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性売買と性暴力――身体性の交換と自己決定の限界

堀田 義太郎 20070610

last update: 20151224

堀田義太郎 20070610 「性売買と性暴力――身体性の交換と自己決定の限界」,『女性・戦争・人権』8, 行路社, pp. 96-129

はじめに

 性売買【1】をめぐる従来の議論では、性を売る人(性労働者)の「性的客体化」と「性暴力」との関係が正面から問われてはこなかった。だが、現在の性売買における暴力などの危険性をなくすためには、性売買における性暴力の要因への問いは不可欠である【2】。本稿は、現在の性売買において売られている商品(性商品)の特異性という観点から性労働者の性的自己決定を阻んでいる要因を明確化し、これを取り除く方策とその正当性を示す。
 性売買をめぐる日本の議論の軸は、1980年代の女性学やフェミニズムにおける「性の商品化の是非」論から、90年代以降のセックスワーク(性労働)論を受けて性売買の現場の労働条件の改善という課題へと移行してきた【3】。性を売る人の労働者としての権利を守るための重要な課題の一つは、「売春防止法」の撤廃である。「売春防止法」は、性を売る行為を「犯罪」として規定している。「売春防止法」は、性労働者を「女性」【4】に限定した上で、法的保護の対象外に置き、性労働者女性が暴力を受けても被害認定を困難にすることにより、性労働者が暴力に晒されやすい状況を作る要因となっている【5】。性労働者の労働権と性的自己決定権【6】 を守るためには、「売春防止法」の撤廃が喫緊の課題であるということは疑いえない。だが、以下で見ていくように、性労働者の性的自己決定権を保障するために必要なことは、この法の撤廃には留まらない。
 「売春防止法」の問題とともに従来の性売買論が指摘してきたのは、性売買の「売る側」と「買う側」のあいだの「ジェンダー間の非対称性」(加藤秀一, 1998: 244)である。この96>97非対称性が示しているのは、現在の性売買が、女性を抑圧して「性的客体化」する(しばしば「家父長制」と呼ばれる)社会構造を前提にしているということである。そしてたしかに、この非対称性の指摘は、それが性労働者の自己決定の範囲の外部にあるという意味で重要である。だが、この「非対称性」が、性労働者の性的自己決定の侵害(性暴力)といかなる関係にあるかが明確にされてきたとは言いがたい。
 そしてそのことは、議論を混乱させる一つの要因になっていると思われる。じっさい、この「ジェンダー間の非対称性」の指摘はしばしば、性労働者自身の主張を受けた議論(以下では「自己決定論」とする)から批判されている。すなわち、その指摘は現に性売買市場で働いている女性の状況を改善するのに役に立たない、と。批判の論点は三つにまとめられる。第一点は、性売買批判の「言説としての効果」をめぐる指摘である。つまり、性売買そのものが「女性抑圧・差別の典型」だとすると、暴力や侮蔑発言などの諸問題を性売買の現場のなかで解決するという方向性はせいぜい対処療法(次善の策)程度のものとしてしか位置づけられなくなり、現存する問題を放置する効果さえもつのではないか、と。第二点は、批判の射程を「性道徳論」に局限する論点である。すなわち、いかなる決定も既存の社会構造を前提にした決定であり、様々な仕事に性別間での「非対称性」があるにもかかわらず、「性売買」への自己決定の「前提」だけを問題にするのは、何らかの保守的な「性道徳」や「性規範」を内面化しているからだ、という議論である(瀬地山角, 2001; 細谷実, 2002: 100)。第三点は、自己決定を制約する条件を内側から解体する可能性の指摘である。たとえ性売買が女性の自己決定を阻むような社会構造を前提にしているとしても、それは「主婦」等々も同じであり、社会構造の問題は、むしろ性労働者を含む個々の女性の「自己決定権」と「主体性」を尊重することによって解決されるべきだ、という議論である(川畑智子, 1995; 渋谷知美, 2000)。
 以下で論じていくように、これらの論点は区別すべきである。第一と第三の論点は、女性抑圧・差別と性売買における諸問題を独立させて解決すべき問題であると指摘する点では正しい。だが、それらが性売買に固有の問題性を看過するとすれば、そこには限界がある。「性道徳」に問題を限定する第二の論点は、性売買の特異性に改めて目を向けさせるという効果はある。だが、そこで看過されているのは、現在の性売買市場の前提には「性道徳」と呼ばれる観念が存在するという点である。
 本稿は、現在の性売買の「前提」にある社会構造が女性の「自己決定の限界」を構成している、という性売買批判の指摘には一定の妥当性があることを認めるが、しかし、性売買における「自己決定の限界」がその「前提」の直接的な帰結ではない、ということを明らかにするだろう。この点では、性売買における諸問題の解決にとって女性を抑圧する社会構造の解体は「必要条件」ではない、という自己決定論の批判は妥当で97>98ある。だが本稿は、この批判にも限界があることを明らかにする。ジェンダー間の非対称性の解消は、性売買の諸問題解決の「必要条件」ではないだけでなく、「十分条件」でもないからである。すなわち、社会構造を解体しても――女性が買い手になる場合でも――性売買が現在の形式を保持する限り、問題は残される。自己決定論の議論に反して、性暴力の危険性は現在の性売買にとって「固有」の問題である。
 これら従来の議論に欠けている点は、性売買の前提にある男性中心主義的な社会における「女性の性的客体化」と、性売買における「性労働者の性的客体化」は、相互行為の主導権と定義権を貨幣所有者が占有することに起因する点で共通しているが、分析的には区別すべき二つの「現象」だ、という認識である。性売買における性労働者の自己決定の限界は、受動的な感覚を惹起する相互行為として観念される「性的行為」が貨幣によって交換されることで、男性に限らず「買い手」に行為の主導権とその適切性の定義権が与えられるところにある。問題は、買い手の売り手の身体に対する直接的な行為可能性が、「商品」に内包されていることにある。逆に言えば、買い手の売り手に対する行為可能性が商品に含まれないような「性売買」――つまり完全に売り手の行為・サービスだけが売られる性売買――では、買い手による「暴力の可能性」は最初から問題にならない(それは本稿の考察対象ではない)。
 以下ではまず、第一節で「自己決定論」の論点と問題点を確認する。指摘されるのは、自己決定論からは、現在の性売買市場そのものに性労働者の自己決定を阻む要因が存在するのではないか、という問いが排除されるということである。
 第二節では、現在の性売買における「ジェンダー間の非対称性」の背景にある社会構造(女性への抑圧・差別)をめぐる議論を再検討する。現在の性売買は、たしかに女性を労働市場から排除して「受動的な性的客体」とする男性中心主義的な観念と体制(本稿ではそれを「ジェンダー・セクシュアリティ体制」と呼ぶ)と無関係ではない。だが、ジェンダー・セクシュアリティ体制と性売買とは、単なる原因-結果関係でも規定-被規定関係でもない。つまり、性売買における諸問題をこの体制に還元することはできない。
 第三節では、性売買そのものに内在する問題を明らかにする。性労働者の「自己決定の限界」は、現在の性売買そのものに内在するものとして考察されるべきである。現在の性売買には、買い手が売り手の身体に直接感覚を与える行為を行うこと自体が商品の内容に含まれているため、性的行為において相手の感覚に応じて行為者が行為を制御するために必要とされる「配慮」が、貨幣によって省略されうるからである。必要なことは、この「限界」を解消する具体的方策を立てることである。
 本稿を通してポイントになるのは、性を「買うこと(の少なくともいくつか)がどのようなことかを指摘すること」(立岩真也, 1995: 228)であり、また、「どれほど素朴な性の商品98>99化批判のなかにも潜んでいるに違いない〈性の商品化〉批判の可能性に対して、じゅうぶん注意深くあること」(加藤, 1998: 227)である。考察から導出される結論は単純明快である。すなわち、性労働者の自己決定権を尊重するために必要なのは、それを侵害しうる「買い手の決定範囲」を直接的に制限・管理することである。

1. 性売買における自己決定の位置

1‐1. 自己決定の擁護の仕方

 以下、本節では、性売買の内部での売り手の「自由意志にもとづく自己決定」を擁護することを主張する議論の論点を確認し、その問題点を明らかにすることを通して、考察すべき問題の所在を示す。
 最初に確認しておくべき点は、売り手の自己決定を擁護するという目的と、現在の性売買市場の前提には女性を性的客体化する観念と制度(しばしば「家父長制」と呼ばれる)があるという認識との、両立困難性である。この困難を典型的に示しているのが川畑智子の議論である(川畑, 1995: 1999)。
 川畑は性売買をめぐる議論の中心的課題を、@「売春や性風俗産業社会で働く女性たちの性的自由及び自己決定権の社会的認知」、A「その業界で性暴力が起こりやすい条件を維持している社会的要因」を明らかにすること、として設定する。そして、これらの課題を実現するために問題化されるのが、「性売買」における性労働者の性的自己決定を剥奪する諸条件、とりわけ売春防止法に体現されている観念である(川畑, 1995: 113)【7】。
 川畑によれば、「性暴力が起こりやすい条件」は、性売買それ自体にあるのではなく、それを取り巻く「社会的要因」のなかにある。それは第一に、女性を「保護されない売春女性/保護されるべき(か弱い)それ以外の女性」の二タイプに分類するような男性の「信仰」ないし「神話」である。この「神話」を示しているのが、たとえば「池袋事件」の検察の論告(および判決文)である。池袋事件の検察官は、「売春女性とそれ以外の女性とでは猥褻行為に対する抵抗感が質的に異なると見ている。そして、女性が、性的自由を放棄することを契約の時点で暗黙に承知していたと考えている」(ibid.: 140)。じっさい、池袋事件で論告を受けて出された判決も、「売る側の女性に商品の内容を決定する権利を認めていない」(ibid. 141)。これらの見方を正当化する観念を、川畑は、「「娼婦」神話」すなわち「現実に「娼婦」(性的自由を放棄した女性)が存在するという信仰」(ibid. 143)と呼ぶ。

「そこには「売春」しようがしまいが、相手が誰であろうと(夫だろうが、客だろうが)、一旦女性が性交に承諾すれば、途中でその相手の性的要求を女性が拒否したり、望まない性交を強要されたことに対して文句を言ったり、訴えたりしても、それは「性的自由を放棄した」として女性の側の落度とされてしまうしくみが存在する。」(川畑.1999: 45)
99>100

 池袋事件が示すのは、「女性が性交を売るということは、あたかも身体そのものを売ることという固定した見方」の存在である(川畑, 1995: 141)。この見方を川畑は、深江誠子の用語を借りて「貞淑さ役割」と呼ぶ。女性に強いられる「貞淑さ」とは、特定の男性に対してその「性的自己決定権を放棄」して身体を「贈与」すべきだ、という役割規範である。たとえば池袋事件の判決においては、性を売る女性に対して「不特定多数と性交する」という点で「貞淑ではない」という規定を与えつつ、「性的自由を放棄している」のだから客に従うべきだという「貞淑さ」を強制している。「貞淑さ」に関するこうした矛盾する規定は、「不特定の相手に対償を受ける約束で性交すること」を禁ずる「売春防止法」が、「女性の「身体の自由」を否定」して「女性の身体を「贈与すべきモノ」として提供させる」ことを強いているからである(川畑, 1999: 48)。
 そして、この神話を体現している制度が売春防止法である。つまり、女性の性的自己決定権を否定しているのは――少女か娼婦かという二者択一を強制して「貞淑さ役割」を課しているのは――、売春防止法に体現された「性的奴隷制」とそれを支える「娼婦神話」である。「性的奴隷制」とは、「本人の意志にかかわらずまたは意志に反して「娼婦性」が商品化されること、つまり性的自由及び自己決定権の侵害」(川畑, 1995: 138)である。それに対して川畑は、「女性が自己決定にもとづいて」、「娼婦性」を商品化することは肯定している(ibid. :128)。この区別によって川畑は、「性の商品化と性的奴隷制の違い」について、「問題とされるべきなのは、搾取されているか否かや、誰を対象にどのような「娼婦性」が商品化されているかということ以前に本人の意志にかかわらず、他者によって「娼婦性」が商品化され、利用されているか否かである」と述べている(ibid.: 126)。
 では、「「娼婦性」の売買において、何を得るかを決める権利は、売る側にある」(ibid. :128)という川畑の議論は妥当か。「権利がある」という主張自体は間違いではない。問題は、その主張が可能になるための条件である。川畑の議論構成のなかでは、この「権利」には決定的な限界がある。なぜなら、自己決定によって売られる対象である「娼婦性」とは、川畑の議論においては、本人の意志にかかわらず「女性」に付与される性質だからである。つまり、自己決定の対象がすでに男性によって値踏みされ価値付与される「娼婦性」(性的客体化された女性性)だとされている限り、せいぜい《奴隷制のなかでの自由》に過ぎないことになる。
 川畑の意図は、女性に娼婦性ラベルを貼ることで「性的客体化」する男性中心主義的社会(「性的奴隷制」)と、性売買における売り手の「性的客体化」を区別することである。この区別は必要であるし重要である。だが、川畑の議論ではこの区別は成功していない。川畑は、性売買で売られているものを「娼婦性」(性的客体としての女性性)として規定して100>101いるからである。川畑の意図を貫徹するためには、女性を性的客体化する社会構造から、性労働者を性的客体化する性売買の構造を切り離し、後者を独立させて解決すべき課題として位置づける必要がある。だが川畑の議論では、性売買における性労働者の「性的客体化」と、社会における女性の「性的客体化」との関係が明確ではない。つまり、社会が女性を「性的客体化」している限り性労働者の「性的客体化」は不可避的なのか(女性を性的客体化する社会構造が改変されれば性労働者の性的客体化はなくなるのか)、逆に、社会構造を改変しても性労働者の「性的客体化」は解消されないのか、これらの点が明確ではない。
 こうした議論に対置できるのは、性売買における自己決定の擁護は社会構造の改変とは別に可能である、という議論である。たとえば渋谷知美(2000)は、川畑が「性的奴隷制」と呼ぶ社会構造を「家父長制」と呼び、それらの制度や構造と「性売買」を区別できる、とする。渋谷の議論は、上の疑問に対して、家父長制的な社会構造の改変は性売買における性的客体化を否定するための「必要条件」ではない、と答えていることになる。
 渋谷によれば、「家父長制」はたしかに性売買を生み出す「条件」である。だが両者は区別できる。たしかに、現在の性売買における非対称性は、「ヘテロセクシズムやセクシュアリティのジェンダー・セグリゲイション、それによって利益を得ている家父長制」(ibid.: 220)の「産物」である。そして、「性労働が価値を産む」のも「家父長制」が存在するからである。だが、「家父長制」を解体するために、その産物である「非対称性」を内包した性労働を否定する必要はない。つまり、渋谷によれば、性売買がたとえ家父長制の産物だとしても家父長制を打倒するために性売買を否定するのは本末転倒であり、「家父長制の打倒」はそれ自体で行われるべきである。この区別によって相対化されるのは、性売買における男性/女性の非対称性に依拠した従来の性売買批判である。次項以下で見るように、「家父長制」から「男性による女性の支配」という契機を除外している点で、渋谷の議論には限界があるが、その問題を措いても、この区別には――渋谷自身の意図を超えて――「性売買そのもの」の問題を照射するという点で意義がある。
 家父長性(性的奴隷制)と性売買の区別に加えて、渋谷は、性売買の「実態」と「理念」を区別している。すなわち渋谷によれば、現実の性売買においてセックスワーカーが暴力などに晒されやすいという「実態」があるからといって、性売買そのものに本質的に暴力の可能性が内包されているということにはならない。「膣ペニス性交やその他の性的サービスを金銭その他の財と交換する行為」としての「性労働」(渋谷, 2000: 213)そのものと、現実の性労働現場で繰り返されている暴力や侮蔑発言などの問題は、区別できるし区別すべきである。「買春は〈理念的〉に「悪」なのではなく、現在の買春の〈実態〉が偶発的に悪いのにすぎな101>102い」(ibid.: 221)。
 この「理念/実態」という――橋爪大三郎(1992)がすでに提起している【8】――区別は、次項で見るように、「家父長制の解体」と「性売買における諸問題の解決」との区別とは重ならない。ともあれ、このような区別を支えているのが、性労働者自身の「自由意志に基づく自己決定」という点である。そして、セックスワーカーの主張の根拠も、自由意志に基づく「自己決定権」にある。それを端的に示しているのが、2000年に出版された著書のタイトルにもなった「売る売らないはワタシが決める」というスローガンである。それによれば、売春者は、技術・行為・身体の使い方等を自己決定し、自分が「売る」と決めたものだけを売っているのであり、それ以外の行為は売っていない。

「性労働者は、それぞれの職種で定まっているサービス内容の枠組みや個人の判断から、自分で決めた範囲内でそれぞれ性的サービスの提供をしているだけである。性的自由や身体の自由を破棄したりなど、一切しているわけではない。特にこの事件〔池袋事件〕の場合のように、通常その職種でなされないサービスの提供を客が求めるときには、何をしたいのか客がきちんと説明をし、その上で承諾を得るという手順が厳密に守られる必要がある。」(松沢呉一+スタジオ・ポット編, 2000: 112)

 それらは当然「厳密に守られる必要がある」だろう。これが厳密に守られる性売買であれば、現状とは異なり、問題はない。これらの議論における《性売買の現状・実態を「理念的」な「性売買そのもの」から区別すべきだ》という主張は、川畑による「権利がある」という主張についても述べたが、もちろん――「暴力をなくすべきだ」という主張と同様――正しい(むしろ、それは「間違いえない主張」である)。だがこうした「理念/実態」の区別は妥当ではない。次項で見るように、たとえば渋谷による「家父長制」と「性売買」の区別は、両者における「性的客体化」の契機を否定する根拠にはならないからである。家父長制と性売買を区別できるからといって、貨幣による性的客体化の「実態」を否定することはできない。明確化すべき点は、現在の性売買(「実態」)における問題が何に由来するのか、である。

1−2. 家父長制における性的客体化/性売買における性的客体化

 上記の川畑の議論と渋谷の議論には妥当な部分もあるが、問題もある。両者の議論の問題点を見ることを通して、考察すべき課題が明らかになる。
 まず、川畑の議論では、性売買において商品化されている「娼婦性」と、性売買におけるジェンダー非対称性の背景にある社会における女性の「娼婦性」は同一視されている。つまり、性売買とは女性の性の売買であり、その背後には、すべての女性を性的客体化する観念と制度が存在する。それは、102>103性売買における自己決定にはあらかじめ「限界」がある、ということを意味する。だが、性売買における「娼婦性」すなわち「性的客体化」と、それ以外の領域における女性の「性的客体化」とは区別できるし区別すべきである。川畑の議論では、性売買における娼婦性の商品化が、社会全体での女性の性的客体化(「性的奴隷制」)の内部に位置づけられている。それは川畑自身の目的をあらかじめ否定することになる。さらに重要な点は、この議論では、女性が買い手になり男性が売り手になるケースなどが除外されるということである。
 それに対して、性労働者の自己決定を保障するために、渋谷は「家父長制」と「性売買」における諸問題を区別する。それは妥当である。それによって、この両者の関係性が明らかになるからである。だが、渋谷がこれに加えて提示する、性売買の「理念」と「実態」の区別は妥当ではない。@現在の性売買における諸問題が、女性を性的客体化する「家父長制」に本質的に起因するものか否かという問題と、A性暴力などの諸問題は現在の性売買において本質的なものか否か(理念/実態を区別できるかどうか)、という問題は異なる。性売買における暴力などの問題は、「家父長制」の問題とは区別して解決可能だ、という渋谷の指摘は、@の問いに対する(否定的)回答である。そしてそれは妥当である。なぜなら、女性が男性を買うような性売買や同性間の性売買には問題がない、とは言えないからである。しかしそれは、Aの問いに対する答えにはならない。つまり、「家父長性の解体」を、性労働者の自己決定の保障という課題から区別できるからといって、それは、現在の性売買における「性的客体化」の要因分析を省略する理由にはならないからである。
 渋谷の第一の区別は、《家父長制を解体しなくても性売買における諸問題は解決できる》という命題にまとめることができる。そしてたしかに、「家父長制」という女性を性的客体化する観念や制度は、性売買における諸問題の直接的な「原因」ではない。つまり、「家父長制の解体」は性売買における問題解決の「必要条件」ではない。だが、それに対して、《家父長制を解体しても性売買における諸問題は解消できない》という命題も成立する。すなわち、「家父長制の解体」は性売買における問題解決の「十分条件」ではない――つまり現在の性売買には固有の問題がある。渋谷は、《家父長制の解体は性売買における諸問題の解決の必要条件ではない》という指摘から《女性の性的客体化は性売買に本質的なものではない》という認識を導出している。だがそれは、《性労働者の性的客体化は性売買に本質的なものではない》ということを含意しない。理念と実態を区別するためには、現在の性売買そのものに性暴力などの問題が本質的に含まれるか否かを吟味し、これを否定する必要がある。
 この点では、性売買で商品化されている対象を「娼婦性」とする川畑の議論には、汲み取るべき認識が残されている。川畑の問題は、家父長制における「性的客体化」と性売買に103>104おける「性的客体化」を区別していないところにある。それに対して、「娼婦性」の商品化を、「家父長制」における女性の「性的客体化」と「性売買」そのものにおける性労働者の「性的客体化」に区別することで、後者が(家父長制の結果としてではなく)独立した問題として位置づけ直される。つまり、川畑の議論は、性売買における性的商品化を指摘した議論として解する限り、妥当である。逆に言えば、渋谷は、両者を区別することで性売買における「性的客体化」への分析視角を捨て去るところに限界がある。性売買における「性的客体化」は、家父長制における性的客体化の結果ではなく、「買い手」と「売り手」の非対称性の指摘として位置づけられる。第三節で詳論するように、性売買における性商品に買い手が与える価値には、売り手が売ろうと思っている行為やサービスだけではなく、「誰が」そのサービスを行うかという点が含まれる。そして、買い手の売り手の身体に対する行為可能性が商品に含まれている場合には、この「何」と「誰」における非対称性が、売り手に対する配慮を省略し、売り手の許容範囲を超えた行為(暴力)の余地を作ることになる。
 ここで以上を再度まとめておこう。川畑は、性売買に「娼婦性」すなわち「性的客体化」の商品化という契機が含まれることを指摘した点では妥当である。だがそれを、女性を「性的客体化」する社会の問題と区別していないという点で問題がある。渋谷はこの両者、つまり女性を性的客体化する「家父長制」と性売買における諸問題とを区別した点では妥当である。だが、家父長制における女性の「性的客体化」を看過している点、そして、性労働者の「性的客体化」を、性売買に固有の問題として位置づけていない点で問題がある。性売買と家父長制を区別することは、両者における「性的客体化」の契機それ自体を否定することではない。
 家父長制と性売買の諸問題は、渋谷が指摘するように「原因-結果関係」にはない。だが、まったく無関係でもない。川畑が指摘するような「性的客体化」が両者に内在しているからである。しかし川畑の議論とは異なり、家父長制と性売買の問題は、貨幣による他者の身体の「性的客体化」という共通の機制によって説明できる二つの「現象」として位置づけられるべきである。「家父長制」とは、当人が制御できない次元である「性」に基づいて男性が女性を抑圧・支配可能にする制度(その一部が女性の「性的客体化」である)、である。この制度は、後述するように、売り手の制御できない次元である「感覚」が商品の中に含まれることで買い手によって売り手の許容範囲を超えた行為の余地が作られる性売買市場と、同型の機制をもつ。
 問われるべき点は、自己決定権を侵害される可能性が現在の性売買に内包されているか否か、内包されているならばそれをどのように改変すればよいか、である。上記の議論はそれぞれ妥当な部分を持ちつつ、別種の限界がある。そしてそれはいずれも、性売買に固有の問題への「問い」を欠いてい104>105るという点に起因する。

1−3. 性道徳論

 はじめに述べたように、これらの議論は、性売買を「家父長制」(あるいは「性的奴隷制」)の産物だと見なして批判するだけでは、むしろ性労働者(女性)を取り巻く状況を不可視化し温存することにしかならないのではないか、という問題意識を共有している。そしてしばしば従来の性売買批判は、「性道徳」を前提にした議論として批判される。たとえば細谷実は、「性道徳に拠ることで娼婦性をもっぱら売春婦にのみ見いだし嫌悪し、売春婦を抹消してしまおうとする女性たちのふるまい」や「一般の女たちが、性道徳に囚われて売春婦たちを不道徳視すること」に問題がある、とする(細谷, 2002: 100)。また、瀬地山角(瀬地山, 2001)は女性労働者全般がおかれている「不利な就労環境」(ibid. :136)を指摘する議論について、「自己決定だとの主張によっても容易には拭い去れない性労働がはらむ問題とは何なのか」と問いながらも、「仮にそれが保守主義や近代主義のように、自己の当然とする性規範から逸脱しているというレベルの議論であれば」として「性規範(性道徳)」の問題に焦点を移行させ、問いそのものを「性道徳論」に還元している(ibid.)。
 では、この種の議論で「異性愛単婚主義」などに単純化される「性道徳」と呼ばれる規範は、具体的にいかなる内容をもつのか。たとえば、《性的行為とは相互に相手の身体感覚への配慮を媒介にして行われるべき相互行為だ》と言うとすれば、それは否定すべき「性道徳論」になるのか。あるいは、これを前提にして、《性売買では、性的行為に本来必要なはずの配慮が貨幣と交換に省略されるため、売り手が許容できないような行為(暴力性)を排除できない》と主張するとすれば、この主張が「性道徳論」として否定されるのか。または、「性売買では、貨幣と交換に売り手の身体感覚への配慮が省略される」という命題を、「配慮が欠けても仕方がない」とか「配慮を省略してよい」といった形式で理解しているという理由で、批判されるのか。
 最後のような理解が批判されるべきであるというのは自明である。だが、「自己決定論」が、《性的行為に必要なはずの配慮が貨幣によって省略されることが、性売買における暴力の原因になっているのではないか》という「問い」それ自体を否定するとすれば、それはむしろ問題を隠蔽する。たとえば、「売春が危険であると言って、売春の危険性を売春自体に固有だと認めてしまうことは、売春をますます危険なものに固定化してしまうのを手伝うことになる」(松沢呉一+スタジオ・ポット編, 2000: 113)といった主張がそうである。この主張は「問い」自体を封殺する。これを受け入れる論者は、問題を性売買にとって外的かつ偶然的な要因に起因するものとして位置づけざるをえなくなるからである。
 だが、まず、この主張自体が妥当ではない。第一に、性売買の危険性が「固有のものではない」と述べるためには、「危105>106険性」がどこに由来するのか(それは固有であるか否か)という問いに答える必要がある。第二に、この主張が「固有の危険性がある」という認識と「危険があるのは仕方がない」といった主張を混同しているとすれば、それは間違いである。現在の性売買に「固有の危険性がある」と述べることは、「危険性を放置してよい」ということではない。逆に、危険性をなくすために必要なのは、現に性売買において頻発する暴力など(危険性)が何に由来するのか、という問いである。もし現在の性売買市場に「固有」の危険性があるとしても、それは、性売買市場の構造そのものを改変するという課題を設定すればよいからである。むしろ、固有の危険性があるか否かを探求する以前に、危険性への「問い」それ自体を否定することは、問題を放置することにしかならない。  性売買批判の「問い」を捨て去るべきではない理由は、それはたとえば《性的行為には相手を尊重した配慮が必要であり、貨幣はそれを切断する装置になっているのではないか》といった形で設定されることで、性労働者の自己決定権を擁護するために改変すべき対象を明確化する問いになるからである。
 従来の性売買批判はこの問いを前提にしつつ、それに対して、「家父長制」による女性の抑圧・差別によって答えてきた。その根拠は、現在の性売買における売り手と買い手のジェンダー間の非対称性である。以下では、この議論を再確認し、その一定の妥当性を確認した上で、ジェンダー間の非対称性を作り出す社会と性売買における性労働者の性的客体化を、同じメカニズムに起因する二つの現象として位置づける。

2. 性売買と自己決定の限界

2−1. ジェンダー・セクシュアリティ体制

 自己決定論からの従来の議論への批判は、当人の決定や意思に関わらず「女性の性」がもっぱら「売るか否か」の決定対象になるという「非対称性」(それを「家父長制」と呼ぶか「性的奴隷制」と呼ぶかは問題ではない)を、性売買における諸問題の「原因」とするならば、現存する性労働者の自己決定権の保障という課題は「対処療法」にすぎないということに対する批判である。この批判は、性労働者の主張とも共鳴している。だが、それに加えるべき点は、ジェンダー非対称性を問題にする立場からは、女性が男性を買う性売買や同性間の性売買については何も言えなくなるということである。同時に、自己決定論にも、性売買そのものの構造への問いを省略するという問題がある。
 では、従来の議論では、この「非対称性」と性売買における「性的客体化」はどのように関係づけられてきたのか。この問いに答えるのは難しくはない。鍵になるのは、@「性的」なものも含めて、相互行為一般において主導権を握る・能動的な立場を占めるのが「男性」であるということ、A市場における貨幣へのアクセス可能性がもっぱら「男性」にあること、B労働市場からの女性の排除(および労働市場における106>107男性主義的な「能力」規定)、この三者の関係である。
 ここではこの点を、加藤秀一(1998)の議論を手がかりにして確認しておこう。加藤は、「性の商品化」という表現が、「商品ではない性」が存在するといった観念を前提としている限り「批判的な言説は袋小路に入り込」むと指摘する(加藤, 1998: 235)。加藤によれば、近代家族内部の婚姻や、恋愛に基づく性的交渉としての「商品ではない性」(〈性〉と表記される)は、@「性の商品化」と同時に成立したものであり、Aこうした〈性〉の観念の成立と、〈労働〉(商品ではない労働)の観念の成立には「実質的で内的な連関」がある。

「〈労働〉の誕生は〈性〉の誕生の条件をなす……すなわち、資本制システムの内部において異質な諸領域を貫く「労働そのもの」という概念が成立し、同時に具体的な労働から労働力=商品が分離されたとき(そこに抽象的人間労働という概念が位置づけられるべき実定性の領野が切り開かれる)、かつそうした〈労働〉の対価として得られる賃金が万人にとって生存の条件となるような社会が成立するとともに、労働力の再生産すなわち生殖メカニズムとして無償の家事労働を担う「主婦」およびその活動舞台としての「近代家族」「家庭」が誕生せしめられる一方、生殖と結びつかない・まったき余興としての(ただし男性=賃労働者のみにとってのことだが)性はその境界の外に隔離され、ここに、今われわれが知っているような「男性=賃労働者」「主婦=支払われない再生産者としての家事労働者」「娼婦=支払われる再生産者としての性的サービス労働者」という性別役割のトリアーデが構造化された。このとき、女は「主婦」と「娼婦」とに二分されつつ、資本制との関係においては、男性労働力の再生産者として共約すべき位置価を与えられることによって、ついに近代的な幻想としての〈女〉となったのであり、したがって、そのような〈女〉観念を特異点とする〈性〉の観念と諸実践がそこに成立し得たのである。」(ibid.)

 ここで、〈労働〉の誕生と同時に成立したとされる〈性〉(商品ではない性)とは、「主婦=支払われない再生産者としての家事労働者」の性としての女性の性を指す。以上の加藤の記述は、「ジェンダー(gender)」「セクシュアリティ(sexuality)」「セックス(sex:生物学的性差)」を連関させるメカニズムと論理に関する社会理論の基本認識を示している。そのメカニズムは、現在の性売買市場と労働市場における「男性/女性」の「非対称性」を成立させているメカニズムでもある。本稿に必要な限りでこのメカニズムを再確認しておこう。それは、以下の三つの契機の連関によって説明できる。
 @男性を公的領域(属性から切り離された労働能力そのものが評価される(とされる)領域=賃労働市場)の担い手とし、女性をその属性によってそこから排除して私的領域(「近107>108代家族」)に置き、特定の男性の稼得に依存させ、再生産業務の担い手とする(「ジェンダー」秩序の成立)、Aそれと相即的に、この公私のジェンダー区分を支え維持する機能を果たす装置として、女性の性が「セクシュアリティ」と結びつけられつつ、Bこの二つの作用(労働/セクシュアリティのジェンダー化)が女性の「セックス(生物学的性差)」によって事後的に正当化される。「セックス」によって正当化される内容は、「女性」を妊娠・出産する性としてもっぱら規定し、子を再生産・育成する領域に囲い込むと同時に、その「セクシュアリティ」を、特定の男性によって保護・管理されるべき対象として位置づける――異性愛単婚主義的な「性−愛」観念と結びつけられた――規範である。近代の〈性〉すなわち「セクシュアリティ」が「〈女〉観念を特異点とする」のは、それが「妊娠可能性」に結びつく行為に投錨されているからである。
 まとめれば、労働のジェンダー化(労働者の男性化)は、同時にセクシュアリティのジェンダー化(女性の母親化と女性の身体の性的身体化)であり、この労働とセクシュアリティのジェンダー区分を支える「原因」として事後的・遡及的に見出されるのが「セックス」である。女性を「セクシュアリティ」を体現した存在として「私的領域=近代家族」に排除しつつ囲い込む作用と、「公的/私的」という「ジェンダー」区分を成立維持する力は相即している。逆に言えば、「公的領域」とは、そこから「女性(とそのセクシュアリティ)」を「私的領域」において自由恋愛(および自発的・人格的関係性)に基づいて交換されるべきものとして区別して排除し、その外部に囲い込む〈作用〉を措いて存在しない。そして、この〈作用〉は日々のミクロな諸行為において作動し続けている。  以上は、性売買における非対称性を説明し、さらにそこで暴力の可能性の源泉となっている、性的行為における男性主導主義を説明する。相互行為における「男性主導主義」的な価値観の要素は、二つに分けることができるだろう。第一の要素は、性的行為をはじめとした男女間の相互行為における主導権を、男性が独占しやすい構造が存在するということである。そして第二の要素が、セクシュアリティの領域とされる「私的領域」とは、「非人格的(インパーソナル)」な労働市場における男性の経験を「補完」するような「全自我を関与させうる……人格的な関係」(Luhmann, 1982=1988: 68(「パーソナル」を「人格的」に変更))の領域として位置づけられていることである。
 第一点は、男性が「生活のための財の供給を独占することによって女を従属させることができる」(立岩, 2006)ということである。

「商品を購入することによって生活のかなりの部分を成り立たせている場合には、その生活は貨幣をもたらす行為、通常は賃金労働に依存している。これは否定しようがない。108>109夫しか金を稼いでこないのであれば、生活が夫なくしては不可能になる。妻は生活の糧を握られている。とくに生産の場が構造的に女性を排除している場合には、この依存関係を絶つことは難しい。男はこれを切り札にすることができる。つまり夫は妻の生活を支配している。」(立岩, 2006: 12)

 生活資源の非対称的な配分によって、男性が女性を支配しやすい構造が作られる。
 第二点は、「私的領域」が、労働市場における非人格的なコミュニケーション様式との差異によって規定されるということである。つまり、「私的領域」における具体的な相互行為の適切性は、「非人格的」な客観的ルールによってではなく、個々人の固有かつ特異な人格の関与と自由で自発的な合意(それが「愛」と呼ばれたりする)によって規定されることになる。「私的領域」とは、そこでの相互行為の具体的な内容の適切性の判断に関して、当の相互行為者を超越する何らかの「公的」な基準が存在しない領域として、(そのこと自体が「公的」に)位置づけられているのである【9】。
 性商品の売り手と買い手の非対称性は、男女の相互行為における男性主導のジェンダー秩序と同じロジックによって説明できる。そして、買い手の男性にとって、そこで商品化されているものは、「女性(の)性」としてもっぱら規定されるセクシュアリティである。ここで、「労働のジェンダー化/セクシュアリティのジェンダー化/セクシュアリティの異性愛セックス化」をめぐる基本的な点を図示しておこう。



領域  交換様式・相互行為様式 媒体      交換主体          交換客体
公的領域 非人称的・市場   貨幣       貨幣所有者(主に男性)   男性の労働力(「非性的」な能力)
私的領域 人称的・近代家族 自発的関係性・自由恋愛 両性(主に男性)  女性の性・妊娠能力

 図の二領域は、人間の生存・生活の条件として対等な関係にはない。「公的領域」において獲得される貨幣が、この社会では「私的領域」の存立条件だからである。「愛」などを媒体にした「人称的」な交換様式は、「貨幣」の存在をその成立条件にしている(愛を食べて生きることはできない)。このことは、「人称的」な相互行為の交換様式をめぐる定義権を、貨幣所有者である男性が独占することを阻む要素は存在しないが、女性が持つことは「公私」のヒエラルキーによって阻まれうる、ということである。そして、「私的領域」における媒体を「貨幣」に、交換主体を「男性」に変換すれば、それが「性売買の領域」である【10】。
 逆に言えば、たとえば「私的領域」での「主婦」の地位は、相互行為に対する貨幣の規定力を「愛」が隠蔽している限りで維持されているにすぎない、と言うこともできる。つまり、この「愛」は、「主109>110婦」が「娼婦」から自らを差異化・差別化するメルクマールでもある【11】。また、特定の男性に対して身体を「贈与」させるという「性的奴隷制」も、男性に貨幣(生活・生存の条件)の所有=処分権を優先的に配分する労働市場システムとセットである。

2−2. 性売買における自己決定の限界

 だが、では、性売買において売り手に対する暴力が頻発するという事態は、以上の「ジェンダー・セクシュアリティ体制」およびそこにおける男性主導主義的セクシュアリティに還元されるのだろうか。
 たしかに、ジェンダー・セクシュアリティ体制は、性売買における買い手/売り手のジェンダー間の非対称性を説明している。しかし、性売買に限らず、職業上の男女の非対称性は存在する。たとえば、建設作業の現場やゴミ収集などいわゆる3Kと呼ばれる労働に従事する人の多くは男性である。では、なぜそうした「非対称性」は問題にならず、性売買における非対称性だけが問題になるのか。前者を問題にせず性売買だけを問題にする理由を、職業における「性別非対称性」に求めることはできない。問われているのは、「性売買」に現れる限りでの性別非対称性である。性売買への自己決定の「前提」の問題は「性別非対称性」そのものではない。「性売買」に問題がある限りで、そこにおける男女の「非対称性」が問われているのである(言うまでもないが、フェミニズムに代表される従来の議論が何らかの「性規範」を前提にしているからでもない。現在の性売買市場そのものが一定の性規範を前提にして成立しているからである)。
 また、性売買における諸問題がすべてジェンダー・セクシュアリティ体制によって説明されるのだとすれば、同性間の性売買などには問題はないということになる。ジェンダー・セクシュアリティ体制は、性売買において売り手の性的自己決定が侵害されやすい状況の《原因》ではない。むしろ、ジェンダー・セクシュアリティ体制の問題と性売買の問題とは、同一の機制と論理の二つの現象にすぎない。では、両者に共通する問題とはなにか。それは、貨幣所有権の配分の非対称性が、とりわけ性的行為などの身体の受動性を随伴するような相互行為における、身体の直接的な処遇に関わる「主導権」の配分の非対称性に容易に転化しうる、ということである。
 たとえば、家族での男女の相互行為の主導権や定義権の非対称性に転化することが、男性の女性に対するドメスティック・バイオレンスの原因である。つまり、上記の「体制」は、性売買における諸問題の発生を説明しない。逆に、性売買における諸問題――それはさしあたりジェンダー差別とは独立に指摘できる――も、上記の体制も、同じ機制と論理によって説明されるべき対象にほかならない。
 たしかに、現在の性売買における売り手と買い手の「ジェンダー非対称性」は、貨幣所有者男性が女性の身体を交換の110>111対象(行為の客体)として位置づけることを許すようなジェンダー非対称的な「公的/私的領域」の構成とセットである。そしてまた、男性の稼得に女性を依存させる近代家族制度と、そこにおける「男性主導主義的」な――もっぱら男性が能動性を発揮し、女性は受動的な位置に置かれるような――性行為の観念が支配的だということは事実だろう。だが、性売買において売り手が性的客体の位置に置かれるのは、単に男性中心主義的なジェンダー・セクシュアリティ体制に起因するわけではない。つまり、女性が「買い手」となり男性が「売り手」になったとしても、あるいは同性間での性売買でも、問題はなくならない。
 では、性売買において売り手が性的客体の位置に置かれやすいのはなぜか。そしてそのことが、売り手の性的自己決定権を侵害する可能性を高める要因になるのはなぜか。それに答えるためには、「性を他の諸活動と区別できるのかできないのか、できる(できない)としたらそれはなぜか、という問いに――ただ問うだけでなく、あるいは問うことの重要性を繰り返すだけでなく、実際に――答え」を出す必要がある(加藤, 1998: 264)。
 この点では、「ジェンダー・セクシュアリティ体制」のメカニズムを抉訣している加藤の議論にも問題がある。加藤は、金塚貞文(1997)を参照して、「商品化されない性」を「婚姻内の性」として限定しつつ、「〈性の商品化〉を免れた無垢な性そのものなどは存在しない」(ibid.: 235)と普遍化している。だが、それはミスリーディングである。じっさい加藤は、「括弧抜きで記さなければならない」ような「性」(ibid.: 247)を「婚姻内の性」としての括弧つきの「商品化されない〈性〉」から、区別せざるをえない。「商品化された性」と対比される「商品化されない性=婚姻内の異性愛男性中心主義的な性」は、加藤が「括弧抜き」で記す「性=商品化されない性」が、前項で示したメカニズムに回収された結果に過ぎないからである【12】。
 むしろ、性的行為には、「異性愛」や「単婚」といった特定の性規範やジェンダー秩序に必然的に結び付くような何らかの本質などない。そして、「性的行為とは何か」という問いに対して「正解」――その行為内容の適切性についての客観的な基準――が出せないからこそ、それが貨幣によって交換されることに問題が生ずるのである。セクシュアリティと労働をジェンダー化するこの社会では、セクシュアリティは「男性主導主義的異性愛」という形式にコード化されている。だがそれは、つねにこの形式にコード化されるわけではない。当然のことだが、すべての男性が「男性主導主義的な異性愛主義者」であるわけではない。
 ジェンダー・セクシュアリティ体制の問題とは、性的行為にかかわる限りで言えば、女性が、「性」という当人にも自由にできない属性によって労働市場から排除されることで生活・生存手段=貨幣へのアクセス権をもつ者(男性)に依存せざるをえない状況に置かれ、それにより、個別的配慮によ111>112って成立しているような相互行為における行為の定義権を男性に握られる(配慮が省略される)可能性が高まることである。この、貨幣所有者とその支払い(譲渡)に依存せざるをえない側との非対称性は、ほとんどの場合「ジェンダー非対称性」と重なっている。だが、配慮が貨幣によって省略されること自体は「ジェンダー非対称性」の帰結ではない。性的行為にかかわらず、貨幣に媒介された相互行為においては、貨幣所有者が当該行為の内容の定義権をつねに独占しうる立場に立つことができるからである。
 そして、前項で指摘したように、このジェンダー・セクシュアリティ体制は、すでに有利な位置に置かれた男性が、日々のミクロな諸行為においてこの「非対称性」を再生産しない限り維持されない。言い換えれば、この体制が割り振る非対称的な位置が、個々の男性・女性の諸活動を全面的に規定しているわけではない。そうではなく、有利な位置に置かれた男性が、個々の行為のなかでこの「非対称性」を利用することによって、遂行的にこの体制が維持・再生産されているのである。これをJ. Butlerの表現を借りて、《既存の体制でのマジョリティによる「呼びかけ」に個々人がミクロな諸行為において「応じる」ことにおいて、当の「呼びかけ」の効力(権力)が遂行的・遡及的に実現されているのだ》と言ってもよい。呼びかけの効力は呼びかけに応じる諸実践の結果だが、この効力は、それに応じる諸実践のなかで、《あたかも事前に存在したかのようなもの》として先行的に投射される。つまり、この体制を維持するのも解体するのも個々人――男性――の日々の諸行為次第である。
 性売買においては、買い手はこの体制での「男性」と同じ位置を――女性の買い手も――占めることになる。では、性売買において売り手の自己決定権を侵害する可能性を高めているものはなにか。その要因をさらに明確化するためには、性商品と他の商品とを区別する要素を明らかにしておく必要がある。

2−3. 性労働と性商品

 従来の性売買批判論においては、立岩真也(1995)などごく少数の議論を除いて、性商品(性的サービス)と他の商品との相違点、そして性的行為と他の相互行為の相違点を直接的に論じようとした議論はない。ここでは、前者すなわち性商品と他の商品との相違点を、性売買における「性商品」の価値の構成要素を考察することを通して明らかにしておこう。
 まず、「商品」および「価値」という語について確認しておくべき点は、買い手が価値付与するものが「商品」となりうる、という点である。第一節で言及したように、性売買において何を「売る/売らないか」は売り手が決める、という主張に即して言えば、何が「売れる/売れないか」を決めているのは買い手である。一般に、売り手が「売る」と決定したものでも、買い手がつかなければ売れない。この貨幣所有112>113者と商品所有者の非対称性を前提にして、性労働の特異性を確認していこう。近代の「労働」概念は次の三点によって特徴づけられる。第一に、何らかの結果を出すことを目的としてなされる活動であること、第二に、社会的分業の一部を構成する活動であること、第三に、誰がそれを行うかに関係のない非人称的な活動である、という点である(後藤浩子,2004: 150, Himmelweit, 1993=1996)。
 重要なのは第三点、すなわち労働によって産出される「商品」およびその価値が、「労働者」自身から分離可能か否か、である。「労働者」から「商品」およびその価値を分離可能な労働は、他の人が行っても商品の価値に変わりはない。それに対して「性商品」は、@労働者当人と物理的に切り離すことができず、A買い手には「何を・誰から買うか」の権利が制度的に保障されている。つまり「誰」の次元が商品価値の構成要素になっている。性売買において、買い手にとっては「売り手自身」とその人が行う「性的サービス」とが峻別されておらず、しかも、そのこと自体に価値が付与されている。すなわち買い手は「誰から買うか」に価値を与えている。そうでなければ、「誰から買うか」に関する選択肢が与えられる必要はない。たとえ性労働者が「性労働」と「身体そのもの」を分離できたとしても、その態度が買い手に共有されていない限り、性労働者が労働に与える価値は、「性商品」の価値を構成する要素としては二次的なものになる。言い換えれば、その選択肢が担保されている限り、性労働者に対しては「行為」と「身体」の切断が要請されるのに対して、買い手は両者のセットを購入している、というギャップはなくならない。
 もちろんこの点だけでは、特に性商品をその他の商品から区別するに十分な理由にはならない。まず、買い手が商品に付与する価値と、売り手が商品化しようとした価値との齟齬(ギャップ)がないような商品はほとんどない。また、「誰が行うか」が買い手にとって重要な価値をもつ商品(労働)としては、モデルやタレント等々も同じである。それらの商品価値は、売り手の身体や容姿といった自己決定の範囲外のものと不可分だからである。
 しかし、性売買においてこのギャップを看過すべきでないのは、買い手と売り手の商品の内容(価値付与対象)におけるギャップ自体に「性的自己決定権の侵害」の可能性が内包されているからである。このギャップが、性売買における「性的自己決定権の侵害(性暴力)」の可能性の基盤になるのは、それが買い手の売り手に対する行為に反映する可能性があるからである。
 モデルや役者やタレントなどと性売買との決定的な相違点は、買い手の売り手の身体に対する直接的な行為可能性、つまり買い手の行為に対して売り手の身体を「客体化」する可能性が、商品そのものに内包されていることである。その可能性がないならば、そもそも買い手による「暴力の可能性」自体が問題にならない。通常の商品では、売り手が予定・予113>114想・指定した使用法を逸脱するような使用法を買い手が行っても、それを売った者や作った者自身に直接的な影響はない。たとえば、自動車を(映画の撮影などで)破壊するためにだけ使っても、自動車メーカーの社員の身体に直接影響を与えることにはならない。だが、商品の内容に、「買い手の売り手に対する行為可能性」が内包されている性商品では、買い手が商品に付与する価値と、売り手にとっての商品=労働の価値とのギャップが、売り手の身体への行為の内実に直接的に反映される可能性がつねにある。
 以上の説明はさらに補足を必要としている。性労働者の性的自己決定権の侵害の要因を明らかにするためには、性売買市場の買い手が前提にしている「性的行為」の観念を、その他の行為との差異において規定する必要があるからだ。以下で見るように、問題は、性商品のなかで観念されている「性的行為」においては何が「正しい・適切な」行為になるのかということを決定する客観的な基準が存在しない、という点にある。「性的行為」とは相互の身体に受動的な感覚を惹起する行為であり、相手に対する特段の「配慮」とそれを通した行為の制御が必要とされる行為である。そして、貨幣はこの配慮を省略させる機能を持ちうる。
 当人の「自己決定」や「自発性」(圧力の不在など)が「性的行為」に関して特に要請されるのは、そこで惹起される受動的な感覚の範囲や強度に関する適切性をめぐる判断基準を客観的に定めることはできず、行為当事者相互に対して、他者が感受する感覚への高度な配慮が要請される行為だからである。それは、性的行為とその他の行為との差異を見ることを通して確認できるだろう。

3. 性的行為と自己決定

3−1. 性・暴力・性暴力

 「性的行為」と他の行為との差異は何か。ある行為が「性的」とされたりされなかったりする根拠はどこにあるのか。結論から述べておけば、「性的行為」の特異性は、それが「暴力」(さらには「性暴力」)と切り離して定義することはできないという点にある。この点で参考になるのは、「性暴力」をめぐって対照的な議論を展開している加藤秀一(1998)と浅野千恵(1998)の議論である。加藤と浅野の議論の論点にはズレがある。このズレから明らかになるのは、「性的」という語の指示対象の不確定性である。
 浅野(1998)は、「強姦に対する定義や解釈(の権利)」(浅野, 1998: 180)を被害者(とりわけ女性)の側に「取り戻す」(ibid.: 179)ことを目標とするフェミニズムの観点から、上野千鶴子らによる「性=人格論批判」を批判している。浅野によれば、上野らの議論はその意図に反して「性暴力」の被害を隠蔽する機能を持ちうる。「性」の位置づけを個人の内面的な問題――「近代的性規範」――に結びつける議論は、「性を特別視しなければ、性暴力を受けてもそれほど深い傷を残さなくてもすむかもしれないとか、売春もマッサージ業と同114>115じようなものになるかもしれない」という主張に結びつけられる可能性がある。だが、そのような主張は「暴論に近い」(ibid.: 176)。なぜなら、そうした主張は、「性暴力の被害を深刻なものにさせている原因を性暴力という行為それ自体に求めず、性と人格の結びつきに求める」ことになるからである(ibid.)。
 加藤(1998)は別の観点から「性」と「暴力」について論じている。加藤によれば、「性暴力」という語は、端的な暴力を「性」という語によって隠蔽する効果をもちうる。それに対して加藤は、むしろ「望まない仕打ちを強要することが暴力なら、それは性暴力ではなく単に暴力であり、それで十分ではないのか」と指摘する(加藤, 1998: 324)。加藤によれば、必要なことは「強姦を「性」にカウントしない」ことであり、「強姦」は単なる暴力である(ibid.)。その上で加藤は、「「性暴力」から「暴力」を引いた残余」がもしあるとすれば、それは「屈辱」あるいは「辱める」という契機ではないか、とする(ibid.: 326)。強かんをそれ以外の暴力と区別するのは、被害者を「辱める」という契機の存在である。「言語の暴力が肉体的暴力のように傷つけるのではなく、「性暴力」においては、肉体的暴力が同時にある種の言語のように/言語として、被害者を傷つけるのだ」(ibid. 328)。つまり、性暴力はそれ以外の暴力と異なり、肉体的毀損を及ぼす暴力である以上に言語的な暴力に「固有の特性」をもち、被害者の「実存そのものを侵害してしまう」(ibid.)。
 「何がレイプであるかを決める決定権」(浅野, 1998: 179)すなわち「性暴力」の定義に関して、「被害者」の感覚に定位することの重要性を指摘する浅野に対して、加藤は「性暴力」を特徴づける性質を「加害者」の「辱める」という意図や目的に見出していると言えよう。
 では、こうした浅野と加藤の議論から何を読み取るべきか。まず、被害者による「性暴力」の定義や解釈を尊重すべきである、という浅野の指摘は妥当だと言える。浅野が指摘するように、加藤の議論では、加害者が侮蔑する意図がない場合には「性暴力」と呼ばれない、ということにもなりうるからである(ibid.: 180)。だが、もし浅野の議論から、被害者の感覚が「性暴力」の規定にとって必要十分条件だとしてしまうならば、それは広すぎる。被害者が性暴力だと感じさえすれば、完全な不随意運動も「性暴力」と認定されることになるし、また反対に、被害者が性暴力と感じなければ「性暴力」は存在しないことになるからである。つまり、浅野の加藤への批判は、加藤が加害者の意図や目的を性暴力の「必要条件」としているのだとすれば、たしかに妥当である。この点、両者の議論は、性暴力の必要条件を論じているのか十分条件を論じているのかが曖昧である。
 ここで視点を変える必要があるだろう。両者の議論を、ある行為を「性暴力である」と規定するための積極的な条件ではなく、ある行為を「性暴力ではないとは言えない」のはどんな場合か、という消極的な(いわば言明可能条件への)問115>116いに対する回答として位置づけるのである。両者の議論を、「性暴力ではないとは言えない」という消極的規定のための――したがって「それは性暴力ではないのか?」という問いが成立するための――十分条件として解するならば、次のように言える。加藤の議論からは、加害者にその意図や目的があれば、たとえ即座に被害者が性暴力だと感じなかったとしても(失神し記憶を失っていたとしても)、その行為を「性暴力ではない」とは言えなくなる。また、浅野の議論からは、被害者が性暴力と感じさえすれば、それを「性暴力ではない」とは言えなくなる。
 浅野の議論から示唆される論点に沿って考察を進めておこう。浅野の議論が常識的に妥当だと言えるのは、それが、感覚報告に対する「第一人称特権(first persons’ authority)」の観点の必要性を示唆しているからである。ここで第一人称特権に関する哲学的議論は必要ない。ポイントは、性的行為と暴力を区別する基準になり得るような「客観的(第三人称的)な観点」は存在しないということである。たとえば「性的行為のなかで何が《暴力》になりうるのか」という問いには、「その基準になるような《客観的な尺度》は存在しない」としか答えられない。性的行為のなかでいかなる行為が「暴力」になるのかを定める基準が客観的に存在しないということは、性的行為として記述され得るいかなる行為も、文脈と解釈によっては「暴力」になりうる、ということである。逆に言えば、第三者からみて「暴力的」でしかないような行為も、当人たち相互の同意によっては「性的行為」として規定されうる。このことは、「性的行為」と「暴力」を峻別しようとする加藤の企図は、失敗せざるをえないということでもある【13】。むしろ逆に、「性的行為」は、それに対する「合意」がなければ「暴力」として規定される可能性の高い相互行為、として規定されるだろう。
 性暴力が単なる暴力から区別されるのは、文脈依存性の有無である。端的に衝撃を与えて相手を打ちのめすだけの暴力は、文脈破壊的(コンテクスト・フリー)である。つまり、いかなる文脈に置かれているかに関わらず、同じ行為がつねに破壊的に働く(萱野稔人, 2005)。それに対して、「性暴力」として記述される暴力には、加害行為のなかに、文脈によっては通常の性的相互行為に分類されうるような行為が含まれている。それは、多くの論者が批判するように「強かん者の言い訳」の余地を作ると同時に、逆に、被害者の訴えを最優先しこれを尊重するための可能性の条件でもある。つまり、性的行為を行う人は、性暴力から完全に距離を取ることができない。つねに暴力に転ずる可能性を有しているということが、「性的行為」を他の行為から区別するからである。性的行為に典型される接触行為には、この両義性――通俗的な言い方をすれば「快楽と暴力」を分ける基準の脆さ――は不可避的である。
 では、性的行為と暴力との間に明確な線をなぜ引けないのか。それは、「他者に触れる/触れられる」という日常的経験によって理解できる。私たちは、見知らぬ他人に、同意も116>117なく触れたり触れられたりするのには「抵抗」がある。あるいは「不快」でさえありうる。しかも、たとえば満員電車で見知らぬ他人と背中が触れ合うことと、顔と顔が触れ合うことは異なる。また、肩が触れ合うことと下腹部に手が触れることは異なる。こうした身体部位に応じた「感覚」の種別性が歴史的社会的に「構築されている」といった類の議論に意味はない。身体部位に応じて客観的(超歴史的)な能動性/受動性の非対称性があるからだ。違和感や不快の理由は簡単である。身体に触れられれば、何らかの感覚が与えられるからであり、人は、その身体に及ぼされる「感覚」に対して受動的たらざるをえない(無感覚ではいられない)からである。感覚の「解釈」の変更は可能かもしれないが、それは「感覚が与えられたこと」自体を消去しない。言い換えれば、感覚には、主体的・主観的な制御可能性を逃れる部分――身体が自己の自由にならない部分――が必ずある。そして、身体部位によってこの能動性/受動性は異なる。たとえば見知らぬ人に手で触れる(触れられる)のに違和感があるのは、手は身体部位のなかで最も能動的な場所だからである。この能動性の程度が高まれば、触れられる側に感受される感覚も受動的な性格を増す。同一状況で同一部位を同一強度で触れられるとしても、偶然手が当たることと意図的な接触とでは感受される感覚の性格は異なる。だからこそ、一定以上の範囲・時間・強度の感覚を惹起する行為は、つねに何らかの目的の「手段」として位置づけられているのである。
 たとえば、医療では資格・医学的適応性・同意等々の諸条件が、医者の患者の身体への接触行為を制御するために設定されている【14】。また、マッサージや介助は、接触を受ける側が貨幣によってサービスを受ける主体として(理念的には)相手の接触行為を制御できる位置にある。明確な「目的」が欠けているように見える挨拶の抱擁などでも、公的に共有された慣習に従って、その物理的範囲と時間そして強度などがあらかじめ規定されている(強い接触行為を伴う格闘技も、どちらかが相手に金を払って一方的に殴ったりしているわけではなく、共有されたルールによって相互の立場が対等に設定されている)。
 それに対して、「性的行為」として規定される相互行為の特徴は、身体に「触れられる/触れる」ことによって他者に感覚を「与える/与えられる」ことそれ自体が行為者相互にとって主要な「目的」になっている、という点にある。ここで「性的行為」を、@「接触行為によって身体に何らかの感覚を与え/感覚が与えられること(身体の主体的な制御を逃れる契機の開示)」それ自体を主要な目的としていること、A接触の主体と客体の反転可能性・双方向性、の二点によって、他の接触行為と区別できる。そして、@は、Aの相互性が欠けた時点で暴力になる。そしてこの相互性は次項で詳論するように、きわめて不安定な均衡の上に成立している。
117>118

3−2. 性的行為における主体性

 以上の考察を大澤真幸(2000)の議論で補強しておこう。大澤もまた、「性暴力」が他の犯罪や暴力よりも「深い嫌悪感」あるいは「おぞましさ」を覚えさせるのはなぜか、という問いを媒介にして、性的行為の特異性にアプローチしている(大澤, 2000: 276)。性暴力が単なる暴力よりも「過剰」な悪を感じさせるのは何か。あるいは性暴力の「おぞましさ」は何に由来するのか。大澤によれば、この過剰性の内実は、単にそれが「意思に反する暴力である」(ibid.)ということからは説明されない。
 大澤は、この「過剰さ」の由来を、性暴力(レイプ)とは対極にあるような「双方の完全な合意、完全に透明な合意に基づくセックス」の想定を通して考察している。「行動の一つひとつに関して、明示的な合意を確認しながら進められているセックス……あまりに透明な合意にしたがっているセックスは、逆に、むしろ冒?的なものに見えてくる」。それは、「相手の身体を利用した自慰以外の何ものでもない」からである(ibid.: 276-7)。つまり、「あまりにも透明に双方の意志を完全に相補的に満たしてしまう性的な関係は、性的な関係としては否定されてしまう」。とすれば逆に、性的な関係においては、個々の行為に関する「完全に透明な合意」が調達されていない、ということになる。したがって、

「性的な関係は、相手となる〈他者〉に不透明性が宿っていることを、つまり〈他者〉が完全には私の意思どおりには行動せず、したがってその分、私に対して暴力的であることを、成立のための不可欠の条件としている。」(ibid, 277)

 だが、これだけでは、レイプの被害の「過剰さ」の説明として十分ではない。以上だけでは、レイプは被害者の「潜在的意志や欲望」を実現したのだ、といったレイピストの言い分が正しいということにもなってしまうからである。だが、そのような「言い分」は「無論、間違っている」(ibid.)。
 大澤によれば、性暴力を特異なものにしている「性的行為」の特徴とは、単に自分の意思を超えた行動をするような不透明性を有している他者への欲望だけではない。むしろそれは、「〈私〉からは透明に見通すことができず、〈私〉によって制御されることのない〈他者〉の対象となるべく、自ら自身を能動的に供する」ことへの欲望(そしてその欲望の相互性)によって規定される。大澤はこれを、「〈私〉」の他者に対する能動性と受動性の反転可能性から説明している。

「〈私〉によって能動的に働きかけられるという〈他者〉の体験――〈他者〉にとっての遠心化作用――は、〈私〉に能動的に働きかけようとする志向へと――〈他者〉の求心化作用へと――反転しうるのだ。こうした反転は、さながら、〈他者〉の身体が〈私〉の身体に共鳴しているかのように映ずるだろう。」(ibid, 279)
118>119

 性暴力によって破壊されるのは、こうした「能動性とも受動性ともつかない事態、両者の中間に出来する事態」(ibid.: 278)であり、言い換えれば「〈私〉に所属しているとも、〈他者〉に所属しているとも言いがたい、この両義的な循環」(ibid, 279)である。
 ここで大澤が独自の用語で述べていることは、別に難しいことではない。ポイントは、性暴力が「おぞましい」のは「性暴力」と性的行為との差異がきわめて曖昧である、という点に由来するということにある。それは、「強姦に他ならない行為が和姦の如くすり替えられてしまう」(大越愛子, 1998: 97)という問題にもあらわれている。この「すり替え」が起こりうるのは、性的行為そのものにつねに暴力的な部分があり、それが暴力になるか否かは文脈依存的だからである。そしてこの(それ自体としては批判されるべき)「すり替え」の可能性が、性的暴力をその他の暴力と区別する要素であると同時に、性的行為をその他の行為と区別する可能性でもある。それはすなわち、「性的行為」の部分(だけ)は、文脈によっては相互行為にもなりうる可能性を否定できない、ということである。
 前項で私は、性的行為を「それに対する「合意」がなければ「暴力」として規定される可能性が極度に高い相互行為のひとつ」と規定しておいた。大澤の議論はそれを逆の観点から指摘している。「性暴力」を他の暴力から区別する基準は、「それに対する合意があれば、性的行為として規定される可能性がある」という点だからである。そして、この合意が客観的に担保されていないがゆえに、それはいつでも破壊されうる。
 だから、性的関係性の特徴は、そこでは《自分の意思の制御下にない相手の行為によって何らかの感覚を惹起されることに対する欲望》が相互に成立しており、したがってそれが「循環」している、という点にある。「循環する」というのは、相互に、自己の他者への能動性が、相手の自己に対する能動性によって規定されているからである。そして、性的行為においては、@行為者は相互に《他者の行為によって、自己の身体に与えられる感覚を経験・感受する》ことを欲しており、さらに、Aこの欲望についてのメタ・レベルでの相互了解が成立していることになる。自己の他者への能動性が、他者の自己に対する行為への受動性によって規定されているということは、自己の行為には、他者の行為に対する「受動的な反応」という契機が含まれる、ということを意味する。つまり、「私」の他者への能動性は、その内部に、他者による「私」に対する行為への受動的な反応(触発されたという契機)を含んでおり、同時に逆に、他者の能動性もまた、「私」の他者に対する能動性への受動的な反応を含んでいるのである。そしてさらに、この能動性と受動性の自他における反転可能性が相互に想定されていることになる。つまり、行為者の能動的行為それ自体のなかに、行為者の主体的な制御可能性を超過する部分(受動的反応の次元)が含まれているのである【15】。119>120
 「適切な行為」あるいは「正しい行為」の範囲をあらかじめ事前に確定しておくことは、こうした主体的な制御可能性を逃れる能動性と受動性の「循環」の可能性――これは相手の感覚に応じて自己の行為(範囲・強度等々)がその都度制御されるということでもある――を消去する。また、性的行為には、この「循環」が破壊されたということが一方に感受された瞬間、たとえそこに明らかな暴力(相手に身体的ダメージを与える行為)がなくても、即座に「暴力」に転ずる可能性が内包されている。
 具体的にいかなる行為が「暴力」になるのかが、事前に何らかの公的・客観的(非人称的)な基準に従って規定されえないということは、「性暴力」の定義をめぐって次のような帰結をもたらす。それは一方で、「性暴力への問い」において何よりも優先されるべきなのは、当事者の第一人称の訴えである、という立場を支持する。他方、行為の適切性に関して、当事者相互の感覚を超えた公的な基準が存在しないということは、性売買において性暴力が起こる可能性を単なる「偶然」であるとは言えなくする。
 性的行為が暴力ではなく相互行為として成立するのは、行為者が相互に与えられる/与える感覚に配慮し、相手の感覚に応じて行為を制御しあっている限りにおいてである。では、このように特徴づけられる相互行為を貨幣が媒介するとは何を意味するのか。つまり、貨幣は何を媒介していることになるのか。貨幣は、行為者相互のその都度の感覚や欲望によってのみ担保されるような関係性に伴う、個別具体的な複雑性を節減する(economize)装置である(大澤, 1995)。ここで貨幣は、買い手にとって「性的行為への同意」を調達する役割を果たしている。性的行為は通常の相互行為とは異なり、そのなかで行われる行為の範囲や強度が明確なルールや目的によって客観的に規定されえない行為である。いかなる行為が「正しい」行為であり、いかなる行為が「間違った」行為であるかに関する客観的で公的な基準が存在しないのは、性的行為という相互行為は、個別具体的なその相手が受容する「感覚への配慮」によって媒介されるものだ(と見なされている)からである。
 性的行為においては「性的行為としてなにが正しいか」という点が行為当事者間でその都度決定されるという認識が性売買――とりわけ買い手の――前提にある。それが、「性的行為への同意」を購入することと、個別的行為への同意を購入しているという認識とが等値される原因である。一言で言えば、貨幣は配慮を省略する機能をもちうるということである。
 つまり、性売買において、売り手の身体に対する買い手の能動的な行為が許容されており、また売り手に対する配慮を貨幣が省略する機能を有しているのだとすれば、性売買には――ジェンダー・セクシュアリティ体制とは無関係に――売り手自身がどのようにその行為を感受するかということへの配慮を省略させるような契機が内包されていることになる。貨幣が性的行為を媒介する配慮の程度を縮減させる装置であ120>121る限り、性的行為が貨幣によって媒介されること自体に、性暴力の危険性が内包されていることになる。
 ここから、性売買における性労働者の性的客体化を抹消するための課題は明らかになる。それはすなわち、現在の性売買における商品価値の構成要素に、買い手の能動的な行為可能性――売り手の受動性――が内包されているということ自体を、性売買における性労働者に対する暴力の要因として定位し、これを制御する方法を明らかにすることである。

3−3. 受動性の商品化と自己決定の可能性

 以上を踏まえて、現在の性売買における暴力のリスクを低減させるために介入すべき場所が明らかになる。
 指摘したように、第一の問題点は、売買される性商品の価値の構成要素に、買い手の能動的な行為可能性――売り手の受動性――が内包されているということである(はじめに述べたように、それ以外の、売り手の行為だけを売買する性売買は最初から問題にならない)。それは、現在の性売買における商品価値の構成要素には、売り手の能動的な制御可能性の範囲に収まらないような契機そのものが含まれているということを意味するからだ。
 その点を示しているのが、売り手は「感じていなくても感じているふりをする」(松沢+スタジオ・ポット編, 2000, 204)という議論である。問題は、その「ふり」は何のためにあるのか、である。「演技」や「フリ」が示している対象は何か? それは、売り手が何かを「感覚している」ということである。もちろん、それが「事実」であるか否かは関係ない。重要なのは、それが「商品化」されていることの意味だからである。では、何かを「感覚している」という「フリ」が商品化されているということは何を意味するのか。それは、買い手の行為に対する売り手の「受動性」が商品化されているということである。感覚は定義上、それを感受する側の意思や主体的制御可能性の外部にある。つまりそれは、売り手の自己身体に対する意思的・主体的な制御可能性と自己決定の範囲に収まらないような(性的客体化にされるような)契機が、商品化されていることを意味する。
 つまり性売買において買い手が求めている(購入しようとしている)ものは、買い手の身体の「生理的な快感そのものではない」(立岩, 1995: 222)。もし、買い手の身体の生理的な快感だけが求められているのであれば、売り手を選択する必要もないし、売り手の「反応」(のフリ)の必要はない。売り手が買い手の行為によって「感じている」という「反応」が性商品の価値の構成要素の一つになっているとすれば、そこでは、売り手の身体が買い手の行為の「受動的対象」になる、という契機そのものが購入されていることになる。では、売り手が自らの身体に対する能動的な制御能力を失う契機そのものが、「サービス」に含まれているとはどういうことか。それは、買い手が貨幣と交換に購入している性商品に、売り手にとって「手段とならないものとして現れてしまう」(立121>122岩, ibid.: 223)もの、すなわち売り手自身が自由に制御できない受動的な身体性が(それが「フリ」だとしても)内包されている、ということである。
 性売買では、買い手の行為に対して売り手の身体自体が「性的客体」として位置づけられている。性労働者の「演技」や「フリ」が、他の職業の演技――たとえばマクドナルドの店員のスマイル――と異なるのは、この点にある。性売買における「演技」や「フリ」が表現しているのは、他者の行為によって惹起される身体感覚の売り手自身にとっての他者性である。それに対して、たとえばマクドナルドの店員の「スマイル」において、「他者の行為によって惹起される身体感覚の売り手自身にとっての他者性」そのものが商品化されているなどとは言えない【16】。それらは完全に店員の制御下にある。
 この点について、たとえば江原由美子(2005)は次のように述べている。

「重要なのは、利用する側にとって、他者の身体の利用価値が、本人の人格や意思によって統御された身体活動にあるのか、それともそうした本人の人格や意思による統御を必要としない身体自体にあるのかという区別であり、後者のような利用価値のために他者の身体を利用する場合には、「人身売買」の危険性が高くならないように、慎重な考慮が必要になる。
この議論を「売春」に適用すると、「売春」という行為の位置づけの難しさや多様性が明確になってくる。一方においては本人の「労働」意思によって統御されることがなければまったく価値がないサービス活動もあれば、他方においては本人の意思に反したかたちで他者の身体を利用するような「人身売買」に近い事柄も含んでいる。この「人身売買」のリスクがあるということが、「売春は労働である」という主張に対する抵抗を形成するのである。」(江原, 2005: 105 傍点強調は引用者)

 上述したように、「他者の身体を利用する」ような契機――買い手の売り手身体への行為――が現在の性売買においては「サービス」として含まれているとすれば、問題は「人身売買のリスク」には留まらない。ここで「利用する側」への着目によって事実上言及されているのは、「性暴力のリスク」である。つまり、現在の性売買市場において売られているものが、「本人の「労働」意思によって統御されることがなければまったく価値がないサービス活動」だけではなく、「本人の意思に反したかたちで他者の身体を利用する」ことが含まれているとすれば、そこには「人身売買のリスク」だけでなく「性暴力のリスク」がある。
 では、「意思に統御されない」部分が商品に含まれていることは、「意思に反したかたち」で身体を利用されることが商品化されていることになるのか。言い換えれば、意思や主体的な自己決定によって統御されない次元そのものが、商品122>123の価値を構成しているということは、暴力そのものが売買されているということになるのか。この点をめぐる論点は江原の議論には欠けているが、必ずしもそうではない。
 ここでポイントになるのは、「非意思的(自発的)」と「反意思的(自発的)」との区別である【17】。つまり、「売り手の意思に従わない次元(についての演技)が売買されている」(非自発的次元の商品化)ということは、「売り手の意思に反した次元(暴力)が売買されている」(反自発的次元の商品化)ということではない。売り手の身体にその意思に従わない感覚(その演技)を、買い手が与える可能性が商品に内包されているからといって、その身体を意思に「反した」かたちで買い手が利用する権利そのものが売買されているわけではない。江原の引用文に従って言えば、本人の「意思によって統御されることがなければまったく価値がないサービス活動」と、「本人の意思に反したかたちで他者の身体を利用する」こととの間に、「本人の意思の統御」の外部にあるからといって必ずしもその「意思に反した」ものでもないような、「非意思的」な形式としての受動性(のフリ)が商品化されうる余地がある。
 もし今後も、買い手の売り手に対する能動的な行為可能性が商品価値の構成要素に含まれ、そしてそれに対する「反応」(のフリ)がサービスとして位置づけられるならば、この「意思的/非意思的/反意思的」の区別は、性売買における性暴力を根絶するための実践にとってきわめて重要な枠組みになるだろう。つまり、「非意思的」と「反意思的」を区別し、売買の対象を前者に限定する必要がある。
 だが、ここでさらに指摘すべき点は、「非意思的な次元」については、その都度それが「反意思的」でないかどうかを確認することは困難だということである。「非意思的」とは、「意思」に沿っているともいないとも言えないということ、あるいはそれが「不明」であるということだからである。
 売り手がその身体感覚の定義権を貨幣と交換に譲渡している、という買い手の解釈はたしかに「間違い」である。つまりこの解釈は性売買にとって「必然的」ではない。だがそれは、単なる「偶然」でもない。つまり、この種の間違いあるいは誤解の可能性そのもの――それが暴力の最大の要因である――は、「意思によって統御されない次元」が売買の対象に含まれる性売買においては、その構造に本質的に内包されている。そこでは、買い手の行為が、売り手の「意思に反したかたち」での身体利用へとスライドする「可能性」を、排除できないのである。現在の性売買市場の上記のような構造は、暴力の要因を直接的に除去するためにはその要因を明示する必要があるにもかかわらず、従来の議論では明示されてこなかった(あるいは否認されてきた)。必要なのは、現在の性売買市場において買い手は「暴力の危険性」をはらむ商品を購入している、という認識である。
 現在の性売買において、「買い手」の「売り手の身体」へ123>124の行為が許容されていることを前提にするならば、売り手の自己身体への主体的な制御可能性を逃れる「非意思的な次元」と、売り手の性的自己決定権を侵害する「反意思的な次元」とを峻別する基準を明確にする必要がある。この点に関してたとえば、買い手の「一般的常識」や「愛」等々に依拠することはできない。ではどうすればよいのか。なにが「非意思的」であって「反意思的」ではないのか、つまりなにが性暴力になりうるか、を一般的に区別することはたしかに困難である。可能なのは、個々の具体的な諸行為に関して峻別して明示し、買い手の責任として遵守させることだろう。この点で、「買い手」を「免許制」として定期的に講習を受けさせるべきだ、という瀬地山(2001)の提案は――それ以外の論点には賛同できないが――妥当である。
 より直接的に暴力の可能性を解消する方法もある。それは、売り手が主体的かつ能動的に制御可能な「性労働者の能動的行為」だけを売買の対象にすることである。それは、売り手の「受動性」の商品化を阻止する装置ないし制度によって実現されるだろう。そのために選択可能な方法は、たとえば、行為のタイプと対価だけをリスト化し、買う側はそのリストから購入したい性的サービスを選択し、その際、それらのサービスを「誰が」提供するかに関しては完全にランダムに決定する、といった方法になるだろう。具体的には、@買う側の選択の範囲を、性労働者から「何をされるか」だけに限定し、Aその行為を提供しうる性労働者(複数)から「誰」が提供するかを籤などによってランダムに決定する、といった順序になるはずである。買う側は能動的な行為を禁止される。もちろんその禁止・制御の主体は、性労働者自身および性労働者の立場に立つ人間(集団)でなければならない。これを「過剰な管理」だと言うとすればそれはナイーブである。車の運転に免許が必要であり、飲酒運転が非難されるのと同じ論拠でこの管理は正当化されるからだ。
 性売買がもし「家族」などの人称的な性愛、すなわち「性=人格」の等号を前提とする性愛を逆転したものであり、完全に「無人称な(即物的な)性愛関係」(橋爪,1992: 26)の可能性を示しているのだとすれば、それは後者の制度を要請する。それによって、買い手が「身体そのもの」を購入しているといった誤解の余地(買い手の行為が暴力にスライドする可能性)が商品から排除され、「何を売るか売らないかは私が決める」は制度的に貫徹されるだろう。
 性売買における暴力性を抹消することに同意するならば、性商品を即物的な「性的サービス」に限定するか、買い手の行為を厳格に規制・管理すべきである。これは、買い手の主体的な配慮に期待するのではなく、買い手に認められる主体性の範囲を限定することである。物理的に行為が管理・制約され、逸脱行為は処罰される。
 また、とりわけ売り手が「女性」である場合、そして挿入セックスを含んでいる場合、買い手に対する「性病検査義務制度」および「避妊義務」が当然不可欠である。また、研究124>125開発が進んでいる男性用ピルが実用化されれば、その一定期間の服用とその効果の確認を、男性の「買春免許」に含めるべきである。研究開発中である現時点では、買春男性に男性用ピルの臨床試験(治験)への参加を義務づけるべきである。その義務は、現に女性の売り手に負わされているリスクとの比較衡量で正当化される【18】。

結語――身体性の交換と自己決定の限界

 以上の議論をまとめておこう。
 性売買における性暴力の危険性の要因は、買い手の売り手に対する行為可能性と、売り手の感覚(フリ)が商品に内包されていることである。性労働者の行為だけが売られている性売買はそもそも問題にはならない。
 従来の「自己決定論」は、性売買における性労働者の「性的客体化」の要因を示唆しつつ、それを明示できていない。性売買での性労働者の性的客体化を「ジェンダー・セクシュアリティ体制」によって説明する議論は不十分である。女性が買い手になる場合にも、同性間の性売買についても性的客体化が指摘できるし、すべきだからだ。性売買における性労働者の「性的客体化」は、@買い手と売り手の性商品の価値構成要素に対する認識の非対称性、A性商品そのものの特異性に起因する。性商品の特異性は、性的行為の特異性に由来する。性的行為は、相手の身体に感覚を与えることそれ自体を目的とした相互行為として観念されている。性売買市場はこの観念に基づいて成立している。また、この観念から自由な者はほとんど存在しない(存在したとしてもその者は性暴力を起こさないため、問題にする必要はない)。したがって、「性道徳論」としてこれを批判する議論に意味はない。「性的行為」の商品としての稀少性は、それが、相互に相手の感覚に対する高度な配慮を要する行為だからであり、通常その行為は、当事者相互の高度な「自発的同意」を前提条件としているからである。つまり、性的行為とは、配慮が欠けていると(一方に)感受されるや否や、即座に「暴力」になりうるような相互行為として特徴づけられる。そして、性売買では「貨幣」はこの配慮を省略する装置として位置づけられている。貨幣という媒体(メディア)は、行為者相互のその都度の感覚や欲望によってのみ担保されるような関係性にともなう、個別具体的な複雑性を節減する(economize)装置だからである。この場合、相互に要請される「配慮」の負担の程度を節約する媒体になる。買い手の売り手に対する行為可能性とその行為への売り手の「反応」を商品に内包した性売買では、売り手の身体に与えられる感覚が商品化されている。「感覚」は定義上、当人の意思の制御可能性の外部にある。つまり、売り手が意思によって制御不可能な「非意思的」な契機が商品に内包されている。そして、「非意思的」の定義上、それが「反意思的」なものにスライドしうる可能性を排除できない。現在の性売買市場における性労働者の「性的客体化」は、買い手の欲望の対象に含まれているが、売り手の主張によってむしろ隠蔽125>126されてきた。
 以上から、買い手の行為の物理的な管理と制約、買い手の選択肢を制限するシステムが正当化される。
 本稿の議論は、より一般的な問題構成のなかに位置づけられる。それは、貨幣が代替不可能な次元を交換・手段化する媒体として位置づけられているとき、その交換システムに付される倫理的条件への問いである。性売買をめぐって提起されるべき問題は、ジェンダー体制の問題には限定されない。真の問題は、受動的な感覚を随伴するような対象の交換が(もし)必要だとすれば、そこに不可避的に伴う暴力性を制御できるような媒体と交換システムを――「愛」や「親密性」といった語の暴力隠蔽機能を銘記しつつ――いかにして創案するか、である。



【1】 一般に性を売買することは「売買春」や「買売春」と呼ばれるが、私は「春」という比喩は適切ではないと考えるため「性売買」と表記する。性売買市場で売買の対象にされている商品は「性商品」とする。「セックスワーカー」「性労働者」「売り手」「買い手」は文脈に応じて用いる。
【2】 「性暴力」とは、性的自己決定権を侵害あるいは否定する行為である。「性的自己決定権」とは、誰と・いかなる性的関係性をもつか/もたないかを当人自身が決定する権利を指す。
【3】 田崎英明編(1997)、川畑智子(1999)、細谷実(2002)、渋谷知美(2000)、水島希(2005)などを参照。
【4】 売春防止法によって「保護」か「処罰」の対象にされているのは「女性」である。
【5】 非合法化と犯罪化は重なるが、その逆の「合法化」と「非犯罪化」は重ならない。合法化は警察の介入を許容しうるが、非犯罪化は法の撤廃だけを指す(渋谷, 2000: 213)。
【6】 注2で見たように、「性的自己決定」とは通常、「誰とどのような性的関係をもつか」をめぐる決定であり、「性的自己決定権」とはそれを当人が決定する権利である。だが、性売買においては、性労働者は「誰」の次元への決定権はないため、「どのような行為」を売る(それ以外は売らない)かに関する決定権となる。
【7】 以下では川畑の1995年の論文を中心に検討するが、必要な限りで1999年の論文も参照する。
【8】 「人びとは、売春の悲惨な現実に目をひかれるあまり、それを根絶するに有効だと信ずる言説をふりまきつづけてきた。そしてその割に、売春の悲惨の正体を突き詰めてこなかった。たとえば、もし売春にまつわる悲惨(搾取、苦役……)を語るのなら、そうした悲惨が解消すれば、売春そのものは悲惨でなくなる、と言わざるをえなくなろう。…〔中略〕…売春に付随する悲惨ではなく、売春それ自体を排除する思想は、ドグマティズムとしてしか、可能でないように思われる」(橋爪, 1992: 19(傍点は原文))。
【9】 だからこそ、貨幣所有者による暴力がほとんどを占めるドメスティック・バイオレンスについて、「家長という私的権力の支配圏に対して公的権力が介入しないという密約の産物」(上野千鶴子, 2003: 21)だ、と言えるのである。
【10】 「代理母」などの「生殖能力の商品化」も別種の「性売買」126>127だと言えるが、ここではおく。
【11】 したがってたとえば菊地(2001)や細谷(2002)が主題化する「主婦と娼婦の分断」は、貨幣獲得者がそれに依存せざるをえない人(ここでは前者が男性で後者が女性)を抑圧する体制の内部での、いわば「抑圧移譲」という現象レベルの問題にすぎない。
【12】 逆に言えばむしろ、小泉義之が指摘するように(小泉, 2003)、問題が「生殖可能性」に結びつかない欲望や行為にあるとすれば、それを「性」と呼ぶこと自体に混乱の原因があると言うべきだろう。また、両者を区別できないならば、「「家族」や「親密圏」はプライベートな感情の交換関係における「契約」という贈与の一バリエーションであり、その帰結にすぎない」(後藤, 2004: 159)とも言えなくなるし、セクシュアリティとは定義的に女性に対する抑圧であるというA. Dworkin(1987=1998)の議論が全面的に正しいことになる。Dworkinの立場の可能性と限界に関しては吉澤夏子(1990)を参照。
【13】 この加藤の、性と暴力とを区別は、2001年の論文ではむしろ放棄されている。もちろん妥当なのは、性的行為と暴力の可能性との不可分性との指摘(加藤, 2001)の方である。
【14】 医療における「自発性条件」とそのリミットについては、別のところで具体的な問題に即して論じた(堀田義太郎, 2006a; 2006b)。
【15】 竹村和子が「愛の困難」や「エロスの不可能性」と呼ぶものも、これと同じ論理を備えている(竹村, 1998: 14)。竹村は「エロス」を、〈他者の自分に対する欲望〉への欲望の相互性によって特徴づけている。そこでは、主体のアイデンティティの基盤は相互に他者に支えられており、規定-被規定関係が相互に「ウロボロス」のように循環する。そのため安定した対他的アイデンティティを確立できない。
【16】 買う側は、売り手が一人の人間(モノではない)と知りつつ、性的欲望を満足させるための手段(モノ)として扱っている、という立岩の指摘は、市場システムに内在する買い手と売り手のあいだの(あるいは性労働と性商品との)「非対称性」を示したものとして読み替えられるべきである(立岩, 1995: 221-4)。
【17】 この区別は英語の接頭辞で、“non”と“in”の区別に対応する。たとえば「安楽死」の文脈で「非自発的安楽死non-voluntary euthanasia」とは当人が「自発的」であるか否かが不明な状態を指し、「反自発的安楽死involuntary euthanasia」とは、当人が明確に「死にたくない」と言っているのに殺害することを指す。そして重要な点は、たとえば意識不明の状態での家族の推定による治療停止など認めてしまうと、「自発性」の有無が確認できない状態の「安楽死」を許容することになり、事実上、そのなかに後者「反自発的安楽死」が含まれる可能性を排除できなくなる、という点である(土屋貴志, 1998)。
【18】 この「リスク」については、永田えり子(永田, 2001)を参照。異性間の性的行為における男性の責任一般に関しては、沼崎一郎(沼崎, 1997)および宮地尚子(宮地, 1998)を参照。

文献

浅野千恵, 1998, 「「性=人格論批判」を批判する」『現代思想』26-12
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江原由美子編, 1992, 『フェミニズムの主張』勁草書房
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川畑智子, 1995, 「性奴隷制からの解放を求めて」(=江原編, 1995)
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土屋貴志, 1998, 「「安楽死」論序説」『人文研究』大阪市立大学文学部紀要、第50集第1分冊
上野千鶴子, 2003, 「市民権とジェンダー」『思想』No. 955(2003-11)
吉澤夏子, 1990, 「ラディカル・フェミニズムにおける性愛の可能性――ドウォーキンの功罪」『ソシオロゴス』No. 14

UP:20080319
全文掲載  ◇性暴力/ドメスティック・バイオレンス  ◇性(gender/sex)
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