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「ケアの社会化」を再考する

有償化/専業化の可能性と限界
堀田 義太郎 20070810 研究会: 「公共」におけるケアについて考える

last update: 20151224

要約

@ 現在の「ケアの社会化」は、負担可能なすべての人が費用負担をして、具体的な行為の負担については、労働市場における個々人の職業選択の自由に任せるという方策をとっている。
A 具体的な行為負担が市場での個々人の自発的な選択対象にされる理由は、ケアを家族等の他人に「強制」する理由はないからである。ケアには、個々人の自発的な選択に基づいて行われるべき側面がある。
B ケアを労働として市場で調達/選択される対象として位置づけることには、ケアする側/される側にとってよい面もある。
C だが同時に、「ケアする側」「される側」「する/される関係にない人」それぞれが、他者を相互に単なる「手段」として扱うことを許容する。そしてそれには問題がある。
 有償労働化は第一に、「ケアする側」が、ケア労働(ケアされる側)を単なる貨幣獲得手段としてのみ位置づけることを許容する。だがそれは、ケア活動に要求される利他性の観点からみて不適切である。ケア提供責任者(事業所)のみならず、個々のケア提供者にも、「労少なくして益多し」という自己利益を優先する原則とは別種の規範を要請する。第二に、個々のケアの質を判断する客観的な基準は存在しないため、「ケアされる側」がケアする側を貨幣で交換可能な単なるサービス提供者としてのみ位置づけることも許容される。だがそれは、ケアする側に要求される利他性を否定する。第三に、「ケアする/される関係にない人」が、ケアする人を行為負担回避手段として位置づけることを許容する。だがそれは、ケアの有償化の根拠である利他性を掘り崩す。自らのケア行為負担を回避するためにのみケア提供を他人に委ねることは、労働が生活の条件になっている社会では、他者を行為負担回避の手段として利用していることになる。
D ケアの有償労働化を要請する規範は、有償労働化の限界を確定する規範でもある。

はじめに

  以下では、「ケア」という語を、高齢者介護や障害者介助、子の養育を一般的に指す用語として用いる。そして、「社会化」を、家族を典型とする私的かつ個人的な人間関係に依存して提供されていたケアを、社会全体で公的に分担負担し、供給することを指す用語として用いる。
  「ケアの社会化」という語は、「ケア労働」の社会化と「ケア費用」の社会化に分析できるが(森川 2004: 139)、いずれにしても、従来は家族に委ねられてきたケア労働とケア費用を、「社会保障給付によりまかなわれること。社会的な介護制度への拠出や、公的な介護サービス利用に伴う支払いが行われること」(ibid.)[1] を指す。つまり、必要分の介護・介助・養育の供給を、社会全体で分担負担することを指す。

1.「ケアの社会化」の必要性

1−1. 規範的理由

  「ケアの社会化」が要請される第一義的な理由は、人々のニーズが十分にみたされるべきだからである。「ケアの社会化」が必要な理由としてはしばしば、「家族をもっぱら介護の供給源とすることが困難に」(ibid.: 138)なってきたからだ、という理由があげられる。
  こうした事実としての困難性に基づく議論に対して、立岩は、「家族が十分に世話できるなら、家族が経済的に十分に負担できるなら、家族が行うべきなのか、負担すべきなのか」(立岩 1995: 232)という規範的な問いの必要性を指摘する。それによれば、家族の無償のケアによって「必要分」のケアの提供が「可能」か否かという事実をめぐる問題と、家族にケアの義務を課す「べき」か否かという規範的な問題とは異なる。もちろん、「可能」であることは、それをする「べき」だと言うための必要条件である。それに対して、この立岩の議論は、なにかが「可能」であることはそれをする「べき」だと言うための十分条件ではない、という指摘として理解できる。
  立岩は、@人には生きる権利が存在しており、Aそれに対応する義務を家族に課す根拠がないとき[2]、Bその義務を履行可能なすべての人に義務が課される、と述べる。そして、家族を含む負担可能なすべての人に課される義務の内容は、ケアの「費用」を負担する義務であるとされる。他方、具体的なケア労働負担は、個々人の職業選択の自由に委ねられることになる。
  たしかに、家族等特定の人に特別な義務を課すことが正当化できないということは、すべての人に課される義務の性質や具体的な範囲までは規定しない。ただ、家族に特別な義務を課すことが正当化できないという点と、家族等による無償のケアが十分ではない(それが社会化によって解消可能である)という事実は、「ケアの社会化」を要請する理由になる。

1−2. 事実上の理由

  家族等に無償でケアを課すことに問題があるのは、それでは「必要量」のケアを得られにくく、必要量のケアを得られない構造は、必要な質のケアも得られなくする可能性を高めるからである。
  それは、ケアを提供する/される関係(以下「ケア関係」とする)には、二つの非対称性があるからである。第一に、ケア関係からの「退出可能性」における非対称性である。ケアを必要とする側は、ケアを必要とする身体的・精神的な状態から退出できず、とくに身体的ニーズをみたすためには、ケアを提供されないという選択肢を原理的にもたない。それに対して、ケア提供者はケアを提供しなくても自分自身のニーズをみたすことができる。そして、この「非対称的な関係性においては、一方が他方に干渉すること――他者の心身に関与すること――は避けられない」(齋藤 2003: 192)。
  第二に、ケア関係には「負担」における非対称性がある。ケアは提供者に時間的・身体的な負担をかける。ケア提供者は、就業・就学・趣味娯楽・社会参加など、その他の活動に参与できなくなり、また、その間は休息をとることができない。
  第一の「退出可能性」における非対称性を完全に解消することは不可能である。ケアが必要な人はその身体から逃れられないからである。だが、「個別的なケア関係」に対する選択可能性は、代わりになる可能的なケア提供者が存在しているならば、一定のレベルで保障されうる。第二の「負担」における非対称性は、何らかの財や感情、あるいは規範等によって相殺されうる可能性がある(岡原 1995)。従来(そして現在でも)、この負担を相殺するものとして想定・期待されてきたのは、家族の「愛情」である。また、無償のボランティアに対する期待は、「善意charity」によって相殺される可能性への期待である。
  だが、ケアを提供される側が個別的なケア関係から退出できるように、代替となる可能的ケア提供者を保障することは、家族の場合は(大家族でも)限界があり、ボランティアの場合にも困難である。家族による無償のケアに固有の問題点は、「ケア関係」を双方が選択できないという点である[3]。また、ボランティアの場合にも、ケアを受ける側は、ケア提供者を選択する選択肢を多くもつことはできない。両者に共通するのは、ケアを受ける側がケア提供者を選択困難であり、ケア提供者である家族の内面的な感情に、提供されるケア行為の具体的な内容や程度が委ねられてしまう、という点である。
  また、無償の場合、ケア提供者は生活資源獲得活動を削減しなければならず、特定の他者に依存せざるを得なくなる。家族やボランティアにケアを受ける側は、これらを認識しており、「負担/迷惑をかけないように」ニーズ要求を差し控えざるを得なくなる傾向にある。たとえば、ボランティアに対して、「やることが終わったから帰って」とは言い難い(丸岡 2006: 80)。ボランティアの場合は、ケア関係が「ケアする側」の一方的な「善意」によって成立しているからである。善意は任意性を前提とする(善意は、発揮しないからといって非難されるようなものではない)。この意味で、ボランティアでケアを提供する側は、ケア関係から退出する自由を有している。また、ボランティアは自分自身の生活を維持するための活動に従事せざるを得ず、時間的・身体的に余裕がなければできない。
  無償では必要量のケアを得られないのは、ケアは余暇の時間を割いてわざわざ人がやりたくなるような活動ではないからである。したがって常に人手不足になる。個人でケア提供者を募集し、シフトを決定するには時間・手間・一定の能力(あるいは資質)が必要である。ボランティアの場合、生活のための本業をもつ介助者の都合を優先せざるを得ない。ケアを得るプロセス自体が負担になる。つまり「取引コスト」がかかる。さらに、「取引コスト」を支払うことができない人は、ケアを得ることができずに死ぬ。
  ケアが必要な人間にとって、退出されたときに代わりがすぐに見つからない(人が足りない)現状では、ケア提供者が辞めないように、その意向に配慮せざるをえず、ニーズの直接的な表出や指示を抑制せざるを得ない。また、ケアを提供される側の個人的な性格や能力、そして人間関係によって、ケア関係の成立可能性が左右される。たとえばボランティアの場合、ケアされる側にとって貴重な人材であるため、容易にクビにできない。生活のために貨幣獲得活動を優先せざるを得ない社会では、貨幣を得られない行為には余程の理由がないかぎり選択する人は少なく、特にケアを行おうとする人間は少ない。ケアされる側は相手に配慮して要求を出しにくい。
  家族でもボランティアでも、ケアが必要な人のニーズを十分にみたし、その自己決定を保障するだけのケアの供給は困難である。そして、ケアの有償労働化を肯定する理由として挙げられるのは、これらの問題点に対応している。

2. ケアの有償化の可能性

  現在、ケアの有償化は、家族やボランティアに依存する現状の問題点を解決する一つの方法とみなされている。有償化を肯定する理由としてあげられるのは、ケア関係に内在する二つの「非対称性」を解消する可能性が高まる、という点である(星加 2007など)。
  第一に、ケアに対する対価を充分に保障することにより、ケア提供者は他の活動で生活手段を得る必要がなくなり、また善意によって余暇時間を削減しなければならないボランティアに比して参入障壁が低下するため、退出可能性における「非対称性」を解消しうる程度のケア提供者が得られる可能性が高まる。また、個別的物々交換のような「せり」にかかる取引コスト(取り引きの複雑性)を貨幣が縮減する。第二に、有償化を「負担に応じた対価」として設定することによって、第二の負担における非対称性も相殺される可能性がある。

3.ケアの有償化の限界

  だが、「ケアの有償化=分業化」には、ケアの社会化を要請する理由に抵触する可能性もある。それは、分業化一般に指摘される問題でもある。ケアの有償化はこの社会ではケアの分業化を帰結する。有償で徴集するシステムもありうるが、それは従来の議論ではほとんど想定されていない。想定されているのは、具体的な行為コストの担い手を市場における個々人の選択に委ね、その労働に支払われるべき費用を、支出可能な社会成員で分担負担するシステムである。それはたしかに、ケア関係からの「退出可能性」における非対称性を解消する可能性をもつ。しかし、ケアの有償化には限界もある。
  ケアの有償労働化がケア関係における非対称性を解消する可能性について、従来の議論では次のように想定されてきた。まず、ケア労働に支払われるべき賃金は、家族のケアに期待して設定されている現在の価格[4]よりも高く設定されるべきである。負担に応じた価格が設定されれば、個々人の選択対象になる労働としての価値が高まり、参入者が増えるだろう。それにより、ケア労働の条件も改善され、ケアを必要とする側にとっての選択肢が広がる可能性がある。この想定にはたしかに一定の説得力がある。
  しかし、ケアの有償労働化は、ケア労働者を含む労働者一般に対して、「労働に基づく(work based)」財の配分基準が適用されている現状を前提にしている限り、こうした想定とは別の方向性で「退出可能性」における非対称性を解消するシステムにもなりうる。それは、ケア労働に従事する人をケア関係から事実上退出困難にするシステムにもなるからである。つまり、ケアの有償労働化は、ケア関係からの退出可能性における非対称性を、生きるために労働せざるを得ないケア労働者の側の「退出可能性」を事実上否定することによって(トレードオフにすることで)、均衡させる方法でもありうる[5]。だがそれは、ケア提供者の生存に条件をつけていることになる。生存・生活に条件がつけられることを、一方では認めていることになる。だがそれはケアを要請する規範に抵触するだろう。
  また、ケアの有償労働化は、具体的なケア提供の行為負担の回避手段として貨幣だけを支出し、他人に行為負担を担わせようとする者をも許容せざるを得ない。分業がある限り、この可能性はすべての労働について指摘できる。だが、ケア提供活動は他の委託可能な労働とは異なり、負担回避手段として提供者を貨幣で調達することが不適切な活動である。
  ケア行為負担を回避するために他者を金で調達することは、ケア提供者が、金を得る手段としてのみケアを提供することを否定できなくする。つまり、有償労働化は、金を得る目的だけでケア労働を行う労働者も許容する。だが、ケア活動を単なる「貨幣獲得手段」として位置づけるケア労働者は、ケア提供者として適切ではない。ケアそのものには、単なる貨幣獲得手段としては位置づけられない側面があるからである。
  さらに、ケアの有償労働化は、ケアされる側が、ケア提供者を単なるサービス提供手段として位置づけ、購入対象とすることをも許容する。たしかに、ケアを提供される側に、ケア提供者を辞めさせる自由が確保されることは、必要なニーズを満たすために必要なことではある。雇用関係は一般に上下関係である。ケアを提供される側が雇用者になることは、ケアの内容や質に対する自己決定を阻害する「退出可能性」における非対称性を解消するというメリットはある。しかし、このメリットはデメリットとセットである。ケアされる側は、ケアサービス購買者ないし消費者として、ケア提供者を単なるサービス提供手段として位置づけることも許容されうるからである。だが、評価基準を完全に主観に委ねることは、ケアを提供される側の「趣味」等によって、ケア提供者を辞めさせることも可能にする。
  また、ケアを提供される側によるケアの質の評価の妥当性を第三者が判断することの困難は、別の方向にも作用しうる。ケアの質の評価主体が第一義的にケアされる側にあるとしても、ケアされる側のニーズをみたす単なる「手段」として、ケア活動を提供することが不適切な場面(ケアされる側がニーズを適切に表出できない場合、またそのニーズの実現が当人に害を与える場合)もありうるからである(丸岡 ibid., 西浜 2002)。
  ケアをボランティアや家族に委ねることでは、必要な質量のケアが供給されない。だが、だからといって有償労働化すれば問題が解決するわけではない。
  第一に、有償労働化は、ケア関係からの退出可能性における非対称性を、ケア提供者の退出可能性と交換で解消する機能を持ちうる。またそれは、@費用のみを負担する者がケア提供者を負担回避手段として位置づけること、Aケア提供者自身がケア活動を貨幣獲得手段として位置づけること、Bケアを提供される側がケア提供者を単なるサービス提供手段として位置づけることを、それぞれ許容しうる。だが、これらはいずれも、ケアという活動の性質および「ケアの社会化」を要請する規範的な前提に照らして、適切であるとは言えない。これらに共通するのは、他者を「手段」として扱っているという点である。

4. 「ケアの倫理」の不可避性

4−1. ケア提供責任を営利企業が担う場合に生じる問題点

  「ケアサービス提供責任者」を営利企業が担う場合に生じる問題点については、いくつかの指摘がある。
  たとえば吉原は、「通常の純粋私的財市場の想定の下で、消費者の得る便益を金銭的に評価しうる限りで表現するコスト・ベネフィット分析」では、「介護が本来もたらすであろうコミュニケーション機能を適切に評価し得るかどうか」について問題があると述べている(吉原 2005: 83)。だが、「コミュニケーション機能」を含むサービス商品はありふれている。ケアに特有かつ市場化することで損なわれる「コミュニケーション機能」を明示しない限り、この指摘は表面的なものに留まる。
  また、上野千鶴子は、『ケアの社会学』のとくに第三章と第六章で、ケアサービス提供責任者(事業所)を市場に委ねることの問題性を指摘している。
  まず、「シルバー産業」の事実として、「ケアというサービス商品には市場淘汰が働かなかった」という点である(上野 2006a: 151)。高額有料施設での虐待の例を挙げ、その要因を、高齢者介護においては「サービス受益者と購入者が異なる」からだと指摘している(ibid.: 152)。また、「ケア労働者」にとっても営利企業はよくない。ケア産業で企業が利潤を得る手段は、人件費の抑制しかないため、「搾取」が生ずるからである(ibid.: 152)。また、経営成績によっては「事業所を撤退する」可能性を排除できない(ibid.)。さらに、「営利企業には、もう一つ「第三の顧客」である株主」がおり、その利益を優先せざるを得ないため、消費者や労働者の利益は副次的なものとされる(上野 2007: 128)。これらの指摘は、「サービス受益者と購入者が異なる」から市場淘汰が働かなかったという分析を除いて妥当である。営利企業に委ねることに問題がある諸理由を、上野の議論を受けて再整理しておこう。
  営利企業の存在理由は、資本提供者に配当金として支払うべき「利潤」を上げることである。有限会社であれ株式会社であれ、「営利企業」とは、資本金出資者に一定の配当を分配するために、事業活動から得られた収入から費用を差し引いた「利潤」を出すことを存立目的とする組織を指す(逆に、全収入を費用と運転資金に投入できる組織は「非営利組織」と呼ばれる)。
  営利の「利」とは、配当されるべき利潤である。資金提供者に経営委託された企業経営者にとって、消費者も労働者も利潤獲得手段である。もちろん一般に、個々の客の評価が結果的に利潤に結びつく場合が多い。だが、最終的な判断基準はあくまでコストパフォーマンスであり、個々の客の評価や満足度等ではない。利潤に対する影響力に応じて客は序列化される。労働集約性の高いケア労働だけから利益を得るためには、労働者に支払われる賃金比率を下げる必要がある[6]。また、採算の合わない支店は、たとえその地域の人々へのサービス供給が停止されることになるとしても、閉店になる(上野千鶴子 2006a : 152)。
  そして、客(消費者)もまた、自らが営利企業にとってあくまで利益獲得手段だということを知っている。客は、営利企業の活動原理に応じて、商品を選別するのと同様にサービス提供労働者を選別する。経営者と労働者の利害は、「対消費者レベル」では一致する。消費者にとっては、経営者と労働者はともに手段だからである。だが、経営者/労働者の利害が一致するのはそこだけである。経営者にとっては、労働者も消費者と同じく、第一義的には利益獲得手段でしかない。労働者は利潤への貢献度(売り上げ)に応じて序列化され、あるいは切られる。そして、自己利益獲得を最優先しない労働者は生き残れない[7]。
  上野の分析のなかの「サービス受給者と購入者が異なる」という点は、営利企業で提供されるサービスが過少になることの主要因ではない。それらが同じでも、ケア関係のなかでは、ケア提供者が「労少なくして益多し」を原理として働いている場合には、提供されるケアが過少になりうるからである。

4−2. ケアを貨幣獲得手段としてのみ位置づけることの問題点

  経済的利益だけを目指して働くとき、私たちは、「労少なくして益多く」という行動指針にしたがう。そして、仕事として「すべき」とされている(対価が設定された)行為だけしかしない。対価に反映されにくい仕事は無駄である。だが、この「労少なくして益多く」という態度は、ケア提供者としては不適切である。なぜなら、ケア提供者には、「相手の個別的かつ潜在的なニーズに継続的かつ積極的に配慮し、これを満たすために身体を動かす態勢」が要請されるからである。
  ケアはマッサージや医療行為とは違って、行為の具体的な内容・強度・タイミング等について、提供者側のイニシアティブの発揮の余地(あるいは行為の適切性の評価に対する裁量性)が少なく、相手の要求や指示に従って行為の強度等を制御する必要がある行為である。だが、ケア関係は、ケアする/される側双方に対して、その遂行機会を減少させる感情を惹き起こす。排泄や食事等、身体排泄物や分泌物の処理を他人にされることもすることも、「当惑、不快、嫌悪感、羞恥、不浄感」(岡原1995:127)を惹起する。これらケアへの否定感情は、ケアする側にケア提供を躊躇させ、ケアされる側に要請をためらわせる要因になる(星加2007:238)。
  また、ケアする側が積極的に配慮し、ニーズを引き出す態度は、認知的あるいは身体的条件によって要請される場合もある。意思表示そのものに他人のケアが必要な場合(たとえば文字板使用者)、積極的に「聞こう」としなければ意思伝達も指示も不可能になる。
  したがって、ケア提供者には、「相手の個別的かつ潜在的なニーズに継続的かつ積極的に配慮し、これを満たすために身体を動かす態勢」が要求される。ケアされる側がケア行為を要請することに対して消極的になる構造は、余計な労力を割きたくない労働者にとっては、作業(労)を減らすチャンスになる。また、認知的あるいは身体的条件によって積極性が要請される場合にも、「労少なくして益多く」原理に従っている労働者は、規格化された行為および明確な指示のある行為しかしない(丸岡 2006: 83, 85)。指示されたこと以外の作業をするのは面倒だからである(企業にとっては作業量の増加は人件費に跳ね返り、利潤を低下させるだけである)。
  では、相手の個別的かつ潜在的ニーズに積極的に配慮する態勢[8]、とは具体的にはどのような態度か。それを一般的に規定することはできない。たとえば、「某CIL関係が作ったヘルパー向けのテキストには、「細かい指示ができない障害者には、介助者からの働きかけが必要だが、あくまでも決定するのは障害者であることを忘れずにいること」、また「その提案は選択が可能な形が求められる」旨が示されている」(西浜 2002: 177)という。だが、何を・どの程度すれば、このテキストに従ったことになるのかが不明である。そして重要なことは、それらを一般的に規定することはできない、という点である。もし、《そもそもケアを仕事として選択する人は、他者のニーズに積極的に配慮する態度をすでに有している》とか、《ケアが必要な人を前にすれば、誰でも自然に相手のニーズに積極的に配慮するようになるだろう》と言えるとしても、相手にとってよいか否かに関する個別的かつ積極的な配慮が「必要」だということには変わりはない。
  この点に関して、「利益目的とその他の動機(たとえば利他的動機)は、行為の動機として両立可能である」としたとしても不十分である。たとえば、「お金を受け取ることは、お金だけが目的であることを意味しない。とすれば、両者を同時に求めていくという方向が排されるべき理由はない」(立岩 1995: 242)という指摘は、それ自体としては妥当だが、問題は金以外の動機が並存する「可能性」ではなく、その「必要性」である。有償化は、金だけを目的にしたケア提供者を許容する。そしてもし、自己利益以外の利他的動機(利用者のニーズ表出を促す配慮等)が必要であるとすれば、他の動機とも両立が「可能である」という指摘では不十分である。金目的以外の態度が「必要」とされる(規範的に要請される)からである。

4−3. ケアの倫理批判とその限界

  こうした、ケア提供者に要求される態度論に対しては、《ケア労働者に過度な負担を課す効果をもちうる》という批判もある。たとえば山根(2005)は、「他者に対するあるべき態度・関与のあり方を表す概念」として「ケア」を用いる議論は、「ケア労働者に対する過度な負担となる」と批判している(山根 2005: 1)。なぜなら、ケアの倫理はケアの「失敗をケア労働者個人に帰す論理」(ibid.: 1-2)にもなりうるからである。このように批判した上で山根は、ケアに最低限要求される規範として「相手をモノとして扱わないこと」をあげ、それは「相手のニーズを内面化する「他者志向性」とは異なる」と指摘する(ibid.: 13)。
  もちろんこの批判は、言説の効果に対する批判としては妥当である。だが、「相手をモノとして扱うな」という規範も一見必要最低限に見えるが、それが指示する内容はじつは、ケア関係においては「その都度その相手の感覚に配慮して行為すべきだ」というものになる。
  なぜなら、ケア関係においては、ケア提供者は何をすれば「相手をモノとして扱っている」ことにならないのか、を客観的に規定する基準はないからである。身体接触を伴うケアは相手に受動的な感覚をもたらす。直接的な身体接触は、文脈次第でつねに「モノとして扱われている」という感覚に結びつく。とくに身体を移動させ・持ち上げ・洗い・寝かせる等はすべて、やり方次第でつねに相手を「モノとして扱う」ことになりうる。そしてそれらの行為の適切性の評価は、第一義的にはケアされる側の感覚にある。マッサージや医療は、行為提供者側に、専門性に基づき、行為の適切性の評価に関する行為者の裁量性が認められている。それに対して、ケアの過程で身体(部分)を他人に動かされる際、それが「モノとして扱われている」か否かの判断主体はケアされる人であり、そしてその基準は、当人にとっての、@そのケアの目的の妥当性およびA目的に対する手段としての妥当性である。つまり、ケアがモノとして扱うことになるか否かを最終的に決定するのは、身体を動かされる当人にとっての利益(よさ)である。したがって、必要最低限の規範に見える「モノとして扱うな」は、ケアにおいては、相手の個別性に応じた持続的で積極的な配慮が必要である、という意味になる。つねに、相手にとって「よい」か否かに対する積極的配慮が必要となる。

(未完)

《注》

[1] 森川は「介護に関する家計の一部」としているが、「一部」とはどれだけか、は不明である。
[2] たとえば、たしかに未成熟な「子を養育する責任を負うのは、まず親であるというのが社会通念である」(上野雅和 2001: 94)。だが、ではなぜ親に責任が課されるのか、そしてその理由は・どの程度の負担を親に委ねることを正当化するのか。相互の同意に基づく婚姻は一方的に解約できる。離婚した場合には、「親権者でなければ、扶養義務は負っても、監督・教育の権利義務および財産管理・法定代理の権限は持たない」(ibid.: 95)。そして、監督等の義務によって、親の離婚に対する権利を否定することはできない。子を養育する親の責任は、婚姻関係を解消する親の決定によって免除されうる。また、民法では、「直系血族および兄弟姉妹」に課される扶養義務は「経済的給付義務」に限られている。扶養の必要がある人でも、兄弟や子を強制的に同居させてケアさせる権利まではもたない(引取扶養を請求することはできない)。ケアが必要な高齢者にケアを提供する義務を、家族に課すような規定は存在しない(ibid.: 96)。そして、親族間の互助義務(民法七三〇条)も、法的に強制できる類の義務ではない。
[3] もちろん、子を産む場合には、「子の養育」負担が予見可能であり、一定の選択肢がケア提供者側にある。だが、その予見と選択可能性が、親のケア提供責任や義務を正当化するか否か、もし正当化しうるとして、その範囲はどの程度か、といった点は曖昧である。
[4] 厚生労働省の調査によれば、正規雇用の全労働者平均年収試算額が452万9200円であるのに対して、福祉施設介護員(正規職員)の年収試算額は、男性が315万3500円で女性が281万200円であり、ホームヘルパーは男女ともにさらに低い(平成17年(2005年)「賃金構造基本統計調査」)。また、介護職員の平均「給与総額」は20.8万円(内、訪問介護士は18.5万円)であり、全産業平均の「決まって支給する現金給与額(定期給与)」は33.0万円である。「給与総額」とは「定期給与」と賞与等の特別給与の合計である。したがって、この差は実際にはさらに大きい可能性が高い。また、平均月給の比較では、全労働者が33万800円(勤続年数は12年)であるのに対して、施設介護員は21万1300円(同5.1年)であり、ホームヘルパーは19万8600円(同4.6年)である(2005年)。括弧内の勤続年数の差は「平均勤続年数」の差であり、この差は、介護福祉職の離職率と入職率の高さに起因する(訪問介護員と介護職員の平均離職率は20.2%であり、全労働者のそれは17.5%)。また、2005年の介護関連職のパートタイムへの有効求人倍率は2.86倍であり、全職種では1.29倍である。介護福祉業界は非正規職員への求人率が他の業種に比して顕著に高い(社会保障審議会福祉部会「介護・福祉サービス従事者の現状」)。正規職員の賃金が少なく(退職者が増えて一人一人の負担を増大させ)、非正規職員しか雇えないのは、単純に各事業所に分配される予算の分母にあたる公的な社会保障予算が少ないからである。そしてその第一義的な原因は、家族をケアの含み資産と見なして社会福祉予算が組まれているからである。
[5] たとえば、「「労働力不足」の解消の解決策はかんたんである。労働条件を向上し、賃金水準を上げれば、労働者の移動が起きる」(上野2006b: 107)といった類の表現について、それが、労働しなければ生きていけない社会を前提にしていないかどうかが問われるべきだろう。
[6] グッドウィルグループは「超高級マンション型有料老人ホーム」を個別の事業所経営よりも優先したが、営利企業である限りそれは当然である。批判するならば営利企業に委ねた政策を批判すべきである。
[7] 消費者の利益を真剣に考える労働者が、最終的に企業に利益ももたらすことになるようなストーリーがドラマとして消費されるのは、そのようなことは現実にはほとんどありえないからである。
[8] 個々のケア提供者に要求される態度としての積極的配慮は、「アドボカシー」(岡部 2006)と呼ぶこともできる。アドボカシーとは、受給者が独力で自らの必要を反映できるとしてしまうのではなく、受給者の主体性を尊重するために積極的に受給者を「保護」することを指す(ibid.: 79)。あるいは、「必ずしも明確化できないものも含めた必要を権利として確認し実現すること」(ibid. :98)である。もちろん、岡部が念頭に置いているのは、個々のケア提供者がケアを提供する場面ではなく、公費受給過程においてサービス給付額の基準となるニーズ判定の場面である。だがそうした態度の必要性は、個々のケア提供の場面にも妥当する。「保護」という語が示すとおり、それは一種のパターナリズムが不可避であるということである。この点、岡原の以下の指摘は正しい。「あることを自分はできて、かつ、それをできない人がいて、自分がその人に代わってそれをする、という形式である。この形式は、たとえ個人が介護という意識を消去しても、介助行為が型として持たざるをえない構造である」(岡原 1995: 141)。

文献

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森川美絵、2004、「高齢者介護政策における家族介護の「費用化」と「代替性」」、『福祉国家とジェンダー』(大沢真理編)明石書店
西浜優子、2002、『しょうがい者・親・介助者――自立の周辺』現代書館
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上野千鶴子、2006a、「ケアの社会学(第三章)――介護費用負担の最適混合へ向けて」、『at』4号、2006年6月
――、2006b、「ケアの社会学(第四章)――ケアとはどんな労働か」、『at』5号、2006年9月
――、2007、「ケアの社会学(第六章)――市民事業体と参加型福祉」、『at』7号、2007年3月
山根純佳、2005、「「ケアの倫理」と「ケア労働」――ギリガン『もうひとつの声』が語らなかったこと」『ソシオロゴス』No.29
吉原直毅、2005、「「新自由主義」に対する科学的オールタナティブ構想に向けて」『at』2号、2005年12月


UP:20070906 REV:
ケア  ◇堀田 義太郎  ◇Archive
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