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本当に「社会モデル」は死んだのか?

T.シェイクスピアの社会モデル批判をめぐって

星加 良司 20070916
障害学会第4回大会 於:立命館大学

last update: 20151224

東京大学先端科学技術研究センター
星加 良司

◆要旨
◆報告原稿

■要旨

(問いと背景)
 障害学においてディスアビリティの社会モデル(social model of disability)は、その言葉を使うかどうかはともかく、基礎的な認識枠組みとして多くの研究者に受け入れられてきた。ところが、近年になってかつ て社会モデルの支持者であった人たちの間で、イギリス型社会モデルに対して痛烈な批判がなされるようになった。日本では一部の例外を除いて社会モデルにつ いての理論的関心が希薄であるように思われる(杉野 2002; 2007)が、今後の障害学の理論的発展の方向性を見定める上でも、その論争点について考察しておくことは重要である。こうした観点から、本報告では近年 の社会モデル批判の代表的な論者であり、イギリス型社会モデルの有害性と不要性を宣告しているT.シェイクスピアの議論(Shakespeare 2006a; 2006b, Shakespeare & Watson 2002)を取り上げ、批判のポイントとその妥当性について検討することを目的とする。
(妥当性を判断する観点)
 批判の妥当性について検討するためには、まず批判対象を評価する際に用いられる基準について確認しておかなければならない。この点について、社会モデル を評価する際、必ず目配りをしておかなければならないと思われる論点が3つある。第1に、それが社会変革という政治的動機に照らして有効であるか否か、と いう点である。これは、社会モデルが障害者運動にとっての実践的ツールとしての機能を強く期待されていた(Oliver 2004)、という経緯を踏まえたとき、欠かせない論点である。第2に、それが障害当事者のアイデンティティに肯定的な効果をもたらすか否か、という点で ある。これは、個人の身体への否定的な価値付けと帰責化を甘受せざるを得なかった障害者にとって、社会モデルが果たした肯定的アイデンティフィケーション の効果がいかに大きかったか(Crow 1992)を考慮すると、無視し得ない論点だろう。そして第3に、いうまでもないことだが、それが十分な理論的説明力を持っているか否か、という点であ る。これは、社会モデルが第一義的には、ディスアビリティをめぐる理論的パラダイムの転換を図る認識論上の企てであったこと(Oliver 1996, 星加 2007)を踏まえれば、当然の要請であるといえる。
(社会モデル批判の論点と妥当性)
 かつては社会モデルの擁護者であったシェイクスピア(Shakespeare 1992, Shakespeare &Watson 1997)は、イギリス型社会モデルの鍵となる要素を、ディスアビリティ(社会的排除)とインペアメント(身体的制約)との区別、およびディスアビリティ への焦点化(インペアメントの脱焦点化)として特徴付けている。その上で、彼の社会モデル批判の論旨を大別すると、@二分法的区別(インペアメント/ディ スアビリティ、医療モデル/社会モデル)とモデルの単純性、Aインペアメントの無視とアイデンティティの固着、B理論的洗練の停滞、と整理することができ る。これらは、上で確認した妥当性判断の観点を反映している。しかし、@についてはそれが運動の政治的効果に与える否定的な影響についてほとんど示されて おらず説得力を欠く。また、Aについては、インペアメントの無視・軽視によってインペアメント経験を経由して発生するディスアビリティについて適切に扱う ことができていないという点は妥当な主張であるとしても、その問題の克服が社会モデルの廃棄によってしか達せられないという結論には論理的な飛躍がある。
 Bについては詳細な分析が必要であり、本報告では部分的な検討に留まることになるが、その中核を占めるインペアメント/ディスアビリティの二分法批判の 中身については注意深く見ておくべきだ。当然のことながら、2つの概念の間の線引きが困難であることと、何らの線引きも必要でないということとは同じでは ない。また、2つの概念が連続的だったり相互浸透的だったりすることと、両概念の分析的区別がロバストでないということも別のことだ。この二分法が批判さ れるべきであるとすれば、そのことによって何らかの意味での否定的帰結(認識的な利得であれ実践的な利得であれ)が生じるという点に、理由を求めることが 必要だろう。この点についてシェイクスピアは、たとえば80年代のイギリスの障害者運動においては現実に、単一インペアメントの組織の拒絶、医療的介入の 拒絶、障害者についての調査の拒絶へとつながったとしているが、これらの帰結の否定性については直感的な説明以上のものは与えられていない。ここで再度 @・Aの論点が浮上する。イギリス型社会モデルが特定の文脈に埋め込まれた3つの機能を期待された「モデル」である以上、その評価は常にそれらの観点を往 復しながらなされる必要があるはずであり、その点でシェイクスピアによる社会モデル批判は不十分なものである。
(主要文献)
Crow, L., 1992, "Renewing the Social Model of Disability," Coalition, July: 5-9.
星加良司, 2007, 『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』生活書院.
Oliver, M., 1996, Understanding Disability: From Theory to Practice, Macmillan.
――――, 2004, "The Social Model in Action: If I Had a Hammer." C. Barnes & G. Mercer, Implementing the Social Model of Disability: Theory and Research, The Disability Press.
Shakespeare, T., 1992, "A Response to Liz Crow," Coalition, September: 40-2.
――――, 2006a, Disability Rights and Wrongs, Routledge.
――――, 2006b, "The Social Model of Disability," L. J. Davis ed, Disability Studies Reader 2nd edtion, Routledge: 197-204.
Shakespeare, T. & N. Watson, 1997, "Defending the Social Model," L. Barton & M. Oliver eds., Disability Studies: Past Present and Future, The Disability Press.: 263-73.
――――, 2002, "The social model of disability: an outdated ideology?," Research in Social Science and Disability, 2: 9-28.
杉野昭博, 2002, 「インペアメントを語る契機――イギリス障害学理論の展開」石川准・倉本智明編『障害学の主張』明石書店, 251-80.
――――, 2007, 『障害学――理論形成と射程』東京大学出版会.


 
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第4回障害学会大会自由報告(2007/09/16)

本当に「社会モデル」は死んだのか?――T.シェイクスピアの社会モデル批判をめぐって

星加良司(東京大学)

1 はじめに:問題の所在

 障害学においてディスアビリティの社会モデル(social model of disability)は、その言葉を使うかどうかはともかく、基礎的な認識枠組みとして多くの研究者に受け入れられてきた。それは、障害者の経験する活動上の困難(ディスアビリティ)は社会的に生成・構築されたものであるとする考え方の枠組みであり、「障害者を無力化しているのは社会であって、身体ではない」という障害者運動のスローガンはそれを端的に示すものであるとされる。
 ところが、近年になってかつて社会モデルの支持者であった人たちの間で、イギリス型社会モデルに対して痛烈な批判がなされるようになった。日本では一部の例外を除いて社会モデルについての理論的関心が希薄であるように思われる(杉野 2002; 2007)が、今後の障害学の理論的発展の方向性を見定める上でも、その論争点について考察しておくことは重要である。
 こうした観点から、本報告では近年の社会モデル批判の代表的な論者であり、イギリス型社会モデルの有害性と不要性を宣告しているT.シェイクスピアの議論(Shakespeare 2006a; 2006b, Shakespeare & Watson 2002)を取り上げ、批判のポイントとその妥当性について検討する。

2 検討の前に:モデルの妥当性とは何か

 批判の妥当性について検討するためには、まず批判対象を評価する際に用いられる基準について確認しておかなければならない。この点について、社会モデルを評価する際、必ず目配りをしておかなければならないと思われる論点が、少なくとも3つある。第1に、それが社会変革という政治的動機に照らして有効であるか否か、という点である。これは、社会モデルが障害者運動にとっての実践的ツールとしての機能を強く期待されていた(Oliver 2004)、という経緯を踏まえたとき、欠かせない論点である。第2に、それが障害当事者のアイデンティティに肯定的な効果をもたらすか否か、という点である。これは、個人の身体への否定的な価値付けと帰責化を甘受せざるを得なかった障害者にとって、社会モデルが果たした肯定的アイデンティフィケーションの効果がいかに大きかったか(Crow 1992)を考慮すると、無視し得ない論点だろう。そして第3に、いうまでもないことだが、それが十分な理論的説明力を持っているか否か、という点である。これは、社会モデルが第一義的には、ディスアビリティをめぐる理論的パラダイムの転換を図る認識論上の企てであったこと(Oliver 1996, 星加 2007)を踏まえれば、当然の要請であるといえる。
 もちろん、社会モデルを評価するに当たって、以上の観点だけで十分かどうかは分からないが、とりあえずここではこの3つに限定して話を進めよう。そうすると、社会モデル批判が妥当であるか否かという問いは、これら3つの観点から見て本当に社会モデルはその意義を失っているといえるのかどうか、という問いへと読み替えられることになる。そして決定的に重要なのは、実際に批判者が社会モデルに向けている攻撃の矛先は、これらすべての観点にわたっており、その意味で社会モデル批判の妥当性評価にこれらの観点を用いることは、完全に正当であろうということだ。なぜならシェイクスピアは、「結局のところ、社会モデルが、システムであれモデルであれパラダイムであれ理念であれ定義であれ、また道具であったとしてさえ、それはほとんど使い物にならない。事実なのは、社会モデルが誤っているということなのだ」(Shakespeare 2006a: 53)と断じているのだから。

3 社会モデル批判の論点

 では、社会モデルへの批判はどのような論理でなされているのだろうか。かつては社会モデルの擁護者であったシェイクスピア(Shakespeare 1992, Shakespeare &Watson 1997)は、イギリス型社会モデルの鍵となる要素を、

・ディスアビリティ(社会的排除)とインペアメント(身体的制約)との区別
・ディスアビリティへの焦点化(インペアメントの脱焦点化)

として特徴付ける。彼によれば、社会モデルはこうした要素を含むことによって、運動戦略の特定(=障壁除去アプローチ)と障害者の肯定的アイデンティフィケーションに貢献した。すなわち、問題なのはインペアメントとは区別されるディスアビリティなのだと考えることによって、運動は環境や諸制度の改変という目標に集約され、障害当事者は自らの身体に付着した否定性を払拭することができた。こうした単純化されたメッセージが、社会モデルの実践的な強みだったわけだ。
 ところが、今日ではその強みがむしろ弱みになっているという。シェイクスピアの社会モデル批判の論点は多岐にわたるが、概ね以下の3点に大別できる。

@社会モデルが前提としている二分法的区別(インペアメント/ディスアビリティ、医療モデル/社会モデル)は、概念的にも経験的にも維持できないということ。
A社会モデルはインペアメントを無視することで、障害者の経験の重要な側面を見落とし、有効な政策的対応をも不可能にしているということ。
B社会モデルは、その支持者が強烈な心理的コミットメントを感じてしまっているために、理論上の発展が停滞し教条化を招いているということ。

@〜Bは、社会モデルに対する批判として先に触れた3つの観点すべてと関連を持っているが、あえてウェイト付けをするなら、@は理論上の説明力、Aは実践的ツールとしての有効性、Bはアイデンティティへの影響に力点を置いた批判となっている。次に、これらの批判の妥当性について順に考察していこう。

4 批判は妥当か

4−1 理論的な妥当性

 @について議論するには、ポストモダン理論や社会構築主義、クリティカル・リアリズム等、シェイクスピアが言及している理論的立場についての詳細な検討が必要だが、ここでは基本的な部分だけを確認しておく。まず、一般論として、2つの概念の間の線引きが困難であることと、何らの線引きも必要でないということとは同じではない。また、2つの概念が連続的だったり相互浸透的だったりすることと、両概念の分析的区別が無意味であることも同じではない。だから、仮にこの二分法批判が、ディスアビリティ/インペアメント、社会モデル/医療モデルの弁別の困難や連続性のみに依拠しているのだとしたら、これはほとんど意味のない批判だということになる。
 さらに、実はこの2組の概念のセットは、同型の対概念ではない。確かに、医療モデル/社会モデルという概念のセットは、二分法的なものとして理解されている。要するに、社会モデルは医療モデルに対置するものとして提示されたのであり、それは非医療モデルであるわけだ。したがって、現実の医療実践の中では、医療モデルとして想定されるような一方向的な因果的モデルは採用されていないし、そのように教えられることもない(Shakespeare 2006a)、という批判は、形式的には成立するだろう。ただし、もし社会モデルとも医療モデルともカテゴリー化できないような中間的な実践があるということなのであれば、それは現行の社会モデル/医療モデルが二分法的に概念化されていないということではあっても、そもそもそうした二分法は維持され得ないということにはならないはずだ。
 他方、ディスアビリティ/インペアメントが二分法的な概念のセットであるという理解は、そもそも誤解だろう。少なくとも社会モデルの提唱者であるM.オリバー(Oliver 1996)は、ディスアビリティ=非インペアメント、インペアメント=非ディスアビリティというような意味で両概念の区別を論じてはいないし、その後の社会モデル理解においてもそのような概念化を行っている論者は少数である。社会モデルの支持者が言っているのはせいぜい、ディスアビリティとインペアメントとは概念上区別されるということと、理論的にも運動論的にもインペアメントではなくディスアビリティに焦点を当てようということである。だから、障害者はディスアビリティしか経験しないとか、ディスアビリティとインペアメントを全く別のものとして経験しているとかいったことは、そもそも言われていないのであり、インペアメントの社会構築性やディスアビリティとの連関を論拠とする二分法批判(Shakespeare & Watson 2002, Shakespeare 2006a)は無効である。
 もし、この「二分法」が批判されるべきであるとすれば、そのことによって何らかの意味での否定的帰結(認識的な利得であれ実践的な利得であれ)が生じるという点に、理由を求めることが必要だろう。その意味では、この点についての評価はAやBの議論にも依存することになる。イギリス型社会モデルが特定の文脈に埋め込まれた3つの機能を期待された「モデル」である以上、その評価は常にそれらの観点を往復しながらなされる必要があるはずなのだ。

4−2 実践的な妥当性

 ディスアビリティ/インペアメントが二分法的であろうとなかろうと、社会モデルがインペアメントの無視・軽視を帰結してきたとすれば、そのことの効果は問題にされなければならない。このうち、主に障害のあるフェミニストによって提起された個人的な経験の抑圧という問題(Morris 1991; 1992)については重要な論点が含まれており、さらにそうした位相を含みこむ形で社会モデルを修正しようとする試み(Thomas 1999; 2004)も続けられているが、ここではシェイクスピアが指摘する運動論上の問題(Shakespeare 2006a)について検討する。
 この点についてシェイクスピアは、たとえば80年代・90年代のイギリスの障害者運動においては、社会モデルの実践的帰結として、現実に、

・単一インペアメントの組織の拒絶
・医療的介入の拒絶
・障害者についての調査の拒絶

という傾向が生まれたと主張する。これらは次のように説明される。まず、社会モデルはディスアビリティをインペアメントとは無関係な社会的抑圧と見るのだから、インペアメント固有の問題などというのは起こりえず、したがってインペアメント固有(障害種別ごと)の組織や運動体は不要ということになる。また、社会モデルはディスアビリティを社会的な編成や配置の結果と見るのだから、医学的問題の緩和や治療は、ディスアビリティとは関連のない、誤った対応ということになる。さらには、社会モデルはディスアビリティを構造的排除の産物と見るのだから、その構造の改変を行えばよく、障害者の数を調べるといったことは必要なくなる。
 しかし、医療的介入の拒絶はともかく、その他の帰結がなぜ否定的であるのかについては、直感的な説明以上のものは与えられていない。確かに、インペアメントの無視・軽視によってインペアメント経験を経由して発生するディスアビリティについて適切に扱うことができなくなる、という点は理論的に妥当な主張である(星加 2007)としても、必ずしも社会モデルはディスアビリティ/インペアメントを二分法的に扱うものでないことを踏まえれば、その問題の克服は社会モデルの内部においても可能であるはずだ。

4−3 アイデンティフィケーションにおける妥当性

 ではBの批判についてはどのように考えればよいか。この点についてシェイクスピア(Shakespeare 2006a, Shakespeare & Watson 2002)は、イギリス型社会モデルが肯定的アイデンティフィケーションに役立っている人がいることは認めても、そもそも障害者のうちで社会モデルを知っている人など少数であり、知っている人の中でもそれに愛着を持っている人は少数であると主張する。さらに悪いことには、それに愛着を持っている少数の障害者が、自らのアイデンティティを維持するために社会モデルに固執してしまうことによって、ディスアビリティをめぐる理論的進展は阻害されているというのだ。
 実は、ここには社会理論上の重要な主題が隠されている。シェイクスピアの主張は、社会モデルを支持する「少数の」障害者は、社会モデルへの心理的コミットメントのために本来のアイデンティフィケーションを歪められている、という暗黙の前提がある。場合によっては、それに加担する存在として社会学者が槍玉に挙げられたりもする(Dewsbury et al. 2004)。一方で、同じ自体に対しても社会モデルの支持者の側からは、社会モデルにシンパシーを感じない「多数の」障害者は、健常者中心社会の個人化・医療化イデオロギーあるいは「健全者幻想」の影響下で社会化されているために、本来のアイデンティフィケーションを抑圧されていると見られるかもしれない。つまり、社会モデルが障害当事者の肯定的アイデンティフィケーションにとって有効かどうかを論じる際、どんな「当事者」を想定するかによって答えは全く異なるものになるのであり、しかもその「当事者」の選択の優劣を論理的に決着させることは、恐らく不可能なのである。
 したがって、Bの批判の妥当性を否定することは可能だとしても、その場合全く同じ理由で社会モデルの側の妥当性も掘り崩されるのであり、その判断は未決のものとして残される。そしてこのことは、障害学や障害者運動にとって「当事者」とは誰のことを意味し、「当事者の声」というものが何を意味するのか、という問いとつながっている。

5 おわりに:日本における社会モデルの行方

 本報告では、シェイクスピアのイギリス型社会モデル批判について、その妥当性を確認する作業を行った。しかし、その作業はまだ緒についたばかりであり、さらなる今後の課題が発見された。最後に、以上の議論を踏まえて浮上した課題の1つに触れておこう。
 シェイクスピアの社会モデル批判のうち、@は基本的に理論的な論点であり、Bは考察の過程で理論的な課題に突き当たった。だから、これらについてここで論じたことは、日本の文脈においても基本的に当てはまるだろう。しかし、少なくともAの批判等に関わる実践的な妥当性は、日本の文脈において改めて検討すべき主題である。社会モデルの強みである単純化されたメッセージが、今日の日本の障害者運動にとって、どこまで、どの程度有効なツールたりうるのかについて探求することは、我々の前にある重要な課題だろう。

文献
Crow, L., 1992, "Renewing the Social Model of Disability," Coalition, July: 5-9.
Dewsbury, G., Clarke K., Randall D., Rouncefield M. & Sommerville I., 2004, The anti-social model of disability, Disability & Society, 19(2): 145-58.
星加良司, 2007, 『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』生活書院.
Morris, J., 1991, Pride Against Prejudice, The Women's Press.
――――, 1992, "Personal and Political: a Feminist Perspective on Researching Physical Disability," Disability, Handicap and Society, 7(2): 157-66.
Oliver, M., 1996, Understanding Disability: From Theory to Practice, Macmillan.
――――, 2004, "The Social Model in Action: If I Had a Hammer." C. Barnes & G. Mercer, Implementing the Social Model of Disability: Theory and Research, The Disability Press.
Shakespeare, T., 1992, "A Response to Liz Crow," Coalition, September: 40-2.
――――, 2006a, Disability Rights and Wrongs, Routledge.
――――, 2006b, "The Social Model of Disability," L. J. Davis ed, Disability Studies Reader 2nd edtion, Routledge: 197-204.
Shakespeare, T. & Watson, N., 1997, "Defending the Social Model," L. Barton & M. Oliver eds., Disability Studies: Past Present and Future, The Disability Press.: 263-73.
――――, 2002, "The social model of disability: an outdated ideology?," Research in Social Science and Disability, 2: 9-28.
杉野昭博, 2002, 「インペアメントを語る契機――イギリス障害学理論の展開」石川准・倉本智明編『障害学の主張』明石書店, 251-80.
――――, 2007, 『障害学――理論形成と射程』東京大学出版会.
Thomas, C., 1999, Female Forms: Experiencing and Understanding Disability, Open University Press.
――――, 2004, Rescuing a social relational understanding of disability, Scandinavian Journal of Disability Research, 6(1): 22-36.


UP:20070807 REV:20070905
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