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>HOME 岩崎 孝正 200706 序にかえて この年譜を、一つの取材ノートとして読んでいただければ、幸いである。 ちなみに、彼のテクストは、虚偽意識でいっぱいである。 ■〈家系〉 (晃 〇五年ガンで死亡) |(五四年結婚〜千葉団地に暮らす) 伊津野八重子(熊本・新屋敷町) |――|―小絵(五八年生 中国語通訳) |(二八年結婚〜三四年 東京)竹中労 |―弦(六十年生 塾講師) | | | | (六六年以降〜七九年までの愛人・助手関係) 竹中英太郎(熊本・博多) 遠藤徳子(仕事場 中野 箱根 蝶恋花舎) | | | | | | | |(七九年〜晩年までの愛人・助手関係) | | | 石原優子(仕事場 東京 夢幻工房) | | | | | 宮城賢秀(作家) | | | | |―――(三五年から前後して)―千鶴 (?)| |(七六年以前に結婚している模様?) | 吉田嘉宏(名古屋) | | | | | | |―むつ絵(四一年生 絵師) |(四〇年結婚〜晩年まで)―|―柴(四三年生 ) 平島つね子(山梨) |―索(四五年生 ) ■[竹中労のサイズとルックス] 六〇年代 身長一六六p 体重七十五s 七〇年代前半 体重七十九s程度、徐々にふえる 七〇年代後半 体重九十s程度 八〇年代前半 刺青を彫ったため・神経痛のため体調不良で十s減、八十s以下に落ていく 八〇年代後半 病気のため徐々に減り体重五十五s ■[特徴] 話す際、いつも声が大きい。大言壮語が身に馴染んでいるかのようである。 原稿書くときは、唸りながら書く。あついときは、上半身裸になって書く。 俳優・金子信雄に顔がよく似ている。顔は母親似(?)のようだ。六〇年代後半から髪の毛が薄くなる。女性自身記者のときから、少しずつ。 ときたま(突然)、説教たれる場合がある。 よく「あったかのような嘘」をつく。 酒量の一定量を超えると、キレる。 取材対象や対談相手をナメてかかる場合がある。 ■年譜 [時代・社会背景] この年の翌年、ウォール街株式市場が暴落する。 第一次対戦後から、日本の領土面積は拡大していく。 竹中英太郎は下落合に家を借りていた。一辺はまだ田舎で、あちこちに畑がある。熊本出身者がかたまって住んでいる場所が下落合にあり(熊本人村と呼ばれた)、小雑誌編集者・橋本憲三、「母系制」研究家・高群逸枝、作家・小山勝清などが住んでいた。みな貧窮していたためか、家があるとなればすぐ同郷の者が転がり込んできた。映画作家・牛原虚彦の「象牙の塔」のシナリオを書いた歌人・美濃部長行は、この頃下落合の英太郎の借家に転がり込んでいたようである。現在から考えると迷惑な話でもあるが、困った際に下落合の人脈を辿ると、解決策がみつかることもあったので、彼らが住む下落合は「もちつもたれつ」の関係をかたち作る自治区の役割を果たしていたといえる。戦前のこのような光景は、日本のどの地域にもみられた。福島県出身の筆者の祖父も、竹中英太郎と同じように、いわゆる「血族の面倒をみる生活者」であった。この頃は、血族間での社会保障(セーフティーネット)が機能していた面が強い。それは、「貧しさ」の感覚とパラレルであろう。 一九二六年頃、竹中英太郎は文芸誌「苦楽」編集長である西口紫溟の世話になっていた。英太郎は彼の仲間内にいた伊津野八重子と出会う。同じ熊本出身とあってか、似たもの同士だった二人は恋に落ち、程なくして所帯を持った。しかし、伊津野八重子はいわゆる当時の「新しい女」達にシンパセスティックだったためか、もしくは、インテリ風な「良識」を持っていたために、英太郎の目には《しっかりしていると見えた八重子の性格が、実は以外にきつかった》と写った(1)。心は次第に八重子から離れていき、仕事も軌道に乗ったかのようであった。が、二七年の秋頃には、八重子の腹は目に見えて大きくなりはじめていた(?)。英太郎は、その頃横溝正史の依頼を受け、『陰獣』の挿絵を描き、一躍画壇のスターダムにのしあがる。 そんななか、長男・労が誕生する。 一九二八年 昭和三年(満〇歳) 三月三十日、東京都牛込区肴町で父・竹中英太郎、母・伊津野八重子の長男として出生する。父は当時、博文館編集部に通い、『名作絵物語 虞美人草』(夏目漱石)、『嗣子』(松本泰)『死后の窓』(夢野久作)などの挿絵を手がけ、江戸川乱歩の再起作であった『陰獣』をきっかけにして一躍流行挿絵画家となる竹中英太郎。母は御茶ノ水高校を卒業し、いわゆる「新しい女」にシンパセスティックだった伊津野八重子。 名は、二八年書かれた臍の緒の袋書きで「乱」とあるらしい。生後百日目、母・伊津野八重子に抱かれ、父・竹中英太郎の親の移住先である福岡市博多と、母・伊津野八重子の地元の熊本に汽車で向かう。父母は、《九州熊本の実家に初孫を見せに行く旅》(2)と、水平社の《松本治一郎に抱かせる》(3)旅に向かった様子である(この部分の真偽は定かではない。松本治一郎のくだりはつくり話であろう)。竹中労の生まれは、恐らく三〇年である。二八年というのは、恐らくつくり話であろう。(ごめん。さっきの話は無かったことにして)。 [参考文献] (1)『美は乱調にあり、生は無頼にあり』(批評社) (2)『逆桃源行』(三笠書房) (3)『いま、君に牙はあるか』著・野村秋介 [時代・社会背景] 竹中英太郎は仕事が忙しいという理由で家を出ていた。神田の旅館に居続け、そのまま母・八重子と別居する決心をする。《できることならば、二人の仲を清算してしまいたかった》(1)。 一九三〇年 昭和五年(満二歳) 八重子は生活費を稼ぐため、労を親戚の家に預ける。こののち、引越しをくりかえし、親戚の家を転々とすることになる。が、幼少時のほとんどを「芸者町」で過ごしたようだ(2)。この頃から尋常小学校入学まで、《母方の祖母にぼくは育てられた》(3)。 竹中英太郎により、名が「乱」から「労」に改名される……らしい。鈴木義昭『夢を吐く絵師』によると、英太郎はサンジカリスト(労働組合主義)で、もしかしたら、最初から「労」だった可能性がある。なぜ、「乱」としたのだろうか。英太郎が大杉に心酔していたからか。その可能性は薄い。アナキストというよりも、英太郎はサンジカリストとしての面が強い。竹中労が、英太郎をアナキストとしてみたのは、恐らく「自らの名の由来」に端を発しているかと思われる。それは彼なりの、愛情表現なのだろう(歪んでいると思うが)。 もし手前の名の由来を竹中労自身が勝手につくりあげていたのだとしたら、いやはや、かなり恐ろしい性癖ではあるまいか。人間類型として社会に位置づけるのであれば、「肥大しすぎる自意識」(&歪んだナルシシズム)を持つ者とすることが出来る。筆者は精神科医ではないが、このような意識を持つ者は、(特に幼い頃の)トラウマティックな過去を引きずっている可能性が強い。そして、彼の主張は宗教性を帯びる場合がある。 [参考文献] (1)『美は乱調にあり、生は無頼にあり 幻の画家・竹中英太郎の生涯』(批評社) (2)「サンデー毎日」(七二年十月十五日号) (3)『たまの本』(小学館) [時代・社会背景] 英太郎は三四年の春、平島つね子と神保町のすずらん通りのカフェー「坊ちゃん」で出会い、四〇年に結婚する。この間に、隠し子である千鶴を、某女子に産ませている。 父・英太郎はもはや絵筆を折っており、三九年、東京都品川区大井北浜で鉄工場を経営している。四〇年、再婚と同時に伊津野八重子との関係を清算し、労を手元に引き取る。 一九三三年〜一九四一年 昭和八年〜昭和十六年(満五歳〜満十三歳) 家庭の事情で、転居を(王子区志茂町・四谷・駒込・神楽坂)を四度する。三〇年から四〇年までの十年間、親戚の家を転々とする(?)。 小学二、三年の頃、本の読みすぎで強度の仮性近視となり、読書を禁じられる。読んだ本は『日本文学全集』『世界戯曲全集』などであった。この頃父・英太郎の書棚から「新青年」などの雑誌類を、訳もわからず読むこともあったようだ(1)。後年になって、《幼少のころは"神童"と呼ばれる脆弱いデリケートな子供だった》(2)と、自身を評している。 小学三年生(三八年)のとき、市ケ谷の小学校に通う。 小学五年生(四〇年)のとき、労は牛込神楽坂で母・八重子と暮らし、その後品川区立会川へ移り住む。母・八重子に「男」ができたので、父・英太郎に引き取られることとなった。八重子は英太郎と離婚後、しばらくして東京で所帯を持ったようである。労は母・八重子と別れた後、《どっかで俺を見ていてくれるようなものに、大人になったらなりたいと思った》(3)ようだ。またも読書を禁じられた労は、再婚相手のつね子が母となり、複雑な気持ちとなったためか、《盗み・掻払い・喧嘩・カツ上げ》を繰り返し《近郷近在隠れもなき不良少年》(2 ※)となる。 同年、労は品川区国民鮫浜小学校を卒業し、私立高輪中学に入学する。同校で剣道にいそしみ、ならんで地理学研究部に所属する(ここの真偽は定かではない。竹中得意のつくり話の可能性が強い)。 四一年、太平洋戦争開戦とほとんど同時に、戦時企業整備により父・英太郎が経営していた鉄工場が閉鎖され、一族は路頭に迷う。労は、英太郎の姉(伯母)に預けられる(新井の従妹の家に寄宿という記述もある)。 在学一年余で、甲府中学に転入学する。甲府へ向かったのは、鉄工場が閉鎖され、竹中家で疎開という話が出たためである。一足先に、英太郎とつね子が甲府へ汽車で向かい、四三年の六月に、父・英太郎が労を呼び寄せるかたちとなった。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 旧制中学時代には、出入りが禁止されていたにもかかわらず、浅草によく出入りしていた。川田義雄、アキレタボーイズを聴き、榎本健一の声帯模写をするなど、様々な音楽体験を持つ機会に恵まれた(らしい)。近郷近在隠れもなき不良でありながら級長を務め、全国綴方コンクール東京地区二位(小学五年次の春)、トンボ鉛筆の交通標語一位に入賞(「止まれ!まずみぎひだり」という標語であったらしい)、百人一首小学生日本一の栄誉を担っていた。末おそろしきアンファンテリブルであった、と竹中は記述している。音楽の成績は悪く《音痴は学校でつくられる》と『たまの本』内で書いている。 《画家だった僕のオヤジは子供の教育に無頓着で、ギャング映画の『暗黒街の顔役』『デット・エンド』、チャップリンの『街の灯』、オッフェンバッハ"天国と地獄"の演奏ではじまる大都映画の冒険活劇――鳥人ハヤブサヒデト、はては毛唐の女が素ッ裸になる『春の調べ』というのにまで、手当たりしだいに連れて行ってくれた。オフクロのほうは、少し良識めいたところがあって、もっぱらタメになる映画しか見せてくれなかった。これが高峰秀子の『綴方教室』であり、『土』であり、『馬』であった。とりわけ『生活綴方』の印象は強烈だった。そのころ"生活綴方"運動というのが大いに流行し、豊田正子(綴方教室の原作者)という天才少女の名が喧伝された》(4)。 《もっとも低俗とされていた(?)大都、極東映画の魅力を教えてくれたのは、(英太郎の鉄工場に勤める)後藤職長を筆頭とする若い工員たちだったのである。阿部九州夫、杉山昌三九、隼秀人、大乗寺八郎、近衛十四郎、藤間林太郎、そして水島道太郎といった大都映画のチャンバラ、活劇スターたちはオッフェンバッハの「天国と地獄」のメロディに乗ってあらわれ、少年の情緒を煽動した。雲井竜之介、綾小路弦三郎といった極東の立役は、子ども心にも何かもっさりとしていて好きになれなかった。新興の大友柳太郎、羅門光三郎、市川男女之助と、スターの好悪はひろがっていったが、やはり何といってもアラカン、バンツマのほかに神はなかった》(5 ※ カッコ内筆者注)。この時代の「映画」とは何であったのか、七四年当時の日本映画はどのような道程を辿ってきたのかを明らかにする、現行(七四年当時)の映画史とその上に立脚するアカデミズムへの異議申し立てである(と、竹中は自らの論理をぶちあげる)三部作、『日本映画縦断』を書くきっかけとなる。しかし、これは恐らく「捏造された記憶」、もしくは竹中自身のレトリックも含まれているのではなかろうか。資料に基づいて、後付けされたものも含まれるかと思われる。 この頃竹中は、学校の先生の教育の影響で、漢文に限りない親しみを覚える。竹中の友人であった井家上隆幸によれば、竹中の美文というべき文章は、《漢文をかなり勉強した者にしか出来ない文章》であるらしい(6 カッコ内は筆者注)。また、学童たちと、学校では廃止されカリキュラム入っていない英語を習うべく、毎晩山を越えて先生のところへ向かい勉学に勤しむこともあった(年代特定できず)。後年、《中学三年を了えたとき、クラウン・リーダーの5まであげちゃった》といっている。竹中が外事専門学校に入学できたのは、クラウン・リーダーを修得したためであったらしい(7)。竹中は、「英語はキングス・イングリッシュで話せる」と豪語していたが、もちろんそれは嘘っぱちのようである。ちなみに、この頃英語を話せる人間というのは、「英雄」あつかいされていたようだ。 この頃《下谷車坂、稲荷町、神吉町、万年町細民街、浅草六区、花屋敷、五重塔。山谷の泪橋界隈、日本堤。三階建ての豪勢な家が建ち並んで、森としていたあれは吉原、深川八幡、人形町、水天宮。旧東海道、ジェームス坂、お台場の見える海》などを歩く(8)。竹中は鉄工場の倅ということで、いわゆる「中流の家庭」に育ったといえる。 この頃は、四・二・五・三・三制である。尋常小学校、高等小学校、旧制中学……という制度になっている。 [参考文献] (1)『たまの本』(小学館) (2)「週刊読書人」七一年七月二十六日号 ※ちなみに、当時は喧嘩が日常茶飯事で、皆が不良少年といっても過言ではない背景がある。 (3)『ちんこんか―ピンク映画はどこへ行く―』著・野上正義 (4)『くたばれスター野郎 芸能界こてんこてん』(秋田書店) (5)『日本映画横断1 ――傾向映画の時代』(白川書院) (6)「中州通信」九八年三月号 (7)『竹中労の右翼との対話』(現代評論社) (8)『仮面を剥ぐ』(幸洋出版) [時代・社会背景] この頃、父の教え(躾)を守りながら、皇国少年的な態度に傾く。「死」と対峙せざるを得ない当時の青少年達と変わらず、宗教書・哲学書・文学書などを読みふけっている。特に「聖書」は、竹中に多分の影響を与えた(らしい)。 竹中が通年動員されたという部分は事実のようだ。が、教官に反抗し続けていたという部分は怪しい。海軍の特攻機の「秋水」の燃料をつくっていたという部分も、やはり怪しい。なぜかといえば、「秋水」が作られたのは四四年十二月で、彼の発言のつじつまが合わないのである。とりあえず、彼の「発言」に基づいて、年譜を整理してみた。が、恐らく彼の「捏造された記憶」の面が強い部分もある。 一九四二年〜一九四五年 昭和十七年〜昭和二十年(満十四歳〜十七歳) 四三年六月、父・英太郎に呼びよせられ山梨県甲府市に疎開する。甲府は、父・英太郎の再婚相手のつね子の出身地であった。竹中一家は甲府市御納戸町(御納戸小路)に住んでいた。労は数日後、山梨県立甲府中学(旧制甲府中学)に転入学する。 四三年十月一日、労は中学三年生のとき、神奈川県大船の海軍航空技術廠の第一燃料廠(マル呂研究室)へ通年動員と決まる。海軍航空技術廠内では、客船を改造した空母、爆撃機の試作機がつくられていた。「桜花」「震洋」「秋水」などがそれである。 四四年二月、(実習学生時代に)教師に反抗的な態度をとったため、暴行され右瞼裏に失明寸前の裂傷を負い、一度目の入院。同年五月二十九日の夕方、工員につられて工場の裏山にのぼり、B29爆撃機の編隊が頭上にひっきりなしに通過し、機首を転じて南に飛び去る光景をみる。翌朝に「横浜は全滅だ」という噂をきき、それを確かめるため、二日後の五月三十一日の午後、救援物資を運ぶトラックに便乗を志願し、横浜に向かい焼け跡を歩く。《それは、生涯決して忘れることのできない、すさまじい光景であった(略)……まだ、あちこちで火を吹いている焼け野原のむこうに、海がみえた。青く光っていた。見わたすかぎり、巨大なローラーでならしたように、ぺちゃんこにひしゃげた瓦礫の堆積であった。ぶすぶすと余燼をあげる赤黒い焦土に、顔が煤でまっくろの男とも女ともつかない人間達がさまよっていた。頭や腕から血を流し、血を流したまま立ちどまったり歩いたりしていた。彼らはもと自分の家があったはずの焼けあとで身寄りの屍を探しているのであった。死体はいたるところに、ごろごろ転がっていた。黒こげのサンマのように皮がむけて、橙色の肉がはじけていた(略)胃の腑からつきあげてくる嘔吐に、私は耐えられなくなった。走っていって、瓦礫の間にしゃがんでヘドを吐いた。涙とヘドが、いっしょに堰をきってあふれた。泣きながら、ヘドを吐きながら、「死にたくない」と思った。強烈に思った。そのいっぽうで、この非道な殺戮に復讐しなければならないという血なまぐさい怒りがこみあげてきた。五月二九日、アメリカ軍はB29など六〇〇余機の編隊で、横浜市を無差別爆撃した。市街の多くを焼きはらい、一〇万人の市民を殺した。死者のほとんどは女であり子供であった。私は、そのことを決して忘れない。》(1 カッコ内は筆者注)。 四四年三月から翌四五年八月の終戦まで、海軍最後の特攻戦闘機「秋水」の燃料である過酸化水素の濃縮液を、二交代制の労務で製造する(1 ※)。この間に、防空壕掘りに配転され、その後さつま芋植えを行なう。余暇に「鎌倉文庫」(鎌倉文士が経営する貸し本屋)に通う。ここで、店番をしていた久米正雄と二、三会話をする。この頃、教師および海軍ポリスに反抗し《三日にいっぺん殴られ》ており《ことごとに制裁の対象とされ》ていたようである(2 ※)。 四五年八月、教師の鉄拳制裁により全身を殴打されたため、敗戦は大船町海軍病院のベッドの上で迎える。《食事も薬もあたえられず、全身をシラミに噛まれながら、衰弱してゆく思念は不思議と"死"を思わなかった。「オレは死なない。死んでたまるものか」と思いつづけた》(3)。《戦争の末期になると家に逃げ帰るものが増えたが、私は敗戦のその日まで頑張った(略)硬派の不良少年の意地をつらぬいたまでのことだ》(4 カッコ内は筆者注)。病院から引き揚げトラックの担架にくくりつけられるようにして甲府市に帰される。帰ってきた甲府は、「甲府空襲」により全市の六四%が焼失していた。市の焼け跡の光景が、労の目に映った(3 ※)。 四五年十月、父・英太郎の指導で甲府中学ストライキを指揮する。父の意向は、戦犯教師追放であった。労はその意向を受け、初鹿野宏などを中心として学生達とストライキを行う。《永井校長の俳斥が決議されて、生徒たちはまず県庁へ押しかけた。そこで玄関払いにされると、今度は学校教育課長の官舎へ出向き、面会を強要して気勢を上げた。校内で公然とびらやプラカード作りが行なわれ、各クラスでは教師に議論を吹っかけての吊るし上げが日常化した。教師たちは同調したのではなかったけれど、校長への反発やいろんな思惑もからんでいたから、授業らしい授業も行なわないで日が過ぎた》(5)。指揮者の中には共産党関係者も含まれていたが、《指導部は突っ走る労に終始引きずられている印象であった》ようだ(5 ※)。後に「竹中英太郎伝 乱調・無頼のうた」を書いた備仲臣道は《この頃はまだ思想と言えるようなものは彼の内部に形成されておらず、げんこつ親父に背を押されるままに、性格の嬌激さにまかせてぶつかっていっただけのようである》と、明解な分析をしている(5)。ストライキが成功し、甲府中学校長・長井徳潤に辞意を表明させるまでに至る。が、ストライキが収束に向かうと、学校側から労や初鹿野に退学勧告書が出された。 労はこの後、東京外事専門学校(現・東京外語大)露学科に合格したため、甲府中学校で四学年修了資格扱いとなる。入学の理由は《ドストエフスキーを原語で読みたかったため》とあるが、真偽は定かではない(6)。その他の入学理由は、竹中一家が貧窮していたため、《学費が一番安い》外事専門学校に決定した、などである(2)。 進学先が決まった労は、翌年の四月に上京することになった。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 戦時中、李香蘭の「夜霧の馬車」という歌に魅かれる。初恋の相手は李香蘭だったと、晩年竹中は語っていた。 この頃、千葉千胤という教師に、国漢を教わる。樋口一葉、徳田秋声、石川啄木、芥川龍之介、宮沢賢治など、様々な本を彼から貸してもらう。しかし、学徒は、学業全面停止のところが多かったと聞くが……。 竹中が病院に入院するのは、一生に二(三?)度だけであった。八五年まで、健康保険を持たなかったようである。生涯、国勢調査に応じず、国税局に所得を申告せず(還付金不要)、国民宿舎に泊まらず、年金に加入しないという、国家に対して一貫したアナーキストぶりをみせると、『無頼の墓碑銘』内で自身は語っていた。が、これはもちろんパフォーマンス的な発言であろう。 [参考文献] (1)『完本 美空ひばり』(ちくま文庫) ※皮肉にも、「秋水」は対B29の戦闘機として開発されたものであった。竹中は本書で、「秋水」が特攻用の戦闘機のように書いているが、初期の計画では、特呂二号噴射式発動機で高度十キロメートルまで三分で一気に上昇し、搭載している三十メートル砲で一撃を加える予定であった。しかし、本書で竹中が《きっと敵にぶつかる前に失神してしまうにちがいない》と考え、特攻隊員の心情を思うのは、当戦闘機の性能をみれば妥当であるといえる。が、恐らく六〇年前後に参照した『美空ひばり』を書くための資料に基づいて想起された、「捏造された記憶」なのかもしれない。ちなみに「秋水」は、四四年十二月初旬に試作機が完成していて、翌年七月七日に追浜飛行場で試験飛行が行われた。が、燃料タンクの不具合により墜落した。この事件と、当時の労務内容について、後年にこう回想している。海軍航空技術廠内では《追いまわし、というやつ、下働きをやっておりました。ところが若い技術将校たちは、研究にまるで身を入れようとしない。アミノ酸とアルコールで合成酒をこしらえたり、サッカリンをつくったりしている。戦時下の愛国少年としては真にハラが立つわけですよ》《率直に聞きました、こういうことをやってよいのか・戦争に負けますよと。(略)すると「敗戦はもう決まっている。秋水は二度のテスト飛行で、機体も搭乗員も粉々になってしまった。これ以上、むざむざ人間の挽肉をつくるような、バカげた実験など真平ごめんこうむる」 ショックでしたねえ、竹添という東大出の大尉でした。この人に可愛がられて、高等官食堂でメシ食わせてもらったり、寮につれていかれて、押入れの中でボリュウムを落としてレコードを聴いたり》(9 カッコ内は筆者注)。海軍航空技術廠(空技廠)は、海軍航空機に関する研究、試作、性能研究等を担当していた。本廠は主として機体、原動機、航空医学、搭載兵器の一部、支廠は搭載兵器の大部分を担当している。 竹中のこの体験はのちに『たまの本』内にも書かれる。 (2)『竹中労行動論集 無頼と荊冠』(三笠書房) ※反抗しなくとも、生活上で何かの間違いや、「非国民」と判断できる発言を聞かれれば、当時は教師や上官に日常茶飯的に殴られていたようである。しかし、竹中は繰り返し反抗的な態度をとっていたと記述している。彼の性格は激越なものであったと誰もが証言しているので、この記述は過剰な表現であるかもしれないが、本書から引用させていただいた。 (3)「潮」六六年三月号 ※この点については、竹中の記述が『天皇制と靖国』『日本映画縦断』「潮」六六年三月号内で重複している。この年譜では『日本映画縦断3』の体験を引用させていただいた。井家上隆幸によれば「暴行され、担架にくくりつけられるようにして甲府に帰されるって書いてあるけど、竹中労の甲府の友人に話を聴くと、事実は少し違うようだ」(談)らしい。 (4)『天皇制と靖国』編著 二葉憲香・梅原正紀(現代書館) ※戦後にこのようにいうとは、やはり彼の戦中の傷の深さが窺い知れる。が、あまりいい性格の人物とはいえない。 (5)『美は乱調にあり、生は無頼にあり 幻の画家・竹中英太郎の生涯』(批評社) ※鈴木義昭によれば「英太郎に導かれてストライキを行なったとあるけど、どうもそれは間違いで、労さん自身が一人で始めたのではなかろうか」との話であった。英太郎は、共産党と仲は芳しくなかったようである。が、皇国教育が身に馴染んでいた者にとって、そう簡単にストがおこせるとも思えないが……。竹中の場合、英太郎の影響もあってか、「右翼左翼関係ないところで育った」と思われる。とすると、彼らの触発を受けたて行動したのであろう。 恐らく、彼が精神的に依拠したのは、廠内での暴行されたうっぷんであろう。一方で、この頃からオルグ能力・組織者としての気質が芽生えていたのかもしれない。それは小学生のときの「級長」の感覚であったに違いない。しかし、このストライキを一人で行なったというなら、なかなかの智略家である。 (6)「週刊読書人」六九年九月八日号 (7)『日本映画縦断3 山上伊太郎の世界』(白川書院) (8)『黒木和雄 年譜』(映画同人社・黒木陽子発行) (9)『人間を読む』(幸洋出版) [時代・社会背景] 北海道(函館)は、日本とは思えない異国情緒溢れる町であった。戦争の傷痕、焼け野原もなく、アイヌの人々が「北海道・独立すべし!」というビラを配っていて、当時としては非常に自由な雰囲気があった。が、娯楽と呼べるものは「盆踊り」しかなく、皆はなにもないので、一様に踊りまくっていたようだ、と竹中は回顧している。盆唄に踊り狂う人びとを見て、危険を感じたGHQは禁止命令を出したらしい。 四五年七月、北海道にも空襲はあり、死傷者は八百名余、重軽傷者は二万人余いた。空襲された場所も竹中が行った重複している。恐らくだが、竹中が北海道に向かったのは、戦後ではないのかと、筆者は考えている。しかし、竹中が所感派の末端の党員であるなら、徳田球一に従って、シベリア 実際北海道には行ってないのではないかと、筆者は推測している。だとすれば、徳田球一の演説や、鈴木東民の演説を聴いた云々のくだりも怪しいものである。 のちに書くように、竹中はこの頃「運動」なるものに全く関係していない。 一九四六年 昭和二十一年(満十八歳) 四月末に上京するも、東京外事専門学校の校舎は戦災で全焼していた。学校は上野の音楽学校に間借りをし、合格者に一年強制休学を課すというシステムをとっていた(1 ※)。東京九段の学生会館(元は近衛連隊の兵舎、屋根は焼夷弾により穴だらけ)の九号室を仮の宿とし、在学浪人。映画と芝居を見て歩く生活が続く。五・一九食料メーデー(飯米獲得人民大会)の二十五万人のデモに参加、日本共産党書記長であった徳田球一と、読売新聞論説委員であった鈴木東民の演説を聴き《革命が明日にでも来るようなミ憤をおぼえた》後に《ゼニもコメもなくなった》ので、夜汽車で北海道・九州の親戚を頼りに、上野駅から放浪の旅に出発する(1)。 音別で高校の教師をしていた大叔父をたずねて、北海道へ向かい四ヶ月放浪、《函館から長万部、小樽、札幌、帯広、釧路の町々、そして音別、中標津――地図にも載っていない開拓村、漁村を渡り歩いて、あの町この村で人びとが熱狂的に盆踊りに打ち興じているのを見ました》(2 ※)、《GIがジープで走っていた》(3)姿を見たのち、九州《大分県日田市》他に向かう(4 ※)。 「七カ月の放浪」の間、書物をほとんど読まず、もっぱら百姓の手伝いをする。この年の秋に、疎開先である山梨県甲府に帰る。奇跡的に空襲をまぬがれた県立図書館に、一日の欠勤もなく通い続け、およそ五百冊の多岐亡羊、すこしも系統的でない本を二百日で読み終える。《もし私の読書歴に、辛うじて"一貫性"を求めるとしたら、それはドグマチックな"体系"に呪縛されることなく世界を見ようとする、自由な精神の営為だったとでもいおうか》(5 ※)。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 この頃、泪橋界わいを歩く。敗戦直後、ジャズ喫茶「スイング」(水道橋)に通う(共に年代特定できず)。丸の内にあった煉瓦造りの三菱二十一号会館ソ連代表部で、ロシア映画無料鑑賞会に通い、「アレクサンドル・ネフスキー」「イワン雷帝」「母」などの作品を見る(6 ※)。同時にこの時期、性心理学者であった高橋鐵の著作を読みふける。 北海道で民謡を知る。 『山谷―都市反乱の原点』内に、この年の冬に在外同盟救出学生セツルメント要員として上野駅引揚者仮泊所で働くとある。が、恐らく記憶違いのようである。 [参考文献] (1)『竹中労行動論集 無頼と荊蒄』(三笠書房) ※資料では、四五年四月十三日に戦災により校舎全焼、五月、校舎全焼のため、下谷区上野公園東京美術学校、図書館講習所、美術研究所内に移転し、七月から授業開始、とある(東京外国語大学ホームページから引用)。竹中は四月末に上京したが、何らかの手違いで(家に)「戦災により焼失」という報告がなされなかったのかもしれない。焼失し、一年強制休学しているとわかっていれば、上京することは無かったと思われる。この部分は竹中の記述に添って書かれているのだが、『無頼と荊冠』内にも「一年休学のシステムをとっていた」という部分は見当たらない。竹中はほとんど学校に通っていなかったと語っている。筆者は、彼は本当に通っていなかったと推測する。そのため、この部分はよくわからなかったのだと思われる。筆者は竹中労が所感派周辺にいたと推測している。だとすると、この外語細胞に、所感派周辺の人物がいたのではなかろうか。 (2)『琉球共和国 汝、花を武器とせよ』(ちくま文庫) ※『人間を読む』内では大叔父の家に二週間居候とある。 (3)『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・春と修羅(二)』(潮出版社) (4)『仮面を剥ぐ』(幸洋出版) ※九月半ばまで北海道に滞在したと、『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・春と修羅(二)』内にある。が、前述の『人間を読む』内のように、二週間居候だけであるなら、九月半ばまで滞在したことにはならなくなる。この辺りは、彼の記憶も不確かなようだ。帯広から夕張に向かう際に、「炭管」のラジオ放送を聞いていたと、『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・春と修羅(二)』内で回顧しているのだが、これも記憶に基づく内容なので、聞いていたか否かの判断はしづらい。したがって、「七ヶ月の放浪」の記述も暫定的な記録となる。恐らく彼が北海道に向かったのは、戦災の傷が癒えた戦後であろう。 (5)「週刊読書人」七一年七月二十六日号 ※『ルポライター事始』内では、暮れに帰郷と回想している。筆者の推測であるが、この年の竹中の「回想」はつくりがあると思われる。竹中は「自らの生き方を見事に論理化する」が、やはりどこかに「つくり」があると筆者はみている。もしかしたら、竹中は四月に上京せず、山梨にひきこもってずっと読書にあけくれていたかもしれない。 (6)『芸能の論理』(幸洋出版) ※この事実は定かではない。 [時代・社会背景] 一九四七年 昭和二十二年(満十九歳) 全官公庁共闘委が指導する「二・一ゼネスト」の中止放送(米軍のジープで運ばれた全官公庁共同闘争委員会議長・伊井弥四郎がNHKスタジオで放送)を飯田橋駅で聴く。その五日後の二月五日、当時学生同盟の委員長であった千田夏光を通じて日本共産党に入党、東京外語大の青年共産同盟の活動家、外語細胞となる。千田夏光は《誰の紹介だったか、ふらりと竹中が入ってきた。ここで(千田夏光の家で)竹中は、共産党の入党申し込みを書いたのは覚えている》と語っている(1 ※ カッコ内は筆者注)。竹中自身は《二・一ゼネストを総括して私たちは共産党に入ったのです》と語る(2 ※)。二月半ば、父・英太郎に絶縁状を送る(3 ※)。後に山梨県選出代議士となる古屋貞雄(社会党議員、甲府で農民指導に当たった人物)に慫慂され、春に在外同胞救出学生同盟に参加、引揚者擁護の運動にたずさわる。四月から上野駅地下道でセツルメント要員として活動。同月、引揚列車の添乗員として広島駅に降り立つ。この頃から、大坪白夢が主宰する詩誌の同人誌「フェニックス」で詩を書き始め、後に新日本文学会会員になるきっかけとなる(4 ※)。 その後《「熊の部屋」と、なぜか称する代々木党本部の一室に呼びつけられ、書記長・徳球にじきじき叱責されて、小生は統制に服することを誓った》(5 ※)。外語大は、西武線上井草の旧電気通信学校にて授業は再開されていたが《夜も昼も駅頭に立ち引揚者を迎え、世話活動に献身する活動の中で、おいら外語に通うのを断念した、一年くらい休学してもいいやと、例のとおり行き当たりばったり》(3)。実家からの仕送りが無いため、自活するためのアルバイトとして、進駐軍の夜勤労務、横浜埠頭の荷役(主に春、行なう)、WAC・米軍婦人部隊のレフトライト通訳、一枚十円の本の翻訳の下請け、暴力団親分の娘たちの家庭教師など様々な職につく。アルバイトのかたわら、ウエイトレス・ユニオン(W・U)のオルガナイザーとして労働組合を組織する。五月一日、戦後第二回メーデーに外語細胞として参加。 夏から休学の理由に、東京駅の地下道に寝泊りする。七月、右翼的学生を中心としてはじまった在外同胞救出学生同盟は、引揚学生同盟と改称、東京学生同盟と左翼運動体へと組織替えする(後者は四八年かも、記述内容が『ルポライター事始』と『無頼と荊蒄』内で重複)。引揚者東京連合会の文化部長兼引揚学生同盟の事務局長、仮泊所セッツルの責任者を担当、特配物資を闇ルートに流し、党に上納する(4)。このため(?)本来、民族主義的運動としてあった引揚運動を「赤化する共産党の陰謀」と千田夏光、竹中労、対外部長のTが右翼学生にデマを巷に流布されるが、同盟の大会でデマを打ち消す。しかし、《たとえヌレギヌでも汚名を着せられて、そこにとどまることは誇りが許さなかった》(3)。学生運動を離れ、党には在籍したまま党を離れ、山谷(翌年春まで滞在)、浅草、上野をルンペン・プロレタリアとして往復する日々が続き《窮民革命のさらなる夢想にのめりこむ》(6 ※)。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 逮捕歴の最初は八月、上野の地下道で朝も夜も赤旗ふってアジ演説をし、暴動を呼びかけ道路交通法違反容疑、一晩で釈放。二度目は故買容疑、(屋台を運営していた際)預かっていた自転車を警官に故買だと疑われ、三日間拘留される(7)。このとき、竹中の法廷での態度は@法律用語が少しもわからないAあとで弁護士に解説してもらってもチンプンカンプン、であるがゆえに弁護士は裁判官とグルなのではないかと考えるC二回目被告になったときから法律を猛勉強するようになるD無罪放免になるEということは、弁護士はちゃんとやってくれたんだな。という経過をたどっている(8)。 この頃、竹中は乾性肋膜炎を病んでいたらしい。医師にかからず自力で治したが、肺臓と横隔膜が癒着し、すぐ息が荒くなるという後遺症が残る。後年、周りの人間は、竹中はいつも顔が紅潮しているので、多血質であるのだろうと予測していた(9 ※)。乾性肋膜炎は当時の流行り病であったという。 竹中が在外救出学生同盟に参加したのは、母方の祖父(平島利明、樺太に残留)や叔父たちが、朝鮮、樺太に残留していたためであったらしい。《引揚者の世話活動とは、荷物運びと列車添乗の重労働であり、"報酬"は東京都から月々支給される九十枚の外食券のみ》(4)だった。同同盟は《朝鮮に逆上陸して、同胞をむかえにいった仲間もいるのです》(10)という団体であった。ちなみに、太田竜は樺太からの引揚者である。 山谷に滞在していたとき、だるま屋という簡易旅館で、街頭の似顔絵描きとパンパンであった女房夫婦の居候となる。《半年あまり山野に住んで、"消極的な"腐敗物とマルクスが慎重に規定した意味を、私は理解した。どん底の人びとは、むしろ一般の市民社会よりも、コンミューン(共同体)的心情を日常に生きていた》(11)と、後年回想している。竹中の思考には、制度=支配に対する深い憎悪がある。この制度=支配に対置される情念として、人々の自治的な「繋がりあい」を優先する考えを持ち、なおかつ(社会システム理論というと語弊があるかもしれないが、その命題を)実践していく。六十年代後期から七〇年代前期、竹中はこの体験をジャンピングボードとしてマルクスとその理論を受け継ぐ日本のマルクス主義諸党派を否定する。 《アンティールの黒人叛乱、あるいはズールー戦争、それからベンガル、至るところに叛乱が連鎖していたあの十九世紀末。まさに"窮民""流民""暴民"の革命戦争が闘われているときに、大英図書館でもって非プロレタリア的諸学派と闘いつつ『資本論』を著述していた学者マルクス、非行動の人マルクス、バクーニンがロシアから日本に通ってアメリカに亡命し、リンカーンが暗殺され、リビングストンがザンベジ河をさかのぼっているときに、研究にいそしんでいたマルクス、それを始祖とする教義は、やはり戦後日本においてのマルクスの教理なるものは、日本の革命―― "窮民"の革命を完全に圧殺した、権力が圧殺したのではなく。日本戦後革命を圧殺したのはまさにマルクスです、マルクス主義による党派です。これは日本共産党だけじゃなく社民を含めて、ベルシュタインの党を含めて》(12)。 この命題が、のちに学生運動をしている人々に影響を与えた「三馬鹿世界革命浪人」のマニフェストとなる。現在から考えれば、逆説的なマルクス賛辞であるといわざるを得ない。竹中のいっていることは「プロレタリア」を革命的主体とするマルクス主義を援用した夜郎自大な言説に過ぎない。当時の左派の言説空間は「行動至上主義」をメルクマールとしていたようである。そのなかで、竹中は極左であると位置づけられる。読者にそのように読まれていたとみて、間違いない。 さて、ここで考察すべき点が生まれる。竹中は、マルクスを真(信)なるものと思っていたのではないか、という逆説が。この部分が竹中の「求心的」なところだが、これについては後述していく。 先のマニフェストが、松田政男の当時考えていた理論、「谷川雁の直接行動の「原理」の「原理」の部分を追求していく」、もしくは「第三世界の革命と日本の革命との媒介と拠点づくり」(国際根拠地論)に合致し、行動を共にしていた。が、三馬鹿の分派(?)活動を端緒として、松田政男が編集長を務めていた「映画批評」と編集委員であった批評戦線(佐々木守・平岡正明・相倉久人・足立正生)は「空中分解」(松田政男・談)する。路線の違いにより批評戦線はそれぞれの別種の目的に向かう。現在ではほとんど、解体状態に近い。 竹中は焦土の中で、積極的に詩・文学を書いていた・読んでいたようである。詩誌「フェニックス」には、真壁紫と名が残されている。山形出身の詩人で「野の思想家」・真壁仁からとったとされている。真壁は、宮沢賢治にも、影響を受けている。竹中は後年、賢治の引用をよくしている。この郷土イメージ(風景のイメージをそのまま内面化する態度)が、竹中を読み解く一つの鍵になるかと思われる。竹中の本棚も、思想書よりも、数多くの郷土資料が置かれていた。 しかし、その多くは、(戦後の一時期の)彼の心象を絶望させるものでしかなかったようである。 戦中戦後、転向をくりかえした文学者・知識人に対して、彼は多くの不信を抱いた。同世代に当たる作家・半藤一利の言を借りれば、それは「大人に対する背信に次ぐ背信」に近いものだったと思われる。その不信は、家庭がほとんど崩壊していた竹中にとって、人にも勝るものであったに違いない。その「大人」に対する不信を拭い去ったのが、共産党だったのではないか。敗戦直後の十年間、共産党は神格化されていた。多くの知識人・文学者が戦中、戦後と転向をくりかえし、多くの悔根を持っていたのに対し、共産党の幹部達は「獄中非転向」。大衆・知識人問わず、ほとんど英雄に近いイメージを持たれていた。竹中も、その英雄群に、自らの信条を仮託した部分があったのではないか。つまり、それが文学・詩から離れる一因となり、労働運動・オルグ活動へ向かわせた要因になったのではないか。無論、これは推測の域を出ない。しかし、多くの道徳観(修身教育)・皇国教育を信じ込まされ、焦土で政府の無い日々を送った世代にとっての、恐らく共時の体験とみて、間違いないかと思われる。 後年、「戦後派」のヒューマニズムに、彼は強いシンパシーを感じていたのではないか。 [参考文献] (1)「映画評論」七三年一月号 ※青年共産同盟ということは、様々な署名活動やボランティア活動、平和運動、労働組合活動に従事したと思われる。この同盟は共産党の下部組織的な色彩が強い。しかし、党員でない者もいるようだ。 (2)『竹中労の右翼との対話』 ※本書の中で、労働組合が闘わないのであれば、共産党に入党し、新たな闘いをするほかないと考えた、と回想している。しかし、恐らくこの頃は労働組合にシンパシーを抱き、いわゆる「本家」である共産党を選択したのではなかろうか。 七〇年代中期、「現代の目」誌上において、自らの経験を踏まえて、「窮民革命の可能性を党が抑制した」と発言する。彼の考えはローザルクセンブルクの貧窮化革命論に拠る。 (3)『竹中労行動論集 無頼と荊蒄』(三笠書房) ※これは恐らく二・一ゼネストを契機としている。 (4)『ルポライター事始』(ちくま文庫) ※竹中の詩は他に「葦の舟」「幻視」など、主として同人誌に三十遍以上掲載された。「闘魚」という詩が小文芸誌に巻頭四号活字で組まれ、その内容が反革命であったが故に「しょせんプチ・ブルなんだよ君は!」と千田夏光に自己批判をせまられることもあったらしい。「プチ・ブル」という言葉は共時の「戦争体験」(概念的な定義に限定する)を前提として発されたものだと思われる。竹中は共産党内でも異端であったが、党官僚は優秀なオルグ要員として、彼を除名することをためらったようである。竹中は、書記長徳田球一に心酔していた部分があったのかも知れない。いわゆるボルシェビキ、家父長的な気質を持つ革命家としての「オヤジ」に。思想よりも気質や生理(人間性、人道主義的立場)に重点を置く竹中のスタイルは、戦中・戦後の焼け跡の中で培われたものであると筆者は判断する。この敗戦焦土のなかで、極めて「理性」的になっていったというのが、筆者の推測である。この竹中の「理性」とは、戦後から形づくられた「市民社会」(の概念)から外れた人間の持つ、ある種の「戒律」を指す。自身に馴染んだ「戒律」が、後年の竹中の文脈に表れていく。矛盾するかもしれないが、この「理性」が(暴力的な)マルクス・レーニン主義的な運動論を打ち出し、政治的判断を下す要因となる。その一方で、父・英太郎の背をみて、自然に意識的となりえた「反骨」の気質が、当時の共産党の家父長的な組織性とダブってみえたといっても、過言ではないかもしれない。もしかしたら、前述のように「党」に在籍することによって、父・英太郎の存在を把握していった部分もあるではないかと思われる。無論、後年の共産党に在籍していた竹中の表現から窺われる態度は、いわゆる「父性的な感覚」である。 ちなみに、民法改正で家父長制から核家族制となるのは、社会党が(ほんの一時期)政権をとった五〇年である。 この自らの経験が、資本主義・市民主義に対置される、共産主義でありトーマス・モア的共同性の主張になり得たのだと思われる。 竹中にとってそれは「復古主義」の標榜である。そして、「可能なるアナーキズムの理念」という、ともすれば「無限遠点」と想定されるものを援用することに他ならなかった。この辺りは、竹中がアナキストたるゆえんであろう。言い換えれば、それは労働価値説&人間中心主義と考えてもよいのかもしれない。ここが、マルクス主義と親和しているのではなかろうか。 (5)「現代の眼」八三年五月号 ※竹中が徳田球一に呼ばれたのは五月ごろかと思われる。これは、当時文化部で行なわれていた査問的作品批判会の様子ではないかと推定できる。竹中のような末端の党員に対して行なわれていた事実は見定められていないのだが、当時は野間宏やその他の党員にこのような査問的作品評は行なわれていたようだ(13)。 (6)「映画批評」七二年八月号 ※筆者はここで「窮民革命」なる言葉を引用したが、当時の竹中はその種のことを考えていなかったようである。この言葉は七〇年代以降から散見される。マルクスはプロレタリアを「革命的主体」とみなしていたが、竹中は自らの体験を基にしてその発想を転換し、ルンペンプロレタリア(土着する「窮民」)こそが「革命的主体」であるとした。竹中の「窮民」概念の定義は後述する。先にも書いたが、「党」を否定する考えはローザルクセンブルクの貧窮化革命論に基づく(それを恐らく日本的な郷土イメージに投射している部分もあるかと思われる。恐らく大佛次郎の影響もあるのだろう)。「党」を否定する思考の延長上に貧窮化革命論があり、それを援用したに過ぎない。ローザの貧窮化論に関していえば、大島渚が「映画批評」誌での論戦の際に竹中に示唆したようである。ここから竹中は本格的に読み始めたのだと思われる。 (7)『風の中の男たち』(青心社刊 著・鈴木義昭) (8)『法を裁く』 (9)『首輪のない猟犬たち トップ屋』(産報) ※本書内では「カラミティ・ロウ」もしくは、「Т」と仮名となっている。が、事実関係をみれば竹中と判断するのは容易であった。したがって、「Т」は竹中であるとして参考にさせていだいた。 (10)『牧口常三郎とその時代(4)』(潮出版) (11)『山谷―都市反乱の原点』 (12)「現代の眼」七二年九月号 (13)『戦後左翼人士群像』著・増山太助 [時代・社会背景] 一九四八年 昭和二十三年(満二十歳) 正月、甲府に帰る。父・英太郎に近況を報告した後、またぞろ東京に戻り革命を夢見る。山谷のドヤ街に半年、深川の高橋、森下町、新宿旭町のドヤ街にそれぞれ二、三ヶ月、御徒町駅のガード下、浅草本願寺、横浜の虱太郎水上仮泊所などなど四六年秋から四九年夏までの二十一カ月、もっぱらニコヨン(日雇い、主に土工、荷揚人足などの肉体労働)、ヤキトリ屋台の営業などの仕事に従事するが、仕事に《あぶれる日が実に多かった》(1)。他に左翼独立紙「東京民報」でアルバイト学生となり、同紙の営業部長であった徳間康快と出会う(らしい)。二月十日、東京外事専門学校二度目の留年(落第)が決定。翌日、引揚列車から荷物を運搬しているところ、荷物をかっぱらったと勘違いされてMPにリンチを受ける(2)。三月、東京学生同盟の幹部となる(『決定版ルポライター事始め』には同年三月、東京学生同盟事務局長、東京引揚連合会有給専従文化部長の椅子を追われると記述されている)。同時に《東京駅仮泊所のセッツルメントから上野寛永寺の引揚寮・山谷の天幕一時宿泊施設等々、家なき人々の吹き溜まり(略)にふれる間に、私の魂はそれらの人々と同じ地平に身を置くこと、学園への退路を断つことを要求した(同時に、学費が続かなかったため)》、東京外事専門学校を除籍(3 ※ カッコ内筆者注)。 この頃アルバイトがないので、山谷のドヤ街で知己となった泥棒二人と血盟し、朝鮮人故買商の後援を得て、「革命的窃盗団」を組織する。目的は窮民革命の第一段階として、持てる者からの掠取(要するに闇市荒らし)を開始すること。掠取の対象の一部は隠匿物資であるモンサント・サッカリン、石鹸(密造シャボン)など。この隠匿物資を朝鮮人故買商に卸して金にし、共有財産として積み立てる。盗人稼業によるあぶく銭により生活はグッと楽になり、軽演劇(ムーラン・ルージュ、空気座、劇団たんぽぽ、カジノフォーリィ、薔薇座、浅草ロック座、文化座などなど)、ストリップなど観て歩く生活が、しばらく続く。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 この頃、竹中は農民指導のため、新潟に滞在している。日本共産党二代目労農部長・伊藤律の新潟行きと少し関わっていると『聞書庶民列伝 牧口常三郎とその時代(1)』内で記述している。もちろんこのときは(この先も)、無名の党員である。ちなみに労農部長の一代目は神山茂男である。竹中は青春時代、「もっとも労働者らしい鉄の意志を持った人間として」、神山茂男にあこがれをもっていたようである。 強盗予備・共同謀議・公務執行妨害で《二十三日メイッパイ》(4)拘留し、執行猶予・前科一犯と相成る。原因は、強盗に入るアニイ連にグッド・アイデア(共同謀議の疑い)を提供したため。逮捕の際竹中は抵抗したので、公妨もついてしまった。塀の中は《民主警察なんていうのは嘘っぱち、平然と拷問をやる》(4)らしい。青春のヤケクソは五二年の五・三〇淀橋警察署焼き討ち事件に向かう。 「空気座」は水ノ江滝子、「劇団タンポポ」「カジノフォーリー」は、田崎潤、有島一郎・堺真澄夫妻の根城となった。 竹中はこの頃、多数の詩を書いていたようだ。が、ほとんど公表されていない。 [参考文献] (1)「映画批評」七二年八月号 「アジアは一つ」 (2)『呼び屋』 (3)『決定版ルポライター事始め』 ※この引用はミスリードを誘う。学費が続かなかったのが、一番の理由であろう。竹中の二十歳そこいらの心情を汲むとするならば、このような心情を抱いたというのも、あながち嘘ではあるまい。だが、この時期に真実そう考えていたのならば、命がいくつあっても足りないと思われる。恐らく「青春」というヘーゲル左派のイデオロギーに、自らの心情を「投射」しているのだと思われる。 ふつうは、除籍したのち、山梨に帰るものだが、竹中は果たして如何。 おそらくだが、彼はいわゆる「放蕩息子」であったのではなかろうか。 (4)『左右を斬る』 [時代・社会背景] 一九四九年 昭和二十四年(満二十一歳) 春三月、《雪どけの八ケ岳立場沢から地獄谷へ横断をこころみて失敗(危うく遭難するところだった)、同じ年の五月、単独行で板敷渓谷をさかのぼったさい岩壁から転落し、大腿部の筋肉を断裂した。半死半生で山を降り救われた》(1)。以後、山には登らなくなる。後年断裂した部分の筋肉が痛む後遺症が残る。 夏、蔵物故買容疑で逮捕されるが、完全黙秘して釈放される。その間に五十万円(戦後価格。当時は一カ月三十円で生活できたと言われている)の現金ならびに戦利品が跡形もなく消える。血盟していたはずの二人がクモを霞と逐電したため。これにより「革命的窃盗団」は挫折する。《窮民の中へ、ヴ・ナロード! を実践して到達した世界は、一個の若者の夢想の及ばない混沌魔界であったのだ》《革命への情熱は、青春の地底遊泳のうちになお烈しく熾えさかっていたが、詮じ詰めれば"義賊"気取りの三文オペラ、希少なドロボーでしかない手前を、やい、あらば鏡にうつしてみろやい、恥ずかしくないか!》《世の中、何も変わりはしなかった》(2)。初夏、宮本百合子に早稲田の大隈講堂での講演を依頼する。竹中は責任者となる(3 ※)。もともと盗癖を持たなかった竹中はあきらめも早く、晩夏、窮民街の放浪に終止符をうち、甲府の親元に帰る(?)。 図書館で読書三昧しつつ、映画サークル、自立演劇運動に打ち込む。アイルランド戯曲・岸田国士・三好十郎の作品と併行して、ムーラン・ルージュの芝居を自作の舞台にのせる。主として高校、大学演劇サークルの指導にあたり、自身も舞台に上がる。後年プロになる小林俊一、大木崇史、曾根康彦などを教える。同時にこの年の夏、山梨県道志村で農民組合結成のため、オルグ活動に邁進する(4)。 孔版印刷工(ガリ版屋、タイプ印刷)、地方紙記者、佐藤森三が編集長を務める『県政六〇年史』の編集アシスタント、マッサージの教本の下請け、書店の番頭(配達も含め)、学習塾経営などの職を転々とする(5 ※)。五〇年春まで、読書三昧の日々を過ごす。 大村茂の年譜によれば、共産党(の諸活動?)に復帰する。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 共産党員としての活動、学生運動の責任者、ドロボー、学生異文化交流(映画の上映など)の責任者、陋巷の探険者、アジテーター、オルガナイザーなどなど活動は様々。すべてを同時進行でやっていたようだ(?)。学生異文化交流の責任者をする際は、ルパシカを着ていて、皆にパルタイの学生かと印象をつける(6)。恐らくであるがこのルパシカは父・英太郎からの借り物でないかと推測できる。英太郎は元モダンボーイで、日本で始めてパーマをかけた男、らしい。つね子と出会ったとき、英太郎の頭髪はチリチリだったようだ。 この頃竹中は学業放棄して、革命という命をかけた遊びに夢中になっている。自らを評して《生命ギリギリ・時代の暴走族》といっている(3)。それはそのまま、竹中の生涯にあてはまる。 演劇では《ゴールズワージー『小さな人』、アルマン・サラクルー『炎の男』菜川作太郎『しゃも』、アイルランド戯曲(ダンセイニ、シング、グレゴリー夫人など)、飯沢匡『還魂記』等々を演出》したらしい(5)。しかし、甲府の竹中の友人たちによると、「演出ってのも、少しニュアンスが違う」らしい。 [参考文献] (1)「現代の眼」八二年六月号 (2)『竹中労行動論集 無頼と荊冠』(三笠書房) (3)『左右を斬る』(幸洋出版) ※この回想が正しければ、竹中はドロボーを行なうと同時に、並行して共産党文化部の活動していたことになる。現在から考えれば厚顔無恥であると判断せざるを得ない。が、この分裂的な活動は、戦後を生き抜くための「知恵」、ともいえる。戦後まもない、「政府」の無い日々を生きていかざるを得ない生活の論理は、後年の竹中のアンビバレンツを暗示している。戦後まもない中で「生活」の危機に敏感となり、ドロボーたちとの義に篤くなった反面、自らの欲望に対する正直さと脆さとのせめぎあいに悩まされるようになっていったと、筆者は推測する。しかし、ドロボーの活動は事実かどうか定かではない。 さて、講演依頼は共産党文化部の活動を垣間みせている。当時は宮本百合子邸で文化部の会合が行なわれていたようである(7)。もし竹中が文化部の周辺にいた党員であるのならば、この会でなされた発案を実行したのではないかと推察できる。竹中の後年の回想に拠れば、百合子の講演会は大雨で人民が会場に集まらなかったようである。百合子は「どんな時代だと思っているのよ! 少しはマジメにやりなさい」と激怒し、竹中を叱り付けた。竹中が「人民文学」派へ行かなかったのは、この体験が要因であると回想している。しかし筆者は、共産党内の竹中の「位置」を判断する資料を持たない。よって、この回想も事実かどうか定かでない。 (4)『仮面を剥ぐ』(幸洋出版) (5)『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫) ※一九五八年まで、東京にみたび上京するまでの間にたずさわった職であると思われる。何年にどの職に就いていたかの詳しい記述は見当たらない。ちなみに、この時期に書かれたものに署名は無いようである。『県政六〇年史』にも署名は見当たらない。 (6)「話の特集」九一年九月号 (7)『戦後期左翼人士群像』著・増山太助 [時代・社会背景] 一月、スターリンが共産党の平和革命路線を批判、「コミンフォルム批判」と呼ばれた。スターリンは植民地的収奪者である「アメリカ帝国」を打倒する戦略に基づく闘争を強めることを日本に要請した。 一九五〇年 昭和二十五年(満二十二歳) 山梨一般合同労働組合、甲府自由労働組合の専従役員(情宣・文化部長)として、中小零細企業、日雇い労働者の組合運動にたずさわる(1 ※)。新日本文学会員となり(五十二年かも?)、未完の小説『葬られた歴史』『なみだ橋界隈』、ルポルタージュ『北富士軍事基地』ほかを発表する(2 ※)。《想えば一九五〇年、「新日本文学」「人民文学」分裂の渦中において、かくいう小生は、新日本文学会会員にすいせんされ、「宮本百合子祭を大衆的にボイコットせよ」という党主流、臨時中央指導部の活動方針に造反したことであった(略)「人民文学」は絶対にまちがっている。したがって(当時は)相対的に、「新日本文学」を正しいと信じた》(3 ※ カッコ内は筆者注)。 その後、東京へ向かい、党に舞い戻る。山谷にアジトを構え地下生活(地下活動)の日々を送る。秋から、山村工作隊に参加する(四全協決議は五一年からなので、それからなのだろうか? この辺り不確か)。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 北富士軍事基地は山梨県忍野村にある。ここで竹中は、 《戦後の狂疾さめやらず、窮民革命のまぼろしに憑かれていた小生、基地周辺の朝鮮人部落をアジトにして、娼婦、日雇い労働者をオルグし、反乱に立ち上がらせようと懸命であった。だが娼婦たちは「アメ公と別れるべきだ!」大マジメに説得する素っ頓狂な扇動者を「かわいそうに、頭がよすぎてイカレちゃったんだわ」と逆に気の毒がってメシを食わせてくれたり、豚と同居をしているところへ洋モクを差し入れてくれたりした。中には「オネンネしてあげようか」と、やさしく勧誘してくれる女もいて、何がナニやらわからなくなっちまい、かくて小生はしだいに、手前ひとりでヤミクモに合点した"革命"というものが、人民大衆と無縁であることを思い知らされたのである》(4 ※)。 ――時代は、暴力革命の季節を迎えていた。どうやらこの時期(四九年〜五八年まで)、山梨と東京を「行ったり来たり」していたようである。やはり、共産党内・外での組織的活動をするためであると考えられる。前述のように、『北富士軍事基地』のシナリオ作成は、山村工作の一環とも考えられる。《軍事基地の襲撃なんかもやりましたよ》(5)と竹中自身がいっているので、おそらく襲撃したようである。だが、これは「北富士軍事基地」であるのか、他の基地であるのか判断することは出来ない。竹中は五・三〇に参加し、基地から拳銃を盗んでいる模様なので、その際に行なったことを話しているのかもしれない。 八〇年辺りまで、北富士軍事基地(演習場)は基地問題としてメディアを賑わせていた。現在も基地はあり、住民運動が行われている様子である。年譜にも書いたが、この年の秋から、山村工作隊に参加していたようだ(6)。 このとき作家・深沢七郎、熊王徳平と知り合う、と「週刊読書人」四四年九月八日号の記事内にある。熊王徳平は新日本文学会員である自称「田舎文士」。『山侠町議選』が第三六回直木賞候補に挙がる。このときの受賞作は、今東光の『お吟さま』、穂積驚の『勝鳥』。熊王の代表作は『甲州商人』『隠し砦の三悪人』。この二作は、共同執筆であったらしい。深沢は、甲府でギター弾きの活動をしていた。竹中の『タレント帝国』内で、敗戦後の野音楽隊からナベプロは出発した、という視点は深沢の著作内からの影響ではないかと感じられる。渡辺晋もギター弾きの活動をしている。竹中は深沢とはじめての出会いは六〇年代であったと『ルポライター事始』内に書いていたが、この頃から何かしらの付き合いはあったのかもしれない。おそらく山梨に滞在していたときは、山村工作隊の人脈とのかかわりが多かったと考えられる。竹中の山村工作隊の活動は、五二年(?)から五五年夏あたりまでと推察できるが、後述するように、前後関係からしてみると、事実が合わなくなってくる。 《一九五〇年から五三年まで足かけ三年、酔えば器物を破壊して、ブタ箱の厄介になったことも、たびたびであった。五〇年八月、山梨県甲府の映画館の屋根に上がって、アラエッサッサー、「跳んでも跳ねてもおっこちないよ」と怒鳴ったら、消防のハシゴ車がやってきた。手とり足とり、丸橋忠弥もかくやとばかり大捕物のあげく、ひっくくられて警察に持っていかれた(中略)甲州一円金箔付の紅衛兵だったから、警察もよっぽど頭にきてたんだろう(中略)出てみたら、新聞にデカデカと〈深夜の狂人〉なんてタイトルがおどっていて、小っぱずかしくて表も歩けない(中略)二十代前期における、アタシの酒乱は、革命に失恋した悲しみの代償行為であった》(4)。《コミンフォルム批判、沖縄恒久基地化、朝鮮戦争ボッ発、共産党追放、警察予備設置、新聞放送レッドパージと、急テンポに展開する政治情勢》(4)の中、新日本文学会の地方支部で詩人として登録され、熊王徳平と文化運動にまい進する(が、竹中が新日本文学会会員であったという記録はみつかっていない)。共産党内の組織の仲間から疎外され《なぜ、仲間にはいれないのだ?》(4)と、懊悩している。《寂しがりやでもあった》(7)と竹中の友人であった伊藤公一は語っている。同時に組織に対する恋着が少なからずあったようだ。 @ データと「評論」 [山村工作隊について] 《一握りの党指導部者しか全体像を知らない》、軍事闘争路線をつらぬき、山に立て籠もった共産党内に所属する組織の総称(8)。五二年の軍事闘争路線の軍事方針に依拠し、おもに地方の山間で、プロレタリアによるプロレタリアのための決起を実行する軍事組織として、全国区的に活動が拡がる。活動内容は、党史から抜け落ち、詳しく書かれていないのだが、五一年の四全協で具体化された軍事方針によれば、《米帝国主義者と売国奴に対して頑強不屈の地域闘争を行い、自衛闘争を発展させ、その中から遊撃隊を作り出し、その発展を指導しなければならない。この遊撃隊は、拠点工場や経営と結合し、農山漁村の遊撃根拠地は常に大都市、大工場と結合し、労働者階級の指導のもとに発展しなければならない(略)農民は全く滅亡か、革命かに直面している(略)遊撃体は反米救国の民族民主統一戦線発展の武器であり、人民解放軍への発展を目指して行われる》(8)とある。 つまり、私有財産制を否定して、共産主義的な近代化を図るスローガンである。当時の共産党は「民主愛国路線」をとっており、その文脈のなかでは「民族」も肯定的に使われた。ここで、現実的でないブルジョア近代主義や市民(像)を批判し、それに対置されるプロレタリア(前衛)の構築が主張される。 「山村工作隊」の有名なもので、竹中が関わっていた可能性のある事件を挙げれば、「曙事件」(正式には山梨県南巨摩曙村事件)、昭和二十八年八月二十日に富士山中で行われた日共党員による《山中湖畔付近発電所を襲撃するとの想定のもとにキャンプ、ハイキングを偽装した》(8)軍事訓練などである。しかし、事件にならないまでも、かなりの数の「闘争」が山村で行なわれていたため、細部までの特定は出来ていない。 山梨県は、その土地の歴史性もあいまって、山村工作のメッカであったようだ。共産党本部(日共軍事委員会)も山村工作の拠点作りの人員を送り込んでいたようである。 「曙事件」について 甲府地検報告では、《これは、一九五二年(昭和二十七年)七月三十日夜、山梨県南巨摩群曙村で、日本共産党の十名の山村工作隊員が、山林地主佐野喜盛宅へ「佐野喜盛を人民裁判にかけ、財産を村民に分配する」と称して、竹槍、こん棒をもって押し入り、就寝中の佐野及び妻、女中、さらには小学生三人をも竹槍で突き刺し、こん棒で殴打し、あるいは荒縄で縛り上げ、頭から冷や水を浴びせるなど、暴虐の限りをつくし、また、家財道具、ガラス戸、障子、箪笥、金屏風、ふすま、ラジオ、仏壇などを片っ端から叩き壊したうえ、現金四千八百六十円と籾一俵を強奪した事件である》(8)。 「曙事件」に関して、竹中は「映画批評」七一年三月号で、山村工作隊を題材にした映画であった黒木和雄監督作品「日本の悪霊」に対してこう述べる。 《一言で言うならば、こういう映画をつくったことは犯罪である。黒木和雄よ、福田善之よ、君たちは山村工作隊のリーダーをどこに隠したのだ? あの五十年代の限りなく絶望的な、だが自らの意志において死を賭した闘いを、絵空事に矮小化した責任をとれ! シナリオの段階からアタマにきていたオレは、映画を見るに及んで血が逆流した。この作品に関与したヤツバラはみな死ね! と思った(中略)山林開放のスローガンを掲げて山地主の屋敷を襲い、米泥棒とまちがえられて彼が開放しようとした貧農たちに追われ、川に落ちて死亡した山村工作隊員(山梨県南巨摩群富士川事件)、「総点検」の恐怖支配のもとに拷問され凌辱され、汚名を着せられて自殺した無告の党員たちの"怨念"をどこにむかって噴出させようというのだ?》(『琉球共和国』)と批判する。総点検運動とは党員同士の思想点検の総称を指す。当時は全国的にきつい査問が多発していた。この点を神山派直系の共産党員だった松田政男は《ありとあらゆる様々な問題を並べ立て、すべてを道徳的な腐敗だとか私生活のなんだとかに結果的に還元してゆく(中略)査問する者は査問されるという査問の悪無限連鎖みたいになってた》(9)と語っている。竹中がここで語るのも部分的に符号している。 引用からみてもわかるように、山村工作員たちが一概に持っていた「志」の部分を、竹中自身も持っていたようにみえる。この映画は山村工作隊を茶化したと、彼の目に映っても仕方が無い場面も散見する。映画監督・黒木和雄も山村工作隊に参加していたが、彼らは映画内のストーリーだけでなく(映画では山村工作隊のリーダーは不明のまま終わる)、現実の工作内でも隠していたかどうかは不明である。が、山村工作隊を茶化しながらも、その悲しくも虚しい中途半端な「闘争」を描いた面で、本作は事実の一面を表していると筆者は考えたのだが――。この映画は、「戦後の二面性」を題としたようで、佐藤慶ふんする「ヤクザと警察官が入れ替わり立ち代わり」ストーリーが展開していく。 竹中のこの批判は、参加したために正気ではみられなかったのか、それとも黒木に対する逆説的な賛辞であるのか、もしくは参加していなかったが山村工作隊の風説をきいていたために怒り心頭したのか、よくわからない。しかし、竹中が企画・制作にたずさわる映画は、黒木の影響を受けているのではないかと思われる部分が散見するのも事実である。前述のように黒木と竹中は同世代で、同じような体験をする。シンパセスティックな感情もいささかあったに違いないと思われる。ちなみに、(山梨では無いが)山村工作隊に参加していた松田政男は、この作品を当時、批評家が選ぶキネ旬ベストテンの二位に挙げて称賛している。 筆者の調べによれば、竹中は「曙事件」には参加していないようである。しかし、山梨県の西部(道志村付近)で活動はしていたようだ。以下、竹中の言。 《(道志七里)富士隠しと呼ばれる、大室山の稜線は左手に流れ、菰釣山と御正体山の狭間、山伏峠を越えると、雪化粧した富士山が天辺を戴って眼前に迫る。秋ならば富士アザミ、古代柴の群落を見ることができるのだが、まさに蕭条たる雪景色。昭和二十七・八年この道を私は幾たび往復したことか。殺伐と蜂起の夢に憑かれ、米軍基地から武器奪取を企て、富士吉田市の朝鮮人部落や山中湖畔のパンパン宿に、転々潜伏していた。いわゆる「山村工作隊」、同志は一都二県、東京・神奈川・山梨を結ぶ忍草、道志の山中に小拠点を置き、「連合赤軍」を先駆けて、ゲリラ戦争の訓練に明け暮れていたのである。山林開放のアジビラを、山地主の邸に貼りにいって、米泥棒と間ちがえられ、"開放するべき"貧農に、トビ口で頭を割られ、富士川に投げこまれ死亡した無残な悲喜劇も、五湖を隔てた山梨県の西部では演じられた》(10)。 とすると、竹中は、《山中湖畔付近発電所を襲撃するとの想定のもとにキャンプ、ハイキングを偽装した》軍事訓練を、他の山村工作隊員と共に行なっていたかのようにみえる(8)。以下、当事件の詳細。昭和二八年《八月十二日、国警東京本部より国警山梨県本部に対して「全学連及び中共引揚者十八名が拳銃を携行し、山中湖畔付近発電所を襲撃すると想定の下にキャンプ、ハイキングを偽装した軍事訓練が現在行なわれている」旨の情報があり、これと前後して、関東公安調査局より山梨地方公安調査局に対し、同様の情報が寄せられた。(イ)八月八日全学連(党員のみで参加は許されない)六十名ないし七〇名参加の下に軍事訓練が行なわれた。服装は農民風に変装して背負子を背負い鍬鎌等をもって畑にいくような支度であった。精進停留所(上九一色村精進山麓バス)で下車、同所から案内人に伴われ徒歩で富士山寄りを約三十分歩いた。松林(精進湖と西湖との中間)において訓練が行なわれた。訓練は、十四年型ブローニング二号及びモーゼル一号による拳銃発射実弾訓練で午前・午後の二回約一時間行なわれた。参加人員を十名一組の半に編成して各班毎に分散して訓練されたが、指導者の名も参加者の名もその住所も知らされなかった。(略)発電所及び軍需工場襲撃の想定の下、発電所にはそれぞれ特徴があるが、概ねタービンにダイナマイトを仕掛けることが最も有効である。山梨県内の発電所の位置及びその特徴については、次回説明するとされた。次いで、武器火炎瓶操作の訓練が実施された。武器としては、拳銃モーゼル ブローニング ソ連製らしきものより、実弾を発射して行なわれた》(8)。 この事件ならば、竹中ののちの発言にも符合している。しかし、昭和二八年八月に山村工作隊に参加していたとなると、五・三〇事件で逮捕され、労役刑に処せられたのち、懲りずに活動したことになる。が、そうであるならば、周辺の親戚関係から大ブーイングを受けたのではないのだろうか? この辺りは、どうも事実関係が合わない。 筆者は山村工作隊に参加していたかどうか、判断しかねる。山村工作隊に参加していたとなると、熊王徳平と文化運動にまい進しながら並行して活動したことになる。五四年〜五五年頃、一時期活動しただけということも考えられる。しかし、それはいわゆる武装闘争ではなく、(後方支援のような)事務的で、穏健な活動だったのではなかろうか。 この辺りは、恐らく、彼得意の「つくり話」なのではないかと思われる。土本典昭や、由比誓などが、山梨県小河内山村工作隊に参加していたが……。 ちなみに、竹中が山村工作隊のことを語るのは八〇年中期ごろからである。これは、国内残存赤軍勢力と接触し始めたときである。竹中が山村工作隊での出来事を語るのは、この部分が契機になっているのかもしれない。 六六年、中国に向かい徳田の墓参りするのは 竹中は晩年に、党員では《下士官クラス》(『無頼の墓碑銘』)と語っていたが、これは丸山真男的な意味と(丸山はその種の人物を嫌っていた)、ヒトラー=下士官という意味の二つがある。 [参考文献] (1)大村茂作成 竹中労・年譜 ※たずさわると言ってもあちこちで激越な行動をしていたことは間違いない。県議会に乱入したり、父・英太郎と一緒に知事公舎に怒鳴り込みに行ったり、県職員の面前で総務部長の下位()を殴打したり、数えればキリがないと思われる。竹中は山梨の共産党にも違和感があったようだ。竹中のみ刑務所に入るのは勝手だが、その他にも迷惑した方もいるのかもしれない。一丸となっていたのであれば、全く問題は無いのだが。 (2)『 '76年フリージャーナリスト年鑑』 ※本書内によると、ルポルタージュ『北富士軍事基地』は五二年の発表、『葬られた歴史』『なみだ橋界隈』は五五年の発表と記述されている。『決定版 ルポライター事始』を参照すると、どれも掲載誌は現存していないらしい。『北富士軍事基地』はシナリオの形の構成をとったと竹中はいっている。もしかしたら、山村工作隊の襲撃シナリオだったのかもしれない。「なみだ橋」は山谷と立会川のどちらにもにあった。したがって、どちらかの特定は出来ない。 (3)「現代の眼」八一年一月号 ※竹中は所感派の周辺にいたのかもしれない。新日本文学、人民文学の分裂に介入したのは、所感派であった。 (4)『スター36人斬り』(実業之日本社) ※時代背景として、戦後間もないことが挙げられる。戦犯教師追放の思考の延長上に進駐軍があったとみていいだろう。ちなみに、この原基的な体験は後々も彼の仕事に影響を与えている。この点からいえば、竹中は「青春」に拘束されていたとみても過言ではないであろう。流民・ヤクザ・ドロップアウターなど、竹中が幻視するのは人間の「決定不可能性」に他ならない。 (5)『無頼の墓碑銘』 (6)『仮面を剥ぐ』 (7)「話の特集」九一年九月号 (8)『日本共産党の戦後秘史』(産経新聞社)著・兵本達吉 (9)『LEFТ АLОNE』(明石書店) (10)『牧口常三郎とその時代4』(潮出版) [時代・社会背景] 一九五一年 昭和二十六年(満二十三歳) 甲府で自由労組を指揮し、生産管理をする。五月、甲府で《青年遊説隊長として活躍》(2)。《この年、労数々の事件を起こす。日雇い労働者を組織して県議会乱入・敷島町事件・ニュー甲府製菓生産管理など》(2)。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 昭和二十五、六年の三月、新宿セントラル劇場で吾妻京子の銀粉ショーの本邦初公演を見る。《戦後三十年の裸舞界に、彼女ほど生まれたまま美しい踊り子を私は知らない。そのみごとな肌にわざわざ銀粉を塗り、めずらしいだけの見世物に仕立てる興行師に、憤りを覚えた》(3)。恐らく、四九年に復党した際から、東京―山梨間を往復する日々だったのではなかろうか。 [参考文献] (1)大村茂作成 「竹中労・年譜」から引用 (2)『百怪我ガ腸ニ入ル』(三一書房) (3)『にっぽん情歌行』 [生産管理について] 読売争議 兵本達吉五八ページ参照 増山太助『戦後期左翼人士群像』 [時代・社会背景] 「血のメーデー事件」 日本の「独立」を決定したサンフランシスコ「単独講和」条約に興奮したデモ隊の一部が皇居前広場に突入し、警官隊と衝突、流血の惨事を招いたというのが、これまでの「血のメーデー事件」の全貌であった。が、資料『日本共産党の戦後秘史』によれば、「血のメーデー」事件とは、ソ連や中国と一体となって北朝鮮戦争を支援するためおこなわれた、日本共産党が企図した後方撹乱戦術であった。 当時、共産党はこのデモを「偉大なる愛国闘争」と形容した。 「五・三〇記念日」 警視庁は「五・三〇記念日」に共産党の闘争指令が発達されたという情報を察知して、前日、前々日に各警察所など襲撃を予想される場に金網などを張り、火炎瓶攻撃を予想してドラム缶などを買い込んだ。「五・三〇記念日」の集合予定場所は以下の都内五カ所に分けられている。東部(石川島造船、花王油脂)、西部(新宿駅西口)、南部(東日本重工、糀谷地区)、北部(小田原製紙、赤羽日鋼)、中部(皇居前、都庁、国会)。各工場の工員の帰宅時を狙い、各党員は大衆を煽動し、交番襲撃を行なう。方々の地区のキャップは、非合法ビューロー(党員)が担当。国警本部に入った情報によると集会は全国で五七カ所、解散予定はいずれも夜間、目的は「血のメーデー事件」の検挙者奪還、警察署襲撃、武器奪取闘争など。政府も「血のメーデー事件」と同様、朝鮮人、自由労務者などを中心とした編成で行なわれるのではないかと危惧し、当日の交通規制の強化を促がした。当日を予測して、学生達に不穏な動きがあるのではないかと疑い、早大では五月二十九日以降集会を禁じられた。 しかし、警察に入った闘争指令はほとんどデマに近かった。 一九五二年 昭和二十七年(満二十四歳) 春三月(?)、《演劇公演の諸支払いを踏み倒し、借りられる限りの金を借りまくって上京》し、再び山谷に向かう(1)。日本共産党五十年分裂、新横領軍事路線の一兵卒として、五月一日から「血のメーデー事件」(山谷の諸闘争、皇居前へ暴れこんだ事件)にかかわる。その継続する闘争としての武力闘争である五・三〇淀橋(現・新宿)警察署焼き討ち事件の首謀者と目され、火薬類等取締り法違反、都条例違反、公務執行妨害容疑で現行犯逮捕される。竹中は雨のなか、四、五人の学生に守られながら空箱の上にのぼり、拳をふりあげながら「警察の弾圧を許すな、われわれも闘おう」とアジる。「朝日ニュース」がその光景をサイレント式の機器で撮影し、証拠として提出されたが、サイレント式であったため逮捕されても完黙することが可能であった(2)。完黙を続けて拘留延長二回、淀橋、中野、大井各署、東京拘置所、各所をたらいまわしにさせられ、四十三日目に釈放となるも、警察署の玄関を出たとたんに再逮捕される。原因はアジトからS&W(スミス・アンド・ウェッソン)の実包百発が警察の家宅捜索で発見されたため。黙否は二カ月余にわたった。 《ストリップ小屋に入りびたり、パンパンや浮浪児・やくざ・故買人を友として、泥棒は正義であると統制物資の強奪・偸盗を私は働いていたのだ。学生運動家にあるまじき無法の所業に同志たちは呆れ果て、しかも彼らルンペン・プロレタリアートを革命の同盟軍であると、私が固く信じていることにますますもって愛想をつかし、こういう乱心ものを組織の内部には置けないと、指導部は除名を申しあわせていた。五・三〇の尖兵を志願したのはそうした空気を察知してのこと、「誰ぞわれにピストルにても向けかよし」、ものの美事に死んで見せよう、やけくそのヒロイズムからだった》(3)。《個人テロルを企んでいた。そのためいわゆるれんこんといわれる "リボルバ"を基地から盗み出した。狙っていたのは、マッカーサー、リッジュウェイなどGHQの高官と日本政府の大物。もちろん、日共の指令なんかじゃない(略)疑心暗鬼の時代でもあり、やれスパイだ、やれリンチだのといってなかなかテロルについての計画も仲間に打ち明けられはしなかった》(4 カッコ内は筆者注)。銃はみつからず、(銃は友人の開業医にあずけておいた。銃のみ同志が蒲田のドブ川に捨てたらしい)実包百発(一箱)のみで挙げられ火薬取締法違反罰金刑となる。五・三〇淀橋警察署焼き討ち事件では三十七人の逮捕者がでるも、実際事件に参加していたのは二名のみであった(5 ※)。 釈放後の七月の真昼、パチンコ屋の店先で美空ひばりのうたに出会う。党とは連絡を取らず、横浜へ向かい一カ月沖場人足をやり旅費を稼ぎ、甲府に帰る。父・英太郎は当事件を聞き、「息子はほっとくと何するかわからんので呼び戻した」ようである(6 ※)。 甲府に帰り、零細企業の一般合同労組・日雇自由労働組合の無給書記などをつとめる(?)。大村茂の年譜によると、党員資格を剥奪される。十二月、再逮捕され甲府刑務所に収監。労役刑に処せられる。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 大村茂が作成した年譜によれば《5・30淀橋警察署焼き討ち事件に連累検挙されるが釈放後山梨県下に潜行、12月再び逮捕され甲府刑務所に収監される》とある。美空ひばりの唄に出会うのも翌年になってからである。記述が重複している。 竹中の記述によれば、《起訴され未決へ放り込まれたのですが保釈で出てこれました》(7)。《甲府で労役刑、これが初体験。カンカン踊り(検身)、素っ裸で棒またがされる》(8 カッコ内筆者注)。『百怪我ガ腸ニ入ル』の年譜では、《八月山梨県下に潜行。十二月再逮捕され、甲府刑務所に収監される》とある。竹中もいいにくかったと思われるが、刑務所には入ったのであろう。ここを六、七〇年代語らなかったのも(八十年代右翼と目される人々と対話することでようやく語る)、なにか理由があったのだと思われる。もしくは、公言するようなことでもない、と考えていたのだろう。八十年代というと、背中に刺青を彫り太圏仔(紅衛兵ヤクザ)と接触し始めたときである。この契機が竹中にそのようにいわせたのだろうと推察できる。 東京での身元引受人が母方の叔父にあたる人物である。 竹中が暴動事件で捕まったとき、否認し続けても娑婆に出てこられたのは、自治体警察が機能していたためであった。労役刑ということは、何か手に職をつけるような仕事をしたのであろう。後年の印刷工などの仕事はこの関係でなされたのかもしれない。 竹中はこの年から甲府に帰り、五七年までの六年間、組合活動に精を出す。当時の様子をこう回想している。 《当時、昭和二十七年から三十二年までの足かけ六年間、「一般合同労働組合」「自由労働組合」無給書記に、孔版印刷のアルバイトをしながら、私は専従していた。(略)中小零細企業の労働運動は一円の報酬もなく、日常の生活はドン底をきわめた。労働貴族ダラ幹、口に革新を唱えて仲間を食い物にするやから。 "資本のパン屑拾い"との論争・ときには実力行使、貧しくとも烈しく純粋だった(略)「政党の自由」をめぐって我々は所属の県労連大会を三度流会させ、中央に乗りこんで全国一般労組の大会もたたき潰した。……ひんぱつする中小企業の争議・集団投石を指揮し、煙突に上り、家宅侵入、公務執行妨害等々。ダラ幹を追って、警察に逃げこんだやつを所内の階段で蹴り落とし、その場でブタ箱に放りこまれた。 "前科四犯"を私は、二十代の終わりに背負いこんでしまった》(9)。これを思い出してか、竹中は晩年、とある報道者を理由もなく階段から蹴り落としている。おそらく「過去」に拘束されていたのであろう。 五・三〇の過激派体験を、生涯背負うことになる。回りの人物から過激派、得体の知れない人物という目で見られる事に、常に臆し、かつ楽しんでいたと推定できる。この体験に居直り活動していたのだろう。しかし、この頃は五・三〇体験から極度のメランコリーに陥り、《屈折した反権力の志》(10)を抱かざるを得なくなる。甲府に帰り数年間図書館に通って江戸文学を耽読する。ここから、大衆の都市文化浅草六区、民謡=猥歌へのアプローチなど、日本のポストモダニズムの諸断層を語っていくきっかけとなる(らしい)。これには、人間の本源を感じさせる衆生=民衆の文脈への精神的な依拠がある。この点で竹中が後年「大正」の時代、つまり『大杉栄』に対するアプローチを試みる要因であるといえる。 この年開店した居酒屋、詩人・草野心平が経営する「火の車」に通っていると、『ルポライター事始』内にある。竹中はここで、飲み屋のゼニを「コーモリ傘」で払う「不良少年」と言っているのだが……。俳人大坪白夢は「血のメーデー事件」に参加している模様なので、そのとき連れて行ってもらったのだろうか。 [参考文献] (1)『百怪我ガ腸ニ入ル』(三一書房) (2)『完本 美空ひばり』(ちくま 文庫) (3)『決定版 ルポライター事始』(ちくま 文庫) (4)「映画評論」七三年一月号 (5)『竹中労の右翼との対話』(現代評論社) ※『回想 ――戦後重要左翼事件』(六八年一月一日刊 警視庁編)によると、被疑者は二十八名、みな現場検挙された。 (6)「週刊読書人」四四年九月八日号 ※八月、《山梨県下に潜行》し、道志村付近に潜行していたのだろうと筆者は推定する(1)。資料は『完本 美空ひばり』、『百怪、我ガ腸ニ入ル』『牧口常三郎とその時代(4)』等である。『牧口常三郎とその時代(4)』内で、当事件の後に《釈放後の一時期を、北富士軍需基地周辺に潜行、道志村を度々おとずれている》とある。なぜ素直に自首せず、潜伏したのかを仮定するのであれば、左翼的な思考から、逮捕されるのは国家権力に敗北することであるという安易な判断を下したためか、もしくは、父・英太郎に呼び戻されたが、自らの「青春」のエネルギーが噴出してしまい何かに追い立てられるかのように逃亡を企てたのか……。以上のように推測することは出来る。釈放ののちに、甲府で父・英太郎が、政治活動を竹中に手伝わせるのは、「政治のやり方」(広義の人的関係性)の教えを示したかったのだと思われる。後年、この政治のやり方と青春のエネルギーの志向が、竹中の「思想」に同居することになる。もちろん、自らの「青春」のエネルギーの方向性も、重々承知のうえでの判断であったようである。 潜伏した道志村は、神奈川県にある相摸川から、津久井湖を経て、道志川に沿って位置している。地図上では、東に向かうと山伏峠があり、山中湖があり、その先に富士山がある。山中湖の北手に忍野村があり、ここに北富士軍事基地がある。竹中はこのあたりで山村工作隊での活動をしたと、後年回想している。ちなみに、彼が山村工作隊に参加していたという確証はつかめない。彼の回想に拠れば参加していたことになる。竹中が参加していたのではないかと思われる事件は前述した通りである。 (7)『竹中労と右翼との対話』(現代評論社) (8)『いま君に牙はあるか』 著・野村秋介 (9)『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・春と修羅(二)』(潮出版社) (10)『ニッポン春歌行』 [時代・社会背景] 一九五三年 昭和二十八年(満二十五歳) 大村茂の年譜によると「党員資格剥奪のまま、中小零細企業・日雇労働者の労働組合運動と平和運動、文化運動に専念」とある。平和擁護青年同盟事務局長となる。合同労組の専従書記となる。この頃から中古の孔版タイプを購入し、竹中英太郎が開業した軽印刷屋を引き受け、「五月工房」を「経営」……というよりも、父の下で細々と「運営」する。 《一九四七年春、私は横浜埠頭の荷役アルバイトに行った(略)港湾には労働組合があり、赤旗が風にひるがえっていたが、虱太郎と蔑称される私たち日雇いには弁当の特配もなく、徹底した差別待遇であった。組合事務所に文句をいうと、次に働きに行ったときに点呼から除外されて仕事にあぶれてしまった。横浜から徒歩で、東京の九段(中略)まで、棒のようになった足を引きずり空っぽの胃袋をかかえて帰った辛さを、私は決して忘れない……。(中略)組織と未組織と、大企業と中小零細・下請け企業と、さらにその下層に置かれた日雇い、出稼ぎの労務者と、――その差別の構造。(中略)日雇労組、一般合同労組の専従として地方の小都市に骨を埋めようと私が決意したのは、この戦後体験を原点とする》らしい(1 カッコ内は筆者注)。 《五・三〇事件で投獄され、やむを得ず都落ちした私は、再び東京に舞いもどる日ばかりを夢みていた。正直に告白してしまうと、火炎瓶を投げることではなく詩や小説を書くことで、"革命"に参加しようという甘い了見をいだき、田舎の労働組合の専従などほんの腰かけにすぎないと、心中ひそかに考えていたのだ》(2 ※)。 竹中労は、共産党にいつ復帰したのか? 簡単に出たり入ったりできるものなのか? 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 [参考文献] (1)「映画批評」七二年八月号 (2)「キネマ旬報」七一年九月上旬号 ※もちろん、この後竹中は父・英太郎の教えに従って、「政治」を学んでいく。恐らくこの辺りから、プロレタリア文学を積極的に読み、文章修行に励んだのではなかろうか(この辺りは推測である。六一年復党後、宮本顕治周辺にいたとき、プロレタリア文学などを本格的に読み始めたのだと思われる。が、このときも少しばかり読みかじっていたのではなかろうか)。竹中はこのように、非常に勇ましい心象をもっていたかのような文章を書くが、それはつねに読者にミスリードを誘うものでしかない。ちなみに、この頃竹中は、映画監督・新藤兼人作品『どぶ』にかなりの影響を受けたようである。この制作は、吉村公三郎であった。二人はコンビを組んで、数多くの名作をのこしている。『どぶ』は音羽信子演じる主人公が、「ルンペン」の生活をしながらも、力強く生きていこうとするストーリーであった。「かっぱ村」という、スラム街を舞台にしている。これは後(十年後)の初期のルポに影響を与えているのかもしれない。東京の上野公園近くに、「かっぱ橋道具街」があるが、そこにイメージを投影したのかも(しかし、ここは敗戦でぺちゃんこになっていたのだが)。 「インターネットGОО」(映画情報から引用) 京浜工場地帯の一隅、河童沼のほとりのルンペン部落に、ある朝、うす汚ない若い女の行き倒れがあった。部落の住人徳さんがパンを与えたのを機会に、この女ツルは、河童沼部落に住むことになった。ツルは戦後満洲から引揚げてから、紡織工場の女工となったのだが、糸へん暴落のため失業し、それ以来というもの転々として倫落の道をたどってきたのだった。ツルが同居した徳さんとピンちゃんは、競輪、パチンコにふける怠け者達だったが、阿呆のツルはそれとは知らず毎日、二人のために弁当を持たせて勤めに送り出す。だが二人はツルを利用して一儲けたくらみ、近所の特飲街にツルを売りとばした。ツルは、そこの主人大場と衝突して飛び出し、河童沼へ帰ってきたが、大場が徳さん達に前借金の返済を迫ったので、遂にツルはパンパンになって夜の街に立つようになり、その稼ぎをピンちゃん達に貢ぐのである。ある夜、ツルは沼の主人三井のアプレ息子輝明が二十万円入っていると云う手提金庫を奮って逃げてくるのに会い、沼の住人達に注進した。彼らは金庫を求めて走り出したが、取ってみると中には裸体写真しか入っていないで、一同は風邪をひいてツルを恨んだ。ツルは寝こんだピンちゃんを真心を以て看護したが、ある時突然抱きついたピンちゃんにツルは抵抗した。ある日、ツルは土地のパンパンに因縁をつけられリンチされたため、逆上してピストルを振り廻して暴れたので、巡査に打たれて死んでしまった。沼の住人はツルを担いで帰った。ツルが病気に鞭打って貯金した通帳、そしてピンちゃんの学校へ行くという偽芝居をすらも信じて学用品を贈ったツルを知り、一同は涙にくれた。 [時代・社会背景] 戦後、未曾有の高度成長が達成される。 一九五四年〜五七年 昭和二十九〜三十二年(満二十六〜二十九歳) 五四年竹中は、ある女性(竹中晃?)と結婚している(1 ※)。 五四年、共同工芸投石事件が起こり、竹中とリーダーその他組合員含め(立ち見していた父・英太郎も含め)、七十五名が共同正犯で逮捕される。 五五年八月、党の活動として、山村でドサ回り。これまで党は二極に分裂しながらも「武装闘争路線」をひた走っていたが、六全協決議(国民平和路線)で党の再建がなされ、横領の方針であった武装闘争が終わりを迎える。《朝鮮動乱後の不況で、ストライキに明け暮れていたころはよかったのだ。世の中が次第に落ち着いて、労働組合運動の目標が経済要求にしぼられてくると、私の方が落ちつかなかった。それは一口でいえば、"革命の大義"を見失った職業革命家の悲哀だった》《長い戦後の生活苦から、身の回りが小奇麗になっていき、"家庭のぬくみ"が増していくのに反比例して、私の魂はすさんだ、酒を飲んでは手当たり次第に暴力をふるう明け暮れだった(略)なまぬるい環境に死ぬほど鬱屈していたのである》(2 ※)。同年、《「新日本文学」会員の小生、平和の鳩などをぬいつけた赤旗を担ぎ、ドサまわりの明け暮れだった。山村のアジトで玉音、じゃなかった六全協の決議を聞いたのは五五年八月末、「所感」「国際」両派の野合から一ヶ月後であった。もっとも同月十一日、潜行中の三幹部(野坂・志田・紺野)が青山日本青年館に、仕立ておろしの背広であらわれ、ナニゴトか進行中であると推察はしていたのだが》(3 ※)。同年秋、貧窮のどん底にいた竹中は、創価学会から折伏を受ける(入信はしなかった)。この頃新日本文学の山梨県支部を結成するため、壷井繁治と間宮茂輔が来峡、竹中と熊王徳平は幹事役をつとめる(恐らく竹中の誤記)。父・英太郎は同席するはずであったが、行きつけのパチンコ屋で素知らぬ顔して玉を弾いていた(4 ※)。同年、共産党の国民総路線による平和擁護青年協議会に参加する(季節特定できず)。 五六年夏、山梨県一般合同労組連合会に属する共同工芸労働組合で争議が起こる。甲府に戻っていた竹中は、石和の旅館「糸柳」で会社が労組幹部を抱き込み、密談するとの情報を耳に入れていた。怒った竹中と父・英太郎は会社に暴れこむ。住居侵入、器物損壊の罪により告訴され、両者とも被告となる(5)。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 新日本文学会会員であると竹中はいうが、その記録は見当たらない。が、彼は新日本文学の会員の「文芸」にかなりの影響を受けている。 共同工芸労働組合事件は、五一年発生、五六年発生、と記述が重複している。 五四年から「刻みタバコ」を愛用し始める。 甲府では、市議会リコール運動を行い、年の暮れ(年代特定できず)に赤線をまわって歩く。 《新参の私が受け持ったのが穴切という甲府市の遊郭一体であった(略)木枯らしの吹く色町を一軒一軒まわり、署名を求めて歩く。化粧を落としてコタツにあたっている、鉛色の顔をした女たちは、今時のホステスやトルコ嬢と違って、住民登録もしていれば、選挙権を持っている者も多かった。けげんな表情をみせる女もいるにはいたが、十人のうちの七人までは静岡か信州なまりで人なつっこく、「へえ、俺(おら)んとうも署名できるだけえ?!」と顔をかがやかした(中略)私は穴切で遊べなくなった。酔ったまぎれに、「赤線」に足が向くことがあっても、あっちこっちから声がかかるのだった、「共産党のお兄さん、お茶でも飲んでいかんけ」「またリコールけえ?」》(6)。 五四年以降に、共産党とのかかわりで映画サークル「よい映画を見る会」会長に就任している。《毎週、「良い映画」をえらぶ。二割引きの優待券をくばる。一九五五年「たけくらべ」(新東宝、監督・五所平之助)、これは文句なし。江利チエミ、雪村いずみと共演「ジャンケン娘」(東宝、監督・杉江敏男)? お次の番だよ、「歌まつり満月狸合戦」(新芸術プロ、監督・斉藤寅次郎)?? 「旗本退屈男 謎の決闘状」(東映、監督・佐々木康)??? もういけませんあいつ何を考えておるかと、(共産党内部から)非難ごうごう。一九六五年、ひばり映画禁止! チャンバラだめ、"俗流大衆路線"罷りならぬときついお叱りをこうむる》(7 カッコ内筆者注)。《割引券で(客を)釣ってね、会長だからボクはむろんタダ、一九五八年再び上京するまで足かけ七年間、一本も欠かさず封切りを見ました、邦画といわず洋画といわず、戦前ものの再映もね》(4 カッコ内筆者注)。 ※当時のストリップの状況を書き足す [参考文献] (1)「新潮45」〇三年十一月号 ※このところの経緯は、竹中自身が語ることは少なかった。後年に「家庭は諸悪の根源だ」と無頼風にいったりする。《ここ数年(昭和四十七年から)女房子供のこと、いっさい言わず、どこにいるかすらも、かくしてしまった(中略)女房子供のところに公安に踏み込まれるのはイヤだからだ(中略)戸籍はそのままよ。子どもたちが竹中労のせがれであり娘であることを望むからね》と語っているが、婉曲な物いいである(9)。これでは竹中自身のプライバシーは明確にならない。資料によれば、この女性はずっと『団地七つの大罪』の舞台であった千葉県船橋市高根台公団住宅一八五の一〇一に、〇三年現在も暮らしているらしい。のちに財産整理の問題で、この女性と夢幻工房に務めている石原優子の間にひともんちゃくあった様子である。妻の竹中晃(?)は、〇五年にガンで亡くなった。 五四年に竹中はある女性と結婚していると書いた。年譜から連続的にみれば、五・三〇の過激派体験に懲り、所帯でも持って落ち着いたらどうかと周りに薦められた結果ではないか、と推察することができる。そうであるならば、父・英太郎も賛成したに違いない。ちなみに、当時は「お見合い結婚」が主流である。「恋愛結婚」(?)がブームとなるのは、高度成長を経て核家族制(社会党が民法改正)がほとんど普及し、並行して「ミッチー・ブーム」が「女性自身」ほか週刊誌、テレビで喧伝された以降であろう。ここから、主に週刊誌等で「女性の民主化」キャンペーン(のようなもの)が成されはじめる。 (2)「自由」七四年一月号 ※この回想にはもちろん「つくり」があると思われる。父の庇護の下、政治運動にまい進していた反面、このように鬱勃した感情も持っていたのであろうと推察できる。 しかしこれは、世代の共時の感覚であろう。「戦後とは偽の体制なのではないか」というのは、吉本隆明、三島由紀夫などが、等しく持っていた感覚である。 (3)「現代の眼」八一年一月号 ※「仕立て下ろしの背広であらわれた」とあるが、竹中はこの頃東京と甲府を行ったり来たりしていたのであろうか。彼らの服装を見られる立場でなければ、この記述は成り立たない。つまり、彼が青山の青年日本館にいなければ、ということである。 とすると、やはり彼は山梨―東京間を往復していたのであろう。鈴木義昭も、「行ったり来たりしているね」と話していた。 (4)『日本映画縦断2 ――異端の映像』(白川書院) ※このとき英太郎は山梨日日新聞の論説委員長。英太郎は、母系性研究家・高群逸枝の家に壷井と共に居候していたが、戦中に壷井が「戦犯七つの首」という詩を発表していたため、《ああいうのをダブル・クロスというんだ》(8)といって会わなかったらしい。竹中によれば、父・英太郎の態度は《戦争に対して誠実な人だけが持ちうる》(4)感覚であったという。しかし、この話も事実かどうか定かではない。この話はどうやらつくり話の感が強い。 (5)『美は乱調にあり、生は無頼にあり』(批評社) (6)「創」七四年二月号 (7)『完本 美空ひばり』(ちくま文庫) (8)『竹中労の右翼との対話』(現代評論社) (9)「平凡パンチ」七二年年九月四日号 石堂淑郎との対談 [時代・社会背景] 一九五八年 昭和三十三年(満三十歳) 女児(長女・小絵)、が誕生する。この頃甲府市で私塾を経営している。 七月、《肝心の(友人の千田夏光、川内康範などの運動仲間に招かれた)就職先である毎夕新聞とはどのような新聞かも知らず》(1 ※ カッコ内は筆者注)上京する。「東京毎夕新聞」の文化部に就職する。文化部長待遇二面デスク、というのが肩書きだったが、その実は雇われライター。受け持ちは浅草六区・池袋・新宿等のストリップ劇場の探訪記事、踊り子・コメディアンの評判記、旧赤線のルポルタージュなどさまざま、後に社会面まで手を広げる。《毎日、毎日、ストリップ劇場の楽屋へ出入りし、「いれーななかへ(イレーナ中江)譲」とか「はめきまんこ譲」というけったいな芸名のストリッパーたちの取材をしてまわった》(2 カッコ内筆者注)。 秋に浅草のストリッパーたちを組織し、待遇改善のストライキの指導者となるも、東洋興行社長・松倉宇七から各劇場立ち入り禁止のオフレが出て、争議は敗北に終わる(3 ※)。その他、コメディアンたち自身が自治する組織"ユニオン"の結成を画策する。戦後の華やかりし頃の「ムーラン・ルージュ」を復活させようと、有馬是馬と案を練る。この頃、取材をかねて《悪友が世話した"安くて家族的で環境絶佳"と称する》(4)州崎パラダイスのど真ん中にある女部屋の三畳間を仮の宿とする。《三流新聞の給料は実に安く、電車賃にも事欠く毎日を、野良犬のようにすごした。セビロも時計も質に入れ、安酒をくらって泥のように眠った、「革命の敗残兵」にはふさわしい生きざまであった》(5)。毎夕で働いているときのアダ名は「ミスター金遣い」、《一ヶ月に十六万円も取材費を使ったことがあり、しかも領収書はいっさいなし。取材費伝票に「渋谷で××氏に会い、メシを食おうといわれて会食、三千円」と書き、これには例の約三億円脱税で捕まった社主の田中彰冶氏もカンカンになった》(6)。小林永司によれば《自分の金も他人の金も見境のつかないところがあったからね。つまり、どんな金でもいったん自分の懐に入ってしまうとそれでいい》(7)。その反面、《毎日一人きりで新聞の一ページ(二面?)をつぶすという、むちゃくちゃな重労働をまる一年、休みなしでつづけた》らしい(8 カッコ内は筆者注)。 寄稿者の了解を得て、連載の随筆原稿の文体模写の代作(ゴーストライト)もやっていた。(竹中の記述によれば)丸尾長顕、薩摩治郎八、田辺茂一、悠玄亭玉助、寿々喜多呂九平など。浅香光代の自伝『女剣劇』などのゴートライライターであった仲沢清太郎氏に聞書きのコツを学ぶ。この時期、日蓮宗身延山の山林汚職キャンペーンなどを書くが、社の事情で載せられなかった記事も多かったようだ(社主であるマッチポンプで有名な田中彰治が、記事を取引の道具にしたため。ちなみにこの乱伐汚職、時の法主・増田日遠を辞任に追い込んだと竹中は語る。小林永司が間に入り和解したかと思われる。ネタは山梨に滞在していたときから考えていたのだろう)。「東京毎夕新聞」に勤めたのは翌年(五九年)の七月まで。《運動を離れてゴシップ夕刊紙の記者になった私には、若くして韜晦の思いがあった》(8)。転居はこの後、四度する。《私たち家族(妻・子供二人)の(賃貸)住居の歴史は、ディオゲネス的悲惨の連続であった》(9 カッコ内筆者注)。《昭和三十三年夏から三十四年暮にかけて、京浜蒲田から穴守線がカーブする、その路線際の六畳一間きりに棲んでおりました。電車通るたんびに天井から埃が落ち、ギシギシと家は揺れました。原稿は売れずボロ家の暑さかな》(10)。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 《芸能記者の開業は中小零細企業労組をやっていたとき、労働者を裏切って毎夕新聞に入社(略)故にもの書きとしては常に裏切りの気持ちがつきまとうという》(11)にこうある(恐らく父・竹中英太郎がこのケツを拭いたのだろう)。ちなみに当時の週刊誌の記事、竹中労の紹介をしている文章をみると、昭和三十二年上京、「東京毎夕新聞」入社とある。竹中自身は昭和三十三年と記述しているが、後者が正しいと思われる。 竹中は毎夕で働いている際、当時「星菊水」で働いている阿部定に取材しているらしい。 この年、SKDの踊り子であり、創価学会会員であった中野照子さんと出会う。のち、「女性自身」の記者をした際に記事にしたこともある。そして、『牧口常三郎(4)』の最終章で彼女を語る。 畏友・斉藤龍鳳は「東京毎夕新聞」の記者であった。竹中との初の出会いは「フジキ」という喫茶店であった。内外タイムスの社屋は金杉橋にあったが、その界隈の喫茶店であった。お互いハンチングを被っていたため、二人は出会ったときに辟易しあったようである。 この年、芸能記者としての師、南部僑一郎に出会う。竹中は毎夕新聞記者として銀座千疋屋でインタビューする。このとき南部は竹中を見るとすぐさま、父・英太郎の倅であるとわかったようであった。南部は父・英太郎と「博文館」の待合室で出会っていた。竹中は翌年から自宅である杉並区南町にたびたび向かい、由原木七郎(東京新聞)、加藤康一(映画情報編集部)鈴木信治郎(文化通信)、岡田啓三(東映宣伝部)などの先輩に伍して、南僑一家に迎え入れられ、芸能ジャーナリストとしてのイロハを学んでいく。滝沢一、玉木潤一郎、内田吐夢などを南部から紹介される。芸能ジャーナリストとして南部は六〇年当時、ほとんど映画界のヌシといっても差し支えないくらい顔が広かった。竹中が「事件」を起こすたびに、南部は竹中のシリを拭いた(12)。おそらくこの頃から、大衆運動である六〇年安保反対運動と、大正時代の文芸運動をパラレルにして考察する手がかりになっていくようだ。後述するが、竹中が「マヴォ」を探すために伊藤新吉を訪ねるのも、南部のはたらきが大きかったのかもしれない。ちなみに、南部は共産党のシンパサイザーであった。 竹中の師匠は三人いる。芸能記者としての師、南部僑一郎、「性科学」ライターとしての師、高橋鐵、「思想」の師、羽仁五郎。しかし、これは結果的なものであると思われる。 売春防止法制定以前・以後(三十一年五月二十四日公布、刑事処分と補導処分に関する規定を除き三十二年四月一日施行、三十三年四月一日全面適用)をめぐる風俗ルポを、かなりの数書いている。「赤線の灯は消えたり」、旧赤線ルポを毎夕新聞に半年連載したと竹中は語る。これは浅原健三『溶鉱炉の火は消えたり』をもじっているのだと思われる(?)。 この頃、ロック座裏の『福乃家』横里りん、 同じ頃「内外タイムス」の記者をしていた矢崎泰久は、 《内外は新聞協会に加盟しており、一流紙と同じ記者クラブに所属していた。そんな関係で、竹中が入手不可能ないろいろな情報を、私はこっそり流してやったりした》(13)という。この頃は親密な付き合いをしていた。矢崎はこの後竹中と兄弟のような付き合いをしていくが、七七年結成された革新自治自由連合の運動から関係がギクシャクしていく。 高橋呉郎によれば、《「ルポルタージュ」と「ライター」をくっつけた「ルポライター」という新語は田川博一がつくった》(14)とある。田川はこのとき「文藝春秋」の編集長で「週刊朝日」誌上に載った《……いいルポ物をやりたいのだが、有能なライターがいない。社外の人で若い、優秀なルポ・ライターを五人ほど育てたいのが、私の念願です」》(14)。この田川の周辺から、若くして夭折した作家・梶山季之が出てくる。「ルポライター」の名称を一般化させたのは梶山の功績が大きい。翌年、竹中は千田夏光にすすめられてトップ屋を開業するが、ルポライターと名乗るのはもう少し後になってからのように推察される。筆者の調べによれば、六十年代中期から肩書きとして「ルポ・ライター」は使っているが、これ以前に使っていたかどうかは、調べが足りない。当時はルポライターという名称をつかってライターに携わる人間はごまんといた。ノンフィクション作家・小林道雄も、「ヤングレディ」周辺にいて、ルポライターをしていたようだ(15)。 [参考文献] (1)「自由」七四年一月号 ※甲府から東京へ上京するのは女児の誕生と軌を一にしている。千田夏光、川内康範に招かれたということは、恐らく東京に少なからず滞在していて、そこから招かれたのではないだろうか。つまり、竹中は五九年以前にも東京にいて、党員としての基本的な活動をしていた、ということになる。恐らく、家庭は円満だったのではなかろうか。でなければ、国民平和路線の後も、党員として活動していた説明がつかない。武装闘争路線ののち、(それに参加していた)ほとんどの党員は離党したのだから。 (2)「映画評論」七三年一月号 (3)『芸能人別帳』(ちくま文庫) ※本書によると、しばらくヤクザに付け狙われ、浅草を歩けなかったこともあったらしい。《あの野郎、右腕ブッタ斬っちまえ!》(11)と、記事を書けなくさせようとする者たちもいたらしい。この話は浅草界隈では語り草となっていたようである。この頃の取材で、東洋興行系の芸人と口を聴けなくなり支障をきたした。争議は敗北したが、浅草のストリップをフランチャイズ制にすることに成功する。もちろん、この頃のヤクザはまだ「牧歌的な気質」を有していたと思われる。竹中が後年に『美空ひばり』の取材で山口組三代目組長・田岡一雄と懇意になるのも、この気質を有していたからであると推定することが出来る。竹中の戦後の一時期の体験を想起していただければわかるが、差別を受けていた人々とも懇意であったためであると推測できる。八〇年代中期、竹中がヤクザに人気があった(らしい)のも、まだその種の人間が残存していたためであると思われる。ちなみに、筆者はヤクザを肯定している訳ではない。 (4)「創」七四年二月号 (5)『大藪春彦の世界』 (6)「週刊現代」六八年八月一日号 (7)「話の特集」九一年八月号 (8)『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫) (9)「潮」六五年六月号 (10)『左右を斬る』(幸洋出版) (11)「サンデー毎日」七二年十月十五日号 桐島洋子との対談内 (12)『日本映画縦断2 異端の映像』(白川書院) (13)「噂の真相」九一年八月号 (14)『週刊誌風雲録』(文春新書) (15)『編集者の学校』(講談社) [時代・社会背景] 一九五九年 昭和三十四年(満三十一歳) 七月、「東京毎夕新聞」の社主であった田中彰治とその息子の常務と喧嘩し、クビになり独立を決意する。先輩である千田夏光にすすめられてトップ屋を開業。きっかけは「週刊スリラー」に無署名アルバイト原稿を書いていた経験があったため。この頃から「ルポ・ライター」と名乗る(1 ※)。 「週刊スリラー」「週刊大衆」「アサヒ芸能」「実話特報」「週刊実話」などに風俗芸能ルポ・バクロ記事を売り、生活の糧を得る。「東京の原爆被災者たち」「埋蔵金ブームに踊る旧右翼」「東京暮色・ドヤ街三文オペラ」「霊城七面山を荒らす身延の破戒僧たち」「売春防止法―それから一年の吉原」「サドマド・フェティシズムの"黒ミサ"を私は見た」などを何本かのルポにまとめるが、これらのルポは売れず、オピンク記事のみ細々と売れる。森脇将光の秘書であった平本一方(敗戦直後の学生運動時の仲間、「週刊スリラー」の編集責任者)から、俳優の三国連太郎を紹介される。「週刊スリラー」編集部で大藪晴彦と出会う。 芸能記事として初めて雑誌に載ったのは、映画評論家・吉村公三郎が倉敷でエロ映画を鑑賞し、地元の警察所に取調べを受けた、という事件の追跡記事。この記事は「週刊スリラー」に載ったが、取材費はナシ、かくて「週刊スリラー」との縁が切れる。「アサヒ芸能」で生出寿氏と出会い、先に挙げた黒ミサ・売春婦更正施設のルポ等を売る。歌手の中島そのみの実父が竹中の義母(つね子)の出身地で、離婚の原因となった後妻と旅館を経営しているという話を思い出し(そのみは早くに父を亡くし母親の手ひとつで育てられたという美談が「週刊平凡」に載っていた)、これを週刊「アサヒ芸能」に売り込みバクロ記事にする、「全告白―中島そのみは生みの父親をなぜ隠したか」。 十一月、井上清から、雑誌「女性自身」のアンカーとして働かないか、というスカウトを受ける。「自分が取材しなければ書きません」と宣言し、取材手当・週八千円、原稿料一枚千五百円の契約が成立、「女性自身」内部の特派記者となり、その日からスタッフ・ライターとして働く。井上は「全告白―中島そのみは生みの父親をなぜ隠したか」を読み、竹中を探し出し、黒崎勇編集長に推薦した、という経緯だった。初仕事は十一月十五日(契約成立の翌日)、銀座ケテルスというレストランで、トニー・ザイラーの来日を迎えて共演する鰐淵晴子と、その母親であるベルタさんのインタビュー、「私は混血を売り物にしたくない」。この日から芸能ルポライターとなる(高橋呉郎『週刊誌風雲録』によると、翌年二月からとある)。記事では芸能、教養欄を担当する。「東京毎夕新聞」の同僚であった大橋潮に、高輪プリンス・ホテルで呼び屋(プロモーター)である樋口久人を紹介される。ここから呼び屋との交渉が始まる。 五九年から六一年にかけて「別冊アサヒ芸能」と契約を交わす(1 ※2)。原稿料五百円、月産二百枚、「女性自身」の芸能記事取材・執筆と同時進行であり、徹夜の連続で原稿を書く殺人的重労働の明け暮れの生活を送る。小説からコラムまで《はちゃめちゃに書きまくった》(1)。このとき、仕事場は新橋にあったようだ。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 足かけ七年、竹中の芸能ジャーナリスト時代がはじまる。この時期はテレビなど一家庭に広く普及していない時代、竹中は現場演劇、新劇、ショウなどを見て歩いた経験を活かし、演劇批評を展開すると同時に、女優・男優たちの人物評判記を展開する。毎夕に勤めていた期間(五八年七月‐五八年七月まで)から女性自身にスカウトされるまでの期間(五九年十一月)は、書いた原稿がまったく売れず貧窮のどん底であった。創価学会の会員であった大家さんに家賃を待ってもらう、同じく会員であった中華料理屋の若夫婦に約四カ月間ラーメン・ギョウザをツケで食わせてもらう、といった生活を送る(?)。この界隈(京浜蒲田の路線ぎわの六畳一間)、向う三軒となりが創価学会員であり、夜討ち朝駈けの折伏の嵐、学会員にはならなかったが、後年『聞書庶民烈伝・牧口常三郎とその時代』を無名市井の庶民の視点で書くきっかけになった。「マルクスが貧乏人をつくるってまったくその通り」と、当時を回顧していっている。 《教養ページでは "読者のページ"として、樋口一葉や啄木とかサルトル》(4)など現在の週刊誌では考えられない文章を書き飛ばす。同時にこのとき「東京の被爆者たち」という記事を、矢崎泰久と共同取材している。この記事を、矢崎は「内外タイムス」に、竹中は「女性自身」に取り上げる。後年、『在韓被爆者』を書くきっかけになったと、矢崎は『自由への証言』内ではなしている。 この頃、カフェー「天久」、川原町のジャズ喫茶「ブルーノート」に通う。「天久」では、映画監督・内田吐夢のお供をする。 毎夕記者時代、老舗『梅園』に通う。踊り子たちを誘って汁粉やぜんざいを振舞う。 暮、女優・高峰秀子を取材。「多摩川土堤バタヤ部落(一粒会)」(2)で、山谷の革命家と呼ばれた梶大介と出会う(? 季節特定できない)。 この頃「別冊アサヒ芸能」の「特異作家の連作」という企画で署名原稿を書いていたと思われる。『ルポライター事始』内では、六三年森繁久弥事件を契機に署名で原稿を書き始めるとあるが、この企画での署名が最初であるかと思われる。しかし、本誌は大宅文庫にも所蔵は無い。『首輪のない猟犬たち トップ屋』をみると、執筆者は竹中の他に、北川衛、猪野健治などのようである。 竹中のマーケットは、「電車の網棚の上に読み捨てられることを、みずから潔しとする」出版物、ストリート・ジャーナリズムに存在していた。体制に対し言論の暴力を行使、遊撃・回避・撤退を繰り返すゲリラ戦の如く疾風怒濤、《俗流大衆路線の衣をまといつつ、反体制・反権力、異端の思想を煽動すること》(1)を旨とし、依頼された書雑誌に寄稿していた(らしい)。当時、ルポライターという名は言論界の差別の対象であった、「売文稼業の血統書付の雑種として」存在していた竹中は、革命の主体を、「政治的に」、何に依拠するべきかを、この頃必死に考えていたようである(?)。 依拠すべき対象がこの頃の「女性自身」の読者であった。竹中は彼女たちを《貧しい娘達》(1)と称した。竹中はもちろんインテリであり、六〇年後半あたりまで「知識人と大衆」という命題を考えていたように推察できる。そこで考えたのが、「女性自身」の読者、つまり大衆の動員→(前衛の)組織化の構図であり、シンボル操作(例えば赤木圭一郎)をし、大衆を扇動することであった。この「女性自身」の仕事で、状況に応じた(文化記号論的な!)イメージメーカー、プランナーの仕事のやり方を把握していく。もちろん、この手法は当時、松下圭一が主張していた方法論に拠る。竹中の言説は常に政治的なのだ。 《私(竹中)は運動とか革命とかいうことについて、「元」という肩書につくけれども、プロフェッショナルのつもりだった。それでまあ、途中で見切りつけちゃったんだが》(3 カッコ内筆者注)とある。これは、「女性自身」の政治的文脈から「ビートルズ原理」からの文闘的非政治的政治主義、そして「日本歌謡選手権」までの活動行程を暗示している発言ではなかろうか。六〇年後期に除名はされたが、七十年代中期までの「党」的な活動を熱心に実践していた事を指している発言かと思われる。竹中は党外でも党のことはつねに考えていたようだ。「党」でなければ「革命」は生起しえないのではないかと。現在もこのように考える元共産党員は多い。 [参考文献] (1)『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫) ※五九年頃からルポライターを名乗っていたと竹中は語る。筆者の調べでは六三年頃から肩書として使っているが、一般に名乗っていたのか定かでない。松田政男によれば、七〇年代前半でも「名乗ろうか名乗るまいか迷っていたようにみえた」(談)ようだ。「ルポライター」という名称は、差別的な言葉として機能していたためであろう。ちなみに、彼が「元祖ルポライター」というのは、間違いである。 ※2編集長は『呉子』でも世話になる生出寿であった。「週刊アサヒ芸能」の社主兼編集長はのちに徳間書店の社長となる徳間康快。「別冊アサヒ芸能」の路線は「売れさえすればよい記事」であった。その紙面構成、編集方針は「悪の愉しみとでも言うべきストリート・ジャーナリズム」であると竹中は評した。「アサヒ芸能」では、渡辺恒雄もこっそり内職原稿を書いていたことがあった。竹中とナベツネが一緒に書いていた点は、まさに「魑魅魍魎」であるという感があるが、徳間も渡辺も共産党員であったらしい。もちろん、徳間と竹中は、社長と一記者の関係でしかない。 (2)『山谷―都市反乱の原点』() (3)『法を裁く』 (4)『無頼の墓碑銘』 [時代・社会背景] 一九六〇年 昭和三十五年(満三十二歳) 男児(長男・弦)が誕生する。連日のように安保闘争の集会やデモに出かける。「新劇人会議」「若い日本の会」「民放労連」など各種運動団体と行動を共にし、大乱の予兆に身を置く。二月、大映東京撮影所で映画「からっ風野郎」に出演していた三島由紀夫をインタビュー。六月、石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎らが主催する「若い日本の会」のカンパニアの席上(司会・吉本隆明)にて、後方の席から《ナンセンス!》(1)《議論をやめて街頭に出ろ!》と発言する(2 ※)。この会には大藪晴彦も参加していた。《「馬鹿々々しいから俺は帰る」とブ然と吐き棄てると、彼は身をひるがえして、会場を出ていってしまった。足元から風が立つような爽快感を、私はいまでも記憶の底にしまっている》(1)。 「女性自身」の記事では、松山善三・高峰秀子夫妻の聾唖者を主人公にした映画「名も無く貧しく美しく」の記事を作成する、「名もなく貧しく美しく/高峰秀子を感動させた夫婦愛」。同映画のキャンペーンを張り、七回に渡り特集・グラビア記事を組む。この制作協力で映画監督・古海卓二の子息、古海巨と出会い、女優・紅沢葉子と知己を得る(3)。その他、奈良光枝の女囚の歌などを書く。ヨネヤマ・ママコと岡田真澄の破局に終わった同棲生活に「契約結婚」なる新造語をプレゼントする(彼らは三月二十四日結婚・翌年八月離婚)。六月七日、六本木の俳優座事務所で東山千栄子にインタビュー取材し、東山千栄子半生の記事を作成する、「女ひとり桜の園を守って/東山千栄子・70歳の年輪」。日活の映画俳優で、第三の男として人気を博した赤木圭一郎を安保闘争に参加させ、日本のマリア・ヴォロンテ(イタリアの映画スターで無政府主義者)に仕立て上げようとスタンバイするが、これは未遂に終わる。六月十五日、午後四時十五分から深夜にかけて、安保闘争のデモを視るために国会議事堂の周辺を走り回る。維新行動隊がデモに殴りこむ様子を現認する。六月十九日、新安保条約自然承認。《安保闘争以前に、その方法論(深沢七郎『風流夢譚』から気づかされた「ミッチー」(正田美智子)「オスタ」(清宮貴子)と叫ぶ大衆の猥褻性とその浮世風呂精神)把握していれば、かなり有効にたたかって、死(に)場所を見つけていたかも知れぬ、愚かにも私は日本共産党に戻って、再び組織に依拠して闘うことを考えたりしていた(略)誤解のないように断っておく、私は党の指導部を信じていなかった、真に"輝ける党"を建設するための造反を内部からおこすことを、党員であったときも党外でもずっと思いつづけてきたのである》(4 ※ カッコ内は筆者注)。 「女性自身」の専属であった七年間、映画俳優・歌手、皇族、死刑執行人、ゴースト(死者・幽霊などの冥府からの通信)、百五十篇余の手記を創作、代作する(うち芸能人の手記が百五篇)。秋、《映画産業を覆う黒い霧の正体をあばこうと、調布の日活撮影所に日参》(5)する。「女性自身」の取材のため、日本シリーズの川崎球場(大毎・大洋戦)で映画監督の大島渚をインタビューする(この年、大島渚は小山明子と結婚)。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 この時期は、「無頼」の雰囲気は皆無である。あったとしても、突発的なものであった。筆者の調べによれば、竹中が「無頼」ふうになっていくのは六〇年代後半からである。恐らく、山谷に向かったのが契機と思われる。 竹中の活動行程は大島の映画の影響が多分にある。刺激し合っていたと見るべきだろう。七二年、「映画批評」で映画「夏の妹」を巡って論争に発展する。この後、「日本映画縦断」をみた大島は、竹中との友情を復活させる。 [参考文献] (1)『大藪晴彦の世界』(新評社) (2)『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫) ※恐らくこの文脈は江藤淳を批判しているのだと思われる。竹中は草月会館と都市センター・ホールで行われた「若い日本の会」の集会に参加していたという。江藤の戦略は、「宇都宮徳馬を担ぎ上げ、与党反主流派である三木・松村派と協力し、岸内閣不信任を通して安保条約の成立阻止」であった。江藤は「若い日本の会」で前出の宇都宮徳馬その他文化人などを呼び、シンポジウムを実行した。竹中の文脈をみると、この方法が気に入らず、席を蹴り会場を出たようである。六〇年安保は草の根レヴェルで行なわれ、戦後最大の「運動」であるのは周知であるが、当時の竹中であれば、江藤の方法は逆にシンパセスティックな感を抱いたのではないかと推察する(もしかしたら、江藤のその手法を、五五年の社会党の再統一と保守勢力の合同(いわゆる五五年体制の確立)とをトレースしてみていたのかもしれない。なしくずしの保守体制として)。竹中はこの後の六一年に共産党に復党する。彼が復党するのは、草の根レヴェルの運動を継続してより強固に再組織する「党」を幻視したためではないかと思われる(つまり、この共産党の復党は、六〇年における社会党の分裂に端を発している面もあるのではなかろうか)。 とすると、「議論をやめて街頭に出ろ」と吼えるのは、竹中のアンビバレンツを示した文脈のように思う。江藤の手法にシンパセスティックであるならば、事実上「逃亡奴隷」であるという論理も、ここでは成り立つ。 竹中はこのように、自らに影響を与えた「文化人」「知識人」に、レトリックを混じえながら攻撃する場合が多々ある。数多いのは、大江健三郎、大宅壮一、佐藤忠男など様々だ。しかし、以上に挙げた著名人は、竹中自身もかなりの影響を受けている(大江=文学、大宅=ジャーナリスティクな評論活動、佐藤=評論における史実の構成。この部分については後述する)。つまり前出の文脈は、彼らの言説(意)にとらわれまいとする、アナキスト的な態度である断じても構わない。この点について、竹中は七一年にこう述べる。 《わき道にそれるが、「よろず喧嘩売ります、買います」とデンガラ太鼓を打ち鳴らして、(佐藤栄作)総理婦人からナベプロに至るまで、かまわず斬りつける私の"狂疾"というやつ、常住敵をつくって自らを窮地に追いこまなくては、いつかボスとなり、小権力に安住してしまうであろうオノレの資質、性情へのきびしい自戒に発する》(10)。 竹中の「悪い癖」である。攻撃される人間としてはたまったものではない。だが、これが一時期、彼の仕事であるかのようだった。眉をひそめ、目を覆いたくなるような下種な文章である反面、なぜ彼がこのように攻撃的な文脈を構成するに到ったのかは一考に価する問題である。後年の回想では「スキャンダルジャーナリズムから一点突破して体制の擬制(イデオロギー)に抗する」と、自身の戦略を語る。が、それは多分に修辞(レトリック)であり、ことの動機は違った部分に存在していたと思われる。恐らくこの種の批判は、東京毎夕新聞記者時代(五八年七月‐五九年七月)から、初期トップ屋時代(五九年七月‐十一月)までの仕事の延長上にある。つまり、この文脈は彼の当時の心境である「功名心」(成り上がり根性)と、「知識人」へのコンプレックスが多分に反映されている。逆説を弄すれば、それを従来の「知識人」を否定する「(前)近代的な知識人の態度の表れ」(朝倉喬司)というのは、容易であろう。竹中のように、「知識人」が攻撃に徹する姿勢をみるのはまれである。竹中であれば、このような筆者の論理を「猥褻だ」と斬り捨てるだろうが、こののち、先の「知識人」コンプレックスの憂さを晴らすかのように成り上がっていく。それは、竹中世代の「感覚」を忠実に再現しているかのようである。半藤一利の言を借りれば、「大人に対する背信に次ぐ背信」の「感覚」が身に馴染んでいたということが出来よう。 二度にわたる裁判闘争、自らの「反骨」のスタンスを脚色せんとする修辞的な文脈の態度、全て巧妙に考え抜かれた「功名心」に基づく。最晩年に竹中は自らを「三流の人間であった」と告白するが、おそらく「その功名心すら貫けない」という意味を指しているのだろう。 さて、竹中の初期のジャーナリスト活動は、大宅壮一の影響を多分に受けている。竹中は後年、「取材をしない」ことで有名になるが、初期の活動は、統計をきちんととり、いうなれば社会学・統計学を援用するフィールドワーク的分析が文面から強くうかがわれる(党の指導の一環? 考えすぎか)。 (3)『日本映画横断1 ――傾向映画の時代』(白川書院) (4)「自由」七四年三月号 ※この文脈が七四年に成されたことに留意されたい。共産党を除籍されたのは六八年である。竹中は、除籍の際に共産党に査問を要求した。ここで松田政男の、歴代最長査問記録である八十四日間を超える記録をつくったと「巷談の会」で語っている。査問はふつう、自ら要求するのではなく、一概に党の上部からかけられるものであるが、竹中の特異性はこの辺りにある。つまり、この行為は党に対する熱烈なまでの信任の反映であると筆者は推測する(が、査問のくだりは信用に足りるかどうかわからない)。 ちなみにこの「自由」内の「さらば芸能界」が書かれたのは、竹中がモン族解放戦線を取材する直前か、その間であった。とすれば、「戦争を発見すること」に対する「覚悟」か(命がけということである)、または、それとは全く関係なく、単に(以前の『無頼と荊冠』のように)自らの経験を脚色せんがために、そのようにいい表した文脈なのかもしれない。だが、筆者はこれを、竹中の本音として捉える。この「自由」の連載は三回で終わる。つまり、モン族解放戦線が、竹中が幻視していた組織ではなかったからではないかと、推測することも出来る。その違和感は、羽仁吾郎との共著『アジア燃ゆ』に詳しい。要約すれば、彼らのマフィア的な態度が気に入らなかったようである。が、ここでも大言壮語をかましている。しかし、彼のジャーナリスティックな感覚は特筆すべきものがある。それは恐らく、彼の思考(文脈)にはつねに(修辞的ではあるが)「政治思想」が介在していたからではなかろうか。 (5)『芸能人別帳』(ちくま文庫) (6)『音羽の社の遺伝子』著・森彰英(リヨン社) (9)『週刊誌風雲録』著・高橋呉郎(文春文庫) (10)「キネマ旬報」七一年五月下旬号 [時代・社会背景] 一九六一年 昭和三十六年 (満三十三歳) 徳間書店から語り下ろしシリーズ『我ら大正っ子・第一集』『我ら大正っ子・第三集』が出版される。佐藤英夫、森光子の部分の記述を受け持つ。春、深沢七郎と山梨県甲斐路を旅する。 〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕 大村茂の年譜によると《安保闘争の私的総括のはて「党」を内部から変革すべきだと復党。「なんという愚かな妄想だったことか」》とある。竹中は共産党の文化部に所属し、映画、音楽、芸能などの文化面の工作に従事していたようだ(「中州通信」九八年三月号)。復帰し、直属の上司であり同志であったのは神山茂男だったと、後年竹中は記述しいていたが……。筆者は、映画評論家で、神山派直系の共産党員であった松田政男にきいてみた。松田政男は、このように言っていた。 《俺の推測によれば神山派にいた事実はない。竹中労とは一度も接触がなかった。共産党の中で活動の事実があるとすれば、神山派のどこかの細胞か(インテリグループ、主に文化人・無名のルポライターなど有象無象が所属していた支部)、党中央直属の、暗黙的に存在していた文化人党員の周辺にいたのかもしれない。共産党の体質として、細胞どうしの直接の交流は皆無であったので、俺の知らないところで活動していても不思議ではない。単に会わなかっただけ、ということも考えられる。例えば五九年十一・二七、安保反対運動で国会内へ最初になだれ込んだ事件、そのとき国会内で演説した共産党の代表が神山茂男であった。神山派であれば、統一戦線部内の周辺にいた可能性もある。もしかしたら、組織部長・統一戦線部(神山茂男が親分)の「細胞」の基本的な活動をしていたのかもしれない》(松田政男・談)。 この頃、インテリと呼ばれていた人々は「皆共産党に所属していた」といえるくらいの時代背景があった。いわゆる「反米愛国」、熱い政治の季節と呼ばれるゆえんである。ちなみに、筆者も松田がいうように、竹中労は神山派ではなかっただろうと考える。七五年の四月下旬に宮城野の仕事場に神山茂男がやってきたと、竹中は七五年に「別冊新評 ――梶山季之の世界」内で書いている。だが、神山は竹中がレギュラー出演していた「巷談の会」に出席したのち、何かしらの対話を交わし、その延長にある「お付き合い」の関係上から、宮城野の自宅にやってきたのだろう。この頃、神山はもはや「ご隠居」である。日本共産党の元中央委員であった神山の「胸を借りて育った」と、神山の出版記念会に駆けつけて竹中はいっていたようだが、やはりこれも「お付き合い」の関係上の発言であると感じられる。 なんにせよ、神山派でなくとも、竹中は「祇園祭」の除名まで日共中央委員に従っていたのだから、その発言は中央委員であるならば誰にでも通用する。筆者の推測によれば、汎アジアへの旅の企図を起こしたのは、神山の「民族研究」の文献の示唆が大きいと思われる。その意味で、竹中は「義理」を重んじ、「胸を借りて育った」という挨拶をしたのではなかろうか。 日本共産党はこの頃「六一年網領」を採択している。これをめぐって「網領論争」が起こり、暴力革命を否定して平和革命論を主張していた人々は、毛沢東派(日共左派?)を除きことごとく(文化人党員、インテリ党員を含め。しかし宮本は暗黙的に文化人党員を囲ったようだ)追放された。当時、党の実権は宮本顕次およびその一派が担っていた。彼らが提唱したのは「敵の出方論」であり、暗黙的に暴力革命論の反復であった。 竹中は、 《大井広介(中略)『左翼天皇制』第3章(宮本百合子に対する集団犯罪)と、ほとんど同じ感情をかつて小生がいだいた(中略)「宮本顕次は堕落したのだ」と小生も信じていた(中略)六〇年代後半までこの党に籍を置く間にみえてきたのは、宮本顕次が本気で党を粛清し彼が脳裏に描く"革命政党"に生長させようと努力し、その事業に成功し得たと信じている、というパラドクスであった。タテマエでなくホンネで、宮本顕次は、国民政党としての共産党・政権奪取の多数派工作の実現を、"日本革命"の正しい道であると、目的的に信じている。宮本のこの確信はとりもなおさず、日共・ボルシェビキが戦前から幻視してきた、彼らの国家権力=プロレタリア独裁(「執政」と言葉を変えようと同じことだ)と、予定調和を遂げるのである。すなわち、宮本顕次こそ共産主義者・職業革命家の正統であり、もろもろの異端を斬り捨てて、無謬であるのだ》(3 ※)。 当時、竹中は共産党の熱心な党員であったことが窺える文章である。宮本による党支配により、党員は大衆と共にある語義として機能した「細胞」でなく、「支部」内の党員と呼ばれるようになった。これは、宮本指導下における民主集中制的な(中央・指導部を批判してはいけない)党支配の政治動向が窺える。 《六〇年代、"不肖の師"大谷竹山から巷談の基本を》(1)学ぶ。大谷は巷釈師である。 [この年本になったもの] 『我ら大正っ子 第1集』(昭和三十六年八月二十日初刊 徳間書店 著・中曽根康弘・森光子・石井久・佐藤一・水上勉) 竹中は森光子の部分を代作する。このときは無署名。「人生の辛酸を舐めつくした」女優である森光子を、スタイルである美文調でまとめる。この時期の竹中のスタイルは、貧しい娘たちの受苦的まなざしを視点とし、「言葉」として社会に表出されない娘たちの心情を代弁するかのような文章、もしくは、自分の心情を彼女たちに投げかけ、その心情を彼女たちの生き様の中に関連させ、手記として聞き書きし、誌面に独白の形態で載せる形の文章を書いていた。このときのスタイルも、安保前後においての政治的な配慮があったようである。その対象が女優、もしくは芸能者・身体障害者など一貫して差別されてきた人々であった。様々な受苦を乗り越える強さを、大衆・民衆の欲望の中に見出していたのかと思われる。語弊があるかもしれないが、森光子もその一人である。その他女優の手記も量産している。竹中は、これを「職業的良心」の表れであったと自らを評したようだ(4)。おそらく共産党文化部「裏」のエゲツナイ活動を視野にいれたものだと推察できる。 『我ら大正っ子 第3集』(昭和三十六年十二月十日初刊 徳間書店 著・吉田正・松岡洋子・石田博英・河合滋・佐藤英夫著) 竹中は佐藤英夫の部分を代作する。このときは無署名。《完成原稿それぞれ百枚の聞き書きをメモなしで仕上げ、ゴーストライターとしてのいわば職人的技術を、マスコミの内側で私は認められたのである》(4)。佐藤英夫の手記は、竹中の半生と重なる部分がある。本当に佐藤英夫の半生なのか疑いたくなるが、同じような体験を経験した上での感情移入が表れているのだろう。佐藤英夫の手記の内容は「美空ひばり」の場合のように、横浜から物語は始まる。 森光子・佐藤英夫の手記はのちに署名入りで雑誌に転載される(4)。 [参考文献] (1)『ルポライター事始』(ちくま文庫) (2)「話の特集」七二年十一月号 (3)『左右を斬る』(幸洋出版) ※これは八〇年代に書かれたものである。勘違いされては困るが、竹中は八〇年代「党」に対して想いを馳せても、熱烈に信任することは無かったようである。もちろん、この頃行なわれたという宮本を再評価する動きに、竹中は関係していないと思われる(いわゆる無謬論の主張)。が、文脈をみると、シンパセスティックな感は抱いていたようだ。この記述ののち、「同志諸君、右へ倣え!」と、右翼と目される人々に期待を向ける。同時に、当時は社会党に一端の可能性をみていたようだ。 (4)『ルポライター事始』 [時代・社会背景] 一九六二年 昭和三十七年(満三十四歳) 六〇年春から、六二年夏まで中野区沼袋に暮らす。「女房ドノ」(と竹中は著作内で呼んでいる)、子供二人と六畳二間の間借り生活を送る。 九月一日、「女性自身」婦人カメラマンと巷のカップル観察(『処女喪失』のデータ収集)のため、皇居前広場のパトロールに同行する。十二月、新潟県(?)長岡市駅頭に降り立つ。取材のため小木へ向かい、「ござんや」という旅館に泊まる。 〔竹中労の人格とその後の著作に関わる出来事〕 ルイ・アームストロングが来日した際、プログラムに「ズールーの王様」という短文を載せる。 総会屋上森子鉄(本名健二郎)、ミニコミ誌「キネマ旬報」社社長に就任する。 党派・組織に身を置いていた際、「アジテーションの天才」(?)といわれる程ぶちまくった竹中であったが、共産党を離れてからは口演をするのを断るようになったらしい。竹中は、パネルディスカッションなど会議・討議においては声の大きさともあいまって、敵なしと自認するほどぶちまくったようだ。もちろん、逆に「敵」になった人物も多いのだろうが。 Aデータと評論 [「週刊女性自身」と竹中労および、当時の言説空間] 備考 ときは週刊誌創刊ラッシュ、五六年二月に創刊した新潮社の「週刊新潮」をはじめとして、旺文社の「学生週報」、東西芸能出版(後に徳間書店)の「週刊アサヒ芸能」。五七年に河出書房(後に主婦と生活社)の「週刊女性」(茶本繁正や木部慶助、道田国雄などが働いていたが、後に草柳大蔵に呼ばれ「女性自身」へ)。五十八年に双葉社の「週刊大衆」、集英社の「週刊明星」(梶山季之)、実話出版の「週刊実話」。五十九年には朝日新聞社から「朝日ジャーナル」、講談社から「週刊現代」(広岡敬一など、広岡は二週間に一回の割合で「女性自身」に原稿を書く)、文芸春秋社から「週刊文春」(梶山季之が特ダネ記事や、トップ記事を製造してゆく)、平凡出版(現・マガジンハウス)から「週刊平凡」、時事通信から「週刊時事」、中央公論から「週刊コウロン」などなど、相次いで創刊した。 当時「女性自身」編集長・黒崎勇、副編集長・井上清(後に二代目編集長、六〇年四月に肋膜炎を患い入院、五月に急逝?)、桜井秀勲(後に三代目編集長)。政治・経済・社会問題を担当するのは草柳大蔵グループ(アンカー・草柳大蔵を筆頭に斉藤克己、松浦総三、平沢正夫、茶本繁正、木部慶助、道田国雄などの取材記者。主に社外記者で構成されていた)、芸能記事を担当するのは竹中労グループ(金子茂、森彰英など。社内の内部特派員で構成されていた、竹中はアンカーだけでなく実際に取材していた……?)。特集記事担当は藤本恭グループ(長尾三郎、浅井清宏など。六四年一月に児玉隆也が担当デスクに)。皇室関係の記事は松崎敏弥。 記事構成は@ワイド記事(特集・皇室ものが中心)A事件・芸能・スポーツ記事などB情報記事(映画の上映日時、催し物の開催日など)C実用記事(世間間でうまく生きていくための記事、というかほとんど広告)Dトピックス(出来事の一覧表)E連載小説・エッセイなど。 当時の「女性自身」は、現在刊行されている「女性自身」と路線がまったく違う。 現在に置き換えて言えば「アンアン」「ノンノ」「キャンキャン」など、町で持ち歩いていても違和感なく、むしろその雑誌を持っている事に対して他者から好感を抱かれるような感覚が、流行(=ファッション)としてあった。つまり、「女性自身」を持つことがそのままアクセサリーになるという感覚が共有されていた。 当時の「女性自身」の表紙は、金髪の外国人が竹竿を持っている姿(?)を「全身」が写るようにカットし、表紙を飾る記事の題字も限定する。天の部分に赤い文字で「週刊女性自身」と書いてあり、ときどき、そのレタリングをかえている。コラージュを使わず、シンプルに一色でまとめる。その一色が映えるのは、当時としてはめずらしく、四色刷りでなく、六色刷りであったためであろう。 女性自身の発刊は、正田美智子と皇太子の「テニスコートの恋」の一ヵ月後である、昭和三十三年十二月だった。 皇太子と「平民」出身の正田美智子の結婚は国民から歓迎された。《皇室は皇太子妃を民間から迎えること、そして二人は恋愛の末に結婚に至ったということ――この二点を、数多くの国民は戦後日本の民主化を象徴する出来事として受け取った》(『ミッチー・ブーム』)。その登場から、正田美智子は「女性自身」やその他週刊誌で、読者と「等身大のファッションモデル」として存在していく。 「女性自身」は編集長・黒崎勇の意向が多分に反映された編集内容で、「硬派な社会派暴露雑誌」として人々に認知されていた。黒崎は「上品な暴露路線」を企図していたが、現在の週刊誌でよくみるような「暴露路線」ではなかった。つまり、「暴露」のなかに、上品さが窺われなければならなかった。《安手の夢を詰めこんだ、というより「スター」と大衆を近づけようとした、あるいは大衆の日常にまで引きずりおろそうとした》「暴露路線」である(1)。そこに、人間の「内面」の同質性を強調していたとみてもよい。編集部は、その欺瞞ともいえる「美しさ」を、読者大衆の、ある種の無垢さと屈託のなさから受用する。それが、発行部数二十万部から三十万部に低迷していた「女性自身」を、百万部にまで伸ばす遠因となっていく。 文章はほとんどむくつけき男性ライター共が書いているようだが、男性から見た女性への「こうあって欲しい」という欲望を反映させた内容も窺われる。それは、編集長である黒崎の意向であった。《女性が内にもっている"男らしさ"に呼びかける雑誌にしたらどうか、という思いである。それなら、男性が多い編集部構成でもよいではないか。つまり、同性(女)が同性(女)に呼びかける雑誌にしようと、決心を固めた。幸い女性の意識の高揚が叫ばれ始めている。そんな折だからいけるのではないか》(『皆が"NО"ならやってみろ』著・黒崎勇)。 そして先に書いたように、芸能人、皇室、業界人や不特定多数の読者などを同じ誌面に載せる。その心情が、主に「手記」として、「スターと読者が同じ心情を持っているかのように」表出(引きずりおろ)される。 この時期の「女性自身」は、女性の「自立の精神」に依拠しながら、どのような女性であれば社会的に認知されるか、または、「女性としての実存」を深く「考える」ことを提供する編集方針であった。もちろん、「女性自身」だけでなく、各誌もそのような文面が強く窺われる。「文学」的にみれば、敗戦という去勢状態から自立的な精神性へ、という経過を辿っているかのようである。当時はまだ「活字の権威」があり、哲学的な文面で「心を着飾る」という、ある種のファッション(=流行)の提供が誌面から窺われる。 竹中はそれに積極的に同調し、主に教養欄、芸能欄のアンカー・ライターとして仕事をこなしていく。当時「女性自身」のデスクだった高橋呉郎の言、《竹中労といえば、芸能スキャンダリズムの元祖と目されているけれど、すぐにキバをむき出したわけではない。当初は、映画俳優や歌手の人情話風の読みものが多かった。あえて深読みすれば、「娯楽産業資本に虐げられた芸能人」という竹中風の解釈が読み取れる、という程度だった。黒崎が竹中を貴重なライターと認めていたのも、コワモテの芸能記事を期待したからではなかった。いちど竹中がピンチヒッターでリライトした旅の記事を読んで、「リズム感があって、風景描写がうまいのに、びっくりした」といっていた》(9)。 この時期のライターとして有名なのは、読売新聞の記者だった作家の三好徹、共同通信社でのちに戦史研究家となる児島襄、毎日新聞記者で従軍慰安婦のドキュメントを書いた千田夏光、早稲田派作家の武田繁太郎、「ノストラダムスの大予言」五島勉などであった。 竹中は「女性自身」のなかで次第に力をつけていき、六二年から六四年までのあいだ、草柳大蔵と二分する派閥を形成する。竹中グループは地方紙、夕刊紙、団体の機関紙などの出身者が多く働いていた。データ記者の筆頭として金子茂が挙げられる。他に、森彰英、小松みどりなど。竹中グループは外部の記者とも懇意となり、様々なところから情報を仕入れてきた。矢崎泰久は、竹中が「女性自身」を辞めるまで様々な企画を手伝っている。このとき竹中は、南部僑一郎をリーダーとする「Nプロ」という、もっぱら記事作成をする組織を設立していた。南部僑一郎は名前のみ貸すという立場であった。 竹中は、編集部から「ぶんどった」取材費を湯水のように使った。《教養記事で与謝野晶子を取り上げたとき、竹中は「みだれ髪」の初版本を会社に買わせた。十数万円したが、本物を見なければイメージがわかないという理屈が承認された》(1)。生涯を通じて、それは変わらなかったため、竹中と喧嘩する人間が後を絶たなかった。竹中の活躍の影で、多くの編集者が辞めていった。 こなた草柳は、元総合雑誌の編集者、農業問題研究家、国立大学の英文科出身だが薬害問題に切り込んでいるライター、戦後史の研究家など、総合雑誌の目次のような顔ぶれであった(1)。竹中グループが戦後の焼け跡散策と労組等を経験した人間が発する、野良猫のような香りを発散させていたのに対して、草柳グループは、(草柳が)婦人雑誌のグラビアに登場し、取材相手によって紺を着分けていたことに象徴されるように、戦後の焼け跡や労組の地味さの欠片も無く、「スマートなダンディズム」を売っていたという部分である。《「女性自身」が「男が読んでも面白い雑誌」といわれて市民権を得たのは、優れた取材者であり、書き手であり、編集者だった草柳大蔵の存在が大きい》(『無念は力』著・坂上遼)。 その対称的な両者を、黒崎勇はうまく「編集」していた。 《芸能誌といわれ、皇室雑誌と呼ばれ、実用誌とも称される。右翼もあれば、左翼も拒まない。対立する極論と極論が平気で同居する――それでいいではないか》(『皆がNoならやってみろ』著・黒崎勇)。 「デパート編集」をする「総合雑誌」の誕生である。 とはいえ、誌面のまとまりは非常によい。編集、アンカー共々、紛れもないプロ集団であった。そして、売れるからには訳があった。編集者、ライター共々、現在からみても「超豪華メンバー」であろう。彼らのマーケティングセンスが功を奏していた。 その頃の「女性自身」の得意技は、夫婦の離婚・別離などの記事である。それは、そのまま竹中の出番であった。 《草笛光子と芥川也寸志(一九六二)、森光子と岡本愛彦(六三年)、有馬稲子と中村(萬屋)錦之助(六五年)、芸能人の別離のたびに「女性自身」は記事を伸ばしていった》(2)。その他、「もう一度私の曲を/兄・宮城秀雄を失った宮城まり子」、「女優と恋と友情と/シナリオ作歌南田洋子の誕生まで」、「女ひとりブルースを歩いて/淡谷のり子の恋と人生と歌」などである。 この文脈は「竹中節」として、主に文筆業にたずさわる人々に多大な影響を与えた。芸能記事といえば竹中労である、という認識がほとんど共有されていた。この時期は無署名かもしくはゴーストライターとして文章を発表していたが、その「アカっぽい」美文とでもいうべき文面から、「この記事は竹中労が書いたな」とわかる仕組みであった。現在からすれば不思議かもしれないが、週刊誌を読む多くの人が、最初に見るのは「小説」であったという。もちろん、竹中の書いた記事も、「小説のような一つの人間ドラマ」として読まれていたのではなかろうか。 後年に、竹中労は「芸能記者の草分けであり芸能記事の開拓者」と呼ばれ、今に続く芸能ジャーナリズムの基本的スタイル(独占手記・特別スクープ・全告白・心の告白など)をつくった、もしくは定着させたといわれている。関川夏央によると、竹中の芸能記事の作成方法は以下のような独自の手法を用いた。 《まず、書き手は芸能人に密着していて、取材は一対一の関係が基本と考えられている。人生相談のにおいさえする。そして、書き手の「私」(竹中)はよく意見を言う。その意見は決して反社会的なものではなく、むしろ常識的、良識的でアナーキスト竹中労の面影は少しも感じられない(中略)つぎに、竹中労の芸能記事にはいわゆるコメントというものがない。誰かの意見というか事件に対する感想がカギのなかに引用されて、最後のカッコ内に発言者の名前がある、現在の代表的な週刊誌の技法がまったくといっていいほど見られないのも特徴である(中略)作文技術的に見れば、彼の記事には長い段落がない。最大は十二行、のぞましいのは七行、そしてところどころに二、三行短いのをはさんで白地を多くし、リズムをつける。むずかしい言葉をわざとはさむ。はずかしがらずに流行語も使う。これらは竹中労が開発した芸能記事ノウハウである。有馬稲子の発言の前に「……」と"ためらい"が入る。これも彼のオリジナルだそうだ》(『芸能人別帳』)。 「ためらい」の下りは、恐らく竹中のオリジナルでもなんでもないのだが、彼が独自の手法を用いたのがよくわかる文章である。竹中はそのような文体を多用したと、ここでみることができよう。 毎日新聞読者世論調査の「いつも読む週刊雑誌」によると、「女性自身」は「週刊朝日」をおさえ、六四年、六五年、六九年に一位を獲得している。六九年には発行部数百十六万部のうち九五・五%を売り上げ、「女性自身」は「発行部数百万部になりました」「首都ОLの三人に一人は読んでいる」とうたった広告が、六九年五月二日付けの朝日新聞朝刊を飾った(1)。 この購買者の増大と並行して、六三年に河野みち子・マコの往復書簡『愛と死をみつめて』の発刊を契機として、多くの人々の間で手記ブームとなっていく。同書は、一年間で百万部を超える記録を叩きだした。ブームに便乗して、映画、テレビドラマ、ラジオドラマが放映・放送された。『彼女達の連合赤軍』(著・大塚英二)によると、このブームの主体は女性たちであったようだ。 当時の「手記ブーム」は、サブカルチュア的な言説空間として存在していた。それはそのまま、女性や大衆の「内面」の発見→獲得の運動であった。「内面」と「表現」の回路が直結されたかのような言説空間であると、みることができる。 この言説空間から影響を受ける彼女(読者)達を、竹中は「大衆の受苦とそのまなざし」として捉えた。彼女達に、自らが依拠すべき大衆性をみい出していった。もちろん、ここで筆者がいっているのは、「読者の獲得」をしていくという意味である。同時に竹中は、彼女達の指導的役割、というアホな自意識があったのかもしれない。竹中にその種の自意識は無かったとはいい難いが、後年のような破天荒な文面は「女性自身」内には見当たらない。しかし、書き手は少なからず「自由にやれた」のである。 話が逸れるが、「女性自身」を六〇年安保闘争と社会背景をパラレルにみるなら、事実上ナチ的な構成といっても過言ではない。無論、これには時代背景もある。戦中の「暗い記憶」が共時の体験として共有され、過多に「民主」なる概念に傾いていくかのようであった。 この「民主」の中心に「皇室」が存在していたと筆者はみている。象徴天皇制度は、「ミッチー・ブーム」の流行と共にあった。メディアの変質と、文化記号論的なコマーシャルイメージの流通と共に、日本全土にマイホームという「皇室」 |