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「誰を、どこまで「ケア」すべきか―「ケアの倫理」の射程と限界」

安部 彰
研究会:「公共」におけるケアについて考える

last update: 20151224


■誰を、どこまで「ケア」すべきか―「ケアの倫理」の射程と限界
 安部 彰(立命館大学)

 はじめに
 誰を、どこまで「ケア」すべきか。「ケアの倫理 ethics of care」と呼ばれる「正義」や「徳」ではなく、あくまで「ケア」を倫理の中核に据える理説にあって当然自明におもわれるこの問いにたいする解はしかし、その論理内在的にはまったく自明な事柄ではない(1)。すなわち、「ケア」の「対象(誰を)」と「程度(どこまで)」にかんして、その理説は明確な答えを用意しているわけではないのである。
たしかに誰を「ケア」すべきかについて、「身近な他者 proximate other」を「ケア」すべきであるとそれは述べる(Noddings [1984] 2003=1997: 176)(2)。しかしながらわたしが「ケア」すべき対象は同時にこのわたしじしんであるともいわれたり、「ケア」の対象となる〈あなた〉が複数存在するとき、いずれの〈あなた〉を優先すべきかについても、それは明確な解をあたえているようにはみえない。他方で、その問題が仮に解決したとして、つまり誰を(優先的に)「ケア」すべきかが定まったとしても、今度はその「ケア」がどこまでなされるべきなのかという問いは残る。いや、そこでは〈あなた〉への「ケア」は際限のない要請としてあるようにみえ、そしてそうであるがゆえにわたしにたいする際限のない「ケア」が要請されてもいるようにみえるのだが、その場合わたしはいったいわたしや〈あなた〉をどこまで「ケア」すべきなのか…と思考を進めていくとその論理は何かしら錯綜しているようにさえおもえてもくる。
これらのことは、「ケアの倫理」が原理原則をではなく、むしろ原理原則を超出したところにある個々(人)の背景や文脈を重視することに起因している。ゆえに「誰を、どこまでケアするのか」という問いに「ケアの倫理」が応ずるとすれば、それはその時折の状況次第であるといったものとなるだろう。しかしながら本報告では、そうした回答に即座に満足することなく、いましばらくこの問いを先へと継いでみたいとおもう。すなわち以下のように分節化される問い/論点をめぐる考察をつうじて、現実に生じている「問題」の実践的な解決や示唆を「ケアの倫理」から導出することは果たして可能かを問うてみたい(3)。

@「ケア」の対象が〈あなた〉のみであるとして、その〈あなた〉への「ケア」はどこまで要請されるのか。
A「ケア」するわたしのわたしじしんにたいする「ケア」は、何故、またどこまで要請されるのか。またそれは〈あなた〉への「ケア」の要請といかなる関係にあり、どちらが優先されるのか。

1.「現実」と/の「問題」
 まず、うえで分節化した問い/論点が、単なる「理論」のではなく「現実」のそれにかかわるものであることを確認するために、ひとつの「現実」の参照しておこう。すなわち、それらが、いかなるかたちで/問題として、われわれに現象しているのかを、阿部(2007)が活写する、「市場化されたケア労働」の一環としての高齢者介護、その現場で生じているとされる事態と問題のうちに見定めておこう。
 阿部によれば、現在、高齢者介護の現場で生起しているのは〈集団ケアから個別ケアへ〉という流れ/変化である。それはまた「ケアする側からケアされる側へ」という流れ/変化でもある。すなわち個別対応のケアを達成するための手段として、国策としてその推進が求められてもいる「ユニットケア」は、従来の集団対応のケアにたいする反省から生まれたものにほかならない。このユニットケアは「10名ほどの少人数の単位(=ユニット)ごとのケアの提供を目的」とするものであるが、それは従来のケアする側の効率重視の集団的なケアを「レディメイド」型と呼ぶとすれば、「オーダーメイド」型とでも名付けられるのがふさわしい(阿部 2007: 20-22)。それによってケアされる側の状態や必要に「一律」にではなく「個別」に応じることが可能になったからである。
 さてこのような変化、つまりユニットケアが、利用者に好意的に、ときに絶賛の声さえともないつつ受けいれられたことは指摘するまでもない。だとすれば、それでよかったといって終わってもよい話なのだが、そうはならない。そうならないのは次のような問題が起こっている(とされる)ためである(4)。すなわち、その問題とは、ワーカーにとってユニットケアは以前よりも「やりがい」のある充実感と満足をもたらす仕事になったにもかかわらず、まさしくにそのことによって、ワーカー自身の精神と身体が摩耗させられ、ケアする側へのケアが困難になってしまっていることである。続いてはその消息について、より子細にみていこう。
まず「やりがい」が向上したのは、「ワーカーと利用者の距離が近くなり、仕事におけるワーカーの自由裁量の範囲が大きく」なったためである(阿部 2007: 26)。そして、まさにそのことによって、つまりユニットケアの職場が「あまりにも魅力的なもの」となったがゆえに、「ワーカーたちは仕事にのめり込み、我を忘れて」仕事に没入するようになってきているわけである(阿部 2007: 28)。ところで、仕事に打ちこむことは一般にはよいことである。しかし阿部が指摘するように、ケアワーカーの仕事は、たしかにやりがいはあるが、賃金の低い、不安定な仕事である(5)。ゆえに、そのような現況のもとで「ワーカホリックになることは、ケアワーカーにとって非常にリスクが高い」(阿部 2007: 27)といわざるをえない。というのも、身体的に過酷な労働にたいする、またその労働に付随する(感染症などの)リスクへの保障が十全ではない「現在の労働条件のもとでは、ケアの仕事が長く続けられるものではないことは明らか」だからである(阿部 2007: 28)。つまりバウマンを引きつつ述べられるように、「いま」がよくても「先」のない、そうした仕事にワーカーが没入することは、「大きなリスクを背負うことであり、心理的、感情的な破滅の原因」(阿部 2007: 27)ともなりうるからである。しかしながら真の問題は、そのような劣悪な労働条件それじたいにあるのではない。そうではなく、そうした不安定でリスキーな労働条件にもかかわらず、そこから離脱せず、働きすぎてしまうワーカーたちが発生しつつあることにこそ求められねばならない。
では、ワーカーたちはなぜ働きすぎてしまうのか。なぜ仕事だと割り切って、身を粉にまでしてしまう手前で立ち止まれないのか。その「理由は、そこに困っている利用者がいるから」である(阿部 2007: 29)。「流れ作業」、「イモ洗い」、「工場」にも擬えられる、従来の集団ケアの職場にたいして、ユニットケアは「利用者本位」のケアである。そこでは、利用者の個別のニーズや「その人らしさ」に応じた「人間的な」ケアが要請されるし、ワーカーらも提供したいとおもう。だが、そのような(十全な)ケアを実現するには、ケアワークは「気づきの労働」へとならなければならない。つまり「ワーカーが相手のニーズを的確に把握することが必要である」(阿部 2007: 34)。しかしそのためには、ケアワーカーの利用者にたいする「気づき」のレベルの向上が不可欠となる。長時間利用者と一緒にいることによって、相手のことをよりよく知る必要が出てくる。とりわけ認知証の利用者にたいしては、利用者の現在だけでなく過去についても知らなければ、ケアの成功を望むことはむずかしい。それを望むのであれば、微に入り細にわたった膨大なコミュニケーションが必要となる。
 阿部も述べるように、「自分のしたことが相手を喜ばせて、感謝される」。また経験を積めば積むほど、「利用者(お客さん)の気持ちがわかるようになり、サービスの質も上がっていく」(阿部 2007: 37)。ここまでは通常のサービス業(従事者)にもみられる、よくあることである。しかし「ケアワーカーたちの特異なところは、相手を喜ばせようとすればするほど、際限なくサービスがエスカレートする点である」(阿部 2007: 37-38)(6)。つまり、ユニットケアにおいて成功したケアを提供するためには、ワーカーは利用者と長い時間をともにし、そのひとのことをよく知らなければならないのだが、しかし知れば知るほどに相手にたいする「共感」や「同情」が昂進し、サービスが限りなくエスカレートしていくようなメカニズムがそこには内在しているのである。かくして、「かわいそうな人を何とかしてあげたいという、誰もがもっているであろう心のやわらかい部分にユニットケアという労働は入り込んでいく」(阿部 2007: 39)のだが、その帰結が、精神のみならず身体にまでおよぶワーカーたちの摩滅という「問題」なのである(7)。

2.「理論」と/の「問題」
 それでは、以上のような「現実」と「問題」に「ケアの倫理」はいかに応答しうるだろうか。それはかかる「問題」の解決へといたる道筋を示しうるだろうか。結論からいえば、示しえないようにおもわれる。以下、そうした結論が導かれる消息について、先にわれわれが提出しておいた問い/論点とのかかわりに即しつつ、かかる「現実」と理論への内在と解釈をつうじて述べてみたい。
まず@に即して、「現実」に生じていることを再度確認することからはじめよう。その「現実」とは次のようなものであった。「集団的ケアからユニットケアへ」という流れのなかで、利用者である(個々の)〈あなた〉への「ケア」は、利用者の状態や必要に「個別」に応じることが求められ、また可能ともなったことによって、ワーカーにとってはより「やりがい」のあるものへと、利用者にとっては不満や不安のすくないものへと変節した。だがそれによってもたらされたのは、ワーカーによる「ケア」の「気づきの労働」への変容と、それにともなう「ケアのエンドレス化」とでも称すべき事態であった。つまりそこでは、わたしの〈あなた〉への「ケア」は、わたしが際限なく(その要請に)応じるべき/応じざるをえないものとなっている(ことが「問題」である)。 では「現実」が以上のようなものであるとして、それは「ケアの倫理」の観点からどのように評価されるだろうか。ひとまずいえることは、ワーカーが〈あなた〉への「ケア」に没入することじたいは「よいこと」だということである。すなわち、「ケアの倫理」は「責任の倫理 ethic of responsibility」(Gilligan [1982] 1993: 164)とも言い換えられるように、「他者へのケアを倫理の原型と見なし、対面の場で感じられる他者への義務感をケアの動因と考える」(佐藤 2000: 96)。ゆえにそれは、「正義の倫理」のように、他者への普遍的な「ケア」を要請するものではない(8)。その代わりに、「身近な他者proximate other」への「ケア」を要請する。それも、対象に「打ちこむこと(専心没頭)」(Noddings [1984] 2003=1997: 13)を要請する。そしてその「身近な他者」とは、「わたしに話しかける者」や「わたしが眼差しを向ける者」(Noddings [1984] 2003=1997: 176)、つまり第一義的には、家族や友人、知り合いなどをさしている(9)。しかしより広義には、レヴィナスによって「顔 visage」と述語化された当のものを、この〈わたし〉に感じさせる他者であるといってよい(佐藤 2000、2004)(10)。というのも、じっさい「現実」に立ち戻ってみれば、ワーカーたちが働きすぎてしまうのは、たしかに「やりがい」や「自己探し」、利用者からの感謝といった動機づけにもよるのであろうが、やはり利用者に「顔」を感じているからだと考えられる(「そこに困っている利用者がいるから」)。とすれば、やはりそのような(利用者の)「顔」の要請に促されて〈あなた〉への「ケア」が深まることじたいは、「ケアの倫理」においては肯定されることになるといえる。
とはいえ他方で、「ケアの倫理」によれば、「対象のための自己犠牲もまた成熟したケアではない」(Gilligan [1982] 1993: 74)。「本質的に無力な存在」(Gilligan [1982] 1993: 74)である、このわたしもまた(わたし、または他者によって)ケアされるべき対象だからである。したがって今度はAに即しつつ、再び「現実」に立ち戻ってみれば、そこでは「ケア」するわたしのわたしじしんにたいする「ケア」が(十全に)なされていない(ことが「問題」である)。またそうであるがゆえに、ワーカーは「バーンアウト」や「非常に危険なワーカホリック」状態へ陥ってしまっている。そしてこのようにみてくれば、かかる「現実」の「問題」の根底が奈辺にあるかはいまや自明である。すなわちそれは、わたしの〈あなた〉への「ケア」が無際限(の要請)となっていること、そのような〈あなた〉への「ケアのエンドレス化(状況)」が「ケア」するわたしのわたしじしんにたいする「ケア」を困難にしていることである。とすれば、「問題」の解消のためには、〈あなた〉への無際限の「ケア」(の要請)が何らかの仕方で制約されなければならないが、次にみたいのは、この点にかんする「ケアの倫理」の応答がいかなるものであるかである。
まず、「ケア」は「ケアする側、される側のいずれか一方の主導によるのではなく、両者の関係にこそ存している」、「したがって、ケアの倫理では、ケアすること関係を築くことそれ自体に価値がある」(品川 2002: 6)のであれば、そのようなケア関係が破綻してしまうほどの労苦や疲弊を「ケア」する側にもたらす無際限な「ケア」は当然差し控えるべきだ―自らを「ケア」するべきだ―ということになるはずである(11)。しかしながらこのことは「ケアの倫理」において決して自明なことではない。たとえば佐藤は、責任の倫理の主体は他人への責任と自己の欲求(これには当然自己保存の欲求が含まれるだろう)とのあいだの葛藤で悩むことを認めるギリガンの所論においても、その主体は自己の欲求を倫理的に正当化する手段をもちえないとする(佐藤2004: 103)。また無際限な「ケア」にたいする制約を認めているようにみえるノディングスも、「ケアするひとは、自らの身体的もしくは倫理的自己にたいして、他者がその意図にもとづいた明白な脅威となるのではないかぎり、ケアするひととして他者に接さねばならない」(Noddings [1984] 2003=1997: 179)、つまり〈あなた〉が意図してわたしに危害を加えるのではないかぎり、〈あなた〉への「ケア」は維持されるべきであるとする。ここでさらにノディングスの理説にかんして注目すべきは、そこでは、わたしのわたしじしんにたいする「ケア」は、〈あなた〉にたいする無際限の「ケア」を抑制するためにというよりは、むしろそのような「ケア」を可能/存続するために求められているようにみえることである。以下ではこの点、すなわちノディングスが「倫理的自己へのケア」と呼ぶところのものが、そのような要請にほかならないことについて、品川(2004)の所論/解釈に全面的に依拠しながら、その論証を試みる。
 ノディングスの「ケアリング」理論によれば、「ケア」の起点となるのはまず「愛や自然な心の傾向」に発する「自然なケアリング natural caring」である(Noddings [1984] 2003=1997: 7)。それは典型的には母子関係にみられるもので、「母親は子どもをケアしたいからケアする」とのような「第一の心情の想起に反応して生じる」感情が「ケア」を支えるとされる(Noddings [1984] 2003=1997: 124)。この「自然なケアリング」はむろん母子関係を離れ、あらゆる他者関係へと広がっていくが、それは「われわれがそれぞれの記憶をとおして、自分じしんがケアしたりケアされたりした経験に近づく」〈(Noddings [1984] 2003=1997: 162)ことによって、すなわちわたしが誰か他のひとからケアされ、他のひとをケアした経験の想起にもとづくとされる。このようにケアリングの起点に過去のケアリングの記憶が置かれるのは、われわれが無力な存在として生まれてくること、われわれの根源的なケア経験がまずは「ケアされた」という受動的な経験に発していることにかかわっている。
 しかしときに、何らの要因によって「ケアしたい」という「自然なケアリング」が発露しない場合がある。このとき、かつてケアされ/ケアした経験の記憶は、「他人の窮状への応答とそれと相対立する自己利益を増進したいという欲求に応答するなかで、『わたしはしなければならないI must』という感情となって私たちにしのびこむ」((Noddings [1984] 2003=1997: 125)。「わたしはしなければならない」という、このケアリングは「倫理的ケアリング ethical caring」と呼ばれるが(12)、それでは品川も問うように、「ケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求は、なぜ、ケアしたくないという欲求に打ち勝つのだろうか」(品川 2004: 50)。それは品川自らそれに答えて述べるように、一方に自己利益増進の欲望があり、他方に相手を「ケア」したいという欲望があるとすると、「後者が習慣的に前者を圧倒するとすれば、後者は一過的な前者の欲求とは次元を異にした欲求」(品川 2004: 50)であると解釈するのが至当である。すなわちフランクファートの「第一階の欲求と第二階の欲求」を借りるならば、「ケアを放擲したいのは第一階の欲求だが、他人をケアする自分でありたいというのは第二階の欲求である」(品川 2004: 50)。つまりこのような第二階の欲求にしたがって、ひとは「倫理的ケアリング」を開始し、ケアするひとへとなっていくのである。
さて品川によれば、この第二階の欲求こそが「倫理的自己へのケア caring for the ethical self」と呼ばれるものにほかならないが、この「倫理的自己」にかんしてまず留意すべきは、それが第二階の欲求の主体ではなく、私のケアする対象と位置づけられている点である。すなわち、「他のひとにたいするケアリングは倫理的自己への関心から生じるのではなく、他のひとにたいするケアリング〔自然的なケアリングの経験〕から倫理的自己への関心が生じ」(Noddings [1984] 2003=1997: 80、〔 〕による補足は引用者)、また「他のひとをケアすると同時に、そのひとたちによってケアされるときに、わたしは自ら〔倫理的自己〕をケアすることが可能になる」(Noddings [1984] 2003=1997: 78、〔 〕による補足は引用者)。ではなぜ倫理的自己が「ケア」されなくてはならないのかといえば、それは「他のひとにたいするケアは挫折や意気阻喪や裏切りに見舞われやすいからである」(品川 2004: 51)。つまり、ノディングスの理論は「倫理的態度の維持が倫理的自己の保持にかかっている点で、・・・・・・自己の完成をめざしたものだといえる」(品川 2004: 51)が、それはひとが「現実的に倫理的であるために、自分が倫理的でありうるという可能性の想起に立ち戻る一種の自己浄化の勧めなのである」(品川 2004: 52)。
 このようにみてくると、ノディングスの理論は、ケアリングの根底には倫理的自己へのケアがあり、そのうえに個々の他者へのケアが築かれるとの構造をなしているといえる。だが、だとすれば、品川も問うように「ケアする私をケアする私とは、目下の必要と関心に追われた、いわば世俗的・社会慣習的なケアに没頭しているこの私からの一種の超越を意味していないか」(品川 2004: 53)。じっさいノディングスも「倫理的自己」を「内なる他者 other in me」(Noddings [1984] 2003=1997: 78)と呼んだりするのだが、他方で倫理的自己がこの具体的な私から遊離するのを避けてもいる。すなわち、個々人が「倫理的自己」となりうる超越的な契機を他者と関係を結ぶことそのことのうちに求める。とすれば、このように「受け容れ、受け容れられること、ケアし、ケアされること。これが人間の基本的なありようであり、その根本的な目的である」(Noddings [1984] 2003=1997: 268)とするノディングスの立場からすれば、「倫理的自己へのケア」はたしかにケアリングの倫理の根底をなしてはいるが、それは個々の他者への「ケア」を基礎づける位置にはないとみるべきである。むしろ、「日常行われる他者へのケアこそが私の倫理的自己を強め、ケアの維持を賦活してくれるのであり、一方、倫理的自己をケアすることで、ともすれば私欲や疲労や不和ゆえに途絶しかねない日常のケアは支えられつづけていくもの」(品川 2004: 54)とみなされるべきである。
 以上ノディングスの所論について縷々述べてきたが、そこで述べられたことのうちに、先のわれわれ主張の妥当性はすでに示されているといえよう。すなわちわれわれは、〈わたしのわたしじしんにたいする「ケア」は、〈あなた〉にたいする無際限の「ケア」を抑制するためにというよりは、むしろそのような「ケア」を可能/存続するために求められているようにみえる〉、〈ノディングスが「倫理的自己へのケア」と呼ぶところのものが、そのような要請にほかならない〉と述べたが、そのことは、ケアリングの倫理の根底をなしている「倫理的自己へのケア」の目的が〈あなた〉への「ケア」を維持することにあるとされること、また〈あなた〉へのわたしの不断の「ケア」こそが、そのようなわたしの「倫理的自己」を支えるとされることからも明らかである。したがってノディングスの「ケアの倫理」とは、あくまでも〈あなた〉にたいする終わりなき(それも専心没頭の)「ケア」を要請するものなのであり、それは「ケアのエンドレス化」というわれわれの「現実」にたいする解決策を示唆するどころか、むしろそれを促進するものでさえありうる。つまり、それはすくなくとも、すでに十分といってよいほどの「倫理的自己」を備え、自己犠牲をも厭わないほど他者への「ケア」に専心しているひとには、その峻厳な状況を生きつづけることを求めるものとなりかねないのである(13)。

 おわりに
 以上、本報告は、われわれの「現実」の「問題」の実践的な解決や示唆を「ケアの倫理」からは導きえないと述べてきたが、だとすれば、この「問題」にいかに対していくべきなのかとの問いが当然こちらに差し向けられることになるはずだ。ここでは残念ながらその問いに応じる用意はないのだが、以上の考察をつうじてみえてきたこの「問題」の本質的な困難についてのみ触れておきたいとおもう。すなわちその困難とは、「かわいそうな人を何とかしてあげたいという、誰もがもっているであろう心のやわらかい部分にユニットケアという労働は入り込んでいく」(阿部 2007: 39)こと、つまりワーカーらが利用者に「顔」を感じてしまうことは避けえないようにおもわれることである。
たとえば、この「問題」の重みを軽減しようとするのであれば、もっとも得策なのは、〈あなた〉を「ケア」する「わたし」を増やすこと、すなわちワーカーを増員することである。そうなれば、いまよりは個々のワーカーの身体面での負担はすくなくとも減ずるはずである(14)。だからその意味においては、阿部の提出している解決策は現実味もあり、それなりに有効なもののひとつであるようにもおもえる。すなわち、個別ケアを再び集団ケアへと振り出しに戻したうえで、身体介助などの技術的な労働は専業ケアワーカーらが担い、「気づきの労働」のようなコミュニケーション労働はパートタイマーやボランティアが担うといった「共働」(分業)の提案は、それなりに奏功することだろう(阿部 2007: 104-105)。だが、この案の問題点は、それでもやはりワーカーらは〈あなた〉(利用者)に出会ってしまうはずだし、そこに「顔」を感じてしまうだろうということである。あるいは、かれらは自らの感情をそのようにうまく制御できるだろうか。いやそんなことができるのであれば、そもそも「集団ケア」に不満を感じないはずだし、こんなにも過酷な状況陥るまで自らを追いこまないはずである。さらにいえば、これには阿部も自覚的だが、集団ケアに戻して、技術的な労働に専念させることは、それに従事するワーカーらの「やりがい」までをも奪うことにもなるだろう。
われわれの社会において現在、「ケア」の一形態である介護は、家族という「内部」から市場へと「外部化」されつつある。言い換えれば、私的領域から公的領域へと移設されつつある。そのような転回には、ひとつには、「内部」にて一手に担われてきたわたしの〈あなた〉への無際限な「ケア」を抑止しようとの狙いがあったはずなのだが、にもかかわらず「外部」である市場においてもまさしく同様の事態が生じていることはすでにみてきたとおりである。これは「ケア」という営みに内在する本源的な困難であるのかもしれないが、しかしそのうえでわれわれはその隘路を抜け出る光明をどこかに見いだすことは不可能なことなのだろうか。それについては、けれども今後の課題としたい。


[脚注]
(1) 「正義の倫理」との対比において「ケアの倫理 ethic of care」という用語をはじめて用いたのは周知のようにギリガンであるが、ここではギリガンを含むさまざまな理説をさして「ケアの倫理 ethics of care」とする。ただしここで参照されるのは主にノディングスの所論ではある。またここで「ケア」とは、内包的には「対象(の必要)への配慮」を、外延的には育児・介護、看護などのいわゆるケアワーク/サービスまでを含むこととする。
(2) 以下、この意味での「身近な他者」を〈あなた〉と表記する。またノディングスからの引用は基本的には訳書と品川(2002、2004a)によったが、一部訳文を変更した。
(3) ここでは触れないが、B「ケア」の対象が、〈あなた〉のみならず別の〈あなた〉でもあるとき、わたしが(優先的に)「ケア」すべきはいずれであるべきか、も重要な問い/論点であることはいうまでもない。これについては別稿を期したい。ちなみにこの点にかんするノディングスの見解は次のようなものである。「ケアされる2人のひとが争っていて、ケアするひとが矛盾した状態にあるとき、そのひとはできることなら両者をともに擁護し、保護するような行動をとらなくてはならない。したがって、そのひとはまず先に脅威を感じているひとへと注意を向けなくてはならない」(Noddings [1984] 2003=1997: 174)。
(4) ここで「される」との挿入句を挟んだのには、むろん理由がある。というのは、以下にみる事態が「問題」となるのは、阿部が思い描く「よいケア」という観点/尺度におけるかぎりで、あるからだ。すなわち、「ケア」とは「相互行為」であるとの、また「利用者にとっての満足とケアワーカーにとっての満足が一致したときに、「よいケア」が成立した」とする視座に立ったとき、それは「問題」として映ぜられるのである(阿部2007: 24-25)。この点は阿部本人によっても自覚されている。「「ケアは相互行為である」という私たちの認識に照らし合わせると、これ〔「ワーカホリック+不安定労働という最悪のカップリング」〕はもちろんケアワーカーたちにとっては不幸なことである」(阿部 2007: 57、強調は原著者、〔 〕による補足は引用者)。
(5) 「2004年度介護労働調査によると、介護職員の月給は、正社員で20万8,000円、非正社員の常勤で16万3,000円である。また、平均勤続年数は3・4年である」(阿部 2007: 26)。
(6) このケアのエンドレス化は、「利用者の多くが、家族から見放された「かわいそうな」存在であること」、「利用者とケアワーカーとの関係が非常に密接であること」と関係している。またそれが最も先鋭化したかたちをとるのは、いわゆる「ターミナルケア」の局面においてである(阿部 2007: 38)。
(7) ユニットケアでは、ひとりのワーカーが複数の利用者を担当しながら個別のニーズに対応するため、いきおい動きが多くなり、身体面での負担が大きくなる。また同じ理由からその心理的負担も非常に大きく、ケアワーカーの「気づき」のレベルが上がれば上がるほど利用者にしてあげたいことも増え、しかし人手が足りないために、身体がついていかないという「非常に危険なワーカホリック」の状態に陥ることになる(阿部 2007: 55-56)。
(8) 正確には、この「わたし」にそのような責務を課すものではない。すなわち、「正義の倫理では、どの人間も「私」にとって等しく尊重すべき存在であるのに対して、ケアの倫理では、どの人間も必ずだれかにケアされるべきことが主張されているのであって、「私」がすべての人間を等しくケアすることは要求されていない」(品川 2002: 13)。
(9) 「わたしの責務は関係によって制限され、範囲が定められる」(Noddings [1984] 2003=1997: 134)。 「わたしがケアする責務を負っている人々を見捨てないかぎり、アフリカの飢えた子どもらへのケアをまっとうすることができないのなら、そのような責務はわたしにはない」(Noddings [1984] 2003=1997:135)。とはいえ、そこにおいて、見知らぬ他者がわたしの「ケア」すべき対象/範囲となりうる可能性が排除されているわけではない(cf. Noddings [1984] 2003=1997: 145-146における母子の会話)。にもかかわらず、「正義の倫理」的な意味での「普遍的なケア」が否定されるのは、「心をこめたケアのできる範囲は現実にはかぎられているという事実上の制約」によっている(品川2004: 56)。
(10) レヴィナスの「顔」概念についてご存じない方のために、以下その概念の要諦について、佐藤によるパラフレーズをまず連ねる。「「顔」とは、眼前の他人を前にしてその他人の尊厳に応えることを求められる当為意識である」(佐藤 2004: 1)。「私は困窮する他者を前にして、彼を助けてやらねばならないという義務感を感じることがある。事象的にはこれがレヴィナスの言う「顔」の体験だと考えてよい。・・・…/「顔」は「裸」だとレヴィナスはいう。眼前の他者は尊厳をもち、私は彼を配慮しなければならない責任を負うが、それは例えばその困窮が私のせいであるとか、彼が私の家族の一員だとかいう、責任を負う特別の理由があるからではない。他者は彼に付帯する何物かによってでなく、そこにいるという事実そのものによって、つまり「裸」のままで尊い。レヴィナスが「顔」が「裸」だと強調するのは、他者の他性を存在の条件一切に基礎をもたないものとして確保するためである」(佐藤 2000: 91)。「レヴィナスは、この「顔」を感情的なものととらえている。…・・・「欲望は……絶対的に他なるものへ向かう」……すなわち他人に向かうものだとされる。彼のいう「欲望」は常識的な欲望概念とは正反対であって、欲望とは「完全に無私の欲望、善さ」だとされる。つまり、欲望は他人へと向かうが、その他人の本質は尊厳をもつものだとレヴィナスは考えるから、他人へ向かう欲望は他人の尊厳を認め、それにふさわしい対応をとるよう私を駆り立てるものなのである」(佐藤 2004: 2)。「レヴィナスによれば顔は私の他者への責任を告げるが、私の他者への権利を認めてはいない。つまり顔は他者の方がより尊いという、自他の非対称性を告げている/なお、レヴィナスによれば、私は他者に「無限の責任」を負う。他者と同等な責任を履行してもそれでは許されない。いくら責任を果たしても十分ということはなく、果ては身代わりという無限大の責任まで迫られる」(佐藤 2000: 92)。そのうえで佐藤は、「ケアの倫理」における「対面の場で感じられ他者への義務感」を「事柄としては「顔」の要求と同じもの」であるとみている(佐藤 2000: 96)。
(11) そしてこれはすでにみたように、「よいケア」を「利用者にとっての満足とケアワーカーにとっての満足が一致した」(阿部2007: 24-25)ときに成立するとみなす阿部によっても共有される観点/主張である。
(12) 品川が指摘するように、この「自然な傾向性にもとづく行為と義務にもとづく行為との区別はカントを想起させる」が、「カントが動機から自然な傾向性を排してひとえに義務にもとづく行為を尊重するのにたいして、ノディングスは、自然なケアリングと倫理的ケアリングのあいだに倫理的な価値の違いを認めない・・・・・・〔また〕ケアしたくないという欲求を克服するのは自分がケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求である。カントと異なり、理性の命令ではない」(品川 2004: 49-50、〔 〕による補足は引用者)。
(13) 品川もまたノディングスにおける「ケアの限界」について考察しているが、そこから導かれる結論はわれわれと同様のものとなるといえるだろう。「ノディングスもまたケアの限界を設定する。倫理的自己を維持する可能性がそれである。「ケアするひとは、他者が故意に自分の身体的自己や倫理的自己にたいする明確な脅威とならないかぎり、ケアするひととして他者に接しなくてはならない」(Noddings [1984] 2003=1997: 179)。倫理的自己にたいする脅威とは、ケアする意欲をすっかり失うほどの打撃、疲労を意味していよう。裏返していえば、ノディングスはケアするひとの有限性を強調しているわけである。だから、ケアするはずの者が絶望的な状況でケアされるべき対象を殺してしまったとしても、「殺すなかれ」という原理のもとに裁断することはできないとされる(Noddings [1984] 2003=1997: 167)。/だとすれば、ケアの限界は各人のケアする能力、おかれた状況に左右されることになるだろう。実際、ノディングスはそう述べている。「ケアするひとの内的な対話のうちに真偽や正邪に関する最終決定の場がある」(Noddings [1984] 2003=1997: 169)。ただし、すぐにこう付け加える。「だから、自己欺瞞は倫理的理想を破壊する潜在力をもっている」。したがって、ケアするひとが自身のケアの限界を設定するとしても、その設定が恣意的であってよいわけではない。それが自己欺瞞に陥っていない保証は、ひとえに、内的な対話の相手である倫理的自己が内なる他者としての他者性を確保しているかどうかにかかっている。そして、それは・・・・・・、他者を受容すべく自分自身を変容していくことと関連している」(品川 2004: 57-58)。
(14) あるいは、わたしを「ケア」する〈あなた〉が他にいればよい。じっさいこの「現実」においても、ベテランワーカーが「ワーカホリック」に罹ったケアワーカーらの冷却装置の機能を担っているとされる。だが「不幸なことに、熱くなっている職場においては、こうした〔「肩の力の抜けている」あるいは「バランス感覚のある」〕ベテランワーカーは、排除されがち」なのが実情だという(阿部 2007: 43-44)。

[文献]
阿部真大,2007,『働きすぎる若者たち―「自分探し」の果てに』NHK出版(生活人新書).
Gilligan, Carol, [1982] 1993, In a Different Voice: Psychological Theory and Women's Development, Harvard University Press.
Noddings, Nel, [1984] 2003, Caring: A Feminist Approach To Ethics & Moral Education, 2nd Edition, University of California Press. (=[1997] 2002,立山善康ほか訳『ケアリング―倫理と道徳の教育―女性の観点から』(改訂新訳)晃洋書房.)
佐藤義之,2000,「レヴィナスと責任の限界」『倫理学年報』30: 91-97.
――――,2004,『物語とレヴィナスの「顔」―「顔」からの倫理に向けて』晃洋書房.
品川哲彦,2002,「〈ケアの倫理考(一)〉」『関西大学文学論集』51-3:1-24.
――――,2004,「〈ケアの倫理考(二)〉―ノディングスの倫理的自己の観念」『関西大学文学論集』53-4:39-62.



UP:20071115
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