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植民地化と民族文化を巡って――竹中労『完本 美空ひばり』を読む

宇野 善幸 2007/06/16
「都市−文化−記憶」研究会 於:立命館大学衣笠キャンパス

last update: 20151224

◆竹中 労 20050610 『完本 美空ひばり』,筑摩書房,ちくま文庫 344p. ISBN-10: 4480420886 ISBN-13: 4480420886 819 [amazon]

1.竹中労による美空ひばり前史

 竹中労が描く日本歌謡史を概観する。その史観は、戦前から育まれていた「民衆的な」歌が戦争と共に弾圧され、戦後になって美空ひばりによって「民衆的な」歌が回帰するというものである。また竹中労が「民衆」という言葉を使用する時、そこに存在するのは「知識人と大衆」という図式であり、知識人が大衆を指導するというものである。
 彼の史観によれば、戦後「窮民革命」が失敗した理由に、知識人が真に「大衆的なるもの」を理解しない事に加えそれを軽蔑しきったという点があげられる。そのため竹中労が記述するのは、「民衆的な」歌の歴史を記述することによって、その「民衆性」を回復させることであり、それを革命と橋渡しすることである。具体的に彼が振り返るのは、自由民権運動下の演歌であり、とんで1930年代「民衆」が精一杯反抗したとされるナンセンス歌謡『東京音頭』『うちの女房にゃ髭がある』である。そのナンセンス歌謡も弾圧されるに及んで、「民衆」は任侠の情緒に回帰する。
 戦火の谷間に傾斜する時代の中で、民衆の魂は、「任侠」の情緒に回帰した。自由を奪われて歴史の歯車に組みこまれるとき、庶民大衆は、みずからの精神の内部において、納得のいく論理を構築しなければならなかった。一九三七年という時点で、民衆は何を思い、どのような心理的転回をとげて、頽廃(エロ・グロ・ナンセンス)の極北から、“聖戦”の修羅に突入していったのか。私は、その回答の一つを任侠精神の復活にみる。(201)
 そして竹中労は、任侠精神の復活に戦時下における天皇中心の絶対主義思想を「理念」ではなく「情緒」として受けとめ、
 民衆は、国家権力の戦争政策を、「そんなテはない」と批判する理性も、パピプペポと茶化す諷刺精神も持ちあわせていた。しかし戦況がどうにもならぬどたん場にきていると悟ったとき、死への跳躍をためらわなかった。(203)
と結論づける。その時民衆が愛した曲は―竹中労によれば―官製の軍歌ではなく、作詞作曲者不肖の『ダンチョネ節』、『ズンドコ節』、『特攻隊節』であり、その精髄は無頼な死に狂いの掟に身を投ずることである。そして敗戦を迎える。
 以上のように、竹中労は駆け足で敗戦までの日本歌謡史を振り返る。だが、竹中労は美空ひばりを生んだ社会的背景が十全に記述されたとは思わなかったようである。そこに抜けているのは川田晴久であり、一旦敗戦まで記述した後、川田晴久をかなりの頁を使って記述する。それは、彼によって成されたことこそが、美空ひばりを生みだしたと言いたいようである。
 竹中労は、川田晴久の芸の特徴として、ギター浪曲という新しいジャンルを創設したこと、ギャグの多さ、陽気な歌声、笑い、無国籍・コスモポリタン的ムードをあげている。そして竹中労にとって、最も重要と思われるのは、
 国家権力の弾圧に抗して、最後まで自由のトリデを守ろうとしたのは、獄中の面壁に自らを孤絶していた左翼エリートたちではなく、市井の大衆芸術家たちであった。(212)
という点である。そして最後に、
 歴史の流れを変え、世界と国家を改造してきたのは、いつの時代でも民衆の死に狂いのエネルギーであった。そのエネルギーを戦争の方向にではなく、愛と平和の社会をうちたてる力に転化し、組織することができなかったのは、“笛吹くもの”の一半の責任である。大衆を軽蔑し、大衆のことばを忘れて、権力への局地的な抵抗(あるいは無抵抗)に自らを孤絶した左翼エリートが、こんにち民衆に負うべき債務である。(223)

 日本の進歩的文化人は、偏見とエリート意識をすてて、俗流なるものの中に歩み入らなくてはならない。庶民大衆が何を希求し、どのような情念の中で生きているかを、美空ひばりから、むしろ謙虚に学びとらなくてはならない。「真の大衆路線」を庶民社会の底辺から発掘していくのでなければ、民衆との断絶はますます深くなり、こえがたいものになっていくだろう。
 天才歌手ひばりをつくりあげたのは、このような大衆芸術の「歴史」なのである。ひばりは決してマスコミの波に乗って、戦後突如あらわれた幸運のシンデレラではない。戦争の暗い谷間を、地下水のように絶えることなく流れつづけた民衆の歌のいのちは、戦後の焼土に泉のように噴出した。いわば長い冬の大地の下で、種子が春の生命をひそかに育てるように、ひばりの「芸」は父母(ちちはは)なる庶民大衆の情念にはぐくまれた。(225−226)*下線部は原文の傍点部
と結論づけるのである。

2.竹中労による知識人批判と七五調の擁護

 1で見てきたように、竹中労は民衆史観を提示している。2では竹中労が描く戦後社会史をまとめる。そこで争点となっているのは、占領期を日本の植民地化と捉えている点であり、そこから脱却するための民族文化の創設という点である。竹中労が描く戦後史は、二・一ゼネストの敗北を分岐点とする、知識人たちの文化的植民地主義、職業的革命家たちの「民主化」幻想による失敗である。竹中労にとって植民地化の風景とは、何よりもまずアメリカの軍人たちによる日本女性の陵辱であると思われる。
 毒々しい化粧をして、みるからにパンパンめいたのには、まだガマンができた。中にはほんの一五か六の少女がいた。モンペをはいた未亡人らしいのもいた。そういう女たちがGIにぶらさがっているのをみると、私の心はひき裂かれた。狂暴な怒りが、ハラの底から衝きあげてくるのだった。(258−259)
 このように竹中労にとって植民地化とは、アメリカ軍による日本女性の略奪と映る。であるならば、竹中労にとって民族文化の創設とは日本女性の奪還だったのであろうか?それは後に譲るとして、竹中労が反発を抱いた植民地化についてもう少し詳しく見る。彼が槍玉に挙げているのは、中野五郎、大熊信行、徳川夢声、辻正信である。
 新日本の男性の身だしなみとして、私は洋服に下駄ばきの珍妙な姿を至急一掃したいと思う。(中略)日本人の女性のキモノは美しい。これは世界のどこに出しても立派な民族の服装である。だが下駄は文明の恥であり、野蛮な遺物である。

 今日、男子用の下着はすべてランニング用シャツのごとき薄地の下着シャツに、ゴムで腰の部分を止める“ショーツ”が世界的に通用している。ヨレヨレのクレープ・シャツにブカブカのSARUMATA(これはGETAと同様に、皮肉なアメリカ笑話雑誌のタネになっている)をはいた図は全く滑稽だ。また褌(ふんどし)も日本精神のシンボルのように有り難がった時代は過ぎた。
(中野五郎「新しい身だしなみ講座」『旬刊ニュース』1946年10月)
 竹中労が植民地化とみなす文章を孫引きした。この引用箇所によると、日本人男性の服装は後進性、野蛮の証左として記述されている。上述したように竹中労にとっての植民地化とは、アメリカ軍人による日本女性の陵辱と思われるが、植民地化は一方で日本人男性を劣等人種とする。竹中労にとって屈辱的なのは、それが日本人の「知識人」によって内面化されていることである。最後に歌に関して。
 かやの木きんやん
 ひきずり女
 あねさんかぶりで
 ねずみっ子抱いた
         (『楢山節』)

 ろっこん ろっこんな
 ろっこん ろっこんな
 お子守りぁ 楽のよで 楽じゃない
 肩は重いし 背中じゃ泣くし
 ア ろっこん ろっこん ろっこんな
         (『つんぼゆすりの歌』)

 娘ざかりを なじょして暮す
 雪に埋もれて 機(はた)仕事
 花の咲くまじゃ小半年
         (『十日町小唄』作曲・中山晋平)

 佐渡の荒磯の 岩かげに
 咲くは鹿の子の 百合の花
 花を摘みつみ なじょして泣いた
 島の娘は なじょして泣いた
 恋は……つらいというて泣いた
         (『ひばりの佐渡情話』)
 以上挙げたのは、竹中労が擁護する日本民族の歌であり、辻政信が「恥ずかしい」(『佐渡おけさ』と『越後獅子』の歌、引用者注)と感じた歌である。ここで注目に値するのは、竹中労が日本民族の歌と挙げたもののほとんどが、女性を登場人物としていることである。
 以上のことから、竹中労が植民地化と名付けるのは、@アメリカ軍人による日本女性の陵辱、A日本人による日本人男性を劣等人種とみなすこと、B日本の女性が登場する歌を貶めること、の三点である。
 さて、竹中労は日本民族の歌の基底に七五調を置いている。竹中労も記述するように、戦後において七五調は攻撃にさらされる★1。以下竹中労による七五調擁護の弁。
 民謡や俗曲の成立は、インプロビゼーション(即興)による。心にうかんだ感興をその場で言葉につづることのたくみなものが、大衆の代弁者となってうたいだすのである。それは、一種の報告であり、民衆の労働と生活に区切りをつけ、その段取りを伝承していくための「歌暦(うたごよみ)」の意義を持っていた。歌い手は、誰もがそのとき感じていることを――「豊作でよかった」とか、「税金が高すぎる」などという庶民感情を、大衆の半歩先に立って発唱した。その歌ごえはたちまち大衆の心をとらえ、共鳴し、広く伝播していった。(228)

 七音五音のリズム(七五調)は、そのような民俗歌曲のなりたちに、もっとも適切な音律として、採用された。七・五という定型(パターン)に、心にうかんだ言葉をはめこみさえすれば、それが“歌”になった。民衆はむろん「芸術意識」によって、七五調を選択したのではない。人から人へ共通の情緒をつたえてゆくために、「うたいやすい」一定のリズムが必要だったのである。短歌(五七五七七)から民謡が、そして俳諧(五七五)から俗曲が発生したという大ざっぱな仮説を立てることが、私は可能だと思う。貴族階級や武家階級の音律であったそれらの短詩型を、民衆は彼らの側にうばって、感情表白の手段としたのである。(229)

 戦争の暗い谷間で、主体性を喪失した日本のインテリゲンチアは、真の意味での進歩性と大衆性を見失った。芸術上の植民地思想に毒されて、フンドシをしめなおすことを忘れた。日本の音律に回帰することが、それを基礎にした民族音楽の創造こそが、焼土にほんとうの文化を築きあげるのだという、明確なビジョンを持ち得なかった。(244)
 以上が、竹中労による七五調の擁護論である。これまで述べてきた文脈からすれば、竹中労にとっての民衆とは日本人男性のことであり、脱植民地化or革命?とは日本人男性が日本人女性をアメリカ人の手から取り戻すことであり、民族音楽の創造とは日本人男性にとって理想の日本人女性を表象することではなかったのかと指摘したくなる。そしてその理想の日本人女性と幸福な結婚?をするのは、1965年「東京労音」に属する「真の日本人」ではなかったのか。
一九五二(昭和二七)年、歌舞伎座とメーデー広場と二つに分裂した民衆の情熱は、そこで一つになり、るつぼのように燃えた。(186)
 このように記述する竹中労は、「東京労音」に属する人間(=日本人男性)と美空ひばり(=日本人女性)との幸福な一体化を夢想しているようである。そしてそのことこそが、竹中労にとって植民地化を脱し、民族文化を創設する一側面のように思えるのである。

★1 例えば、桑原武雄「第二芸術論」、小野十三郎など。


UP:20080129 REV:
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