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大学に学ぶ視覚障害者とその支援

2007/04/24 障害学研究H
青木 慎太朗(先端研)

last update: 20151224

 これは2006年6月13日に立命館大学で行った講演「視覚に障害のある人のサポート入門講座’06 大学における視覚障害者支援とテキスト校正」をもとにしています。

1.視覚障害者の文字情報入手の方法
 視覚障害者の文字情報入手について触れる前に、以下の表をご覧いただきたい。

表1 障害の種類別にみた情報の入手方法の状況(複数回答)
(単位:千人)
情報の入手方法 総数 障害種類別
視覚障害 聴覚・
言語障害
肢体
不自由
内部障害
総数 3,245 301 346 1,749 849
(100.0) (100.0) (100.0) (100.0) (100.0)
一般図書・
新聞・雑誌
1,936 78 233 1,053 572
(59.7) (25.9) (67.3) (60.2) (67.4)
録音・点字図書 25 22 - 1 2
(0.8) (7.3) - (0.1) (0.2)
ホームページ・
電子メール
114 6 11 70 27
(3.5) (2.0) (3.2) (4.0) (3.2)
携帯電話 150 11 21 83 34
(4.6) (3.7) (6.1) (4.7) (4.0)
ファックス 111 3 42 45 22
(3.4) (1.0) (12.1) (2.6) (2.6)
テレビ
(一般放送)
2,632 218 261 1,438 715
(81.1) (72.4) (75.4) (82.2) (84.2)
手話放送・
字幕放送
57 - 50 4 3
(1.8) - (14.5) (0.2) (0.4)
ラジオ 1,014 167 40 532 275
(31.2) (55.5) (11.6) (30.4) (32.4)
自治体広報 943 47 91 531 274
(29.1) (15.6) (26.3) (30.4) (32.3)
家族・友人 1,708 176 190 916 427
(52.6) (58.5) (54.9) (52.4) (50.3)
その他 135 6 19 70 39
(4.2) (2.0) (5.5) (4.0) (4.6)
(  )内は構成比(%)

 この調査はもう5年ほど前の結果であるから、インターネットに関する部分を中心に変化している可能性がある。そして、ここから障害者と非障害者との違いが分からないという欠点があるが、一般図書からの情報入手が極端に低いことは明らかである。一方、点字・録音図書を見てみると、それでも7.3%しかいない。
 それでは、視覚障害者=点字とまで思われがちな点字から、まず見てみよう。

表2 点字修得及び点字必要性の状況
(単位:千人)
障害の程度 総数 点字が
できる
点字ができない 回答なし
小計 点字必要 点字必要
なし
回答なし
総数 301 32 229 17 201 11 40
(100.0) (10.6) (76.1) (5.6) (66.8) (3.7) (13.3)
(  )内は構成比(%)

(1)点字
 視覚障害者の情報入手の方法として、まず考えられるのが点字であろう。しかし、実際に点字ができると回答しているのは、視覚障害者の1割程度である。これは、視覚障害者が軽度な弱視者をも含めているからでもあるが、中途失明者のように点字の習得が困難な場合もある。
 点字に堪能な人の場合、情報が点字で提供されることが望ましいが、点字にはいくつかのデメリットがあり、敬遠されることがある。点字は非常にかさばる(コンサイス英和辞典で本棚1つ)ので、保管や持ち運びには不向きである。さらに、点訳するのに時間と人手を要する。そのため、耳で聞いて理解できる内容のものについては、後で触れる音声情報としての提供を求める動きがある。

(2)拡大
 視覚障害者といえば全盲の人が連想されるが、少し見えているが小さい文字を読むことができないといった、弱視の人たちが相当数いる。こうした人たちに対しては、従来から拡大コピーをするなどといった対応がされてきた。しかし、点字ほどではないにせよ、拡大された教材はずいぶんとかさばり持ち運びに不便だといったことは起こっている。

(3)音声(対面朗読・テープ・DAISY)
 対面朗読とは、朗読者が視覚障害者と向かい合って本を音読することをいう。「今日の新聞を読んでくれ」といったリアルタイムの要求に応えることができる。また、「その漢字はどういうものか?」といった疑問にもすぐに応えることができるというメリットがある。デメリットとしては、朗読者と視覚障害者がともに時間を拘束されるということである。
 そこで登場するのが録音図書、つまりテープまたはDAISYである。テープは音訳の古典的方法で、本の内容を朗読者がカセットテープに録音し、視覚障害者はそれを聞きたいときに聞く。ただし、ページ情報などを入れることができず、それをその場で尋ねることもできない。これに対してDAISYは編集段階でページ情報などを入れることが可能で、また、短時間しか録音できないというカセットテープのデメリットはある程度解消されている。
 ただ、録音図書にしても制作するのに時間を必要とする。

(4)音声パソコン(テキストデータ)
 そこで最後に登場するのがパソコンを利用した読書法である。たとえば、大学の授業では担当教員自身が書いた本をテキストとして使用することがあるが、その場合、その教員は当該書籍の元になったデータを所有していることがほとんどである。近年はパソコンで文書を書く人がほとんどであることから、なおさらである。
 一方で、視覚障害者のパソコン環境はというと、テキストデータについては音声ソフトによって読み上げることができる。電子メールのやりとりやホームページの閲覧は、こうしたソフトウェアを用いて行っている。
 デメリットとしては、パソコン特有の発音のため、慣れていないと聞き取れないことがあるが、慣れてしまえば人間の読む速さの数倍にして読ませることができる。

 こうしてみてくると、大学での視覚障害学生支援にテキストデータの活用が不可欠であることは明らかである。点字にするには人手と費用がかかり、点字の教材が届いたときには期末試験が終わっていたといったことは、この業界ではわりと多く起こっている。点訳をボランティアに依頼した場合などはとくにそうだ。一方、対面朗読をはじめとする音訳は、点訳ほど時間がかからないが、人手がかかるという点は同じである。これに対してテキストデータは、いつでも読みたいときに自分のパソコンに読ませることができる。教員のもっているテキストデータを視覚障害学生に提供した場合、その学生は中身を音声で聞くことが可能となる。また、弱視者はテキストデータを画面に拡大表示させて読むことも可能である。

2.大学における視覚障害者支援
 大学での視覚障害学生支援を考える際、以下の5項目に分けて考えることがある。

(1)教科書
 最近では、授業に教科書を指定するケースは少なくなり、担当教員の自作教材やレジュメで進められる場合が増えてきている。ここで教科書というのは、授業を受ける上で最低限必要となる教材、という意味であるから、副教材も当然含める。また、授業より自分の研究が重視される大学院生の場合には、この考えは必ずしも当てはまらない。
 障害のない学生は、受講を決めた授業の指定する教科書を購入すると直ちに読むことができるようになる。これに対して視覚障害者は、そのテキストを点訳する、拡大コピーする、誰かに読んでもらうといった選択肢があるが、いずれにしてもすぐに自分で読むことはできない。個人の趣味の本でもなく大学で授業を受ける上で最低限必要となる教材を自己責任において準備しなければならないというのは、他の学生と比較したとき著しく負担が大きい。購入した本は視覚障害者にとってはインクの臭いのしみこんだ紙の固まりでしかなく、教材としての価値はゼロである。そのため、教材を準備すること、それに必要となる費用を負担することを大学側に求めている。点字教科書を大学側が保障(責任をもって準備)している大学も最近は増えてきている。教科書保障というのは、視覚障害学生の受講する科目について、そのテキストを大学側が業者に点訳依頼を出し、期限までに視覚障害学生に届けることを指す。これ以外の場面で教科書保障・講義保障という用語を用いる大学があるが、誤用である。
 すでに述べたとおり、視覚障害学生にはさまざまな読書環境がある。これまでずっと点字でやってきた人にとって、ただ(作る側が)楽だからという理由だけでテキストデータの使用を求め点訳を怠ったりすることは、当該学生の快適に学習する権利の侵害であり、大学当局の選択としては到底容認すべきでない。

(2)設備
 視覚障害者が大学で学ぶに当たっては、音声パソコンの設置、点字ブロックの敷設、音声誘導チャイムの設置、点字案内板の設置、ルームナンバーの点字表記と拡大文字表記およびコントラストの配慮などが求められる。学習環境の保障と安全な移動の確保という両面からの配慮が必要となる。 例:1305 → 1305

(3)講義での配慮
 授業を進める上で、教科書以外で主に担当教員が配慮すべき内容についてここで述べる。なお、担当教員が配慮するといっても、責任を担当教員個人に押しつけるという意味ではなく、担当教員が配慮できるための体制づくりが必要であるということも含む。
 担当教員に視覚障害学生がいることを伝えることがまず必要となる。ただし、本人に無断で教員に本人の障害の状況を伝えることは好ましくなく、本人の希望に応じて受講前に本人と教員が面談し、障害の状況を本人が説明し、教員も尋ね、支援内容について確認する場を設定することが望ましいとする報告がある。私もこの立場を基本的に支持するが、大学側は教員と学生とが事前に面談できる場をセッティングすること、トラブルが発生した際に仲裁することが、その役割として期待されるだろう。
 その上で、授業での配慮としては、板書の読み上げ、指示語を避ける、座席指定、試験問題の点訳・拡大と点字・拡大文字による解答、時間延長と別室受験、実験・実習への補助員への配置や体育実技の配慮(別クラスの設置・補助員派遣)などがある。なお、定期試験については、教員の判断によりレポート試験や口頭試問への代替が行われることも多い。中途失明等、点字に堪能でない学生に対して、仮に時間延長をしたとしても、短時間に多くの文章を読んで解答させる形の試験はその能力を評価する方法として適当でないことは明らかである。
 私が同志社大学時代に教員に渡していた要望書を以下に掲載する。

資料 学部時代の要望書(担当教員に手渡し)
    先生へ

今年度(1年間・春学期・秋学期)下記の授業を履修することになりました文学部社会学科社会福祉学専攻3回生の青木といいます。私は視覚障害(弱視)ですので、講義及び試験の際、次の点についてご配慮をお願いします。

履修するクラス:

お願いしたいこと
(1)授業に関して

(2)試験
(4)情報提供(狭義の情報保障)
 教科書保障や講義での配慮も、広く情報保障のうちであるが、ここでは狭義の情報保障、インフォメーションとしての情報について触れる。これは大学から発信され掲示板等で学生に伝えられる情報である。休講・補講・教室変更・イベント情報など。
 掲示板情報については、メールマガジンによる提供、ホームページでの提供を望む人が多いが、現実には友達に見てもらうなどが多く、大学側も「友達に見てもらってください」といっている場合すらある。しかし、大学側によって責任をもって伝えられるべき情報を「友達に見てもらえ」というのは不適切である。
 情報提供の裏返しとして、提出書類もデータで記入してよいならデータで提出する、そのために掲示文書や様式をデータで送付するといった工夫が必要になる。立命館大学では一部実践されている。

(5)その他
 通学の援助が必要な人がいるが、行政の福祉サービスとしてのガイドヘルプは通学には利用できず、大学としても支援していないという溝ができた状態である。障害学生が大学側に交渉し、支援を勝ち取っていくという道もあるが、またひとつ、障害学生と大学とがともに行政に申し入れを行うといったやり方もある。大学通学路に音声信号機を設置してほしいとか、最寄り駅の改善といった要望は、障害学生と大学が協力し、行政や鉄道事業者に申し入れる方がよい項目である。
 また、現在、障害学生支援の項目として取り上げられることが比較的少ないが、課外活動での支援やアルバイトの斡旋についても、障害のない学生に対してそれを行っている以上、障害学生に対しても行うべきである。障害学生の就職支援と、そのために必要なキャリア形成のサポートも課題となる。
 最後に、大学内で生活する上で必要な施設、学食の利用といったものも含め、総合的に支援するシステムづくりが求められる。建物の前に平気でトラックが駐めてあることがあるが、視覚障害者には危険である。スロープの入り口の前に駐めてあれば、車椅子を利用する人たちはスムーズに移動できない。学内での事故防止に、大学も出入り業者も最大限の配慮をすべきであるが、業者の認識の欠如が目立つ。同じく、学生の建物前の座り込みにも同じことは言えるだろう。こうした取り締まりを強化することは、視覚障害学生が学内を安全かつ自由に移動する環境を確保するために欠かせない。

3.障害学生支援の考え方
 障害学生支援については、さまざまな考え方がある。そもそも、障害学生支援の責任は誰がもつべきなのかということすら、一致した考え方はない。かつてそれは、受け入れた教員であり、あるいは本人の自己責任ということになっていた。周りの友達を早く見つけ、その友達に掲示板を見てもらうよう、大学の事務職員が指導するなどということが起こっていたし、今でもそういう考え方を引きずっている人たちがいる。また、負担責任の所在については、とくに問題となっている。小さな大学の場合、私立大学であっても、日本私立学校振興・共済事業団を通じて私立大学等経常費補助金に含まれた形で支給されているが、それはあくまでも補助金であり、障害学生を受け入れる上で発生するコストすべてをまかなえるものではない。だとすれば、障害学生支援に必要な費用負担は、大学ではなく社会的費用――すなわち税金――によってまかなわれる必要があるのではないかと考えられる。これまでの障害学生支援の運動は、大学に門戸開放を求め、支援の責任を大学に求めるものであった。第一義的にはそれでよいと考えられるが、たとえば障害学生と大学とがともに行政に働きかけ、障害学生支援に責任をもつよう要求するといった運動があってもよい。
 ところで、障害学生の支援は学生支援という大学側の本来的業務に対して、何か特別なものとして捉えられているが、それはなぜなのだろうか。障害学生とは誰か、点字とは何かを考えてほしい。障害学生とは、(見えなかったり聞こえなかったりするために)通常の授業形態では授業に参加できない人たちであるとか、点字とは(目が見えないために)普通の文字が読み書きできない人たちが使う文字であるといった理解がされているのではないか。
 しかし、これはけっして正解ではない。視覚障害者とは目で見る生活ができない人たちであると考えられているが、目で見る生活をしない人、あるいは見ないで生活する人であるという言い方も可能である。見て生活するという多数者側の生活スタイルが絶対でもなく、正解でもない。何か正解があり、それに近づけることをよしとする考え方――医療やリハビリテーションが時に陥る――は疑ってよい。
 私は、講師として招かれた講演会で、以下の質問をすることにしている。「大学の大教室の講義で、教員がマイクを使うのはなぜか?」この問いに対して即答できない人に未だかつて出会ったためしがない。「後の方に座っている人に授業が聞こえないから」というのが、とりあえずの解答である。そして、何を今更当たり前のことを聞くのか、という反応を一様に示す。
 次に、また別の質問をする。「では、その教室に耳の聞こえない学生がいたとして、このままで十分でしょうか?」といった感じだ。先ほど、「とりあえずの解答」と述べたが、正確には、「受講生みんなに授業の内容を伝えるため」というのを模範解答にしておくべきだろうか。
 「配慮の平等」という考え方がある。通常私たちは「配慮を必要としない多くの人々」と「配慮を必要とする少数の人々」がいる、と考えがちだが、そのように考えるのではなく、「すでに配慮されている人々」と「いまだ配慮されていない人々」がいる、と考えてみたらどうだろう。教員が教室でマイクを使用することは「配慮」ではなく、当然やるべき事であると考えられているが、そうではない。前に座っている学生には、地声で伝わる。しかし、後の方にいる学生に対して、授業の内容が伝わるように配慮し、マイクを使用したのである。そこで例えば、聞こえない学生が受講しているにもかかわらず手話通訳者やノートテイク、パソコン通訳を付けないというのは、「配慮の平等」に反する。少なくとも、大学の授業は演奏会ではないのだから、聴力に訴えることに意義があるのではなく、内容を学生に伝えることにこそ意義があるのだから、こうした配慮を平等に行うべきだろう。逆に言えば、配慮を平等になさない、平等に学生を扱わない、ということは、すなわち障害を理由として学生を差別している、ということになるだろう。
 こういった事を、大学側も意識しておくべきである。

4.パソコンを活用した学習方法とその支援
 視覚障害者が文字情報を入手する方法として、パソコンの活用があるということをすでに述べた。ここでは、その方法と問題点について述べる。

(1)テキストデータの入手
 いくつか方法はあるが、もっとも簡単で合理的な方法は、出版社が書籍と一緒にテキストデータを提供することである。明石書店や医学書院といった出版社は(障害学の関係者が本を出しているという関係もあるのだが)テキストデータを提供すると明記してあることがある。
 出版社がテキストデータの提供に応じなくとも、著者が最終校正前のデータをもっていることは多く、それを受け取るという方法もある。大学で、授業を担当する教員が自分の書いた本をテキストとして使用する場合などは、仮に出版社がデータ提供を拒んだとしても、教員が手渡すことは可能である。
 次に、出版社・著者の両方から断られたらどうするか。本をOCRソフトでテキストデータにしてしまうという方法がある。ただし、それでは不完全なため、校正作業が必要となる。
 ここで入手されたテキストデータは、パソコン点訳にも活用できる。テキストデータを自動点訳ソフトにかけ、未校正点字データができあがるので、それを校正すれば点字データになる。あとはそれを点字プリンタで印刷するだけでよい。
 つまり、こうした形態のパソコン点訳はテキスト校正の先にある作業であるから、その意味でもテキスト校正の作業は重要になってくる。

(2)テキストデータの問題点
 テキストデータを使った読書法には、さまざまな問題点がある。そもそも、出版社側がデータの提供に応じないという問題である。そしてその中にもいくつかの原因がある。
 ひとつは著作権である。点訳については37条により著作権者の許可は必要ではないが、テキストデータの提供については明記されていない。したがって、著作権者に断りなくデータを提供した場合、著作権法違反になる。
 テキストデータの提供については、@著作権者・出版社がともに同意している場合、A著作権者は同意しているが出版社が拒否している場合、B出版社は同意しているが著作権者が拒否している場合、C著作権者・出版社の両方が拒否している場合、がある。障害学関連の書籍の場合は@であり、その他やはり多数派なのがCである。しかし、実際はAである場合がある。データ提供を認めると、それは出版社の労働を増やすことになる。そして出版業界にいわせれば、その労働を自分たちが担わなければならないのは不当である、と。さらに、書籍の印刷データは出版社になく印刷会社の手元にある場合があり、印刷会社が提供を拒否しているという場合がある。
 ただ、こうした複雑なシステムはあまり知られておらず、言い訳として持ち出される同一性保持権(著作権法20条)がいかにもテキストデータ提供を困難にしているかのような錯覚を与えている。著作権には二種類あって、著作財産権と著作者人格権である。テキストデータの提供が原本の購入、あるいは原本と同一の料金を支払うことにより財産権上の問題がなくなれば、テキストデータ提供を拒否する側としては、著作者人格権としての同一性保持権を持ち出すしかない。しかし、著作権者がいうならともかく、出版社が人格権としての同一性保持権を武器にして反論することは実に奇妙である。
 テキストデータの提供が行われるケースは非常に少ない。


参考文献
青木慎太朗,2002,「教育を受ける権利(学習権)と学内環境」『SLニュース』2002年3月号,関西Student Library
――――,2005,「幸せのカテゴリー ――障害はリスク、治療の対象か?」『福祉のひろば』2005年9月号
――――,2005,「大学における視覚障害者への情報保障の現在」,日本社会学会 第78回大会報告(2005年10月22日)
――――,2006,「大学における障害者支援の現状と課題――情報保障を手がかりとして」、立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文
――――,2006,「大学における障害者支援ウエブサイトの可能性について――障害学生への情報保障とメディア活用・総説」『NIME研究報告』14:17-27,メディア教育開発センター
――――,2006,「障害学的視座からの「障害学生支援」再考」,障害学会 第3回大会報告(2006年6月3日)
――――,2006,「大学における視覚障害者支援とテキスト校正」,視覚に障害のある人のサポート入門講座 '06,立命館大学,2006年6月13日
――――,2006,「テキスト校正入門」,視覚に障害のある人のサポート入門講座 '06,立命館大学,2006年6月15日
――――,2006,「テキスト文字校正の基礎」, テキスト文字校正者養成講座,立命館大学,2006年10月23日・25日・11月21日・24日
――――,2006,「障害学生支援の構図――京都のR大学における視覚障害者支援を事例として」,日本社会学会第79回大会報告,2006年10月28日,立命館大学
――――,2006,「大学院での遠隔教育と障害学生支援」,日本教育工学会 第22回大会報告,2006年11月5日,関西大学
――――,2006,「テキスト文字校正者養成講座【入門編】 テキスト校正の基礎」, テキスト文字校正者養成講座,立命館大学,2006年11月21日・24日
――――,2007,「障害学生支援の構図――立命館大学における視覚障害学生支援を手がかりとしての考察」,『コア・エシックス』Vol.3,立命館大学
――――,2007,「大学における障害学生支援の現在――障害学生支援研究と実践の整理・覚書」,『NIME研究報告』,メディア教育開発センター(未公刊)
――――,2007,「視覚障害学生支援と著作権――視覚障害学生への情報保障を手がかりとして」,『NIME研究報告』,メディア教育開発センター(未公刊)
秋山なみ・亀井伸孝,2004,『手話でいこう』,ミネルヴァ書房
石川准,2004,『見えないものと見えるもの――社交とアシストの障害学』,医学書院
尾崎哲夫,2004,『入門 著作権の教室』,平凡社新書
菊島和子,2000,『点字で大学――門戸開放を求めて半世紀』,視覚障害者支援総合センター
佐野(藤田)眞理子・吉原正治,2004,『高等教育のユニバーサルデザイン化――障害のある学生の自立と共存を目指して』,大学教育出版
田中邦夫,2004,「情報保障」『社会政策研究』4:93-118
鶴岡大輔,2005,「障害学生支援の現状と課題」『リハビリテーション研究』122号,日本障害者リハビリテーション協会
冨安芳和・小松隆二・小谷津孝明,1996,『障害学生の支援』,慶應義塾大学出版会
半田正夫,2005,『著作権法概説(第12版)』,法学書院
広瀬洋子・青木慎太朗,2005,「高等教育における障害者支援ウエブサイト――海外の動向と日本の現状」,日本教育工学会 第21回大会報告(2005年9月24日)
福井健策,2005,『著作権とは何か――文化と創造のゆくえ』,集英社新書


<資料> 「弱視学生が受講するに際し教員が配慮すべき事」についての意見書

1.はじめに
 弱視学生が受講するに当たり、教員がどのような配慮を行うべきか、といったことを、一般的に定めることは困難である。弱視者は個人によって見え方が異なり、それにより、要求される配慮の内容が異なってくるからである。
 以上の認識が、大前提として、極めて重要であると考える。そして、こうした視点をふまえ、どのような配慮をするか、弱視学生本人と担当教員が、講義開始に先立ち、事前に協議できる場が設定されることが望ましい(なお、この点、米国などでは当然のこととして実施されているようである)。大学はマニュアルを策定して教員に周知させるのではなく、学生が教員に自己の障害について伝え、どのような配慮が必要であるか、直接要望できる場を設定するべきである。
 以下、この点を前提としつつ、一般的に言われていること――とくに視覚障害学生に対するアンケート調査や、青木のこれまでの研究成果、そして青木自身の経験に基づき――をまとめる。

2.講義での配慮
 各大学において、講義では以下のような配慮が為されている。
(ア)座席指定
 例えば最前列中央など、弱視者が黒板を見やすい場所を確保し固定するもの。語学など、座席を指定する場合にはとくに注意を要するが、それ以外であっても、弱視者が教室に到着した際、既に席が埋まっていた、等という自体は予想できるので、予め配慮が必要であると思われる。
(イ)講義資料の拡大コピー
 レジュメ等の講義資料を事前に拡大の上、弱視学生に配布するもの。
(ウ)講義資料のデータによる提供
 資料をデータの形で、Eメールに添付するなどして、弱視学生に手渡すもの。パソコンの画面上で見やすい大きさで見ることができるほか、適当に加工した上で出力することも可能なため、拡大コピーよりもデータによる提供を望む学生がいる。
(エ)板書の読み上げ・指示語の禁止
 板書については、できるだけ書いた内容を読み上げる。弱視者は補助具を使って黒板を見る場合が多く、また、とくに手元の資料や教科書を見ながら黒板を見る場合、複数の補助具を取り替えて使わなければならないため、できるだけその負担は軽減されたい。本人の希望によっては、大きめの字で板書する方がよい場合もある。
 また、黒板に書かれた内容を指さし「あれ」「それ」「こっち」等と指示語で説明する場合、弱視者はそれが見えないため、意味を理解できない。したがって、指示語ではなく、書かれてある内容を読み上げるなどして対応する必要がある。
(オ)ビデオ教材の解説(字幕部分の読み上げなど)
 ビデオ教材を使用する場合、そのビデオがどういう場面なのか、分かりにくい場合がある。そのため、教員による解説を要する。また、遠くあるいは頭上にある画面を長時間ながめ、細かい字幕を読むのは非常に疲れるので(あるいは、どう頑張っても見えないので)、教員による読み上げを要する。
 また、教室ではビデオの内容を十分理解できない場合が多いため、本人の希望に応じてビデオのレンタルやダビングなどにより、本人が教室で分からなかった部分を自宅で学習できるよう、支援することが望ましい。
(カ)パワーポイント使用の自粛
 パワーポイントを使って進められる授業が増加傾向にあり、弱視者の中には危機感が増している。パワーポイントによってスライドに映し出された内容は、決して見やすいものとは言えず、また、教室の電気を消す場合がほとんどであるため、人によっては手元がまったく見えなくなり、補助具の操作自体が困難となる場合もありうる。投影される内容をプリントにして手渡すという配慮は当然として、それを見ることは、暗い室内では困難である。
 また、ペンライトによって「あれ」「これ」と指される場合、手の動きを頼りに指示語の内容を理解しようとすることすら不可能である。弱視者が平等に授業を受けるという点で、パワーポイントなどの使用は、極めて制限的・差別的対応であるということを認識しておいていただく必要がある。
 そのため、より制限的ないし差別的でない他の選びうる手段が他に存在する場合、それによって授業が為されるべきである。

3.体育での配慮
 体育実技科目の履修においては、特別のクラスを設置するか、一般クラスで履修する場合に補助員を付ける、という、いずれかの場合を採用するべきである。
 同志社大学では特別のクラスが設けられているが、必須科目との関係でそれを受講できない場合があり、その場合は、一般のクラスで受講し、教員が対応する、という形である。つまり、原則自体には問題はないが、一般のクラスで履修する場合に補助員が付かない、というのは問題がある。一人の教員が全体を把握しつつ、個別対応するのは限界があるし、事故にもつながる。

4.実験・実習での配慮
 実験・実習については全員が履修するわけではないから、手元の資料にも限りがある。補助員が付く場合、補助員は付かず教員が配慮する場合、まったく配慮がない場合など混在するが、それは実験・実習の中身によって当然異なってくるだろう(例えば、理科系の実験には補助員が付く場合が多いが、教育実習には付かない場合がほとんどである)。本人の希望と合わせ、例えば、慣れるまでの短い期間補助員を付ける、といった配慮はあってもよいように思う。

5.定期試験での配慮
 試験問題の拡大、試験時間の延長、別室受験は、大学の制度として確立されている。が、大学(教員)によっては、レポートによる代替措置を執る場合も報告されている。本人の実力を評価することが試験の目的である以上、障害を理由に試験で不利になるようなことがないよう、適切な代替手段が講じられるべきである。こうした思想はアメリカでは既に入学試験においても取り入れられているようであり、日本でも、単位付与については教員の判断であるから、柔軟な対応が可能であるはずである。

6.総括
 ここでは、あくまで一般的に言われているようなこと、そして私自身の経験から言えることをまとめてみた。しかし、冒頭にも断った通り、個々の障害学生のニーズに即した対応が必要であって、そういったニーズを伝えられるのは、何より本人である。したがって、本人が事前に直接教員に配慮のお願いをする機会を設ける事こそ、重要なのであって、例えば、ここに述べたような内容がメモとして教員の手に渡るのみ、というのは、決して私の望むところではない。
 なお、ここに示したことは、その多くは、弱視学生のみならず、全盲の学生についても言えることであるし、また、個別対応が原則である、といったことは、聴覚など、視覚障害以外の障害をもつ学生に対する配慮にも、当然言えることである。
 最後に、本講執筆にあたり、冨安芳和・小松隆二・小谷津孝明 編『障害学生の支援』,慶應義塾大学出版会,1996年を参考にした。必要に応じて参照されたい。


UP: 20070419
青木慎太朗
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