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「かなりマイクロに「ケア」の私的所有について考える――パターナリズムとの関連」報告レジメ

第2回ケア研究会 於:立命館大学衣笠キャンパス 2007/08/10
仲口 路子

last update: 20151224

<かなりマイクロに>「ケア」の私的所有について考える――パターナリズムとの関連

◆最近の事件の提示
鈴木 元(すずきはじめ)氏による『神経内科』66-5:495(科学評論社)掲載のコラム
「近親者としての筋萎縮性側索硬化症患者」
 筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者に対しては,自己決定権を重視する立場から病名告知や人工呼吸器使用可否の確認などが積極的に行われ、また、日本神経学会作成の治療ガイドラインをはじめ本誌でも推奨されております。今回私は、本症患者を、主治医としてと同時に、近親者の立場で推移を見守る機会を得ましたので、経緯についてご報告いたします。
 患者は発症時59歳、女性。私の妻の母親に当たります。2003年1月頃、左下腿脱力で発症し、某総合病院でALSと診断されました。主治医からは病名告知されたようですが、呼吸器使用などについての明白なインフォームド・コンセントはなされていませんでした。
 私が在宅担当の専門医(開業医)として引き継ぎました。そして、患者本人抜きで、家人と今後の対応につき話し合い、患者の性格などを考慮し、以下のことを取り決めました。患者には、予後の見通しについてはこれ以上の情報は与えない。日頃それとなく「呼吸器などはつけたくない」と言っていたことから、患者本人からはこれ以上のインフォームド・コンセントは求めない。人工呼吸はNIPPVも含めて、一切行わない。脱力は徐々に進行し、2006年6月頃からは完全な弛緩性四肢体幹麻痺となりました。家人や在宅サービスの方々の献身的な24時間介護の下、死の前日まで介助により経口摂取し、床上ではなくトイレで排泄し、よく話し、ときどき笑顔もみられました。10月20日頃から徐々にCO2ナルコーシスが進行しましたが,経鼻酸素投与のもと、呼吸障害による苦痛はありませんでした。10月30日夕刻、家人はずっと見守っていましたが、誰も死亡に気づかないほど文字通り寝入るような最期でした。そして、私を含めた近親者は悲しみの中にも、「できる限りのことをして、ALSとしての自然な天寿を全うさせてあげることができた」との満足感をもつことができました。今回は、患者の自己決定権をあくまで尊重する対応とは正反対の「旧来型」の対応でしたので、問題点も多くあるかと存じます。ことに強固な自己決定の意志をもつ人には、このような対応は不当であると思います。しかしながら、後悔しても決して自分の意思では変更することのできない呼吸装着可否の決定を、患者すべてに一律に求めることは妥当なのでしょうか?本例は偽多発神経炎型のALSと考えられますが、上記のような対応が可能であったのは、主治医が近親者であったこと、経過中球麻痺症状が出現しなかったこと、十分な介護力に恵まれた点などもありましたが、呼吸器装着に関する自己決定の過酷さをさけ、あくまで患者の穏やかな死を、近親者が総意として望んだ結果と考えています。以上、ALSを専門領域とする諸氏のご参考,またはご批判の対象になれば幸甚です。
2007年3月13日
(下線筆者)
ALS告知せず死亡  長岡京の医師 
義母の患者、呼吸器説明もなし  学会指針を無視

『京都新聞』2007/08/02朝刊1面トップ記事
 全身の筋肉が動かなくなる神経難病「筋委縮性側索硬化症(ALS)」を発症した京都市西京区の女性に対し、親族で主治医の医師(54)が、病状の告知や人工呼吸器を使えば長く生きられることを伝えず、女性がそのまま死亡していたことが1日、分かった。「告知は最初から患者と家族に同時に行う」とする日本神経医学会の診療ガイドラインに反している。医師は「ALS患者に人工呼吸器を着けると寝たきりのまま、いつまでも生き続ける。命の選択を一律に本人に強いる風潮はこれでいいのか。問題提起をしたい」と話している。(31面に関連記事)
 医師は神経内科医で、長岡京市で内科の医院を開業、ALSを2003年に発症して在宅療養する当時59歳の義母の主治医となった。医師によると、主治医になってすぐ、インフォームド・コンセント(説明と同意)をしないことや人工呼吸器を装着しないことを決め、義母以外の家族の同意を得た。義母は四肢まひが進行し、昨年10月に呼吸困難で死亡した。死の前日まで判断能力や意思もはっきりして、よく会話をし、笑顔も見せたという。医師は今年5月号の医学雑誌「神経内科」に、近親者として義母のALSをみとった経過を投稿。「自己決定の過酷さを避け、近親者が総意として望んだ結果」「自己決定をあくまで尊重する対応とは正反対の旧来型の対応」と記している。京都新聞社の取材に対し、医師は「ALSでの呼吸器選択は、がん末期と違う。装着すれば平均で5年は生きるし、管理が良ければいつまでも生きる。寝たきりか死かを本人に選択させるのは過酷」と話している。日本ALS協会(本部・東京)の金沢公明事務局長は「呼吸器を使わないことを本人抜きで周囲だけで決めてしまったのは問題。家族の利害と患者の利害が異なることもある。ALSの告知は、病気の進行に合わせて繰り返し、本人を支える立場で行われるべきだ」と批判している。

筋委縮性側索硬化症(ALS)
進行性の神経疾患で、全身の筋肉が動かなくなっていく難病。治療法は分かっていない。全国の患者数は約6000人とされる。五感や認知能力は保たれるが、呼吸筋の力が低下すると人工呼吸器が必要になる。24時間の公的福祉サービスを活用しながら、装着から10年以上在宅で暮らす人もいる。

本人の意志尊重が原則
【解説】歩くことや話す機能を徐々に失っていく進行性の神経難病ALSは、難病中の難病として知られる。人工呼吸器を装着する人は、現在約3割とも言われ、今回の長岡京市の医師が言うように、人工呼吸器とともに生きるかどうか、患者が迷い、苦しんできたのは事実だ。医師に告知された時の衝撃と対応を怒りを持って振り返る人も多い。呼吸器なしなら数年の命であること、意思疎通も困難な寝たきりになることを事務的に伝えるだけの「貧しい告知」に対する患者、家族の批判は、この医師の「医師の心の痛みを伴わない、一律の自己決定至上主義でいいのか」との言葉に響き合う。だが、「告知しないでほしかったという患者はいない」と、患者会の活動を続けてきた患者はいう。日本神経学会のガイドラインは「家族が配慮して本人告知を妨げる場合があり、そのために本人告知が遅れるような事態は厳に慎むべき」としている。多くの神経内科医やALS患者は、告知をやめる方向ではなく、よりよい告知の在り方を模索している。今春、厚生労働省の検討会が出した終末期医療のガイドラインも「患者本人の意志決定」を重要な原則と明示した。
これまでのケースでは、患者本人が「死なせて」と頼んだとしても、家族が手を下せば刑事罰に問われる。横浜地裁は2005年、ALS患者の願いを受け人工呼吸器を止めた母親に有罪判決を出した。死の自己決定が許されるのかどうかも、グレーゾーンのままだ。「鼻マスク型呼吸器使用で2、3カ月、人工呼吸器で平均5年は生きる」と、この医師は自ら語る。さっきまで笑い、話していた人を励まし、1日1日を豊かに支える手だてを考え、生きる道をなぜ示さなかったのか。親族としての思いが医師の職責を上回ってしまった面はないのか。十分に説明が求められる。(社会報道部 岡本晃明)

「患者の尊厳無視」ALSの義母 治療"放棄"
同じ病気の患者や家族 自己決定批判に怒り
 長岡京市の医師が「筋委縮性側索硬化症(ALS)」を発症した義母の主治医となり、病気や人工呼吸器を装着して生きる道について説明せず、死亡した経緯を雑誌に発表していたことが一日、分かった。「患者の自己決定」を批判する内容に、同じ病を生きる人たちや家族から、怒りの声が上がっている。
 和歌山市の和中勝三さん(58)は15年前、ALSだと告知された。医師を信じられず、事実と認められなかった。人工呼吸器を着けるのは「地獄」と思い、拒否を続けた。しかし、じわじわ進行する呼吸困難に苦しみ、死が切迫し、考えは変わった。「このまま家族と別れたくない。そう思い、家族も同意して着けました。死の恐怖はすさまじかった」人工呼吸器を装着して11年。和中さんは今、わずかに動かせる顔の一部の筋肉にセンサーを付け、意思疎通を支援するパソコンソフトを介して「会話」し、メールをやりとりする。呼吸器での生活に苦しいことは多いが「外出もでき、楽しいこともいっぱいある。呼吸器を着け、生きる喜びを知りました」。今回の医師にはいろんな患者と出会い、本人とよく話をしてほしかった、と残念がる。大阪府和泉市の久住純司さん(55)は2003年にALSを発症。人工呼吸器はまだ使っていない。医師の投稿文を読み、「専門医で身内の患者だからでは、片付けられない問題。医師や家族の都合による判断は患者の尊厳無視で、許されない」と怒りに震えた。人工呼吸器の装着は、ケアの在り方、多くの患者の実態など、あらゆる事態を把握し、自分で判断したいと願う。母親がALS患者の女性は「告知をためらう家族の心情は痛いほど分かる。でも、愛する家族の命の行方を決めていいのかと迷い苦しんでいると、本人の思いを知りたくなるはず」と話した。

本人選択は過酷 医師に一問一答
 医師は神経内科医で、大津市民病院内科医長などを経て、長岡京市で内科医院を開業している。医師との一問一答は次の通り。
― 医学誌に投稿したのはなぜか。
「日本神経学会のガイドラインは家族に決めさせないということ。呼吸器を使うメリット、デメリットを患者さんの納得がいくまで説明せよとあるが、自己決定至上主義に疑問を感じた。日本の医療界でこんなこというのは僕だけで、つまはじきされないかとも思う」
― 患者は終末期だったのか。
「ALS告知は、がんの終末期とは決定的に違う。人工呼吸器で管理すれば生き続けることができる。ALSは知的にも意思もずっとクリアだ」
― なぜ告知をしなかったのか。
「このまま死ぬか、地獄の苦しみのまま生きるかを自己決定させることになる。動けなくなるけど呼吸器を着けたら五年は生きられるとか、医師が患者にためらいなく言ってしまうのが通常だ。家族にしてみればためらう。言うに耐えない。(義母は)普通の人。患者の性格の強い、弱いをみて告知を判断すべきと言っているのではない。選択を本人にさせるのは過酷だと言っている」
― 最期の様子は。
「最期まで普通に会話ができた。向こうから余命や病状を問われたことは一度もない」

医師裁量権ない 終末医療に逆行
 上田健二同志社大教授(刑事法)の話 医療の内容や必要性などを患者に説明して同意を求めるインフォームド・コンセント(説明と同意)は、現代では医療行為が成立する必要条件として判例も学説も一致している。「人工呼吸器を装着すれば、少なくとも数カ月は確実に、平均で五年生存」するにもかかわらず、同意能力のある患者の同意を得ず延命措置を施さない場合、治療行為ではなく、もとより安楽死や尊厳死の要件も満たしていない。不作為で罪が成立する可能性が濃い。意識がない患者であっても、生死にかかわる問題で医師に裁量権が認められるわけではない。この医師の「患者の自己決定を重視する風潮」への批判は、医師に患者より優越する権限を認める思想につながり現代の終末期医療に逆行している。
人工呼吸器に誤解あるのでは 
 ALS治療に詳しい八鹿病院(兵庫県養父市)の近藤清彦医師の話 患者に人工呼吸器を着けることに誤解から抵抗感を持っている医師が多い。ALSの告知では「10年、20年も寝たきりになりますよ」と患者や家族に告げ、着けない方向に向かってしまう場合もあり問題だ。ALSで人工呼吸器を着けても、残っている身体機能を使いながら、有意義な生がある。「遅かれ早かれ動けなくなるのはかわいそう」と、価値がないもののように見なすのは問題。この医師は神経内科医だそうだが、呼吸器を着けて生きてて良かったという患者の声を直接聞いたことがなかったのではないか。人工呼吸器が過酷と言うならその過酷さの要因を取り除くのが医師の仕事だ。(※1)

1.  パターナリズムにかかわる議論
◆パターナリズム(英:paternalism)とは、強い立場にあるものが、弱い立場にあるものに対して、後者の利益になるとして、その後者の意志に反してでも、その行動に介入・干渉することをいう。社会生活のさまざまな局面において、こうした事例は観察されるが、とくに国家と個人の関係に即していうならば、パターナリズムとは、個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、あるいは、その自由・権利に制限を加えることを正当化する原理である。共産主義などに代表される管理体制国家によくみられる。日本語では「医療父権主義」「父権主義」「温情主義」などと訳されるが、「パターナリズム」との表記が一般的である。なお、模様・規範を意味する英単語「パターン(pattern)」とは無関係である。(※2)

◆ドゥオーキンはパターナリズムを「もっぱら、その強制を受ける人の福祉(welfare)、善(good)、幸福(happiness)、必要(needs)、利益(interests)、また価値(values)に関連する理由によって正当化される、個人の行為の自由への干渉」と定義する(Dworkin,G〔1971:20〕)。(※3)

◆パターナリズムとは何か。パターナリズムの意味には2つある、と説明するのがよいであろう。1つは、他者に干渉する『理由』としてのパターナリズムである。「理由でない「パターナリズム」については後(四 支配の形態)で説明する。」 (※4)
@他人に危害を及ぼす行為を防ぐためという理由
A人々に著しく不快感を与える行為を防ぐためという理由
B公共の道徳を保持するために干渉するという理由
C公共のため(集団的利益)という理由
D干渉される人のために干渉するという理由

支配の形態によるパターナリズム
パターナリズムは、支配の形態のひとつである。パターナリズムは権力を行使する側と権力を行使される側との間に特別の関係、つまり、「保護の関係」がある場合に成立する。そして、保護について権力を行使する側が、専断的に決することが可能である場合、それをパターナリズムと呼ぶことができるであろう。 (※5)

2.  専門性にかかわる議論
◆ 専門家時代の幻想 イバン・イリイチ
ある時代の幕を閉じるには、それにぴったりの名前をつけるにかぎる。そこで私はこの20世紀中葉が、人々の能力を奪う専門家の時代(The Age of Disabling Professions)であると命名することを提案したい。この時代は、人びとが「問題」をもち、エキスパートたちが「解答」をだし、科学者たちは「もろもろの能力」とか「もろもろの必要」とか本来測定しえないものを数量化しようとした、そういう時代だった。エネルギー消費の時代が終わったのと同時に、この時代もいま終わりを告げつつある。 (※6)

◆ 医療ケアの再組織化原則 エリオット・フリードソン
まず、他のすべての主張を妥当なものとする筆頭の原則は、専門職がケアの提供様式の組織化において自律性を要求することの正当性は、過去および現在の証拠と経験からは支持できないということである。
 第二に、専門職が自ら提供するケアに対して責任をもち、またそうした体制を政治的・経済的に支援する―こうした事態を促進するには系統的な環境整備が前提となるが、そのためにはある種の法的・管理的・官僚制的システムが必要であるということ。
 第三に、官僚制の手続きはその発端から固有の病理現象を含むものであるから、もし可能ならば、その適応領域が労力や時間の節約に必要なメカニズムにのみ限定され、しかもそのメカニズムが十分に開かれたものであり、設定された基準に過度に拘束されることなく、多様な状況に柔軟に対処しうるものであること。
 第四に、ただ単に技術的に十分であるというのではなく、人間としての充足感を与えるケアを提供するには、患者が十分に自立した地位を与えられ、自ら選択を行い、自分の受けるケアの構成・提示・内容に関して一定の発言力をもつということが絶対に不可欠であるということ。
 第五に、組織上の対立や公的な契約上の同意というものはそれ自体が特有な硬直性と害毒とを生み出すものであるから、集団として組織された患者ではなく、個人としての患者が効果的に影響力を行使できる方法を強調すること。(※7)

3.  アドヴォカシーadvocacyにかかわる議論
アドヴォカシー〔=権利擁護〕
社会福祉の分野では、自己の権利や援助のニーズを表明することの困難な障害者等に代わって、援助者が代理としてその権利やニーズ獲得を行うことをいう。ソーシャルワーカーによる社会福祉援助技術の一つとされる。(※8)

「アドヴォカシーという理念は医療従事者の中でも看護師に結びつけて論じられることが多く」 (※9)
「ヘルガ・クーゼは、安楽死の決定の場面において、看護師という職業と患者のアドヴォカシーという概念を強く結びつける」 (※10)

4. 近代家族にかかわる議論
◆近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない――
 私達がよく知っているはずの近代家族について少し考えてみると、次第にその像が曖昧になってしまう。これは一体どういうことなのか。いかなる権利や義務を家族に付与するか、そもそもその権利・義務を与えられる範囲をどこまでとするか。こうしたことを考えようとするなら、現象としての家族の最大公約数を記述するのでは足りず、既存の家族に対する介入・言及が近代に開始されることをふまえ、近代家族の構成に関わる原理・基底要因から、何が帰結するのかを検証する必要がある。(第一節)その一つに合意という要素がある。これを広義の私的所有の規範として捉え、この規範が近代家族への変容の一つの軸を確かに担うこと、しかしこの契機それ自体を切り離した時、家族の外延的な定義、家族に固有に与えられている権利・義務の付与は不可能になることを確認する。(第二節)では他にいかなる契機があるのか。こうして複数の要因が絡んでいるのだとすると、家族に関わる問題はどのように現れるのか。本稿に続く作業を最後に示す。(第三節)(※11)

◆「むすめむこ」というひととその娘の母親との関係

5. 私的所有に関する議論 (※12)
書評:立岩真也1997.『私的所有論』(勁草書房)『週刊読書人』 1997市野川容孝
本書は、「生命倫理」と呼ばれる一連の問いに根源的な形で答えようとした力作である。 すべての論者がそうだとは言えないにしても、英米圏の生命倫理学者の多くが、これらの問いに対して提示してきた倫理原則の一つは「自己決定」である。J・S・ミルにならって言えば、個人は自分の身体に対する主権者であり、他人に危害が及ばないかぎり、個人には自らの身体についてあらゆることをなす自由が認められる、というわけだ。しかし、立岩は、この論理を内在的に突き詰めながら、これとは全く逆の答えを導きだす。私の見るところ、立岩の試みは、誰が(何が)主体=主権者であるかは所有の形態と不可分の関係にあるとした吉田民人の指摘(『主体性と所有構造の理論』新曜社)の延長線上に無理なく位置づくものだが、立岩は(本書のタイトルが示すように)誰が何についてどれほどの決定権を有するかという問いを、誰が何をどのように所有しうるかという問いに変換する。
 ロックの所有論にしたがえば、自己の身体をもとに個人が労働等を通じて作り出したものは、その個人の私的所有物であり、それゆえ個人はその生産物=所有物に関する決定権をもつ主体=主権者である。立岩は、この議論を大枠において承認しつつも、その前提にひそむ矛盾をつく。つまり、私的所有の本源となる「身体そのものは私自身が作り出したものではない」(本書p35)のである。ロックにしても、J・S・ミルにしても、私の身体が私の所有物であるというのは、論証を欠いた単なる思い込みにすぎない。であるならば、全く逆の前提、つまり私の身体は、私が作り出したものでない以上、私はその少なからぬ部分に対して主権者ではありえない、つまり決定権をもたないという前提から出発することもできるのではないか。いや、所有物=私の生産物という私的所有論の原則を貫くならば、むしろそう考えるべきではないか。立岩は、身体の中にあって、私による制御も、他人による制御も正当化されないこの部分を「他者」と呼んだうえで、障害者や女性の運動が「自己決定」という言葉で救い出そうとしてきたのは、この「他者」の尊重ではなかったかと指摘する。
 自己決定という、今日では乱暴に振り回されがちな論理に、こうした限界を付す立岩の議論は、社会学がこれまで培ってきた視座を十分に活かしたものだと私は思う。デュルケームは『宗教生活の原初形態』の中で、聖なるものの特性を「禁忌」、つまり人びとが手をつけてはならないものとして保護されることに求め、そして、近代社会では個人が聖なるものとして崇拝の対象となったと述べた。デュルケームの説く個人主義は、ミル流の自由論とは全く別のものである。デュルケームが言っているのは、個人の中にあって、しかし、当の個人からも保護されるべき聖なるものが尊重されて初めて成立する個人主義である。フランスの「生命倫理法」(1994年)を準備した、88年のブレバン報告書は「人格はその人自身からも守られなければならない」としながら、たとえ本人が同意していても、商業的代理母や臓器等の人体組織の売買は認められないという方針を確認した。こうした姿勢がフランス社会に特有なものかどうかは判らないが、少なくとも、生命倫理に関する日本での議論も、英米圏のバイオエッシクスを相対化できる視座からなされなければならないだろう。 

6. 医学界/医療界にかかわる議論
○内科系vs. 外科系(古くて新しい問題群)
○理系vs. 文系
○医局崩壊(=新研修医制度と人事権の弱体化)と技術職としての「徒弟制度」とヒエラルヒーの変化 日本医師会 開業医 開業医制度(かかりつけ医)医薬分業(かかりつけ薬局)診療報酬制度(心カテ・ステント留置<胸開心臓手術)
○海外留学と「箔がつく=よいねうちがつく」こと 情報の共有 時間の制約 モチベーションの維持
○開業医における看護師の役割

7. その他「マスコミ」「長岡京」「54歳」etc.

8. まとめにかえて;ケアとこれらの関係は、どのように考えられるのか/考えなければならないのか/考えられるべきなのか?あるいはなるようになるのか?
 結論から述べるとすれば、なるようになる、とか、なるようにしかならない、とかに関しては、それ以上でもそれ以下でもない、としか言いようがない。現状は、こういったことがまさに「まかり通って」いるからである。現実はこの「事件」のように表面化することもあれば、それよりはるかに多くの「表面化しない」ことがらで構成されていると思われるからだ。このように述べると、まるで社会構築(構成)主義にのっとって論じているかのように聞こえてしまうのが厄介ではあるが、わたし自身は「なるようにな(ってい)る」といいつつも決してすべてが構築されたものであるとは考えておらず(※13) 、最近でも流行中のようにみえる「○○(=個人、介護、医療、人間…)の社会化」という文脈にたいしては、その「結果」に、というよりは「過程」に、「交換」や「変換」というよりは「流動的」「相互依存」に、それからその「残余」のほうに(こそ)注目している。
 そういった観点から、今回の「事件」を考えてみると、結果としてはあまりにも凄惨で直視いたしかねるが、このコラムに寄せた「当事者」の思いにも重いものがある、といえる。「当事者」という場合、「当事者」を限定(定義)する必要があるのだろうが、はたして「当事者」とは誰なのか。患者自身のことを指すのか、同居家族のことを指すのか、あるいは(専門家がよく使う用語の)「キーパーソン」のことを指すのか、三親等までを指すのか、遺産相続にかかわるであろう人々の範囲までを指すのか、あるいはかかわった医療従事者や近隣にお住まいの方々をも指すのか。しかしこれは単なることばのお遊びであり、その状況・文脈によるのだといえばまさにそうである。
 もう亡くなってしまわれた「患者」からすれば、自身はもちろん「当事者」であるが、患者から見る「当事者」の範囲にはこの「裁定」を下した「医師=娘婿」も、「当事者」として含まれていたのではないかと思われる。そしてその前提として「専門性を持った専門家」が「信に懇意」であったかどうかは別にしても、特別な存在としてあり、「全幅の信頼」を寄せていたのではないだろうか。そして最初に診断を下した医師は、「医師=娘婿」にたいして越権することはないし、「だれが口をはさむこともなく」ことは粛々とすすめられていった。
 このように、「ケア」は非常に不安定であり、危ういものがその多くを占めている。ジェノサイドですら、「ケア」であると表現されてしまうことを考えれば、それは当然でもあるといえようが、では何がケアにかなうのか、といったメタ的な問題がまったく突き崩されずに聳え立っているように見える。
本稿を締めるにあたり、このようにペシミスティックな考えを提示することは、本研究会の趣旨ではないのかもしれないが、少なくとも今回の「事件」で行われたことはけっして「ケア」にかなうものではない、ということが、まずは、第一歩なのだろうと思っている。


1.http://www.arsvi.com/0p/et-2007.htmおよび京都新聞2007年8月2日朝刊
2.http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
3.樋澤吉彦「『自己決定/自立』および『自己決定権』についての基礎的考察」Core Ethics Vol.1.2005.p108.=Dworkin,G(1971)"Paternalism"
4.花岡明正「パターナリズムとは何か」:澤登俊雄編著「現代社会とパターナリズム」ゆみる出版.1997.pp12−14.
5.Ibid, p41−42.
6.Ivan ILLICH, John MCKNIGHT, Irving Kenneth ZORA, Jonathan CAPLAN, Harley SHAIKEN : DISABLING PROFESSIONS (1977,1978)=尾崎浩訳「イリイチライブラリー4 専門化時代の幻想」1984.新評論.P9.
7.Eliot Friedson: Professional Dominance; The Social Structure of Medical Care (1970) =進藤雄三・宝月誠訳「医療と専門家支配」恒星社厚生閣.1992.p195.
8.「福祉用語辞典」中央法規出版より
9.竹中利彦「患者のアドヴォカシーと看護職の自律性」京都大学文学研究科哲学教室紀要PROSPECTUS.Vol.7.2004.p33.http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/phil/prospectus/pdf/2004/takenaka2004.pdf
10.Ibid, p35.
11.http://www.arsvi.com/0w/ts01/1992a11.htm
12.http://www.arsvi.com/1990/971200iy.htm
13.Ian Hacking:The social construction of what?(1999)=出口康夫・久米暁訳「何が社会的に構成されるのか」岩波書店.2006.参照

*作成:仲口 路子
UP: 20090709
全文掲載  ◇ケア研究会  ◇ケア  ◇介助・介護
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