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「障害学研究会関東部会第56回研究会」

2007/07/28 於:東京都障害者福祉会館

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last update: 20141224


みなさま
 記録:山下幸子
障害学研究会関東部会第56回研究会
2007年7月28日(土)13時30分〜16時30分 於:東京都障害者福祉会館
報告者:星加良司さん(東京大学)
報告タイトル:「障害とは何か−ディスアビリティの社会理論に向けて」
参考図書:星加良司 2007『障害とは何か−ディスアビリティの社会理論に向けて』 生活書院
指定発言者:福島智さん(東京大学)
司会:つるたまさひでさん
記録:山下幸子

■星加良司さん報告

 今日の報告は、2007年2月に出版した本に書いた内容についてです。
 どういう話を書いたかについては読んでいただいていると思うので、重複してしまうかもしれませんが、ごく簡単におさらいします。章ごとの内容を簡単に説明します。序章では、この本のテーマである障害とは何か、ディスアビリティとは何かというテーマをなぜ取り上げる必要があるのかについて書いてあります。
 第1章では、現在までの障害理論、ディスアビリティ理論の系譜や歴史、現状の到達点をごく簡単に整理してあります。それが1章第1節。2節では、そうしたディスアビリティ理論によって、現実に障害をめぐって起きている問題を、どの程度うまく把握できるかについて、いくつかのトピックを取り上げながら、分析しています。どの程度、現状のディスアビリティ理論が使えるものになっているかを検証しています。
 第2章からは、ディスアビリティ理論の中身に入ります。障害学では社会モデルという障害理解のパラダイムが一般的になってきています。そのモデルの理論的構造と、その限界について述べ、ディスアビリティの現象、あるいは問題を構成している大きな要素である不利益をどのようにとらえれば有効か、障害問題を考えていく上で有益なのかについて議論しています。
 続く第3章では、2章で概念化した不利益について考察を進めています。不利益の中でも、どういう不利益を解消すべきものとして特定しなければいけないか、すべきかについて、これまで先行研究で言われたことに触れながら、立岩真也さんの議論を中心的に取り上げてレビューし、分析した上で、それらとは違う形の規範的主張を提示することをやっています。
 第4章。ディスアビリティ理論あるいは障害学の中での1つの焦点になっていますが、ディスアビリティとインペアメントについてです。この言葉については、後でも触れますが、社会的な活動を行う際の不利益に関わるディスアビリティに対し、個人の身体や知的能力に付属させられるようなインペアメントが、ディスアビリティとどういう関連の仕方をしているかについて、ここでは非制度的位相という切り口を示しながら、考察していきます。
 第5章。4章までの議論を通じて本書で提示しようとしたディスアビリティ理論の全体像は議論したことになりますが、ここで提示した理論、あるいは理論的な道具立が、実際の障害やディスアビリティを解消していく実践に対して、何らかの有効性を持っているかどうかについて考えています。
 最後、終章はまとめと課題。
 以上が、本書全体の流れです。
 このうち、今日のレジメで触れているのは、主に第1〜3章にかけての内容が中心です。特に第5章は触れていませんし、第4章についてもかなり部分的なことにしか触れていません。それについても、質問があれば、後でいただきたいと思っています。
 では本題です。
 本書の中身は、先ほど説明しましたが、なぜこういうものを書こうと思ったかという動機をお話します。本で言うと、「はしがき」に書いている内容です。
 障害をめぐってここのところ語られれている様々な言説の中に、私の中では違和感を感じる言い回しやフレーズがありました。違和感の原因となる考え方は2つあります。いずれも、昔からあることはあったものです。
 1つは、障害の問題を個人化する言説です。要するに、障害の問題を社会的に支えていくことは、やぶさかではないけれども、障害者のほうはちゃんと頑張っているのか。障害者は、自分の責任で、自分の力でできることはきちんとやるべきで、それができていないことについては、他の人たちと同様、ある程度、自分の責任において引き受けるべきだ、という話。これが特に、昨今の、少子高齢化に伴う財政的な切り詰めを背景にしながら、よく耳にするようになってきたと思っています。この部分への違和感が1つ。
 もう1つは、むしろ障害問題に理解があるという顔をしている、ふりをしている人たちの中でよく使われるフレーズです。障害問題とはある意味では、障害者も非障害者もみんなある種の障害を持っていて、不便なこと、できないことがあるから、障害の問題を特別視するのではなく、みんなが暮らしやすい社会を一緒に作っていきましょう、というような種類の言葉。これは、悪いことばかりではないでしょうが、そんなに簡単に一般化、普遍化していいものかどうか。あるいは、一般化できる根拠や理屈があって言っているのかということについて違和感を覚えています。
 特に後者の言い方は、もちろん、そういった形で障害問題に取り組む機運が社会全体に波及していけば悪いことではないでしょうが、下手をすると、この言い方は、みんなの利益になる範囲でしか、障害者の不利益の解消を認めないという結果を生む言説にもなります。障害者の利益とみんなの利益をつなげる言い回しなので、逆に言うと、障害者の利益はみんなにとっても利益になるという話になる。そうであれば、自分たちにも利益になるので障害問題にも取り組もうかということになるのだけれど、その場合は、そのように言える問題だけに限定して障害問題を扱ったほうが、多くの人には有利である。そういった本音にうまくからめとられる危険性があると思います。
 そういう背景、違和感に基づいて、ではやはり障害やディスアビリティの問題を、きちんとした形で社会的文脈にのせること、障害問題とそれ以外の問題との差異がどこにあるか、障害問題の特徴について、きちんと表現できるような社会理論が必要ではないか。もちろん、障害学がこれまで議論してきた社会モデルという考え方にせよ、あるいはディスアビリティについての様々な理論にせよ、そうした目的をもってやられてきたわけだし、そこから学ぶこともたくさんある。私自身としては、既存の障害学の理論だけでは、さきほどあげた、障害の問題を個人化し、一般化するような言説に、うまく答えられるものになっていないという感覚があり、そうであるなら、そういう違和感にも応えられる社会理論をうまく作る第1歩を踏み出すべきではないかと思って、かなり大それたタイトルをつけていますが、こういう本を書きました。
 では、そこで必要とされるディスアビリティ理論、障害についての社会理論がどういうものであるべきか。ディスアビリティに求められる性能、4つの条件をあげています。これについても、あなたの書いたものは、この4つを満たしているかといわれると心許ない。ただ、こうした性能が求められることを意識しながら、自分自身のある種の目標設定、自分の理論構築を評価する基準として、この4つをたてたというのが正直なところです。
 その4つの中身です。
 1つめは、他の問題との弁別基準をもっているか。社会問題、不利益、困難は、世の中にたくさんあります。そのなかでディスアビリティの問題がどういう特徴を持ち、他のものとどう区別されるか。その基準が必要だろう、というのが第1点。
 2つめは、内部の質的な多様性を適切に表現すること。ディスアビリティといっても、その中に、非常に多様な現象が含まれています。それはいわゆる障害種別、程度に関連しながら、それだけではなく、その人がおかれている社会的、経済的、文化的背景でも変わるし、1人の個人の中でも、今日と明日では違ってくるかもしれない。そういう質的多様性が表現できる概念把握が必要です。
 3つめは、解消可能性に開かれているかということ。このあたりは、人によってはこういう基準は必要ないといわれるかもしれないが、私自身の動機、意図としては、こうした観点からディスアビリティの問題を概念化するのが理論家、研究者の仕事だと思います。特に障害学の理論研究とは、単に美しい理論化ではなく、それが実際のディスアビリティの問題を解消するための道具、力になるものであることが期待されるだろうと思うし、そういう実践的な目的を踏まえた上で、理論化する必要があると思っています。その意味では、ディスアビリティを概念化する際に、少なくとも論理的に解消、解決の道筋が見えるものとして、概念化することが必要だと考えています。
 4つめは、解消要求が社会規範との関連で妥当性を持つかどうか。少なくとも論理的レベルで何かの主張や要求をすること自体、あるいはその主張に根拠を与えること自体は、いろんなやり方があるが、論理的レベルでできることではあると思う。障害の問題に対しても様々にこれまで根拠づけはなされてきたと思います。ただ、実際にディスアビリティの解消に、それがつながるかという局面を考えたとき、それがある程度多くの人が持つ規範的感覚とうまく結びつく必要がある。そうした多くの人々が持つ、規範的感覚で妥当と思える解消の主張に結びつくような理論化の必要があると思います。
 こうした性能を基準としながら「障害とは何か」という問いへの答えを見つけていこうというのが、本書の全体を流れている目的です。
○社会モデルの意義と限界
 この辺りについて、ここにお集まりの多くの皆さんは既にご存じのことかもしれませんので、詳しくは触れません。
 ここでは従来の社会モデル、あるいは障害学の中で展開されてきた障害についての理解や定義が、どういう意義と限界を持っていたかについてまとめてあります。
 まず、「社会モデル」というパラダイムがどういうものであったのかについて触れてあります。
 最初に、2つの英文を書いてあります。
a)They are disable.
b)They are disabled.
 最後に「d」が付いています。ちなみに、これについては長瀬修さんにご指摘をいただきました。a)の文は、こういう形でdisableという形容詞を使うことは、あまりない用法ではないかとご指摘をいただいています。それはその通りだと思います。厳密な意味ではこういう表現は、よくないだろうと思っています。ここで表現している意図は、障害者の性質をあらわす、あるいは誰かを障害者として特定する表現をするときに、その人が持っている性質が障害者という特性を備えていると表現するのか、その人が置かれている状態が「障害者」にされてしまう状態であるという表現にするのかによって、その後の問いの展開がずいぶん違ってくるということです。まさに、障害学の社会モデルが転換しようとした認識のあり方とは、そうしたことであったのだろうということを説明するために、このように書いています。
 b)のThey are disabled.は、よく使われる表現です。こういう形で障害あるいは障害者の問題をテーマ化していくと、当然ながら、disabledという言葉は他動詞disableの受動態です。他動詞disableは、無力にする、無力化するという意味ですから、彼らは無力化されている、という意味合いになります。「無力化されている」ということは、誰かがあるいは何かが無力化しているわけで、この文には現れていない背後にある何かとは何なのかという問いが立ちます。これで、disablement、つまり無力化のメカニズムの探求と、その解体を目指す取組みの必要性が主張されるという流れにつながっていきます。disableしている、つまり無力化している犯人の正体は何かというところに問いの焦点を移した、移行させたのが、社会モデルの第1段階の貢献だったと思っています。
 ただ、実はこれだけでは社会モデルにはなっていません。なぜかというと、無力化の原因となっているものについていろいろな考え方があるからです。
 従来型の伝統的な障害理解に基づいて言うと、確かに、何かによって無力化されていることまでは認めたとしても、その無力化の要因となっているのは、インペアメントであるという答えがすぐにかえってきます。ここで言うインペアメントは機能的な障害です。身体的、知的、認知的、あるいは精神的な機能に関わる障害で、私の場合は全盲ですので、視覚障害を持っている、あるいは視力がゼロであるということが、インペアメントとして特定されるわけです。その個人が持っている、ある種の特性、特質によって、彼らは無力化されているのだ、という言い方が従来型の障害理解のパラダイムです。こういう見方を、障害学ではディスアビリティの個人モデル、医療モデル、医学モデルなどという表現をして名づけています。
 これに対して、社会モデルの有名なフレーズをそこに挙げておきました。
'people with impairment are disabled by society, not by their bodies'
 障害者、インペアメントを持っている人々を無力化しているのは社会であって、彼らの身体ではないというフレーズです。これはイギリスの障害者運動などでよく用いられるフレーズです。無力化の原因は個人の身体に帰属するものではなく、個人とは関係のない個人の外部にある社会なのだという言い方をするのが、ディスアビリティの社会モデルと呼ばれている考え方の骨子の部分です。
 こうしたモデルを立てることで、例えば障害者運動を展開していくときの政治的なターゲットとして、社会を措定した運動を展開していく戦略に収斂していったという経緯もありますし、それが実際の社会、あるいは制度を変えていく上で、有効な道具になった側面もあります。
 ですが少なくとも、認識論あるいは理論研究のレベルで考えたとき、こうした障害についての理解の仕方は、必ずしも適切ではない、上手くいかない部分が出てきます。
 それを2.2社会モデルの錯誤と限界、に書いています。これについても先ほど確認した社会モデルの考え方が、どう適切でないのかについて詳しく話していると、時間がかかるので、ポイントだけ話します。
 1つは、先ほどの考え方、つまり個人に帰属する身体と、その外部にある社会を分けて、原因は社会にあるという言い方をする場合には、当然、個人や身体と、外にある社会をきちんと区別しないと、どちらに原因があるかは言えない。ところが、個人と社会に線を引くことは非常に大変なことです。個人の、たとえば性格、考え方、もっている能力も実は社会的な影響を受けて作られているという側面がありますし、社会は人が集まって作られているので、個人、人と完全に切り離された「社会」を考えることは、実は非常に難しい。仮に個人と社会の間にうまく線引きができても、原因はどちらにあるかを考えるとき、障害問題だけではなく、他のどんな例でもかまいませんが、何かの現象の原因を1つに特定するのはほとんどあり得ない。1つの現象が生まれるにも、様々な因果的な説明の仕方があるし、現象を引き起こす原因も様々なものがあり、それらの相互作用によって、生まれてくるのが普通です。多くのディスアビリティの現象においても、様々な要因が関連し合っているのが現実です。その場合、個人と社会を一端わけて、社会にだけ要因があるというのは、実は正確ではな・u桙「。理論的にはそのようにいえるケースは非常に限られます。ここまでが、認識論的な話です。それだけではなく、実際にそういう障害理解に基づいて政治的主張を展開する場合の副作用、副次的な否定的効果もあります。
次に実践的効果に入ります。障害者が経験する不利益は、確かに社会によって作られたものだと言えたとしましょう。ただし、そうだとすると、障害者以外が経験する不利益も、社会によって作られたと簡単に言えてしまうという問題があります。
 レジュメに例を2つあげています。
 視覚障害者にとって、様々なバリアが取り除かれ、社会参加が出来るようになったということは、当然それまでの社会のあり方が視覚障害者にとっての不利益を作っていたのに対し、そのような社会を変えることで不利益を解消する営みとして理解出来る。そこで視覚障害者が社会参加でき、働けるようになったとします。視覚障害者が1人就職できたということは、それだけ就職口が少なくなってきているということ。頭数は決まっていますから、競争相手にとっては、じゃまなことかもしれない。つまり、以前のように、視覚障害者にとってのバリアがあって、その人が競争相手にならなければ、自分がその職につけたかもしれないのに、バリアが取り除かれてしまったゆえに、自分の職がなくなってしまったかもしれない。こうした状況を、職を失った側から見れば、社会によってつくられた不利益ということができます。バリアを残す社会ならうまれなかったものを、バリアを取り除いたために不利益がうまれたのですから、社会によって作られたものだ、と言えてしまう。もう一つの例は、税金の話をあげています。これも、税金を1円でも払うのは不利益、不当だという人もいます・u栫B税金によって、所得の移転を受けなくても暮らしていけるような金持ちにとっては、税金は、ただ強制的にとられるだけのものかもしれない。そうだとすると、それを不利益だと言えてしまう。他方で、税金を集めて、それを財源として様々なサービスや分配が行われる。そのサービスや分配を受ける側にとっては税金をなくしてもらっては、逆に不利益がうまれることになります。
 社会によって作られる不利益を広い意味でとらえると、誰でもそう言えてしまって、結局は、障害者が自分たちの不利益を解消してくれと言えば言うほど、ではこっちの不利益もなんとかしろ、という対立の構造に巻き込まれてしまう。それもうまくフェアな対決ができればいいが、実際多くは、多数派の声が強い訳です。するとあまり勝ち目がないという話になります。そういう状況に巻き込まれてしまうような社会モデルではやはり、まずいだろうということです。
○ディスアビリティ概念の再編
 ここで書いてある内容は、ディスアビリティをどう捉えるかということです。
 これまで、ディスアビリティは社会によって作られている不利益だと言われてきました。ここで新しく提示したのは、ディスアビリティは不利益が特有な形式で個人に集中的に経験される現象である、ということです。ここでポイントになっているのは、不利益が「集中する」ということと、その集中が「特有な形式で行われる」ということです。
 前者の「不利益の集中」については、これまでは不利益があることがディスアビリティだと言われていたのに対して、そうではなく、不利益が集中しているという現象をディスアビリティと特定しましょう、という話です。このことによって、他の人が経験している様々な不利益と障害者が経験している不利益を区別することができるのではないかというのが、ひとつのポイントです。
 そして「特有な形式」ということについては、不利益の複合化、複層化という言葉で表現しています。
 「不利益の複合化」と呼ぶ集中の仕方は、さまざまな機能的な特質を含めた、その人個人に属するような条件があるわけですが、そういう条件の多くについて、今私たちが生きているこの社会の中で不利になってしまう、という状態です。障害あるいはディスアビリティについて考えると何かができないことを、ディスアビリティと呼ぶ、あるいは不利益と呼ぶと考えられるかと思いますが、実は、あらゆることについて、できるかできないかが問われるのではなく、世の中でできた方がいいことと、できなくても問題にならないことは、社会のあり方によって決まっています。立岩さんの本では、「手足が動かないと困るけど、耳が動かなくても困らない」とありますが、様々なレベルで何でもできたほうがいいわけではなくて、できた方がいいことと、そうでもないことが、ある程度決められています。
 できた方がいいことを、本書では、「社会的に価値のあること」と呼んでいます。それが、社会の中には幾つも用意されています。社会的に価値があることの全体のリスト、そこでリスト化されている様々な社会的価値に対して不利な条件を背負ってしまっている人が障害者なのだ、だからこそ、さまざまな領域で不利益を被ってしまう。そういう構造の中にあるということを表現しているのが、複合化という話です。
 もう1つの「複層化」は、先ほどの話とは少し違っています。一旦、1つの不利益を被ってしまうと、あとは自動的に連動して、あるいは芋づる式に、他のいろいろな領域についても不利益が重なってくるという現象です。
 わかりやすい話で言うと、例えば学歴というものと、その後の雇用は、今でもつながりをある程度持っています。どういう学歴を持っているかによって、会社が雇ってくれたりくれなかったりします。だとすると、いったん、教育を受ける機会、つまり学歴を得る機会で不利益を被ってしまうと、その後、就労の場面まで、その不利益を引きずって、全体として不利益が拡張していくという現象が起こってしまいます。こうした不利益の集中の仕方は、先ほどの「複合化」の場合には、障害者個人が持っている条件がさまざまな領域で求められることにうまく対応できていない条件だったということになりますが、こちらの場合には1つの事柄に対して不利な条件を背負ってしまうと、あとは自動的に社会がその不利益を増幅するというメカニズムがあるということです。
 こういう形で、不利益が集中する構造があります。主にこの2種類の形で不利益が集中していくメカニズムを理解できるのではないかと思います。
 特に、「複層化」を生じさせる社会的メカニズムこそが、ディスアビリティの社会モデルという言葉で表現されてきた社会的な障害の構築、社会的に作られる障害をまさに鮮明に表している局面だろうと思っています。従来、社会モデルという考え方で表現されていたように、単に個人の身体の外部にある社会によって様々な不利益が作られるというだけではなく、いったん生まれてしまった不利益をどんどん拡張していく仕組みが社会にあって、そのような形で不利益が次々に生み出されていってしまうことについて、社会モデルの概念あるいは理論が、きちんと捉えていくことが必要だと考えています。
 そして、「不利益」ということについて。
 これについては、ややテクニカルな話、理論的に細かい話なので、ご関心があれば第2章第2節をご覧いただきたいと思います。
 ここで不利益の定義を、不利益とはある基準点に照らして主観的・社会的に否定的評価が与えられるような特定の社会的状態、と書いています。 ポイントは、ある状態が不利益になるためには、それを評価する基準点があり、その基準点は社会の中で作られるという点。もう1点は、特定の社会的状態について様々な要因が関連しているということです。社会的状態とは、本を見ていただくと、社会的価値の達成度とそのために払われているコストによって表現されるとあります。特に重要なのは、最初の「社会的価値の達成度」、社会的に価値のあることがどの程度達成されているかが問題になります。あらゆることの達成度ではなく、社会的に価値が与えられていることだけが重要です。不利益として特定される状態は、社会的に規定された、あるいは社会の中で焦点化された事柄についてだけ問題になるのだということがポイントです。
 そうした社会的状態に対する、ある基準点に照らした評価が問題になるわけですが、その際、様々な要因で、個人がどれだけその状態に対して働きかけられるか。そうした状態を動かすための社会資源をどの程度利用出来るのかということに影響をうけて、社会的状態とその評価の基準点が変わります。そのダイナミズムを視野におさめることが必要だと書いています。
 最後に、社会モデルの新しい形について。
 3点にわけてありますが、すでに2つはお話ししてあります。
 レジュメ「4.1、社会のなかで争われるディスアビリティ」に書いてあるのは、まさに、不利益を解消しようという主張は、様々な人によって主張されてしまう。その中でどういうふうに障害者の経験している不利益を特徴ある物として、解消が必要なものとして提示出来るかが、非常に重要な点になっているということです。きちんとディスアビリティ理論が、内部において妥当な要求になるような理論化を組み込んでおくことが求められます。
 2点目は、複層化でお話ししたことです。単に不利益が社会との関係で生まれるのではなく、社会で増幅し、集中するメカニズムについて、きちんと扱えるモデルになるべき、というものです。
 3点目は、本の4、5章で触れている部分です。ディスアビリティとインペアメントの関係について考える場合、インペアメントが社会的文脈を通して、ディスアビリティと関連づけられているのだということを、表さなければならない。例えば、障害者が町に出て買い物をするケースを考えたとき、その障害者に対して否定的なまなざしを向けたり、あるいはもっと否定的な言葉を投げつけたり、本当は手助けが必要なのに見て見ぬふりをしたり、あるいはじゃまそうな顔をしたりというリアクションが人々から向けられたとすると、元々は社会的な活動に積極的に参加しようと出ていった障害者にとっても、そうした否定的なリアクションを受けるのは、必ずしも気持ちの良いものではない。そういう思いをするのならば、街にでるのはやめよう、という選択をするかもしれない。このように障害、インペアメントに対する社会の側の見方、意味づけの仕方が障害者の不利益、ディスアビリティの経験につながる、ということが、様々なケースであり得ます。こうした位相の問題をきちんと議論に組み込めるような理論構築が新しい社会モデルでは求められる、というのが3つ目の主□のポイントです。
 私からは以上です。

■福島智さんからのコメント

 非常に力作だと思います。障害学の理論研究者はたくさんいますが、日本国内においては、これまでは立岩さんが代表的人物でしたが、彼の仕事に匹敵する力作だと思っています。私なりに、星加さんの今回の仕事を一言でまとめれば、ディスアビリティの複合的文脈論モデルを提示したと要約しています。
 あと、コメントとしては、本書第5章第1節で、バリアフリーの話が出てきます。バリアフリーは、利用可能な社会資源への働きかけを目指す理念ですが、障害学は社会的アプローチをするんだという趣旨のことが書いてあります。これは、従来型の狭い、バリアフリーの捉え方で、少なくとも東大先端研のバリアフリー分野は社会的行動や性格自体を問い直す目的、意識性を持っています。
 本書の眼目は、第一に、障害をディスアビリティとして把握したこと。そして、第二にそのディスアビリティを不利益の特有の形式での集中という概念で切り取ったこと。そして、第三にその集中の構造として、複合化と複層化という2つのファクターを抽出して、それを分析の切り口にしたこと。おそらく、この3段階が、この論文の眼目であって、手並みは鮮やかだと思います。
 これからちょっと幾つか質問をさせていただこうかなと思います。大きく分けると、ディスアビリティの定義についてと、もう1つは立岩評価について。大別して2つの質問です。
 1つめ。星加さんはディスアビリティの定義を、特有の形式での不利益の集中として出されています。現在の国際的な状況を見たときに、国際紛争や、内紛、貧困、エイズのような病気などを、複合して、複層して、集中して経験されている人たちが、実際に大勢いらっしゃいます。そういう人たちと、障害者固有のディスアビリティにおける不利益の複合・複層と、どう区別するのか。日本国内で言えば、一見平和に見えますが、子どもに対する虐待や、育児放棄、大人でもいつのまにかホームレス状態になったり、若者がネットカフェ難民と呼ばれる状態になったり、一度、坂を転がり落ちるとどんどん雪だるま式に不利益が増大する。そういう場合があると思う。そういったケースと比べて障害者におけるディスアビリティをどう峻別するのか。第3章の末尾に、不利益の集中や複合化、複層化は、障害者だけの固有のものではないと書いてあります。結局は、障害者の場合に集中する傾向が強いという表現で終わっています。ちょっと、ディスアビリティの定義としては、弱いのではないかと。第4章で、非制度的文脈としてのインペアメントのことがあるので、それでディスアビリテ・u档Bの定義としては十分かもしれませんが、実際に星加さんが定義されているディスアビリティの説明では、インペアメントは表に出てこない定義になっているので、ここを何とかしないと、一般的な問題に解消されてしまわないか、というのが1つめの疑問です。
 次に立岩さんの評価について。大きく2つに分けて質問します。
 1つは、立岩さんの主要な作品の『私的所有論』と『自由の平等』を比較検討しておられます。第3章第2節の「分配の根拠としての私」、のあたり。星加さんの整理では、立岩さんの『私的所有論』の中では利他的分配要求を、『自由の平等』では利己的な欲求を媒介させた分配要求を、分配の根拠として整理されています。これらの2つの作品の中で、他者の扱い方がちょっと違うのではないかと言われています。はたしてそういう整理が適切かどうか。
 まず、利他的と利己的について考えたとき、『私的所有論』で、利己的ロジックの部分があり、例えば、これは他者性を楽しむということ、まさにこれは利己的動機ではないか。利他と利己は表裏なので、2つの立岩さんの本を、利他的と利己的で整理するよりは、あくまで他者性か、「私」を媒介させるかという図式で示したほうがわかりやすいのではないか。質問というか、コメントのようなものです。つまり、利他的と利己的は付随するような位置づけが妥当ではないか。
 『私的所有論』は、他者の異質性を従しているけれども、『自由の平等』は、同質性を強調すると言っていて、それは一部正しいですが、『私的所有論』での異質性は、自己ではないという意味の他者性の重視であって、他者性の間に、いろいろな他者がいるということは、必ずしも言っていない。『私的所有論』では、自己ではない曖昧な存在としての他者性という位置づけになっているので、これは『自由の平等』における区別なき一般的他者と共通する部分があると思います。確かに両者の相違として、自己と他者を区別するかしないかは違いますが、他者性内部の相違がどちらとも言い難いところがあります。この辺りの事実の整理が必要だというのが私の意見です。
 もう一つは、立岩理論の限界が書かれている点について。星加さんは、立岩理論の限界として2つあげています。まず1つ目の限界は、障害者への生産の寄与についてふれていないのではないかという点です。立岩さんは働けなくてもいいとか、ありのままを認めろとか言っているが、障害者の生産寄与については書いておらず、これは現実とずれているという点を指摘しています。その通りかもしれませんが、私の感じでは、それをあえて星加さんが書く必要があるのか。働ける障害者は働けばいいので、もともとインセンティブ到達のために働ける人は、一定の格差をつけた給料をもらうという議論があるのは立岩さんも提示しています。ここには障害者も入っています。障害者だけ、ことさら、この文脈で言う必要があるのか、星加さんの限界説への再反論です。もう一つの限界としてあげているのは、不利益がどう分布しているかが立岩さんの話ではわからないということ。少なくとも問題化していないのではないかということです。これは注で、星加さんも自覚的に書いておられますが、そもそも個人と個人のユーティリティ、他者とある人の効用を比較する発想自体が、効用次w)蜍`、功利主義の罠に陥ってしまうのではないか。立岩さんの限界批判説は、逆に再反論をうけるのではないか。
以上がコメントと質問です。

■コメントへの星加さんからのリプライ

 星加/休憩前にいただいたコメントへのリプライをします。
 不利益の特有な形式での集中が、ディスアビリティの問題に限らず、様々な社会的問題について言えること、あるいは共通な部分があるのではないかとのご指摘でした。それに関してはそのとおりだと思います。少なくとも、私が今回提示したディスアビリティ概念では、そうしたものを含む定義になっていると思います。
 正直に申し上げますと、これもご指摘いただきましたが、その後の章で展開しているインペアメントの経験が、どういうふうにディスアビリティにつながっているのか、関連するかということを、うまく踏み込んだ定義を本来は、ディスアビリティの定義として示す必要があるんだろうとは思っていました。が、実は、そこまできちんと議論が展開できなかったというのが正直なところです。ただ、できなかったという背景には、時間や能力の問題としてできなかったということもありますが、実はインペアメントというものを、それ自体、インペアメントのない身体とある身体を定義的に区別できるような概念装置が組み立てられるのかというところで、引っかかってしまっています。実は、インペアメントを組み込むこと自体が相当理論的には難しいのではないかという見通しがあります。その意味で、もし踏み込むことが可能だとしても、すぐにはできないと思っています。
 とはいえ、そんな中途半端なものを出しているのは、ある意味では、ディスアビリティという現象が様々な社会問題、不利益の集中の問題を含むものだというふうに、当面、解釈されても構わないと思っているところがあります。
 やはりこれまで、障害の問題について語られる際、今でもそうだと思いますが、障害と類似する社会問題は何かという話になったときに必ず出てくるのが高齢者です。高齢者問題がなぜ類似していると言われるかと言うと、機能の部分、つまり身体や、知的な機能の部分が類似しているように見える、という理由だけです。それで、障害の問題と高齢の問題は類似していると言われてしまう現実があります。そうした捉えられ方に対して、いわゆる社会モデル的なものの見方、あるいは社会現象として障害を捉えることのインパクトというか、カウンターとしての意味合いを出すためには、そういう機能に言及せずに、ディスアビリティの問題を特徴づけるということも、少なくとも今の時点ではあっていいのではないかと思っています。
 ですので、実際にはまだ、道半ばだと思いながら、その状態の定義を敢えて出させていただいているというのが、正直なところです。ご指摘自体はそのとおりだと思っています。そういう問題と、どこかで連結することを念頭に置きながら、考えていきたいと思っています。
 次に、立岩さんへの評価に関する部分。
 まず、利他と利己については、おっしゃる通りです。利己性と利他性を、『自由の平等』の議論と、『私的所有論』の議論に対応させるのは、厳密な意味では適切ではないと思っています。そのいいわけも込めてカギ括弧を付けてみたりしています。
 中身としては福島さんのご指摘のとおりで、「利他」といっているほうは、他者のあり方というものに関心を向けた欲求のあり方。「利己」は、私に対して関心を向けた欲求のあり方という意味合いです。中身としてはご指摘の内容のとおりだと思っています。
 他者、他者性についての『私的所有論』と、『自由の平等』における差異についてのご質問について。
 これについては、結論としては両者とも、他者や他者性の内部における多様性に対しては、取り扱っていない概念ではないかというのは、その通りで、そこには異論はありません。それは当然、私が書いている内容からも言えると思っていますが、一方の『私的所有論』の段階での他者は、私ではない、私が制御しないという契機で表現されるものですから、当然相手の中身はよくわからないわけです。ですからその中での多様性を表現できるはずがありません。他者を特徴づける契機自体は、私ではないという消極的なものしかないので、それによって、様々な他者を表現できる枠組みではないというのはそのとおりだと思います。『自由の平等』における他者は、私と同じような性質を持っているだろうと想定する他者ですが、これについても当然のことながら、「私」と同じようなものだというふうに、あらゆる他者について想定するわけですから、その中に質的な多様性は生まれません。
 結論の部分としては、両者とも変わらない、同じように多様性を内部に含まない他者として想定されています。ただ、違いがあると指摘したのは、そういう「他者」というものを、どういう道筋で認識するか。私が他者を認識するときに、どういうものとして認識するかという道筋において2つの他者概念には違いがあるだろう。それは同質性を含むか含まないかというメルクマールで表現できるのではないかということを書いてあります。
 立岩さんの議論の限界、と私が書いた部分についての、ご質問についてです。正直申し上げて、論文の構成上、立岩さんをほめっぱなしでは終われないので、一応、形式として限界を言わないと自分のオリジナルにならないので無理矢理書いた部分もあります。
 最初の、生産への寄与の観点が脱落しているという論点については、障害者もがんばって生産していますよということをアピールせよ、という意味ではありません。いったん、生産圧力から障害者を含むすべての人々を解き放った後に、一定の必要な労働、生産を生み出すために、インセンティブをもたせて、もう一度生産に動機づけることが立岩理論でも必要です。その際に、当然もう一回障害者も生産への動機付けの対象とされるわけです。これをどの程度の強さで動機付けられるかは、以前とは違うかもしれませんが、いずれにせよ、もう一度動機付けされていくわけです。そのときに、どういう形で障害者が生産というものに関わっていくべきなのか。それについて、ある程度きちんとしたことを考えておかないと、本来自由に身体が動かせる人もそうでない人も、同じように生産への圧力の中に取り込まれるのではないか。であるとすれば、障害者にとっての生産がどういうものかについてきちんと考える枠組みを用意する必要がある。
 私の書いたものでいうと、不利益を生み出す要素として、個人的働きかけが一方では重要になっているという組み立てをしています。今日の報告では詳しく触れませんでしたが、2章です。まさに個人的働きかけがどういう社会的な文脈の中でうまれてくるか、また社会的要因の影響を受けているかについてきちんと議論の中に組み込んでテーマ化することで、初めて障害者と生産との関連の仕方、関わり方が議論出来ると思います。その部分が、現状の立岩理論全体の中であまりテーマ化されていないと感じています。ある意味では外在的な批判かもしれません。
 最後に、不利益の分布について。
 私自身は、注でも書いてあるように、効用の総量によって、つまり、個人がどれだけ満足しているかの総量によって、個人間の比較をして、不利益の分布を特定すべきだと主張する気はありません。それは既に功利主義の理論について言われている批判であり、そのポイントは意識しているつもりです。
 ただ、ここで表現していることは、その後の第3節で議論している中身につながっています。個別の不利益を取り上げて、それが正当か不当かの話だけでは限界があって、たとえば一つには、AさんとBさんがいたとして、1度に10個の不利益を受けているAさんにとってそのうちの一つである不利益xが持つ意味と、一つだけしか不利益を受けていないBさんにとってその唯一の不利益xが持つ意味とは同じなのか、という問題があります。確かに不利益xというものの外形自体はどちらも同じだとしても、本当に同じと考えていいか、という話です。それが1点。
 もう一つは、AさんとBさんは1つの不利益だけを抱えているとして、Aさんは今日だけ不利益を経験する、Bさんは一生経験する。そういうケースでも、今日の不利益だけを比べると、同じです。それが正当か不当か。
 そうした問題に対して、十分な答えを出せるかどうか。これら2点の問題について、不利益の全体の分布のあり方を、正当性、不当性の判断の1つの要素として組み込まないと、個別のレベルではそれほど不当ではないかもしれないが、それらがたくさん重なったとき、非常に困難な状況に置かれるという問題を処理できなくなると考えています。
 そうした問題への目配りが立岩理論からは、演繹しづらいと思っています。そこは、もちろん、まったく立岩さんが無視しているわけではないですが、立岩理論の中核をなす考え方を整理したとき、その部分が弱点になる気がするというのが現時点での評価になります。

■フロアからの質疑応答

A/いろいろ興味深いお話、とても勉強になるお話をありがとうございました。
 星加さんは障害の社会モデルについて述べておられますが、「障害」というものは、そもそも何か、ということです。実際、星加さんは、自分の障害は視覚障害であるという言い方をされています。しかし、イギリスのように社会モデルが進んでいるところでは、「自分は盲である」という言い方はしません。主に肢体不自由者が作った社会モデルと比べて温度差を感じています。そこには盲のことが含まれていません。
 そのようなことを、星加さんご自身が感じているのかどうか。
 私はろうなので、言語モデルから出発するわけです。例えば、ろうの障害と言えば、言語が違う、私たちは手話を使っているというモデルから出発しています。社会に入って、初めて誤差が生じていきます。そこで、いろいろと社会と自分が違っていると感じて、ろう者から見た障害のモデルと、社会が思っているろう者に対する障害のモデルを照らし合わせて、いろいろな問題を考えています。
 星加さんの場合は、視覚障害者の立場でそこから社会を見たときに、スムーズに照らし合わせができたのか。また、いろいろな差を感じて、照らし合わせができなかったかどうか、そのあたりはどうお考えですか。
福島/よくわからないところがあったのですが、何と何の温度差とおっしゃったのですか。
A/障害と言えば、その障害によって温度差が異なりますよね。視覚障害、身体障害の立場、聞こえないという立場、いろいろ温度差が違うと思います。一般の、障害のない方から見られる視点も違ってくると思います。例えば、歩行に困難な人が作ったモデルがありますが、車いすなどを使っている人のモデルですよね。ところが、視覚障害者がそのモデルをみたときに、自分とは違ってるのではないかと思う点もあると思います。
そのあたりの違いは?
星加/ありがとうございます。
 たぶん、きちんとお答えしようとすると、非常に長くなると思います。ポイントだけお話します。
 イギリス型の社会モデルがフィジカルな障害、インペアメントを念頭に置いて、それをベースに、そこから見えてくる社会と個人とのインターフェイスを問題化している議論だということは、当然、理解できます。そのことと、特に視覚障害であれば、広い意味での情報をめぐる社会とのインタフェースが、主な問題になりますから、その辺の力点の置きかたについては、もちろん違いはあると思っています。
 が、理論モデルとしての社会モデルに対して、それほど大きな違和感があるかというと、私自身はそうでもないというのが実感です。
 むしろ障害種別よりも社会学をやっている人間と心理学をやっている人間と、経済学をやっている人間と、というようなタイポロジーのほうが人間の差を感じます。そういう意味では、障害種別をそれほど強く意識していたわけではありません。
 ただやはり、今、イギリス型の社会モデルについては、賛否がいろいろあるというか、批判も盛んになってきているようです。その論点の一つとして、今のイギリスの社会モデルをベースにした障害者運動が、障害種別、つまりインペアメントの種類による問題の違いや、あるいは、同様に社会的に作られるディスアビリティであっても、インペアメントのあり方によって性質が異なってくるというような観点を持っていないということがあります。これはある程度、的を射た批判なんだろうと思っています。
 現時点で、インペアメントの種類とディスアビリティのあり方をどう関連づけるか、少なくとも理論的にどう関連づけるかは、私自身は答えが出せていない状態です。理論的には何も言えません。リアリティとしては、インペアメントの種類や程度というものと、ディスアビリティの経験のされ方の間に、何らかの関連はあると思っています。それをうまく理論化できる言葉は必要だと思っています。そうした今までの一枚岩的な社会モデルのあり方には、他の障害種別について、あまり自覚的でなかったイギリスの理論家たちの影響がある可能性はあると思っています。
B/自分で判断出来る人を、構想の基本単位としていることで、重度の知的と重度精神障害者が排除されているということがあります。星加さんは、それは除くということだったので、私としては「ブルータス、お前もか」という気持ちです。
 社会学というのは、現実の社会から始まっている学問です。障害者は知的と精神障害者はどこの社会にもいます。その人たちは現実にいるのですから、最初から排除するのは、それはないだろう、ということがあります。障害学をして、なおさら社会学をなさっているのであれば、ぜひ、構想の範囲の中に、難しいとは思いますが、何々については、知的と精神障害者に対しては、というように付記でもいいので、将来的には考えてほしいと思います。
星加/まさにその部分は、最後までかなり迷った部分でした。
 ご指摘いただいた、序章の注だったと思いますが、今回の理論の射程について言及してあります。そこに書いてあることは、かなり回りくどい言い方ですが、正直に書いたつもりです。
 元々は、ディスアビリティとインペアメントというイギリス障害学で用いられる概念枠組みを適切な形で再定式化することで、包括的な理論構築が出来ると思っていました。それは、確たる見通しがあったわけではなく、何となく思っていました。
 丁寧に概念構成について考えていく中で、知的障害や精神障害、発達障害を含む認知の障害について、ディスアビリティ、インペアメントという概念装置が本当に有効かどうかについて、かなり疑問を覚えるようになりました。実際に英語圏の障害学などは、この概念装置を使って、これまで扱われていない知的障害や認知障害を取り込んでいこうと、そういう領域の研究をやろうという流れが強まっていて、そういう研究対象の論文も増えています。けれど、あまりうまくいっているようには思えません。そうであれば、今回、自分自身の問題設定もありましたし、あるいは力量の問題もあり、ディスアビリティという概念装置でどこまでのことが言えるか、ということに注力することにしました。
 他の障害種別、そこでの問題を概念化して、焦点をあてるためには、別の概念装置を考える必要があるのかもしれないと考えています。現時点で、ディスアビリティ概念の枠組みを適用してむりやり説明しようとするよりは、抑制的に、今回はそこまではやれる力がないので、対象を限定した話、というふうにしたほうが誠実であるのかな、と思ってそうしました。今後、私がどこまで出来るかは未知数ですが、何らかの形でそれぞれの障害に対応して、うまく、そこで起こっている問題をすくい上げられるような社会理論を作っていく、基本的な概念装置も含めてつくっていくことが求められると思います。
福島/星加さんがどういう意図でそういう表現をなさったかわかりませんが、障害学という文脈全般で捉えたとき、知的障害や精神障害の問題は、まさにその生産能力や税の分配をめぐる議論では中核的な位置を占めます。障害種別がどうこうというより、財の分配の問題を検討するときには、原理的にどんな障害の人も網羅されるもので、特定的に知的障害、精神障害を排除する議論が障害学の中で主流でないと申し上げておきます。
C/今日、研究会に行こうと思った最大の理由は、障害の利益はみんなの利益といった言われ方への疑問といったことがすごく気になったからです。
 今、私は障害と開発の中で、仕事は主に途上国支援の中でバリアフリー、ユニバーサルデザインの考えを採り入れた支援を考え、やっていこうとしています。ただ、その中で、ユニバーサルデザインというものを全面に出すとみんなの利益になります、障害者だけではなく、高齢者も子連れの女性も入ります、荷物を持った人も、けがをした人も入りますとすると、非常に説得力は増します。ただ、今度は逆に、障害者というもののインパクト、意識が逆に低くなってしまうことも、実際に仕事の上でも起きていると感じています。そのとき、まさにここに書かれているようなみんなのためになると言いつつも、実は、当初、考えられていたような障害者の利益には必ずしもつながらないという可能性も出てくるのかなと感じています。
 それを考えていったとき、手段として、みんなのためになるということを、使っていくのはいいけれども、その中で、障害者のためになるという特色を出していくのかが、自分の大きな課題です。
 それを実際にどうやってやっていくか、福島さんの質問と似たようなことになるかもしれませんが、他のいろいろな社会的弱者にとってどういう特色、分別、分けて考えられるか、どういった特色を出していくことができるかは、今後考える上では、非常に大きな問題なのかなと自分の中では思っています。
 今の日本社会で、例えばバリアフリー、ユニバーサルデザインの考えがこれだけ浸透してきたのは、日本の高齢化社会問題が大きく結びついていると思いますし、そのことは土木学会や福祉のまちづくりをしている方々もおっしゃっていることと、私は認識しています。そう考えると、障害のイシューが大事だと、正当化していくことで、星加さんが述べる“妥当性の要求”、どういう規範を社会的に作っていくか。やっていくんだといった規範を作っていくためには、「みんなのためになる」ということで規範を作っていくと同時に、その中で障害者の特色はこれなんだとしっかり出していかなければならないと思っています。
 今のところ、福島さんへのお答えは今後の課題ですとおっしゃられましたが、可能であれば、現段階で何を考えうるのか、ブレーンストーミング的でいいので、教えていただければと思います。
星加/ありがとうございます。
 まず、私自身が目的で書いた中身について若干、補足説明します。
 みんなの利益になるという主張をする際にも、おそらく、大きく分ければ2つのパターンがあると思います。障害者の利益と他のマイノリティや社会的弱者の問題との連続性や共通性を語るという意味で、要するに、障害者だけではなく、「様々な社会的なマイノリティのみんな」の利益になる、という語り方が1つ。もう1つは、障害者にとっての利益は、実は健常者にとっても利益になる。多数を占めている、今、障害者と比べれば利益を既に享受しているであろう人にとっても、さらに利益につながるという意味で、社会全体にとっての利益という意味で、「みんなの利益」という場合の、大きくわけて2種類あると思います。
 そのうち、私がとりわけ違和感を持ち、抵抗したいと考えているのは後者のほうです。
 社会全体にとって社会成員すべてにとって利益になるというレトリックを使うことは、かなり危険性の高いことだと思います。また、そういう語り方に対しては、現在、既に利益を享受している人にとってのさらなる利益という話と、現時点では利益を享受できていない人にとって、今、享受できていない利益を獲得しようとする要求とは、質的に区別して、障害者側の利益の主張を正当化するような批判を立てなくてはいけないと考えています。これが、ここでの初発の問題意識についての補足です。
 ただ、前者である、他のマイノリティみんなの利益になるという点についても、おっしゃるとおり、そのことにより障害問題が持っている特徴や、場合によっては深刻さなどが看過されるという可能性があります。その部分については、実際の運動論や、あるいは、政治的主張の際の強みになるかどうかは、まだわからないわけですが、それとは別に理論的にはどういうふうにディスアビリティの問題を特徴づけられるかについて、先ほど福島さんにお答えしたとおり、これから考えていきたいと思っています。
 ただそのときに、少なくとも私の立場としては、理論化の結果、問題が他のマイノリティにとっての問題よりも深刻ではないかもしれないという可能性も、常に意識はしながら理論化していこうとは思っています。必ずしも障害者の問題が、最も深刻な問題だという見通しを持っているわけではありません。その意味では、他のマイノリティの問題が不利益の集中という観点からすると、障害者問題よりも優先して取り扱うべき問題ということに、結果的にはなっていくかもしれないと思っています。これは、社会ごとにどういう問題がクリティカルかは、違ってくると思います。一概には言えません。ある社会の中で、最も不利益が集中する対象に対して優先的に取り組みを進めていくための理論構築が必要だと考えているのが現時点で、お答えできる範囲です。
D/非常に力作の本、興味深いお話ありがとうございました。
 先ほどの質問にもあったように、知的障害に関することを。最初に確かにそう星加さんは書かれていて、私も気になりました。
 私は、この不利益の集中を星加さんは「芋づる式」といい、私は雪だるま式と言っています。なにか出来ないことがあると、次次に、という星加理論は、知的障害、精神障害にこそ一番あたっているのではないか。ある特定の社会的価値の場面で出来ないということが、様々な不利益が雪だるま式に生み出されている。そういう意味で、この理論が特定の障害種別では、知的障害にも当てはまるところがあると思いました。これをさらにどう発展させるかについては、私たち全員にとっての課題と思います。質問ではなくコメントです。
E/2点、話します。
 1つは、福島さんがまとめてコメントされたように、本に書かれていることは、すっきりしてわかりやすかったです。
 歴史性というか、ある状態があれば、その前があるわけです。到達された点では、障害者の問題が最優先課題とはならないかもしれない。これは事実だと思います。先ほどの話と引き寄せて考えたとき、チャンスとしてのユニバーサリティ、みんなのためになる、という生かす主体があれば生きるわけです。日本の障害者施策についてまとめられたものを読むと、障害者施策は傷痍軍人対策から始まっています。途上国における障害者施策は、地雷被害者、戦傷者に対する社会復帰の現状である。そういう歴史的現状があります。
 もっと障害者に対する関心をもってほしい。障害者を意識した取り組み、独自性が言われている。独自性を主張するのは、当事者の運動があるかどうかも関係すると思います。そういう歴史的背景、歴史的経験の共有にたいして、物足りなさを感じたというのが本音です。
 あえて言いたかったのは、現にユニバーサルデザインの概念をいかす主体が登場したらそこを支援する取り組みは可能だろう。そこへつながって、当事者の声が前に出る。理論の問題以上に実際的な運動の問題だと思います。
F/今、いくつか自分が取り組んでいることの1つに、障害者欠格条項の問題があって、今日のお話を聞きながら、欠格条項の問題も不利益の複層化の観点から、もっと問題を分かりやすく提出できると思っています。
 非常に理論的に有効な視点を提示して戴いたと感謝しています。話の中で、社会モデルの限界の話をされたところで、実践的効果の話をしていますが、ここで言う実践的というのは、認識論的に近いというか、あまり実践的と言われたとき、ここで出されていた事例はピンときませんでした。視覚障害の方が就労されることで、見える人たちの就労機会が奪われるという批判が可能になるという話でしたが、そういう形での社会モデルでの限界が、あまりピンと来ませんでした。
 もう少し実践というとき、社会モデルの中で、この先、実践的に活用していくとしたら、より不利益の複層化のメカニズムを指摘していく、その観点から社会モデルをつかう、あるいは新たな社会モデルを構築するための限界というところが、ピンと来なかったというのが、感じたことです。
G/私からは、ちゃんと読めていませんが、ざっと読んだところで気になったのは、基準点という問題のたて方です。
 ある状態が不利益になるためには、それを評価する基準点があり、その基準点は社会の中で作られるとありますが、その基準点が色々な条件の中でどう確定していくかについて考えていました。
 ちょっと角度を違えて、不利益かどうかの基準点ではなく、問題なのは不利益がたくさんある中で、どこまで許容できるかだと思います。基準点が問題なのではなく、どこまでの不利益が許容できるかだと思いますが、その辺りはいかがでしょうか。コメントをよろしくお願いします。
星加/ありがとうございます。
 Dさんからは、コメントという形でいただきました。私自身も、知的障害、精神障害についても使える知見はいろいろあると感じて書いていますし、今でもそう思っています。ただ、部分的には適用する際に、これから考えていかなければならない問題も残っています。その1つを挙げます。不利益の特定をする際に、「評価」という話がありますが、当事者による主観的評価という基準を重視した書き方になっている部分があります。この問題を、どう処理するかが、1つ、考えどころだと思っています。これは、必ずしも知的障害、精神障害に限らず、当事者評価をどう理論的に位置づけるかについては、まだ不十分なところがあります。とりわけ知的障害については、その部分をもう少し先に進め、深めなければいけないだろうと思っています。
 次に、Eさんご指摘の点は、まさにそのとおりだろうと思います。
 今回の本で書いた話は、かなり歴史性や運動・実践という意味での文脈性を捨象した形で概念装置の理論的な組み替えのために、事例を使う場合でも、そういう目的で、議論の中に組み込んだという経緯があります。そうした問題が起こってくる歴史的文脈や、運動論と障害問題とのリンクのされかたがきちんと扱えていないのは、そのとおりです。それについては、本の中では今後の課題としても書いていますが、実は、このディスアビリティ理論を構築していく作業の際に、まだまだ足りないパーツがたくさんあるということを、書きながら自覚しました。その部分を理論的に深化させていくためには具体的で、歴史的な文脈をふまえた事例研究をたくさん積み上げる必要があるのかなと。それは、もちろん、私自身がやれることもあれば、やれないこともあります。そうした蓄積の上で、もう一度、どこかの段階で、それらを踏まえた理論化を目指していく必要があると思っているところです。
 Fさんのご指摘について。
 少し書き方が乱暴だったかもしれません。おっしゃるとおり、実践と言っても、まさに運動や政治的な主張の中で、こうしたことが問題になっているということを指摘したということではありません。
 ここで書いた認識論と実践の区別とは、最初の認識論的な問題と書いてあるところは、要するに、障害をどう捉えるか、という認識をするときに、その認識のあり方の中に誤りが含まれているということです。認識の仕方を理論的に構築するときに、誤謬や飛躍や矛盾があるということを指して、認識論的な問題と書いています。その後、実践的効果の問題としてあるのは、そうした認識論が、それ自体はそれなりに単体で見たときには成立しても、実際、アカデミズムの領域であれ、あるいは日々の生活レベルであれ、運動のレベルであれ、さまざまな認識論が対立・対決しなければならないという場面があるわけです。そうした認識論同士のコンフリクトが生まれてくるような状況において、そうした対立構造の中で何が勝ち残るか。こうしたレベルの問題もポリティクスでは重要になってくる。そのときに、こうした認識論の立て方がどの程度有効か、ということを巡り、問題があるだろうということです。
 とはいえ、歴史的な文脈で何が有効かは変わってきます。旧来型のイギリスの社会モデルでも、80年代、あるいは90年代においては、それなりに、今言った意味での、認識論的争いでは、有効な手段たりえたと思います。それは今の21世紀を迎えた現実においてどの程度有効かというと、少なくとも日本を念頭に置いて考える限りではあまり有効ではないというのが、ここでの指摘の意図です。
 最後にGさんのご指摘について。
 不利益の定義で書いてある基準点は、何が不利益であるかをめぐって、個々の当事者が主観的認識の中で、今、置かれている状態が否定的だと思うか肯定的だと思うか、その認識の差異を生む何かがあるはずだということで、その「何か」を表現するものととして「基準点」という言葉を使っています。この定義で書いてあるのは、不利益とは何かをめぐる基準点なんですが、ただ、おっしゃるとおり、そこで、一旦不利益が特定、認識されたとしても、その後に、さまざまにある不利益の中で、何が正当で、何が不当かという規範的な問題をめぐる争いがあります。そこを調停、あるいは決着をつけていくための基準点というものも必要だと思います。
 それから私の議論で言うと、「不利益の集中」ということを、それに加えて強調していますが、ではどの程度の集中まではOKで、どこからは許容されないかをめぐる基準点もある。
 そうした、いくつかの水準の規範的な基準点が、この不利益をめぐって必要とされてくるのはそのとおりだと思っています。その部分はうまく、基準点間の階層構造を記述できていなかったので、今、指摘していただき、その辺りも少し整理しておこうかなと思ったところです。

■終了



REV: 20151224
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