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「“アシュリー療法”論争」

児玉 真美 200703 介護保険情報 2007年3月号

last update: 20110517

“アシュリー療法”論争

 先月号の当欄で、「内面の年齢にふさわしく」と美容手術で自分の体に手を加える若々しいブーマーズの姿を紹介した。年明け早々、今度はその話をそっくり陰画にひっくり返したら、こういうことも起こってくるのか……という論争が巻き起こっている。

重症障害児の成長を抑制
 問題になっているのは、重症障害児に対してシアトル子ども病院で施された成長抑制“療法”だ。2004年7月に、当時6歳の女児から子宮と乳房芽を摘出。次いで2年半のホルモン大量投与で身長と体重の伸びを抑制したというもの。両親が望んだ主な理由は、@体が小さい方が本人のQOLが維持でき、将来ずっと家で世話することも可能となる。A本人には無用の臓器の摘出により、生理や胸のふくらみなど思春期以降の体の変化から来る不快を取り除き、病気や性的虐待の予防にもなる。
 担当医2人は去年の秋に論文(Attenuating Growth in Children With Profound Developmental Disability :A New Approach to an Old Dilemma, Archives of Pediatrics & Adolescent Medicine Vol.160 No.10, Oct 2006)を発表しており、ロイターも11月1日付けで報じているのだが、論争にわっと火をつけたのは、両親が元旦に立ち上げたブログだった。タイトルは娘の名前を冠して”Ashley Treatment(アシュリー療法)“。この決断を巡る親の思いや批判への反論を述べ、賛同の声を紹介する他、娘の生育過程を14枚の写真で公開している。
 LATimes (1月3日)の記事を皮切りに、メディアの報道は概ね批判的な論調で過熱。ネットでも議論が沸騰している。

加熱する賛否の議論
 日本では、ネットで最初に報じられた際に、知的機能は既に失われているとの記述が一部にあり、植物状態との混同が起こった。そこで、まずは両親のブログの記述を中心に、アシュリーの障害像を正しく整理しておきたい。
 アシュリーは原因不明の脳障害のために、経管栄養で寝たきりの全介助。頭を上げておくことも寝返りも出来ず、枕の上など、下ろされた場所にじっとしているので、両親は愛情を込めて“Pillow Angel(枕の天使)”と呼ぶ。話すことはできないが意識は明瞭で、家族が接すると笑顔で応じる。不快を泣いて訴えることもできる。気に入った音楽を聴くと手足を動かし声を出してはしゃぐ。認知・精神機能は両親によると生後3ヶ月、担当医は生後6ヶ月相当と言っている。現在の体重は約30キロで、親が抱えあげられる限界に近い。
 報道を受けて、障害者の人権擁護団体やフェミニズムの活動家は猛抗議。各種団体から「捜査を」、「尊厳を踏みにじる許しがたい暴挙」、「人を変えるな、制度を変えよ」と、非難声明が相次いだ(Washington Post 1月11日他)。一方、「介護の大変さを知らない者に批判する資格はない」、「気持ちは分かる」などの擁護・容認や、「勇気ある英断」、「ここまでして家で世話をしたいという親の愛情に感動」など賛同・賛美の声も多い。また、さっそく「ウチの子にもやって」と、数人の障害児の親が名乗りを上げている(The Guardian 1月8日他)。

編者が4つの問題を指摘
 しかしながら特筆すべきは、論争の原点となった担当医の論文の掲載誌で、編者らがわざわざ論説を書いて慎重な議論を呼びかけていることだろう。そこで指摘されている問題点は以下の4つ。
 @この療法の効果と副作用も、動機となった「背が低く軽い方が、背が高く重いよりも自宅で介護できる時期が長くなり、本人もより幸福」との仮説も、充分に科学的に検証されていない。
 Aアメリカでは既に外見を目的に体に手を加えることが広く行われており、もしも人の価値を身体的外見以上のものと信じるならば、この点での拒絶は出来ない。
 B優生思想の歴史にかんがみて、重症児の成長パターンに手を加えることには最大限の慎重さが求められる。仮に実施する場合でも、最大のセーフガードと保護が必要。
 C問題の範囲は医療を超えている。必要なのは、もっと多くの医療ではなく、もっと多くの在宅サービスであろう。
 そして次のように結論付ける。
 「重症障害児における成長抑制の妥当性は、診察室という密室や、組織内に限定された検討委員会だけではなく、障害者の人権運動と、重症発達障害児・者への良質な在宅介護ケアの悲しいほどの貧困という社会政治的文脈の中で裁かれるであろう。……(中略)……大量ホルモン療法が正しい方向なのであれば、コミュニティ全体から一般的承認が得られるだろうし、もしもそうでなくて批判が起こるのであれば、禁止されることになろう。」

聞こえてくる「どうせ……」
 CNNは1月11日に倫理委・委員長で論文執筆者の一人であるディクマ医師のインタビューを流した。その番組を見て私が一番印象的だったのは、同医師の思いがけない若さだった。CNNは翌12日にも人気番組「ラリー・キング・ライブ」で、同医師をはじめ様々な専門家と障害者・家族による討論を組んだ。論文と2つの番組から、ディクマ医師の言葉をいくつか拾ってみよう。
「過去の虐待(優生手術を指す)をもって、利点がありそうな目新しい療法をやってみてはならない理由にすべきではない」
「仕事にも就けない、恋愛もできない、大人として人と付き合うこともできない人にとって、本来の背丈より小さいと、どういう社会的不利があるのか、想像しがたい」
「背が低い方が、幼児の発達段階にふさわしい接し方をしてもらえるので、むしろ利点(以上、論文)」
「生後6ヶ月の世界に反応するのならば、生後6ヶ月として接してあげるのが尊厳(以下CNN)」
「大事なのは、この問題で発言している障害者の人権擁護の人たちとアシュリーとは状態が違うんだと認識すること」
「何が尊厳で何が人間的で何がQOLかというのは、その人の立場によって違い……」
「(神を演じているとの批判に対して)個人的な意見ですが、自分が持っているツールを、他人にとって最善だと考えることに使うのが、神の意思だと……」──オウムの信者も、そう考えてサリンを撒いたのだったが……。
 これはダイケーマ医師らを擁護する多くの“専門家”にも共通しているのだが、なにかにつけ、彼らは無防備なほどのナイーブさで繰り返すのである。
 「だって、中身が幼児なんだから」「だって、本人は分からないんですよ」「だって、(子宮なんか)必要ないでしょう?」──言外のあちこちから聞こえてくるのは「だって、どうせ……」という声だ。この「どうせ」、一度使ってしまうと、向けてみたくなる対象はいくらでも見つかりはしないか?
 「忘れないで欲しいのだけど、社会というのは、健康な臓器の摘出でコスト削減が可能となったら、やるんですよ。機会さえあれば、社会はいつだって障害者を犠牲にして大衆の方に向かうのだから」
 この討論で障害当事者が彼らに向かって投げかけた言葉は重い。
 1月26日、障害新生児の安楽死容認論で物議をかもしているプリンストン大学の生命倫理学教授・ピーター・シンガーがNYTimes紙に「幼児よりメンタルレベルの高い犬やネコに、我々は尊厳など考えないではないか」と、挑発的な文章を書いた。論争はここで大きな転換点を迎え、これから新たな様相を呈していくことだろう。
 注意深く見守っていきたい。



*作成:堀田 義太郎
UP:20100212 REV: 20100408, 20110517
全文掲載  ◇児玉 真美
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