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財としての介助は誰によって負担されるべきか――障害者介助の文脈から

野崎 泰伸 200706
福祉社会学会第5回大会 2007/06/23-24 於:東京学芸大学

last update: 20151224

  要旨

摘要: 本発表では、障害者の介助という文脈の中で、「誰が障害者の介助を直接的に担うべきか」を主題とする。社会的分配を主張する意見の中にも、大きく分けて二通り存在する。(1)介助を行うことそれ自身を社会的義務として課そうとする主張と、(2)介助を行う者は特定されてよいが、その他の者にはそれ以外の社会的義務が課されるべきだとする主張である。本発表では、(2)を擁護するための論陣を張り、その論拠を提示する。(192字)

キーワード:障害者介助、介助の社会化、社会的分配


  配布原稿

 本発表では、障害者の介助という文脈の中で、「誰が障害者の介助を直接的に担うべきか」を主題とする。社会的分配を主張する意見の中にも、大きく分けて二通り存在する。(1)介助を行うことそれ自身を社会的義務として課そうとする主張と、(2)介助を行う者は特定されてよいが、その他の者にはそれ以外の社会的義務が課されるべきだとする主張である。本発表では、(2)を擁護するための論陣を張り、その論拠を提示する。

 言うまでもなく、介助は、独力では生活が困難な者が生存するに必要なものである。そしてそれは社会的公共財と言って差し支えないだろう。重い障害を持つ者が地域社会で生きていくためには、介助はなくてはならないものである。よって、彼らが生きていくためには、介助は社会的に分配されなければならない。

 ところで、介助が社会的に分配されるべきだ、という主張は、その内部において次の対立を生じさせる。すなわち、介助に関わる「何を」分配するのか、という軸において議論を生じさせるのである。一方では介助にかかる「人手」そのものを分配するのが正しい、という主張があり、他方では介助の人手そのものはむしろ固定されるべきだが、固定された以外の者には直接介助に関わること以外の社会的義務があるというのが正しい、という主張である。

 立岩真也と市野川容孝は、ともに障害者運動から多大な影響を受けながら自らの論を形成している([市野川・立岩 2000])。両者とも介助の社会的分配には賛成だ。ただし、上記の点においては違いがあると思われる。市野川は、介助の人手そのものを直接分配することを――支持しないまでも――示唆する。それに対して立岩は、介助の負担をする人手への、それを負担しない者が介助とは別の負担義務を負う、というところにとどまっている。市野川はたとえば、20歳前後の者には全員介助を負担する義務を課そうと示唆する([市野川 2000])。私にはそれは弊害が多いように思われる。その点を列挙してみよう。

 まず、もっとも大きな理由としては、介助には向き・不向きがあるということである。対人援助を直接に行うのには得手・不得手があるという単純な事実がある。次に、誰もが生き方の自由を有してよい、という単純な命題を確認できるならば、介助という特定の行為を強制することなどできない、ということが導ける。

 社会の構成員は、次のようなグループに分かれる。

  A:介助したい人/B:そうではない人

 介助に関わろうとする人は、少なくともグループAの人である。さらにグループAの人は、介助の実行可能性によって、次の2つに分かれる。

  A1:実際に介助が可能な人/A2:そうではない人

 A1に属す人は、少なくとも介助を行う自分自身の生存が何らかの形で確保された人たちである。それに対して、A2に属す人は、介助をしていては自らの生存が脅かされる人たちである。A1の人たちは、さまざまな方法で自らの生きる糧を得ている。学生の場合は、親からの仕送りかもしれないし、奨学金かもしれない。その家族に誰か養ってくれる人がいるからかもしれないし、稀には年金受給者や生活保護受給者であるからかもしれない。

 介助の有償化、すなわち介助を公的に保障しようということは、A2の人たちを、A1のグループへ入れることなのである。仕事として介助を行うということは、それによって介助者の生存をも保障するということなのである。

 介助そのものを直接義務にするというのは、Bのグループの人をいきなりAに入れることでもある。確かにAだけでは人手が足りない、とはいえよう。しかしそのことと、介助に関わる社会的分配の話とは、分けるべきものなのである。

 どういうことかと言えば、グループBの人をグループAに入れるためには、介助の問題のみを語ることでは解決しない、ということである。もっと論じる枠を広げなければならない。たとえばそれは、優生思想による障害者への偏見であったりもするだろう。それらをなくしていくには、統合教育が必要かもしれないし、障害者もともに働くことができる場を作っていくことが必要かもしれない。障害者と健常者の出会いの場が少ないからこそ、障害者は介助の場面で関係性を求めざるを得ないのである。

 まとめよう。グループA2の人をグループA1に入れることと、グループBの人をグループAに入れることとは、全く違うということなのである。A1とA2との間の問題を考えるときには、介助の有償化や、公的な介助保障といった論点が重要となる。他方、AとBとの間の問題とは、もっと枠の広い問題なのである。両者を混同し、たとえば「A2の人がA1に入らないのは、障害者を嫌悪しているからだ」と批判するのは、端的に誤っているということである。標語的に言えば、「関わる人を増やしながら(B→A)、固定する(A2→A1)」ということになるだろう。

 それでは、かつて介助を人間関係によって、つまるところは「友人としての介助」を主張した青い芝の会の主張をどう考えるべきなのか。まずは、障害者福祉が制度として整っていなかった――昨今の「自立支援法」はそうした昔へと福祉の水準を後退させるものである――ため、障害者たちはそう主張せざるを得なかったと考えられる。友人関係のみでは、実際に介助が埋まっていようが、そのことを介助が社会的に保障されているとは言わない。単に「介助が埋まっている」だけであり、「社会的に保障されている」わけではない。

 青い芝の会の主張というのは、グループAとグループBとの間の争いについて述べている、と解釈できるのである。貨幣を媒介にして介助を得ること、すなわち介助保障の位相と、青い芝の会の主張の位相とをいったん切り離したうえで考えるべき問題なのである。

 誰もが介助を物理的に負担できるわけではないから、また負担すべきでもないから、解としては――しかも現実的な解として――特定の人たちが介助を担い、直接介助を担えない人は、介助を担う人の生存を支えるというものになる。その上で、現時点で無償で行われる介助も否定される必要がない。あまりにも障害者が使える介助料が少なすぎるからである。だが、それは本来有償で行われてよいと言えるように、社会構造を変えていくためのステップとして、である。


【文献】
秋山由紀・朝霧裕・市野川容孝 2007 「〈鼎談〉介助って何だろう?」(鷲田清一他編、『身体をめぐるレッスン 4 交錯する身体』、岩波書店:109-142)
市野川容孝 2000 「ケアの社会化をめぐって」(『現代思想』2000年3月号、青土社:114-125)
市野川容孝・立岩真也 1998=2000 「障害者運動に賭けられたもの」(立岩真也、『弱くある自由へ』、青土社、2000:119-174)
小山正義 2005 『マイトレァ・カルナ――ある脳性マヒ者の軌跡』、千書房
立岩真也・横田弘 2004 「差別に対する障害者の自己主張をめぐって」(横田弘、『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて』、現代書館、2004:5-33)

UP:20070425,0620
野崎 泰伸  ◇介助・介護  ◇Archive  ◇生存学創成拠点
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