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大学の障害学生「支援」についての一考察

後藤 吉彦・二階堂 祐子 20070916-17
障害学会第4回大会 於:立命館大学

last update: 20151224

◆要旨
◆報告原稿

 教育機関である大学は、障害学生支援に取り組むなかで、社会にどのような人材を輩出しようとしているのか。本報告では、大学が「支援」という名のもとで障害学生に対しておこなう営為が、結果として現状の社会に順応する(無批判な)主体の再生産を担っていることを指摘する。考察のポイントは二点である。一つは、大学における障害学生の「支援」とは、ひとえに学習の権利をまもるためのサービス提供ではないということ。そしてもう一つは、その「支援」が、ネオリベラリズム社会を担う一員となるように促す機能を果たしていることである。

1.はじめに――背景と問題の所在

 近年、高等教育機関(大学、短大、高等専門学校を含むが、以下では、総称して大学と記す)に進学する障害学生の数は、日本においても増加傾向にある。その数は諸外国と比べればけっして多いとはいえないのだが(全学生の0.16%でしかない<脚注1>)、それでも障害を理由に入学を拒否され、門戸を閉ざされていた過去に比べれば、大学はずいぶん「開かれた」ものとなっている。また、障害学生に対する支援に関してみても、現在では多くの大学で障害学生支援に特化した窓口の設置、ないしは障害学生支援専門の職員の配置などといった環境整備がすすんでいる。報告者が所属する立命館大学でも、2006年9月より障害学生支援室が正式に設置されている。
 障害学生の増加に呼応するかのごとく、近年、大学関係者や研究者による障害学生支援に関する研究も、徐々に蓄積されている。しかし先行研究のほとんどは @障害学生支援に関する量的調査 A海外の障害学生支援の紹介 B国内の大学の先進的な取り組みの紹介 C具体的な支援技術論のいずれかであり(青木 2007)、障害学生支援を社会的・文化的なコンテクストと関連付けて考察する(いわば障害学的な)アプローチをとっていない。このような状況に対して、2006年度障害学会のシンポジウムで、障害学生支援を事例紹介や技術論にとどまらず、社会との関連性という観点から取り上げたことは意義深い。本報告は、この歩みをさらに進めることを目指している。それは学究的な姿勢だけではなく、今現在大学で学んでいる障害学生に影響を与えている障害学生支援の根本的な問題に関与しようという、いわば実践的な姿勢でもある。なぜなら、社会的な観点を欠いてしまっては、障害学生支援の根本的な問題には光をあてることができないのである。
 では根本的な問題とは何か? それは端的にいえば、障害学生支援<脚注2>とは何を支援しているのか(あるいは、支援しようとしているのか)という点にある。おそらく一般的な理解としては、「障害者が学ぶことは権利であり、その権利を保障する義務は、大学にとどまらず社会にある」(青木 2007:21)や「『教育を受ける権利』を保障するとは、障害学生に対しても、他の学生と同様の授業内容を提供し、同様の評価をすることです」(広島大学 障害学生就学支援に関わる基本方針より抜粋)といったように、障害学生支援とは、障害者が学習する権利を根拠とし、それを保障するためのサービスだと考えられているのではないだろうか。そしてこの前提にもとづき、現状の障害学生支援に対する批判は、その量や質が、権利を保障するサービスの水準を満たしていないことに向けてされる。
 しかし報告者は、現在おこなわれている障害学生支援とは、そのような支援=<権利を保障するためのサービス>とは根本的に違うものであることを指摘したい。この問題を把握しないまま、障害学生支援の不十分さを取り上げても、根本的なところは何も変わらないだろう。問題はサービスの質や量ではなく、そもそもサービスではないことである。〔下線部は原文の傍点部。以下同じ〕

2.大学における「支援」の実態

 では以下に、報告者が障害学生支援の業務に携わるなかで経験した事例を紹介しつつ、上記の問題について考察していく。

@サポートが学びを阻害?――Aさんの学外実習
 障害学生のAさん(肢体不自由)が資格所得のため、学外で実習を受けることになった。単位の発生する「正課」の授業科目でもあることから、Aさんは、学内の制度を利用して、じょくそう予防の除圧や排泄等のサポーターを配置することを希望した。報告者は、Aさんのニーズに対応すべくサポーター配置についての検討を始めようとしていたが<脚注3>、実習指導を管轄する部署から"待った"がかかった。その理由は、「教育的指導」および「進路指導」に基づいたもので、要約すれば、「常に介助者がそばにいるなど社会に出てからでは通用しない。この実習はAさんが卒業後社会に出た時、"自分ひとりでなんとかやっていく"ためにもある。はじめから介助者ありきでなく、何もない状態から自ら周囲の協力を求めてみなさい。この経験こそ、Aさんの学びになる」というものであった。結果、自助具の使用や実習ゼミ生のボランタリーなサポートチーム結成は進められたが、大学の公的な制度を使ったサポーター手配はされなかった。

A「自己責任」、「自己管理」の強化――院生Bさんの上限額超過
 立命館大学では、これまで、学部生の「正課授業に対する支援」を中心に制度を整えてきた経緯があり、サポートの量を受講するコマ数から単純計算できない「研究に対する支援」は、どこまでが学部生の場合に指す"正課"と同等なのか?金額はどれほど必要となるのか?サポートを誰がおこなうか?といった点で未整理な部分が多かった。障害学生支援室は、この"想定の範囲外"に対応するための指針をもたないまま、2006年度は手探りの状態のまま(場当たり的?)院生への支援をおこなった。院生が支援を得る際の原則とした手続きは、大学が設定する上限金額の範囲内におさまるよう自分で支援内容を計画・管理し、支援者の協力を得た場合はそれにかかる金額をセメスターごとに大学へ報告、その後大学が支援者に出金する、という方式だった。ところが、院生のBさん(視覚障害)の支援にかかわる費用が年度末になって上限額を大幅にオーバーしてしまう事態が起きた。結果、Bさんは2年分の上限額(すなわち、当該院生が在籍する予定の計2年分)を超えた金額については自己負担をすることになった。この"事件"を発端として、現在ではサポートに関わって発生する謝金の類の管理は、はじめから終わりまで障害学生支援室の目の届く範囲で行われるよう徹底されている。そのうえで障害学生自身に自己責任・自己管理の意識を強く認識させるため、サポートにかかった金額の通達を毎月おこなっている。

 上記の事例が示唆していることは、立命館大学において実践されている障害学生支援とは、<権利を保障するためのサービス>提供ではないということである。Aさんの実習の保障は、(本人の希望にもかかわらず)自助努力や社会参加、周囲との関係づくりといった観点に優先順位を奪われてしまった<脚注4>。Bさんの予算オーバーは、あくまでも自己管理・自己責任の欠落として取り扱われ、権利保障の観点から再検討されることはなかった。
 ただしここで断っておくと、障害学生支援がサービス提供ではないと位置づけられるのは、立命館大学に限ったことではない。例えば、日本の大学における障害学生支援の先進事例としてしばしば取り上げられる日本福祉大学や広島大学をみても同様のことがいえる<脚注5>。日本福祉大学の障害学生支援センターは、「学生生活を送る上での心構え」のなかで、障害学生に対して「支援センターは、障害学生の支援を担当する機関ですが、個々にサービスを提供するところではありません」と明言している(日本福祉大学 2005)。

3.何を「支援」しているのか?

 3−1「リハビリテーション言説」と「福祉言説」

 ではサービスではないのなら、多くの大学でおこなわれている障害学生支援の「支援」とは一体何なのか?これを考えるにあたって、まず青木慎太朗の指摘をみてみよう。青木は、障害学生支援の現状を批判的に検証するなかで、障害学生支援がしばしば「リハビリ言説」や「福祉言説」と結びついていることを指摘した(青木 2007)。青木によれば、「リハビリ言説」とは、障害者の自立をことさら強調するもので、しかもその自立とは、障害者運動の掲げるそれではなく、旧来の自立概念、すなわち身辺の自立である。また「福祉言説」とは、学生どうしの支え合いをボランティア精神の美談として持ち上げたり、支援者が「心のバリアフリー」を学ぶという教育的効果を過度に求めたりするものである。あえてキツイ言い方をするならば、それはあたかも学びの"ネタ"として、障害学生を客体化し、利用してしまうものといえる。「リハビリ言説」と「福祉言説」の2つに共通しているのは、それらが結びつくことによって障害学生支援が<権利を保障するためのサービス>から外れて、本来は副次的なはずの障害者の自立やボランティアの学びを優先させてしまうことだといえる。
 青木の指摘は重要である。障害学生支援として大学でおこなわれていることは、先にあげた事例のように、しばしば自助努力型の自立や、自己管理、学生どうしの支え合いを学ぶことがその目的となり、学習保障は置き去りにされている。それは「障害者が学ぶことは権利であり、その権利を保障する義務は、大学にとどまらず社会にある」(青木 2007:21)という立場から見れば、あきらかに論理のすり替えであり、大学の背信行為として批判される。
 だがここで報告者は、そのような批判にとどまらず、さらに踏み込んでこの問題を考えてみたい。いわば青木の指摘の先にある「なぜ?」についてである。つまり、なぜ障害学生支援が、「リハビリ言説」や「福祉言説」へ、いとも簡単にすべり落ちてしまうのか、である。これは、たとえば、障害学生支援にかかわる予算不足<脚注6>や知識・ノウハウ不足といった制度の不十分さを隠蔽する思惑と結びついているとも考えられるかもしれない。しかし、報告者は、この「なぜ?」の部分は、そのような個々の大学の"陰謀"よりももっと広い、現代社会の動向と結びついた問題であると考える。

 3−2 ネオリベラリズム
 ここで障害学生支援の問題を、現代社会の特徴の一つであるネオリベラリズム(新自由主義)と結び付けて考えてみたい。周知のとおり、ネオリベラリズムとは、「自由競争」、「競争能力」、「私有化」、「民営化」、「自由化」、「規制緩和」、「国家の後退」、「資本・財産の税負担の軽減」、「財政支出の削減」、「社会的システムの再検討」などを主要なスローガンとして、経済や社会保障領域への国家による介入を限定し、市場原理によって公的領域(社会福祉、公教育など)を準市場的に再編していくことを目指す政治的立場である(仁平 2005)。多くの研究者に論じられているとおり、1970年代および80年代にかけて日本を含める世界各国で、福祉国家に対する不満が高まり、「小さな政府」を理想とし、福祉の縮減といった政策を志向するネオリベラリズムが台頭した(渋谷 2003; すが・花咲 2006; 白石・大野 2005)。これによって福祉国家の解体はすすみ、社会保障費は削減され、公的領域は弱体化し、個人は福祉国家の保護を失っていく。
 ネオリベラリズムが支配的となり、公共領域が弱体化した現代では、社会政策の目標は、規範を内面化した「規律訓練」<脚注7>の主体の創出――それはコストがかかる――から、リスクの計算と管理を国家に頼ることなく、自己責任で引き受ける「リスク管理が可能な主体」の創出へとシフトしたといわれる(渋谷 2003: 48)。個人はもはや生活上で直面する健康面や経済面の危機に際したとき、国家の保護を期待できない(してはいけない)<脚注8>。ネオリベラリズムは、個人にライフスタイルの選択を認めるのと同時に、その責任を引き受けることを要請するのである。この流れの中にあって、障害者施策の分野でも、「自己選択」や「自己責任」が強調されはじめている。その最たる例が、サービスの利用に応じて障害者に「応益負担」を要求する障害者自立支援法であることはいうまでもない。
 いっぽうネオリベラリズムの貫徹による公的領域の弱体化は、人々のあいだに不安を引き起こす。この不安を解消するべく登場したのが、積極的にコミュニティや地域社会に参加・貢献することを鼓舞する言説である。それは「ネオリベラリズムによって促された公共領域の『貧困化』を、かつての国家主義的、階級政治的な方法とは別の方法で埋め合わせる役割として理解すべき」ものである(渋谷 2003: 50-51)。このあたらしいコミュニタリズムは、公的な福祉の必要性を認めるが、しかしその福祉を享受する権利は誰にでも無条件に与えられるものではなく、コミュニティへの責任を果たすものだけとする。日本においてこの考えは、「参加型福祉社会」という呼び名で1980年代以降、広まった(渋谷 2003: 57-60)。「参加型福祉社会」は、就労、ボランティア、文化活動、レクリエーションなど、人々に何らかのかたちで社会参加をすることを求め、しかもそれをとおして各人が「生きがい」を感じ、「自己実現」を果たすように、はたらきかける。「参加型福祉社会」においては、かつて権利概念(生存権や社会権)に接合されていた福祉の意味も変化する。それは社会参加を通じた「自己実現」の手段として位置づけられるのである。これに応じて、個人も福祉を受け取る福祉権の主体から、積極的に福祉を支える「自己実現」の主体へとかたちを変えていく(渋谷 2003:59)。
 ネオリベラリズムが要請する「自己責任」と、ネオリベラリズムが引き起こした不安に対処するための「社会参加」とそれを通じた「自己実現」。これらは、<リスク管理を自己責任で引き受ける>→<そのためにも自らすすんで社会参加に努める>→<それを通じて自己実現を果たす>という具合に相補的な関係にある(矢印の方向は、逆向きの場合も当然ある)。そして、この状況にうまく応えることのできるのは「自らを企業者化しようとするenterprising」主体といえる(Rose 1996; Peters 2001)。それは、あたかも企業経営のごとく「選択行為によって自らの生活の質を極大化し、自らの人生に意味と価値を与えうる」主体なのである(Rose 1996: 57)。

 3−3 「支援」の結実?――「自らを企業者化」する障害学生
 話を障害学生支援に戻そう。すでにみたように、障害学生支援の現場では、障害学生に自己管理や自己責任を自覚すること、さらに周りとコミュニケーションをとり、自らすすんで障害学生支援のための環境づくり(サポーターの確保、教員の協力、周囲の学生の理解)に参加することがうながされていた。これはまさに、ネオリベラリズム社会を担う「自らを企業化する」主体となることを後押し=支援しているとはいえないだろうか。
 この「支援」の結実ともいえる事例がある。大学の新年度は、障害学生のサポートに協力してくれる学生を確保する絶好の機会である。新入生は「大学で何か新しいことをはじめたい」というモチベーションが高く、また新学期となり気分を一新して新しいことに取り組む在学生も多い。そこで障害学生支援室は、新学期のオリエンテーション期間に重点的にサポーター募集の広報活動をおこなう。そして、この場面で大活躍するのが障害学生たちなのである。障害学生は新入生や新回生でいっぱいに集まった教室の壇上に上がり、「サポートをしてくれる人手が足りません。みなさんの協力をお願いします」という具合でスピーチをおこなう。このスピーチに感銘を受けて、サポート募集に応じた学生の数は少なくない。障害学生たちは、周囲の期待や空気を読んで、実に"優れた"スピーチをおこなう。しかもそれは障害学生支援室の指示ではなく、周囲の、やはりかつてこういったスピーチに印象付けられて障害学生支援の活動に参画するようになったサポート学生たちと相談して、自らすすんでおこなうのである。障害学生たちは、自分たちにはサポーターが必要だという切実さを訴えるとともに、自ら壇上に立ちスピーチをおこなうことで「支援によって、ここまで自立できました」という"成果"も演出する。入学当初はシャイで人前に出ることにもおっくうだった学生たちが「主体的に」参加するのである。この事例は、大学の障害学生支援を受けた障害学生が、サポートが保障されていないなかでの大学生活というリスクの自己管理の引き受けや、そのリスクを回避するために社会参加をはたしている姿をあらわしている。それはまさにネオリベラル社会をうまく生きることのできる主体であろう。障害学生支援は、障害学生がそのように主体化されることを支援しているのだ<脚注9>。

4.おわりに――大学の「Good Practice」として

 かつて自治空間を標榜していた大学は、昨今、むしろ社会の要請に応えることに重点を置いており、(よく使われる表現を使えば)「社会に開かれた大学」であることを売り物にし、経済界や産業界との連携を積極的にすすめ、さらには「社会のニーズに応えた人材養成機能の強化を図っていく」ための取り組み――文部科学省が「Good Practice(GP)」として助成金を与える――の開発に躍起になっている。しかしネオリベラリズムが社会に波及する今、「社会のニーズに応えた人材」とは、自己責任や自己管理を引き受け、しかもそのための行為を自己実現として享受できる"手のかからない"人間だといえる。本報告が指摘するのは、現在おこなわれている障害学生支援もそのような「社会のニーズに応えた人材養成機能」を果たしていることである<脚注10>。

脚注
1.日本学生支援機構「平成18年度(2006年度)大学・短期大学・高等専門学校における障害学生の修学支援に関する実態調査結果報告書」参照(日本学生支援機構 2007)。
2.本報告で、「障害学生支援」という場合、それは障害学生支援室の業務に限られない。障害学生の学習および学習環境にかかわるエージェントには、大学職員、授業担当教員、学部事務室、有償/無償のサポート学生なども含まれる。
3.立命館大学は、授業時間以外のいわゆる「日常生活」に類する食事・排泄等のサポートは支援の範囲としていない。
4.大学が障害学生の(自助努力型の)自立や周囲との関係づくりの「支援」に熱心であることが如実にあらわれた事例を補足的に紹介しておく。報告者の二階堂は、障害学生支援室が開設される以前の2005年に、社会人として自活する障害者を講師に招いた「自立・自立支援を考える研修会」の企画提案をおこなった。これは、当時(大学側のサポートが十分でなかったゆえ、なのだが)障害学生の大学生活が保護者を中心とした体制であったことを懸念し、障害学生に他人介助という選択肢を考えてもらうことを趣旨としていた。予算費目に「障害学生支援」の項目がなかった当時の状況では、"ダメでもともと"の提案であったが、予想に反して大学側の絶大な支持を得て企画は実施された。その理由は、大学側が、障害学生が研修会に参加することによって、自分で周囲との関係づくりをする力を身につけるきっかけとなれば、と期待したからであった。 
5.広島大学は障害学生支援の取り組みの重要課題として、障害学生が人的支援の依存度を減少させるための「自助努力の促進」と、自ら相手の理解を求めていく態度を身につける「主体的な関わりの重要性」を挙げている(佐野・吉原 2004: 70-79)。
6.確かに、"株式会社化"した現在の大学では、あらゆる場面でコストの削減が求められる。しかしながら、障害学生支援に関与しているのは、そのような事情を考慮しなければならない"大学側の人間"(職員など)だけではないことに注意が必要である。たとえば、大学のふところ事情には無関心で、しかも知識として「ケアの社会化」「自己決定・自己選択」「学ぶ権利」などを教える立場にある教員でさえ、障害学生に自助努力や周りと協調することを推奨し、学生が「権利」という言葉を持ち出すと、過剰なまでの嫌悪感をあらわすものがいることを指摘しておく。
7.規律訓練(ディシプリン)とは、M. フーコーによって概念化された近代社会に特徴的な権力テクノロジーで、工場、兵営、病院、学校といった場所において、教育・指導を受けるなかで各個人が規範や規準(ノルム)を内面化し、その結果、みずから自発的に規範に従うような主体が形成されるというものである(フーコー 1975=1977)。例えば、小学校の教室では、教師がつねに目を光らせる必要があるが、中学に上がり、教師の視線を内面化した生徒は、教師が不在でも学習を続ける。かつては、そして大学も、この規律訓練の役割をもっていたとされる(?・花咲 2006)。
8.2002年に成立した「健康増進法」は、「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」ことを国民の責務とした。この「健康増進法」は、まさにネオリベラリズム的な社会政策だといえる。
9.本報告の原稿を書くなかで、障害学生支援室コーディネーターとして報告者もこの主体化のプロセスに関与してきたことを痛感している。
10.今後の課題としては、障害学生支援が「社会のニーズに応えた人材養成機能」を果たすことによって侵犯してしまうものは何か、さらには、その侵犯に抵抗するためにはどう行動できるのかを考えていきたい。


参考文献
青木慎太朗(2007)「大学における障害学生支援の現在―障害学生支援研究と実践の整理・覚書」『NIME研究報告』33、 pp.13-25.
仁平典弘(2005)「ボランティア活動とネオリベラリズムの共振」『社会学評論』56(2)、pp.485-499.
日本学生支援機構(2007)「平成18年度(2006年度)大学・短期大学・高等専門学校における障害学生の修学支援に関する実態調査結果報告書」
日本福祉大学障害学生支援センター(2005)「障害学生編――学生生活を送るうえでの心構え」(http://www.n-fukushi.ac.jp/shiencenter/2-1-1.htm)[アクセス日時2007年9月2日]
佐野(藤田)真理子・吉原 正治編(2004)『高等教育のユニバーサルデザイン化――障害のある学生の自立と共存を目指して』大学教育出版.
渋谷望(2003)『魂の労働――ネオリベラリズムの権力論』青土社.
白石 嘉治・大野 英士(2005)『ネオリベ現代生活批判序説』新評論.
すが秀実・花咲政之輔(2006)『ネオリベ化する公共圏―壊滅する大学・市民社会からの自律』明石書店.
Foucault, M. (1975)Surveiller et punir: Naissance de la prison, Gallimard(=1977、田村俶訳『監獄の誕生──監視と処罰』新潮社)
Peters, M. (2001) "Education, enterprise culture and the entrepreneurial self: A Foucauldian perspective," Journal of Education Enquiry, 2(2), pp. 58-71.
Rose, N. (1996) "Governing 'Advanced' Liberal Democracies," in A. Barry, T. Osborne, and N. Rose eds., Foucault and Political Reason: Liberalism, Neo-liberalism and Rationalities of Government. London: UCL Press.


UP:20070808 REV:20070830 REV:20070904,05,28
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