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障害者の就労場面を通して見る「普通」の仕事

青木 千帆子・渥美 公秀
障害学会第4回大会 20070916-17 於:立命館大学

last update: 20151224

◆要旨
◆報告原稿

■要旨

□研究の背景
 障害者の雇用や就労に関する方策を検討することが、発表者の研究目的である。発表者は、これまで職場適応援助者(ジョブコーチ)に対するインタビューを実施し、その役割が、援助対象者である障害者を「障害者」というカテゴリーから「普通」のカテゴリーに移す作業であることを見出した(青木・渥美, 2007)。また、Reid & Bray (1998)によると、障害者の労働は周囲の労働者が持っている「仕事」に対するイメージを揺るがす、と指摘している。
 では、障害者受け入れ事業所において「普通の仕事」はどのように捉えられ、障害者とともに働くことでどのように変化していくのであろうか。発表者は障害者を雇用している事業所にてフィールドワークを行い、各事業所で共有されている「普通の仕事」とは何かを確認した。

□研究方法
 関西圏にある障害者受入事業所5ヶ所に在籍する、健常者従業員10名、障害者手帳を所有する従業員7名を対象に、個別/グループインタビューを実施した。また、合意の取れた事業所に関しては、参与観察を実施した。
 そして、障害者とともに働く健常者従業員の傾向、及びこの傾向の背景にあると推測される前提、つまり「仕事における普通」とそうでないものを分けるルールを軸に、障害当事者および周囲の従業員による語りを分析した。

□結果
 障害者受入事業所では、受け入れ当初、障害者をどう戦力化するのかが問題となる。この時点においては、「あらかじめ一定能力を兼備え仕事が出来ることが普通」という前提が働いていると推測され、「一定能力を兼ね備えていない」と考えられている障害者には、仕事として作業が与えられる。この部分において、障害者従業員の仕事は周囲の健常者従業員によって決定されるため、依存的なものとなる。そして、健常者従業員による障害者従業員の管理が、その従業員の力量を超えるようになると、障害者従業員の能力をあきらめる傾向が見られるようになる。
 しかし、周囲の従業員が仕事の教え方を心得ていくと、障害者従業員に対する関わり方も変化する。ここでは、「教えられる事で仕事を身につけることが普通」となるため、障害者・健常者の境があいまいになっていく。やがて、健常者従業員の教え方が上達し、障害者従業員の技術が上がるに伴って、障害者従業員の作業に障害者による自己決定が加えられていく。
 障害者の技術が向上するに従い、徐々に周囲の健常者従業員も障害者従業員の働きに支えられながら仕事をするようになる。この時点で、障害者従業員に与えられる仕事は、もはや作業ではなく、周囲の管理に依存するものでもなくなる。周囲の健常者従業員は、障害者従業員に責任を持たせることを覚えていき、障害者従業員本人も責任に応えようとする。このような状況の受け入れ事業所には、健常者従業員・障害者従業員が互いに協力を求める傾向が見られ、そこでは「健常者・障害者に関わらず限界を開示し、支え合うことが普通」という前提が成立しているように推測される。同時に、「責任に応えようとすることが普通」という前提も存在していると考えられる。
 やがて、障害者受入事業所において健常者従業員が障害者従業員の成長を確信する傾向が見られるようになり、普通とそうでないものを分ける前提は、成長に対する取り組みの有無のみになる。

□考察
 障害を持った従業員が、障害者雇用率に影響を及ぼすこと以上の意味を就労に見出すためには、何が必要であろうか。本発表においては、以上に述べた結果を踏まえ、ベイトソン(1972)の遊びと空想の理論を通して考察する。

□引用文献
青木千帆子・渥美公秀(2007)職場適応援助者事業に関する一考察 大阪大学人間科学研究科紀要, 33, 113-128.
Bateson 1972 Steps to an ecology of mind. (ベイトソン〔佐藤義明訳〕精神の生態学 新思索社 2000)
Reid, P. M. & Bray, A. (1998) Real Jobs: the perspectives of workers with learning difficulties. Disability & Society, 13 (2), 229-239.

 
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■報告原稿

 障害者の就労場面を通して見る仕事における「普通」
 青木千帆子 渥美公秀
 大阪大学人間科学研究科 大阪大学コミュニケーションデザインセンター

1.序論

  1.1.目的
  本稿の目的は、障害者を雇用している事業所において「普通の仕事」もしくは「仕事」の枠組みがどのように捉えられており、「普通の仕事」が障害者従業員とともに働くことでどのように変化していくのかを把握することである。筆者らは障害者を雇用している事業所にてフィールドワークを行い、各事業所で共有されている普通の仕事とは何かを調べる。そして調査の結果を、「仕事」と「遊び」に関する議論を通して考察する。
  
  1.2.背景
  障害者の雇用は、日本において大きな問題である。筆者らは、職場適応援助者(ジョブコーチ)に対するインタビュー調査を実施した。この調査にて得られた職場適応援助者の語りからは、その仲介者としての役割が、障害者受け入れ事業所に対する単なる技術指導だけではなく、「障害者」というカテゴリーに疎外されていた存在を「普通」のカテゴリーに戻すことであったという点が指摘された。
  この結果から、「障害者」と言うイメージが障壁となり、障害者の就労を困難にしていると筆者らは考えた。しかし、その後の調査の過程で、障害者の就労で大きな障壁となっているものは「普通の仕事」というイメージであることが推測された(青木・渥美, 2007b)。この推測は、障害者の就労が、周囲の労働者の持つ「普通の仕事」に関するイメージを揺るがす(Reid & Bray, 1998)という指摘と一致するものである。
  「普通」とは、絶対的なものではなく相対的なものである(倉本, 2006)。筆者らの調査及び「普通」に関する議論などから、筆者らは障害者を雇用している事業所において、普通の仕事はどのように捉えられており、障害者従業員とともに働くことでどのように変化していくのか、という疑問を抱いた。本稿では、この点に注目し実施した調査を報告する。
  
2.調査
  
  2.1.方法
  インタビュー対象者は、関西圏にある5つの障害者を雇用している事業所で働く従業員17名である。うち10名(C1〜C7)は健常者従業員であり、7名(D1〜D7)は知的(D1)もしくは身体(D2〜D7)障害者手帳を所持する障害者従業員であった。平成18年9月か
  表1 調査受け入れ事業所及び対象者の概要
  事業所事業形態対象者(C1〜C10は健常者従業員、D1〜D7は障害者従業員)
  A大企業C1
  B大企業C2, C3, C4
  C大企業C5, C6, D1, D2
  D小企業C7, C8, D3
  E社会福祉法人C9, C10, D4, D5, D6, D7
  
  表2 インタビュー対象者に事前送付した質問項目
  1. インタビュー対象者にとってご自身の働く意義は何ですか?
  2. 障害を持った方が働くことについて、どう思われますか?
  3. 障害を持った方と一緒にお仕事をする感想は?
  4. 障害を持った方と一緒にお仕事をする前後で「障害者」のイメージは変わりましたか?
  5. 障害を持った方と一緒にお仕事をする前後で「仕事」のイメージは変わりましたか?
  6. インタビュー対象者にとって「自立」とはどういうことですか?
  7. インタビュー対象者にとって「共生」とはどういうことですか?
  8. インタビュー対象者にとって「健常者」とはどういうことですか?
  
  ら平成19年2月の間、それぞれの事業所を2回から18回訪問し、1時間から2時間程度のインタビューを実施した。また、合意の取れた事業所に於いては参与観察を実施した。
  分析は、まず文書化したインタビュー内容を、質問項目ごとに分類した。複数名に対するインタビューを質問項目別に編集した後、回答内容の特性を導き出した。(尚、編集作業は、あくまでも筆者らの主観に基づいた作業である。主観の過度な偏りを避けるため、本調査においては筆者間で議論し、相互に納得できるまで、上記の分析作業を繰り返した。)
  
  2.2.結果
  フィールドワークから得られた健常者従業員・障害者従業員の語りを、@従業員の傾向、及びAこの傾向の背景にあると推測される前提、つまり仕事における「普通」とそうでないものを分けるルールを軸に分析した結果、5つの特徴が見出された。なお、この5つの分類は、調査先の5つの事業所に対応しているのではなく、全ての事業所に対する調査結果を合わせた結果、5つの特徴が見出されたということである。また、仕事における「普通」ルールという言葉を、倉本(2006)が普通の説明に用いていた「ルール」という言葉に対応させ、人と人との取り決めが、ひいては普通とそうでないものを分けてしまうことになる規則という意味で用いる。
  
  【従業員の傾向T】障害者従業員の能力をあきらめる
  【仕事における「普通」ルールT】あらかじめ一定能力を兼備え仕事が出来ることが普通
  障害者受入事業所では、受け入れ当初、障害者従業員をどう戦力化するかが問題となる。この時点においては、「あらかじめ一定能力を兼備え仕事が出来ることが普通」というルールが働いていると推測され、「一定能力を兼ね備えていない」と想定されている障害者従業員には、仕事として作業が与えられる。障害者従業員の仕事=作業とされた時点で、「仕事」の枠組みからは「遊び」が排除されてしまう。障害者従業員の作業は周囲の健常者従業員によって管理されるため、逆の視点から見れば、周囲の従業員の指示に依存するものとなる。
  そして、健常者従業員による障害者従業員の管理が、健常者従業員の本来の業務に支障を来すようになると「迷惑」「操作不可能」という面が前面に押し出され、障害者従業員の能力をあきらめる傾向が、周囲の従業員の語りの中から見られるようになる。
  ・現実はそうはうまくいかない。結局障害を持った従業員は社会的って言うよりも隔離された形で働いているんですよね。あまり他と連携するような仕事ではなく。(C7)
  ・(障害者の方が仕事が出来なくても)仕方ないと思っていると思います。もうできなくて当然といっては失礼やけど。(C9)
  自らのこなす仕事に対する期待や、現在行っている作業が発展する可能性が存在しないことを感じた障害者従業員は次のように語っている。
  ・(今までやってたのは仕事?)作業。ただの組み立てだけ。(D1)
  ・ええように思ってなかったから。いつかやめようと毎日思いながら行っとったから。(D1)
  ・(障害者従業員と健常者従業員との話し合いでは、上手くいかないのか?)そうちゃうかな。(自分のことを)信用していない。(D7)
  
  【従業員の傾向U】障害者従業員への仕事の教え方を工夫する
  【仕事における「普通」ルールU】教えられる事で仕事を身につけることが普通
  しかし、周囲の健常者従業員が仕事の教え方を心得てくると、障害者従業員に対する関わり方も変化する。教え方の発見や関わり方の発見は、健常者従業員・障害者従業員双方にとって大きな変化である。
  健常者従業員は、これまでの就労経験において自分がどれ程必要な情報を省略していたのか、必要な情報を受け取れないまま作業をすることが障害者従業員にとってどれ程働き辛かったか、などに関する想像が働き始める。このような状況にいる健常者従業員は次のように語る。
  ・言葉って抽象的でも一般の人やったら通じるやろ。「ここ汚いからちょっと整理しとけ」って。ここでそんな事いっても分からん子ばっかりや。何をどう整理しろって(ちゃんと説明する必要がある)。本当は本社でも必要なことやったんや。(C5)
  ・(仕事の)指導する人が複数おって、指導する人によってまた違うとなったら、それはもうぐちゃぐちゃになる。可哀想ですよね、今思うと。手順ぐちゃぐちゃやった。(C9)
  健常者従業員が教え方を把握しているか否かは、障害者従業員にとって、仕事を続けるか辞めるかにも関わる重要な問題である。
  ・続いているポイント…上司の人とかが、分からんときには分かるまでちゃんと説明してくれるっていう。それと、気楽にこうやって話しかけて来てくれるっていうことかな。(D2)
  健常者従業員が教え方を工夫し始めると、「教えられる事で仕事を身につけることが普通」となるため、障害者と健常者の境があいまいになっていく。そして、教え方が上達し、障害者従業員本人の技術が上がるに伴って、障害者従業員の作業に障害者本人による自己決定が加えられていく。
  ・(やりがい)はありますね。他にできる人がいないから。(フォーク)リフトは殆ど聴覚障害の人が取っておったので。知的では僕一人。(D2)
  ・筆者:たくさんの洗濯物だなー。これ全部たたみ終わるのは何時くらいですか?     …5時?
  D6:(首を振る)
  筆者:…4時?
  D6:(首を振る)
  筆者:2時?
  D6:(頷く)
  筆者:…え、今1時ですよ。
  (しかし実際に2時に終わった。余った時間は、人形と会話しながら休憩。)(D6)
  
  【従業員の傾向V】互いに協力を求める
  【仕事における「普通」ルールV】弱点があり、その限界を支え合うことが普通
   障害者従業員の技術が向上するに従い、徐々に周囲の従業員も障害者従業員の働きに支えられながら仕事をするようになる。このような状況を、健常者従業員は次のように語る。
  ・障害者だからといって特別に何かをしてあげなくてはいけないと言う気持ちではなくて、お互いに一緒に。協力して欲しいときはそう言って、反対にこっちも助けて欲しいときはそう言うし、互いに協力し合いながら仕事をしていく。(C4)
  また、障害者従業員は、次のように語る。
  ・授産施設の中でやったことと今の会社って、どういったらいいんやろう?…俺が会社来て、リーダーが・・・絶対リーダーの方が早いんですよ、会社来るの。会社来てリーダーが何かやっているな、と思ったら、隣に行って一緒に組み立ての準備したりしてますね。(授産施設にいた頃は?)ないですね、自分から行ったっていうのは。で、自分のところが上がってて、明日の注文が来ていなくて、他で終わっていないって言うところがあったら、相談して(手伝いに)入ったり。「あー、こんなんもええんや」って。(D2)
  
  【従業員の傾向W】障害者に責任を持たせる
  【仕事における「普通」ルールW】責任に応えようとすることが普通
  障害者従業員の技術が向上すると、障害者従業員に与えられる仕事は、もはや作業ではなく、周囲の管理に依存するものでもなくなる。周囲の従業員は、障害者従業員に責任を持たせることを覚えていき、障害者従業員本人も責任に応えようとする。
  このような状況を、健常者従業員は次のように説明する。
  ・職場の中には甘いところが多いです。「障害やからしゃあないな」「聞こえないんやからしゃあないな」言うのがありますけど、基本的にはその部分だけ。聞こえないのであれば情報を与える。しっかり情報を与えれば、もし失敗すれば失敗。(C1)
  ・じゃあ障害者が安全を守れないかっていう裏返しになるやろ、そんなん無いわ。(C5)
  また、障害者従業員は次のように語る。
  ・まあ、よう言われるけどね、「お前はまだまだや」。へへへ、そうですね、頑張りまっさって…。そうやって言うてくれるのが嬉しいし、怒ってくれるうちが花やからね。(D1)
  
  【従業員の傾向X】障害者の成長を確信する
  【仕事における[普通]ルールX】成長することが普通
   やがて、障害者受け入れ事業所において普通とそうでないものを分けるルールは、成長に対する取り組みの有無のみになる。このような状況を、健常者従業員は次のように語る。
  ・意欲とかやる気とか、持続力とかね。言うようなところはきちっと持ってもらわんとアカン。だけど現状何が出来るかどうか言うのはアバウトでええやないかと。…今の状態は、やっていくうちに進歩する。気持ちさえあれば。(C6)
  そして、障害者従業員は次のように語る。
  ・仕事をしていく理由?・・・やっぱり、この会社が楽しい。この会社で学んだ事がいっぱいあるので…社会に出てこんなことがあるんや、こんな厳しさがあるんや。(D2)
  
3.考察
  
  3.1.「仕事」と「遊び」
  仕事における「普通」のイメージについて考察する前に、「仕事」と「遊び」に関する議論を確認したい。
  「仕事」を考えることは、「近代」を考えることにもつながっている。労働や職業の望ましいあり方を基準におき、未だそれが達成されざるものとして、<近代の歪み>が問われてきた。マルクス、ウェーバー、デュルケームらによる労働に関わるいずれの大著においても、アイデンティティを支える意義あるものとして、仕事の持つ意味が高く位置付けられている(藤村, 1995)。
  これに対し、「遊び」を考えることは、文化の根源が遊びにあるとしたホイジンガ(Huizinga, 1938)、文化と遊びは同時並列的に促進されていくとしたカイヨワ(Caillois, 1958)をベースに、遊びに反映された<近代の歪み>を捉えていこうとする試みであるといえる(井上, 1995; 井上, 1998; 西村, 1998; 小川, 2001)
  しかし、「近代」が「仕事」の比重を高めてくるにしたがって、「遊び」はその領域としてだけでなく、パースペクティブとしての意味を強く持ち出すようになった(藤村, 1995)。ここでいう「パースペクティブとしての遊び」とは、物事に取り組む姿勢や心構えとしての「遊び」である。
  ベイトソン(Bateson, 1972)による「遊び」に関する議論は、藤村が指摘する「パースペクティブとしての遊び」に重点を置いた見方である。ホイジンガやカイヨワの指摘した「遊び」と同じく、「パースペクティブとしての遊び」も、変化や文化的創造を促進するものであるとベイトソンは指摘している。
  我々のプロジェクトの中心テーマは、抽象化のパラドックスが起こる必然を探ることだと言って良いだろう。人間はパラドックスを排し、論理階型理論に従ったコミュニケーションを遵守すべきだとする考え方があるが、これは人間の精神の特徴に全くそぐわない考えである。論理階型が遵守されないのは、単に無知や不注意によるものではない。我々の信じる所によれば、単なるムード・シグナルのやり取りより複雑な全てのコミュニケーションで、抽象化のパラドックスが必然的に姿を現すのである。パラドックスが生じないようなコミュニケーションは、進化の歩みを止めてしまうのだと我々は考える。明確に型どられたメッセージが整然と行きかうだけの生には、変化もユーモアも起こりえない。それは厳格な規則に縛り付けられたゲームと変わるところのないものである。(pp. 276)
  このような遊びの観点から、藤村(1995)は日本文化を概観した。藤村によると、かつての日本には日本社会を笑うことを通して、自分を笑うというひねりがあったという。しかし、パロディなどが流行・普及することで、距離をとるということ自身が資本主義の作動に組み込まれてしまい、実はそれらが普及したかに見える現代こそ、「遊び」の精神が衰退している。現在の日本での余暇志向は、「労働時間」に対して、「非労働時間」として定義される形でしか余暇を享受できない段階にとどまる。
  これは、余暇そのものが社会システムの一翼となりつつある現在、余暇に精力を注ぎ込むことが必ずしも自由を意味しなくなってきていることに起因するという。「怠ける」ことが許されず、「暇」そのものが価値付けられない現代日本社会では、「遊び」さえ真剣にしなければならなくなっているのである。藤村は、「『仕事』が包囲されただけでなく、『遊び』さえも包囲される日本社会において、私たちの逃げ道はどこに残されているのであろう」という問いを発した上で、その解の1つとして以下のように述べる。
   「計算可能性」に満ち満ちてしまった社会において、「計算不可能」な「可能性」として楽しむ方向で評価しようとするのが近年の動向である。それは、ジンメルふうに言う「関係」を「遊ぶ」ことの現代的形態なのかもしれない。(pp. 198)
  「仕事」と「遊び」の違いは、内容の区別でも時間の区別でもなく、意味的付与の違いなのだとも言える。「遊び」の精神で距離をとろうとすればするほど差異化メカニズムにからめとられ、距離がとれなくなる。むしろ、「仕事」の側に従来の「仕事」とは異なる形で踏み込んでいくとき、現代社会の差異化メカニズムからの逃げ道が用意される。(pp. 199)
  
  3.2.障害者の就労場面から見える「仕事」と「遊び」
  以上の議論を踏まえ、本調査のデータを振り返ってみると、仕事における「普通」イメージが、障害者従業員にとって障壁となるか否かは、各職場の持つ仕事の枠組みに「パースペクティブとしての遊び」が含まれているか否かの違いであると考えることが出来る。もちろん、「遊び」の内容は、決して言葉通りに仕事を放棄して遊んでしまうことではなく、時間配分や作業の組み立て方、作業ペースの調整などにおいて自ら決定することが出来るというような「機械の部分と部分とが密着せず、その間に或る程度動きうる余裕のあること(広辞苑第4版)」という意味での「遊び」、周囲の従業員や顧客と作業中・休憩中に冗談やおしゃべりをするような「遊び」である。
  ベイトソンは「遊びと空想の理論」の中で、分裂症患者の特徴として、メタ・コミュニケーション的な枠組みの設定がままならず、基本的で直接的なメッセージをうまく扱えないと言う点を報告している。このような特徴は、知的・精神障害者に多く認められる現象であり、この特徴ゆえに障害者を雇用する事業所においては、健常者従業員による障害者従業員の徹底的な管理を生み出す傾向がある。
  つまり、職場において傾向・ルールTが支配的である場合、そこにある「仕事」の枠組みが余りに純化されてしまい、遊びを排除した作業のみになってしまっている。そこには整然と分析されつくした仕事のルールがあり、パラドックスは一切生じないが、一方で障害者従業員は就労に楽しみや生きがいを見出したり、自主性などを発揮する余地もなくなる。結果的に、健常者・障害者従業員双方にとって居心地の悪い空間となってしまう。
  ・結局障害を持った従業員は社会的って言うよりも隔離された形で働いているんですよね。(C7)
  ・(健常者従業員は、自分のことを)信用していない(D7)
  これに対し、傾向・ルールXが職場において支配的である場合、作業に対するまじめさや、「仕事をしたい」という意思のみという、非常にゆるい「仕事」の枠組みがみられた。そしてこのような状況においては、当然ながら現行のままでは経済合理的でない、自由競争に勝てない、などのパラドクスが生じていた。しかし、このような職場で働く従業員は健常者であれ、障害者であれ、そこに生じるパラドクス明記を肯定している。そこには「計算不可能」な「可能性」を楽しむ姿勢が見受けられる。
  ・現状何が出来るかどうか言うのはアバウトでええやないか (C6)
  ・『お前はまだまだや』。そうやって言うてくれるのが嬉しいし、怒ってくれるうちが花やからね。(D1)
  実際にはどのような就労場面においても、パラドクス、つまり「計算不可能」な非合理的現実は存在しているのであろう。しかし、本調査においてはこれを肯定的に語るのか、否定的に語るのか、が大きな違いであった。障害者従業員の仕事が、計算不可能な「遊び」であると位置づけているわけではない。「仕事」には本来パラドクスの可能性が存在する、と考えているのである。そして、これを肯定した上で「普通の仕事」とするか、否定した上で「普通の仕事」とするかによって、障害者従業員の受け入れ状況が異なるのではないだろうか。
  本調査の結果から、「障害者の就労はかくあるべき」といったことを言うことは出来ないだろう。しかし、確認できたことは、一体いつ・誰のために生成されたのかすら明らかでない「普通」という感覚によって過度にパラドクスを排除し、従業員に対して純粋な仕事、つまり作業の遂行を求めることは、障害者従業員・健常者従業員双方にとって不利益をもたらすと言うことである。重要なのは、パラドクスを肯定した上で、「そもそも『普通』とは、多様な人間が共存するためのルールを取り決めることによって仮現する(倉本, 2007)」ものであるから、それぞれの集団において居心地のいい仕事における「普通」ルールを取り決めること、そして「仕事」の側に従来の「仕事」とは異なる形で踏み込んでいくことなのであろう。
  
4.引用文献

  青木千帆子・渥美公秀(2007a)職場適応援助者事業に関する一考察大阪大学人間科学研究科紀要. 33, 113-128.
  青木千帆子(2006b)渥美公秀 ジョブコーチ事業にみるグループダイナミックスのきっかけ 国際ボランティア学会第7回大会発表論文集.
  Bateson, G. (1972) Steps to ecology of mind. University of Chicago Press.
  Brown, H. & Smith, H. (1989) Whose 'Ordinary life' is it anyway? Disability, Handicap & Society, 4 (2) 105-119.
  Caillois, R. 1958 Les jeux et les hommes, Gallimard.(カイヨワ〔清水幾太郎・霧生和夫訳〕遊びと人間 岩波書店 1970)
  Huizinga, J. 1938 Homo Ludens: Proeve eener bepaling van het spel-element der cultuur, Tjeenk Willink & Zoon. (ホイジンガ〔里見元一郎訳〕ホモ・ルーデンス 河出書房新社 1971)
  藤村正之 1995 Overview 仕事と遊びの社会学 岩波講座現代社会学20 仕事と遊びの社会学 岩波書店
  井上俊 1995 生活の中の遊び 岩波講座現代社会学20 仕事と遊びの社会学 岩波書店
  倉本智明 2006 だれか、ふつうを教えてくれ! 理論社
  小川純生 2001 カイヨワの遊び概念と消費者行動 経営研究所論集 24, 293-311.
  Reid, P. M. & Bray, A. (1998) Real Jobs: the perspectives of workers with learning difficulties. Disability & Society, 13 (2), 229-239.

5.謝辞

  本調査に御協力いただきました皆様に、心から御礼申し上げます。また、本調査は平成18年度大阪大学フィールドワーク支援基金の支援を受けて実施されました。


UP:20070808 REV:20070905
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