関しない点においては、「青い芝の会」の脳性マヒ者は、社会の知的障害者の理解に異議はなかったようである。実際、知的障害者を自立できない存在としてとらえている記事も存在する 。
 このような混同に対する反発は、1960年代に入ってより一層強くなる。その背景には、重度心身障害児への社会的な関心の高まりがある。重症心身障害児の問題は、作家水上勉の「拝啓池田総理大臣殿」の公表や、障害児の親による運動に示されるような関係者の活動、小林是樹を代表とする専門家によって問題とされ、1960年代前半には多くの新聞記事がこの問題を報道している。また行政においても、重度の障害者への対応として、1963年「重症心身障害児寮育実施要綱」を策定し「重症心身障害児施設」を補助事業として開始している。このように、1960年前後を境界線として、それまで等閑視されていた重度の障害や重複障害に、関心が向けられたのである。
 このような変化に対する反応として、会報から見いだされることは、「青い芝の会」の会員が重症心身障害という用語の誕生に非常な反発を示している、ということである。このような反発は、当時の事務局長石橋玲二の記事に明確に示されている。石橋は、重症心身障害児の社会的な関心の高まりに対し、「我々脳性マヒといわゆる心身障害との混同が急速に拡がつている」とし、「(脳性マヒ者の中に30%の知的障害者がいるが―報告者補注)しかしその少数を持つて我々全体を指されるのは迷惑この上もありません」と述べている(石橋,1964,p1)。重症心身障害児への社会的関心の高まりに対して、同様の危惧を表明する記事は他にも散見され 、さらには、脳性マヒ者の女性が、鉄道に乗車中、知的障害者と誤認され途中下車させられる事件が起こることにより、この反発はよりいっそう高まっていくのである 。

Vゆらぎと変化

 先に、「青い芝の会」において、設立当初から知的障害者と混同されることに対する、危惧が存在し、1960年以降いっそう強まってきたと述べてきた。しかし、それまでと異なった言説が確認できるのも、この重症心身障害児の問題に関係して、である。「青い芝の会」では、重症心身障害児に関する施策を促進するための団体と話し合いの機会を設けている。そして、管見の限り、最も早く見いだされる変化は、次の重症心身障害児の親の会の会員が臨席して行われた役員会において、「青い芝の会」の役員によってなされた発言である。

 精薄者も我々と同じでありそういう排他的な考えではいけないと理屈では分かっているのだが、子どもの頃街中で、"馬鹿々々"とはやされたという苦い思い出のために、一緒に考えられることに敏感になり、感情的に反発する会員が多い(山北(文責),1964,p.9)。

 このように重度心身障害の社会問題化は、「青い芝の会」の会員が当初からもっていた、知的障害者と混同されることの危惧を増幅させるものであったと同時に、「青い芝の会」の脳性マヒ者が重度心身障害児に関する運動と接する機会を与えたのであった。もちろん、だからといって、知的障害者と脳性マヒ者を区別しようとする志向が消えた、とは主張していない。実際この後も知的障害者と脳性マヒ者を区別しようとする志向は、根強く残存する。しかし、こうして知的障害者に関して、それまでとは一線を画する言説が出現したのは、確かである 。このような変化を、最も端的に示しているのは、次の金沢の言説である。

 脳性マヒ者は精薄ではないということを云々するに当たって、手足が不自由でも、知能が劣っていても人間としての尊さには変わりはないのだということをはっきりさせておく必要があるのではないのだろうか。共同戦線をはらなければならないことを阻害し、両者の関係にひずみをもたらすことのないように気をつけなければならないと思う(金沢,1968,p.7)。

 金沢は、他の会員に対して、脳性マヒ者と知的障害者にある差異ばかりを強調する前に、脳性マヒ者も知的障害者も人間としての尊さが変わらない、ということを確認するように求めている。このようにして、1960年代後半の「青い芝の会」において、知的障害者を連帯すべき相手としてみなす言説が誕生したのである。
 さらに、1970年には、より積極的に知的障害者を連帯の対象とする言説を見出すことができる。それは、「青い芝の会」の第一回討論集会(1970・6・28)で田村公一によってなされた発言である。

 若林さんの言い分は精薄者を差別している。精薄者とわれわれとが同一視されて何が悪い。精薄者と間違えられたといってバカにされたというような表現はやめてほしい。我々と精薄者と同じ仲間なのだ。我々の能力が認められなかったと思うべきなのだ(『青い芝』別冊「討論会の記録」) 。

この発言は、先に引用した金沢の主張よりも、より積極的に知的障害者と脳性マヒ者が同じ立場にいることを、主張している。田村が、「差別している」として指摘した若林の発言とは、人間の能力は簡単に測れるものではなく、もし無理に測ろうとすれば、脳性マヒ者も知的障害者も変わらなくなってしまう、という趣旨のものである。それを受けて田村は、若林の発言を差別であるとしているのである。このような議論は、後に出された会報において次のように報告されている。

 (重複障害の人たちと同一視すべきでないという意見に対し―報告者補注)重複障害や知恵遅れの人々も仲間だという考え方に立たない限り、私達自身に対する社会の人達の差別を打ち破ることは出来ないという対立した意見が出ました(無記名1970[79]:1,傍点報告者)。

 上記の金沢の言説が、脳性マヒ者と知的障害者が、同じ人間であることを指摘しているのに比して、田村の言説は、両者がともに差別される者であるということを強調している。このような言説の変化には、「青い芝の会」の変化が関係していると思われる。多くの研究が指摘していることだが、1970年前後を境界として、「青い芝の会」は先鋭化していく。そこでは、障害者に関わる問題が差別問題としてとらえかえされたのである。田村は、かなり早くからの会員であり、もちろん、それまでに起こった知的障害者に関する認識の変化と無関係ではないだろう。しかし、この田村の発言の背景には、先述の「青い芝の会」全体の変化の影響によると考えられる。
 管見の限り、1970年以降の『青い芝』において、知的障害者に関する個別的な議論はみあたらない。また、これまでの検討をもって、「青い芝の会」において、知的障害者を区別する志向が消えた、とも言えない。しかし、「重複障害や知恵遅れの人々も仲間だという考え方に立たない限り、私達自身に対する社会の人達の差別を打ち破ることは出来ない」という意見が主流となっていたことは、後の養護学校に反対し、全ての障害者の普通学級での教育を求めたことに示されている。

W変化の意味

 これまで「青い芝の会」における知的障害者に関する言説の検討をおこなってきた。その結果、次のようなことが確認できた。すなわち、発足当初から1960年代中盤まで、脳性マヒ者と知的障害者が混同されることに、非常な反発を感じていた。しかし、同時に、人間としての尊さは変わらないという、認識によってそれまでと異なる言説が確認された。さらに、1970年頃には、知的障害者を仲間であると位置づけない限り差別の解消はあり得ない、という見解が表明されていた。以後の「青い芝の会」の活動から、この見解が主流になっていたと推測することができる。
 このような言説の変化に対して、障害学の視点からどのような意味を見いだすことができるだろうか。障害学における基本的な概念である、インペアメント/ディスアビリティという概念を援用しながら考察する。
 まず、発足当初から、1960年代まで支配的だった知的障害者との差異を強調する言説が意味しているものは何だろうか。この場合、差異の強調とは、インペアメントにおける差異の強調である。「青い芝の会」の会員は、知的障害者に差別的なまなざしが社会から向けられていることを、もちろん知っていた。上記の記事の検討から、時には、彼らもそのようなまなざしを向ける主体となりえたといってよい。脳性マヒ者にとって、知的障害者と社会から誤認されることは、当時の知的障害者が被っていた差別や抑圧を、脳性マヒ者が受けていた社会的な抑圧に加えて被ることになることを意味していた。いわば、「青い芝の会」の会はディスアビリティの増加を回避するためにインペアメントの差異を強調し、社会に理解させるという方策をとったのではないだと考えられる。
 では、続いて現れる言説の変容にどのような意味を見いだすことができるだろうか。まず、「人間としての尊さは変わらない」という言説は、インペアメントにおける差異を強調することにより、知的障害者を事実上、同じ人間としてみていなかったこと、時には脳性マヒ者自身も知的障害者に差別的なまなざしを向けていたことに対する反省的な認識が表れている。
 さらに続く、知的障害者を仲間であると位置づけない限り差別の解消はあり得ない、という見解はどのような意味をもつだろうか。ここで注目しておきたいことは、この時期から、「差別」という用語が会報に出現することになり、上記引用文にあるように「社会の人達の差別」とはっきりと表現されていることである。このことは、社会による差別や偏見といったディスアビリティを解決すべき主体として一般の人が指定されたことを示している。報告者の考えでは、この社会的な差別や偏見(ディスアビリティ)を解決すべき主体として、社会を指定することによって、知的障害者は同じく社会的な差別や偏見を受けている者として、連帯の対象となったのだと考えられる。「青い芝の会における知的障害者をめぐる言説の変容、その背景には、差別や偏見といったディスアビリティをどのように解消すべきか、についての認識の変化があったと考える。

文献

H記,1965,「事務局だより」『青い芝』39,p.4.
金沢英児,1959,「脳性マヒの話(5)」『青い芝』6,pp.2-3.
金沢英児,1968,「『脳性マヒ者は精薄ではない』ということにふれて」『青い芝』67,p.7.
山北厚,1957,「会長となつて」『青い芝』1,pp.4-5.
山北厚,1966,「障害者の中の脳性マヒ者とは」『青い芝』48,p.2.
山北厚(文責),1964,「役員会議報告」『青い芝』38,pp.8-9.
山北厚,1968,「不当なる扱い」『青い芝の会』66,p.8.
小埜寺直樹,2000,「重度心身障害児施設寮育の制度化過程―対象としての『重症心身障害児』規定をめぐって」『社会福祉学』42(5),pp.151-161.
無記名,1965,「重症身障者施設設立計画に関連して」『青い芝』41,p.2.
無記名,1970,「第一回討論集会開かれる」『青い芝』79,p.1.
石橋玲二,1964,「前進を阻害するもの」『青い芝』34,p.1.
吉田道子,1966,「TVにでゝ思うこと」『青い芝』53,p.3.
立岩真也,1995,「はやくゆっくり―自立生活運動の生成と展開」安積純子,岡原正幸,尾中文哉,立岩真也,『生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店.
青い芝の会,1957-1970,『青い芝』1-83.
青い芝の会,1970,『青い芝』別冊.


UP:20070807 REV:20070827
青い芝の会  ◇障害学・2007  ◇障害学
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