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竹中労 年譜およびデータ集成

岩崎 孝正 200706



 序にかえて
 この年譜を、一つの取材ノートとして読んでいただければ、幸いである。
ちなみに、彼のテクストは、虚偽意識でいっぱいである。


■[竹中労のサイズとルックス]

六〇年代   身長一六六p  体重七十五s
    七〇年代前半         体重七十九s程度、徐々にふえる
    七〇年代後半         体重九十s程度
八〇年代前半         刺青を彫ったため・神経痛のため体調不良で十s減、八十s以下に落ていく 
    八〇年代後半         病気のため徐々に減り体重五十五s

■[特徴]
  話す際、いつも声が大きい。大言壮語が身に馴染んでいるかのようである。
  原稿書くときは、唸りながら書く。あついときは、上半身裸になって書く。
  俳優・金子信雄に顔がよく似ている。顔は母親似(?)のようだ。六〇年代後半から髪の毛が薄くなる。女性自身記者のときから、少しずつ。
  ときたま(突然)、説教たれる場合がある。
  よく「あったかのような嘘」をつく。
  酒量の一定量を超えると、キレる。
  取材対象や対談相手をナメてかかる場合がある。

■年譜 

[時代・社会背景]
  この年の翌年、ウォール街株式市場が暴落する。
  第一次対戦後から、日本の領土面積は拡大していく。
  竹中英太郎は下落合に家を借りていた。一辺はまだ田舎で、あちこちに畑がある。熊本出身者がかたまって住んでいる場所が下落合にあり(熊本人村と呼ばれた)、小雑誌編集者・橋本憲三、「母系制」研究家・高群逸枝、作家・小山勝清などが住んでいた。みな貧窮していたためか、家があるとなればすぐ同郷の者が転がり込んできた。映画作家・牛原虚彦の「象牙の塔」のシナリオを書いた歌人・美濃部長行は、この頃下落合の英太郎の借家に転がり込んでいたようである。現在から考えると迷惑な話でもあるが、困った際に下落合の人脈を辿ると、解決策がみつかることもあったので、彼らが住む下落合は「もちつもたれつ」の関係をかたち作る自治区の役割を果たしていたといえる。戦前のこのような光景は、日本のどの地域にもみられた。福島県出身の筆者の祖父も、竹中英太郎と同じように、いわゆる「血族の面倒をみる生活者」であった。この頃は、血族間での社会保障(セーフティーネット)が機能していた面が強い。それは、「貧しさ」の感覚とパラレルであろう。
  一九二六年頃、竹中英太郎は文芸誌「苦楽」編集長である西口紫溟の世話になっていた。英太郎は彼の仲間内にいた伊津野八重子と出会う。同じ熊本出身とあってか、似たもの同士だった二人は恋に落ち、程なくして所帯を持った。しかし、伊津野八重子はいわゆる当時の「新しい女」達にシンパセスティックだったためか、もしくは、インテリ風な「良識」を持っていたために、英太郎の目には《しっかりしていると見えた八重子の性格が、実は以外にきつかった》と写った(1)。心は次第に八重子から離れていき、仕事も軌道に乗ったかのようであった。が、二七年の秋頃には、八重子の腹は目に見えて大きくなりはじめていた(?)。英太郎は、その頃横溝正史の依頼を受け、『陰獣』の挿絵を描き、一躍画壇のスターダムにのしあがる。
  そんななか、長男・労が誕生する。

  一九二八年 昭和三年(満〇歳)
  三月三十日、東京都牛込区肴町で父・竹中英太郎、母・伊津野八重子の長男として出生する。父は当時、博文館編集部に通い、『名作絵物語 虞美人草』(夏目漱石)、『嗣子』(松本泰)『死后の窓』(夢野久作)などの挿絵を手がけ、江戸川乱歩の再起作であった『陰獣』をきっかけにして一躍流行挿絵画家となる竹中英太郎。母は御茶ノ水高校を卒業し、いわゆる「新しい女」にシンパセスティックだった伊津野八重子。
  名は、二八年書かれた臍の緒の袋書きで「乱」とあるらしい。生後百日目、母・伊津野八重子に抱かれ、父・竹中英太郎の親の移住先である福岡市博多と、母・伊津野八重子の地元の熊本に汽車で向かう。父母は、《九州熊本の実家に初孫を見せに行く旅》(2)と、水平社の《松本治一郎に抱かせる》(3)旅に向かった様子である(この部分の真偽は定かではない。松本治一郎のくだりはつくり話であろう)。竹中労の生まれは、恐らく三〇年である。二八年というのは、恐らくつくり話であろう。(ごめん。さっきの話は無かったことにして)。

   [参考文献]
  (1)『美は乱調にあり、生は無頼にあり』(批評社)
  (2)『逆桃源行』(三笠書房)
  (3)『いま、君に牙はあるか』著・野村秋介 

  [時代・社会背景]
  竹中英太郎は仕事が忙しいという理由で家を出ていた。神田の旅館に居続け、そのまま母・八重子と別居する決心をする。《できることならば、二人の仲を清算してしまいたかった》(1)。

  一九三〇年 昭和五年(満二歳)
  八重子は生活費を稼ぐため、労を親戚の家に預ける。こののち、引越しをくりかえし、親戚の家を転々とすることになる。が、幼少時のほとんどを「芸者町」で過ごしたようだ(2)。この頃から尋常小学校入学まで、《母方の祖母にぼくは育てられた》(3)。
  竹中英太郎により、名が「乱」から「労」に改名される……らしい。鈴木義昭『夢を吐く絵師』によると、英太郎はサンジカリスト(労働組合主義)で、もしかしたら、最初から「労」だった可能性がある。なぜ、「乱」としたのだろうか。英太郎が大杉に心酔していたからか。その可能性は薄い。アナキストというよりも、英太郎はサンジカリストとしての面が強い。竹中労が、英太郎をアナキストとしてみたのは、恐らく「自らの名の由来」に端を発しているかと思われる。それは彼なりの、愛情表現なのだろう(歪んでいると思うが)。
  もし手前の名の由来を竹中労自身が勝手につくりあげていたのだとしたら、いやはや、かなり恐ろしい性癖ではあるまいか。人間類型として社会に位置づけるのであれば、「肥大しすぎる自意識」(&歪んだナルシシズム)を持つ者とすることが出来る。筆者は精神科医ではないが、このような意識を持つ者は、(特に幼い頃の)トラウマティックな過去を引きずっている可能性が強い。そして、彼の主張は宗教性を帯びる場合がある。

  [参考文献]
  (1)『美は乱調にあり、生は無頼にあり 幻の画家・竹中英太郎の生涯』(批評社)
  (2)「サンデー毎日」(七二年十月十五日号)
  (3)『たまの本』(小学館)

  [時代・社会背景]
  英太郎は三四年の春、平島つね子と神保町のすずらん通りのカフェー「坊ちゃん」で出会い、四〇年に結婚する。この間に、隠し子である千鶴を、某女子に産ませている。
  父・英太郎はもはや絵筆を折っており、三九年、東京都品川区大井北浜で鉄工場を経営している。四〇年、再婚と同時に伊津野八重子との関係を清算し、労を手元に引き取る。

  一九三三年〜一九四一年 昭和八年〜昭和十六年(満五歳〜満十三歳)
  家庭の事情で、転居を(王子区志茂町・四谷・駒込・神楽坂)を四度する。三〇年から四〇年までの十年間、親戚の家を転々とする(?)。
  小学二、三年の頃、本の読みすぎで強度の仮性近視となり、読書を禁じられる。読んだ本は『日本文学全集』『世界戯曲全集』などであった。この頃父・英太郎の書棚から「新青年」などの雑誌類を、訳もわからず読むこともあったようだ(1)。後年になって、《幼少のころは"神童"と呼ばれる脆弱いデリケートな子供だった》(2)と、自身を評している。
  小学三年生(三八年)のとき、市ケ谷の小学校に通う。
  小学五年生(四〇年)のとき、労は牛込神楽坂で母・八重子と暮らし、その後品川区立会川へ移り住む。母・八重子に「男」ができたので、父・英太郎に引き取られることとなった。八重子は英太郎と離婚後、しばらくして東京で所帯を持ったようである。労は母・八重子と別れた後、《どっかで俺を見ていてくれるようなものに、大人になったらなりたいと思った》(3)ようだ。またも読書を禁じられた労は、再婚相手のつね子が母となり、複雑な気持ちとなったためか、《盗み・掻払い・喧嘩・カツ上げ》を繰り返し《近郷近在隠れもなき不良少年》(2 ※)となる。
  同年、労は品川区国民鮫浜小学校を卒業し、私立高輪中学に入学する。同校で剣道にいそしみ、ならんで地理学研究部に所属する(ここの真偽は定かではない。竹中得意のつくり話の可能性が強い)。
  四一年、太平洋戦争開戦とほとんど同時に、戦時企業整備により父・英太郎が経営していた鉄工場が閉鎖され、一族は路頭に迷う。労は、英太郎の姉(伯母)に預けられる(新井の従妹の家に寄宿という記述もある)。
  在学一年余で、甲府中学に転入学する。甲府へ向かったのは、鉄工場が閉鎖され、竹中家で疎開という話が出たためである。一足先に、英太郎とつね子が甲府へ汽車で向かい、四三年の六月に、父・英太郎が労を呼び寄せるかたちとなった。

  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕

  旧制中学時代には、出入りが禁止されていたにもかかわらず、浅草によく出入りしていた。川田義雄、アキレタボーイズを聴き、榎本健一の声帯模写をするなど、様々な音楽体験を持つ機会に恵まれた(らしい)。近郷近在隠れもなき不良でありながら級長を務め、全国綴方コンクール東京地区二位(小学五年次の春)、トンボ鉛筆の交通標語一位に入賞(「止まれ!まずみぎひだり」という標語であったらしい)、百人一首小学生日本一の栄誉を担っていた。末おそろしきアンファンテリブルであった、と竹中は記述している。音楽の成績は悪く《音痴は学校でつくられる》と『たまの本』内で書いている。
  《画家だった僕のオヤジは子供の教育に無頓着で、ギャング映画の『暗黒街の顔役』『デット・エンド』、チャップリンの『街の灯』、オッフェンバッハ"天国と地獄"の演奏ではじまる大都映画の冒険活劇――鳥人ハヤブサヒデト、はては毛唐の女が素ッ裸になる『春の調べ』というのにまで、手当たりしだいに連れて行ってくれた。オフクロのほうは、少し良識めいたところがあって、もっぱらタメになる映画しか見せてくれなかった。これが高峰秀子の『綴方教室』であり、『土』であり、『馬』であった。とりわけ『生活綴方』の印象は強烈だった。そのころ"生活綴方"運動というのが大いに流行し、豊田正子(綴方教室の原作者)という天才少女の名が喧伝された》(4)。
  《もっとも低俗とされていた(?)大都、極東映画の魅力を教えてくれたのは、(英太郎の鉄工場に勤める)後藤職長を筆頭とする若い工員たちだったのである。阿部九州夫、杉山昌三九、隼秀人、大乗寺八郎、近衛十四郎、藤間林太郎、そして水島道太郎といった大都映画のチャンバラ、活劇スターたちはオッフェンバッハの「天国と地獄」のメロディに乗ってあらわれ、少年の情緒を煽動した。雲井竜之介、綾小路弦三郎といった極東の立役は、子ども心にも何かもっさりとしていて好きになれなかった。新興の大友柳太郎、羅門光三郎、市川男女之助と、スターの好悪はひろがっていったが、やはり何といってもアラカン、バンツマのほかに神はなかった》(5 ※ カッコ内筆者注)。この時代の「映画」とは何であったのか、七四年当時の日本映画はどのような道程を辿ってきたのかを明らかにする、現行(七四年当時)の映画史とその上に立脚するアカデミズムへの異議申し立てである(と、竹中は自らの論理をぶちあげる)三部作、『日本映画縦断』を書くきっかけとなる。しかし、これは恐らく「捏造された記憶」、もしくは竹中自身のレトリックも含まれているのではなかろうか。資料に基づいて、後付けされたものも含まれるかと思われる。
  この頃竹中は、学校の先生の教育の影響で、漢文に限りない親しみを覚える。竹中の友人であった井家上隆幸によれば、竹中の美文というべき文章は、《漢文をかなり勉強した者にしか出来ない文章》であるらしい(6 カッコ内は筆者注)。また、学童たちと、学校では廃止されカリキュラム入っていない英語を習うべく、毎晩山を越えて先生のところへ向かい勉学に勤しむこともあった(年代特定できず)。後年、《中学三年を了えたとき、クラウン・リーダーの5まであげちゃった》といっている。竹中が外事専門学校に入学できたのは、クラウン・リーダーを修得したためであったらしい(7)。竹中は、「英語はキングス・イングリッシュで話せる」と豪語していたが、もちろんそれは嘘っぱちのようである。ちなみに、この頃英語を話せる人間というのは、「英雄」あつかいされていたようだ。
  この頃《下谷車坂、稲荷町、神吉町、万年町細民街、浅草六区、花屋敷、五重塔。山谷の泪橋界隈、日本堤。三階建ての豪勢な家が建ち並んで、森としていたあれは吉原、深川八幡、人形町、水天宮。旧東海道、ジェームス坂、お台場の見える海》などを歩く(8)。竹中は鉄工場の倅ということで、いわゆる「中流の家庭」に育ったといえる。
  この頃は、四・二・五・三・三制である。尋常小学校、高等小学校、旧制中学……という制度になっている。
  
  [参考文献]
  (1)『たまの本』(小学館)
  (2)「週刊読書人」七一年七月二十六日号
   ※ちなみに、当時は喧嘩が日常茶飯事で、皆が不良少年といっても過言ではない背景がある。
  (3)『ちんこんか―ピンク映画はどこへ行く―』著・野上正義
  (4)『くたばれスター野郎 芸能界こてんこてん』(秋田書店)
  (5)『日本映画横断1 ――傾向映画の時代』(白川書院)
  (6)「中州通信」九八年三月号
  (7)『竹中労の右翼との対話』(現代評論社)
  (8)『仮面を剥ぐ』(幸洋出版)
  
  [時代・社会背景]
  この頃、父の教え(躾)を守りながら、皇国少年的な態度に傾く。「死」と対峙せざるを得ない当時の青少年達と変わらず、宗教書・哲学書・文学書などを読みふけっている。特に「聖書」は、竹中に多分の影響を与えた(らしい)。
  竹中が通年動員されたという部分は事実のようだ。が、教官に反抗し続けていたという部分は怪しい。海軍の特攻機の「秋水」の燃料をつくっていたという部分も、やはり怪しい。なぜかといえば、「秋水」が作られたのは四四年十二月で、彼の発言のつじつまが合わないのである。とりあえず、彼の「発言」に基づいて、年譜を整理してみた。が、恐らく彼の「捏造された記憶」の面が強い部分もある。
  
  一九四二年〜一九四五年 昭和十七年〜昭和二十年(満十四歳〜十七歳)
  四三年六月、父・英太郎に呼びよせられ山梨県甲府市に疎開する。甲府は、父・英太郎の再婚相手のつね子の出身地であった。竹中一家は甲府市御納戸町(御納戸小路)に住んでいた。労は数日後、山梨県立甲府中学(旧制甲府中学)に転入学する。
  四三年十月一日、労は中学三年生のとき、神奈川県大船の海軍航空技術廠の第一燃料廠(マル呂研究室)へ通年動員と決まる。海軍航空技術廠内では、客船を改造した空母、爆撃機の試作機がつくられていた。「桜花」「震洋」「秋水」などがそれである。
  四四年二月、(実習学生時代に)教師に反抗的な態度をとったため、暴行され右瞼裏に失明寸前の裂傷を負い、一度目の入院。同年五月二十九日の夕方、工員につられて工場の裏山にのぼり、B29爆撃機の編隊が頭上にひっきりなしに通過し、機首を転じて南に飛び去る光景をみる。翌朝に「横浜は全滅だ」という噂をきき、それを確かめるため、二日後の五月三十一日の午後、救援物資を運ぶトラックに便乗を志願し、横浜に向かい焼け跡を歩く。《それは、生涯決して忘れることのできない、すさまじい光景であった(略)……まだ、あちこちで火を吹いている焼け野原のむこうに、海がみえた。青く光っていた。見わたすかぎり、巨大なローラーでならしたように、ぺちゃんこにひしゃげた瓦礫の堆積であった。ぶすぶすと余燼をあげる赤黒い焦土に、顔が煤でまっくろの男とも女ともつかない人間達がさまよっていた。頭や腕から血を流し、血を流したまま立ちどまったり歩いたりしていた。彼らはもと自分の家があったはずの焼けあとで身寄りの屍を探しているのであった。死体はいたるところに、ごろごろ転がっていた。黒こげのサンマのように皮がむけて、橙色の肉がはじけていた(略)胃の腑からつきあげてくる嘔吐に、私は耐えられなくなった。走っていって、瓦礫の間にしゃがんでヘドを吐いた。涙とヘドが、いっしょに堰をきってあふれた。泣きながら、ヘドを吐きながら、「死にたくない」と思った。強烈に思った。そのいっぽうで、この非道な殺戮に復讐しなければならないという血なまぐさい怒りがこみあげてきた。五月二九日、アメリカ軍はB29など六〇〇余機の編隊で、横浜市を無差別爆撃した。市街の多くを焼きはらい、一〇万人の市民を殺した。死者のほとんどは女であり子供であった。私は、そのことを決して忘れない。》(1 カッコ内は筆者注)。
  四四年三月から翌四五年八月の終戦まで、海軍最後の特攻戦闘機「秋水」の燃料である過酸化水素の濃縮液を、二交代制の労務で製造する(1 ※)。この間に、防空壕掘りに配転され、その後さつま芋植えを行なう。余暇に「鎌倉文庫」(鎌倉文士が経営する貸し本屋)に通う。ここで、店番をしていた久米正雄と二、三会話をする。この頃、教師および海軍ポリスに反抗し《三日にいっぺん殴られ》ており《ことごとに制裁の対象とされ》ていたようである(2 ※)。
  四五年八月、教師の鉄拳制裁により全身を殴打されたため、敗戦は大船町海軍病院のベッドの上で迎える。《食事も薬もあたえられず、全身をシラミに噛まれながら、衰弱してゆく思念は不思議と"死"を思わなかった。「オレは死なない。死んでたまるものか」と思いつづけた》(3)。《戦争の末期になると家に逃げ帰るものが増えたが、私は敗戦のその日まで頑張った(略)硬派の不良少年の意地をつらぬいたまでのことだ》(4 カッコ内は筆者注)。病院から引き揚げトラックの担架にくくりつけられるようにして甲府市に帰される。帰ってきた甲府は、「甲府空襲」により全市の六四%が焼失していた。市の焼け跡の光景が、労の目に映った(3 ※)。
  四五年十月、父・英太郎の指導で甲府中学ストライキを指揮する。父の意向は、戦犯教師追放であった。労はその意向を受け、初鹿野宏などを中心として学生達とストライキを行う。《永井校長の俳斥が決議されて、生徒たちはまず県庁へ押しかけた。そこで玄関払いにされると、今度は学校教育課長の官舎へ出向き、面会を強要して気勢を上げた。校内で公然とびらやプラカード作りが行なわれ、各クラスでは教師に議論を吹っかけての吊るし上げが日常化した。教師たちは同調したのではなかったけれど、校長への反発やいろんな思惑もからんでいたから、授業らしい授業も行なわないで日が過ぎた》(5)。指揮者の中には共産党関係者も含まれていたが、《指導部は突っ走る労に終始引きずられている印象であった》ようだ(5 ※)。後に「竹中英太郎伝 乱調・無頼のうた」を書いた備仲臣道は《この頃はまだ思想と言えるようなものは彼の内部に形成されておらず、げんこつ親父に背を押されるままに、性格の嬌激さにまかせてぶつかっていっただけのようである》と、明解な分析をしている(5)。ストライキが成功し、甲府中学校長・長井徳潤に辞意を表明させるまでに至る。が、ストライキが収束に向かうと、学校側から労や初鹿野に退学勧告書が出された。
  労はこの後、東京外事専門学校(現・東京外語大)露学科に合格したため、甲府中学校で四学年修了資格扱いとなる。入学の理由は《ドストエフスキーを原語で読みたかったため》とあるが、真偽は定かではない(6)。その他の入学理由は、竹中一家が貧窮していたため、《学費が一番安い》外事専門学校に決定した、などである(2)。
   進学先が決まった労は、翌年の四月に上京することになった。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  戦時中、李香蘭の「夜霧の馬車」という歌に魅かれる。初恋の相手は李香蘭だったと、晩年竹中は語っていた。
  この頃、千葉千胤という教師に、国漢を教わる。樋口一葉、徳田秋声、石川啄木、芥川龍之介、宮沢賢治など、様々な本を彼から貸してもらう。しかし、学徒は、学業全面停止のところが多かったと聞くが……。
  竹中が病院に入院するのは、一生に二(三?)度だけであった。八五年まで、健康保険を持たなかったようである。生涯、国勢調査に応じず、国税局に所得を申告せず(還付金不要)、国民宿舎に泊まらず、年金に加入しないという、国家に対して一貫したアナーキストぶりをみせると、『無頼の墓碑銘』内で自身は語っていた。が、これはもちろんパフォーマンス的な発言であろう。
  
  [参考文献]
  (1)『完本 美空ひばり』(ちくま文庫)
  ※皮肉にも、「秋水」は対B29の戦闘機として開発されたものであった。竹中は本書で、「秋水」が特攻用の戦闘機のように書いているが、初期の計画では、特呂二号噴射式発動機で高度十キロメートルまで三分で一気に上昇し、搭載している三十メートル砲で一撃を加える予定であった。しかし、本書で竹中が《きっと敵にぶつかる前に失神してしまうにちがいない》と考え、特攻隊員の心情を思うのは、当戦闘機の性能をみれば妥当であるといえる。が、恐らく六〇年前後に参照した『美空ひばり』を書くための資料に基づいて想起された、「捏造された記憶」なのかもしれない。ちなみに「秋水」は、四四年十二月初旬に試作機が完成していて、翌年七月七日に追浜飛行場で試験飛行が行われた。が、燃料タンクの不具合により墜落した。この事件と、当時の労務内容について、後年にこう回想している。海軍航空技術廠内では《追いまわし、というやつ、下働きをやっておりました。ところが若い技術将校たちは、研究にまるで身を入れようとしない。アミノ酸とアルコールで合成酒をこしらえたり、サッカリンをつくったりしている。戦時下の愛国少年としては真にハラが立つわけですよ》《率直に聞きました、こういうことをやってよいのか・戦争に負けますよと。(略)すると「敗戦はもう決まっている。秋水は二度のテスト飛行で、機体も搭乗員も粉々になってしまった。これ以上、むざむざ人間の挽肉をつくるような、バカげた実験など真平ごめんこうむる」 ショックでしたねえ、竹添という東大出の大尉でした。この人に可愛がられて、高等官食堂でメシ食わせてもらったり、寮につれていかれて、押入れの中でボリュウムを落としてレコードを聴いたり》(9 カッコ内は筆者注)。海軍航空技術廠(空技廠)は、海軍航空機に関する研究、試作、性能研究等を担当していた。本廠は主として機体、原動機、航空医学、搭載兵器の一部、支廠は搭載兵器の大部分を担当している。
  竹中のこの体験はのちに『たまの本』内にも書かれる。
  (2)『竹中労行動論集 無頼と荊冠』(三笠書房)
  ※反抗しなくとも、生活上で何かの間違いや、「非国民」と判断できる発言を聞かれれば、当時は教師や上官に日常茶飯的に殴られていたようである。しかし、竹中は繰り返し反抗的な態度をとっていたと記述している。彼の性格は激越なものであったと誰もが証言しているので、この記述は過剰な表現であるかもしれないが、本書から引用させていただいた。
  (3)「潮」六六年三月号 
   ※この点については、竹中の記述が『天皇制と靖国』『日本映画縦断』「潮」六六年三月号内で重複している。この年譜では『日本映画縦断3』の体験を引用させていただいた。井家上隆幸によれば「暴行され、担架にくくりつけられるようにして甲府に帰されるって書いてあるけど、竹中労の甲府の友人に話を聴くと、事実は少し違うようだ」(談)らしい。
  (4)『天皇制と靖国』編著 二葉憲香・梅原正紀(現代書館)
   ※戦後にこのようにいうとは、やはり彼の戦中の傷の深さが窺い知れる。が、あまりいい性格の人物とはいえない。
  (5)『美は乱調にあり、生は無頼にあり 幻の画家・竹中英太郎の生涯』(批評社)
   ※鈴木義昭によれば「英太郎に導かれてストライキを行なったとあるけど、どうもそれは間違いで、労さん自身が一人で始めたのではなかろうか」との話であった。英太郎は、共産党と仲は芳しくなかったようである。が、皇国教育が身に馴染んでいた者にとって、そう簡単にストがおこせるとも思えないが……。竹中の場合、英太郎の影響もあってか、「右翼左翼関係ないところで育った」と思われる。とすると、彼らの触発を受けたて行動したのであろう。
  恐らく、彼が精神的に依拠したのは、廠内での暴行されたうっぷんであろう。一方で、この頃からオルグ能力・組織者としての気質が芽生えていたのかもしれない。それは小学生のときの「級長」の感覚であったに違いない。しかし、このストライキを一人で行なったというなら、なかなかの智略家である。
  (6)「週刊読書人」六九年九月八日号
  (7)『日本映画縦断3 山上伊太郎の世界』(白川書院)
  (8)『黒木和雄 年譜』(映画同人社・黒木陽子発行)
  (9)『人間を読む』(幸洋出版)
  
  [時代・社会背景]
  北海道(函館)は、日本とは思えない異国情緒溢れる町であった。戦争の傷痕、焼け野原もなく、アイヌの人々が「北海道・独立すべし!」というビラを配っていて、当時としては非常に自由な雰囲気があった。が、娯楽と呼べるものは「盆踊り」しかなく、皆はなにもないので、一様に踊りまくっていたようだ、と竹中は回顧している。盆唄に踊り狂う人びとを見て、危険を感じたGHQは禁止命令を出したらしい。
  四五年七月、北海道にも空襲はあり、死傷者は八百名余、重軽傷者は二万人余いた。空襲された場所も竹中が行った重複している。恐らくだが、竹中が北海道に向かったのは、戦後ではないのかと、筆者は考えている。しかし、竹中が所感派の末端の党員であるなら、徳田球一に従って、シベリア
  実際北海道には行ってないのではないかと、筆者は推測している。だとすれば、徳田球一の演説や、鈴木東民の演説を聴いた云々のくだりも怪しいものである。
  のちに書くように、竹中はこの頃「運動」なるものに全く関係していない。
  
  一九四六年 昭和二十一年(満十八歳) 
  四月末に上京するも、東京外事専門学校の校舎は戦災で全焼していた。学校は上野の音楽学校に間借りをし、合格者に一年強制休学を課すというシステムをとっていた(1 ※)。東京九段の学生会館(元は近衛連隊の兵舎、屋根は焼夷弾により穴だらけ)の九号室を仮の宿とし、在学浪人。映画と芝居を見て歩く生活が続く。五・一九食料メーデー(飯米獲得人民大会)の二十五万人のデモに参加、日本共産党書記長であった徳田球一と、読売新聞論説委員であった鈴木東民の演説を聴き《革命が明日にでも来るようなミ憤をおぼえた》後に《ゼニもコメもなくなった》ので、夜汽車で北海道・九州の親戚を頼りに、上野駅から放浪の旅に出発する(1)。
  音別で高校の教師をしていた大叔父をたずねて、北海道へ向かい四ヶ月放浪、《函館から長万部、小樽、札幌、帯広、釧路の町々、そして音別、中標津――地図にも載っていない開拓村、漁村を渡り歩いて、あの町この村で人びとが熱狂的に盆踊りに打ち興じているのを見ました》(2 ※)、《GIがジープで走っていた》(3)姿を見たのち、九州《大分県日田市》他に向かう(4 ※)。
  「七カ月の放浪」の間、書物をほとんど読まず、もっぱら百姓の手伝いをする。この年の秋に、疎開先である山梨県甲府に帰る。奇跡的に空襲をまぬがれた県立図書館に、一日の欠勤もなく通い続け、およそ五百冊の多岐亡羊、すこしも系統的でない本を二百日で読み終える。《もし私の読書歴に、辛うじて"一貫性"を求めるとしたら、それはドグマチックな"体系"に呪縛されることなく世界を見ようとする、自由な精神の営為だったとでもいおうか》(5 ※)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  この頃、泪橋界わいを歩く。敗戦直後、ジャズ喫茶「スイング」(水道橋)に通う(共に年代特定できず)。丸の内にあった煉瓦造りの三菱二十一号会館ソ連代表部で、ロシア映画無料鑑賞会に通い、「アレクサンドル・ネフスキー」「イワン雷帝」「母」などの作品を見る(6 ※)。同時にこの時期、性心理学者であった高橋鐵の著作を読みふける。
  北海道で民謡を知る。
  『山谷―都市反乱の原点』内に、この年の冬に在外同盟救出学生セツルメント要員として上野駅引揚者仮泊所で働くとある。が、恐らく記憶違いのようである。

   [参考文献]
  (1)『竹中労行動論集 無頼と荊蒄』(三笠書房)
   ※資料では、四五年四月十三日に戦災により校舎全焼、五月、校舎全焼のため、下谷区上野公園東京美術学校、図書館講習所、美術研究所内に移転し、七月から授業開始、とある(東京外国語大学ホームページから引用)。竹中は四月末に上京したが、何らかの手違いで(家に)「戦災により焼失」という報告がなされなかったのかもしれない。焼失し、一年強制休学しているとわかっていれば、上京することは無かったと思われる。この部分は竹中の記述に添って書かれているのだが、『無頼と荊冠』内にも「一年休学のシステムをとっていた」という部分は見当たらない。竹中はほとんど学校に通っていなかったと語っている。筆者は、彼は本当に通っていなかったと推測する。そのため、この部分はよくわからなかったのだと思われる。筆者は竹中労が所感派周辺にいたと推測している。だとすると、この外語細胞に、所感派周辺の人物がいたのではなかろうか。
  (2)『琉球共和国 汝、花を武器とせよ』(ちくま文庫)
  ※『人間を読む』内では大叔父の家に二週間居候とある。
  (3)『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・春と修羅(二)』(潮出版社)
  (4)『仮面を剥ぐ』(幸洋出版)
   ※九月半ばまで北海道に滞在したと、『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・春と修羅(二)』内にある。が、前述の『人間を読む』内のように、二週間居候だけであるなら、九月半ばまで滞在したことにはならなくなる。この辺りは、彼の記憶も不確かなようだ。帯広から夕張に向かう際に、「炭管」のラジオ放送を聞いていたと、『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・春と修羅(二)』内で回顧しているのだが、これも記憶に基づく内容なので、聞いていたか否かの判断はしづらい。したがって、「七ヶ月の放浪」の記述も暫定的な記録となる。恐らく彼が北海道に向かったのは、戦災の傷が癒えた戦後であろう。
  (5)「週刊読書人」七一年七月二十六日号
  ※『ルポライター事始』内では、暮れに帰郷と回想している。筆者の推測であるが、この年の竹中の「回想」はつくりがあると思われる。竹中は「自らの生き方を見事に論理化する」が、やはりどこかに「つくり」があると筆者はみている。もしかしたら、竹中は四月に上京せず、山梨にひきこもってずっと読書にあけくれていたかもしれない。
  (6)『芸能の論理』(幸洋出版)
   ※この事実は定かではない。
  
  [時代・社会背景]
  
  一九四七年 昭和二十二年(満十九歳)
  全官公庁共闘委が指導する「二・一ゼネスト」の中止放送(米軍のジープで運ばれた全官公庁共同闘争委員会議長・伊井弥四郎がNHKスタジオで放送)を飯田橋駅で聴く。その五日後の二月五日、当時学生同盟の委員長であった千田夏光を通じて日本共産党に入党、東京外語大の青年共産同盟の活動家、外語細胞となる。千田夏光は《誰の紹介だったか、ふらりと竹中が入ってきた。ここで(千田夏光の家で)竹中は、共産党の入党申し込みを書いたのは覚えている》と語っている(1 ※ カッコ内は筆者注)。竹中自身は《二・一ゼネストを総括して私たちは共産党に入ったのです》と語る(2 ※)。二月半ば、父・英太郎に絶縁状を送る(3 ※)。後に山梨県選出代議士となる古屋貞雄(社会党議員、甲府で農民指導に当たった人物)に慫慂され、春に在外同胞救出学生同盟に参加、引揚者擁護の運動にたずさわる。四月から上野駅地下道でセツルメント要員として活動。同月、引揚列車の添乗員として広島駅に降り立つ。この頃から、大坪白夢が主宰する詩誌の同人誌「フェニックス」で詩を書き始め、後に新日本文学会会員になるきっかけとなる(4 ※)。
  その後《「熊の部屋」と、なぜか称する代々木党本部の一室に呼びつけられ、書記長・徳球にじきじき叱責されて、小生は統制に服することを誓った》(5 ※)。外語大は、西武線上井草の旧電気通信学校にて授業は再開されていたが《夜も昼も駅頭に立ち引揚者を迎え、世話活動に献身する活動の中で、おいら外語に通うのを断念した、一年くらい休学してもいいやと、例のとおり行き当たりばったり》(3)。実家からの仕送りが無いため、自活するためのアルバイトとして、進駐軍の夜勤労務、横浜埠頭の荷役(主に春、行なう)、WAC・米軍婦人部隊のレフトライト通訳、一枚十円の本の翻訳の下請け、暴力団親分の娘たちの家庭教師など様々な職につく。アルバイトのかたわら、ウエイトレス・ユニオン(W・U)のオルガナイザーとして労働組合を組織する。五月一日、戦後第二回メーデーに外語細胞として参加。
  夏から休学の理由に、東京駅の地下道に寝泊りする。七月、右翼的学生を中心としてはじまった在外同胞救出学生同盟は、引揚学生同盟と改称、東京学生同盟と左翼運動体へと組織替えする(後者は四八年かも、記述内容が『ルポライター事始』と『無頼と荊蒄』内で重複)。引揚者東京連合会の文化部長兼引揚学生同盟の事務局長、仮泊所セッツルの責任者を担当、特配物資を闇ルートに流し、党に上納する(4)。このため(?)本来、民族主義的運動としてあった引揚運動を「赤化する共産党の陰謀」と千田夏光、竹中労、対外部長のTが右翼学生にデマを巷に流布されるが、同盟の大会でデマを打ち消す。しかし、《たとえヌレギヌでも汚名を着せられて、そこにとどまることは誇りが許さなかった》(3)。学生運動を離れ、党には在籍したまま党を離れ、山谷(翌年春まで滞在)、浅草、上野をルンペン・プロレタリアとして往復する日々が続き《窮民革命のさらなる夢想にのめりこむ》(6 ※)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  逮捕歴の最初は八月、上野の地下道で朝も夜も赤旗ふってアジ演説をし、暴動を呼びかけ道路交通法違反容疑、一晩で釈放。二度目は故買容疑、(屋台を運営していた際)預かっていた自転車を警官に故買だと疑われ、三日間拘留される(7)。このとき、竹中の法廷での態度は@法律用語が少しもわからないAあとで弁護士に解説してもらってもチンプンカンプン、であるがゆえに弁護士は裁判官とグルなのではないかと考えるC二回目被告になったときから法律を猛勉強するようになるD無罪放免になるEということは、弁護士はちゃんとやってくれたんだな。という経過をたどっている(8)。
  この頃、竹中は乾性肋膜炎を病んでいたらしい。医師にかからず自力で治したが、肺臓と横隔膜が癒着し、すぐ息が荒くなるという後遺症が残る。後年、周りの人間は、竹中はいつも顔が紅潮しているので、多血質であるのだろうと予測していた(9 ※)。乾性肋膜炎は当時の流行り病であったという。
  竹中が在外救出学生同盟に参加したのは、母方の祖父(平島利明、樺太に残留)や叔父たちが、朝鮮、樺太に残留していたためであったらしい。《引揚者の世話活動とは、荷物運びと列車添乗の重労働であり、"報酬"は東京都から月々支給される九十枚の外食券のみ》(4)だった。同同盟は《朝鮮に逆上陸して、同胞をむかえにいった仲間もいるのです》(10)という団体であった。ちなみに、太田竜は樺太からの引揚者である。
  山谷に滞在していたとき、だるま屋という簡易旅館で、街頭の似顔絵描きとパンパンであった女房夫婦の居候となる。《半年あまり山野に住んで、"消極的な"腐敗物とマルクスが慎重に規定した意味を、私は理解した。どん底の人びとは、むしろ一般の市民社会よりも、コンミューン(共同体)的心情を日常に生きていた》(11)と、後年回想している。竹中の思考には、制度=支配に対する深い憎悪がある。この制度=支配に対置される情念として、人々の自治的な「繋がりあい」を優先する考えを持ち、なおかつ(社会システム理論というと語弊があるかもしれないが、その命題を)実践していく。六十年代後期から七〇年代前期、竹中はこの体験をジャンピングボードとしてマルクスとその理論を受け継ぐ日本のマルクス主義諸党派を否定する。
  《アンティールの黒人叛乱、あるいはズールー戦争、それからベンガル、至るところに叛乱が連鎖していたあの十九世紀末。まさに"窮民""流民""暴民"の革命戦争が闘われているときに、大英図書館でもって非プロレタリア的諸学派と闘いつつ『資本論』を著述していた学者マルクス、非行動の人マルクス、バクーニンがロシアから日本に通ってアメリカに亡命し、リンカーンが暗殺され、リビングストンがザンベジ河をさかのぼっているときに、研究にいそしんでいたマルクス、それを始祖とする教義は、やはり戦後日本においてのマルクスの教理なるものは、日本の革命―― "窮民"の革命を完全に圧殺した、権力が圧殺したのではなく。日本戦後革命を圧殺したのはまさにマルクスです、マルクス主義による党派です。これは日本共産党だけじゃなく社民を含めて、ベルシュタインの党を含めて》(12)。
  この命題が、のちに学生運動をしている人々に影響を与えた「三馬鹿世界革命浪人」のマニフェストとなる。現在から考えれば、逆説的なマルクス賛辞であるといわざるを得ない。竹中のいっていることは「プロレタリア」を革命的主体とするマルクス主義を援用した夜郎自大な言説に過ぎない。当時の左派の言説空間は「行動至上主義」をメルクマールとしていたようである。そのなかで、竹中は極左であると位置づけられる。読者にそのように読まれていたとみて、間違いない。
  さて、ここで考察すべき点が生まれる。竹中は、マルクスを真(信)なるものと思っていたのではないか、という逆説が。この部分が竹中の「求心的」なところだが、これについては後述していく。
  先のマニフェストが、松田政男の当時考えていた理論、「谷川雁の直接行動の「原理」の「原理」の部分を追求していく」、もしくは「第三世界の革命と日本の革命との媒介と拠点づくり」(国際根拠地論)に合致し、行動を共にしていた。が、三馬鹿の分派(?)活動を端緒として、松田政男が編集長を務めていた「映画批評」と編集委員であった批評戦線(佐々木守・平岡正明・相倉久人・足立正生)は「空中分解」(松田政男・談)する。路線の違いにより批評戦線はそれぞれの別種の目的に向かう。現在ではほとんど、解体状態に近い。
  
  竹中は焦土の中で、積極的に詩・文学を書いていた・読んでいたようである。詩誌「フェニックス」には、真壁紫と名が残されている。山形出身の詩人で「野の思想家」・真壁仁からとったとされている。真壁は、宮沢賢治にも、影響を受けている。竹中は後年、賢治の引用をよくしている。この郷土イメージ(風景のイメージをそのまま内面化する態度)が、竹中を読み解く一つの鍵になるかと思われる。竹中の本棚も、思想書よりも、数多くの郷土資料が置かれていた。
  しかし、その多くは、(戦後の一時期の)彼の心象を絶望させるものでしかなかったようである。
  戦中戦後、転向をくりかえした文学者・知識人に対して、彼は多くの不信を抱いた。同世代に当たる作家・半藤一利の言を借りれば、それは「大人に対する背信に次ぐ背信」に近いものだったと思われる。その不信は、家庭がほとんど崩壊していた竹中にとって、人にも勝るものであったに違いない。その「大人」に対する不信を拭い去ったのが、共産党だったのではないか。敗戦直後の十年間、共産党は神格化されていた。多くの知識人・文学者が戦中、戦後と転向をくりかえし、多くの悔根を持っていたのに対し、共産党の幹部達は「獄中非転向」。大衆・知識人問わず、ほとんど英雄に近いイメージを持たれていた。竹中も、その英雄群に、自らの信条を仮託した部分があったのではないか。つまり、それが文学・詩から離れる一因となり、労働運動・オルグ活動へ向かわせた要因になったのではないか。無論、これは推測の域を出ない。しかし、多くの道徳観(修身教育)・皇国教育を信じ込まされ、焦土で政府の無い日々を送った世代にとっての、恐らく共時の体験とみて、間違いないかと思われる。
  後年、「戦後派」のヒューマニズムに、彼は強いシンパシーを感じていたのではないか。
  
  [参考文献]
  (1)「映画評論」七三年一月号
   ※青年共産同盟ということは、様々な署名活動やボランティア活動、平和運動、労働組合活動に従事したと思われる。この同盟は共産党の下部組織的な色彩が強い。しかし、党員でない者もいるようだ。
  (2)『竹中労の右翼との対話』
   ※本書の中で、労働組合が闘わないのであれば、共産党に入党し、新たな闘いをするほかないと考えた、と回想している。しかし、恐らくこの頃は労働組合にシンパシーを抱き、いわゆる「本家」である共産党を選択したのではなかろうか。
  七〇年代中期、「現代の目」誌上において、自らの経験を踏まえて、「窮民革命の可能性を党が抑制した」と発言する。彼の考えはローザルクセンブルクの貧窮化革命論に拠る。
  (3)『竹中労行動論集 無頼と荊蒄』(三笠書房)
   ※これは恐らく二・一ゼネストを契機としている。
  (4)『ルポライター事始』(ちくま文庫)
   ※竹中の詩は他に「葦の舟」「幻視」など、主として同人誌に三十遍以上掲載された。「闘魚」という詩が小文芸誌に巻頭四号活字で組まれ、その内容が反革命であったが故に「しょせんプチ・ブルなんだよ君は!」と千田夏光に自己批判をせまられることもあったらしい。「プチ・ブル」という言葉は共時の「戦争体験」(概念的な定義に限定する)を前提として発されたものだと思われる。竹中は共産党内でも異端であったが、党官僚は優秀なオルグ要員として、彼を除名することをためらったようである。竹中は、書記長徳田球一に心酔していた部分があったのかも知れない。いわゆるボルシェビキ、家父長的な気質を持つ革命家としての「オヤジ」に。思想よりも気質や生理(人間性、人道主義的立場)に重点を置く竹中のスタイルは、戦中・戦後の焼け跡の中で培われたものであると筆者は判断する。この敗戦焦土のなかで、極めて「理性」的になっていったというのが、筆者の推測である。この竹中の「理性」とは、戦後から形づくられた「市民社会」(の概念)から外れた人間の持つ、ある種の「戒律」を指す。自身に馴染んだ「戒律」が、後年の竹中の文脈に表れていく。矛盾するかもしれないが、この「理性」が(暴力的な)マルクス・レーニン主義的な運動論を打ち出し、政治的判断を下す要因となる。その一方で、父・英太郎の背をみて、自然に意識的となりえた「反骨」の気質が、当時の共産党の家父長的な組織性とダブってみえたといっても、過言ではないかもしれない。もしかしたら、前述のように「党」に在籍することによって、父・英太郎の存在を把握していった部分もあるではないかと思われる。無論、後年の共産党に在籍していた竹中の表現から窺われる態度は、いわゆる「父性的な感覚」である。
  ちなみに、民法改正で家父長制から核家族制となるのは、社会党が(ほんの一時期)政権をとった五〇年である。
  この自らの経験が、資本主義・市民主義に対置される、共産主義でありトーマス・モア的共同性の主張になり得たのだと思われる。
  竹中にとってそれは「復古主義」の標榜である。そして、「可能なるアナーキズムの理念」という、ともすれば「無限遠点」と想定されるものを援用することに他ならなかった。この辺りは、竹中がアナキストたるゆえんであろう。言い換えれば、それは労働価値説&人間中心主義と考えてもよいのかもしれない。ここが、マルクス主義と親和しているのではなかろうか。
  (5)「現代の眼」八三年五月号
   ※竹中が徳田球一に呼ばれたのは五月ごろかと思われる。これは、当時文化部で行なわれていた査問的作品批判会の様子ではないかと推定できる。竹中のような末端の党員に対して行なわれていた事実は見定められていないのだが、当時は野間宏やその他の党員にこのような査問的作品評は行なわれていたようだ(13)。
  (6)「映画批評」七二年八月号
   ※筆者はここで「窮民革命」なる言葉を引用したが、当時の竹中はその種のことを考えていなかったようである。この言葉は七〇年代以降から散見される。マルクスはプロレタリアを「革命的主体」とみなしていたが、竹中は自らの体験を基にしてその発想を転換し、ルンペンプロレタリア(土着する「窮民」)こそが「革命的主体」であるとした。竹中の「窮民」概念の定義は後述する。先にも書いたが、「党」を否定する考えはローザルクセンブルクの貧窮化革命論に基づく(それを恐らく日本的な郷土イメージに投射している部分もあるかと思われる。恐らく大佛次郎の影響もあるのだろう)。「党」を否定する思考の延長上に貧窮化革命論があり、それを援用したに過ぎない。ローザの貧窮化論に関していえば、大島渚が「映画批評」誌での論戦の際に竹中に示唆したようである。ここから竹中は本格的に読み始めたのだと思われる。
  (7)『風の中の男たち』(青心社刊 著・鈴木義昭)
  (8)『法を裁く』
  (9)『首輪のない猟犬たち トップ屋』(産報)
   ※本書内では「カラミティ・ロウ」もしくは、「Т」と仮名となっている。が、事実関係をみれば竹中と判断するのは容易であった。したがって、「Т」は竹中であるとして参考にさせていだいた。
  (10)『牧口常三郎とその時代(4)』(潮出版)
  (11)『山谷―都市反乱の原点』
  (12)「現代の眼」七二年九月号
  (13)『戦後左翼人士群像』著・増山太助
  
  [時代・社会背景]
  
  一九四八年 昭和二十三年(満二十歳)
  正月、甲府に帰る。父・英太郎に近況を報告した後、またぞろ東京に戻り革命を夢見る。山谷のドヤ街に半年、深川の高橋、森下町、新宿旭町のドヤ街にそれぞれ二、三ヶ月、御徒町駅のガード下、浅草本願寺、横浜の虱太郎水上仮泊所などなど四六年秋から四九年夏までの二十一カ月、もっぱらニコヨン(日雇い、主に土工、荷揚人足などの肉体労働)、ヤキトリ屋台の営業などの仕事に従事するが、仕事に《あぶれる日が実に多かった》(1)。他に左翼独立紙「東京民報」でアルバイト学生となり、同紙の営業部長であった徳間康快と出会う(らしい)。二月十日、東京外事専門学校二度目の留年(落第)が決定。翌日、引揚列車から荷物を運搬しているところ、荷物をかっぱらったと勘違いされてMPにリンチを受ける(2)。三月、東京学生同盟の幹部となる(『決定版ルポライター事始め』には同年三月、東京学生同盟事務局長、東京引揚連合会有給専従文化部長の椅子を追われると記述されている)。同時に《東京駅仮泊所のセッツルメントから上野寛永寺の引揚寮・山谷の天幕一時宿泊施設等々、家なき人々の吹き溜まり(略)にふれる間に、私の魂はそれらの人々と同じ地平に身を置くこと、学園への退路を断つことを要求した(同時に、学費が続かなかったため)》、東京外事専門学校を除籍(3 ※ カッコ内筆者注)。
  この頃アルバイトがないので、山谷のドヤ街で知己となった泥棒二人と血盟し、朝鮮人故買商の後援を得て、「革命的窃盗団」を組織する。目的は窮民革命の第一段階として、持てる者からの掠取(要するに闇市荒らし)を開始すること。掠取の対象の一部は隠匿物資であるモンサント・サッカリン、石鹸(密造シャボン)など。この隠匿物資を朝鮮人故買商に卸して金にし、共有財産として積み立てる。盗人稼業によるあぶく銭により生活はグッと楽になり、軽演劇(ムーラン・ルージュ、空気座、劇団たんぽぽ、カジノフォーリィ、薔薇座、浅草ロック座、文化座などなど)、ストリップなど観て歩く生活が、しばらく続く。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  この頃、竹中は農民指導のため、新潟に滞在している。日本共産党二代目労農部長・伊藤律の新潟行きと少し関わっていると『聞書庶民列伝 牧口常三郎とその時代(1)』内で記述している。もちろんこのときは(この先も)、無名の党員である。ちなみに労農部長の一代目は神山茂男である。竹中は青春時代、「もっとも労働者らしい鉄の意志を持った人間として」、神山茂男にあこがれをもっていたようである。
   強盗予備・共同謀議・公務執行妨害で《二十三日メイッパイ》(4)拘留し、執行猶予・前科一犯と相成る。原因は、強盗に入るアニイ連にグッド・アイデア(共同謀議の疑い)を提供したため。逮捕の際竹中は抵抗したので、公妨もついてしまった。塀の中は《民主警察なんていうのは嘘っぱち、平然と拷問をやる》(4)らしい。青春のヤケクソは五二年の五・三〇淀橋警察署焼き討ち事件に向かう。
  「空気座」は水ノ江滝子、「劇団タンポポ」「カジノフォーリー」は、田崎潤、有島一郎・堺真澄夫妻の根城となった。
  竹中はこの頃、多数の詩を書いていたようだ。が、ほとんど公表されていない。
  
  [参考文献]
  (1)「映画批評」七二年八月号 「アジアは一つ」
  (2)『呼び屋』
  (3)『決定版ルポライター事始め』
  ※この引用はミスリードを誘う。学費が続かなかったのが、一番の理由であろう。竹中の二十歳そこいらの心情を汲むとするならば、このような心情を抱いたというのも、あながち嘘ではあるまい。だが、この時期に真実そう考えていたのならば、命がいくつあっても足りないと思われる。恐らく「青春」というヘーゲル左派のイデオロギーに、自らの心情を「投射」しているのだと思われる。
   ふつうは、除籍したのち、山梨に帰るものだが、竹中は果たして如何。
  おそらくだが、彼はいわゆる「放蕩息子」であったのではなかろうか。
  (4)『左右を斬る』
  
  [時代・社会背景]
  
  一九四九年 昭和二十四年(満二十一歳)
  春三月、《雪どけの八ケ岳立場沢から地獄谷へ横断をこころみて失敗(危うく遭難するところだった)、同じ年の五月、単独行で板敷渓谷をさかのぼったさい岩壁から転落し、大腿部の筋肉を断裂した。半死半生で山を降り救われた》(1)。以後、山には登らなくなる。後年断裂した部分の筋肉が痛む後遺症が残る。
  夏、蔵物故買容疑で逮捕されるが、完全黙秘して釈放される。その間に五十万円(戦後価格。当時は一カ月三十円で生活できたと言われている)の現金ならびに戦利品が跡形もなく消える。血盟していたはずの二人がクモを霞と逐電したため。これにより「革命的窃盗団」は挫折する。《窮民の中へ、ヴ・ナロード! を実践して到達した世界は、一個の若者の夢想の及ばない混沌魔界であったのだ》《革命への情熱は、青春の地底遊泳のうちになお烈しく熾えさかっていたが、詮じ詰めれば"義賊"気取りの三文オペラ、希少なドロボーでしかない手前を、やい、あらば鏡にうつしてみろやい、恥ずかしくないか!》《世の中、何も変わりはしなかった》(2)。初夏、宮本百合子に早稲田の大隈講堂での講演を依頼する。竹中は責任者となる(3 ※)。もともと盗癖を持たなかった竹中はあきらめも早く、晩夏、窮民街の放浪に終止符をうち、甲府の親元に帰る(?)。
  図書館で読書三昧しつつ、映画サークル、自立演劇運動に打ち込む。アイルランド戯曲・岸田国士・三好十郎の作品と併行して、ムーラン・ルージュの芝居を自作の舞台にのせる。主として高校、大学演劇サークルの指導にあたり、自身も舞台に上がる。後年プロになる小林俊一、大木崇史、曾根康彦などを教える。同時にこの年の夏、山梨県道志村で農民組合結成のため、オルグ活動に邁進する(4)。
  孔版印刷工(ガリ版屋、タイプ印刷)、地方紙記者、佐藤森三が編集長を務める『県政六〇年史』の編集アシスタント、マッサージの教本の下請け、書店の番頭(配達も含め)、学習塾経営などの職を転々とする(5 ※)。五〇年春まで、読書三昧の日々を過ごす。
  大村茂の年譜によれば、共産党(の諸活動?)に復帰する。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  共産党員としての活動、学生運動の責任者、ドロボー、学生異文化交流(映画の上映など)の責任者、陋巷の探険者、アジテーター、オルガナイザーなどなど活動は様々。すべてを同時進行でやっていたようだ(?)。学生異文化交流の責任者をする際は、ルパシカを着ていて、皆にパルタイの学生かと印象をつける(6)。恐らくであるがこのルパシカは父・英太郎からの借り物でないかと推測できる。英太郎は元モダンボーイで、日本で始めてパーマをかけた男、らしい。つね子と出会ったとき、英太郎の頭髪はチリチリだったようだ。
  この頃竹中は学業放棄して、革命という命をかけた遊びに夢中になっている。自らを評して《生命ギリギリ・時代の暴走族》といっている(3)。それはそのまま、竹中の生涯にあてはまる。
  演劇では《ゴールズワージー『小さな人』、アルマン・サラクルー『炎の男』菜川作太郎『しゃも』、アイルランド戯曲(ダンセイニ、シング、グレゴリー夫人など)、飯沢匡『還魂記』等々を演出》したらしい(5)。しかし、甲府の竹中の友人たちによると、「演出ってのも、少しニュアンスが違う」らしい。
  
  [参考文献]
  (1)「現代の眼」八二年六月号
  (2)『竹中労行動論集 無頼と荊冠』(三笠書房)
  (3)『左右を斬る』(幸洋出版)
   ※この回想が正しければ、竹中はドロボーを行なうと同時に、並行して共産党文化部の活動していたことになる。現在から考えれば厚顔無恥であると判断せざるを得ない。が、この分裂的な活動は、戦後を生き抜くための「知恵」、ともいえる。戦後まもない、「政府」の無い日々を生きていかざるを得ない生活の論理は、後年の竹中のアンビバレンツを暗示している。戦後まもない中で「生活」の危機に敏感となり、ドロボーたちとの義に篤くなった反面、自らの欲望に対する正直さと脆さとのせめぎあいに悩まされるようになっていったと、筆者は推測する。しかし、ドロボーの活動は事実かどうか定かではない。
  さて、講演依頼は共産党文化部の活動を垣間みせている。当時は宮本百合子邸で文化部の会合が行なわれていたようである(7)。もし竹中が文化部の周辺にいた党員であるのならば、この会でなされた発案を実行したのではないかと推察できる。竹中の後年の回想に拠れば、百合子の講演会は大雨で人民が会場に集まらなかったようである。百合子は「どんな時代だと思っているのよ! 少しはマジメにやりなさい」と激怒し、竹中を叱り付けた。竹中が「人民文学」派へ行かなかったのは、この体験が要因であると回想している。しかし筆者は、共産党内の竹中の「位置」を判断する資料を持たない。よって、この回想も事実かどうか定かでない。
  (4)『仮面を剥ぐ』(幸洋出版)
  (5)『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫)
   ※一九五八年まで、東京にみたび上京するまでの間にたずさわった職であると思われる。何年にどの職に就いていたかの詳しい記述は見当たらない。ちなみに、この時期に書かれたものに署名は無いようである。『県政六〇年史』にも署名は見当たらない。
  (6)「話の特集」九一年九月号
  (7)『戦後期左翼人士群像』著・増山太助
  
  [時代・社会背景]
   一月、スターリンが共産党の平和革命路線を批判、「コミンフォルム批判」と呼ばれた。スターリンは植民地的収奪者である「アメリカ帝国」を打倒する戦略に基づく闘争を強めることを日本に要請した。
  
  一九五〇年 昭和二十五年(満二十二歳)
  山梨一般合同労働組合、甲府自由労働組合の専従役員(情宣・文化部長)として、中小零細企業、日雇い労働者の組合運動にたずさわる(1 ※)。新日本文学会員となり(五十二年かも?)、未完の小説『葬られた歴史』『なみだ橋界隈』、ルポルタージュ『北富士軍事基地』ほかを発表する(2 ※)。《想えば一九五〇年、「新日本文学」「人民文学」分裂の渦中において、かくいう小生は、新日本文学会会員にすいせんされ、「宮本百合子祭を大衆的にボイコットせよ」という党主流、臨時中央指導部の活動方針に造反したことであった(略)「人民文学」は絶対にまちがっている。したがって(当時は)相対的に、「新日本文学」を正しいと信じた》(3 ※ カッコ内は筆者注)。
  その後、東京へ向かい、党に舞い戻る。山谷にアジトを構え地下生活(地下活動)の日々を送る。秋から、山村工作隊に参加する(四全協決議は五一年からなので、それからなのだろうか? この辺り不確か)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  北富士軍事基地は山梨県忍野村にある。ここで竹中は、
  《戦後の狂疾さめやらず、窮民革命のまぼろしに憑かれていた小生、基地周辺の朝鮮人部落をアジトにして、娼婦、日雇い労働者をオルグし、反乱に立ち上がらせようと懸命であった。だが娼婦たちは「アメ公と別れるべきだ!」大マジメに説得する素っ頓狂な扇動者を「かわいそうに、頭がよすぎてイカレちゃったんだわ」と逆に気の毒がってメシを食わせてくれたり、豚と同居をしているところへ洋モクを差し入れてくれたりした。中には「オネンネしてあげようか」と、やさしく勧誘してくれる女もいて、何がナニやらわからなくなっちまい、かくて小生はしだいに、手前ひとりでヤミクモに合点した"革命"というものが、人民大衆と無縁であることを思い知らされたのである》(4 ※)。
  ――時代は、暴力革命の季節を迎えていた。どうやらこの時期(四九年〜五八年まで)、山梨と東京を「行ったり来たり」していたようである。やはり、共産党内・外での組織的活動をするためであると考えられる。前述のように、『北富士軍事基地』のシナリオ作成は、山村工作の一環とも考えられる。《軍事基地の襲撃なんかもやりましたよ》(5)と竹中自身がいっているので、おそらく襲撃したようである。だが、これは「北富士軍事基地」であるのか、他の基地であるのか判断することは出来ない。竹中は五・三〇に参加し、基地から拳銃を盗んでいる模様なので、その際に行なったことを話しているのかもしれない。
  八〇年辺りまで、北富士軍事基地(演習場)は基地問題としてメディアを賑わせていた。現在も基地はあり、住民運動が行われている様子である。年譜にも書いたが、この年の秋から、山村工作隊に参加していたようだ(6)。
  このとき作家・深沢七郎、熊王徳平と知り合う、と「週刊読書人」四四年九月八日号の記事内にある。熊王徳平は新日本文学会員である自称「田舎文士」。『山侠町議選』が第三六回直木賞候補に挙がる。このときの受賞作は、今東光の『お吟さま』、穂積驚の『勝鳥』。熊王の代表作は『甲州商人』『隠し砦の三悪人』。この二作は、共同執筆であったらしい。深沢は、甲府でギター弾きの活動をしていた。竹中の『タレント帝国』内で、敗戦後の野音楽隊からナベプロは出発した、という視点は深沢の著作内からの影響ではないかと感じられる。渡辺晋もギター弾きの活動をしている。竹中は深沢とはじめての出会いは六〇年代であったと『ルポライター事始』内に書いていたが、この頃から何かしらの付き合いはあったのかもしれない。おそらく山梨に滞在していたときは、山村工作隊の人脈とのかかわりが多かったと考えられる。竹中の山村工作隊の活動は、五二年(?)から五五年夏あたりまでと推察できるが、後述するように、前後関係からしてみると、事実が合わなくなってくる。
  《一九五〇年から五三年まで足かけ三年、酔えば器物を破壊して、ブタ箱の厄介になったことも、たびたびであった。五〇年八月、山梨県甲府の映画館の屋根に上がって、アラエッサッサー、「跳んでも跳ねてもおっこちないよ」と怒鳴ったら、消防のハシゴ車がやってきた。手とり足とり、丸橋忠弥もかくやとばかり大捕物のあげく、ひっくくられて警察に持っていかれた(中略)甲州一円金箔付の紅衛兵だったから、警察もよっぽど頭にきてたんだろう(中略)出てみたら、新聞にデカデカと〈深夜の狂人〉なんてタイトルがおどっていて、小っぱずかしくて表も歩けない(中略)二十代前期における、アタシの酒乱は、革命に失恋した悲しみの代償行為であった》(4)。《コミンフォルム批判、沖縄恒久基地化、朝鮮戦争ボッ発、共産党追放、警察予備設置、新聞放送レッドパージと、急テンポに展開する政治情勢》(4)の中、新日本文学会の地方支部で詩人として登録され、熊王徳平と文化運動にまい進する(が、竹中が新日本文学会会員であったという記録はみつかっていない)。共産党内の組織の仲間から疎外され《なぜ、仲間にはいれないのだ?》(4)と、懊悩している。《寂しがりやでもあった》(7)と竹中の友人であった伊藤公一は語っている。同時に組織に対する恋着が少なからずあったようだ。
  
  @ データと「評論」
  [山村工作隊について]
  《一握りの党指導部者しか全体像を知らない》、軍事闘争路線をつらぬき、山に立て籠もった共産党内に所属する組織の総称(8)。五二年の軍事闘争路線の軍事方針に依拠し、おもに地方の山間で、プロレタリアによるプロレタリアのための決起を実行する軍事組織として、全国区的に活動が拡がる。活動内容は、党史から抜け落ち、詳しく書かれていないのだが、五一年の四全協で具体化された軍事方針によれば、《米帝国主義者と売国奴に対して頑強不屈の地域闘争を行い、自衛闘争を発展させ、その中から遊撃隊を作り出し、その発展を指導しなければならない。この遊撃隊は、拠点工場や経営と結合し、農山漁村の遊撃根拠地は常に大都市、大工場と結合し、労働者階級の指導のもとに発展しなければならない(略)農民は全く滅亡か、革命かに直面している(略)遊撃体は反米救国の民族民主統一戦線発展の武器であり、人民解放軍への発展を目指して行われる》(8)とある。
  つまり、私有財産制を否定して、共産主義的な近代化を図るスローガンである。当時の共産党は「民主愛国路線」をとっており、その文脈のなかでは「民族」も肯定的に使われた。ここで、現実的でないブルジョア近代主義や市民(像)を批判し、それに対置されるプロレタリア(前衛)の構築が主張される。
  「山村工作隊」の有名なもので、竹中が関わっていた可能性のある事件を挙げれば、「曙事件」(正式には山梨県南巨摩曙村事件)、昭和二十八年八月二十日に富士山中で行われた日共党員による《山中湖畔付近発電所を襲撃するとの想定のもとにキャンプ、ハイキングを偽装した》(8)軍事訓練などである。しかし、事件にならないまでも、かなりの数の「闘争」が山村で行なわれていたため、細部までの特定は出来ていない。
  山梨県は、その土地の歴史性もあいまって、山村工作のメッカであったようだ。共産党本部(日共軍事委員会)も山村工作の拠点作りの人員を送り込んでいたようである。
  「曙事件」について
  甲府地検報告では、《これは、一九五二年(昭和二十七年)七月三十日夜、山梨県南巨摩群曙村で、日本共産党の十名の山村工作隊員が、山林地主佐野喜盛宅へ「佐野喜盛を人民裁判にかけ、財産を村民に分配する」と称して、竹槍、こん棒をもって押し入り、就寝中の佐野及び妻、女中、さらには小学生三人をも竹槍で突き刺し、こん棒で殴打し、あるいは荒縄で縛り上げ、頭から冷や水を浴びせるなど、暴虐の限りをつくし、また、家財道具、ガラス戸、障子、箪笥、金屏風、ふすま、ラジオ、仏壇などを片っ端から叩き壊したうえ、現金四千八百六十円と籾一俵を強奪した事件である》(8)。
  「曙事件」に関して、竹中は「映画批評」七一年三月号で、山村工作隊を題材にした映画であった黒木和雄監督作品「日本の悪霊」に対してこう述べる。
  《一言で言うならば、こういう映画をつくったことは犯罪である。黒木和雄よ、福田善之よ、君たちは山村工作隊のリーダーをどこに隠したのだ? あの五十年代の限りなく絶望的な、だが自らの意志において死を賭した闘いを、絵空事に矮小化した責任をとれ! シナリオの段階からアタマにきていたオレは、映画を見るに及んで血が逆流した。この作品に関与したヤツバラはみな死ね! と思った(中略)山林開放のスローガンを掲げて山地主の屋敷を襲い、米泥棒とまちがえられて彼が開放しようとした貧農たちに追われ、川に落ちて死亡した山村工作隊員(山梨県南巨摩群富士川事件)、「総点検」の恐怖支配のもとに拷問され凌辱され、汚名を着せられて自殺した無告の党員たちの"怨念"をどこにむかって噴出させようというのだ?》(『琉球共和国』)と批判する。総点検運動とは党員同士の思想点検の総称を指す。当時は全国的にきつい査問が多発していた。この点を神山派直系の共産党員だった松田政男は《ありとあらゆる様々な問題を並べ立て、すべてを道徳的な腐敗だとか私生活のなんだとかに結果的に還元してゆく(中略)査問する者は査問されるという査問の悪無限連鎖みたいになってた》(9)と語っている。竹中がここで語るのも部分的に符号している。
  引用からみてもわかるように、山村工作員たちが一概に持っていた「志」の部分を、竹中自身も持っていたようにみえる。この映画は山村工作隊を茶化したと、彼の目に映っても仕方が無い場面も散見する。映画監督・黒木和雄も山村工作隊に参加していたが、彼らは映画内のストーリーだけでなく(映画では山村工作隊のリーダーは不明のまま終わる)、現実の工作内でも隠していたかどうかは不明である。が、山村工作隊を茶化しながらも、その悲しくも虚しい中途半端な「闘争」を描いた面で、本作は事実の一面を表していると筆者は考えたのだが――。この映画は、「戦後の二面性」を題としたようで、佐藤慶ふんする「ヤクザと警察官が入れ替わり立ち代わり」ストーリーが展開していく。
  竹中のこの批判は、参加したために正気ではみられなかったのか、それとも黒木に対する逆説的な賛辞であるのか、もしくは参加していなかったが山村工作隊の風説をきいていたために怒り心頭したのか、よくわからない。しかし、竹中が企画・制作にたずさわる映画は、黒木の影響を受けているのではないかと思われる部分が散見するのも事実である。前述のように黒木と竹中は同世代で、同じような体験をする。シンパセスティックな感情もいささかあったに違いないと思われる。ちなみに、(山梨では無いが)山村工作隊に参加していた松田政男は、この作品を当時、批評家が選ぶキネ旬ベストテンの二位に挙げて称賛している。
  筆者の調べによれば、竹中は「曙事件」には参加していないようである。しかし、山梨県の西部(道志村付近)で活動はしていたようだ。以下、竹中の言。
  《(道志七里)富士隠しと呼ばれる、大室山の稜線は左手に流れ、菰釣山と御正体山の狭間、山伏峠を越えると、雪化粧した富士山が天辺を戴って眼前に迫る。秋ならば富士アザミ、古代柴の群落を見ることができるのだが、まさに蕭条たる雪景色。昭和二十七・八年この道を私は幾たび往復したことか。殺伐と蜂起の夢に憑かれ、米軍基地から武器奪取を企て、富士吉田市の朝鮮人部落や山中湖畔のパンパン宿に、転々潜伏していた。いわゆる「山村工作隊」、同志は一都二県、東京・神奈川・山梨を結ぶ忍草、道志の山中に小拠点を置き、「連合赤軍」を先駆けて、ゲリラ戦争の訓練に明け暮れていたのである。山林開放のアジビラを、山地主の邸に貼りにいって、米泥棒と間ちがえられ、"開放するべき"貧農に、トビ口で頭を割られ、富士川に投げこまれ死亡した無残な悲喜劇も、五湖を隔てた山梨県の西部では演じられた》(10)。
  とすると、竹中は、《山中湖畔付近発電所を襲撃するとの想定のもとにキャンプ、ハイキングを偽装した》軍事訓練を、他の山村工作隊員と共に行なっていたかのようにみえる(8)。以下、当事件の詳細。昭和二八年《八月十二日、国警東京本部より国警山梨県本部に対して「全学連及び中共引揚者十八名が拳銃を携行し、山中湖畔付近発電所を襲撃すると想定の下にキャンプ、ハイキングを偽装した軍事訓練が現在行なわれている」旨の情報があり、これと前後して、関東公安調査局より山梨地方公安調査局に対し、同様の情報が寄せられた。(イ)八月八日全学連(党員のみで参加は許されない)六十名ないし七〇名参加の下に軍事訓練が行なわれた。服装は農民風に変装して背負子を背負い鍬鎌等をもって畑にいくような支度であった。精進停留所(上九一色村精進山麓バス)で下車、同所から案内人に伴われ徒歩で富士山寄りを約三十分歩いた。松林(精進湖と西湖との中間)において訓練が行なわれた。訓練は、十四年型ブローニング二号及びモーゼル一号による拳銃発射実弾訓練で午前・午後の二回約一時間行なわれた。参加人員を十名一組の半に編成して各班毎に分散して訓練されたが、指導者の名も参加者の名もその住所も知らされなかった。(略)発電所及び軍需工場襲撃の想定の下、発電所にはそれぞれ特徴があるが、概ねタービンにダイナマイトを仕掛けることが最も有効である。山梨県内の発電所の位置及びその特徴については、次回説明するとされた。次いで、武器火炎瓶操作の訓練が実施された。武器としては、拳銃モーゼル ブローニング ソ連製らしきものより、実弾を発射して行なわれた》(8)。
  この事件ならば、竹中ののちの発言にも符合している。しかし、昭和二八年八月に山村工作隊に参加していたとなると、五・三〇事件で逮捕され、労役刑に処せられたのち、懲りずに活動したことになる。が、そうであるならば、周辺の親戚関係から大ブーイングを受けたのではないのだろうか? この辺りは、どうも事実関係が合わない。
  筆者は山村工作隊に参加していたかどうか、判断しかねる。山村工作隊に参加していたとなると、熊王徳平と文化運動にまい進しながら並行して活動したことになる。五四年〜五五年頃、一時期活動しただけということも考えられる。しかし、それはいわゆる武装闘争ではなく、(後方支援のような)事務的で、穏健な活動だったのではなかろうか。
  この辺りは、恐らく、彼得意の「つくり話」なのではないかと思われる。土本典昭や、由比誓などが、山梨県小河内山村工作隊に参加していたが……。
  
  ちなみに、竹中が山村工作隊のことを語るのは八〇年中期ごろからである。これは、国内残存赤軍勢力と接触し始めたときである。竹中が山村工作隊での出来事を語るのは、この部分が契機になっているのかもしれない。
  六六年、中国に向かい徳田の墓参りするのは
  竹中は晩年に、党員では《下士官クラス》(『無頼の墓碑銘』)と語っていたが、これは丸山真男的な意味と(丸山はその種の人物を嫌っていた)、ヒトラー=下士官という意味の二つがある。
  
  [参考文献]
  (1)大村茂作成 竹中労・年譜
   ※たずさわると言ってもあちこちで激越な行動をしていたことは間違いない。県議会に乱入したり、父・英太郎と一緒に知事公舎に怒鳴り込みに行ったり、県職員の面前で総務部長の下位()を殴打したり、数えればキリがないと思われる。竹中は山梨の共産党にも違和感があったようだ。竹中のみ刑務所に入るのは勝手だが、その他にも迷惑した方もいるのかもしれない。一丸となっていたのであれば、全く問題は無いのだが。
  (2)『 '76年フリージャーナリスト年鑑』
   ※本書内によると、ルポルタージュ『北富士軍事基地』は五二年の発表、『葬られた歴史』『なみだ橋界隈』は五五年の発表と記述されている。『決定版 ルポライター事始』を参照すると、どれも掲載誌は現存していないらしい。『北富士軍事基地』はシナリオの形の構成をとったと竹中はいっている。もしかしたら、山村工作隊の襲撃シナリオだったのかもしれない。「なみだ橋」は山谷と立会川のどちらにもにあった。したがって、どちらかの特定は出来ない。
  (3)「現代の眼」八一年一月号
   ※竹中は所感派の周辺にいたのかもしれない。新日本文学、人民文学の分裂に介入したのは、所感派であった。
  (4)『スター36人斬り』(実業之日本社)
   ※時代背景として、戦後間もないことが挙げられる。戦犯教師追放の思考の延長上に進駐軍があったとみていいだろう。ちなみに、この原基的な体験は後々も彼の仕事に影響を与えている。この点からいえば、竹中は「青春」に拘束されていたとみても過言ではないであろう。流民・ヤクザ・ドロップアウターなど、竹中が幻視するのは人間の「決定不可能性」に他ならない。
  (5)『無頼の墓碑銘』
  (6)『仮面を剥ぐ』
  (7)「話の特集」九一年九月号
  (8)『日本共産党の戦後秘史』(産経新聞社)著・兵本達吉
  (9)『LEFТ АLОNE』(明石書店)
  (10)『牧口常三郎とその時代4』(潮出版)
  
  [時代・社会背景]
  
  一九五一年 昭和二十六年(満二十三歳)
  甲府で自由労組を指揮し、生産管理をする。五月、甲府で《青年遊説隊長として活躍》(2)。《この年、労数々の事件を起こす。日雇い労働者を組織して県議会乱入・敷島町事件・ニュー甲府製菓生産管理など》(2)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
   昭和二十五、六年の三月、新宿セントラル劇場で吾妻京子の銀粉ショーの本邦初公演を見る。《戦後三十年の裸舞界に、彼女ほど生まれたまま美しい踊り子を私は知らない。そのみごとな肌にわざわざ銀粉を塗り、めずらしいだけの見世物に仕立てる興行師に、憤りを覚えた》(3)。恐らく、四九年に復党した際から、東京―山梨間を往復する日々だったのではなかろうか。
  
  [参考文献]
  (1)大村茂作成 「竹中労・年譜」から引用
  (2)『百怪我ガ腸ニ入ル』(三一書房)
  (3)『にっぽん情歌行』
  
  [生産管理について]
   読売争議  兵本達吉五八ページ参照 増山太助『戦後期左翼人士群像』
  
  [時代・社会背景]
  「血のメーデー事件」
  日本の「独立」を決定したサンフランシスコ「単独講和」条約に興奮したデモ隊の一部が皇居前広場に突入し、警官隊と衝突、流血の惨事を招いたというのが、これまでの「血のメーデー事件」の全貌であった。が、資料『日本共産党の戦後秘史』によれば、「血のメーデー」事件とは、ソ連や中国と一体となって北朝鮮戦争を支援するためおこなわれた、日本共産党が企図した後方撹乱戦術であった。
  当時、共産党はこのデモを「偉大なる愛国闘争」と形容した。
  「五・三〇記念日」
  警視庁は「五・三〇記念日」に共産党の闘争指令が発達されたという情報を察知して、前日、前々日に各警察所など襲撃を予想される場に金網などを張り、火炎瓶攻撃を予想してドラム缶などを買い込んだ。「五・三〇記念日」の集合予定場所は以下の都内五カ所に分けられている。東部(石川島造船、花王油脂)、西部(新宿駅西口)、南部(東日本重工、糀谷地区)、北部(小田原製紙、赤羽日鋼)、中部(皇居前、都庁、国会)。各工場の工員の帰宅時を狙い、各党員は大衆を煽動し、交番襲撃を行なう。方々の地区のキャップは、非合法ビューロー(党員)が担当。国警本部に入った情報によると集会は全国で五七カ所、解散予定はいずれも夜間、目的は「血のメーデー事件」の検挙者奪還、警察署襲撃、武器奪取闘争など。政府も「血のメーデー事件」と同様、朝鮮人、自由労務者などを中心とした編成で行なわれるのではないかと危惧し、当日の交通規制の強化を促がした。当日を予測して、学生達に不穏な動きがあるのではないかと疑い、早大では五月二十九日以降集会を禁じられた。
   しかし、警察に入った闘争指令はほとんどデマに近かった。
  
  一九五二年 昭和二十七年(満二十四歳)
  春三月(?)、《演劇公演の諸支払いを踏み倒し、借りられる限りの金を借りまくって上京》し、再び山谷に向かう(1)。日本共産党五十年分裂、新横領軍事路線の一兵卒として、五月一日から「血のメーデー事件」(山谷の諸闘争、皇居前へ暴れこんだ事件)にかかわる。その継続する闘争としての武力闘争である五・三〇淀橋(現・新宿)警察署焼き討ち事件の首謀者と目され、火薬類等取締り法違反、都条例違反、公務執行妨害容疑で現行犯逮捕される。竹中は雨のなか、四、五人の学生に守られながら空箱の上にのぼり、拳をふりあげながら「警察の弾圧を許すな、われわれも闘おう」とアジる。「朝日ニュース」がその光景をサイレント式の機器で撮影し、証拠として提出されたが、サイレント式であったため逮捕されても完黙することが可能であった(2)。完黙を続けて拘留延長二回、淀橋、中野、大井各署、東京拘置所、各所をたらいまわしにさせられ、四十三日目に釈放となるも、警察署の玄関を出たとたんに再逮捕される。原因はアジトからS&W(スミス・アンド・ウェッソン)の実包百発が警察の家宅捜索で発見されたため。黙否は二カ月余にわたった。
  《ストリップ小屋に入りびたり、パンパンや浮浪児・やくざ・故買人を友として、泥棒は正義であると統制物資の強奪・偸盗を私は働いていたのだ。学生運動家にあるまじき無法の所業に同志たちは呆れ果て、しかも彼らルンペン・プロレタリアートを革命の同盟軍であると、私が固く信じていることにますますもって愛想をつかし、こういう乱心ものを組織の内部には置けないと、指導部は除名を申しあわせていた。五・三〇の尖兵を志願したのはそうした空気を察知してのこと、「誰ぞわれにピストルにても向けかよし」、ものの美事に死んで見せよう、やけくそのヒロイズムからだった》(3)。《個人テロルを企んでいた。そのためいわゆるれんこんといわれる "リボルバ"を基地から盗み出した。狙っていたのは、マッカーサー、リッジュウェイなどGHQの高官と日本政府の大物。もちろん、日共の指令なんかじゃない(略)疑心暗鬼の時代でもあり、やれスパイだ、やれリンチだのといってなかなかテロルについての計画も仲間に打ち明けられはしなかった》(4 カッコ内は筆者注)。銃はみつからず、(銃は友人の開業医にあずけておいた。銃のみ同志が蒲田のドブ川に捨てたらしい)実包百発(一箱)のみで挙げられ火薬取締法違反罰金刑となる。五・三〇淀橋警察署焼き討ち事件では三十七人の逮捕者がでるも、実際事件に参加していたのは二名のみであった(5 ※)。
  釈放後の七月の真昼、パチンコ屋の店先で美空ひばりのうたに出会う。党とは連絡を取らず、横浜へ向かい一カ月沖場人足をやり旅費を稼ぎ、甲府に帰る。父・英太郎は当事件を聞き、「息子はほっとくと何するかわからんので呼び戻した」ようである(6 ※)。
  甲府に帰り、零細企業の一般合同労組・日雇自由労働組合の無給書記などをつとめる(?)。大村茂の年譜によると、党員資格を剥奪される。十二月、再逮捕され甲府刑務所に収監。労役刑に処せられる。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  大村茂が作成した年譜によれば《5・30淀橋警察署焼き討ち事件に連累検挙されるが釈放後山梨県下に潜行、12月再び逮捕され甲府刑務所に収監される》とある。美空ひばりの唄に出会うのも翌年になってからである。記述が重複している。
  竹中の記述によれば、《起訴され未決へ放り込まれたのですが保釈で出てこれました》(7)。《甲府で労役刑、これが初体験。カンカン踊り(検身)、素っ裸で棒またがされる》(8 カッコ内筆者注)。『百怪我ガ腸ニ入ル』の年譜では、《八月山梨県下に潜行。十二月再逮捕され、甲府刑務所に収監される》とある。竹中もいいにくかったと思われるが、刑務所には入ったのであろう。ここを六、七〇年代語らなかったのも(八十年代右翼と目される人々と対話することでようやく語る)、なにか理由があったのだと思われる。もしくは、公言するようなことでもない、と考えていたのだろう。八十年代というと、背中に刺青を彫り太圏仔(紅衛兵ヤクザ)と接触し始めたときである。この契機が竹中にそのようにいわせたのだろうと推察できる。
  東京での身元引受人が母方の叔父にあたる人物である。
  竹中が暴動事件で捕まったとき、否認し続けても娑婆に出てこられたのは、自治体警察が機能していたためであった。労役刑ということは、何か手に職をつけるような仕事をしたのであろう。後年の印刷工などの仕事はこの関係でなされたのかもしれない。
  竹中はこの年から甲府に帰り、五七年までの六年間、組合活動に精を出す。当時の様子をこう回想している。
  《当時、昭和二十七年から三十二年までの足かけ六年間、「一般合同労働組合」「自由労働組合」無給書記に、孔版印刷のアルバイトをしながら、私は専従していた。(略)中小零細企業の労働運動は一円の報酬もなく、日常の生活はドン底をきわめた。労働貴族ダラ幹、口に革新を唱えて仲間を食い物にするやから。 "資本のパン屑拾い"との論争・ときには実力行使、貧しくとも烈しく純粋だった(略)「政党の自由」をめぐって我々は所属の県労連大会を三度流会させ、中央に乗りこんで全国一般労組の大会もたたき潰した。……ひんぱつする中小企業の争議・集団投石を指揮し、煙突に上り、家宅侵入、公務執行妨害等々。ダラ幹を追って、警察に逃げこんだやつを所内の階段で蹴り落とし、その場でブタ箱に放りこまれた。 "前科四犯"を私は、二十代の終わりに背負いこんでしまった》(9)。これを思い出してか、竹中は晩年、とある報道者を理由もなく階段から蹴り落としている。おそらく「過去」に拘束されていたのであろう。
  五・三〇の過激派体験を、生涯背負うことになる。回りの人物から過激派、得体の知れない人物という目で見られる事に、常に臆し、かつ楽しんでいたと推定できる。この体験に居直り活動していたのだろう。しかし、この頃は五・三〇体験から極度のメランコリーに陥り、《屈折した反権力の志》(10)を抱かざるを得なくなる。甲府に帰り数年間図書館に通って江戸文学を耽読する。ここから、大衆の都市文化浅草六区、民謡=猥歌へのアプローチなど、日本のポストモダニズムの諸断層を語っていくきっかけとなる(らしい)。これには、人間の本源を感じさせる衆生=民衆の文脈への精神的な依拠がある。この点で竹中が後年「大正」の時代、つまり『大杉栄』に対するアプローチを試みる要因であるといえる。
   この年開店した居酒屋、詩人・草野心平が経営する「火の車」に通っていると、『ルポライター事始』内にある。竹中はここで、飲み屋のゼニを「コーモリ傘」で払う「不良少年」と言っているのだが……。俳人大坪白夢は「血のメーデー事件」に参加している模様なので、そのとき連れて行ってもらったのだろうか。
  
  
  [参考文献]
  (1)『百怪我ガ腸ニ入ル』(三一書房)
  (2)『完本 美空ひばり』(ちくま 文庫)
  (3)『決定版 ルポライター事始』(ちくま 文庫)
  (4)「映画評論」七三年一月号
  (5)『竹中労の右翼との対話』(現代評論社)
   ※『回想 ――戦後重要左翼事件』(六八年一月一日刊 警視庁編)によると、被疑者は二十八名、みな現場検挙された。
  (6)「週刊読書人」四四年九月八日号
   ※八月、《山梨県下に潜行》し、道志村付近に潜行していたのだろうと筆者は推定する(1)。資料は『完本 美空ひばり』、『百怪、我ガ腸ニ入ル』『牧口常三郎とその時代(4)』等である。『牧口常三郎とその時代(4)』内で、当事件の後に《釈放後の一時期を、北富士軍需基地周辺に潜行、道志村を度々おとずれている》とある。なぜ素直に自首せず、潜伏したのかを仮定するのであれば、左翼的な思考から、逮捕されるのは国家権力に敗北することであるという安易な判断を下したためか、もしくは、父・英太郎に呼び戻されたが、自らの「青春」のエネルギーが噴出してしまい何かに追い立てられるかのように逃亡を企てたのか……。以上のように推測することは出来る。釈放ののちに、甲府で父・英太郎が、政治活動を竹中に手伝わせるのは、「政治のやり方」(広義の人的関係性)の教えを示したかったのだと思われる。後年、この政治のやり方と青春のエネルギーの志向が、竹中の「思想」に同居することになる。もちろん、自らの「青春」のエネルギーの方向性も、重々承知のうえでの判断であったようである。
  潜伏した道志村は、神奈川県にある相摸川から、津久井湖を経て、道志川に沿って位置している。地図上では、東に向かうと山伏峠があり、山中湖があり、その先に富士山がある。山中湖の北手に忍野村があり、ここに北富士軍事基地がある。竹中はこのあたりで山村工作隊での活動をしたと、後年回想している。ちなみに、彼が山村工作隊に参加していたという確証はつかめない。彼の回想に拠れば参加していたことになる。竹中が参加していたのではないかと思われる事件は前述した通りである。
  (7)『竹中労と右翼との対話』(現代評論社)
  (8)『いま君に牙はあるか』 著・野村秋介
  (9)『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・春と修羅(二)』(潮出版社)
  (10)『ニッポン春歌行』
  
  [時代・社会背景]
  
  一九五三年 昭和二十八年(満二十五歳)
  大村茂の年譜によると「党員資格剥奪のまま、中小零細企業・日雇労働者の労働組合運動と平和運動、文化運動に専念」とある。平和擁護青年同盟事務局長となる。合同労組の専従書記となる。この頃から中古の孔版タイプを購入し、竹中英太郎が開業した軽印刷屋を引き受け、「五月工房」を「経営」……というよりも、父の下で細々と「運営」する。
  《一九四七年春、私は横浜埠頭の荷役アルバイトに行った(略)港湾には労働組合があり、赤旗が風にひるがえっていたが、虱太郎と蔑称される私たち日雇いには弁当の特配もなく、徹底した差別待遇であった。組合事務所に文句をいうと、次に働きに行ったときに点呼から除外されて仕事にあぶれてしまった。横浜から徒歩で、東京の九段(中略)まで、棒のようになった足を引きずり空っぽの胃袋をかかえて帰った辛さを、私は決して忘れない……。(中略)組織と未組織と、大企業と中小零細・下請け企業と、さらにその下層に置かれた日雇い、出稼ぎの労務者と、――その差別の構造。(中略)日雇労組、一般合同労組の専従として地方の小都市に骨を埋めようと私が決意したのは、この戦後体験を原点とする》らしい(1 カッコ内は筆者注)。
  《五・三〇事件で投獄され、やむを得ず都落ちした私は、再び東京に舞いもどる日ばかりを夢みていた。正直に告白してしまうと、火炎瓶を投げることではなく詩や小説を書くことで、"革命"に参加しようという甘い了見をいだき、田舎の労働組合の専従などほんの腰かけにすぎないと、心中ひそかに考えていたのだ》(2 ※)。
  
  竹中労は、共産党にいつ復帰したのか? 簡単に出たり入ったりできるものなのか?
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  [参考文献]
  (1)「映画批評」七二年八月号
  (2)「キネマ旬報」七一年九月上旬号
   ※もちろん、この後竹中は父・英太郎の教えに従って、「政治」を学んでいく。恐らくこの辺りから、プロレタリア文学を積極的に読み、文章修行に励んだのではなかろうか(この辺りは推測である。六一年復党後、宮本顕治周辺にいたとき、プロレタリア文学などを本格的に読み始めたのだと思われる。が、このときも少しばかり読みかじっていたのではなかろうか)。竹中はこのように、非常に勇ましい心象をもっていたかのような文章を書くが、それはつねに読者にミスリードを誘うものでしかない。ちなみに、この頃竹中は、映画監督・新藤兼人作品『どぶ』にかなりの影響を受けたようである。この制作は、吉村公三郎であった。二人はコンビを組んで、数多くの名作をのこしている。『どぶ』は音羽信子演じる主人公が、「ルンペン」の生活をしながらも、力強く生きていこうとするストーリーであった。「かっぱ村」という、スラム街を舞台にしている。これは後(十年後)の初期のルポに影響を与えているのかもしれない。東京の上野公園近くに、「かっぱ橋道具街」があるが、そこにイメージを投影したのかも(しかし、ここは敗戦でぺちゃんこになっていたのだが)。
  
  「インターネットGОО」(映画情報から引用)
  京浜工場地帯の一隅、河童沼のほとりのルンペン部落に、ある朝、うす汚ない若い女の行き倒れがあった。部落の住人徳さんがパンを与えたのを機会に、この女ツルは、河童沼部落に住むことになった。ツルは戦後満洲から引揚げてから、紡織工場の女工となったのだが、糸へん暴落のため失業し、それ以来というもの転々として倫落の道をたどってきたのだった。ツルが同居した徳さんとピンちゃんは、競輪、パチンコにふける怠け者達だったが、阿呆のツルはそれとは知らず毎日、二人のために弁当を持たせて勤めに送り出す。だが二人はツルを利用して一儲けたくらみ、近所の特飲街にツルを売りとばした。ツルは、そこの主人大場と衝突して飛び出し、河童沼へ帰ってきたが、大場が徳さん達に前借金の返済を迫ったので、遂にツルはパンパンになって夜の街に立つようになり、その稼ぎをピンちゃん達に貢ぐのである。ある夜、ツルは沼の主人三井のアプレ息子輝明が二十万円入っていると云う手提金庫を奮って逃げてくるのに会い、沼の住人達に注進した。彼らは金庫を求めて走り出したが、取ってみると中には裸体写真しか入っていないで、一同は風邪をひいてツルを恨んだ。ツルは寝こんだピンちゃんを真心を以て看護したが、ある時突然抱きついたピンちゃんにツルは抵抗した。ある日、ツルは土地のパンパンに因縁をつけられリンチされたため、逆上してピストルを振り廻して暴れたので、巡査に打たれて死んでしまった。沼の住人はツルを担いで帰った。ツルが病気に鞭打って貯金した通帳、そしてピンちゃんの学校へ行くという偽芝居をすらも信じて学用品を贈ったツルを知り、一同は涙にくれた。
  [時代・社会背景]
   戦後、未曾有の高度成長が達成される。
  
  一九五四年〜五七年 昭和二十九〜三十二年(満二十六〜二十九歳)
  五四年竹中は、ある女性(竹中晃?)と結婚している(1 ※)。
  五四年、共同工芸投石事件が起こり、竹中とリーダーその他組合員含め(立ち見していた父・英太郎も含め)、七十五名が共同正犯で逮捕される。
  五五年八月、党の活動として、山村でドサ回り。これまで党は二極に分裂しながらも「武装闘争路線」をひた走っていたが、六全協決議(国民平和路線)で党の再建がなされ、横領の方針であった武装闘争が終わりを迎える。《朝鮮動乱後の不況で、ストライキに明け暮れていたころはよかったのだ。世の中が次第に落ち着いて、労働組合運動の目標が経済要求にしぼられてくると、私の方が落ちつかなかった。それは一口でいえば、"革命の大義"を見失った職業革命家の悲哀だった》《長い戦後の生活苦から、身の回りが小奇麗になっていき、"家庭のぬくみ"が増していくのに反比例して、私の魂はすさんだ、酒を飲んでは手当たり次第に暴力をふるう明け暮れだった(略)なまぬるい環境に死ぬほど鬱屈していたのである》(2 ※)。同年、《「新日本文学」会員の小生、平和の鳩などをぬいつけた赤旗を担ぎ、ドサまわりの明け暮れだった。山村のアジトで玉音、じゃなかった六全協の決議を聞いたのは五五年八月末、「所感」「国際」両派の野合から一ヶ月後であった。もっとも同月十一日、潜行中の三幹部(野坂・志田・紺野)が青山日本青年館に、仕立ておろしの背広であらわれ、ナニゴトか進行中であると推察はしていたのだが》(3 ※)。同年秋、貧窮のどん底にいた竹中は、創価学会から折伏を受ける(入信はしなかった)。この頃新日本文学の山梨県支部を結成するため、壷井繁治と間宮茂輔が来峡、竹中と熊王徳平は幹事役をつとめる(恐らく竹中の誤記)。父・英太郎は同席するはずであったが、行きつけのパチンコ屋で素知らぬ顔して玉を弾いていた(4 ※)。同年、共産党の国民総路線による平和擁護青年協議会に参加する(季節特定できず)。
  五六年夏、山梨県一般合同労組連合会に属する共同工芸労働組合で争議が起こる。甲府に戻っていた竹中は、石和の旅館「糸柳」で会社が労組幹部を抱き込み、密談するとの情報を耳に入れていた。怒った竹中と父・英太郎は会社に暴れこむ。住居侵入、器物損壊の罪により告訴され、両者とも被告となる(5)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  新日本文学会会員であると竹中はいうが、その記録は見当たらない。が、彼は新日本文学の会員の「文芸」にかなりの影響を受けている。
  共同工芸労働組合事件は、五一年発生、五六年発生、と記述が重複している。
  五四年から「刻みタバコ」を愛用し始める。
  甲府では、市議会リコール運動を行い、年の暮れ(年代特定できず)に赤線をまわって歩く。
  《新参の私が受け持ったのが穴切という甲府市の遊郭一体であった(略)木枯らしの吹く色町を一軒一軒まわり、署名を求めて歩く。化粧を落としてコタツにあたっている、鉛色の顔をした女たちは、今時のホステスやトルコ嬢と違って、住民登録もしていれば、選挙権を持っている者も多かった。けげんな表情をみせる女もいるにはいたが、十人のうちの七人までは静岡か信州なまりで人なつっこく、「へえ、俺(おら)んとうも署名できるだけえ?!」と顔をかがやかした(中略)私は穴切で遊べなくなった。酔ったまぎれに、「赤線」に足が向くことがあっても、あっちこっちから声がかかるのだった、「共産党のお兄さん、お茶でも飲んでいかんけ」「またリコールけえ?」》(6)。
  五四年以降に、共産党とのかかわりで映画サークル「よい映画を見る会」会長に就任している。《毎週、「良い映画」をえらぶ。二割引きの優待券をくばる。一九五五年「たけくらべ」(新東宝、監督・五所平之助)、これは文句なし。江利チエミ、雪村いずみと共演「ジャンケン娘」(東宝、監督・杉江敏男)? お次の番だよ、「歌まつり満月狸合戦」(新芸術プロ、監督・斉藤寅次郎)?? 「旗本退屈男 謎の決闘状」(東映、監督・佐々木康)??? もういけませんあいつ何を考えておるかと、(共産党内部から)非難ごうごう。一九六五年、ひばり映画禁止! チャンバラだめ、"俗流大衆路線"罷りならぬときついお叱りをこうむる》(7 カッコ内筆者注)。《割引券で(客を)釣ってね、会長だからボクはむろんタダ、一九五八年再び上京するまで足かけ七年間、一本も欠かさず封切りを見ました、邦画といわず洋画といわず、戦前ものの再映もね》(4 カッコ内筆者注)。
  
  ※当時のストリップの状況を書き足す
  
  [参考文献]
  (1)「新潮45」〇三年十一月号
   ※このところの経緯は、竹中自身が語ることは少なかった。後年に「家庭は諸悪の根源だ」と無頼風にいったりする。《ここ数年(昭和四十七年から)女房子供のこと、いっさい言わず、どこにいるかすらも、かくしてしまった(中略)女房子供のところに公安に踏み込まれるのはイヤだからだ(中略)戸籍はそのままよ。子どもたちが竹中労のせがれであり娘であることを望むからね》と語っているが、婉曲な物いいである(9)。これでは竹中自身のプライバシーは明確にならない。資料によれば、この女性はずっと『団地七つの大罪』の舞台であった千葉県船橋市高根台公団住宅一八五の一〇一に、〇三年現在も暮らしているらしい。のちに財産整理の問題で、この女性と夢幻工房に務めている石原優子の間にひともんちゃくあった様子である。妻の竹中晃(?)は、〇五年にガンで亡くなった。
  五四年に竹中はある女性と結婚していると書いた。年譜から連続的にみれば、五・三〇の過激派体験に懲り、所帯でも持って落ち着いたらどうかと周りに薦められた結果ではないか、と推察することができる。そうであるならば、父・英太郎も賛成したに違いない。ちなみに、当時は「お見合い結婚」が主流である。「恋愛結婚」(?)がブームとなるのは、高度成長を経て核家族制(社会党が民法改正)がほとんど普及し、並行して「ミッチー・ブーム」が「女性自身」ほか週刊誌、テレビで喧伝された以降であろう。ここから、主に週刊誌等で「女性の民主化」キャンペーン(のようなもの)が成されはじめる。
  (2)「自由」七四年一月号
   ※この回想にはもちろん「つくり」があると思われる。父の庇護の下、政治運動にまい進していた反面、このように鬱勃した感情も持っていたのであろうと推察できる。
  しかしこれは、世代の共時の感覚であろう。「戦後とは偽の体制なのではないか」というのは、吉本隆明、三島由紀夫などが、等しく持っていた感覚である。
  (3)「現代の眼」八一年一月号
  ※「仕立て下ろしの背広であらわれた」とあるが、竹中はこの頃東京と甲府を行ったり来たりしていたのであろうか。彼らの服装を見られる立場でなければ、この記述は成り立たない。つまり、彼が青山の青年日本館にいなければ、ということである。
  とすると、やはり彼は山梨―東京間を往復していたのであろう。鈴木義昭も、「行ったり来たりしているね」と話していた。
  (4)『日本映画縦断2 ――異端の映像』(白川書院)
   ※このとき英太郎は山梨日日新聞の論説委員長。英太郎は、母系性研究家・高群逸枝の家に壷井と共に居候していたが、戦中に壷井が「戦犯七つの首」という詩を発表していたため、《ああいうのをダブル・クロスというんだ》(8)といって会わなかったらしい。竹中によれば、父・英太郎の態度は《戦争に対して誠実な人だけが持ちうる》(4)感覚であったという。しかし、この話も事実かどうか定かではない。この話はどうやらつくり話の感が強い。
  (5)『美は乱調にあり、生は無頼にあり』(批評社)
  (6)「創」七四年二月号
  (7)『完本 美空ひばり』(ちくま文庫)
  (8)『竹中労の右翼との対話』(現代評論社)
  (9)「平凡パンチ」七二年年九月四日号 石堂淑郎との対談
  
  [時代・社会背景]
  
  一九五八年 昭和三十三年(満三十歳)
  女児(長女・小絵)、が誕生する。この頃甲府市で私塾を経営している。
  七月、《肝心の(友人の千田夏光、川内康範などの運動仲間に招かれた)就職先である毎夕新聞とはどのような新聞かも知らず》(1 ※ カッコ内は筆者注)上京する。「東京毎夕新聞」の文化部に就職する。文化部長待遇二面デスク、というのが肩書きだったが、その実は雇われライター。受け持ちは浅草六区・池袋・新宿等のストリップ劇場の探訪記事、踊り子・コメディアンの評判記、旧赤線のルポルタージュなどさまざま、後に社会面まで手を広げる。《毎日、毎日、ストリップ劇場の楽屋へ出入りし、「いれーななかへ(イレーナ中江)譲」とか「はめきまんこ譲」というけったいな芸名のストリッパーたちの取材をしてまわった》(2 カッコ内筆者注)。
  秋に浅草のストリッパーたちを組織し、待遇改善のストライキの指導者となるも、東洋興行社長・松倉宇七から各劇場立ち入り禁止のオフレが出て、争議は敗北に終わる(3 ※)。その他、コメディアンたち自身が自治する組織"ユニオン"の結成を画策する。戦後の華やかりし頃の「ムーラン・ルージュ」を復活させようと、有馬是馬と案を練る。この頃、取材をかねて《悪友が世話した"安くて家族的で環境絶佳"と称する》(4)州崎パラダイスのど真ん中にある女部屋の三畳間を仮の宿とする。《三流新聞の給料は実に安く、電車賃にも事欠く毎日を、野良犬のようにすごした。セビロも時計も質に入れ、安酒をくらって泥のように眠った、「革命の敗残兵」にはふさわしい生きざまであった》(5)。毎夕で働いているときのアダ名は「ミスター金遣い」、《一ヶ月に十六万円も取材費を使ったことがあり、しかも領収書はいっさいなし。取材費伝票に「渋谷で××氏に会い、メシを食おうといわれて会食、三千円」と書き、これには例の約三億円脱税で捕まった社主の田中彰冶氏もカンカンになった》(6)。小林永司によれば《自分の金も他人の金も見境のつかないところがあったからね。つまり、どんな金でもいったん自分の懐に入ってしまうとそれでいい》(7)。その反面、《毎日一人きりで新聞の一ページ(二面?)をつぶすという、むちゃくちゃな重労働をまる一年、休みなしでつづけた》らしい(8 カッコ内は筆者注)。
  寄稿者の了解を得て、連載の随筆原稿の文体模写の代作(ゴーストライト)もやっていた。(竹中の記述によれば)丸尾長顕、薩摩治郎八、田辺茂一、悠玄亭玉助、寿々喜多呂九平など。浅香光代の自伝『女剣劇』などのゴートライライターであった仲沢清太郎氏に聞書きのコツを学ぶ。この時期、日蓮宗身延山の山林汚職キャンペーンなどを書くが、社の事情で載せられなかった記事も多かったようだ(社主であるマッチポンプで有名な田中彰治が、記事を取引の道具にしたため。ちなみにこの乱伐汚職、時の法主・増田日遠を辞任に追い込んだと竹中は語る。小林永司が間に入り和解したかと思われる。ネタは山梨に滞在していたときから考えていたのだろう)。「東京毎夕新聞」に勤めたのは翌年(五九年)の七月まで。《運動を離れてゴシップ夕刊紙の記者になった私には、若くして韜晦の思いがあった》(8)。転居はこの後、四度する。《私たち家族(妻・子供二人)の(賃貸)住居の歴史は、ディオゲネス的悲惨の連続であった》(9 カッコ内筆者注)。《昭和三十三年夏から三十四年暮にかけて、京浜蒲田から穴守線がカーブする、その路線際の六畳一間きりに棲んでおりました。電車通るたんびに天井から埃が落ち、ギシギシと家は揺れました。原稿は売れずボロ家の暑さかな》(10)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  《芸能記者の開業は中小零細企業労組をやっていたとき、労働者を裏切って毎夕新聞に入社(略)故にもの書きとしては常に裏切りの気持ちがつきまとうという》(11)にこうある(恐らく父・竹中英太郎がこのケツを拭いたのだろう)。ちなみに当時の週刊誌の記事、竹中労の紹介をしている文章をみると、昭和三十二年上京、「東京毎夕新聞」入社とある。竹中自身は昭和三十三年と記述しているが、後者が正しいと思われる。
  竹中は毎夕で働いている際、当時「星菊水」で働いている阿部定に取材しているらしい。
  この年、SKDの踊り子であり、創価学会会員であった中野照子さんと出会う。のち、「女性自身」の記者をした際に記事にしたこともある。そして、『牧口常三郎(4)』の最終章で彼女を語る。
  畏友・斉藤龍鳳は「東京毎夕新聞」の記者であった。竹中との初の出会いは「フジキ」という喫茶店であった。内外タイムスの社屋は金杉橋にあったが、その界隈の喫茶店であった。お互いハンチングを被っていたため、二人は出会ったときに辟易しあったようである。
  この年、芸能記者としての師、南部僑一郎に出会う。竹中は毎夕新聞記者として銀座千疋屋でインタビューする。このとき南部は竹中を見るとすぐさま、父・英太郎の倅であるとわかったようであった。南部は父・英太郎と「博文館」の待合室で出会っていた。竹中は翌年から自宅である杉並区南町にたびたび向かい、由原木七郎(東京新聞)、加藤康一(映画情報編集部)鈴木信治郎(文化通信)、岡田啓三(東映宣伝部)などの先輩に伍して、南僑一家に迎え入れられ、芸能ジャーナリストとしてのイロハを学んでいく。滝沢一、玉木潤一郎、内田吐夢などを南部から紹介される。芸能ジャーナリストとして南部は六〇年当時、ほとんど映画界のヌシといっても差し支えないくらい顔が広かった。竹中が「事件」を起こすたびに、南部は竹中のシリを拭いた(12)。おそらくこの頃から、大衆運動である六〇年安保反対運動と、大正時代の文芸運動をパラレルにして考察する手がかりになっていくようだ。後述するが、竹中が「マヴォ」を探すために伊藤新吉を訪ねるのも、南部のはたらきが大きかったのかもしれない。ちなみに、南部は共産党のシンパサイザーであった。
  竹中の師匠は三人いる。芸能記者としての師、南部僑一郎、「性科学」ライターとしての師、高橋鐵、「思想」の師、羽仁五郎。しかし、これは結果的なものであると思われる。
   売春防止法制定以前・以後(三十一年五月二十四日公布、刑事処分と補導処分に関する規定を除き三十二年四月一日施行、三十三年四月一日全面適用)をめぐる風俗ルポを、かなりの数書いている。「赤線の灯は消えたり」、旧赤線ルポを毎夕新聞に半年連載したと竹中は語る。これは浅原健三『溶鉱炉の火は消えたり』をもじっているのだと思われる(?)。
   この頃、ロック座裏の『福乃家』横里りん、
  同じ頃「内外タイムス」の記者をしていた矢崎泰久は、
  《内外は新聞協会に加盟しており、一流紙と同じ記者クラブに所属していた。そんな関係で、竹中が入手不可能ないろいろな情報を、私はこっそり流してやったりした》(13)という。この頃は親密な付き合いをしていた。矢崎はこの後竹中と兄弟のような付き合いをしていくが、七七年結成された革新自治自由連合の運動から関係がギクシャクしていく。
  高橋呉郎によれば、《「ルポルタージュ」と「ライター」をくっつけた「ルポライター」という新語は田川博一がつくった》(14)とある。田川はこのとき「文藝春秋」の編集長で「週刊朝日」誌上に載った《……いいルポ物をやりたいのだが、有能なライターがいない。社外の人で若い、優秀なルポ・ライターを五人ほど育てたいのが、私の念願です」》(14)。この田川の周辺から、若くして夭折した作家・梶山季之が出てくる。「ルポライター」の名称を一般化させたのは梶山の功績が大きい。翌年、竹中は千田夏光にすすめられてトップ屋を開業するが、ルポライターと名乗るのはもう少し後になってからのように推察される。筆者の調べによれば、六十年代中期から肩書きとして「ルポ・ライター」は使っているが、これ以前に使っていたかどうかは、調べが足りない。当時はルポライターという名称をつかってライターに携わる人間はごまんといた。ノンフィクション作家・小林道雄も、「ヤングレディ」周辺にいて、ルポライターをしていたようだ(15)。
  
  [参考文献]
  (1)「自由」七四年一月号
  ※甲府から東京へ上京するのは女児の誕生と軌を一にしている。千田夏光、川内康範に招かれたということは、恐らく東京に少なからず滞在していて、そこから招かれたのではないだろうか。つまり、竹中は五九年以前にも東京にいて、党員としての基本的な活動をしていた、ということになる。恐らく、家庭は円満だったのではなかろうか。でなければ、国民平和路線の後も、党員として活動していた説明がつかない。武装闘争路線ののち、(それに参加していた)ほとんどの党員は離党したのだから。
  (2)「映画評論」七三年一月号
  (3)『芸能人別帳』(ちくま文庫)
   ※本書によると、しばらくヤクザに付け狙われ、浅草を歩けなかったこともあったらしい。《あの野郎、右腕ブッタ斬っちまえ!》(11)と、記事を書けなくさせようとする者たちもいたらしい。この話は浅草界隈では語り草となっていたようである。この頃の取材で、東洋興行系の芸人と口を聴けなくなり支障をきたした。争議は敗北したが、浅草のストリップをフランチャイズ制にすることに成功する。もちろん、この頃のヤクザはまだ「牧歌的な気質」を有していたと思われる。竹中が後年に『美空ひばり』の取材で山口組三代目組長・田岡一雄と懇意になるのも、この気質を有していたからであると推定することが出来る。竹中の戦後の一時期の体験を想起していただければわかるが、差別を受けていた人々とも懇意であったためであると推測できる。八〇年代中期、竹中がヤクザに人気があった(らしい)のも、まだその種の人間が残存していたためであると思われる。ちなみに、筆者はヤクザを肯定している訳ではない。
  (4)「創」七四年二月号
  (5)『大藪春彦の世界』
  (6)「週刊現代」六八年八月一日号
  (7)「話の特集」九一年八月号
  (8)『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫)
  (9)「潮」六五年六月号
  (10)『左右を斬る』(幸洋出版)
  (11)「サンデー毎日」七二年十月十五日号 桐島洋子との対談内
  (12)『日本映画縦断2 異端の映像』(白川書院)
  (13)「噂の真相」九一年八月号
  (14)『週刊誌風雲録』(文春新書)
  (15)『編集者の学校』(講談社)
  
  [時代・社会背景]
  
  一九五九年 昭和三十四年(満三十一歳)
  七月、「東京毎夕新聞」の社主であった田中彰治とその息子の常務と喧嘩し、クビになり独立を決意する。先輩である千田夏光にすすめられてトップ屋を開業。きっかけは「週刊スリラー」に無署名アルバイト原稿を書いていた経験があったため。この頃から「ルポ・ライター」と名乗る(1 ※)。
  「週刊スリラー」「週刊大衆」「アサヒ芸能」「実話特報」「週刊実話」などに風俗芸能ルポ・バクロ記事を売り、生活の糧を得る。「東京の原爆被災者たち」「埋蔵金ブームに踊る旧右翼」「東京暮色・ドヤ街三文オペラ」「霊城七面山を荒らす身延の破戒僧たち」「売春防止法―それから一年の吉原」「サドマド・フェティシズムの"黒ミサ"を私は見た」などを何本かのルポにまとめるが、これらのルポは売れず、オピンク記事のみ細々と売れる。森脇将光の秘書であった平本一方(敗戦直後の学生運動時の仲間、「週刊スリラー」の編集責任者)から、俳優の三国連太郎を紹介される。「週刊スリラー」編集部で大藪晴彦と出会う。
  芸能記事として初めて雑誌に載ったのは、映画評論家・吉村公三郎が倉敷でエロ映画を鑑賞し、地元の警察所に取調べを受けた、という事件の追跡記事。この記事は「週刊スリラー」に載ったが、取材費はナシ、かくて「週刊スリラー」との縁が切れる。「アサヒ芸能」で生出寿氏と出会い、先に挙げた黒ミサ・売春婦更正施設のルポ等を売る。歌手の中島そのみの実父が竹中の義母(つね子)の出身地で、離婚の原因となった後妻と旅館を経営しているという話を思い出し(そのみは早くに父を亡くし母親の手ひとつで育てられたという美談が「週刊平凡」に載っていた)、これを週刊「アサヒ芸能」に売り込みバクロ記事にする、「全告白―中島そのみは生みの父親をなぜ隠したか」。
  十一月、井上清から、雑誌「女性自身」のアンカーとして働かないか、というスカウトを受ける。「自分が取材しなければ書きません」と宣言し、取材手当・週八千円、原稿料一枚千五百円の契約が成立、「女性自身」内部の特派記者となり、その日からスタッフ・ライターとして働く。井上は「全告白―中島そのみは生みの父親をなぜ隠したか」を読み、竹中を探し出し、黒崎勇編集長に推薦した、という経緯だった。初仕事は十一月十五日(契約成立の翌日)、銀座ケテルスというレストランで、トニー・ザイラーの来日を迎えて共演する鰐淵晴子と、その母親であるベルタさんのインタビュー、「私は混血を売り物にしたくない」。この日から芸能ルポライターとなる(高橋呉郎『週刊誌風雲録』によると、翌年二月からとある)。記事では芸能、教養欄を担当する。「東京毎夕新聞」の同僚であった大橋潮に、高輪プリンス・ホテルで呼び屋(プロモーター)である樋口久人を紹介される。ここから呼び屋との交渉が始まる。
  五九年から六一年にかけて「別冊アサヒ芸能」と契約を交わす(1 ※2)。原稿料五百円、月産二百枚、「女性自身」の芸能記事取材・執筆と同時進行であり、徹夜の連続で原稿を書く殺人的重労働の明け暮れの生活を送る。小説からコラムまで《はちゃめちゃに書きまくった》(1)。このとき、仕事場は新橋にあったようだ。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  足かけ七年、竹中の芸能ジャーナリスト時代がはじまる。この時期はテレビなど一家庭に広く普及していない時代、竹中は現場演劇、新劇、ショウなどを見て歩いた経験を活かし、演劇批評を展開すると同時に、女優・男優たちの人物評判記を展開する。毎夕に勤めていた期間(五八年七月‐五八年七月まで)から女性自身にスカウトされるまでの期間(五九年十一月)は、書いた原稿がまったく売れず貧窮のどん底であった。創価学会の会員であった大家さんに家賃を待ってもらう、同じく会員であった中華料理屋の若夫婦に約四カ月間ラーメン・ギョウザをツケで食わせてもらう、といった生活を送る(?)。この界隈(京浜蒲田の路線ぎわの六畳一間)、向う三軒となりが創価学会員であり、夜討ち朝駈けの折伏の嵐、学会員にはならなかったが、後年『聞書庶民烈伝・牧口常三郎とその時代』を無名市井の庶民の視点で書くきっかけになった。「マルクスが貧乏人をつくるってまったくその通り」と、当時を回顧していっている。
  《教養ページでは "読者のページ"として、樋口一葉や啄木とかサルトル》(4)など現在の週刊誌では考えられない文章を書き飛ばす。同時にこのとき「東京の被爆者たち」という記事を、矢崎泰久と共同取材している。この記事を、矢崎は「内外タイムス」に、竹中は「女性自身」に取り上げる。後年、『在韓被爆者』を書くきっかけになったと、矢崎は『自由への証言』内ではなしている。
   この頃、カフェー「天久」、川原町のジャズ喫茶「ブルーノート」に通う。「天久」では、映画監督・内田吐夢のお供をする。
   毎夕記者時代、老舗『梅園』に通う。踊り子たちを誘って汁粉やぜんざいを振舞う。
  暮、女優・高峰秀子を取材。「多摩川土堤バタヤ部落(一粒会)」(2)で、山谷の革命家と呼ばれた梶大介と出会う(? 季節特定できない)。
  この頃「別冊アサヒ芸能」の「特異作家の連作」という企画で署名原稿を書いていたと思われる。『ルポライター事始』内では、六三年森繁久弥事件を契機に署名で原稿を書き始めるとあるが、この企画での署名が最初であるかと思われる。しかし、本誌は大宅文庫にも所蔵は無い。『首輪のない猟犬たち トップ屋』をみると、執筆者は竹中の他に、北川衛、猪野健治などのようである。
  竹中のマーケットは、「電車の網棚の上に読み捨てられることを、みずから潔しとする」出版物、ストリート・ジャーナリズムに存在していた。体制に対し言論の暴力を行使、遊撃・回避・撤退を繰り返すゲリラ戦の如く疾風怒濤、《俗流大衆路線の衣をまといつつ、反体制・反権力、異端の思想を煽動すること》(1)を旨とし、依頼された書雑誌に寄稿していた(らしい)。当時、ルポライターという名は言論界の差別の対象であった、「売文稼業の血統書付の雑種として」存在していた竹中は、革命の主体を、「政治的に」、何に依拠するべきかを、この頃必死に考えていたようである(?)。
  依拠すべき対象がこの頃の「女性自身」の読者であった。竹中は彼女たちを《貧しい娘達》(1)と称した。竹中はもちろんインテリであり、六〇年後半あたりまで「知識人と大衆」という命題を考えていたように推察できる。そこで考えたのが、「女性自身」の読者、つまり大衆の動員→(前衛の)組織化の構図であり、シンボル操作(例えば赤木圭一郎)をし、大衆を扇動することであった。この「女性自身」の仕事で、状況に応じた(文化記号論的な!)イメージメーカー、プランナーの仕事のやり方を把握していく。もちろん、この手法は当時、松下圭一が主張していた方法論に拠る。竹中の言説は常に政治的なのだ。
  《私(竹中)は運動とか革命とかいうことについて、「元」という肩書につくけれども、プロフェッショナルのつもりだった。それでまあ、途中で見切りつけちゃったんだが》(3 カッコ内筆者注)とある。これは、「女性自身」の政治的文脈から「ビートルズ原理」からの文闘的非政治的政治主義、そして「日本歌謡選手権」までの活動行程を暗示している発言ではなかろうか。六〇年後期に除名はされたが、七十年代中期までの「党」的な活動を熱心に実践していた事を指している発言かと思われる。竹中は党外でも党のことはつねに考えていたようだ。「党」でなければ「革命」は生起しえないのではないかと。現在もこのように考える元共産党員は多い。
  
  [参考文献]
  (1)『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫)
   ※五九年頃からルポライターを名乗っていたと竹中は語る。筆者の調べでは六三年頃から肩書として使っているが、一般に名乗っていたのか定かでない。松田政男によれば、七〇年代前半でも「名乗ろうか名乗るまいか迷っていたようにみえた」(談)ようだ。「ルポライター」という名称は、差別的な言葉として機能していたためであろう。ちなみに、彼が「元祖ルポライター」というのは、間違いである。
  ※2編集長は『呉子』でも世話になる生出寿であった。「週刊アサヒ芸能」の社主兼編集長はのちに徳間書店の社長となる徳間康快。「別冊アサヒ芸能」の路線は「売れさえすればよい記事」であった。その紙面構成、編集方針は「悪の愉しみとでも言うべきストリート・ジャーナリズム」であると竹中は評した。「アサヒ芸能」では、渡辺恒雄もこっそり内職原稿を書いていたことがあった。竹中とナベツネが一緒に書いていた点は、まさに「魑魅魍魎」であるという感があるが、徳間も渡辺も共産党員であったらしい。もちろん、徳間と竹中は、社長と一記者の関係でしかない。
  (2)『山谷―都市反乱の原点』()
  (3)『法を裁く』
  (4)『無頼の墓碑銘』
  
  [時代・社会背景]
  
  一九六〇年 昭和三十五年(満三十二歳)
  男児(長男・弦)が誕生する。連日のように安保闘争の集会やデモに出かける。「新劇人会議」「若い日本の会」「民放労連」など各種運動団体と行動を共にし、大乱の予兆に身を置く。二月、大映東京撮影所で映画「からっ風野郎」に出演していた三島由紀夫をインタビュー。六月、石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎らが主催する「若い日本の会」のカンパニアの席上(司会・吉本隆明)にて、後方の席から《ナンセンス!》(1)《議論をやめて街頭に出ろ!》と発言する(2 ※)。この会には大藪晴彦も参加していた。《「馬鹿々々しいから俺は帰る」とブ然と吐き棄てると、彼は身をひるがえして、会場を出ていってしまった。足元から風が立つような爽快感を、私はいまでも記憶の底にしまっている》(1)。
  「女性自身」の記事では、松山善三・高峰秀子夫妻の聾唖者を主人公にした映画「名も無く貧しく美しく」の記事を作成する、「名もなく貧しく美しく/高峰秀子を感動させた夫婦愛」。同映画のキャンペーンを張り、七回に渡り特集・グラビア記事を組む。この制作協力で映画監督・古海卓二の子息、古海巨と出会い、女優・紅沢葉子と知己を得る(3)。その他、奈良光枝の女囚の歌などを書く。ヨネヤマ・ママコと岡田真澄の破局に終わった同棲生活に「契約結婚」なる新造語をプレゼントする(彼らは三月二十四日結婚・翌年八月離婚)。六月七日、六本木の俳優座事務所で東山千栄子にインタビュー取材し、東山千栄子半生の記事を作成する、「女ひとり桜の園を守って/東山千栄子・70歳の年輪」。日活の映画俳優で、第三の男として人気を博した赤木圭一郎を安保闘争に参加させ、日本のマリア・ヴォロンテ(イタリアの映画スターで無政府主義者)に仕立て上げようとスタンバイするが、これは未遂に終わる。六月十五日、午後四時十五分から深夜にかけて、安保闘争のデモを視るために国会議事堂の周辺を走り回る。維新行動隊がデモに殴りこむ様子を現認する。六月十九日、新安保条約自然承認。《安保闘争以前に、その方法論(深沢七郎『風流夢譚』から気づかされた「ミッチー」(正田美智子)「オスタ」(清宮貴子)と叫ぶ大衆の猥褻性とその浮世風呂精神)把握していれば、かなり有効にたたかって、死(に)場所を見つけていたかも知れぬ、愚かにも私は日本共産党に戻って、再び組織に依拠して闘うことを考えたりしていた(略)誤解のないように断っておく、私は党の指導部を信じていなかった、真に"輝ける党"を建設するための造反を内部からおこすことを、党員であったときも党外でもずっと思いつづけてきたのである》(4 ※ カッコ内は筆者注)。
  「女性自身」の専属であった七年間、映画俳優・歌手、皇族、死刑執行人、ゴースト(死者・幽霊などの冥府からの通信)、百五十篇余の手記を創作、代作する(うち芸能人の手記が百五篇)。秋、《映画産業を覆う黒い霧の正体をあばこうと、調布の日活撮影所に日参》(5)する。「女性自身」の取材のため、日本シリーズの川崎球場(大毎・大洋戦)で映画監督の大島渚をインタビューする(この年、大島渚は小山明子と結婚)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
   この時期は、「無頼」の雰囲気は皆無である。あったとしても、突発的なものであった。筆者の調べによれば、竹中が「無頼」ふうになっていくのは六〇年代後半からである。恐らく、山谷に向かったのが契機と思われる。
   竹中の活動行程は大島の映画の影響が多分にある。刺激し合っていたと見るべきだろう。七二年、「映画批評」で映画「夏の妹」を巡って論争に発展する。この後、「日本映画縦断」をみた大島は、竹中との友情を復活させる。
  
  [参考文献]
  (1)『大藪晴彦の世界』(新評社)
  (2)『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫)
   ※恐らくこの文脈は江藤淳を批判しているのだと思われる。竹中は草月会館と都市センター・ホールで行われた「若い日本の会」の集会に参加していたという。江藤の戦略は、「宇都宮徳馬を担ぎ上げ、与党反主流派である三木・松村派と協力し、岸内閣不信任を通して安保条約の成立阻止」であった。江藤は「若い日本の会」で前出の宇都宮徳馬その他文化人などを呼び、シンポジウムを実行した。竹中の文脈をみると、この方法が気に入らず、席を蹴り会場を出たようである。六〇年安保は草の根レヴェルで行なわれ、戦後最大の「運動」であるのは周知であるが、当時の竹中であれば、江藤の方法は逆にシンパセスティックな感を抱いたのではないかと推察する(もしかしたら、江藤のその手法を、五五年の社会党の再統一と保守勢力の合同(いわゆる五五年体制の確立)とをトレースしてみていたのかもしれない。なしくずしの保守体制として)。竹中はこの後の六一年に共産党に復党する。彼が復党するのは、草の根レヴェルの運動を継続してより強固に再組織する「党」を幻視したためではないかと思われる(つまり、この共産党の復党は、六〇年における社会党の分裂に端を発している面もあるのではなかろうか)。
  とすると、「議論をやめて街頭に出ろ」と吼えるのは、竹中のアンビバレンツを示した文脈のように思う。江藤の手法にシンパセスティックであるならば、事実上「逃亡奴隷」であるという論理も、ここでは成り立つ。
  竹中はこのように、自らに影響を与えた「文化人」「知識人」に、レトリックを混じえながら攻撃する場合が多々ある。数多いのは、大江健三郎、大宅壮一、佐藤忠男など様々だ。しかし、以上に挙げた著名人は、竹中自身もかなりの影響を受けている(大江=文学、大宅=ジャーナリスティクな評論活動、佐藤=評論における史実の構成。この部分については後述する)。つまり前出の文脈は、彼らの言説(意)にとらわれまいとする、アナキスト的な態度である断じても構わない。この点について、竹中は七一年にこう述べる。
  《わき道にそれるが、「よろず喧嘩売ります、買います」とデンガラ太鼓を打ち鳴らして、(佐藤栄作)総理婦人からナベプロに至るまで、かまわず斬りつける私の"狂疾"というやつ、常住敵をつくって自らを窮地に追いこまなくては、いつかボスとなり、小権力に安住してしまうであろうオノレの資質、性情へのきびしい自戒に発する》(10)。
  竹中の「悪い癖」である。攻撃される人間としてはたまったものではない。だが、これが一時期、彼の仕事であるかのようだった。眉をひそめ、目を覆いたくなるような下種な文章である反面、なぜ彼がこのように攻撃的な文脈を構成するに到ったのかは一考に価する問題である。後年の回想では「スキャンダルジャーナリズムから一点突破して体制の擬制(イデオロギー)に抗する」と、自身の戦略を語る。が、それは多分に修辞(レトリック)であり、ことの動機は違った部分に存在していたと思われる。恐らくこの種の批判は、東京毎夕新聞記者時代(五八年七月‐五九年七月)から、初期トップ屋時代(五九年七月‐十一月)までの仕事の延長上にある。つまり、この文脈は彼の当時の心境である「功名心」(成り上がり根性)と、「知識人」へのコンプレックスが多分に反映されている。逆説を弄すれば、それを従来の「知識人」を否定する「(前)近代的な知識人の態度の表れ」(朝倉喬司)というのは、容易であろう。竹中のように、「知識人」が攻撃に徹する姿勢をみるのはまれである。竹中であれば、このような筆者の論理を「猥褻だ」と斬り捨てるだろうが、こののち、先の「知識人」コンプレックスの憂さを晴らすかのように成り上がっていく。それは、竹中世代の「感覚」を忠実に再現しているかのようである。半藤一利の言を借りれば、「大人に対する背信に次ぐ背信」の「感覚」が身に馴染んでいたということが出来よう。
  二度にわたる裁判闘争、自らの「反骨」のスタンスを脚色せんとする修辞的な文脈の態度、全て巧妙に考え抜かれた「功名心」に基づく。最晩年に竹中は自らを「三流の人間であった」と告白するが、おそらく「その功名心すら貫けない」という意味を指しているのだろう。
  さて、竹中の初期のジャーナリスト活動は、大宅壮一の影響を多分に受けている。竹中は後年、「取材をしない」ことで有名になるが、初期の活動は、統計をきちんととり、いうなれば社会学・統計学を援用するフィールドワーク的分析が文面から強くうかがわれる(党の指導の一環? 考えすぎか)。
  (3)『日本映画横断1 ――傾向映画の時代』(白川書院)
  (4)「自由」七四年三月号
   ※この文脈が七四年に成されたことに留意されたい。共産党を除籍されたのは六八年である。竹中は、除籍の際に共産党に査問を要求した。ここで松田政男の、歴代最長査問記録である八十四日間を超える記録をつくったと「巷談の会」で語っている。査問はふつう、自ら要求するのではなく、一概に党の上部からかけられるものであるが、竹中の特異性はこの辺りにある。つまり、この行為は党に対する熱烈なまでの信任の反映であると筆者は推測する(が、査問のくだりは信用に足りるかどうかわからない)。
   ちなみにこの「自由」内の「さらば芸能界」が書かれたのは、竹中がモン族解放戦線を取材する直前か、その間であった。とすれば、「戦争を発見すること」に対する「覚悟」か(命がけということである)、または、それとは全く関係なく、単に(以前の『無頼と荊冠』のように)自らの経験を脚色せんがために、そのようにいい表した文脈なのかもしれない。だが、筆者はこれを、竹中の本音として捉える。この「自由」の連載は三回で終わる。つまり、モン族解放戦線が、竹中が幻視していた組織ではなかったからではないかと、推測することも出来る。その違和感は、羽仁吾郎との共著『アジア燃ゆ』に詳しい。要約すれば、彼らのマフィア的な態度が気に入らなかったようである。が、ここでも大言壮語をかましている。しかし、彼のジャーナリスティックな感覚は特筆すべきものがある。それは恐らく、彼の思考(文脈)にはつねに(修辞的ではあるが)「政治思想」が介在していたからではなかろうか。
  (5)『芸能人別帳』(ちくま文庫)
  (6)『音羽の社の遺伝子』著・森彰英(リヨン社)
  (9)『週刊誌風雲録』著・高橋呉郎(文春文庫)
  (10)「キネマ旬報」七一年五月下旬号
  
  [時代・社会背景]
  
  
  一九六一年 昭和三十六年 (満三十三歳)
  徳間書店から語り下ろしシリーズ『我ら大正っ子・第一集』『我ら大正っ子・第三集』が出版される。佐藤英夫、森光子の部分の記述を受け持つ。春、深沢七郎と山梨県甲斐路を旅する。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  大村茂の年譜によると《安保闘争の私的総括のはて「党」を内部から変革すべきだと復党。「なんという愚かな妄想だったことか」》とある。竹中は共産党の文化部に所属し、映画、音楽、芸能などの文化面の工作に従事していたようだ(「中州通信」九八年三月号)。復帰し、直属の上司であり同志であったのは神山茂男だったと、後年竹中は記述しいていたが……。筆者は、映画評論家で、神山派直系の共産党員であった松田政男にきいてみた。松田政男は、このように言っていた。
  《俺の推測によれば神山派にいた事実はない。竹中労とは一度も接触がなかった。共産党の中で活動の事実があるとすれば、神山派のどこかの細胞か(インテリグループ、主に文化人・無名のルポライターなど有象無象が所属していた支部)、党中央直属の、暗黙的に存在していた文化人党員の周辺にいたのかもしれない。共産党の体質として、細胞どうしの直接の交流は皆無であったので、俺の知らないところで活動していても不思議ではない。単に会わなかっただけ、ということも考えられる。例えば五九年十一・二七、安保反対運動で国会内へ最初になだれ込んだ事件、そのとき国会内で演説した共産党の代表が神山茂男であった。神山派であれば、統一戦線部内の周辺にいた可能性もある。もしかしたら、組織部長・統一戦線部(神山茂男が親分)の「細胞」の基本的な活動をしていたのかもしれない》(松田政男・談)。
  
  この頃、インテリと呼ばれていた人々は「皆共産党に所属していた」といえるくらいの時代背景があった。いわゆる「反米愛国」、熱い政治の季節と呼ばれるゆえんである。ちなみに、筆者も松田がいうように、竹中労は神山派ではなかっただろうと考える。七五年の四月下旬に宮城野の仕事場に神山茂男がやってきたと、竹中は七五年に「別冊新評 ――梶山季之の世界」内で書いている。だが、神山は竹中がレギュラー出演していた「巷談の会」に出席したのち、何かしらの対話を交わし、その延長にある「お付き合い」の関係上から、宮城野の自宅にやってきたのだろう。この頃、神山はもはや「ご隠居」である。日本共産党の元中央委員であった神山の「胸を借りて育った」と、神山の出版記念会に駆けつけて竹中はいっていたようだが、やはりこれも「お付き合い」の関係上の発言であると感じられる。
  なんにせよ、神山派でなくとも、竹中は「祇園祭」の除名まで日共中央委員に従っていたのだから、その発言は中央委員であるならば誰にでも通用する。筆者の推測によれば、汎アジアへの旅の企図を起こしたのは、神山の「民族研究」の文献の示唆が大きいと思われる。その意味で、竹中は「義理」を重んじ、「胸を借りて育った」という挨拶をしたのではなかろうか。
  
  日本共産党はこの頃「六一年網領」を採択している。これをめぐって「網領論争」が起こり、暴力革命を否定して平和革命論を主張していた人々は、毛沢東派(日共左派?)を除きことごとく(文化人党員、インテリ党員を含め。しかし宮本は暗黙的に文化人党員を囲ったようだ)追放された。当時、党の実権は宮本顕次およびその一派が担っていた。彼らが提唱したのは「敵の出方論」であり、暗黙的に暴力革命論の反復であった。
  竹中は、
  《大井広介(中略)『左翼天皇制』第3章(宮本百合子に対する集団犯罪)と、ほとんど同じ感情をかつて小生がいだいた(中略)「宮本顕次は堕落したのだ」と小生も信じていた(中略)六〇年代後半までこの党に籍を置く間にみえてきたのは、宮本顕次が本気で党を粛清し彼が脳裏に描く"革命政党"に生長させようと努力し、その事業に成功し得たと信じている、というパラドクスであった。タテマエでなくホンネで、宮本顕次は、国民政党としての共産党・政権奪取の多数派工作の実現を、"日本革命"の正しい道であると、目的的に信じている。宮本のこの確信はとりもなおさず、日共・ボルシェビキが戦前から幻視してきた、彼らの国家権力=プロレタリア独裁(「執政」と言葉を変えようと同じことだ)と、予定調和を遂げるのである。すなわち、宮本顕次こそ共産主義者・職業革命家の正統であり、もろもろの異端を斬り捨てて、無謬であるのだ》(3 ※)。
  当時、竹中は共産党の熱心な党員であったことが窺える文章である。宮本による党支配により、党員は大衆と共にある語義として機能した「細胞」でなく、「支部」内の党員と呼ばれるようになった。これは、宮本指導下における民主集中制的な(中央・指導部を批判してはいけない)党支配の政治動向が窺える。
  《六〇年代、"不肖の師"大谷竹山から巷談の基本を》(1)学ぶ。大谷は巷釈師である。
  
   [この年本になったもの]
  『我ら大正っ子 第1集』(昭和三十六年八月二十日初刊 徳間書店 著・中曽根康弘・森光子・石井久・佐藤一・水上勉)
  竹中は森光子の部分を代作する。このときは無署名。「人生の辛酸を舐めつくした」女優である森光子を、スタイルである美文調でまとめる。この時期の竹中のスタイルは、貧しい娘たちの受苦的まなざしを視点とし、「言葉」として社会に表出されない娘たちの心情を代弁するかのような文章、もしくは、自分の心情を彼女たちに投げかけ、その心情を彼女たちの生き様の中に関連させ、手記として聞き書きし、誌面に独白の形態で載せる形の文章を書いていた。このときのスタイルも、安保前後においての政治的な配慮があったようである。その対象が女優、もしくは芸能者・身体障害者など一貫して差別されてきた人々であった。様々な受苦を乗り越える強さを、大衆・民衆の欲望の中に見出していたのかと思われる。語弊があるかもしれないが、森光子もその一人である。その他女優の手記も量産している。竹中は、これを「職業的良心」の表れであったと自らを評したようだ(4)。おそらく共産党文化部「裏」のエゲツナイ活動を視野にいれたものだと推察できる。
  
  『我ら大正っ子 第3集』(昭和三十六年十二月十日初刊 徳間書店 著・吉田正・松岡洋子・石田博英・河合滋・佐藤英夫著)
  竹中は佐藤英夫の部分を代作する。このときは無署名。《完成原稿それぞれ百枚の聞き書きをメモなしで仕上げ、ゴーストライターとしてのいわば職人的技術を、マスコミの内側で私は認められたのである》(4)。佐藤英夫の手記は、竹中の半生と重なる部分がある。本当に佐藤英夫の半生なのか疑いたくなるが、同じような体験を経験した上での感情移入が表れているのだろう。佐藤英夫の手記の内容は「美空ひばり」の場合のように、横浜から物語は始まる。
  森光子・佐藤英夫の手記はのちに署名入りで雑誌に転載される(4)。
  
  [参考文献]
  (1)『ルポライター事始』(ちくま文庫)
  (2)「話の特集」七二年十一月号
  (3)『左右を斬る』(幸洋出版)
   ※これは八〇年代に書かれたものである。勘違いされては困るが、竹中は八〇年代「党」に対して想いを馳せても、熱烈に信任することは無かったようである。もちろん、この頃行なわれたという宮本を再評価する動きに、竹中は関係していないと思われる(いわゆる無謬論の主張)。が、文脈をみると、シンパセスティックな感は抱いていたようだ。この記述ののち、「同志諸君、右へ倣え!」と、右翼と目される人々に期待を向ける。同時に、当時は社会党に一端の可能性をみていたようだ。
  (4)『ルポライター事始』
  
  [時代・社会背景]
  
  一九六二年 昭和三十七年(満三十四歳)
  六〇年春から、六二年夏まで中野区沼袋に暮らす。「女房ドノ」(と竹中は著作内で呼んでいる)、子供二人と六畳二間の間借り生活を送る。
  九月一日、「女性自身」婦人カメラマンと巷のカップル観察(『処女喪失』のデータ収集)のため、皇居前広場のパトロールに同行する。十二月、新潟県(?)長岡市駅頭に降り立つ。取材のため小木へ向かい、「ござんや」という旅館に泊まる。
  
  〔竹中労の人格とその後の著作に関わる出来事〕
  
  ルイ・アームストロングが来日した際、プログラムに「ズールーの王様」という短文を載せる。
  総会屋上森子鉄(本名健二郎)、ミニコミ誌「キネマ旬報」社社長に就任する。
  党派・組織に身を置いていた際、「アジテーションの天才」(?)といわれる程ぶちまくった竹中であったが、共産党を離れてからは口演をするのを断るようになったらしい。竹中は、パネルディスカッションなど会議・討議においては声の大きさともあいまって、敵なしと自認するほどぶちまくったようだ。もちろん、逆に「敵」になった人物も多いのだろうが。
  
  Aデータと評論
  [「週刊女性自身」と竹中労および、当時の言説空間]
   備考
  ときは週刊誌創刊ラッシュ、五六年二月に創刊した新潮社の「週刊新潮」をはじめとして、旺文社の「学生週報」、東西芸能出版(後に徳間書店)の「週刊アサヒ芸能」。五七年に河出書房(後に主婦と生活社)の「週刊女性」(茶本繁正や木部慶助、道田国雄などが働いていたが、後に草柳大蔵に呼ばれ「女性自身」へ)。五十八年に双葉社の「週刊大衆」、集英社の「週刊明星」(梶山季之)、実話出版の「週刊実話」。五十九年には朝日新聞社から「朝日ジャーナル」、講談社から「週刊現代」(広岡敬一など、広岡は二週間に一回の割合で「女性自身」に原稿を書く)、文芸春秋社から「週刊文春」(梶山季之が特ダネ記事や、トップ記事を製造してゆく)、平凡出版(現・マガジンハウス)から「週刊平凡」、時事通信から「週刊時事」、中央公論から「週刊コウロン」などなど、相次いで創刊した。
  当時「女性自身」編集長・黒崎勇、副編集長・井上清(後に二代目編集長、六〇年四月に肋膜炎を患い入院、五月に急逝?)、桜井秀勲(後に三代目編集長)。政治・経済・社会問題を担当するのは草柳大蔵グループ(アンカー・草柳大蔵を筆頭に斉藤克己、松浦総三、平沢正夫、茶本繁正、木部慶助、道田国雄などの取材記者。主に社外記者で構成されていた)、芸能記事を担当するのは竹中労グループ(金子茂、森彰英など。社内の内部特派員で構成されていた、竹中はアンカーだけでなく実際に取材していた……?)。特集記事担当は藤本恭グループ(長尾三郎、浅井清宏など。六四年一月に児玉隆也が担当デスクに)。皇室関係の記事は松崎敏弥。
  記事構成は@ワイド記事(特集・皇室ものが中心)A事件・芸能・スポーツ記事などB情報記事(映画の上映日時、催し物の開催日など)C実用記事(世間間でうまく生きていくための記事、というかほとんど広告)Dトピックス(出来事の一覧表)E連載小説・エッセイなど。
  
  当時の「女性自身」は、現在刊行されている「女性自身」と路線がまったく違う。
  現在に置き換えて言えば「アンアン」「ノンノ」「キャンキャン」など、町で持ち歩いていても違和感なく、むしろその雑誌を持っている事に対して他者から好感を抱かれるような感覚が、流行(=ファッション)としてあった。つまり、「女性自身」を持つことがそのままアクセサリーになるという感覚が共有されていた。
  当時の「女性自身」の表紙は、金髪の外国人が竹竿を持っている姿(?)を「全身」が写るようにカットし、表紙を飾る記事の題字も限定する。天の部分に赤い文字で「週刊女性自身」と書いてあり、ときどき、そのレタリングをかえている。コラージュを使わず、シンプルに一色でまとめる。その一色が映えるのは、当時としてはめずらしく、四色刷りでなく、六色刷りであったためであろう。
  女性自身の発刊は、正田美智子と皇太子の「テニスコートの恋」の一ヵ月後である、昭和三十三年十二月だった。
  皇太子と「平民」出身の正田美智子の結婚は国民から歓迎された。《皇室は皇太子妃を民間から迎えること、そして二人は恋愛の末に結婚に至ったということ――この二点を、数多くの国民は戦後日本の民主化を象徴する出来事として受け取った》(『ミッチー・ブーム』)。その登場から、正田美智子は「女性自身」やその他週刊誌で、読者と「等身大のファッションモデル」として存在していく。
  「女性自身」は編集長・黒崎勇の意向が多分に反映された編集内容で、「硬派な社会派暴露雑誌」として人々に認知されていた。黒崎は「上品な暴露路線」を企図していたが、現在の週刊誌でよくみるような「暴露路線」ではなかった。つまり、「暴露」のなかに、上品さが窺われなければならなかった。《安手の夢を詰めこんだ、というより「スター」と大衆を近づけようとした、あるいは大衆の日常にまで引きずりおろそうとした》「暴露路線」である(1)。そこに、人間の「内面」の同質性を強調していたとみてもよい。編集部は、その欺瞞ともいえる「美しさ」を、読者大衆の、ある種の無垢さと屈託のなさから受用する。それが、発行部数二十万部から三十万部に低迷していた「女性自身」を、百万部にまで伸ばす遠因となっていく。
  文章はほとんどむくつけき男性ライター共が書いているようだが、男性から見た女性への「こうあって欲しい」という欲望を反映させた内容も窺われる。それは、編集長である黒崎の意向であった。《女性が内にもっている"男らしさ"に呼びかける雑誌にしたらどうか、という思いである。それなら、男性が多い編集部構成でもよいではないか。つまり、同性(女)が同性(女)に呼びかける雑誌にしようと、決心を固めた。幸い女性の意識の高揚が叫ばれ始めている。そんな折だからいけるのではないか》(『皆が"NО"ならやってみろ』著・黒崎勇)。
  そして先に書いたように、芸能人、皇室、業界人や不特定多数の読者などを同じ誌面に載せる。その心情が、主に「手記」として、「スターと読者が同じ心情を持っているかのように」表出(引きずりおろ)される。
  この時期の「女性自身」は、女性の「自立の精神」に依拠しながら、どのような女性であれば社会的に認知されるか、または、「女性としての実存」を深く「考える」ことを提供する編集方針であった。もちろん、「女性自身」だけでなく、各誌もそのような文面が強く窺われる。「文学」的にみれば、敗戦という去勢状態から自立的な精神性へ、という経過を辿っているかのようである。当時はまだ「活字の権威」があり、哲学的な文面で「心を着飾る」という、ある種のファッション(=流行)の提供が誌面から窺われる。
  竹中はそれに積極的に同調し、主に教養欄、芸能欄のアンカー・ライターとして仕事をこなしていく。当時「女性自身」のデスクだった高橋呉郎の言、《竹中労といえば、芸能スキャンダリズムの元祖と目されているけれど、すぐにキバをむき出したわけではない。当初は、映画俳優や歌手の人情話風の読みものが多かった。あえて深読みすれば、「娯楽産業資本に虐げられた芸能人」という竹中風の解釈が読み取れる、という程度だった。黒崎が竹中を貴重なライターと認めていたのも、コワモテの芸能記事を期待したからではなかった。いちど竹中がピンチヒッターでリライトした旅の記事を読んで、「リズム感があって、風景描写がうまいのに、びっくりした」といっていた》(9)。
  この時期のライターとして有名なのは、読売新聞の記者だった作家の三好徹、共同通信社でのちに戦史研究家となる児島襄、毎日新聞記者で従軍慰安婦のドキュメントを書いた千田夏光、早稲田派作家の武田繁太郎、「ノストラダムスの大予言」五島勉などであった。
  竹中は「女性自身」のなかで次第に力をつけていき、六二年から六四年までのあいだ、草柳大蔵と二分する派閥を形成する。竹中グループは地方紙、夕刊紙、団体の機関紙などの出身者が多く働いていた。データ記者の筆頭として金子茂が挙げられる。他に、森彰英、小松みどりなど。竹中グループは外部の記者とも懇意となり、様々なところから情報を仕入れてきた。矢崎泰久は、竹中が「女性自身」を辞めるまで様々な企画を手伝っている。このとき竹中は、南部僑一郎をリーダーとする「Nプロ」という、もっぱら記事作成をする組織を設立していた。南部僑一郎は名前のみ貸すという立場であった。
  竹中は、編集部から「ぶんどった」取材費を湯水のように使った。《教養記事で与謝野晶子を取り上げたとき、竹中は「みだれ髪」の初版本を会社に買わせた。十数万円したが、本物を見なければイメージがわかないという理屈が承認された》(1)。生涯を通じて、それは変わらなかったため、竹中と喧嘩する人間が後を絶たなかった。竹中の活躍の影で、多くの編集者が辞めていった。
  こなた草柳は、元総合雑誌の編集者、農業問題研究家、国立大学の英文科出身だが薬害問題に切り込んでいるライター、戦後史の研究家など、総合雑誌の目次のような顔ぶれであった(1)。竹中グループが戦後の焼け跡散策と労組等を経験した人間が発する、野良猫のような香りを発散させていたのに対して、草柳グループは、(草柳が)婦人雑誌のグラビアに登場し、取材相手によって紺を着分けていたことに象徴されるように、戦後の焼け跡や労組の地味さの欠片も無く、「スマートなダンディズム」を売っていたという部分である。《「女性自身」が「男が読んでも面白い雑誌」といわれて市民権を得たのは、優れた取材者であり、書き手であり、編集者だった草柳大蔵の存在が大きい》(『無念は力』著・坂上遼)。
  その対称的な両者を、黒崎勇はうまく「編集」していた。
  《芸能誌といわれ、皇室雑誌と呼ばれ、実用誌とも称される。右翼もあれば、左翼も拒まない。対立する極論と極論が平気で同居する――それでいいではないか》(『皆がNoならやってみろ』著・黒崎勇)。
  「デパート編集」をする「総合雑誌」の誕生である。
  とはいえ、誌面のまとまりは非常によい。編集、アンカー共々、紛れもないプロ集団であった。そして、売れるからには訳があった。編集者、ライター共々、現在からみても「超豪華メンバー」であろう。彼らのマーケティングセンスが功を奏していた。
  その頃の「女性自身」の得意技は、夫婦の離婚・別離などの記事である。それは、そのまま竹中の出番であった。
  《草笛光子と芥川也寸志(一九六二)、森光子と岡本愛彦(六三年)、有馬稲子と中村(萬屋)錦之助(六五年)、芸能人の別離のたびに「女性自身」は記事を伸ばしていった》(2)。その他、「もう一度私の曲を/兄・宮城秀雄を失った宮城まり子」、「女優と恋と友情と/シナリオ作歌南田洋子の誕生まで」、「女ひとりブルースを歩いて/淡谷のり子の恋と人生と歌」などである。
  この文脈は「竹中節」として、主に文筆業にたずさわる人々に多大な影響を与えた。芸能記事といえば竹中労である、という認識がほとんど共有されていた。この時期は無署名かもしくはゴーストライターとして文章を発表していたが、その「アカっぽい」美文とでもいうべき文面から、「この記事は竹中労が書いたな」とわかる仕組みであった。現在からすれば不思議かもしれないが、週刊誌を読む多くの人が、最初に見るのは「小説」であったという。もちろん、竹中の書いた記事も、「小説のような一つの人間ドラマ」として読まれていたのではなかろうか。
  後年に、竹中労は「芸能記者の草分けであり芸能記事の開拓者」と呼ばれ、今に続く芸能ジャーナリズムの基本的スタイル(独占手記・特別スクープ・全告白・心の告白など)をつくった、もしくは定着させたといわれている。関川夏央によると、竹中の芸能記事の作成方法は以下のような独自の手法を用いた。
  《まず、書き手は芸能人に密着していて、取材は一対一の関係が基本と考えられている。人生相談のにおいさえする。そして、書き手の「私」(竹中)はよく意見を言う。その意見は決して反社会的なものではなく、むしろ常識的、良識的でアナーキスト竹中労の面影は少しも感じられない(中略)つぎに、竹中労の芸能記事にはいわゆるコメントというものがない。誰かの意見というか事件に対する感想がカギのなかに引用されて、最後のカッコ内に発言者の名前がある、現在の代表的な週刊誌の技法がまったくといっていいほど見られないのも特徴である(中略)作文技術的に見れば、彼の記事には長い段落がない。最大は十二行、のぞましいのは七行、そしてところどころに二、三行短いのをはさんで白地を多くし、リズムをつける。むずかしい言葉をわざとはさむ。はずかしがらずに流行語も使う。これらは竹中労が開発した芸能記事ノウハウである。有馬稲子の発言の前に「……」と"ためらい"が入る。これも彼のオリジナルだそうだ》(『芸能人別帳』)。
  「ためらい」の下りは、恐らく竹中のオリジナルでもなんでもないのだが、彼が独自の手法を用いたのがよくわかる文章である。竹中はそのような文体を多用したと、ここでみることができよう。
  毎日新聞読者世論調査の「いつも読む週刊雑誌」によると、「女性自身」は「週刊朝日」をおさえ、六四年、六五年、六九年に一位を獲得している。六九年には発行部数百十六万部のうち九五・五%を売り上げ、「女性自身」は「発行部数百万部になりました」「首都ОLの三人に一人は読んでいる」とうたった広告が、六九年五月二日付けの朝日新聞朝刊を飾った(1)。
  この購買者の増大と並行して、六三年に河野みち子・マコの往復書簡『愛と死をみつめて』の発刊を契機として、多くの人々の間で手記ブームとなっていく。同書は、一年間で百万部を超える記録を叩きだした。ブームに便乗して、映画、テレビドラマ、ラジオドラマが放映・放送された。『彼女達の連合赤軍』(著・大塚英二)によると、このブームの主体は女性たちであったようだ。
  当時の「手記ブーム」は、サブカルチュア的な言説空間として存在していた。それはそのまま、女性や大衆の「内面」の発見→獲得の運動であった。「内面」と「表現」の回路が直結されたかのような言説空間であると、みることができる。
  この言説空間から影響を受ける彼女(読者)達を、竹中は「大衆の受苦とそのまなざし」として捉えた。彼女達に、自らが依拠すべき大衆性をみい出していった。もちろん、ここで筆者がいっているのは、「読者の獲得」をしていくという意味である。同時に竹中は、彼女達の指導的役割、というアホな自意識があったのかもしれない。竹中にその種の自意識は無かったとはいい難いが、後年のような破天荒な文面は「女性自身」内には見当たらない。しかし、書き手は少なからず「自由にやれた」のである。
  話が逸れるが、「女性自身」を六〇年安保闘争と社会背景をパラレルにみるなら、事実上ナチ的な構成といっても過言ではない。無論、これには時代背景もある。戦中の「暗い記憶」が共時の体験として共有され、過多に「民主」なる概念に傾いていくかのようであった。
  この「民主」の中心に「皇室」が存在していたと筆者はみている。象徴天皇制度は、「ミッチー・ブーム」の流行と共にあった。メディアの変質と、文化記号論的なコマーシャルイメージの流通と共に、日本全土にマイホームという「皇室」の衣(態様=モード)が拡がっていく。そのなかで理想の家族モデルが「皇室」であるという空気が醸成されていったようだ。
  それに対置する日本的な存在として、竹中は(共産党の意向から)「評伝美空ひばり」を企画する。そして、「ミッチー・ブーム」の終りから、高度消費社会に生きる彼女達に心ひそかに別れを告げ、沖縄の「窮女」たちに依拠すべき精神性をスライドさせていった。そして、同じくその「ミッチー・ブーム」の終焉から、日本映画の観客動員数も激減していく。
  
  その一連の運動性に似た運動が戦前にもあったということを、竹中はこの頃から気づいていたのかもしれない。
  それは、「大正教養主義」もしくは「文化主義」として一般に説明されていたものであった。文学の大衆化と、大正期の解釈学的哲学(文献学=週刊誌の「データジャーナリズム」)、「文学的自由主義」(「文学」の流通経路の確保)などの運動性が、五〇年代後半から六〇年代までの時節、活字に飢えた大衆の動向と、文芸・週刊誌ジャーナリズムの復興において、酷似していた面が様々にみ受けられる。竹中自身は知らぬ間に、その命題を踏襲していたように思う。
  というよりも、彼自身がその史実を引き寄せていたといっても過言ではないかもしれない。竹中は「女性自身」内で大杉栄、伊藤野江、橘宗和の関東大震災直後の虐殺の事実を書いている。当時の週刊誌のなかでも、それは異例の内容であった。大正期に青春を過ごした人々と関係があったという部分も、一つの要因となっているかと思われる。
  竹中の(後年の)著作態度は、この教養主義・文化主義の系譜に当てはめることが出来よう。それを超克する方法として、アナーキズムの論理が存在していたのだが――。
  
  [参考文献]
  (1)『音羽の社の遺伝子』著・森彰英
  (2)『芸能人別帳』内、「トップ屋」竹中労はなぜ芸能記事を棄てたか 関川夏央
  (2)『人間を読む――必見怪人21面相どの』(幸洋出版)
  
  [時代・社会背景]
  
  一九六三年 昭和三十八年(満三十五歳)
  七月上旬、森繁久弥と「女性自身」、姉妹紙「二人自身」の間にトラブルがおこる。「二人自身」誌に、竹中が森繁の名で書き、六三年八月号に掲載された「詩こそ私の心の歌」という手記に対し、森繁はこれを自作の詩の無断盗用・著作権侵害と申し立て、文芸協会に提訴した(二月に森繁は『自伝』の出版により文芸協会会員の資格を得ていた)。竹中は、その『自伝』はゴーストライターに書かせたものではないのか、手記を掲載するか否かの打ち合わせに来なかったのは森繁、あなたではないのかと激怒。森繁に斬奸状を送り宣戦布告する。これを契機に、責任の所在を明らかにするため、本格的に署名で原稿を書くこととなる。
  二つ目の問題となったのは、「女性自身」七月八日号に載った記事「ハワイ大学フラダンス科留学記―無届欠席して強制送還された森繁健」であるが、この記事に書かれているような事実はなかったようだ。手記形式だが、記事を作成したのは編集部であったため、当記事を見て森繁久弥は「息子の一生を台無しにされた」と激怒する。同時に、ムーラン・ルージュ時代からの知己であった竹中が、なぜこれをさしとめてくれなかったのかと不信を抱いたかと思われる。森繁は、黒崎出版局長と桜井編集長を自家に呼び出し、酔っ払いながら二人を説教する。対して、二人は平身低頭して謝罪した。この問題で「女性自身」は、七月四日付の朝日・毎日・読売三紙の朝刊に謝罪広告を出し《当該記事の一切を取り消すとともに、謹んでおわび申し上げます》(1)と載せた。
  当事件に対して、竹中はのちにこう述べる。《この事件は大いにマスコミを騒がせ、森繁氏は "正論の士"として天下に名をあげたのだが、真相はこうである。氏の著作と称する『こじき袋』は作家K氏の代作であり、『見てきたこんなヨーロッパ』はNET某ディレクターが書いたものだった。つまり、森繁久弥氏は、代作によって"文芸家"協会の会員となったのである(略)モリシゲ事件によって「女性自身」編集部の何人かの記者が職場を去っていった。また、氏の母堂の葬儀の際、"棺桶の中をのぞきこんで写真をとった"と氏の筆によって読売新聞に書かれたカメラマンも同様であった。それは森繁氏の誤認で、実は他の女性週刊誌の写真部員だったのである。おのれの息子のプライバシーを過剰に防衛することによって、氏は数名のジャーナリストの将来に汚点をしるし、彼らの生活をうばったのである》(2 カッコ内は筆者注)。
  竹中ははらわたが煮えくりかえり、同志数百人を糾合してデモをやろうと本気で計画を立てるが、これは未遂に終わる。森繁久弥「エラテブ俳優論」が「婦人公論」に載ったさい、当時「婦人公論」編集部に竹中は出入りしていたのであるが、この記事の内容に竹中は怒り狂いデモをやろうと思ったらしい。「エラテブ俳優論」を見ると、竹中が書いた記事を焼き直した、もしくは、視点的にかなり竹中の影響がある文章とみえる。森繁に対する怨みと、芸人に対する愛憎は骨がらみであったらしく、芸人が権威や名誉を求めた風潮をつくったのは森繁が最初であると、亡くなる直前まで彼を批判していた。(3)。
  村山孚・北川衛との共著『呉子』(六三年 アサヒ芸能出版)を署名入りで書き、翻訳・解説・伝記の部分を共同執筆する。「女性自身」内の"予告連載"という短期シリーズで大川橋蔵婚約・美空ひばり離婚をスクープする(4 ※)。秋から、デスクだった高橋呉郎と組み「心のすがおシリーズ」を企画、スターの自伝を一年半近く「女性自身」に掲載する。年の暮れ、「ルポライター」と書かれた名刺を二百枚作成する。同じ頃、ルポライターであった三田和夫と青柳淳郎と三人で「毎日グラフ」誌上にトップ屋座談会が載る。差別的な意味で使われていた「トップ屋」ではなく私たちは「ルポライター」だ、と主張する(5)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  この頃になると、もはや業界の有名人であった。《レギュラーでテレビが週に三本、週刊誌四本。それに飛び込み(の仕事)がありましたから、今の(九十一年当時)五倍からヘタすると十倍くらいは働いていた》(6 カッコ内は筆者注)。ちなみに、一般人はテレビ出演と週刊誌四本の仕事量はこなせないだろうと思う。仕事を続ければ、恐らく過労死しまうに違いない。売れっ子政治家並みの仕事量である。
  
  [この年出した本]
  『呉子』(六三年三月十日 アサヒ芸能出版発売 定価千円)直訳・村山孚 解説(太平洋戦争の事例)・北川衛 呉子伝・竹中労 発行所の経営思潮研究会の代表・生出寿
  竹中は《序説 兵法書『呉子』序文と兵法家『呉子』の生涯》の部分を担当する。著者三人の共同研究として発行された。生出寿は、はしがきに《中国文学者、歴史家、戦史研究家三氏の共同研究》と書いている。竹中がよく使う格調高い文章がここにも散見する。呉子の兵法の部分に力点が置かれる。(文脈をよく読みこむのであれば)レーニン主義的組織論からインスピレーションを受けたかと思われる部分もある。個人の主体性及び欲求を組織内全体の目標のなかに吸収し、さらなる組織の強化を図るのが最強の軍事組織とする。竹中がレーニン全集を仕事場に飾っていたのは事実である。この著作で、窮民革命の窮民の組織化、もしくは窮民による自由意志に基づく勝手な連帯などの革命の方針を考え始める、と竹中は後年語るが、それはこじつけではないのかとの考えが筆者は強い。竹中の「窮民」革命の「理論」化は太田竜の影響が多分にあったのではないかと推測できる。その現象をレポートしたのが『山谷―都市反乱の原点』である。竹中の活動は「理論」を背景とした部分が多分にある。彼は多分に頓珍漢な「理論」家であったが、他者の「理論」を自らの活動に取り込んでいる面も散見する。太田の「理論」の触発は受けていのはもちろん、時節のジャーナリズム及びアカデミズムをうかがい、同世代の人間の活動も逐一確認していたようにみえる。
  「呉子」は、この後の竹中の政治的な活動を暗示している。が、本書はいうほど大した本ではない。
  
  [参考文献]
  (1)七月四日付「朝日新聞」「毎日新聞」「読売新聞」
  (2)『くたばれスター野郎! 芸能界こてんこてん』
  (3)「週刊文春」九一年五月九日号 "森繁久弥よ、勲二等が嬉しいか"
  (4)『芸能人別帳』
   ※当時、大川橋蔵は、「銭形平次」に出演していた。竹中は「大川と真理子を結婚させないと視聴率があがらないよ」とフジテレビに話を持っていく。そして、真理子の親父に、「真理子の産院の場所だけ教えてくれ」と連日説得した。これが、女性自身の独占スクープとなる。
  (5)「ダ・カーポ」九一年三月六日号
  (6)『無頼の墓碑銘』()

  [時代・社会背景]

  一九六四年 昭和三十九年(満三十六歳)
  三月、十八回目の抽選で千葉県船橋市高根台公団住宅一八五‐一〇一に入居が決定。《入居が決まったとき、私たち夫婦は天にものぼる感動を味わったものである。バス、トイレ付き六畳、四畳半、もうひとつ四畳半そしてダイニング・キッチン(略)飽きることなく新居の絵図面を書いて愉しんだ。結婚十年、これほど夫と妻の情念が一致した時間はなかった》(1 カッコ内は筆者注)。三月から九月にかけて、月刊誌「二人自身」に団地七つの大罪のシリーズを連載。「女性自身」で「処女喪失・未婚女性の性行動」を連載。四月上旬、「女性自身」誌上にて連載する"ひばり自叙伝"の企画を編集会議に通し、同月下旬、取材をはじめる。五月、団地自治会長になる。小林旭との離婚直前に、清川虹子の紹介で美空ひばりと出会う。母子同席のインタビューをし、離婚の手記から「ひばり自叙伝」を書きはじめる。《実際、気恥ずかしくなるほど感傷的に私は『ひばり自叙伝』を記述している。(略)戦後的教養と常識でひばりを律していたのである、歌と人とは別であるらしいと》(2 カッコ内は筆者注)。
  七月、「女性自身」のスタッフ・ライターを辞め、フリーのルポライターを名乗る(?)。美空ひばりの離婚記事を手記の形で「女性自身」に独占発表、スタイルである美文調でまとめる。この頃から《おふくろさまの信頼をかち得て、身内同然の付き合いがはじまる》(2)。八月九日、原水爆禁止世界大会(社民系?)に参加する。このとき竹中は、同大会の専門委員であり、日朝協会の全国理事(役員? この辺り不確か)であった。夏の終わり、ホテル「ニュージャパン」に閉じこもり『団地七つの大罪』と『処女喪失』を書きおろす。このホテルで一人さみしくナシゴレンを食べていたプロレスラー(ブルーバーナードの相棒)に声をかける。のちに『呼び屋』でプロレス興行の実態を暴くことになる。
  秋、《 "日韓条約"をめぐってようやく議論がわきはじめたころ、私は(略)夜を徹して大島渚と語り合った。――原水協運動(共産党系?)に破産を宣告しなければならない、新たな国際主義の視点から"大東亜戦争"(略)がもたらした焦土を展望しなくてはならない、という見解で我々はまったく一致した》(3 カッコ内筆者注)ため、原水協・日朝協会の役員を辞め、朝鮮民主主義人民共和国訪問使節団代表を辞退する。ここからいわゆる《日本共産党の平和運動(と、そのシンパが行なうと目される市民運動)、国民運動の論理》(4 カッコ内筆者注)に依拠せず、少しずつ《朝鮮人・原爆》(5)について書き始める。
  十二月一日、山口組三代目組長・田岡一雄と楽屋で出会う。十二月十一日、「旅講演」のひばりのお伴をし、九州へ。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  竹中は妻を愛していたように窺える。『団地七つの大罪』などをみると、後付けに「愛するマイワイフへ」と書いている。六六年中国へ向かい、「無頼派宣言」をするも、家族との付き合いはあり、後年も、家族と共に万博に向かい団欒の日々を送り、束の間の休日を過ごした(万博に向かうのは、『エライ人を斬る』の取材の一環だったのかもしれない)。竹中が妻のことについて語らないのは、「妻のことをどうのこうのいうのは恥ずかしい事である」という、昭和一桁世代の男特有の感覚があったからなのかもしれない。もちろん、公安のこともあるのだろうけれども。
  この頃「総評」からの依頼で「新週刊」という週刊誌の雛形をつくる。しかし「新週刊」が気に入らないので、『団地七つの大罪』など弘文堂のブック・ライターとなる。当時は、無名のルポライターがブック・ライターになると決断するのはかなり勇気が必要であった。
  四月、浜松労音例会の文学座「三人姉妹」旅公演宿舎で、小川真由子を取材。
  ひばり取材の関係から、この後方々(地方)のヤクザと懇意になっていっていく。ひばり取材をする際のニュースソースはこの辺りにもあるのだろう。後年も付き合いは続いているようだ。
  この頃から社民系の団体と付き合っていくようだ。共産党員は、社民系の団体と付き合っても良いのだろうか。六四年のからの数年間、社民系とのかかわりが増える。総評もその一環であるようだ。
  
  [総評とのかかわりあい]
  論考が未完成
  
  [雑誌連載]
  「二人自身」 「団地七つの大罪」 連載
  「女性自身」 「ひばり自叔伝」六月二十二日号〜連載 企画・執筆・構成・手記の部分のゴーストライト 
  (T記者執筆)と自分の名を伏せる。
  
  [この年出した本]
  『団地七つの大罪―近代住宅の夢と現実』(六四年十二月三十日初版発行 弘文堂発行 定価二百九十円)
  本書は、《一万五千人の人間が、ほとんど同じ形をした"箱"の中で生活している。番号で整理されたコンクリートの棟割りである》団地に管理される私(竹中)の視点で書かれたルポルタージュである。《私の団地、そして団地人に対する姿勢は途中で大きく変わっている。はじめの傍観者的立場から、しだいに団地の社会構造にのめりこみ、ついにはこのコンクリート棟割りの"ニュータウン"を熱愛するに至る経過》(本書より)の記録がまざまざとかかれている。後年語らなくなった家族のこともここでは書いており、妻・子供を愛する父親としての竹中労を垣間見させる一幕もある。自治会長として高根台自治機関紙"たかね"を発行している。無頼の雰囲気は皆無であり、自治会長として市民運動を先導する立場が貫かれている。竹中は《日共市民対策部に籍を置き、団地自治会連合会を組織した》(7)という。これにより《三桁にのぼる住民が共産党に加入した》(8)らしい。本書からは、共産党の政治色が強くうかがわれる。取材協力者、「二人自身」編集部大木至、小松みどり、カメラマン村田倫也、弘文堂編集長田村勝夫、同編集部(?)生田栄子、福島敬二。
  当時の弘文堂の編集長は田村勝男である。この人物に単行本書下ろしのイロハを教わる。弘文堂の社長は渡辺恒雄であった。本の発行者は、弟の渡辺昭男である。渡辺恒雄の著作が弘文堂から多く出されている。
  
  [映画 「団地七つの大罪」]
  雑誌「二人自身」所載『団地七つの大罪』と塩田丸男の「2DK夫人」を「喜劇 駅前天神」の長瀬喜伴が脚色、「裸の重役」の千葉泰樹と「お姐ちゃん三代記」の筧正典が共同で監督したオムニバス喜劇。撮影は「ホラ吹き太閤記」の西垣六郎と「沙羅の門」の梁井潤」(インターネットGOO 映画情報から引用)。一九六四年、東宝映画化。主演は小林桂樹、司葉子。
  
  [参考文献]
  (1)「潮」六五年六月号
  (2)『完本 美空ひばり』(ちくま文庫)
  (3)「現代の眼」七一年五月号
  (4)『無頼と荊冠 竹中労行動論集』(三笠書房)
  (5)『見捨てられた在韓被爆者』
  (6)『芸能人別帳』(ちくま文庫)
  (7)『仮面を剥ぐ』(幸洋出版)
  (8)『決定版ルポライター事始』(ちくま文庫)
  
  [時代・社会背景]
  
  アメリカが北爆を開始してベトナム戦争に介入。二月二十五日、佐藤内閣外相椎名悦三郎が韓国訪問をし、日韓基本条約に仮調印。朴政権の安定と強化のため、日本の協力を要請する意図から発した。日本は朝鮮戦争・ベトナム戦争の「特需」から、未曾有の高度成長を達成する。韓国はベトナム戦争の「特需」で、日本以上の恩恵を受ける。
  
  一九六五年 昭和四十年(満三十七歳)
  五月、『処女喪失』(六五年 弘文堂)を上梓する。高橋鐵はこの著作を《ユニークな労作です。この本を書いた未知の著者に、一人の同士を得た思いである》(1)と評価する。書評などいっさいから無視されていた竹中は《涙がこぼれるほど》(1)うれしく、手紙を送り、自称高橋門下の一員に加わる。「女性自身」で「ルポルタージュ女優論」を連載、その他の雑誌にも六本連載する。
  夏、広島市基町で《バタ屋をいとなんでいる、朝鮮人被爆者の老人》にインタビュー取材(2)。「新評」に掲載される。
  十一月一日、厚生年金会館小ホールで小川真由美主演の演劇「おりき」をみる。十一月二日、著作の印税すべてを投入し、共産党員であることを伏せ(党の信任状は携えて行った)、中国へ向かう。《個人旅行の経費を払いこみ、香港で査証の交付をうけて、取材の許可を得ていたのに、「通訳が足りないから」という理由で、私は日本から到着した友好団の一つに強制的に組み込まれてしまった》(3 ※)。十一月九日、訪中一日目、鉄路で広州へ。その後北京・南京・上海・蘇州・杭州・景徳鎮・長沙へと向かう。この旅により《革命の党を内部から再建して、真の前衛に更正する志を、私はすでに喪っていた。中華人民共和国での幻滅は、言えば絶望に拍車をかけて、マルクス、レーニンの信仰は消え去っていった。しかもなお、毛沢東だけはとすがるように私は思った》(3 ※2)。約五十日間、中国に滞在する。予定に従わず、徳田球一の墓参りをしたため、北京で共産党員の砂間一良らと対立、北京駐在日共代表部・中国人公安に査問される。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  美濃部都政のマスコミ対策本部事務局長(?)に就任。
  書いた本が次々にベストセラー・映画化となり、この年、生母・八重子から電話がかかる。竹中は(熊本に赴き?)西郷さんの下で待ちあわせをする。《わかったわね、向うから歩いて来るの見た途端に。妙なもんだね、まだ顔も輪郭もわからんのに、あれおっかさんだってわかるもんね。それで会ったよ。とんでもないモダン・ババアでね。選挙に立候補するわ、家庭裁判所の調停員やるわ。死ぬ時にはね、築地のガンセンターで亡くなったんだけど、あたしゃもうガンだからっていって、ニューモードの帽子かぶって、銀座のレスランや中華料理に行って、男友だちや女友だち集めて、ドンチャン騒ぎやって、みごとに死んでくれたわさ》(4)。竹中は《イメージ通りのおっかさん》(4)だったという。竹中の生母は、七八年以前に亡くなられたと思われる。
  この年光文社記者労組が結成される。初代委員長は金子茂、書記長は蔵田計成であった。金子茂が委員長に就任した理由は、竹中が「記者も労働者である」という持論を金子にまくしたて、引くに引けなくなった、というのが理由らしい(金子は「女性自身」の元筆頭データ記者)。竹中は評論家、ルポライター諸氏からは"カラミティ・ロウ"と呼ばれていたらしいが、この真偽は定かではない。金子もカラまれたかどうかは、筆者は判断しかねる。金子茂、蔵田計成は共に早稲田企画グループ、金子は神近市子が主宰していた「婦人タイムス」の元記者であった。金子茂、児玉隆也(のち「夢野京太郎」グループの初期メンバー)は一緒に仕事をした仲間であり、のちに「巷談の会」をプロデュースする伊藤公一も一緒に仕事をした仲間の一人であった。伊藤公一は「二人自身」の記者で、光文社闘争が始まるころ、竹中との関係が親密となっていった。「女性自身」内の記者、「東京毎夕新聞」内の記者および初期トップ屋群、新日本文学のメンバー、共産党員内の友人……、竹中の仕事仲間・友人関係は様々であった。が、竹中の激越な性格のためか、彼から次々と離れていった人物が多い。
  この年、のちに「あゆみの箱」に出演する、伴淳三郎にインタビュー取材。自らの「芸能」に対する思い入れを語り、伴淳三郎を不機嫌にさせる。
  
  [雑誌連載]
  「民謡のふるさと」 「みょうち」連載 六五年〜七二年春号 全三十回
  
  [この年出した本]
  『処女喪失―未婚女性の性行動』(六五年 弘文堂刊)
  「女性自身」で連載された、現代(といっても当時の)女性の性事情をレポートした作品。誌上で読者の手記を募集し、自身も読者に対して取材、様々なアンケートをとる。このアンケートによる統計・手記・自身の論考(精神医学および臨床心理学)の社会学的考察によって本書は構成されている。いまだ性に対して「暗い情念」のなかにいる女性たちへ、性の知識に乏しい男性たちへ書かれた、性解放を目的とする啓蒙の書(?)である。
  《私は、未婚女性のセックスにかんする諸相を、一つの視点から明らかにした。人間の、特に若者たちの不幸を、その共通の社会的背景において実証することが、ルポ・ライターである私の一貫したテーマである》(まえがきより)。
  本書の論点は、「男性」との対等な立場の「女性」性の主張であった。時代の風潮と、竹中が当時依拠した「貧しい娘達」の受苦的な面を表出する、斬新なルポルタージュに仕上がっている。当時、このような書物は少なかった。独自に集めた社会調査のデータを基にして、調査対象の女性達にアンケートをとり、彼女達に「処女喪失体験記」を書かせた。竹中は誌面で、手記を基にして「精神分析」を行なう。
  ――この時点で、無頼・竹中労らしくないのだが、分析上にある種のダンディズムを感じなくもない。力強い女性像と共に、確固とした男性像が本書から浮かびあがる。しかし、ある種の気持ち悪さを禁じえない。フーコーを援用すれば、これは「抑圧から性の解放」を呼号する「社会の病的症候」の言説(『性の歴史』)であろう。事実、本書はみようによっては「性のカタログ」である。その面で、竹中自身が知的な再統合の野心を持ち、「知への意志」や「権力的に性を統御する欲望」を持っていたと、その心理を覗くことも出来る。もちろん、竹中の生涯の性向はそのようなものと切り離すことができない。彼の熱烈な共産党の支持は、「性」(そのほかあらゆる欲望)を統合し再組織するものへの希求であると、窺うことも出来る。後年の竹中はそれを自覚しながら「反骨」の身振りをしているが、筆者の見解からすればそれは「つくられたもの」であり、事実上「権力を振りかざし、統合の欲動を持っている者」に過ぎない。そこには「他者を自由にするアナキスト的な気質」はみられない。
  もしこれが共産党の宣伝工作の一環(=自らの手法に自覚的)であるならば、竹中を「切れ者」ということは出来るが……。
  さて、『処女喪失』の文面はやはり当時の流行を反映しているかと思われる。
  大杉栄の「羞恥と貞操」内の諸論考、ヴィルヘルム・シュテーケルなどの精神医学者の論考に影響を受けたかと思われる。この本のラストには、エンゲルスと並ぶほどに、共産主義(ここでは女性の性解放)に対する展望と思い入れを語る、「独論」ともいうべき展開をみせる部分がある。
  日活で映画化が決まり、武智鉄二監督「黒い雪」と同時封切りされ、メディアでの"ポルノ論争"の端緒となったらしい(5)。
  『ルポライター事始』内に「日本版キンゼイ・レポート」とあるが、キンゼイの業績には到底及ばないことだけは書き留めておく。しかし、この後も竹中の「性解放」へのアプローチは続いていく。が、恐らくこの数年後には、その「探求心」も、うすれていくように思う。
  
  『美空ひばり――民衆の心をうたって二十年』(六五年十二月五日初刊 弘文堂 定価二百九〇円)
  《中華人民共和国・東南アジアへの漂白に旅立つ直前、十日間をほとんど一睡もせず、ぶっつづけに原稿を書き上げた》(6)本書は、中国に滞在中、本書は七刷りを重ね二十万部を越すベストセラーとなる。だが、そのとき、弘文堂は倒産していた。印税は初版分のみ、そのかわりに在庫何千冊を受け取る。ゾッキに五十円で卸し、大阪労音にテキストとして百円で売り込むも、竹中の手のひらから印税はこぼれ落ちた(らしい)。それでも二千部以上余り、
  《むやみやたらと相手構わず、『美空ひばり』をくばって歩いた》(6)。
  出版のさいに野坂参三の推奨を受ける。
  作家の森秀人によれば、竹中は田岡一雄と付き合い、美空ひばりの後見人のような立場となるという(7)。取材のさい、情報をヤクザから仕入れることもあったのかもしれない。高橋呉郎も、『週刊誌風雲録』内でヤクザとのつながりを推測している。
  〇六年現在の評価として、「日本ではじめて、大衆歌謡曲史の視点で、日本社会の総体を批評する分野を切り開いた本」と位置付けられている。竹中の初期の文体は比喩的な対象描写を多用した文学的な文体である。『美空ひばり』はその位置にある。だが、やはり当時の共産党の政治色が強くにじみでている。後年竹中は《実際、気恥ずかしくなるほど感傷的に私は『ひばり自叙伝』を記述している。(略)戦後的教養と常識でひばりを律していたのである、歌と人とは別であるらしいと》(6 カッコ内筆者注)と当時を回顧している。
  これは大衆の旗手たる美空ひばりを読み違えていたという自身の告白である。大衆音楽を政治利用のツールとして見ている部分もあるのだ。これでは小泉首相が「Xジャパン」のイメージを政治利用する態度と同義である。最低のポピュリズムと言わなければならない。当時の竹中は書いていない、もしくは書けなかったのかもしれないが、「大衆/音楽」は「革命」のドラマツゥルギー(フィクションといいかえても良い)たりえないということである。「革命」に甘んじるほど、「大衆/音楽」の強度は弱いわけではない。『美空ひばり』とは竹中の考える「革命」(共同的な「血」の断絶)の不可能性を暗示したのである。竹中が五・三〇事件の挫折のあとに美空ひばりの歌を聴いたとしたのは示唆的である。革命的大衆の史実を、美空ひばり(日本的な大衆の天皇)の史実に抽入しようとしたのと同時に、歌謡曲とは何かという命題を誠実に理会していたのである。八七年竹中がリビア社会主義人民共同体に向かう際に、復刻した『美空ひばり』の朝日文庫版のあとがきで竹中はこう言っている。《そう、貴女(ひばり)の嫌いな革命万歳! はいな、いい齢してエキストラ・イニングス、おじさんは懲りない人。お嬢(と呼ばせてもらいます)、ひばり、貴女にこの本を献げる。健康を回復してください。貴女が歌っていない日本へなど、おじさんは戻ってくる気がしません》(6)。先ほどもいったが、竹中のひばりとの「出会い」も五・三〇の挫折と同時に起こる。ここでの竹中の表現は、自らを革命的大衆として捉え、その「事実」をひばり史に引き寄せている。「大衆」の畸形化が、革命的大衆を生むと、竹中は判断したのだ。つまり、フランス革命を起こした大衆の「構成」を、である。
  さて、近代大衆歌謡曲とはどのようなものか。この音楽は相互依存(もしくは共有・自由主義)であり、自己を自己たらんとする個人主義の徹底化を促がすものではない。ギリギリのところで「革命」概念に踏みとどまるならば、音楽のインターナショナル性を利用して理念の共有もしくは民族→大衆の融和を図ることにこそ役割があると考えても良い。近代大衆音楽の原基は人間・情念の社会制度からはみ出してしまう歴史的系譜のインターナショナル性にこそある。これは「内面」の均質化を促がすものなのかもしれない。吉田司はこの「内面」の表現である「大衆/音楽」の世界性を現代に託しこう述べる。《かくて、美空ひばり→藤圭子→宇多田ヒカルの音楽系譜が出来上がる。ニューヨーク謹製の宇多田ヒカルのR&Bは、実は、浪曲→演歌→R&Bという日本近代大衆芸能史の到達点ともいえるのだった。私は想い出す、あの反骨のルポライター・竹中労が書き残した「ひばり物語」のハイライトシーンを。ひばりが酔いにまかせて、あの『唄入り観音経』を世界的大歌手ハリー・ベラフォンテに歌って聞かせた時の話だ。 「それはもう、凄いというより他に表現しようのない天来の調べであった。ベラフォンテほどのうたい手が圧倒されて声もなく、涙ぐんで聞き呆けていた」 宇多田ヒカルが、この「ひばり物語」の頂点を越え、世界を圧倒する、次の新たなる日本芸能の物語を紡ぎ出すことを私は夢見る》(7)。もちろん宇多田ヒカルは〇四年に「エキソドス」をアメリカ・日本にドロップし、新生「utada」として世界を股にかけていることは周知の事実であろう(というかもともと宇多田はニューヨークでデビューしたのだが。ちなみに、美空ひばり→藤圭子→宇多田ヒカルという系譜を作図する吉田の慧眼には驚かざるを得ない)。竹中の大衆芸能史とその一連の著作の態度は「美空ひばりの歌のひろがり」と通底する。つまり、彼の表現は美空ひばりと共にあるということ。が、竹中の著作態度はそれとの非対称性にこそあるとみなければならない。革命とは社会的な現実性への追随であり、なべての「大衆」の芸術は、社会制度からはみ出してしまう人間・情念の歴史的系譜を追いかける存在である。《『哀愁波止場』は安保闘争の挽歌、『悲しい酒』は高度成長・繁栄のプロテストソング。ひばりの歌を、私はそのように聴いた》(6)。民主主義とアメリカナイズ(文化複合型の消費社会化)に背を向け、「美空ひばり」からはじめること。これが竹中の想像(イマジネール)→創造(アルチザン的分析=記述)の原基である。
  以上のことから、美空ひばりが、表現者として「花」(芸能の感性)を武器とする視座を竹中労に与えたといっていいだろう。ちなみに竹中の著作は、文化の本流を占めるような部分にみずから手を出すことはない。著作の態度はつねに副次へ異端(異形なる対象)へと向かう。竹中の著作ではこの『美空ひばり』のみ本流と化した。ここでいいたいことは、そのような文化の本流となす「芸能」(芸術)が、原初ではある種の「野蛮」さを表現していたという事実である。それは美空ひばりだけでなく、クラシックやオペラなどにもいえる。この「野蛮」さの喪失もしくは洗練化が、作品を本流へ昇華する事由となる。ここで、観客と共有される「芸能」であればすばらしきものとなっていくのだが、「芸術」として神格化されて権威化・権力化されるところになべての「芸能」の錯誤がある。そこには「観客」が存在しないのだ。
  竹中はその「観客」のインスピレーションを、「女性自身」の記者時代に培った。それは、「女性自身」や「二人自身」で公募される「手記」を元にして、自らの記事を構成する手法をみれば明らかであろう。それは『処女喪失』や他、雑誌記事に散見する。この参加型の「観客」を巻き込む運動が、七四年に「浪人街リメーク」キャンペーンに発展したのだが――。
  のちに書くが、竹中のこのときの「女性自身」内での仕事は、スタイルである受苦的な「美文」で美空ひばりの「大衆」性を表出しながらも洗練化する作業であった。
  
  話をかえよう。トロツキー時代の文芸を美空ひばりの「芸能」にコラージュしてみると、近代における「芸能」の強度の無さがあらわになる(ここでは文芸も「芸能」の一つとして考える)。文芸をプロレタリア化するという視座(芸術を政治利用する視点)として論を展開していたトロツキーは、『文学と革命』内において文芸の洗練化を説明していた。要約すれば、工場をつくり、そこを学校化し、その地点から排出される「芸能」(文芸)を「洗練」と考えていたようだ。プロレタリア(大衆。ここでは農民)を工場に向かわせ、工場で労働を通じて階級意識その他を学ぶプロレタリア学校とし、党の前衛の排出し、そこから生み出されるインテリゲンツィアと農民の複合化によって文芸の洗練を成す。ここでの「表現」を通して「革命」を起こす、という論理展開である。が、このように図式的に生起されるものなど「芸能」であるはずがない〔これは偶然なのか、太田竜(第四インターナショナル設立者)が大衆歌謡曲を聴く耳がない部分に符号している。太田自身それを認めている〕。そして、ここで想起されるのは、工場は社会教育の現場であるという、「行学一致」のスローガンである。それは、学徒動員する際、文部省から発された。むしろ、「芸能」はそのような「概念」的な関係性とは無縁なのだ。竹中の「芸」である、手記や聞書きなどの表現は、つねにそのような関係性、つまり、みずからが志向するイデオロギーや思想もしくは大衆運動から切り離すことができない。しかし、それは仮装(のようなもの)であり竹中の「芸」であった表現とは、そのような図式的なイデオロギー、「理論」や「理念」もしくは大衆運動を、「食い破る」ことを目的とした部分にあったのではないか(これは、竹中の表現が、美空ひばり的(近代を前近代で演じることで食い破る存在)であるという意味だ)。竹中労という暗黙的に前提される主体が「形式」的な方法論としてえらんだ表現である独白・手記の形態は、「近代国家」成立の地点から形成されてきた「個人」と「内面」の関係性と撞着・癒着してしまうことを意味している。が、見るべきはそのような竹中の「表現」でなく、描く対象そのものでなく、そのように形式的なかたちで表現される、社会的な「事実」性を探求しそれに自らを加担させていくかのような視点にこそある。社会的な「事実」が立脚・成立するのかを調べ、この部分の現実性を探求したのち煽動(「竹中労」を加担させること)することこそ、ジャーナリスト竹中労の役割であった気がしてならない。晩年の九十年代、「大衆」に受け入れられ流行した「たま」がいた「事実」(美空ひばり・ビートルズなどが彼らをうみだしたのだと煽動する過程)を記録する竹中は、その点で、一つの結実性を持った。筆者が竹中に惹かれるのも、そのようなユニークな視点の創出にこそあり、いわゆるイデオロギー的ではない新しさをみたからである。先ほども書いたが、竹中の表現は絶えずそのような「理論」や「理念」や思想やイデオロギーもしくは大衆運動などと政治的に癒着する。そこに思想的なラディカルさはある。が、ラディカルなものとは、必ずなにかしらの根拠を必要とする、もしくは、そのような根拠をさししめすのだ。その部分から見ると「芸能」覆い隠されてしまう。そして、竹中が生涯追及した、芸術(能)の「野蛮」さも。この「野蛮」さに、イデオロギーでない、表現の力があるのだと筆者は考える。むしろ、その「野蛮」さこそ、イデオロギーを指し示すのであると。
  これは深読みだが、竹中労が考える「革命」とは、自らの「理性」を表現する修辞(レトリック)だったのではないのだろうか。
  ……竹中労は六十年の短い生涯のなかで、その両方を探求し体現し「実証」してきた稀有なジャーナリストである。この認識が、現在の筆者の見解である。
  後に渋沢龍彦から「ひばり学の権威」と呼ばれる。
  
  [映画 「処女喪失」]
  「竹中労の「処女喪失一未婚女性の性行動」を「東京五輪音頭」の高橋二三と「さすらいは俺の運命」の井田探が共同で脚色、井田探が監督した風俗もの。撮影は「大日本チャンバラ伝」の萩原泉(インターネットGOO 映画情報から引用)。一九六五年、日活映画化。主演は藤江エリ、内田高子。
  
  [参考文献]
  (1)「別冊経済評論」七二年一月号
  (2)『見捨てられた在韓被爆者』
  (3)『ビートルズレポート 話の特集 完全復刻版』(WAVE出版)
   ※竹中が中国へ向かった日は特定できていない。「キネマ旬報」七一年八月下旬号では、十一月九日とある。しかし「メモ香港」内には、十一月十一日まで香港に滞在しているとある。
  恐らく、竹中のこの「メモ」の手法は、大宅壮一の『世界の裏街道を行く』を援用し、それを自ら読み替えているのであろうと思われる。
   ※2この文章も、竹中の「党」に対する憧憬がうかがわれる。だが、中国共産党の近代化=文明化に関して竹中は違和感を抱いた。その違和感が、六七年頃まで、竹中のスランプの原因となっている模様。当時の記事は『芸能人別帳』内「プライバシー女優論」に詳しい。これは主に演劇批評なのだが、「竹中節」が以前よりも利いていない。
  (4)『ちんこんか―ピンク映画はどこへ行く―』(三一書房)著・野上正義
  (5)『ルポライター事始』(ちくま文庫)
  (6)『完本 美空ひばり』(ちくま文庫)
  (7)『ひばり裕次郎 昭和の謎』(講談社α文庫)
  
  [時代・社会背景]
  
  一九六六年 昭和四十一年(満三十八歳)
  春(二月か三月)、中国から日本に帰国する。三月、東映太秦撮影所へ土産物をたずさえ、ひばり母子をたずねる。田岡一雄組長の一件を『美空ひばり』(六五年 弘文堂)内で書いたため、ひばりの母・喜美枝の怒りを買い、しばらくひばり母子と縁が切れる。四月、仕事場を中野区宮前町にかまえる。この月を前後して、広島市内の基町スラム、吉島のスラムを取材する(「潮」四月号に発表)。五月、西銀座の「ブリッジ」という喫茶店で、川端茂、伊藤強と会い、ビートルズ来日の内幕レポートをどのように進めるか、アプローチ、企画、メンバーなど実工作の構想を練る。六月はじめ、雨降りの午後、『ザ・ビートルズレポート』(六六年 話の特集別冊)の出版契約をする旨を、「話の特集」編集長である矢崎泰久に(連日)説得し、納得させる。同月はじめから九月にかけて、京葉工業地帯の「京葉人身売買事件」の追跡取材。船橋市九十九里町(沿岸漁村)、千葉市稲毛で日本の農村地帯から集団就職する男女(主に女性・ホステス)にインタビューする(「新評」九月号に発表)。
  六月二十七日、ビートルズを呼んだ永島達司の秘書である荒川和枝に、情報提供をお願いする。この間ビートルズの取材。『ビートルズ・レポート』原稿の入稿は七月四日であり、その間一睡もせず『ビートルズ・レポート』の原稿、その他週刊誌の原稿二本を同時進行で書き飛ばす。この当時、竹中のビートルズに対する視座は否定的であった。《「女性自身」で「ビートルズ、ゴーホーム」のキャンペーンを張った。今回の来日は権力につながる人たちの策謀であり、イギリスの非行少年の英雄は資本主義のスターに変えられている、この四人に自由はない、というのが趣旨である》(1 ※)。執筆・レイアウトなど、本作り仕事場は神田の学生旅館と赤坂のヒルトンホテルのスウィートルームの一室。記念すべき「話の特集」別冊第一号として出版された『ビートルズ・レポート』は売れず、取材費の赤字を背負う。学生旅館から無銭宿泊・無銭飲食で訴えられる。そのため、簡易裁判所から呼び出し受け、アシスタントであった遠藤徳子が出頭する。係官の「月いくらだったら払えますか」と言う問いに対して「出せるのは毎月百円くらい」と遠藤はいい、この件は沙汰止みとなる(2)。八月七日、京都市教育文化センターで開かれた「東映俳優労働組合を守る会、発会記念のつどい」に参加する。同月、南部僑一郎と東映京都撮影所に赴き、労働争議中の東映俳優労働組合を支援し、地労委審判の特別補佐人となる。以降毎月京都に通う。東俳労委員長・宮崎博、中村錦之助、伊藤博之助らと「東映の俳優諸君を守る運動ニュース」(機関紙「ユニオン」)を発行する。が、この機関紙はすぐ休刊となる。同月、吉田喜重「女のみずうみ」片山津ロケを取材。この頃、茨城県鹿島洋・九十九里浜を取材、「死んだ海、消え行く子等」。九月二十六、南部僑一郎に同道し、築地小田原にある東京法務局をたずね、公人のプライバシーについて法はどのような判断を下すか、本庁の意見を聞きにむかう。
  十月十七日、TBS番組「話題をつく」に出演、竹中は脚本家・石堂淑朗と組み、文化人であった池部良・根上淳・小泉博と討論し、「スターのプライバシーはどこにあるのか」、という論争を行なう。
  六六年から六七年の間、「週刊女性」に全二十五回"プライバシー女優論"を連載する。秋田書店から『くたばれスター野郎!』を上梓する。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  東映俳優労働組合は俳優の中村錦之助、映画評論家である南部僑一郎を含め、二百人の賛同者・支援者を集めた。いわく、
  《赤木圭一郎が死んだとき、日活株式会社は、争議費用と称して、遺族から香典までまきあげようとした。森美樹の事故死にたいする松竹の態度も似たようなものであった。高橋貞二の未亡人みどりさんの自殺にも、経済問題がからんでいた。はなやかに見えても、カラダ一つが資本の俳優という商売は、不慮の災厄にみまわれたらみじめなものだ》(3)。
  芸能者の川原乞食の系譜は今も続いていると主張し、俳優を職能集団として自治するユニオン結成を支援した。芸能者である前に、いち労働者であることを会社に認めさせる点、彼ら三十六人が人権擁護を会社に対して要求する姿を見て、意気と感じたようであった。彼らは、六六年五月から、六七年十月までの一年五ヶ月間運動にたずさわり、会社側に要求をのませた。しかし、彼らの要求は非常に過激で統制がとれない点も多々あったという。映画監督・中島貞夫によれば《》(4)。
  竹中はこのとき東映俳優労働組合の事務所を京都にかまえる。この頃から芸能ジャーナリストとして映画界へと進出する。これは映画評論家・南部僑一郎の力が多分にあり、自身の作品が映画化されたのを足がかりとしているように見える。
  大阪労音で、学習会の講師となる。《学習会参加者は各地域の活動家、運営委員、事務局員らで、総勢で二〇〇人くらいではなかったか》(2)。ここで竹中は、弘文同倒産により売れ残った『美空ひばり―民衆の心うたって二十年』を、テキストとして百円で売り込む。大阪労音とのかかわりで、後に「話の特集」編集委員となる木村聖哉と出会う(二月頃かと思われる)。とすると、中国からの帰国後すぐ、というかたちとなるだろうか。
  七月九日、明治座の楽屋で、水谷八重子を取材。芸能ジャーナリストとしての集中的な活動は七十年代前後までであるようだ。
  『ビートルズ・レポート』を発行したさい、五木寛之と出会っている模様。
  
  [東映俳優労働組合]
  論考未完成 データ中島貞夫『遊撃の美学』、『くたばれスター野郎』
  竹中が「東俳労」にコミットする理由は、共産党の指示があるからのようだ。
  
  [あゆみの箱を批判する]
  この内幕を暴いたため、《森繁久弥に題字を書いてもらってるという右翼新聞に「天誅を加える」と怒鳴り込まれ、恫喝された》(5)とある。
  
  [雑誌連載]
  「メモ香港」 「話の特集」所載 六六年四月〜六月号まで 全三回
  「プライバシー女優論」 「週刊女性」所載 全二五回
  「続・美空ひばり自叔伝」 「女性自身」所載 一月四日〜
  
  [この年出した本]
  『呼び屋――その生態と興亡』(昭和四一年七月三十日初版発行 弘文堂 定価二百九十円)
  後付けに載る"戦後芸能関係年表"は川端茂の手による。竹中は「呼び屋」と呼ばれる側、外人タレント側に立つ。彼らを通した世相の評論と、神彰、樋口久人などをルポルタージュする部分を担当する。本書に登場するひよし・うしおは、現場取材をそのまま記録したような手法をつかった「メモ」部分の報告を担当する。三者によってこの本は構成されている。本書は、興業の実態をあばき、資本主義の力能をあらわにし、アメリカの占領文化政策(遊びを通しての支配)が日本にどのように浸透していったのか、その構造を描いたレポートである。アメリカの占領文化政策(遊びを通しての支配)に対抗できるのは、大衆の新たな団結のエネルギーであり、そのエネルギーは「私たち」大衆の力で創り上げなければならないと主張する。このときは、ビートルズに対して否定的な見解を持っていたようであり、「第四章ビートルズ狂燥曲」の中で《くたばれ、ビートルズ!若者に、若者自身の歌を……》と記述している。竹中によれば「党派的迷妄の所産」の中で書かれたという。共産党に対する批判が随所に見られるが、党に対する要求とも読める。竹中の共産党に所属していたさいの主張は、「輝ける党」を信じそれを「党中央」に要求する態度であったと推察できる。竹中は《党直属の文化部に所属し、日本の文化・芸能に影響を与える宣伝工作に関わっていた》(2)ようである。竹中が記述している部分は、共産党の影響がありながらも戦後大衆文化史として、貴重な資料であるかと思われる。《『呼び屋』を公刊したとき、シカゴの大プロモーターでシンジケートの顔役であるJ・ウィンの「代理」と称する男から、数度にわたり脅迫電話をうけた。またCIAとかG1、G2(日本駐留米軍情報部)とか名乗る人物からも、「一度ご意見うかがいたい」という二世なまりの電話がかかってきた》(6)という。これは竹中一流のレトリックであろう。J・ウィンとは、のちに呼び屋との関係で懇意となる。本書は弘文堂倒産により、ほとんど書店に並ばなかったらしい。
  
  『ビートルズレポート』(六六年 話の特集別冊)
  《これはビートルズ来日のすべてを、刻明に、そして正確にえがいたレポートである。七人の音楽ジャーナリストの共同労作だが、その名前をあきらかにすることはできない。それは多くの真実がえんりょえしゃくなく、しかも、怒りをこめて書かれているからだ。戦後最大のマス・ヒステリア(大衆狂乱)といわれる、ビートルズの来日はドス黒い舞台裏があり、狂乱を演出する"闇の力"がはたらいていた。その真相を書かなければ、音楽記者として存在する理由がないという、せっぱつまった思いが、このレポートを生んだ》。
  取材者、伊藤強(報知新聞社)、川端茂(音楽の友社)、藤中治(日刊スポーツ)、森田潤(東京中日新聞社)、竹中労。内部情報提供者、小林永司(内外タイムス記者・警視庁キャップ)、荒川和枝(主催者・長島達司の秘書)。カメラマン、小川隆之、藤倉明治その他助手三人。アンカー・ライター、竹中労(ほとんどの文章を竹中が担当した)、伊藤強、川端茂、矢崎泰久。装丁とレイアウトは和田誠。
  六六年当時は、竹中以外の名前がすべて伏せられ、七人の音楽ジャーナリスト共同執筆、竹中労責任編集という形で発表された。きっかけは週刊誌で来日の内幕を特集しようという川端茂の発案による。
  『呼び屋』の印税、「女性自身」「週刊女性」の二誌に、特集十六ページの原稿を売り、二誌の原稿料を本書の取材費とした。十二万部刷り(竹中の初期の目算から、五十万部発行できなければ契約しないという旨を矢崎に伝えたのだが、結局竹中が折れた形となり十二万部で発行された)、五万部売れるも、本書の赤字がたたり、「話の特集」は休刊となる。三島由紀夫、値草甚一、吉行淳之介の三氏は本書を絶賛した。竹中労の思想的転位、アナーキズム(社会主義)の接近が、本書から窺われる……?(ちなみに、「話の特集」倒産によって、矢崎はヤクザに拉致されるなどして酷いメに会う。矢崎は、竹中とは複雑な付き合いをしていたらしい。取材対象を紹介する程度のことはやっていたと推察は出来るのだが。のちに竹中は倒産のことに触れ、矢崎を「刎頚の友」であるといった)。
  昭和一ケタ世代の竹中の(世代の)思想の転回点としての「ビートルズ・アナキズム」、真に自由な精神を高らかにうたう彼らに、硬直した革命思想が吹き飛ぶ思いをしたのであろう。これは、(大正)教養主義的な精神から書かれた竹中の一連の書物からの離反というべき出来事であった。ビートルズ「少年少女(大衆)の熱狂」の出会いと、中国へ向かった際、重工業化による文明化=総資本路線への違和感が竹中の思想の転回点となる。当時、中国は、毛沢東路線を劉少奇が手直ししていた時期であった。
  竹中の後年の言、《理想と正義を建前とする限り、政治は詩や音楽とは無縁なのだ。なべて、芸術家達は運動体に組織され、"政治変革"に参加するべきだという、マルクス・レーニン&サルトル的な迷妄から、ようやく脱却したとき、ぼくは三十の半ばを越えていた。けっきょく、政治が芸術に対してなし得る最良かつ、唯一の保障は、「表現の個別完全な自由」のみである。言うまでもなく、政治が人間の恣意を制動して、秩序を維持するシステムである以上、それは無何有の理念にすぎない。だが、「政治・そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからない魚である」(坂口安吾『続・堕落論』)。制度は人間によって滅びる。その精神の具現がパリ・コミューンであり、前世紀末の文芸であった》(7)。
  この精神を竹中自身に気がつかせるきっかけが、『ビートルズ・レポート』にある。
  ちなみに、少年少女の熱狂はビートルズ以前にもある。外国の音楽文化が映し出される映像をみて、日本の少年少女は「熱狂」の模倣をしたのであった。この当時はメディアに影響を受けやすい「大衆」がいたのは事実である。というよりも、メディアが「大衆」をかたちづくるといったほうがここでは正しいかもしれない。これには、占領軍の民主化政策から高度成長、時代と日本の「社会構造」は急激に変動していったという背景がある。それがビートルズをはじめとして、「マス・ヒステリア」として現象した。
  
  [参考文献]
  (1)『音羽の社の遺伝子』(リヨン社)著・森彰英
  ※つまり、この段階では、ビートルズに対する好悪の判断はつけられなかったのであろう。でなければ、自身がマス・ヒステリア(大衆狂乱)を煽っていたと考えられる。しかし、彼が煽っていたといっても、メディア全体のなかからすれば部分的なものに過ぎない。
  (2)『無頼の哀しみ』(現代書館)
  (3)「月刊社会党」"俳優残酷物語"六七年九月号
  (4)『遊撃の美学』(ワイズ出版)
  (5)「別冊 噂の真相」九五年十一月号 著・鈴木義昭
  (6)『芸能界をあばく』()
  (7)『たまの本』(小学館)
  
  [時代・社会背景]
  
  一九六七年 昭和四十二年(満三十九歳)
  四月某日、須賀喜久雄がつくったミニ・シネマ「地上懸垂」をめぐってアングラ・シネマの教祖・金坂健二と対話する。同月、日本共産党文化部オルグとして、美濃部亮吉選挙応援をする。萬屋錦之助の応援を得て、「タレント総動員」の話題をつくり、美濃部は見事当選。日共中央幹部に評価される(1)。五月、映画「祇園祭」のプログラムを構想する。《京都の松竹撮影所に大島をたずね、そのとき語り合ったのが『祇園祭』自主制作、自主配給の構想であった。東俳労争議支援運動を映画『祇園祭』の制作に発展させ、闘争と想像を一つの場に結合しようとする夢想を、大島は実現可能な命題として理解し、助言を与えてくれた》(2)。同月十六日夜、「祇園祭」原作者西口克巳の自宅に訪問し、映画化についての意見を聴く(3)。
  六月、同映画の企画者となる。七月はじめ、「祇園祭」自主制作・自主上映の"目論見書"を作成する。夏から秋ごろまで、「祇園祭」制作に奔走(B別項参照)。この頃、東映俳優労働組合争議は、《一年数カ月の苦闘が勝利の実を結び》(4)全員職場復帰を勝ち取り解決する。日本TV「人生相談」にレギュラー出演するのをはじめとして、テレビ、ラジオなどの公共放送に《ダンディなルポライター》(5)として出演しはじめる。七月、「探訪の会」のルポ・ライターグループ、新聞・雑誌に籍を置く芸能記者十二人と、ナベプロの内幕を暴く「インサイド・レポート」を書く計画を立て、以後執拗に取材をする。
  十二月、仕事場を中野区弥生町に移す。十二月二十六日、キューバ国際友好協会の招きで、合作映画、記録映画の製作エージェント、音楽文化交流の使者として、午後八時五分羽田発カナダ航空でキューバへと向かう。《メキシコ・シティの大使館で、いかなる理由か足どめをくらい松本清張、山本薩夫、羽仁進、窪田精、見砂直照、山本進など、"ハバナ文化会議"日本代表団におくれること数日、同行の中村とうよう氏(音楽評論家)と、ほうほうのていでハバナにたどりついたのは、一九六八年一月五日であった》(6)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  この年、マカオに取材に向かっている(?)。
  ちなみに、竹中は大言壮語の性癖を持っている。
  この年、竹中の言によれば、「所得申告は百九十七万四千五百十二円」(7)であり、原稿収入が激減している。しかし、現在に額を換算すれば約四百万円程度である。
  この頃(?)《志賀暁子の堕胎事件について、東映大部屋俳優労働争議から大川体制、マキノ光雄の死にさかのぼって、山田五十鈴「浪華悲歌」のころ、あるいは伝説のスター岡田時彦、ご存知アラカン論考などなど》(8)を書いている。
  
  [大阪労音制作 「大日本演歌党」演出]
  論考未完成
  
  [ナベプロとの喧嘩]
  論考未完成 月刊ペン七二年〜
  
  Bデータと「評論」
  [映画「祇園祭」と、竹中労の共産党除名について]
   映画「祇園祭」の企画・プロデュースは中村錦之助であった。しかし、彼は実務を担わず、「日本映画復興協会」の代表者として、公的な責任のみを引き受けていた。脚本は鈴木尚之、清水邦夫。監督は伊藤大輔であったが、のち山内鉄也に代わり、映画が完成された。
  竹中は百数十万円もの制作準備資金を「血の出るような思いで」捻出したという。
  《私(竹中)の胸中には「京都府制百年記念映画」という構想がすでに熟していた。その前年五月から、東映俳優労働組合争議の支援のためたびたび京都に足を運び、この運動を媒体とし演技労働者の職能集団(ユニオン)の結成、「五社協定」の破棄、ブロック・ブッキングの崩壊――独立プロの自主上映組織の確立(市場ネットワークの確立)、という日本映画革新のプログラムを、実行にうつそうと企図していたのである》(3 カッコ内は筆者注)。と、自らの志を語る。その企図の壮大さは大プロデューサーの片鱗を見せているが、どんな構想も実行できなければ「絵に描いた餅」だ。
  結果をいってしまえば、原作者・西口克己氏の干渉(監督・脚本など)、府議会革新系との対立、府庁官僚による妨害により、竹中は中途で企画者を辞任した。「対立」「妨害」というのは、「竹中から見た場合」である。原作者の西口克己は蜷川府政支持であり、「部落」や「民主文学」に寄稿する、共産党支持者であった。
  事の始めから路線がチグハグになることは竹中も予想できたハズであった。そして、予想通りにならぬように、蜷川知事・西口克巳、京都府庁内の官僚や幹部などの説得に奔走していった。
  竹中の構想は「自治体」に依拠した「自主制作映画」であった。林屋辰三郎の紙芝居「祇園祭」(民主主義科学者協会京都支部歴史部会)を底本として、西口原作の「祇園祭」を自在に換骨奪胎することを当初から考えていた。しかし、竹中の構想は捨てられ、監督・伊藤大輔は西口克巳の原作を基本的には変えない方針をとったという。竹中は彼らに「黙約」があったと予想した。
  もしかしたら竹中は、鈴木尚之、清水邦夫の脚本を変えようとしたのかもしれない。鈴木は脚本を一字も変えないことで有名であった。鈴木は後年、映画「祇園祭」の脚本を「勝手に使われるのは許せないと思っていた」といっている。このとき、伊藤大輔、中村錦之助の両者の権威が、制作過程のなかで交錯していたようである。彼らの意にかかった者たちの反目があったのではないかと、筆者は推察する。
  翌六八年十一月、映画は完成する。が、竹中の当初の構想とは違った出来で上映された。竹中は一企画者であり、それを中途で降りた。要するに、竹中の企画が動き出し(ちなみにどの程度制作内部で竹中が評価されていたかはわからないのだが)、共同作業となったため少しずつ変わっていって、いつの間にか全く違ったものになった、というのが事件の真相なのではなかろうか。恐らく「中村と知己の一企画者」というのが、関係者の竹中労に対する評価だったと思われる。
  映画「祇園祭」の招待券が、竹中に送られてくることはなかった。竹中は百五十万円の借金を背負い、中村錦之助の連帯保証人となっていたため、一千万円の第一次制作資金を引き受けることとなったらしい。
  当時の「キネマ旬報」、前出の『竹中労行動論集 無頼と荊冠』に詳しい記述がある。しかし、この論も大言壮語の性癖がでていて、ある種「自分のやってきた仕事を自分で誉める」文章にしかみえない。やはり、竹中は独りよがりな「結果」しか想定できなかった人物なのかもしれない。この手の人種にいわゆる「政治」は出来ない。この部分は「上手な作文で壮大な空中楼閣をつくりあげる」戦中の指導者に似通っている。もちろん、筆者は竹中の企図そのものを否定している訳ではない。物語(企図)と事実(現実)の距離(批評)が、竹中には欠けているかと思われる。「大杉栄は私である」という、『断影 大杉栄』の迷文句も、自らがつくりあげた物語に同化せんとする態度にしかみえない。この辺りの彼の自意識過剰な思想は、つねに批判の対象たるべきである。彼の「思想」(のようなもの)は、ちくま文庫で復刊するように、未だに「生きている」のだから。
  
  映画「祇園祭」については、長年語れなかった部分もあるようだ。この事件により、「日本共産党を復党の見込みなし」の除名処分となったらしい。竹中は《どのような役割を〈党〉の中で果たしたかといえば、労音の舞台に美空ひばりを乗せることであり、団地自治会バス不乗運動であり、都知事選挙への芸能人動員であり、東映俳優労働組合争議であり、映画「祇園祭」の製作であった。東俳労&「祇園祭」製作過程で、文化部および京都府委員会と対立・除籍処分を受けるまで六年間、ことごとに掣肘を受けつつも、私は恣意的にふるまいつづけた。除籍の理由は、「党はあなたを指導することができない」というものだった》(9)。八十年代になってから、竹中はようやく共産党内にいた時の自らの事を語りだす。しかし、全てを語っているかどうかは疑問である。もちろん語れない部分もあるのだろう。深沢七郎も、山村工作隊については語っていなかった。『竹中労・無頼の哀しみ』を書いた、フリーライターである木村聖也の調べによると、
  《もし党則違反で除名されたのなら、必ず記録に残され、『赤旗』か何かで公表されているはず。そう思って私は念のため東京・代々木の党本部へ電話を入れ、竹中さんの除名の事実を確かめてみた。ところが意外な事実が判明した。統制委員会の担当者がいろいろ調べてくれたのだが、竹中労の除名の記録はないという》(10)。
  六一年に復党とあるが、個人的なシンパサイザーだったのであろうか……。
  これが事実ならば(と前提をしておく)、筆者の考えでは、竹中が語る共産党に在党していた事実云々のくだりは、(当たり前だが)竹中が発表した記述を読者(主に党派間、運動関係者)に読まれる前提で論考を書いており、その点で、私(竹中)は共産党にかかわっていない、もはや除名された身である、と読者に意識付けさせる煙幕づくりのための言説なのかもしれない。竹中の頭の中には、諸党派間との信頼関係が常にあったようである。大衆を動員できる「党」を意識して動いており、そのために共産党と癒着しながら目的を達成する努力をしていたのかもしれない。大局を意識し、その時代の流行を把握し、周りの人員で動員できる人々の意思を見ながら行動していた側面はあるように思える。晩年まで党籍があったのは、病気その他での金銭問題が絡んでいたのか、恐らく党員であった妻(?)、もしくは地下にねむる無告の下部党員への義理を果たすためであったのだろうか。
  だが、おそらく晩年まで共産党に所属していたことは、事実関係からしてあり得ないだろうと思われる。この「祇園祭」で除名された後も、共産党員と人的な繋がりがある程度だったと筆者は考える。やはり、除名は「祇園祭」のときのようである。ここでみずから党に「査問」を要求し、「復党含みなし」の除名をされたと竹中自身はいっている。おそらくこのときの「査問」の体験で、松田政男の歴代「査問」時間記録を抜いた。これは、竹中自身「巷談の会」で発言していたようである(それが正式な「査問」なのかどうかは置いておくとして。これは竹中得意の作り話の面が強いかと思われる)。
  ではもういちど、木村聖也にきこう。
  《竹中さんは除名されたのではなく、自ら離党したのだろうか? ではなぜ"除籍"というのか、党内事情に疎い私などには不可解である。先頃ある出版パーティーで久しぶりに矢崎泰久さんと会った。その雑談中に「竹中さんはかなり後まで、おそらく八〇年代の初め頃まで共産党にいたらしいよ。だから革自連の情報なんかも共産党に筒抜けだった」と信じられないことを言う。矢崎さんは話を面白くする癖があるので"要注意"だが、共産党の某国会議員から直に聞いたそうだから、一笑に付すわけにはいくまい》(10)。
  さて、竹中は八〇年代『仮面を剥ぐ』内で、筆名を夢野京太郎として、ノンフィクションライター・溝口敦と清水雅人が日共のシンパ、もしくは日共秘密党員であると書いている。この情報源は《内閣調査室や公安筋には求めず、たんに脚で歩いて聞き知り、その一部を公開したにすぎない》(11)とニュースソースを明らかにしている。しかし、脚で探られる情報かどうか怪しむ、筆者は推測するが、党員とつながりがなければ聞き得ない事実であるように思われる。八〇年代の初め頃まで共産党にいた、というのはこれで裏付け(?)はできるのだが、はたしてどこまで関わっていたかは判断しかねる。なんにせよ、日共中央委員、文化部トップに取材してみないとわからない。彼らに働きかける力は持っていたように思える。おそらく党員と人的なネットワークのみあった程度ではないか。
  あえて言ってみようか。竹中労はもしかしたら、共産党には入党していなかったのかもしれない。……とまあこれは冗談として。しかし、党員ではないにしろ、彼は熱烈なシンパだったことは、間違いないであろう。
  
  [雑誌連載]
  「現代タレント裁判」 「週刊漫画」 六七年〜六八年まで 全二十九回
  「公開書簡」 「話の特集」 六七年五月〜十二月号
  
  [この年出した本]
  『くたばれスター野郎! 芸能界こてんこてん』(昭和四十二年三月一日初刊 秋田書店 定価二百九十円 秋田サンデー新書版)
   原題は『スターとプライバシー』であった。主に芸能人の傍若無人ぶり、人間性を批判し、「人気」をメディアに載せて売る職業に就くのであれば、その担保としてプライバシーを一般大衆に知られても仕方が無い、とした。本書はメディアにおける芸能人プライバシー論の応答といえる。
  
  『浮気のレポート』(昭和四十二年九月十日初刊 秋田書店 定価三〇〇円 秋田サンデー新書版)
  《この書物に総括した文章は、数年間のSEX記事のエッセンスであり、月刊誌「新評」「社会人」「潮」「二人自身」「話の特集」週刊誌「女性セブン」「女性自身」「週刊現代」「週刊漫画」「週刊大衆」など、十数種の雑誌に発表した記事を、再構成したものである》(まえがきより)。本書は、女性の処女喪失時の体験を分析し、喪失の模様を本人の手記として読者に提示する。性解放を目的とした『処女喪失』とはうってかわって、具体化案とでも言うべき展開をみせる。やはり、ビートルズ前・後では竹中の態度は変化してきている。「理論」や「教養」などもろもろを打ち砕く、強烈な生へのエネルギーを肯定しているように思える。その盲目的なエネルギーによって、体制(=人間を人間として生かさない社会の秩序)は崩壊する。このエネルギーを調整する作用をもたらすのが文化である。この文脈から、はじめて竹中が「何をしたかったのか」がみえてくる。
  人民のダイレクトアクション(四十年代)→文化工作(五十年代後半から六十年代前半、共産党)→うたを媒介とした自然発生的な窮民暴動へ(六十年代中・後期+毛沢東アナキズム)→文闘で権威・権力・保守もしくは文化人・知識人を撃つ(六十年代後期、七十年代前半・八〇年代前期まで継続)→日本再復興へ向けたロマン派的「表現」の提示(七十年代中・後期)、竹中の革命と大衆に対するアプローチは転回する。それぞれに内在する可能性を状況から見据え、どのようなアプローチがもっとも「革命」を目的としながら窮民を扇動するのに効果的かを考えていたように思う。しかし、これは多分にレトリカルな発言である。
  
  『私の体験―喪失の悲しみを越えて―』(昭和四十二年十二月三十日刊 現代書房 定価二九〇円)
  《映画「祇園祭」でかかえた負債で火の車となり、『タレント帝国』取材費を捻出するために再版、「女の一生」を新たに付記する》(『決定版ルポライター事始』)。それ以外は、『処女喪失』と変わらない。しかし、『処女喪失』内の「第二章 非行を生みだすもの」が削除されている。
  
  [雑誌連載]
  「べらんめえ時評」 「内外タイムス」所載 六七年九月二十七日号〜六八年四月二十六日号
   べらんめえ調の文体。後年の『エライ人を斬る』の下地となる。
  
  [参考文献]
  (1)『牧口常三郎とその時代4』(潮出版)
  (2)「映画評論」六八年十一月号
  (3)『無頼と荊冠――竹中労行動論集』(三笠書房)
  (4)『芸能界をあばく』()
  (5)「現代の眼」八三年二月号
   ※七三年からかもしれない。
  (6)「現代の眼」七一年七月号
  (7)『エライ人を斬る』
  (8)『日本映画縦断2』
  (9)『左右を斬る』(幸洋出版)
  (10)『竹中労・無頼の哀しみ』(現代書館)
  (11)『仮面を剥ぐ』
  
  [時代・社会背景]
  
  一九六八年 昭和四十三年(満四十歳)
  一月五日、ハバナ・リビエラに宿泊、午後八時半より取材を開始する。日本大使館の"ヒダノ老人"と、レストラン一八三〇で会談。約二時間後、ホテルに帰り、夜景を眺める。同月六日、午前八時、日本大使館邸でパーティに出席する。午後十時半、ホテルに帰る。同月七日、キューバ農業改革最高顧問・竹内賢治を取材。同月八日、婦人同盟会長・ビルマ・エスピン(ラウル・カストロ夫人)と会談(同月十五日に記録映画制作権の了承を得る)。その後、「オルケスタ・アラゴン」の公開録音を聴きに放送局へ向かい、ホテルに帰る。同月九日、日本大使館に赴き、出国ビザの手配を書記官に依頼する。午後九時、キャバレー「カプリ」でショー見物。同月十日、通訳の宮坂青年の案内で、中村とうようとハバナの街を散策、チャイナタウン、国営百貨店などを歩く。ホテルに帰り、当地の映画青年に「日本映画」をレクチュア。同月十一日、動物園に向かう。その後、映画局へ向かい、サンチャゴ・アルバレスの作品をみる。一月末まで、キューバに滞在する。キューバから帰った一月下旬から『タレント帝国』の取材プラン、データ検討、整理、補足、再取材に三ヶ月費やす(この間暴力団柳川組に連累して木倉事務所が摘発される?)。日本ではテレビの出演依頼が激増する。三月頃から《山谷と"世界革命"を関連させた》取材、山谷のデータを収集し始める(1)。
  六月十七日、山谷で六・一七事件、「山谷暴動」を現認する(この事件で山谷の革命家として知られた梶大介が暴動を扇動した疑いで拘留される。近藤俊昭が中途から弁護団に加わる。山谷自立合同労働組合がバックアップする)。この暴動の前後、取材のために山谷のドヤ街に起居する。一週間足らずで、ある種の《拘禁性ノイローゼ》に陥る(1)。六月末、「女性自身」連載の「女優・処女喪失の記録」"偽者の非処女・小川知子さん"の記事に対して、小川知子のブレーンである飯村忠夫総支配人から告訴の準備を整えている、と忠告される(※別注参照)。七月から(本格的に)、広島出身の若者四人(鈴木国男、中村昇、船本洲治、荒木広志)と、山谷開放運動に向かう。山谷で山谷開放委員会に加わり、山谷の革命家・梶大介に《解放運動の一味同心を要求され》自立合同労組(全統山谷支部)の組織に左袒する(2)。同月十三日、鈴木清順《共闘会議結成大会に(略)東映俳優労働組合の二人の同志とともに参加した》(3)。竹中は、「祇園祭」のアクシデントと、東映俳優労働組合の組合運動の経験をもとにして、会場の人々をアジる。会場の人々は「清順共闘と関係ねえよ」という雰囲気であった(松田政男・談)。ここで松田政男と出会う。
  九月十四日、鈴木国男主催の「山谷うたまつり」が開催される。竹中は企画・構成を担当する。十一月五日夜八時半頃、東京都庁に乱入して、建造物不法侵入容疑で警視庁機動隊に現行犯逮捕される(当初は乱入する予定ではなかった(?)。撮影スタッフ七名と山谷の労働者二十三名が逮捕される。庁内は各新聞社カメラマンでごったがえす)。ここで丸の内署は、ドキュメンタリー映画「山谷68・冬」の撮影フィルムと録音テープを撮影スタッフから押収する。竹中は丸の内署へ移送され五日間留置場に拘留の後(二日目からハンガーストライキを決行)、十日夜十時頃釈放される。十一日、弁護士の山根二郎、近藤俊昭(このとき両弁護士はバッチつけたての俗に言う居候弁護士であった)と映画監督・長谷部日出男を連れ立ち、丸の内署の公安へ返還要求しに向かうも(同日午前九時半に、「山谷労働者と竹中労を支持する会」が東京地検公安部の三上副部長に面会を求めて不法に押収したフィルムの返還を要求する)、検察庁と丸の内署の意向は《捜査の必要上、職権で現像する》《フィルムは検証令状をとって、こちらで現像する》だった(4)。ここから返還要求交渉が三日間に渡り続けられる(『法を裁く』では六日間とある)。竹中は、《作家以外の人間が現像することは、作品を改ザンすることであり、重大な問題となるだろう。もし現像した場合には、関係者全員を告訴する》と述べ、《無条件で即刻返せ》と要求した(4)。三日目にフィルムは竹中の手元に戻る。同月十六日、検察・丸の内署側は《都庁側との示談を条件に逮捕者の全員釈放、押収物件返還に応じた》(5)。この事件により、山谷の労働者が都庁の労働者へ連帯を呼びかけ始めるきっかけとなる。
  以降、都庁の労働者の信頼を獲得してゆく。同月、山谷越冬闘争から梶大介との関係がこじれ、その後「山谷大飯店事件」の関係で訣別する。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
   都庁乱入事件は、単なるパフォーマンスであると推測する。竹中自身後年そのようにいっている。何のためのパフォーマンスかといえば、「山谷」のメディアに対する話題づくりであると推察できる。しかし幸か不幸か、この事件でメディアから「過激派」と烙印を押された(と思いこんだ)竹中は、芸能評論家から足を洗う。竹中はおかしな自意識を持っており、逐一「他者」のために生きる性癖を持っていたかのように見える。この点は、吉田司『下下戦記』文春文庫版あとがきを参照。「吉田と竹中は似ている」とよく言われるのは、この辺りに理由があるのかもしれない。
  夏、新宿花園境内で「フーテン大集会」を取材。山谷ではブラック・パワーの黒人運動家ドナルド・P・ストーンを囲む連帯集会、フランス女流映画監督ドミニック・アントワン、フォーク歌手の高橋友也、岡林信義と交流などをして、各イベントをプロデュースする。
  秋、「鈴木清順共闘会議」に参加し、パネルディスカッションで大いに演説をぶつ。
  山根二郎、近藤俊昭とは、この頃新宿の酒場「まえだ」「ユニコン」で夜があけるまで飲みかつ語っている。この頃、新宿の飲み場は、猥雑な熱風が絶えず吹きこむ「磁場」があったような場所であったらしい。
  キューバに向かってから、葉巻(マス・フェルテ)にハマる。
  芸能ジャーナリストとしてテレビ出演・芸能人との付き合いに忙殺(!)される。この年「女性自身」の原稿料で取材費、写真費込みで、ページ五万円(原稿用紙一枚一万五千円)を受け取っている(七四年以来から数えた最高原稿料)。山谷開放運動にコミットしてからも、稿料は安定しているようだ。
  
  十一月頃、父・英太郎から竹中へ《せめて自らに恥じなく眠れ 穢多》(6)と書いてもらった羽織を受けとる。「穢多」というのは造語で、英太郎の「英太」の部分をもじった竹中流のレトリックであると推察できる。「話の特集」十月号誌上で執筆した「週刊誌の害について」に、「祇園祭」のために描かれた父・英太郎の画が載る。東京の表舞台に三十三年ぶりに返ってきた英太郎の画であった。ここから、後年の竹中の仕事、主にLP、単行本、絵・ジャケット・カット・レタリングなどに積極的にかかわっていく。
  竹中は父を畏敬の念で見ていた。後年の右翼と目される人々との付き合いは、父・英太郎の影響があると考えられる。父・英太郎は山梨で保守議員であった天野九を支援した。労組の自治組織化をしつつ、会社に「和解しろ」と会談を設け、自ら会社に赴き金を払わせ、一種のマッチポンプ的な役割を果たしたという。竹中の芸能ジャーナリスト時代の取材方途などを見ると、この方法と一致する部分がある(取引=慣習)。竹中にとって父・英太郎とは、《生涯の師表であり、憧憬である》(6)らしい。常に親父の背を見続けていたのだろう。竹中の闘争時の戦略・政治的意図は父から学んだものが数多くあると思われる。竹中は、父の言うことなら何でも聴き、この頃の指令である《山谷解放運動や、学園闘争にさらに積極的にかかわれ!》(6)という父の言葉にも忠実であった。
  
   四十代前後から、竹中の狂疾がはじまる。「ビートルズ」→「祇園祭」→「キューバ」→「芸能・ナベプロを斬る」→「山谷」→「沖縄」→「韓国」(その他アジア)と、竹中の行動は移行しているが、その思考(思想)も本質的な部分で変質があったと筆者は考える。竹中のこの運動性は一定の役割を果たしながらも、その実、竹中の理想とは離れた結果になった。その点で挫折の歴史であったと言える。恐らく共産党除名が、竹中をそのようにさせたのだろう。
  
  [合同ドキュメンタリー映画構想「キューバの恋人」制作過程]
   マキノ雅弘は竹中の名をみて、津川雅彦を紹介したようだ。
  
  [鈴木清順共闘会議 竹中は門外漢であるのにも関わらずデバ亀]
  論考未完成
  
  [小川知子非処女事件 バージン論争]
  事の発端は、当時流行歌となった小川の「ゆうべの秘密」であった。この歌にある種のインスピレーションを受けた(と思われる)竹中は記事を書いた、「偽者の非処女・小川知子さん」。この記事は企画モノであり、「芸能人・処女喪失の記録」というかたちで連載されていた(現在からするととんでもない企画のように見える。当時は、よくある人情話として、人気を博していたのではなかろうか)。この記事をみた小川知子とプロダクション側は、小川の「イメージ」に悪影響を及ぼしたとみて、「告訴を準備している」という事態に到った。
  六月二十六日、赤坂の一ツ木の喫茶店「アマンド」で行なわれた「小川知子」を斬る会で、小川側(バーブプロ)は文化人を呼びイメージアップをはかる。発起人は柴田錬三郎、遠藤周作、北条誠など。だが、当日「アマンド」に来店したのは北条誠だけであった。竹中はこの会と当事件に対して、
  《芸とか歌とかにブレーンは無用だ。そんな心構えに警告を与える意味であれを書いたのだ(中略)歌というものは、常に社会的な反応をともない世の中にふれあっているということを忘れてもらっては困る》(7 ※ カッコ内は筆者注)
  と語った。問題となったのは、竹中の記事が「小川のイメージとそれに関わる人気が低下するような影響が出た」とプロダクション側が判断し、小川も「こんな記事を書かれるのは許せない」と、それに同調したため。これによりプロダクション側は告訴の手続きを取る。
  問題の端緒となったと思われる「ゆうべの秘密」を出したレコード会社の東芝の態度は、「この記事によってレコードが売れなくなったり、人気が下降することは考えられない」であった。
  結果は、この問題をマスコミに顕在化されるよりも、事態を収束させたほうが良いとプロダクション側が判断し、竹中も《告訴したら天下の笑いものになるだけだよ》と態度を明確にしたため(7)。双方ともこの程度のことで騒ぐのはアホらしくなりウヤムヤとなったようにみえる。
  
  さて、この頃の竹中は、芸能スキャンダルを通して、アメリカの「文化的植民地政策」の批判とそれに対置される日本独自の大衆文化・芸能のあり方を模索していたようにみえる(これは、詩人・真壁仁の「芸能」に関する考察とパラレルの関係にあるのかもしれない)。筆者は竹中の芸能記事を、「仕事」(人物評判記)の面と「思想」の両面があるとみている。竹中は「思想」の面で、アメリカのショーを日本に輸入し、テレビでのバラエティを独自のプロダクションシステムで一般化(均質化)したナベプロを批判したのだ。つまり、竹中の思い描く「芸能」と、彼らの考える、近代的なショウビジネスとしての「芸能」がぶつかり合ったのである。竹中にとっての「芸能」とは、大衆が生み出す「決定不可能性」でなければならない。であるからして、なべての「体制」に抵抗・反抗できる存在になり得る。竹中は「野蛮」な「決定不可能性」に、自らの存在を賭けた。ナベプロ及び近代的な組織システムからでは、そのような存在は生まれないと判断していたと、筆者はみる。端的にいえば「芸能」は差別されるべきなのだと、判断していたように思う。差別されるがゆえに、「芸能」たり得るのではないのかと。もちろんこの当時「テレビ」を批判し、自らのホームグラウンドである新劇
  おそらく、左翼の側で大衆芸能の視座からアメリカの「文化」の輸入を批判したのは竹中労のみであったといえる。当時、竹中は「テレビをあまり見ない」といっていたようだが、恐らく社会の風潮をいち早く感じ取るジャーナリストとしての嗅覚のようなものが働いたのであろう。
  
  [一一・五東京都庁乱入事件「山谷68・冬」と美濃部革新都政]
   論考未完 竹中は美濃部のマスコミ対策委員として名を連ねていたようである。
  
  [雑誌連載]
  
  [この年出した本]
  『タレント帝国《芸能プロの内幕》』(昭和四十三年七月二十日刊 現代書房 定価四六〇円)
  《ナベプロが"コンロン報告"中にある「輸出物」のエージェントとして、発展したことはいうまでもない。オレたちの取材活動が、そこに焦点をあわせたとき、すさまじい妨害がはじまったことを、オレはここに明記しておく。そのような妨害をハネかえすことが、もの書きとしての誇りをかけた闘争であるのだが――》(8)。取材費は『浮気のレポート』からの印税、『美空ひばり』の残本を大阪労音事務局で買い取ってもらい、合計七十万円となる。現代書房は、本書を出版した後すぐ倒産する。《東・日販から取次ぎ拒否に会って、二千七百部しか店頭に並ばない》(9)という。
  竹中は出版の数年後、「タレント帝国を出さないでくれ」と渡辺美佐に依頼を受けた、「音楽評論家・安部寧に買収された」と語る。しかしこのところは事実かどうか定かではない。
  「本書はいささか斬れ味に欠ける」と南部僑一郎が当時の週刊誌で指摘したように、竹中はこの後も芸能界で活動するという留保付きで出したようだ。が、業界に投じた一石の波紋は大きかった。この後ナベプロは膨張し芸能界に一大王国を築く。ナベプロは独自のシステムにより、興行からヤクザを排したが、竹中はヤクザとのかかわり合いを肯定した。
  竹中は後年、周囲に「ナベプロと喧嘩して、結局は負けたんだな」と漏らしていたようだが、表層的にみれば、喧嘩になどなっていない。だが、業界内部の影響力を鑑みると、そうともいえないので、この点は一考に価するであろう。それは「日本歌謡選手権」などをナベプロの対抗軸として企画・プロデュースする手腕と一緒である。
  
  ナベプロに対する批判は演劇評論・役者の人物評論の延長上にある。つまり、テレビから与えられる即物的な性格が、演劇の「情緒」を疎外していくのではないかという危惧が竹中にはあった。これは世代の感覚なのだが
  
  『放送できないテレビの内幕』(六八年十月三十日刊 自由国民社  定価三百円 代表著者・小中陽太郎)
  ルポ・ライター竹中労、テレビ作家寺島あき子、放送評論家藤原恒太、東大新聞研究所助教授稲葉三千男、評論家塩沢茂、TVガイド編集次長桑野雅之、評論家吉成和雄、評論家小中陽太郎ら八名の共同執筆の形で発行された。代表著者は小中陽太郎である。各章の文章の最後に署名が見当たらず、竹中ほか、誰がどの部分の執筆の担当をしているのか見当がつかない。共同執筆者を巻末に公開しているので、無署名でなくてもよいはずなのだが。『決定版ルポライター事始』によれば《およそ三分の一は、竹中の解説による。共同著作者が故障して〆切近く入稿にアナがあき、「竹中氏の言によれば」などと夫子自身がコメントしてページを埋めた》。データはしっかりしているのだが、編集、構成共に首尾一貫しない。
  
  Cデータと「評論」
  [松本清張に言論を妨害された? 清張弾圧パージ事件] 当時、松本の代理人は光文社編集者の伊賀光三郎
   松本清張がキューバで「ハバナ文化会議」に出席せず、女郎買いをしていたという旨の非難文章を、当時「似非左翼・松本清張」に怒りを感じていた竹中が、「話の特集」六八年四月号に書いた。それに対し、松本は腹をたて、自身が寄稿している諸雑誌の編集部に圧力をかけ、「竹中労と付き合うなら、この雑誌には寄稿しないよ」という旨を、各雑誌の編集者に暗にほのめかしたと思われる事件。これにより、竹中はメシの食い上げとなる。
  竹中によれば、
  《「H誌」五月号に予定していた"ナベプロの内幕"が、同誌に連載小説執筆中の清張氏のおかんむりで、ボツになった。五月号のみならず、以降、毎号禁止というお達しである。つづいて、「G誌」に入稿済みの"雪村いずみ物語"がぽしゃり、「M誌」に至ては、ご期待をこう! と予告までしたメキシコ・ルポを、一言の断りもなくおろしちまったなり》《実に三ヶ月、私はどこの出版社にもものを書けなくなった》(10)。
  竹中は今後の対策として、
  《ことを「話の特集」に書き、パンフレットをつくり、なるべく多くの文化人・作家に送り届けた。とたんに松本清張氏としては「竹中労の文筆活動を妨害した覚えはないので誤解しないでほしい」と日本共産党文化部のT氏(現在は離党)を通じて申し入れてきたのである》(10)。
   竹中は自らの著作を発刊する際や、何かしらの「運動」を呼びかける際、知人・友人に「呼びかけの手紙」を送りまくっていたらしい。これも、竹中らしいエピソードではある。

  作家・松本清張の陰湿な嫌がらせと、問題のケツの拭かせかたに激怒し、「内外タイムス」(六八年"べらんめえ時評")「話の特集」(六八年"メモ・キューバ")「現代の眼」(七一年"現代虚人列伝")紙上で徹底的に攻撃し、
  《このようなエセ名士が日本左翼運動のシンパサイザーとして象徴的存在であることへの"公憤"に発しているのだ》(11)
  と、ぶち上げた。
  言論界でケンカ屋と考えられているであろう自らの態度を、私憤ではなく公憤に発すると、ここで明確にする(だが、「公憤とはなべての私憤に発する」と竹中はのちにいう。要するに、ジャーナリスト代表としてあなたを批判するのだ、ということを含意しているのであろう。その「毒」は、大宅壮一の「筆誅」を徹底化させたもののように思う)。
  火炎瓶ブン投げる武闘の時代から、週刊誌で「貧しい娘」たちに依拠してきた時代を通過し、活字の暴力を恃む文闘への移行が少しずつみて取れる。もちろんこの態度は、江藤淳、大宅壮一、佐藤忠夫などを批判する部分と同じ論理である。
  先ほど、共産党を通じたT氏から、何らかの取引があったと竹中は書いた。
  「話の特集」編集長である矢崎泰久は、竹中が書いた「メモ・キューバ」の文面をみて、そのまま誌面にのせ、流通させた。すると、伊賀から「竹中の連載を止めれば、松本清張が貴方の雑誌で小説を書かせてあげても良いよ」と、電話がかかってきた。
  矢崎の回想によると、
  《(松本清張に関する)竹中労のレポートは事実を公表したものだと改めて確信もしたわけである。竹中労に連絡して、私は(「話の特集」の)次号でも松本批判を引き続きやらないかと言った。竹中労も大いに張り切って、「よし、わかった。完膚なきまでにコテンパンに叩いてやる。だいたい(松本は)偉そうにしすぎている。アイツに関しては、面白い話がまだまだ沢山あるんだ」と言った。私は楽しみにしていた。ところが次号であっさりと竹中労は、自らの非を認めてしまったのである。「筆がすべった」と表現して、さっさと幕引きしたのである》(12 カッコ内は筆者注)。
  竹中は、独自の取材力を用いて、小振りのマッチポンプ程度の事は朝飯前にやってのける実力、芸能界での地位を誇っていたらしい。それは、芸能記事の作成はほとんど「個人プレー」の範囲内で処理出来たためであろう。
  つまり、芸能人を記事化するばあいに、「タレントのイメージ」を商品化するプロダクション側との「取引」の延長上に、彼の地位は立脚していたことになる。が、ここでは、「取引」を、「交渉」(=慣習)と言い替えたほうが良いかもしれない。
  取材対象によってまちまちだが、利得がからむ場合のこの態度は一貫していると思われる。芸能記者時代の記事作成にはフレームアップは勿論のこと、スキャンダルの火種を見つけ出し誌面に載せ顕在化させ、自らそのスキャンダルの火を消すという、軽業師のようなこともやってのけていたらしい(稿料以外の金銭は絡んでいないと思うが、この点はよくわからない。そのような事実は無いとは思うが……)。
  話を事件に戻せば、このとき竹中は、松本と「取引」(交渉)をしたため、批判しなかったのであろう。マッチポンプはお手の物という、竹中らしいエピソードである。
  だが、松本事件問題の三年後、「現代の眼」誌上で事の内容の一部始終(T氏の一件)を書く。何故であろうか。時効であったためか、取引が滞ったためか(もしくはもはや成立したためか)、共産党のシンパサイザーとしての松本を利用して、党内での影響力を強めようとし、失敗に終わったためか。今となってはわからない。
   
  Dデータと評論
  [「大衆」への視座と「史実」の構成]
  文闘は、文化(文学)に機軸を置く。竹中は「日本低国文化状況」の社会総体に扇動的な美文を投げつけ、異端でありながらラディカルである思想を読者に煽り立てているのである。竹中の扇動しようとした「大衆文化」(美空ひばり・ビートルズ・琉球歌謡・たま)は亡国の論理を孕んでいる。革命とは君主制の一形態を断絶させ、より民主的な政治体系を建設することであった(竹中の主張はともかく、筆者は、革命とは立憲主義にあると考えている)。ここでインフラ整備・法体系の整備が成さなければならない。その「整備」の代置装置が「党」である。国家単位の「政府」でなく、竹中が思考していたのは、レーニン主義的な運動論・組織論を媒介した、自治的な小国規模の「党」建設であった。つまり、六〇年代後半から七〇年代中期頃は、レーニン&トロツキー+毛沢東を援用した「文化の民主化」運動を成さなければならないと考えていたと思われる(が、そこでは、国家=党が暗黙に保存、もしくは活かされる結果となる)。竹中はよく《革命とは実務だ》といっていたらしいが、その文脈の真意は、「民主」をになう社会の成員が行なう事務的な法体系の整備と権力構造の操縦にある(※ 13)。竹中が語る「大衆文化」と「革命」は相反しながら同居する概念であるといえる。ここでは、「大衆文化」と「革命」の相関関係と、それをになう「大衆」(=「民主」の対象)をどのように把握していたのかを追ってみたい。
  大衆文化の一面を反映し、六〇年代流行としてあった「手記」。竹中はインテリとして「内面」の発見、獲得の運動を担っていた、いわゆる「貧しい娘」達に対する精神的な依拠があった。つまり、彼女達に「大衆」性をみい出し、「女性の民主化」を成そうとしていた。それに加担するように、時局の政治をみすえながら手記を書き、誌面で顕在化させていたと筆者は推測する。無論これは「宣伝工作」である。例えばこの時期、吉本隆明「擬制の終焉」内に書かれている安保に対する「挫折」を《インテリゲンチャ運動の自立(主義)・目的意識醇化などまったく信用できない》と七二年に批判している(14)。
  この吉本の「擬制の終焉」は、詩人・谷川雁、評論家・黒田寛一などの論者が、六〇年安保を総括した『民主主義の神話』という共著に収められている。吉本の論は、共産党や進歩的知識人を批判し、民主主義神話を擬制として解体すること主としている(16)。当時の竹中は《すれすれのところで》吉本と同じ考えを持っていた(14)。
  だが、竹中は大衆と、大衆の組織化が可能な「党」に依拠し、「党」が前衛として存立するため、大衆の欲望の顕在化(煽動)を『女性自身』およびその他の雑誌で工作していたのではないか。この点の新たな段階を考察するためか、竹中は六〇年代、村山知義、柳瀬正夢などが大正時代に創刊したアヴァンギャルド芸術雑誌「マヴォ」を探して、未知のであったのにもかかわらず伊藤新吉を尋ねる。では、なぜ竹中は「マヴォ」を探したのだろうか? 竹中の友人であった寺島珠雄によると、竹中がこの雑誌を探して伊藤を尋ねたのは三十歳前後であるという。竹中の三十歳前後といえば、安保反対闘争の胎動期である。おそらく大衆への文化工作と流行(ファッション)を操作するために探したのではないかと考えられる。
  「MОVО」とは、大正期に盛んに行なわれていたモダニズム運動の一つに数えられる。その名は、村瀬正夢、村山塊多の「芸術運動」グループ名と、彼らが出した機関紙を指している。
  村山は浅草伝法院での第一回展を皮切りに、次々に展覧会を催して「東京そのものをカンヴァスに変える」という、一つの「大衆芸術運動」の潮流をつくりだした。「クラーナハを思わせる古典絵画を描くかと思えば、髪の毛を張りつけたコラージュを制作し、裸で踊り、バラック建築を設計した」彼らの運動は、後世に語り継がれるほどの「一大潮流」であったようだ。
  ここで留意すべきは、竹中英太郎の画は大正期のシュールレアリズムであり、ちょうど、その数年後に一躍画壇で活躍した絵師であった事である。もちろん竹中自身が、父の影を追って探したということも考えられるが、おそらくここでは、「党」の文化工作と流行の操作を考えていたのだろうと思われる。もちろん、父の画を探したのは、日本の「戦後」の「表現」(画・文学)は、シュールレアリスティックな内的世界から始まるという含意もあったに違いない。ここで、父は自らと同じ「時代」を生きていたのではないか、という疑問も含まれていたのだろう。それは、「戦後」と「大衆」を考える上で示唆的である。そして、竹中はこれからもその思考を踏襲していく。
  その理由は、一九一〇‐二〇年代の反復としての五〇‐六〇年代の「文化運動」(?)、という思考があったためではなかろうか。つまり、「戦後」(昭和)のシステム・構成のあり方を、この辺りから模索しはじめたのだ。
  竹中は当時・晩年も常に日本の文化の独自性を強く考えていた。やはり、松田政男がいう、(当時の)党中央直属の「インテリグループ」、もしくは、社会党議員内の「オールドレフト」周辺にいて、彼らの影響を強く受けていたと考えられる。この竹中の思考は、時代のトレンドであった大衆消費社会が発展段階にあるという空気を、流行の背景として目測しながら、そのオシャレでハイカラな大衆に依拠した、「党」主導の国家共産主義を考えていたのではないか。
  だが、このときの方法は、「輝ける党」に依拠し、流行に乗る(=消費されるイメージをプランニングする多数派工作)ことで、大衆運動の発展から成立する「革命」であった。いうなれば、煽動するための「文化」をここで人為的に構築しようとしたのだ。
  
   共産党を批判し始めるのは、山谷→沖縄渡航がきっかけになっているかと思う。恐らく(戦後の)共産党のヒューマニズムに対する批判とみて、間違いなさそうである。しかしそれは、反語を多用する彼の文章構成が明らかにしているように、アンチヒューマニズムの主張をロマン派的な「内面」として読み換え、それが逆説的にヒューマニズムの主張となりうるという、文芸批評の方法論にもとづいたものであった。その意味で、竹中労は吉本隆明と兄弟分であると言うことが出来る。一方で、葉山嘉樹のようなプロレタリア文学に親和的だったように思う。竹中の後の主張を換言すれば、そのような不健全な「捨て子」たちをヒューマニズムに回帰させながら、新たな国家(党=運動)を想定することに他ならなかった。それが、アナーキズムと相克していったかと思われる。
  
  [雑誌連載]
  「メモ・キューバ」 「話の特集」六八年三月〜六月号
  「メモ・沖縄」 「話の特集」
  「芸能ドキュメント」 「週刊明星」六八年十一月七日〜六九年三月九日号
  
  [映画]
  「にっぽん69 セックス猟奇地帯」 「東映」 構成・シナリオ執筆
  六八年初夏、竹中は新宿周辺をうろつき、企画・構成のための素材探しをする。《自称、他称の"アングラ名士"のお目にブラさがり、その生活と意見をインタビューした》(8)、いわゆるピンク・ドキュメンタリー映画である。東京目黒区雅叙園を根城にして撮影された。制作費千九百万円。編成はキャメラマン、キャメラマン助手、補助的なライトマン、録音と助監督が一人ずつ、監督は中島貞夫、プロデューサーの佐藤雅夫の計八人。16ミリのキャメラで撮影された。興業的に成功する。
   
  [参考文献]
  (1)『山谷―都市反乱の原点』
  (2)大村茂作成略年譜から引用
  (3)「映画評論」六八年十一月号
  (4)「映画評論」六九年一月号
  (5)『法を裁く』
  (6)「月刊ペン」六九年十月号
  (7)「週刊平凡」六八年七月十一日号
   ※この発言に、竹中の主張する「自由な言論」をみてとれる。これは「言論の自由」と区別される。「言論の自由」とは国家(法)に保障されるものであって、「自由な言論」に働く言論界の"自動調律性"(市場性)とは全く異なると竹中は語る。ミルトンの「アリオパジティカ」を引用し、淘汰されるべき言論もあれば、生き残る言論も存在する、「メディア言論原理主義」(造語)なる態度をとった。
  (8)『芸能界をあばく』
  (9)『無頼と荊冠―竹中労行動論集』
  (10)「現代の眼」七一年七月号
  (11)『エライ人を斬る』
  (12)『話の特集と仲間たち』著・矢崎泰久
  (13)『行動派の整理術』著・鈴木邦男 遠藤誠
  ※この「実務」の語源は、詩人・寺島珠雄の詩を援用したものである。竹中は他にも、詩から文脈を引用することが多くある。『宮沢賢治殺人事件』(吉田司)参照。語に酔っ払っているオヤジの煽動とみることが出来る。
  ここでの「実務」は、筆者が「読み換えて」いるのはいうまでも無かろう。だが、もちろんそれは筆者の見解であって、竹中の見解ではない。
  (14)『左右を斬る』
  (16)『〈民主〉と〈愛国〉』著・小熊英二
  
  [時代・社会背景]
  
  一九六九年 昭和四十四年(満四十一歳)
  一月から三月にかけて、"プロレタリア開放同盟"冬季セミナーで『山谷―都市反乱の原点』所載の「山谷労働者街・前史」を共同研究する(部落開放同盟所属の松島淳がデータ整理を担当)。二月十五日、《部落開放同盟と称する三十名あまりが、出版社である集英社に突然押しかけて、(「週刊明星」に連載していた「書かれざる美空ひばり」の内容が)「差別文章」であると七時間であると抗議し、著者である小生(竹中)の意見をまったく聞こうとしないで、一方的に謝罪、雑誌の回収を迫りました》(1 ※ カッコ内は筆者注)。十七日、竹中は松本英一参議院議員と議員会館で会談し、《連載であるから最終回まで待って改めて抗議していただきたい》(1)という旨を伝え、諒解を得る。二月二十八日、再び部落開放《同盟の全国代表と称する三十名あまりが集英社に押しかけ、小生(竹中)にも同席を求めました》(1 カッコ内は筆者注)。竹中は彼らの糾弾内容とその態度に激怒し、同同盟に血闘を申し込む。この件により「週刊明星」の連載が中止となり、以後三ヶ月原稿依頼が途絶える。三月二十四日、岡山大学バリケード内にいる学生と語り合う。翌日の二十五日、日本テレビ「奥様寄席」に出演するため局に行くも、労組の抜き打ちストがかかり、放送が中断する。労組の会社ベッタリな態度に怒った竹中は番組出演を放棄する。
  四月二十一日、青山デザイン専門学校で、「非行とは何か/永山則夫論」と題する自主講座を講演する。五月二十九日、同志鈴木国男全統山野支部委員長が不当逮捕され、留置場内で拷問を受ける(竹中は告訴の準備をする)。六月、若者たちと「蝶恋花舎」を組織し、「蝶恋花通信」を発行。反体制を標榜して芝居上演、体制に向かって爆弾を投げることを主な目的とする。同月から八月まで、「労学講座1970」を開き、南部労働会館などで講演する。六月十五日九時四十分、台東区山谷玉姫公園で、六・一五玉姫早朝集会の際、写真撮影していた竹中が浅草署の私服刑事・山本某、山谷の手配師に暴力的に妨害を加えられる(1 ※2)。同月、《LP「日本禁歌集」を泰政明の経営するURCレコードから、アングラで出すという計画が軌道に乗った》ため沖縄・九州を旅して音源を捜す取材を行なう(2 ※)。
  八月、韓国に取材旅行に向かう。
  十月三十一日(?)、初の訪沖。十二月まで沖縄に滞在、現地取材をする。この取材で、《『沖縄の民謡』の編者である作曲家普久原恒勇、RBC(琉球放送)上原直彦、八重山出身の画家与那覇朝大、作詞家ビセカツ(備瀬善勝)、国吉真幸、三田信一、うたい手の嘉手苅林昌、山里勇吉など"コザ民謡グループ"の人々を知り、たずね求めた人間の〈うた〉にめぐりあうことができた》(3)。ここで彼らが参加する、アングラ盤LP「海ぬチンボーラー」を現地録音する。同月、《翌檜建設という土地・不動産会社を経営して、琉球開放を志す青年たちを領導していた》宮城賢秀、大城正男と出会う(3 ※)。
  十二月、二度目の訪沖、大島渚、田村孟、佐々木守と、IFC(インターナショナルフォークキャラバン)を組織し、《北海道から沖縄まで、フォーク混成旅団を組織して、数十都市の野外連鎖公演を行なおうという壮大なプラン》を企図した(4)。この記録映画を撮影するためロケ・ハンにあたるも、《全国労音(日共系)の妨害によりピート・シーガーの来日がついに不可能となり、URC音楽舎が財政的リスクを放棄したため》構想は藻屑と消える(3)。同月、RBC琉球放送「民謡紅白歌合戦」で審査員を務める。暮、石原裕次郎と勝新太郎の対談を企画し、対談の司会を務める(5)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  二月、青山デザイン学園専門学校が学生主体の「自主管理闘争」に入る。「自主管理闘争」が始まった後に、上野昂志、石子順造などが講師をしている。同じく講師であった平岡正明と相倉久人から松田政男に電話があり、「まったく、なんの関係も無いのに」(松田政男・談)松田政男は講師となる。竹中は青デのバリケードの中で地味な行動をするよりも、ただ学校内でアジっているのが好きだったようだ。竹中は地味なことはあまり好まないように見受けられる。
  蝶恋花舎の三羽鳥といわれたメンバーは、青井知三、岩永文夫、高原亮治である。ちなみに、蝶恋花舎は窮民革命旅行社であると竹中はいう。「蝶恋花舎」は前期と後期に分かれる。《若者よ第三世界へ飛べ!》(6)のスローガンを下に、この旅行社から「アジア懺悔行」「在韓被爆者・密航」「浪人街ツアー」などの演習旅行を若者達と共にする。
  おそらく八月から前後して、小詩集『まだ生きている』(八月刊)のため会に大阪へ向かい、小野十三郎、秋山清、向井孝と出会う。後年(八十年代?)秋山清とは、関係がこじれる(竹中のアナーキズム関連の小論を読むと秋山清の引用をよくしていたが、大体が彼に対して意義(異論)を唱える文章であった。このためこじれたのではないかと思われる)。
  晩年まで友情が続く詩人・寺島珠雄と釜ガ崎で出会う。その他関西のアナキストと知己を結ぶ。
  この年から前後して、NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)の布川徹郎ら制作スタッフ、フォークソング歌手黒川修司、同人誌『闇一族』衛紀生などと付き合う。
  六十年末、「中央公論」連載の五木寛之「男たちの世界」の資料の提供と取材協力をしている。
  この頃、脅迫の投書と警察の尋問が重なる。
   この年、URCレコードから『日本禁歌集』を三集出版。協力者は永六輔、小沢昭一、矢崎泰久、地方放送局の人々などである。URC社の代表者は、高石友也、岡林信康、シューベルツの追悼公演、「帰ってきたヨッパライ」などで儲けたが、金を散財して同社は赤字倒産する。愛想をつかした竹中は独力で音盤を制作することになる。この音盤では日本の村落から消えていく春歌・猥歌の採集が目的とされた。「独力」といっても、竹中の口車に乗せられた出版社も少なくないのだろうが……。
  
  [雑誌連載]
  「書かれざる美空ひばり」 「週刊明星」全四回 六九年二月十六日号〜三月九日号
  
  [この年出した本]
  『山谷―都市反乱の原点―』(六九年九月一日刊 全国自治研修協会 定価四〇〇円)
  本書は『呉子』に追走する書物である。『呉子』が窮民革命のための思考のトレーニングならば、本書は山谷に窮民革命を起こす運動の拠点として捉え、その開放の可能性を探求するルポルタージュ作品だ。竹中が山谷に向かう原因は、
  《週刊誌ジャーナリズムの一角で、闇から"二ツ玉"を撃つような文章を商品にかえて、下らぬ虚名を得たことへの反省があった。(略)自身の裡に全生活の清算を必要とする衝動があったのである(略)鈴木国男らの純粋な下層プロレタリアート解放の情熱に、遅まきながら私は左袒する決意をした》(本書より カッコ内は筆者注)。
  概念の定義をしておけば、産業資本主義の構造からドロップアウトしてしまう流民・窮民層のレポートといっても差し支えない。竹中は梶大介など含む党派間闘争を幾度も繰り広げたらしい。その後、全国統一労働組合山谷支部(代表・鈴木国男)が当時の東京都知事・美濃部亮吉に、十項目、三十一の要求をするところで、本書の項は締め括られている。
  ドヤの労働環境・改善化するため運動をルポルタージュし、人権に対する認識を新たにさせるため交渉を知事と行なう。この態度は『タレント帝国』と同じ位置にある。タレントの労働環境改善化と、山谷労働者開放はアプローチとして同義なのだ。ジャーナリズムに山谷を紹介して諸雑誌への戦略的なクローズアップ紹介など一連の役割を果たすと同時に、オルガナイザーとして山谷の労働者を組織する。竹中は「労働者」問題を顕在化する役割を果たしているが、時代背景もあったと思う。この運動性は沖縄に向かうまで継続しているようだ。さて、山谷から沖縄へ向かう竹中だが、なぜ沖縄であったのかを考えなければならない。
   本書は何の間違いか、文部省の優良図書に選定された。
  
  [参考文献]
  (1)『エライ人を斬る』
   ※その内容からして、訴えられても仕方がない部分も、確かにある。これは美空ひばりが朝鮮人であるという「デマ」(めいたもの)をのせたものであった。恐らく、編集部からかなりの人員が責任をとらされて辞めたのではなかろうか。全て竹中の責任であるといって構わない。
   2※本書内によれば、《口腔内の裂傷、胸部の裂傷(相当量の出血)、頸部の擦過傷、左腕上腕部打撲傷》を負う。
  (2)『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫)
   ※おそらくこのとき乗った列車内で、羽仁五郎と出会ったようだ。メディアなどで羽仁の顔をみていた竹中だったが、羽仁はもちろん竹中のことを知らない様子であった。竹中は戦前の修身(道徳)教育に従って、敬老精神から席を譲った。
   URCに関していえば「アングラでなければいけない」と竹中がまくし立てた結果、アングラで出されることとなった。アングラブームが、当時あったようである。竹中もそのくちに乗っかったようだ。
  (3)『琉球共和国』(ちくま文庫)
   ※後に宮城は竹中のカバン持ちとなる。宮城は初代琉球独立党党首。翌檜(あすなろ)建設で働いていた。現在は歴史小説を書く作家である。
  (4)『琉歌幻視行』()
  (5)『芸能人別帳』(ちくま文庫)
  (6)『仮面を剥ぐ』
  
  [時代・社会背景]
   
  
  一九七〇年 昭和四十五年(満四十二歳)
  一月五日、よみうりテレビ「全日本歌謡選手権」に審査員としてレギュラー出演(1 ※)。三月から十月にかけて、「青山デザイン専門学校自主講座」「同・開放セミナー」で講師をつとめる。その他講師は石子順造、上野昂志、平岡正明、松田政男などであった。四月、山谷の詩人・寺島珠雄の自伝『どぶねずみの歌』(三一書房)出版記念パーティに友人として出席し、釜ケ崎のドヤに一泊する。
  五月、竹中労事務所「蝶恋花舎」を世田谷区代沢に移す。同月から六月にかけて、瓜生良介ひきいる演劇集団「発見の会」の「紅のアリス兇状旅」全国公演のプロモートをし、主に地方都市を彼らと約三ヶ月共に回る。同公演はいわゆるアングラ・前衛芸術であったため、《各地の会場で(会場関係者その他市民運動団体に疑惑の目を向けられるなどの)滑稽なトラブル》が発生する(2 カッコ内は筆者注)。本演劇ではいわゆる東海道巡業をして、西は岡山、北は日立まで回った。赤字が七十万出るも、竹中はこれを自ら背負ったと語る。六月二日、水道橋の喫茶店で太田竜と対話する。このときから『見捨てられた在韓被爆者』を書くための行動を開始する。同月七日、三度目の訪沖。八重山をはじめて訪問し、「蓄音機屋旅館」というホテルに泊まる。この際に、「全日本歌謡選手権」沖縄最終予選で局スタッフとトラブルが起きる(3 ※)。同月、糸数カメ、伊波貞子、国吉源次、照屋寛徳などのうたい手と出会う。六月八日、「全日本歌謡選手権」事前打ち合わせのため、RBCへ。以後、沖縄に滞在。七月十日、『見捨てられた在韓被爆者』版元である《日新報道と打ち合わせを完了する》(4)。同月、在韓被爆者を取材するため、広島のスラム、同月二七日、大韓民国(ソウル、プサン市)に向かう。ソウル市内のマーケットの一隅にある喫茶店で元広島市呉市海軍施設部測量隊大隊出勤班の重用工員・李南洙にインタビュー。同行(通訳?)は韓国原爆被害者援護会の徐錫佑であった。某日、広島市南観音町で被爆した金且女の家を訪ね、インタビューする。八月十六日、広島に平岡敬を尋ねる。九月、深作欣二が映画「博徒外人部隊」の取材のため、竹中のもとに訪れる。《沖縄暴力団と売春地帯、少年非行について若干解説し、(中略)琉球猥歌の『国頭ジントーヨー』『海ぬチンボーラー』を聴いてもらう》(5)。
  この前後に「週刊読売」九月二十五日号の第十一回「エライ人を斬る」「 "庶民"ぶるネコなで声の権勢欲婦人・佐藤寛子」が載る。《記事中の寛子夫人と椎名(悦三郎)外相夫人が万座観光ホテルで(群馬県)でサヤアテをした(八月二十八日)云々のくだりがけしからんというので、佐藤寛子の代理人と称する弁護士が読売の社長のところへ、イチャモン(名誉キ損で告訴すると申し入れたとか……)つけにきたんです》(6 ※ カッコ内は筆者注)。この件で「週刊読売」の"エライ人を斬る"が社長・務台の独断により連載中止となる。同時に同誌編集長である吉村達二が辞表を出す。十月十五日、読売新聞社・務台光雄社長へ公開質問状を送る。十一月九日、訴状・謝罪文を要求する。同月十七日、竹中は佐藤栄作夫人・佐藤寛子と、読売新聞社社長・務台光雄を共同不法行為と名誉毀損(信用損壊)の疑いで告訴する。理由は《マスコミ私有の暴挙に抗議し、物書きとしての争いを構える決意をしなくてはならなかった》ため(7)。原告側(竹中)の弁護人は近藤俊昭、山口素男、谷口亮二、小林芝興が無報酬で行なった。秋、『在韓被爆者』を書き上げ、『スター36人斬り』をまとめる。十一月九日、佐藤寛子と務台光雄に対して訴状・謝罪文要求書を送付する。以後、七二年十二月十五日の口頭弁論開始まで裁判所側は手続き準備に入る。十一月二十六日、三島由紀夫の死を、雑誌社との打ち合わせのさい新宿の喫茶店で聴く。
  十二月二十五日午後三時発新幹線ひかり号で東京から京都に向かい、京都で東映俳優労働組合争議終結三周年の忘年会に出席する。二十六日、午前九時三十四分大阪発の鷲羽二号で岡山へ。広島で高原亮二(岡大医学部)と中国新聞編集局次長・平岡敬(『見捨てられた在韓被爆者』の共著者)を訪ねる。二十七日長崎に向かう。深潟(人名)と駅で『日本禁歌集』制作の打ち合わせ、長崎三菱造船における朝鮮人徴用の実態について聴く。二十八日、三菱造船労務課を訪ね、のちタクシーで唐津へ。唐津警察署で孫新斗と面会する。堀寛(人名)と落ち合い、中村経生弁護士の下に赴き、戸畑駅ビルにて打ち合わせをする。二十九日正午、福岡板付空港発のJALで韓国釜山に飛ぶ。《同行したのは音楽プロモーターA氏、ディレクターT女士》(8)。原爆被爆者援護協会釜山支部長厳粉連女士の宅に向かい、孫貴達訪問の件と三十一日済州島行きの打ち合わせをする。三十日、東洋TV釜山支局前で厳粉連女士、副支部長金仁炸、韓日混血青年網切一郎の母・梁斗連と亡父吉衛門の墓参りのための日本入国について意見を求める。釜山領区冷井洞の孫振斗家を訪ね、母黄又順に話を聴く。三十一日、厳粉女士の家で孫貴達と落ちあい、取材の詳細打ち合わせをする。厳女士と済州市に向かう。田舎道をタクシーで約一時間半、徒歩で約一時間かけ、被爆者である金斗満にインタビューをしに向かう。タクシーで西帰裏ホテルに帰る。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  四月、光文社労組がストライキに突入する。
  この年から一年半沖縄の渡航許可が留保される。
  
  韓国では地謡を聴き歩く。
  《パンソリだけでなく、何でもかんでも片っ端からであって、釜山緑町の売春街の娼婦たちがうたう、『雨ショポ』の哀調に及んだのである》(9)。
  この源流が、
  《北九州炭坑地帯、大峯の『からめ節』である》(9)
  らしい。これは大島渚の映画「日本春歌考」の応答と思われる。
  
  七〇年七月と八月に「大杉栄」セミナーを開催する。ゲストは昭和二六年「天国は杯の中に」が直木賞候補に挙がる三橋一夫など。
  竹中は「全日本歌謡選手権」の出演者から降りた。当時リアルタイムで同番組を見ていた評論家・鈴木均の言によれば、
  《彼がこの番組から姿を消してから、この番組はスッカリ活力を失ってしまったことを私はよく知っている。彼は遠慮会釈なく、ナマ番組のなかに登場する、かつての歌謡タレントがいかにレコード会に利用され、放りだされ、モミクチャにされたかをアバいた》(10)。
  竹中は同番組では人気者であり、いかに魅力的なキャラクターであったのかがわかる文章であるが、要するに竹中は「文化人タレント」であったのだ。のちに自らを棚に上げて矢崎泰久を「文化人タレント」と批判した。これも「悪い癖」であろう。もしかしたら、ホモッ気の気質を有する竹中の(気持ち悪いかもしれないが)愛情表現なのかもしれない。竹中のような「男の花道」を追及する者にとって、そのような「ホモ気質」は切ってもきれない関係にある。
  「エライ人を斬る」筆禍裁判は七十年十月から、七七年五月の和解まで、約七年間おこなわれた。
  
  [雑誌連載]
  「エライ人を斬る」 「週刊読売」所載 七〇年二月十三日〜七月十日号
  「メモ・沖縄69」 「話の特集」所載 七〇年一月〜四月号
  「メモ・沖縄70」 「話の特集」所載 七〇年八月〜十二月号
  
  Eデータと「評論」
  [エライ人を斬る事件 佐藤寛子告訴と経過]
  証人喚問と事件経過の様子は『自由への証言』に詳しい。
  《佐藤栄作の自民党総裁選(すなわち総理)四選を目前にした、政治的思惑によって圧殺された私の自由な言論を援護するマスコミはなかった》(11)。
  竹中の弟子であった鈴木義昭によると、
  《マスコミはこの裁判を報道しなかった。「週刊現代」「週刊ポスト」「ヤングレディ」各誌は取材したが記事になっておらず、「週刊言論」(現在は廃刊)は校正刷まででながら記事は掲載されなかったのである》(12)という。
  楽勝と思ったためか、それほど被告側(佐藤・務台)にやる気はなかったように推察されるのだが……。例えば、佐藤寛子の法廷代理人であった小玉治行弁護士は準備手続き中に亡くなり、務台光雄の法廷代理人の大山菊治弁護士も口頭弁論開始直後に亡くなっている。にもかかわらず両者はすぐ代替の弁護士をみつけなかった。務台は、口頭弁論に呼ばれても、その間は「会議」であると欠席し(七三年八月二十五日)、《再三にわたる呼び出しを忌避する》態度を示した(11)。
  この事件で、それ以前から「マス」コミ雑誌の寄稿の依頼は少なかった(?)にもかかわらず「竹中労」=書くのは面白いが後が危険、という構図が成り立ち、各マスコミ雑誌から忌避される。ここから、ホームグラウンドといえるミニコミの雑誌に寄稿し始める。むろん、悪は読売側にある。竹中はあくまで「エライ人」のイメージを斬っていたのにも関わらず、読売側はそれを棚に上げて裁判闘争を行なった。ここから竹中の仕事は限定されていく。しかし、竹中の裁判闘争も、人から誉められる内容ではない。これは、彼のジャーナリズム論の一環としてみるべきであろう。
  
  [この年出した本]
  『芸能界をあばく』(昭和四五年七月三十日刊 日新報道 定価四八〇円)
  「内外タイムス」連載の「べらんめえ時評」、芸能界内のスターの収奪のからくりをあかす「企業を斬る」、企業に操られるスターと、そのスターの人間性を批判する「スターの内幕」、芸能者の生活が河原乞食の系譜で営まれおり、今もなお続くと主張する「河原乞食の系譜」、映画スター批判「大物よ奢るなかれ」、伊藤ゆかり(渡辺プロダクション所属)・全日本歌謡選手権を論ずる「芸能界の恥部」から本書は構成されている。《 "序にかえて"から "結び"まで、七章二十三編、約四百五十枚の原稿を整理、浄書するのに十五日間、小生としては記録的な短期間で一冊の本を仕上げたことになる》(本書より)。
  
  『スター36人斬り』(昭和四五年十二月十日刊 実業之日本社 定価三六〇円 ホリデーダイナミックス3 新書版)
  《編集協力者「週刊女性」菊池英雄、「週刊漫画」細川勝、「週刊明星」大波加弘、「週刊読売」松村泰明、カメラマン長沢淑公》(本書より)。
  
  『見捨てられた在韓被爆者』(昭和四五年十月三十日刊 日新報道出版部 定価四八〇円)
  在韓被爆者の現在とその実態を調査する。
  《二十年前、広島、長崎で被爆しその後母国に引き揚げた韓国の被爆者は"原爆症"専門医の診療も受けられないまま。最近でも奇形児の出産などの報道があり、原爆症の恐怖にさらされている》(本書より)。日本原水協の在日朝鮮人被爆者の実態調査が竹中のこの本の構想の端緒のようだ。共著者は滝川洋、平岡敬、藤崎康夫、太田竜である。
  《はっきりさせよう、朝鮮人被爆者問題は、"被爆者"、"平和"と言う言葉で埋められてきた今のヒロシマに、"本当にこれでいいのか!"というラディカルな先発の刃を向けて迫るものを持っている。かつて日本人として忠公に仕えた被支配民族=朝鮮人は、昭和二十年・八・六、日本人として原爆被害を受けた。それがサンフランシスコ平和条約の下で外国人となり、日本に在住する彼ら朝鮮人は、出入国管理法の適用で日本政府に支配され(中略)在日朝鮮人は、日本国によってその人権を保障されることのない、そして二つの本国からも保障なしえない難民となったのである。そして帰国していった被爆者達は、異民族という壁にしきられ、ヒロシマが持つあの"一瞬の閃光"の共有体験から生まれる共有意識=連帯感さえ、分断させられたのである。(中略)被支配民族であったが故に、ヒロシマの"被爆者"像からも長い間見落とされ、現在においても、韓国が、ベトナムに被爆者を派兵しようと、日本の"被爆者"像を死守する者達はその意味を知ろうとせず、沈黙したままでいる》(本書より)。竹中以下共著者は、国家にこの状態を告発することから運動は始めなければならない、というスタンスをとった。
  
  恐らく新左翼の入管闘争周辺の言説に、竹中は影響を受けていたのだと思われる。これは太田竜の示唆が大きいのであろう。そして、大江健三郎や戦後の言説空間に対するアンチの立場がそうさせたのではなかろうか。だが、竹中は大江に影響を受けていたという点は留意すべきだろう。
  
  [参考文献]
  (1)「ウィキペディア」 ホームページから引用
   ※五日かどうかは確証がつかめない。放送は五日からであった。ちなみに他の審査員は、淡谷のり子、船村徹、平尾昌晃、山口洋子、鈴木淳、武田京子などである。この番組からデビューした歌手を挙げれば、五木ひろし、天童よしみ、八代亜紀、中条きよし、真木ひでと、山本譲二など。天童よしみという芸名は、竹中が命名した。彼女のデビュー曲「風が吹く」の作詞は竹中の手によるのだが、野口雨情の詩の盗作と人々に言われたようである。
   お背戸の親なし はね釣瓶
   海山千里に風が吹く……
            (野口雨情 もろこし畑)
  (2)「映画評論」七〇年九月号
  (3)『琉歌幻視行』(ちくま文庫)
   ※竹中によれば《全日本歌謡選手権沖縄版の企画を強引に、スポンサーと争い実現した》はずであった。そして、竹中は自らが推薦する島唄・民謡を放送に乗せることをスポンサー、プロデューサー、YTV局側に押し通した。が、彼らは地元RBC琉球放送にこの意向を伝えなかった。それを知らず、竹中はRBC側と会合する。ここで放送台本を見た竹中は「自らの意向と違う」とRBC側に怒鳴り、机を叩きまくったのち、部屋を飛び出した。つまり、事件の原因は「行き違い」だったのだが、ここまで到った経緯を要約すれば、当時琉歌の評価は低く、選手権を行なうプロデューサー側も二の足を踏んでいたことが挙げられる。
  これは、自らの「構想」がうまく立ち行かないと怒気を発する、竹中の癖がもとになり起こった事件だと思われる。竹中の「構想」に対する思い入れは、常人を凌駕しているように思う。これを、「急進主義」とみるのはたやすい。しかし筆者は、竹中は「求心的」な部分があったのではないかと推測する。この事件により少しずつ違和感を深めていった竹中は、九月いっぱいで「全日本歌謡選手権」の審査委員を辞める。
  (4)「現代の眼」七一年五月号
  (5)『琉球共和国』(ちくま文庫)
  (6)「アサヒ芸能」七〇年十二月二十四日号
  ※十一月二十二日行われた"上野本牧亭"での巷談より。
  (7)『見捨てられた在韓被爆者』
  (8)『竹中労行動論集 無頼と荊冠』
  (9)「現代の眼」八一年十二月号
  (10)『われらみなジャーナリスト』 著・鈴木均
  (11)『自由への証言』
  (12)「別冊 噂の真相」九五年十一月号
  
  [時代・社会背景]
  
   七十年代週刊誌時代
  「週刊TVガイド」金子茂
  「いんなぁとりっぷ」編集長 大久保直行
  「噂」 高橋呉郎
  「望星」 矢嶋明・大森悦郎
  「現代」「潮」「主婦と生活」伊達宗克(?)
  
  一九七一年 昭和四十六年(満四十三歳)
  一月一日、厳女士に起こされ、食堂で韓国雑煮、正宗(韓国製の日本酒)で正月を祝う。済州市に向かい、朴南培を訪ね、インタビューをする。二日、ソウルへ。一月十日、韓国から取材を終え日本に帰る。二月、「映画批評」三月号に載った論考「吾ら、ケマダに拮抗しうるか?」をみた布川徹郎が竹中に電話をかけ「コザ暴動と、汎アジア窮民革命論についてほとんど全面的に同意する」と応答、ここから韓国被爆者をテーマとするドキュメンタリー制作に、共同して着手することになる。同月二十六日、『儀式』撮影現場である大映京都撮影所に赴き、所長・鈴木?成をインタビュー。日本映画の危機を予感する。三月二十五日、畏友・斉藤龍鳳が亡くなり、同月二十七日夜、中野区大和町で行なわれる通夜に、大島渚、松田政男、太田竜と共に参加する。彼らはいわゆる「招かれざる客」としての参加であった。通夜を取り仕切ったのは、三一書房編集人・井家上隆幸、竹内達、「映画芸術」編集人・小川徹。
  四月、紅軍長征の文革ドキュメンタリーの劇映画化を構想し、創造社(大島渚プロ)、白井佳夫、松田政男と日中文化交流を目的として「訪中」を申し入れる。同月十三日、社会党のボス・佐々木更三に衆議院第一議員会館内地下レストランで「訪中」の斡旋を懇請。同月二十七日、社会党のボス・佐々木更三を通じて、中国卓球団副団長・王暁雲に「日中友好・新たな世代のために/映画文化交流団」の名簿を提出、実現に努力するとの回答をもらう(1 ※)。五月二十四日昼、映画「儀式」試写のためにカンヌに向かった大島が帰国するため、竹中は羽田空港に迎えに行く。そののち、創造社メンバーと歓談。同月二十五日、武智鉄二と競馬評論家・大谷要三をインタビュー、「日本ダービーのからくり」。二十七日、ホテルオークラで行なわれた、週刊「アサヒ芸能」二五周年記念パーティに参加。二十八日夜、市ガ谷の私学会館で、二年ぶりに出獄したセクトの某、安保立役者S、野坂昭如原作「黒メガネのフーガ」を制作したが挫折した茨常則らと夕飯を食べる。同月三十日、新宿文化劇場でパネルディスカッションに参加、「日本映画/長征への出発」。パネラーは相倉久人、大島渚、太田竜、佐々木守、菅孝行、竹中労、中村敦夫、野田重徳、平岡正明、松田政男であった。当会で「水滸伝」について大言壮語、満場の失笑と拍手をあびる。そののち、新宿駅前のすし屋で各パネラーと朝まで酒を呑む。三十一日夜、新宿歌舞伎町の「まえだ」で濤書房編集者と「日本春歌行」出版打ち合わせ。後年、「まえだ」のオカミに惚れる。
  六月一日、師匠である高橋鐵の訃を聞く。同日昼、千駄ヶ谷法律事務所で「週刊読売筆禍事件」の公判打ち合わせ。同月三日、高橋鐵の告別式に赴く。途中、自動車事故に遭ったため、式に間に合わず、義理を欠く。同月中旬、平凡パンチ連載の挑戦レポート「民宿とは何ぞや?」を取材中、神経痛の胃痙攣にみまわれ、十日間激しい腹痛に悩まされる。同月下旬、韓国に渡りNDUと共同でドキュメント・フィルム「倭奴へ―在韓被爆者無告の26年」の企画・制作に協力する。ここで韓国人被爆者密航(幇助)容疑により、「蝶恋花舎」が家宅捜索される。同月二十一日、《国益を害する人物》として査証無効になり、韓国から入国禁止処分を受ける(2)。八月十七日、白井佳夫から「東映」社長・大川博の訃を聴く。九月十七日、映画プロデューサー・俊藤浩滋と都内某所で会談。ここで竹中は商業ベースの劇映画企画・「博徒ブーゲンビリア」(仮題)他を手渡す。同月二十九日から農協ホールで行なわれた連続映画シンポジウム「戦争と革命」(竹中が企画・構成を担当)に参加し、太田竜と対論《汎アジアなる焦土へ》(1)。平岡正明と対論《日中は再戦するか?》、同シンポジウムで足立正男と対談、《アラブゲリラと共に―― 「赤軍―PFLP世界戦争宣言」をめぐって》(3)。
  十月、「ナイトUP/ポルノ・ティーチ・イン」(ТBSТV・制作テレビマン・ユニオン)に出演。発言をカットされる(※別項参照)。同月、伊藤公一と協力し、渋谷公会堂で光文社闘争のカンパニアとして開かれた、光文社労組主催の「フリーキッシュコンサートbQ」で永六輔と講談。同月十七日、駒沢大学文化祭で講演。同月十八日、社会文化会館で「倭奴へ」「モトシンカカランヌー」をみた後、フォーク歌手・高石ともやと藤沢の市民会館へ向かい、大島渚司会の「フォークと講演の夕べ」に出席。
  十一月十九日昼から夕刻まで、東映京都撮影所の現場を取材、山下耕作監督「任侠列伝/男」のセットをたずねる。極月から暮まで、沖縄渡航準備にあたる。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  この年、宮古教育委員会指導主事であった仲宗根恵三に知己を得て、宮古のアヤグ・クイチャーなどの〈うた〉を紹介される。
  この頃、孫振斗の密航容疑の弁護人を買って出るが、支援組織に断られる。
  参院選のさい、経済学者である木村禧八郎候補を応援する。二五年十二月七日、池田勇人に「貧乏人は麦を食え」と言わせた男である。
  「赤鼻のトナカイ」成田知己社会党委員長と東京都内を遊説。
  
  [雑誌連載]
  「日本映画横断」 「キネマ旬報」七一年五月上旬号〜七三年一月上旬号
  
  Fデータと「評論」
  [ナイトUP/ポルノ・ティーチ・イン舌禍事件とテレビ出演忌避]
  《十一月十日から四日間、ТBSテレビで連続放映された「ナイトUP/ポルノ・ティーチ・イン」(テレビマンユニオン企画)で、私の発言が一言半句あまさず削除され、顔と姿が映し出されるという、奇怪な事件がおこった(中略)終始おし黙って、ウスラ笑いをうかべたり、煙草をふかしたり、目をむいたりする情景は、まさにポンチ絵であったが、世の中には大マジメな人々が多いと見えて、「なんたる不遜な態度だ」「下らぬ番組であっても黙殺する法はないだろう」、といった抗議の電話が殺到した》(4)。
  「ナイトUP/ポルノ・ティーチ・イン」の司会および構成は矢崎泰久、プロデュースは村木良彦であった。この映像はもともと「話の特集」が主宰で行なわれた録画番組であった。その「話の特集」主宰の番組の編集・放映権を「テレビマンユニオン」が買いとる契約を結び、ТBSに納入する手続きを経て、放映にいたった。
   問題となったのは、「編集権」のようである。
  竹中はТBSの「意向」が「テレビマンユニオン」に影響して、自らの姿がズタズタに編集されたのを知った。
  このТBSの「意向」とは、七〇年八月十三日、ТBS放映の「ナイトUP/裸の渥美マリ」でなされた小中陽太郎の質問、
  「渥美マリは和製マリリンモンローになれるか」
  に対し、
  「なれるわけがない、大映は急場しのぎのセックスとしてしか彼女を売っていないから、一年もたたずにスターの座から消え去るだろう」
   と応えた、「竹中の発言」の問題に端を発している。
  これをきいた大映社長・永田雅一は、激怒した(らしい)。そして、「ナイトUP/裸の渥美マリ」を放映したТBSに「恫喝」を加える、という経過をたどっている。
  ТBS側は永田に陳謝し、相当な金額を永田(事実上ロッテ)に支払った。
  この件で、竹中と小中は、《不用意な発言で局に重大な損害を与えた》旨により、ТBSからパージされた。
  この事件の一年二カ月後にТBSで放映された「ポルノ・ティーチ・イン」は、ТBSの意向によりテレビマン・ユニオンが編集を担当した。
  竹中は六八年三月に、ТBSディレクターであった萩本晴彦と村木良彦の配置転換処分に抗議して、ТBSの出演を忌避していたようだ。
  萩本と村木は、「テレビに何が可能か」と問題意識を持ち、テレビマン・ユニオンを結成していたはずだと、竹中は考えていたようだ。ここで竹中は、この事件のような編集をしたテレビマン・ユニオンに対し、「お前らの志はどこへ行ったのだ」と怒った。これに対し村木は、竹中に誠意のある回答を寄せた。竹中はテレビマン・ユニオンが自らの「発言」をカットしたのだと思い込んだようだ。琉歌のときのように、これもまた「行き違い」であった。
  その後村木は、
  「テープを切ったのはТBSだと、しかしテレビマン・ユニオンは小さな下請けプロダクションだから、いまТBSと縁が切れたら全員が路頭に迷うことになる、かんべんしてくれ」
  と、矢崎と竹中との会談のさいに述べ、竹中が我慢することで一件落着となった(5 ※)。
  
  [参考文献]
  (1)『決定版 ルポライター事始』(ちくま文庫)
   ※翌年、米中共同声明により中途で挫折したと『決定版 ルポライター事始』内にある。だが、実際は中国側から正式な回答がなかったのだと思われる。竹中は、その遠因は「日中共同声明」にあると推察した。本書はそのための記述だと思われる。
  予定団員は豪華メンバー、大島渚、小山明子、白井佳夫、武満徹、戸田重昌、戸浦六宏、田村猛、松田政男、竹中労であった。しかし、なぜ卓球団であったのかは不明である。ちょうど卓球が流行していた(?)からであろうか。
  (2)『琉球共和国』(ちくま文庫)
  (3)「週刊読書人」昭和四十六年十月十八日号
  (4)「週刊読書人」昭和四十六年十一月八日号
  (5)『自由への証言』
  ※佐藤寛子筆禍事件の際、法廷内の矢崎泰久の証言より。
  
  [時代・社会背景]
   五月七日、ストリッパー・一条さゆりが大阪府警に逮捕される。小沢昭一主宰の季刊雑誌『芸能東西』で、擁護キャンペーンが行なわれる。
  五月十五日、沖縄本土復帰。五月二十六日、大島渚隊「夏の妹」沖縄ロケ出発。
  九月、「東アジア反日武装戦線」日高支庁静内町シャクシャイン像台座爆破事件(? 太田以下は台座から市長の名を削っただけか?)がおこる。太田竜は、警察から容疑、指名手配をかけられ逃亡したが、十月二十三日神奈川県警小田原署に自首する。十一月八日、釈放。こののち、公安の「現代思潮社」「レボルト社」に捜査の手がのびる(太田が自供したわけではない)。
  
  一九七二年 昭和四十七年(満四十四歳)
  一月(沖縄の先島へ)から二月、四月から八月(この間東京と沖縄を往復)、沖縄で取材にあたる。一月七日、「平凡パンチ」特派員《ヤング向けプレイマップの制作のため》(1)の資格で、渡航身分証明書が交付される。同月二十一日、竹中は現地自主上映運動を展開すべく、「モトシンカカランヌー」「倭奴へ」と大島渚監督作品「ユンギボの日記」を携え、十八カ月ぶり四度目の訪沖。同日、那覇空港から翌檜建設へ向かい、布川、土肥、大石と合流し、黒川修司、無銭旅行者S嬢を伴い栄町に山羊汁を食べに向かう。二十二日から同月末まで、普久原恒勇、備瀬善勝、三田信一、嘉手苅林昌、山里勇吉、国吉源次、大工哲弘、伊波貞子、知名定男、照屋林助、上原直彦などさまざまな人物の琉歌を聴く(1)。並行して冥府通信社琉球駐剳隊(琉球独立党)の宮城賢秀、大城正男が先導して行なう自主上映運動(一月末まで各会場でロードムービー、「さらば・幻視の祖国よ」と題された)に協力する。上映する作品は「沖縄エロス外伝/モトシンカカランヌー」(NDU制作)「倭奴へ/在韓被爆者無告の二十六年」(NDUと竹中労共同制作)「さんや68 冬」(竹中労制作)他であった。場所は那覇市、名護市、コザ市など。《旭流会(暴力組織の連同体)、沖縄盾の会、日思会、といったやくざと右翼が会場に殴りこむという動きがあり、売春業者、Aサイン業者からも横ヤリが入って》上映が困難となるも、竹中がヤクザ側にアプローチし、上映にこぎつける(1 ※)。予定した上映後のパネルディスカッションは荒れ、琉球独立党を支援していた竹中は、「沖縄のあり方」の方向性の違いから、沖縄の新左翼共を怒鳴りつけることもあった。各上映会場で、様々な文化人と出会う。ここで、「琉球独立党」野底土南、宮城賢秀、大城正男らの支援を約束する。二月七日、沖縄から帰る。同日から三月二十日まで、『琉球共和国』の原稿八百枚に取り組む。同人誌「闇一族」四月号に、夢野京太郎名義はじめて「我観 京太郎琉球史」を書く。二月二十七日、東北大学全共闘のセミナー「沖縄報告講演会」に参加。翌日、仙台駅構内で「あさま山荘」の壁をクレーン車の鉄球で破壊する模様をテレビでみる。三月十二日、若松孝二の代わりに東京12チャンネルの討論番組「対話一九七二 ドキュメントトーク・人名の尊重について」に出演する。連赤事件に対する若者たちの保守的な発言に怒った竹中は、彼らの殺人を肯定する(2 ※)。
  四月七日、宮古・八重山・西表へ向かうため、五度目の訪沖。石垣島の空港に降り立つと、布川、井上、土肥、大石などNDUメンバーが迎えに来ていた。彼らは沖縄本島→宮古→八重山と南下して、「八汐荘」を拠点として活動していた。竹中は彼らと、ロマン・ドキュメンタリー八重山記録映画『アジアは一つ』の制作に協力する。四月十日、西表島の大富の民宿に滞在して原稿を執筆。十一日、沖縄からの帰途、新川明と飛行機に同乗。同月末、東映・大映京都撮影所で取材、中島貞夫「木枯らし紋二郎」のセットを見学。そののち富士へ向かう。五月二日、富士シネクラブで「倭奴へ」上演ののち、上杉清文ななど無党派の方々と討論。五月十四日、四谷公会堂で沖縄青年男女が集まる講演会に参加する。同月十五日、全日空の沖縄復帰第一便に搭乗、六度目の訪沖。同日、タクシーに乗り街頭と物価(=インフレ)を観察する。同月二十日まで、那覇とコザ間を往復して取材にあたり、並行して地元のラジオ番組に出演。この頃、沖縄で金城睦松(きんじょうぼくしょう)がうたう「県道節」を聴き、島唄のこころを教わる。以降、沖縄に行くたび会う。同月二十九日、太田竜(本名栗原登一)、平岡正明と三馬鹿講演会「水滸伝を論ず」のため、富山へ向かう。この三馬鹿革命浪人が一致団結した最初で最後の旅講演であった。太田はここで「沖縄独立よりもアイヌ開放こそ世界革命の第一義」と自らのスタンスを変え、平岡および竹中と喧嘩別れする。太田は三人の執筆で上梓の予定であった『水滸伝』の執筆を拒否し、三人の関係はこじれにこじれる。同月、《琉球独立党主催の討論集会「さらば沖縄県」に参加、六月講演並びに映画(「赤軍・PFLP/世界戦争宣言」)上映集会を開いた》(1)。六月十五日、映画「夏の妹」ロケのため、足立正生、平岡正明に同道して、七度目の訪沖(?)。同月十七日、沖縄に滞在、伊計島に向かう。同月十八日、那覇市官公労共済会館で「連合かまいたち」主宰の映画シンポジウム「燃えろ! 琉球弧」に参加。パネリストは足立正生、平岡正明、松田政男、野底土南。同月二十三日、全日空で創造社メンバーと共に帰国。
  七月から前後して沖縄に滞在していた模様(?この辺りから不確か。松田政男によれば、竹中労、平岡正明、太田竜が、東京で創造社に反対するビラを配っていたようだ)。この間大島渚と映画「夏の妹」をめぐって、「映画批評」誌上で論争に発展する。同月、かわぐちかいじと共同し、「博徒ブーゲンビリヤ」の連載を開始する。八月五日、全日空機で(八?九度目の?)訪沖。同月二十六日、新宿アート・シアターで山下洋輔とリサイタル、「夏のものの怪」。九月、IFC(インターナショナルフォークキャラバン)の主体を担った若者たち、上杉清文(ビートルズ芝居「ヒア・ジェア・アンド・エブリホエア」の作者。職業・坊主)、蝶恋花舎三羽鳥などを含む総勢三十人を同伴し、十度目の琉球行に向かう。これが第一回「琉歌幻視行」ツアーとなる。竹中は若者達へ現地案内および琉球諸芸の解説をする。
  十月、巷談舎が主催し伊藤公一企画・制作の「大演説会」に出演する、《法、法ならざれば令行なわれず》(3)。十一月、「蝶恋花通信」を廃刊する、特集は「汎アジア窮民革命」。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  竹中はNТV「昼のワイド・ショウ」"スター爆弾宣言"に出場し、《もう竹中労としてはつかれた。やめる。ここへ出て来たのは、青年岡本公三の行為を支持することをはっきりといっておきたかったからだ》(4)と語った。五月三十日、イスラエル・リッダ空港を日本コマンドが襲撃。
  この年の春から、台湾独立運動を行っている泰面国境のモン・シャン・カレン民族統一戦線と連絡をとる。モン族解放戦線については、作家・宮崎学のノンフィクションノヴェル『血族』が詳しい。
  二月二十八日、連合赤軍あさま山荘銃撃戦・機動隊突入の様子がテレビで放映される。竹中は、この日の意味を《佐藤栄作四次防空転国会における答弁、米中共同コミュケ発表のまさにその当日、機動隊の総攻撃は開始され、人々のマナコ、ТVの画面に釘づけになっている間に"政治危機"は回避された。目だまし忍法、ひきつづきましては内ゲバ殺人リンチ、連鎖大惨劇(略)自衛隊立川コソドロ移駐よ、物資沖縄の値上げよ、三月十五日の"返還協定批准書交換"よ》(1)と述べる。政治家(大臣クラス)のメディア操作はお手の物であると言う意味である。この種の「ショーアップ」操作は現在でもよく使われている手法だ。六四年の東京オリンピックから、テレビは一般家庭に普及した。この以前にも政治家=官僚レヴェルでメディア及び情報の操作を行なえるような下地作りはしていたのかもしれない。竹中はこの事件により「ТVのある世界でゲリラ革命戦争は可能か?」と考えるようだが、筆者からすれば、政治的被害妄想甚だしいといわざるを得ない。しかし、竹中の発想がどの辺りにあったのかは一考に価するだろう。恐らく、この時点からテレビのショー化ははじまったのだと思われる。しかし、彼のその「煽り」の文脈は、大衆に対する「責任」の問題がつねに問われなければならない。
  竹中がアジアへの視座を抱くのは、布川の力が大きいと思うのだが、八三年に方向性の違いから両者は決別する(?)。
  竹中は連赤事件の際、警察の「ローラー作戦」のため《ボクは借りてた家を追ん出された》(5)という。竹中がシンポジウムなどを行う際、公安がズラリと並ぶ光景もあった。
  渋谷公会堂で行なわれた「大演説会72」で竹内好とであっている模様。
  
  [大島渚との論争 映画「夏の妹」をめぐって]
   論考未完成
  
  [雑誌連載]
  「琉球幻視行・蝶なて飛ばば」 「えろちか」七二年五月〜
  「艶本紳士録」 「噂」七二年七月〜
  「博徒ブーゲンビリア」 「漫画アクション」七二年八月〜 漫画かわぐちかいじ
  《泰面鉄道建設工事に従事した日本の工兵隊をモデルに》(6)した劇画ロマン。
  《沖縄でも泰面国境でも、朝鮮人の下級兵士・軍夫たちは、問答無用で虐殺され、もっとも悪質な日本帝国主義の手先として、処刑されたのだ》(7)。
  
   毛沢東主義について 三浦つとむ・寺沢恒信 
   岩波書店から 近藤邦康
  二つの文化と科学革命 C・P・スノー
  
  [この年出した本]
  『琉球共和国―汝、花を武器とせよ―』(七二年七月三十一日刊 三一書房)
  「政治・ポストモダン思想・芸能の内在的批判」
  《嘉手苅林昌という魔のごとき謡人との邂逅は、人間が真に人間だった始原へと、私をひっ攫った。最近三一書房から上梓した小著、『琉球共和国―汝、花を武器とせよ―』に約百枚の嘉手苅春歌を収めたが、それは彼の底知れぬあまえほこり(嬉笑)の全貌には程遠いのである。〈うた〉を文字でつたえることの、その白々しさもどかしさに、私は焦立つことが多い。たとえば、嘉手苅の名唱である『下千鳥』『国頭大福』等々を、どのように苦心して日本文学に移し変えようとも、活字では唱わないのだから。せめて、それらの〈島うた〉がどのような歴史、どのような習俗を土壌として生まれてきたかを述べることぐらいしか、私にはなすスベもない。が、さらなる幻視の歌の旅を、私はつづけるだろう》(8)。
  「竹中の琉歌解釈は間違っている」と、沖縄の新左翼・関広延は雑誌「部落解放」で島袋盛敏著『琉歌集』を引用し、その解釈の誤解と、無断盗用(改変)を批判する。この論争は「部落解放」と「沖縄タイムス」が舞台となった。(※ 情報の考察 先の文脈は作家・森秀人の主張を援用したものであろう)
  竹中は自らの解釈で琉歌を「理会」し、原稿を書いていた。もちろん、この論争の原因は、「琉歌」の形式に基づいて理解するか、解釈に基づいて理解するかの違いに他ならないのだが、竹中はもちろん後者で、しかし形式をないがしろにしている訳ではない。竹中の解釈は日本の「大衆」の「現在」の情念に依拠しているのだ。同時に、沖縄の歴史・風土・文化の相違に対して「沖縄、ニッポンではない」と宣言するも、なお「人間」に通底している「同祖」の情念として「琉歌」があると解釈した。これは、「みょうち」で連載していた農村の民謡についてもいえる。つまり、公的な事実でなく(公的な事実を掘り起こすこともあったが)、アナキスティックな評判家である竹中のフィルターを通し、自身が「読んだ」琉歌や沖縄文化を、読者に提示しているのだ。だが、「人間が真に人間だった始原」というのはイメージ過剰な錯誤であろう。筆者は竹中が「一元化への欲動」を持っていたのではないかと推測する。後年の「牧口常三郎」の著作もその枠内にある。
  対して関は、筆者自身感じることでいえば、自らの差別意識を差別しているように思う。自己愛の裏返しの自己否定である。「生まれてごめんなさい」といっているようなものである。もはや、このようなナルシスティックな言説が機能することは無い。差別が無くなるのは在り得ないが、他者に向けて、文化から構成される価値観の否定、人間を構成する情報そのものの否定、意識構造の否定をするかのような言説は捨て去ったほうがよい。相違を認め合う事が重要なのだ。その関係の中で同質の主体性を確認することが出来、連帯の盟約を結ぶことも可能なのである。竹中はいう、《差別は、ときに愛情の表現である》(9)。ここで言う愛情とは、暴力的に見える対称と対象の相関関係を指している。人間性の本源であるセクシュアリティを肯定する主張をしている。関の歴史認識は正しいと思うが、ここでは解釈と読者に対する影響力が問題となっているから話がややこしくなっている。筆者としては竹中の「態度」に興味を引かれる。
  ちなみに、沖縄の先駆的なルポルタージュは、森秀人の『甘薯伐採期の思想』(六三年)がはしりである。
  竹中の本書は、森からかなりの文脈(構成や主張)の引用をしている。もしくは、自身でその文脈を読み替えている。森は、六二年に沖縄に向かい、沖縄問題における嚆矢である『甘薯伐採期の思想』を、現代思潮社から刊行している(本土でかなり話題となった書物である)。
  森の後に続くかたちで、大江健三郎、小田実、大宅壮一などが沖縄へ向かっている。ここからみると、竹中の関わりは遅い。ジャーナリズムおよびアカデミズムの周辺を窺い、先人たちをボロクソに批判する悪癖は、本書でもみられる。沖縄への視座はほとんど森の援用である(ここで「援用」とするのは森に失礼にあたるかもしれない。それほど森のルポは先駆的、そして具体的だ。しかし、琉球独立論を主張するのは七二〜三年当時でも危険であったようだ)。
  そして、竹中の後年の発想も、森によるところが多分にある。
  森は、五一年に「思想の科学」誌上で幇間芸について研究し、六二年に思想の科学で「ドグラマグラの世界」の発表をきっかけに、谷川健一と「夢野久作全集」の企画を推進した。森は敗戦後「思想の科学」に「夢野久作の世界」を発表し、これが機縁となって全集の編集にたずさわったと「公評」〇四年一月号で語っている。対して竹中は、幇間芸に関しては六九年にレコード「桜川ぴん助」に収め、夢野久作に関しては七二年頃から自らの論理に引用していく。
  森によれば、「竹中労は私の十年後を追っている」。鶴見俊輔によれば、森秀人とは「憑依の思想家の先駆者」である。森は竹中と学園祭の講演会などでパネリストとして一緒になることもあったが、《あの傲慢無礼をもって鳴らした竹中労が、わたしの前では飼い猫のごとくおとなしい。だいたいわたしの目を直視して話さない》(10)。
  つまり、竹中は良くも悪くも、文献を「歩く」「ルポライター」であったのだ。だが、竹中の場合は引用(主に夢野久作)から「誇大妄想」→「大言壮語」が孕むため、読み手としてはどうにもならない。竹中の、引用を自らの解釈に当てはめ、「危機意識」を煽り立てるかのような部分も見逃すことは出来ない。仕事がいそがしかった(?)のだろうが、竹中の「内面」が危機なら表現される「現実」も危機的になっていくかのようだ。それは前述のように、風景イメージを内面化していく文章構成上の彼の手法=自意識のあり方に問題がある。つまり、彼がここで一貫して行っているルポ(及び批評的視座)は、(小説的な)フィクショナルな構造に回帰(再帰)する。
  森は晩年の竹中に「俺を夢野京太郎と呼んでくれ」と強要されたらしい。
  森の言を引用すれば、
  《竹中労の文筆業の他の業績では、琉球民謡の発掘である。主として猥褻という判定で、レコード化されなかった琉歌を復刻した。しかしその多くは版元の倒産などで今では入手不可能となっている。竹中労の威勢のいい煽動に乗せられた版元の多くが、売れ残りを抱えて倒産した。竹中労の功罪あいなかばする……というのはそういう意味なので、すばらしい活躍の影で、かなりの人士が涙を流した。彼はいわば人間ハリケーンで、その通り過ぎたあとには、洪水のような濁流が渦をまいていた》(10)。
  先にいった「危機意識」を煽り立てる部分がうまくいく(?)場合の話だが、もちろん相手方にとっては迷惑な結果になるのが必然でもあった。琉歌の採集・紹介者としては、森をはるかに上回っていることは、いうまでも無いのだが――。
  竹中自身、琉歌はともかくとして、春歌採集はあまり気乗りのしなかった企画であったようである。師匠である性科学者・高橋鐵が「いい企画です、期待しています」という旨を竹中に伝えたので、引くに引けなくなったというのが、採集を中途で辞めなかった理由のようだ(11)。彼の友人の作家・五木寛之もこの企画には賛同していた。つまり、方々から賛同者が出たため辞めなかったようだ。とすると、竹中の場合、自らの「志」が中空に浮き、いつの間にか他者のために行動していた、といった場合も多々あるのだと思われる。当たり前だが、(華美な美文を書いた)全責任は竹中労にある。つまり、それは表現者(=扇動者)としての「責任」の問題となるのだろう。
  竹中は多くの場合、「他者のために行動していた」部分の責任すら果たしていないと思われる。責任を果たしたもののみ、手前の「生き様」の論理に当てはめ、読者を「アジテイト」していく。数多くの人間が「涙を流した」というのは、そのような意味であろう。ほとんど、その相手から手厳しい批判にさらされても仕方が無い人間であるのだが……。契約なのだから仕方が無い、というのが相手側の本音なのであろうか。
  ここで指摘しておくが、先の引用に「原始共産制」云々とある。竹中はおそらくマルクスを読み違えている。すると、(当時のアカデミズムの言説の構造からすれば仕方が無いとも思うのだが)竹中は「原始共産制」を希求する錯誤を犯している。筆者はそれを、「一元化への欲動」とする。
  それは、「啓蒙が神話へ退行する」(アドルノ&ホルクハイマー)危機である。後述するように、その神話は、伝統の捏造によって操作可能となる(ちなみに筆者もそれを行なっているのではないか、という危惧がつねにある)。
  
  さて、ここでは竹中が沖縄に向かった目的を考察してみる。年譜からみてもわかるように、竹中は民謡(琉歌)を採集しに向かったというのが初発の理由である。しかし沖縄でみてきたものが、竹中の「思想」(と著作内)にどのような影響を及ぼしたのかを、ここで追ってみたい。
  竹中は「辺境最深部」から琉球共和国建国を目指す営為、つまりオルガナイザーとして「大衆」を組織化する仕事ではなく(「組織化」などハナから失敗しているので、ここで問題としない)、「花」を武器として「日本人」の「国民意識」を融和させる目的があった。「花」とは、世阿弥が語った、芸能の極意として竹中に考えられた(恐らく序破急、大宅壮一の影響がある)。
  それを汎アジアへの、もしくは祖(おや)への回帰と呼び、ジャーナリストとして沖縄の伝統的な文化を《在ったものを在るものとして紹介する営為》を目的とした(1)。つまり、もはや無くなりつつある沖縄文化の再現から国内への紹介を通じて、「国民意識」の否定を画策した。竹中はその媒介を沖縄の島うた(民謡)に求める。三島由紀夫『文化防衛論』を引き、「文化」という新たなネイション=フィクションの模索をおこなった。
  《私にとって"うた狂い"こそ琉球体験の原基であり、もろもろの政治的、革命的主張もまた、島うたへの傾倒にその根を置く。いささか図式的に言うならば、音楽→馮霊(エントゥシアスモス)→脱自(エクスタシス)→大衆狂乱(マス・ヒステリア)→自然発生的な暴動、叛乱という構図を、私は『ビートルズ・レポート』(「話の特集」別冊)から一貫して追求してきた。音楽的な昂憤は階級意識よりもすぐれて革命である、というテーマに理会したのは故三島由紀夫であり、深沢七郎であった。?ト?ト水ノ渙々タル(詩経国風)"原始共同体"への回帰を、階級社会の秩序の外に貶められた人間の〈うた〉に求めるべく、六九年の六月から、私はLPレコード「日本禁歌集」制作にとりかかった。「桜川ぴん助江戸づくし」「波まくら博多淡海」、そして「沖縄春歌集/海ぬチンボーラー」と三巻編集して、資金提供者である音楽舎・URCレコードと志の相違から絶縁、制作を中断してしまったが、私の胸中にはどうあってもこの企画を捨てることのできぬ妄執が未だにわだかまっている》(『琉球共和国』)。
  もちろん、「女性自身」内の仕事であり、当時の竹中の方針である、「文化の人為的構築」(文献学)の志向の延長上にあるのは、いうまでも無いであろう。
  しかし、筆者はここで、竹中の論理をアカデミックに、「近代国民国家」を否定する視座として読み換える。「近代」に対置され、拮抗関係にある概念としての「ポストモダニズム」、「国民」に対置され、この正統性を批判する形での天皇制度批判および「国民意識の否定」、「国家」に対置され、超克の論理としての「党」。
  ここでいう竹中の「ポストモダニズム」とは、『鞍馬天狗のおじさんは』や『大杉栄』『黒旗水滸伝』(=美的アナキズム)、ミュージック・マガジン誌で連載された「吉慶堂李彩聞き書き」ほか、琉歌の紹介などを指す。「国民意識」の否定とは、連赤事件を肯定し、岡本公三を同志とする態度(文脈)を指す。「党」とは、「革命」と不可分であった共産党への憧憬と、竹中の観念のなかで構成された、共産党とは別次元にある「党」を指す〔「悠久の革命」とは、山本五十六の遺書からみてとれる「皇国史観」(換言すれば革命の否定)の援用である。筆者はここでハーバーマスを援用しながら、竹中の手法はポストモダンとプレモダンを行き来すものであり、その実はポストモダンであるという部分を実証しようと考える。ちなみに、彼が生涯書き残した「自伝的論考」の多くはポストモダンであり、自身の根拠性を掘り崩す「自己関係的批判」の枠内しか存しない〕。
  日本における「近代国民国家」形成は、民族間の防衛的な統合意思もしくは、大衆民主主義の原基的形態から生まれたのではなく、一部のエリート・インテリ層から生起され、彼らが実務をになったのは周知の事実である。無論、「国家」とは「暴力の独占体」をかたちづくる運動である。「暴力」を、防衛的な意思から、「権力」が司る集合機関の下に独占させ、民族・大衆の成員が「権力」の協約(動員)をするとき、はじめて「国家」は成立する。これが「国家」=「幻視の祖国」であると竹中は考えた。もちろん、沖縄の「祖国復帰」をここで含意させているのはいうまでも無かろう。
  一九世紀以降の日本やアジア諸国のばあい、民族(大衆)→国家建設ではなく、国家建設→民族の淘汰=国民化という事態となる。香港や台湾ほか旧植民地地域では、他国間の競争に追いつくため、前出のような「国家建設」の運動が顕著であったと考えられた。竹中が六八年に『山谷――都市反乱の原点』内で、太田竜が『見捨てられた在韓被爆者』内で書いた「帝国主義論」も、ここで肯定的につかわれる。
  八十年代以降、竹中が「大正」に興味を持ったのは、「内に立憲主義、外に帝国主義」があるという面と、戦後知識人的なものでない原初的な「知識人」の問題を考察するためであったのだ(が、それは丸山のいうような「無法者」(=大杉栄)の論理で構成される。そこにはマスコミ天皇・大宅壮一や、戦中「国民」の立場から戦争を賛美したリベラリスト・大佛次郎に対する明確な対抗意識もあったのではなかろうか。大正は知識人・政党政治台頭・相次ぐ騒動での大衆民主主義の確立があった時代ではあったが、もちろんそこには文化を至上とするニヒリスティックな敗北主義もあった)。
  話が逸れるが、竹中が七三年にモン族解放戦線に行く要因の一つとして「戦争を見つける」としたのは、「民族」の自主独立闘争をみるためであると思われる。つまり、「党」と「大衆」と「民族」との相互の関係を把握するためであったのだ。
  竹中にとって、沖縄を「琉球共和国」として独立させる視座も、この「党」と「大衆」と「民族」間から生まれていく。この運動の起源は、フランス革命以後の国民国家形成の概念から生まれるのだが、竹中にとって、それは自らも行なう政治的な運動であって、そのような概念や理論の主張ではなかった。あえていえば、実践的な行動に付随したのは(政治)思想であろう。ここでの運動が組み立て得たものは、民族共同体における実践の論理に他ならなかった。この主張を類型化すれば、民族決起の戦略を基底とする「半植民地からの完全独立闘争」といえる(「日本」もこの枠内に入る)。
  しかし、ここで留意しておきたいのは、マルクス主義的な「民族」という観念も、フランス革命以後に社会類型化された観念でしかないということである。
  「民族」は近代の産物であるという図式は、スターリンの一九一三年の論文「マルクス主義と民族問題」がもとになっている。ここで、近代資本主義の発達で市場・言語・文化などの共通性が生じたあと、「民族」が形成されるという見解がとられた。しかし、一九五〇年『前衛』が載せたスターリンの新論文では、近代的な「民族」は資本主義以降に形成されるが、その基盤として、近代以前の「民族体」が重視されるべきだと主張される(13)。
  竹中にとって、この「民族体」の概念が、「報告」に少なからず通底する。
  先のスターリン論文を読んでいたかどうかは、知る由も無い。しかし、彼は(スターリン批判から一連の)新左翼的なものの流れに乗っていたとは、誰もが認める事実であろう。そして、当時彼が先見的にみていたのは表象(イメージ・感性)である。とすれば、竹中のルポルタージュは、「理論から見出される現実へ遡行していく」といっても過言ではないであろう。繰り返すが、竹中は沖縄で、この理論から見出された「状態」(現象)をルポルタージュしていく。その「状態」を解釈し、構想を練り上げていった先に、自らがオルガナイザーとして組織する「党」(再組織性)が存在していたと筆者はみている。この「過程」(=ルポ)に奮迅することが、竹中が語る「革命」である。つまり、自らの観念で構成されたルポライターという職業の概念的な定義を実践することが、竹中にとって「革命を行なう」ということである。その営為は「書き手に専念する」ことに他ならない。竹中が数多くの運動にコミットしているかのような態度(文脈)を示すのは、自らの「功名心」を戦後知識人に対して示す戦闘的な「ポーズ」であろう。竹中自身、数多くの「革命を目的とした行動」を主張しているが、その多くは「時代の流れ」や「ときどきの流行」を追って行ったものに過ぎない。つまり、現在からすれば(もしくは現在からしてみても)彼の主張はつねに表象(イメージ・感性)としてしか存立し得ない。「伝統」と「現在」の不可思議な距離を表したのが、彼のルポの正体である。筆者は、その論理構築の非体系さを「ポストモダン的すりぬけ」と称す。
  竹中は先の「理論」のように、琉歌を通して祖(おや、世間・血縁間の結束)に遡行し、「民族」的でない、民衆的な情念を媒介とした、「風土性に基づく連帯」の発想が根付いていった。筆者は、「日本」及び沖縄の「現実」が、その視座の不可能性を示唆したのだと推測する。そして、その物語と生きられた現実の「距離」を写すのが、彼のルポルタージュの主流を占めていくことになる(だが、竹中が書く場合、つねに物語の先行がみてとれる。そして、自らを歴史化せんとする錯誤的な態度も)。
  ここに、竹中の思想の転回の胎動がみえはじめる。それは、七〇年中期以降の「戦後」の言説空間の崩壊も要因のひとつといえる。
  だが、竹中は「運動」を実践的に組織しようとするばあいや、「理論」を構築していくばあい、つねに「党」の論理と癒着してしまう。
  竹中は自らの経験を殊更アピールする悪癖があるのは以前書いたが、「党」の論理との癒着とは、自らの経験に主軸を置いて思考していたためである。そこで、自らの経験の仮構をも要求されたのだ。筆者が推察するに、八一年に竹中が刺青を彫る意味は、理由はどうあれセルフイメージ(経験・自画像)の絶対化を前提としていたように思われる。つまり、ニーチェのいうような「超人」を想定する錯誤を犯しているのであろう。
  これは、竹中の俗情というべきなのかもしれない。
  
  話を変えて、この時期(七〇年‐八〇年)の運動論に戻ろう。
  前出の竹中の『琉球共和国』内の運動論の図式は、廣松渉=ヘーゲル的な図式、いわゆるマルクス主義的な観点からよくみいだされる「近代」を語っている。だが、この理論から生起される運動が成功したか否か。否であった。この図式の運動性はあらゆる運動に見られると筆者は推測するのだが、「近代」とその表現形態としての民主主義=「自己統治」の理念、「階級闘争」と政治的なイデオロギーほか様々に結びついてきた。これが日本ではもっぱら文化的に現象し、自然主義文学批評の旗手であった吉本隆明その他、あらゆる運動の可能性も生まれてくる。しかし、その運動の軌跡はだいたい理論化されてしまえば「転倒」してしまうのだ。ここで「転倒」といっているのは、結果と原因を取り違え、結果から出された諸論考から、原因を模索(=実践)するようにして様々な運動を反復して行うことである。例えば竹中に関していえば、先に述べた図式、ある音楽が鳴っている「状態」からビートルズのような「マス・ヒステリア」を説明するのは、やはり無理があるのと同時に、現実の運動に際していえば、竹中自身が成功か失敗かの二択をつねに迫られてしまっているように思える。結果(ビートルズによる大衆狂乱)をみてしまったために、原因を違ったものと改変(曲解)してしまう面は、やはり見受けられてしまう。勘違いしてもらいたくないのだが、筆者はいわゆる「理論」と竹中のここまでの行動を否定している訳ではない。沖縄の政治体制は(現在その議員だけを見れば)竹中の考えていたユートピアに一番近い形となっているのではないか、と考えることもある。が、ここでの「理論」はある面で、フィールドワーク的な仕事を疎外してしまうのだ。(しかし竹中はこの仕事を沖縄で両方ともやる。これは沖縄に対する竹中のパッション=狂疾がさせたものだろう)。よく語られていることだが、竹中が自ら「運動」を起こしたのにもかかわらず、これを途中で放り投げてしまったとみえるのは、彼がロマンチストだからではなく、マキャベリズムを否定している訳ではなく、「運動」において絶対性(結果)を求める「理論」家であったがゆえなのだ。
  この「理論」を飛越する表現方法として、劇作の極意として近松門左衛門が語った「虚」と「実」の皮膜をえがく(つまり、事実を背景としながら、それを修辞性のともなう劇作につくりかえる)。ここで、ルポルタージュ作成の視点のあり方である、「理論」に対置される「主観」(肉眼で現実を見ること)上の「直感」(感性で現実を把握すること)の優位が決定された。この表現はデータ・アンカーシステムという「合理化」への違和感が原因である。単独で仕事をこなすデータジャーナリストであると竹中は自認していた。
  《他者の人生・仕事を追体験することで構築しようという、ドキュメント・ルポルタージュの方法論に依拠している》(『日本映画縦断1』)。
  この発言は、政治的判断としてルポする対象と連帯の理念を共有することでなく、彼らと一味同心し、彼らの志(取材対象の「理念」)を自己の「内面」とすることにより表現されるルポルタージュを指している。これが竹中の表現する「事実」の記録である。この「事実」の報道性から一点突破して、政治主義へと向かう試行段階にルポルタージュの視点および思想は存在し、竹中が行おうとした現実レヴェルの運動はここから発展する。
  筆者はそれを、内面的な「事実」と、「いま・ここ」の現実を変えようとする「修辞学」を基にして、竹中の「肉眼」通して成立すると結論する。
  例えば、ヨーロッパ人が新大陸を発見してから「観察」もしくは「記録」してきた表現をみると、視点に超越論的な「客観性」が存在せず、自らの視点で事実を捉えなおしているのがわかる。この点に、彼らの表現上の「政治」をみるのだが、しかし、いうまでもなく竹中はこのような表現をしてきたのではない。先ほども書いたが、取材対象の志を自己の内面とするところに、竹中の「事実」の記録がある。この違いはどこから来るのか。それは「社会システム(制度)」と絶えず拮抗していながらも、「社会システム理論」の命題を踏襲していた、近代的にかたちづくられた視点から実証に向かって「報告」した部分にあると思われる。つまり、前近代性と近代性の両極が、竹中が背負う世代とあいまって表現されている、「報告(結果)の一元化」としてみることが出来よう。その「報告」は自らが理念とする自由性に基づくのはいうまでも無い、だが、竹中の論理につねにつきまとうのは歴史・物語→伝統との裏取引(=再現の無効性)である。それは「運動」の失敗を暗黙に、つねに意味させている。
  
                   ※
  
  では、筆者たちの現在の「立脚点」(位置)はどこに置くべきであろうか。先にいったように、竹中の思想のほとんどはポストモダンであり、そのほとんどは情緒的嗜好や感覚的鑑賞のみにとどまっている。それは偶然ではなく、『日本映画縦断』『鞍馬天狗のおじさんは』『琉歌幻視行』などは、すべて「娯楽」の娯楽性(芸能)を追及するものであったからに他ならない。送り手(竹中)がそれを書いていた際に、どのような思考していたかは、ここでは問題にしない。彼は、読者にそのようなキャラクターとして認知されていたのだから。そして、彼の思考(文脈)からは「近代的自我」の規律・訓練という、批評的な命題からすり抜ける「土着的な大衆性」=「前近代性の回帰」の思想がうかがえる。つまり、彼がことのほか主張するその態度は、青年期に書いてきた詩的イメージか、もしくは、自ら考え出されたイメージのフィクショナルな構造に再帰してしまう(=「啓蒙」の物語への不信があるのだろう)。もちろん、それは「運動の失敗をつねに意味させる」とは先に書いた。有り体に言おう、「既存の竹中労の思想はもはや使い物にならない」。彼の主張をひとつのトリックスター的なものとしてみても、文化的な「構造外」という論理、差別を基底とする「芸能の論理」は、もはや成り立たなくなりつつあるからである。かさねて、猥雑な熱風の如き近代の歪みはなくなりつつある(だからと言って、それがなくなることはありえないのだが)。
  彼の思想は、青年期に影響を受けた詩人・真壁仁を再解釈していった先にある。その立脚点は、焦土のなかの「詩」と、そこで生まれた活字文化と熱い政治運動から生起された「明るい未来の展望」という、「戦後」(直後)の「夢」のなかにある。くりかえすのなら、それが「自らの経験の正当化=他者の不在」なのは、明らかであろう。
  彼が思い描いていた「夢」の継続としての「戦後」像とは、生も死もない交ぜになったシュールレアリスティックな世界であるとともに、限りなくアナーキーな欲望と可能性に満ちた世界だった。この時代は、いうまでもなく「伝説」の時代であったし、彼は良くも悪くも、戦後的な人物であった。ここは「公」も「私」もない、文化的なもののみで交通可能な世界である(もちろん、筆者は「文化」を否定している訳ではない)。
  必要なのは、この「戦後」の「夢」に対抗→超克する論理であり、なおかつ私たちに「自由」を保障し、それを作り上げるための諸々の新たな枠組みの「理論」(立脚点)にほかならない。それは、過去の捏造にともなう虚偽意識にもとづくのではない、正しい歴史的教訓の上で成される、未来を構想する能力の謂いである。筆者は、それを「立憲主義」と「リベラリズム」に託す。
  
  Gデータと「評論」
  [夢野京太郎とは何か]
  三月頃、竹中が管理し、指揮をとる共同ペンネームの小説創作群体「夢野京太郎」が活動を開始する。執筆者は五木寛之、児玉隆也、千田夏光、山口浩など、取材記者は早稲田企画の黒木純一郎、成田正らである。発表当時はメンバーの名前はもちろん伏せられ、「夢野京太郎」名義で統一される。情報小説・企業小説・未来小説・予測小説など、主として「週刊小説」(出版元・実業之日本社)誌上に発表する。《竹中が硬派、児玉が軟派と隔週に執筆した》(『仮面を剥ぐ』)。「夢野京太郎」は八、九月頃から姿を消し、代わりに「水口隆一郎」という名前で誌上に登場、竹中は小説創作群体「夢野京太郎」から降り、管理は児玉隆也らに委託された。
  三馬鹿世界革命浪人の一人、太田竜が七三年に「夢野京太郎」の構成員の正体を暴露し、竹中は官憲から家宅捜索、尾行を長期間受ける破目となる。ここで、第一次「夢野京太郎」は胡散霧散する(このところの理由は他様々あると思われる)。
  第二次は、七五年十月号から八〇年七月号まで「現代の眼」誌上にて、かわぐちかいじとタッグを組んだ劇画著作「黒旗水滸伝」の原作を「夢野京太郎」名義で連載を行なう。データ記者で取材している者を除けば執筆者はほとんど竹中一人かと思われる。七六年秋、「浪人街 天明餓鬼草紙」を書き下ろし、キネマ旬報に提稿する。これのみ竹中が一人で書いたものらしい。
  第三次、八〇年に五木寛之原作の映画「戒厳令の夜」の脚本を書く。八三年、反創価学会キャンペーンに付随し、「潮」一月号に「溝口敦、清水雅人を暴く―JCIA、その醜悪なる楽屋裏」で活動。その後の活動はないようである。「夢野京太郎」は「無名の文筆オバケ」となり、「闇の回路」から体制を撃つ事を目的とした。というとカッコいいが、「夢野京太郎」とは単なる筆名である。
  
  [参考文献]
  (1)『琉球共和国』(ちくま文庫)
   ※資料によれば、一月二十二日那覇市民集会で試写会。二十四日、琉球大学で上映。二十七日、沖縄タイムス・ホールで上映。観客はあわせて九百名程度。二十九日、名護市の教職会館で上映。観客は百名程度。三十日、コザ市の中頭教職会館で上映。観客は二百五十名程度。
  (2)『ファイター ―評伝アントニオ猪木―』 著・村松友視(情報センター出版局)
   ※この番組は欠席した若松孝二に代わって、ピンチヒッターとして出演した。パネラーは未来学者・坂本二郎、「話の特集」編集長・矢崎泰久、ルポライター・竹中労、その他学生二十名。
  《そのときの竹中労が敵としなければならなかったのは、「残虐にも仲間まで殺す気違い集団」というセリフで居丈高になっている世論であり、スタジオに集まった"組織された学生"や世論に背中を押され、スタジオのムードに勢いづけられて叫ぶ坂本二郎などは、そこに居ても居なくても同じことだったに違いない(略)そして世論をそのままなぞるように「仲間まで殺す……」というフレーズにたよった坂本二郎に対して、竹中労はこんなことを言った。「私は他人の殺意について、その殺意を消してほしいと思ったことがこれまで二度だけある。そのひとつは、終戦直後の上野の焼け跡で、死体の口から金歯を盗んだ男がみんなにつかまり、リンチされて殺されようとしている光景を見たときだ」》。そして会場内に向かって、《下らないヤジをとばすな、批判があるなら全面展開してみろ、できなければ黙れ!》と発言した(12)。
   竹中は、この事件を「想定内」であるかのように落ち着いてみていたと思われる。それは「革命」(クーデター)を行なうのであれば死者が出るのは当たり前という、諸外国の様相をみてきた者のジャーナリスティックな感覚があったためであろう。それは《警察権力による意図的フレーム・アップに、マスコミは完全に乗せられている、この事件に関する報道を一切信用しない》という言葉に表れている(12)。一部の大学の活動家にしてみれば、この時期にはもはや全国の大学からバリケードが消え、全共闘運動と安保闘争の収束がみてとれたようであった(念のためにいっておくが、筆者は連赤事件をクーデターとみなしてはいない。当時竹中の目にそう映ってもおかしくは無いということをいいたいまでである)。
  この事件で竹中は、彼らの「覚悟」をはかったと面もあったと思われる。が、これは竹中流の解釈であって、前出の発言から想起される「戦中」を赤軍が背負っていたとは考えにくい。そして松田政男によれば、竹中のこのような発言は「赤軍に接近する際の論理をロマンティックに、キレイ(修辞的)な文脈で語ろうとする。実情はそうでないのにもかかわらず」(松田政男・談)という。つまり、自身の文脈の構成力もしくは構想力に、先の発言は拠っている。この点は、彼が「ルポライター・竹中労」たるゆえんである。この事件以降、竹中は七三年頃(八三年?)からキレイな文脈を語りながら赤軍に接近していく。竹中の気質も幾ばくあったのだろうが、ロマン派のような表現をするのは、自らが思い入れる対象を煽動するという戦略に基づく。その対象とは、竹中自身が把握する「大衆」であるのはいうまでも無い。が、ここに大言壮語が孕むのは、竹中の「悪い癖」というべきであろうか。
  《》
  (3)「潮」七三年一月号
  (4)『われらみなジャーナリスト』 著・鈴木均
  (5)『人間を読む』(幸洋出版)
  (6)『竹中労の右翼との対話』(現代評論社)
  (7)『日本映画縦断3』(白川書院)
  (8)「えろちか」七二年九月号
  (9)「現代の眼」八一年十一月号
  (10)「公評」〇四年一月号
  (11)「サンデー毎日」十月十五日号
  (12)「キネマ旬報」
  (13)『〈民主〉と〈愛国〉』著・小熊英二
  
  [時代・社会背景]
   映画批評からトンズラ。
  
  一九七三年 昭和四十八年(満四十五歳)
   一月から、「汎アジア百日幻視行」(実際は百二十日)に向かう。一月七日、奈良・京都へ向かい、浄瑠璃寺・東大寺・法隆寺に詣でる。沖縄に立ちより、琉球独立党の識名真地、花吹南児を伴い、台湾に約一カ月滞在。二月九日、台湾に滞在していた竹中は「汎アジア百日行」の第一次旅程を終え、沖縄へ向かう。伊藤公一制作、総指揮をする「J・B(ジェームス・ブラウン)沖縄コンサート」に企画協力し、沖縄で一夜を過ごす(観衆二百人と警察公安含め百人、総勢三百人動員したと竹中は語る)。三月、沖縄ゴザ闘牛場で伊藤公一と岩永文夫が制作する「ジェームス・ブラウン沖縄でうたう!」の企画協力をする。
  四月十九日、マニラからタイペイへ向かい、亜土飯店で平岡正明と歓談する。この取材行程の記録を「話の特集」( "汎アジア幻視行目録")「潮」( "アジア百人の証言")に寄稿する。五月三日、日本に帰国。同月十八日、共立講堂で帰国集会。同月から『日本映画横断』の取材のため映画評論家・南部僑一郎にインタビュー。同月八日、「エライ人を斬る」筆禍裁判で「週刊読売」編集長である証人・吉村達二の喚問に同席する。五月十七日、伊藤公一(フリーキッシュ企画)が嘉手苅林昌を東京に呼び、「琉球情歌行/嘉手苅林昌独演会T」に参加。企画・構成に協力し(と、伊藤は竹中を気遣ったのであろう)、渋谷ジャンジャンで行なわれた独演会での司会を務める。六月から、『日本映画縦断』の準備のため、映画監督古海卓二の子息・古海巨(十九日)、女優・紅沢葉子(二十二日)、映画監督・伊藤大輔と「キネマ旬報」編集長・白井佳夫(二七日)、俳優・嵐寛寿郎、八尋不二、女優・岡島艶子にインタビュー。八月、「琉球情歌行/嘉手苅林昌独演会U」の企画・構成に協力。
  八月二十五日、「エライ人を斬る」筆禍裁判で「週刊読売」出版局長であった被告側の証人・高桑幸吉の喚問に同席する。
  十一月三日、被告側の口頭弁論に同席。同月十六日、東銀座にある「中華第一樓」で、近藤弁護士立会いのもと、被告側の二宮出版局長と面談。同月二十八日、新宿ステーションビル内「松澄」で内田裕也と対談、「ぼくはハングリーミュージックが好き」。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
   この年、ヘロイン・麻薬の一大産地である黄金の三角地帯を取材する。恐らくこの取材のさいに訪れた台湾に滞在中、太田竜に「独立派との関係を書きたてられ(略)危うく逮捕の直前を逃れて、以降入国が不許可となる」(『ルポライター事始』)事態となる。
   この年、旧蝶恋花舎・青井知三と「琉球独立党」の宮城賢秀が、日本から沖縄へ、自作の帆船で旅に向かう(!)。竹中は彼らの「青春」を見送りに行く。
   四月、太田竜が、キネ旬で竹中を「ニセ窮民の友」と批判する。原稿は松田政男が持ち込んだようだ。竹中は、両者を批判する。この年、三馬鹿革命浪人を解散する。
  
  [雑誌連載]
  「日本映画縦断」 「キネマ旬報」七三年五月〜
  《〈戦争〉のテーマは〈文化〉との相関において、鮮やかにレリーフされる(略)日本映画縦断は〈戦争〉と〈文化〉の相関を・その対立から癒着に至る経過を、映画史(当然既成の映画史ではない)に即して語り下ろす企画である》(「左右を斬る」)。同時に《「日本映画史」を書きかえる作業であると等しく、戦後の民主主義思想、なべてポツダム左翼史観に対する挑戦である》(『日本映画横断1 ――傾向映画の時代』)と自己が筆をとる目的をブチ上げる。もちろん連載は竹中節健在、「試行」三十七号で吉本隆明の批判、「映画批評」大島渚の批判を退け、擬制の民主主義の思考方法(から出る「革命」の概念)は暗黙的に《権力の欺罔を際限もなく保完してくのだ》(『同』)と彼らのイデオロギーを批判する。
  その思考方途に対置される〈文化〉=〈映画〉として、「大衆」に支持された日本映画をもう一度「大衆」の手に取り戻すイメージが、この『日本映画横断』執筆の目的であるように推察される(映画「祇園祭」の企画理念もここで一致する)。竹中が必要だったのは、「大衆」に支持されながら一方で差別されてきた「日本娯楽映画」の「史実」の部分であった。もちろん、この執筆態度は『美空ひばり』と同義である。自らの精神的依拠とする革命的主体=窮民に「日本娯楽映画」を引き寄せる営為を展開している。竹中の文体は、ここで常にナルシシズムを刺激するような、母性的・ロマン的な毒が含まれる。大衆を煽動し、一つの運動性に結実させていくような叙述方式をとる理由は、彼が理論家・アジテーターであるがゆえである。同時にこの連載は、理念型としてのマルクス主義批判を行なっていると筆者はみる。竹中は昭和初期に日本に上陸した、アメリカ型の大衆文化の「複合化」への批判を行なっているのだと思われる。これは竹中がつかう「俗流大衆路線」ということばが明らかにしているように、異国との「複合化」を拒む日本独自の「大衆文化」のあり方の模索をここで行なっているのだ。その方途は竹中のフィルターを通して「純粋」なかたちで表現される。もちろんこの著作内にアメリカの「影」は登場しない。故意にデータを取捨選択している。この点に竹中の「思想」および「理念」が介在しているとみえる。
  戦争に動員された「大衆」の旗手であった映画監督達の、《深刻に戦争を想った〈戦中〉》(『同』)の軌跡を描く。この方法は《他者の人生・仕事を追体験することで構築しようという、ドキュメント・ルポルタージュの方法論に依拠している》(『日本映画縦断1』)と竹中自身は言う。いわゆる、「日本映画復興の軌跡」のデモンストレーションを行なっているようである。もう一度復興のために、という考えもあったのであろう。これは、竹中が幼い頃にみた映画がそのような魅惑の表現をしていた影響があるのかもしれない。
  企画=先見 思想としての営業 この時期、「傾向映画の時代」の季節の到来を竹中は予感していた。企業は、その見通しを持たない、と。
  
  [この年出した本]
  『世界赤軍』
  
  『水滸伝―窮民革命のための序章―』(七三年五月三十一日刊 三一書房 定価一六〇〇円 平岡正明との共著)
   竹中の窮民革命が「水滸伝」に拠っているという試論。これは、竹中が考える「党」や、自らの経験を援用した言説にすぎない。促成栽培的だが、革命を起こすにはこのような方法もあると提示したかったのであろう。しかし、これは日本における『共産党宣言』とみることも出来る。
  当時、といってもこの発刊の十数年前に、『水滸伝』ブームがあった。本書はその煽りを受けて書かれた。
  
  『無頼と荊冠―竹中労行動論集』(七三年九月十日刊 三笠書房 定価一二〇〇円)
   喧嘩屋の面目躍如、自らがいかにして喧嘩してきたのかを語る本書は、当時の竹中ファンの革命の経典となった。全ての章に竹中の脂ぎった魅力が詰まっている。竹中のこの文体は血がたぎるような「性」と、ぎらつく「中年の脂」の発露を基底としている。
  本書は、アングラブームに一枚乗っかった上で書かれた。
  
  『ニッポン春歌行』(七三年十一月三十日刊 伝統と現代社 )
   
  
  [参考文献]
  
  [時代・社会背景]
   タイ、日本製品不買運動がおこる。
  
  一九七四年 昭和四十九年(満四十六歳)
  二月、巷談舎「巷談の会」(上野本牧亭)に出演する(以後七六年十二月まで月に一度レギュラー出演)。ここで、映画監督・伊藤大輔、内田吐夢、五所平之と知己を得る。三月一日、白井佳夫と上野本牧亭で対談。三月八日に新日本宗教青年会連盟の人々である、円応教、立正佼正会、善隣会、解脱会、大彗会、神ながら教、妙智会、妙道会、天真会、事務局、記録映画班(四名)、新聞記者、元泰緬鉄道建設隊通訳・永瀬隆とそのアシスタントなど、総勢三十一名と共に、羽田から東南アジアへ向かう。この旅を「アジア懺悔行」と題する。旅の目的は、泰緬国境で農場を営むヤップ将軍()との会談、アジアに住む人々との民間外交を実現すること。《バンッコク、シンガポール、ホンコン、マニラを一週間で駆け抜け、帰国して三日後の十八日に、再び羽田から泰緬の国境へ向かう(つまり、三月十六日から十八日まで日本に滞在し、もう一度泰面国境へ向かう)。南下してクアラルンプール、マラッカをよぎり、シンガポールを中継点としてラブワン島(北ボルネオ)、香港を経由してフィリピンの北部小邑パウアンに至る》(1)。
  四月、フィリピンに滞在しているとき、髪を剃り落とし《臨済中興の傑僧に寸借して》花和尚雲居(かおしょううんご)と名乗る(2)。晩春、アジアから帰る(当初の帰国予定では四月六日。『逆桃源行』では、一月から五月にかけて百二十余日を踏破する、とある)。仕事場を神奈川県箱根町宮城野一七五‐三に移し「離騒庵」と名づける。引越しの際テレビが壊れ、蔵書の重みで根太がぬける。飼っていた猫三十匹を仕事場に連れて行く。六月から七月にかけて、京都・東京・沖縄間を取材のため往復。六月、東映京都映画撮影所のスタッフ・ルームで深作欣二にインタビュー。
  八月二日から十一日に牛込公会堂で予定していた「竹中労による映画セミナー」が中止される。同月、『日本映画縦断』内の「伊藤大輔メモワール・T」の聞き書きを仕上げる。その他、東南アジア各地のドキュメント記録『アジア燃ゆ』『逆桃源行』、俗流大衆映画ロマン『日本映画縦断』を上梓するため、他誌の連載を辞める。八月十六日から一週間、京都に滞在し、マキノ映画の故旧を捜す。同月、大阪フェスティバルホールと東京日比谷音楽堂にて「琉球フェスティバル'74」が開催される。竹中は企画・構成・演出を担当する。当会は聴衆七千人を集め興行的に成功する。十月三十日、《「日本赤軍」のシンガポール油田襲撃(同一月三十日)関連容疑で》(3)箱根宮城野の仕事場及び東京連絡事務所が警視庁公安部に家宅捜索され、《赤軍派出版物・メモなど二十一点を押収》(3)される。警察(公安)の張り込みと尾行を逃れ、都内の仮の宿へ逃亡する。
  十一月、沖縄、大阪、京都間を往復し、二枚組みのLP「語やびら島うた」の取材と制作を行なう。同月十日、京都から新橋に向かい伊藤大輔のお見舞い。十二月八日、神山茂男の納骨式に参加する。十二月九日から十一日まで、企画・プロデュースをした「マルレーネ・ディートリッヒ来日公演」演出と取材のため、帝国ホテルと品川パシフィックホテルを往復する。十一日、当会のレセプションに《出席者は百七十名》(4)集まった。同月十九日、「マルレーネ・ディートリッヒ来日公演」の札幌公演に同行する。同月二十七日、ディートリッヒを羽田空港で見送る。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  十月、太田竜が逮捕される(というか、彼は小田原警察署に自首したようだ)。
  東京、大阪で「琉球フェスティバル」を開催する。日比谷野外音楽堂は八千人の聴衆に埋め尽くされた。
  「離騒庵」では猫六十九匹と暮らした。向こう三軒隣が大企業の寮や金持ちの別荘であった。ここで捨てられた猫と共にニャンニャン共和国を形成して彼・彼女たちと一緒に暮らした。木村聖也によれば、仕事場を箱根に移したきっかけは《可愛がっていた猫が近くを走る井の頭線の電車に轢かれて死んでしまった。それを嘆いて、「もうこんな所に住んでいられない」とさっさと猫たちと箱根へ移転した》(『無頼の悲しみ』)らしい。
  この年、「エライ人を斬る」筆禍裁判を早期に終止符を打つため、竹中は早期結審を申し入れる。佐藤栄作が亡くなり、佐藤寛子がもはや公人としての立場でなく、かつ被告側の法定代理人二名が亡くなったからである、というのが竹中の理由であった。しかし、この早期結審を被告側は拒否し、この年から三年間裁判闘争が継続する。
  三月十八日午後二時五十五分発のルフトハンザ649便で、泰面国境へ向かう。
  「愛のコリーダ」裁判第一公判のとき傍聴していた竹中は、裁判長に一声叫ぶ。瞬間裁判長は「監置」と叫ぶ。竹中は地裁の地下に留め置かれ、罰金三万円を払う。
  ディートリッヒ来日に際して、竹中は「宿敵」渡辺美佐、森繁久弥と和解(?)し、保守議員福田赳夫と接触する。しかしこれはサーヴィス的な発言だろう。この企画・プロデュースで竹中はかなり儲けたようである。
  
  
  [雑誌連載]
  
  [この年出した本]
  『アジア燃ゆ!』(七四年九月十一日刊 現代評論社 定価八百円)
   竹中は、歴史家・羽仁五郎と対談する。羽仁が大局から結果的に判断されるマクロレヴェルの「歴史」を語るのに対して、竹中はミクロレヴェルの「歴史」、つまり大衆・民衆の現在の生活と、その土地性から生まれる民族性、その結果から生産=消費される他国の文化を、地を這うようにして自身が見てきた衆生の「歴史」を語る。もちろん、これは竹中のルポルタージュと方法論と一致している。しかし、いわゆる「歴史」とは、テクスト解釈で私たちの現前に現れるレヴェルのものではないし、「現場」で何を見ようが(撮ろうが)それが「歴史」である根拠などどこにもない。その現場の報告が「歴史」であると(メディアで)表徴され、それが私たちの意識構造に作用して、初めて「歴史」と言えるテクストになっていく、と筆者は「歴史」を判断するのだが、さていわゆるこの「現場」を「歴史」(にしようとする)レヴェルで考えている人間がどれほどいるだろうか? 竹中が表現する「歴史」がロマンチシズムを垣間見せるとき、この「歴史」は輝く。もちろん、竹中の「歴史」の叙述方式は同時に危険性も孕む。
  このようなロマン派的な「歴史」叙述方式への欲望こそ、地域間とその境界を示す、国家的装置である「暴力」を生み出す可能性がある。なぜなら、人は「物語」において闘う事例があるからだ。竹中の「歴史」(=物語)が共同体の成員ひとりひとりの「単独性」のかたちで表現されず、成員に共有され全体性として機能するとき、他者へ「暴力」が行使される場合がある。竹中は「歴史」を純粋に、キレイに、自らが思い描くイメージで語る悪癖がある。なぜか。竹中の方法論に予断が存在し、表現が過度にロマン派に傾くからである。竹中が表現する「事実」とは何かは前に書いた。その「事実」はやはり、ある種の過剰なイメージ(表象)としかみえない。むしろ、「事実」はもっと過酷なものなのだが、竹中はそれを「肉眼」上で反転させてしまうのである。そこに、「歴史における挑戦と応答」(アーノルド・トインビー)は存在しない。これは竹中の感性でとらえられた「芸能」(文芸)を根幹として表現していたためであろう。これが変化するのは『牧口常三郎』の取材においてである。
  
  『日本映画縦断(1) 傾向映画の時代』
  
  
  [参考文献]
  (1)『逆桃源行』
  (2)『仮面を剥ぐ』
  (3)「サンデー毎日」八五年十二月十五日号
  (4)「現代の眼」七五年二月号
  
  [時代・社会背景]
   六月二十五日、皇太子沖縄訪問に抗議し、山谷の同志・船本洲冶が夜ガソリンをかぶって自ら火を放ち焼身自殺を遂げる。
  八月四日、日本赤軍を名乗る武装グループがクアラルンプールの米大使館、同ビル内にあるスウェーデン大使館を襲撃・占拠し、日本の獄中赤軍メンバーの釈放を政府に迫る。三木内閣は超法規的措置で獄中犯の釈放を発表。
  
  一九七五年 昭和五十年(満四十七歳)
   一月、CBSソニーのスタッフを同行して沖縄に取材に向かう。「―うた・祭り・放浪芸―」を沖縄で〔CBS・ソニー盤、料亭「那覇」で録音。現地アシスタントは大城正男、黒川修司(牧港レコード店主)〕現地録音する。うたい手は嘉手苅林昌、糸数カメ、登川誠仁、知名定繁など。二月、九段のビジネスホテルで「マスコミ評論」の編集者であった岡留安則と連載の打ち合わせ(竹中は一旦断るが、その後同誌で「裁判ドキュメント 自由への証言」を連載する)。この頃、北海道から京都、大阪、新潟へと旅行する。同月十六日、芸能記者としての師であった南部僑一郎が腎不全で亡くなる。同月二十日、福岡キネ旬友の会表彰式へ向かう。同月二十一日、信濃町の千日谷会堂で南部僑一郎の告別式が行なわれたが、福岡空港にて雪のため航空便がストップし、参加で出来ずに義理を欠く。三月、「琉球フェスティバル75春 嘉手苅林昌独演会」の企画・構成を執筆する。竹中は当フェスティバルの司会を務める。三月から四月まで当フェスティバルに東奔西走する。
  四月一日、「琉球フェスティバル75春」最終日を京都円山公園野外音楽堂で行なう(当日気温六℃)。「海洋博」に違和感を抱いた竹中は、悠久の革命を理念とした《 "情歌"の数々を、いうならば今日的な「毛遊びー」、歌垣の面影を再現する意図で構成した》(1)。が、興行として大失敗し、大赤字を背負う。同月二十三日、新橋テイチク本社スタジで小沢昭一・照屋林助と対談(竹中はここで自分は小沢昭一の不肖の弟子であると発言する)。四月二十三日、新橋のテイチク本社スタジオで、小沢昭一・嘉手苅林昌と対談、「沖縄―うた・祭り・放浪芸」。同月から五月まで、"南部僑一郎文庫"を整理する。五月一日、上野本牧亭で花柳幻舟と共演。
  七月二十六日、訪沖。「琉球フェスティバル75夏」を開催するため、準備にあたる。同月、盲目の放浪芸人・里国隆の出演交渉をするため奄美大島を尋ねる。その際、(奄美の)名瀬のホテルで深夜に警備員(守衛)と押し問答からエスカレートし、乱闘となる。駆けつけた警官とも乱闘を演じ、逮捕される。《不当逮捕だと警職法ひきかえに、略式裁判に持ちこんだ。一日だけ、中で歌謡選手権》をする(2 ※)。この事件の情報を元に毎日新聞は「ハレンチ"ゲバ"リスタ竹中労が守衛殴る」と報じた。記事内容が推測と偏見に満ちた内容であったため、竹中は告訴を準備するも、毎日側が謝罪文を出し、この一件は落着する。が、「琉球フェスティバル75夏」に支障をきたし、またしても赤字を背負う。この件で竹中は日本ジャーナリストクラブ(JJC)の組織体制に違和感を抱く。八月十五日、日本ジャーナリストクラブ(JJC)主催、新宿コマ劇場で行なわれた「のんすとっぷ24時間」に参加する。このイベントのテーマは「戦後三〇年 天皇・戦争・家庭」、司会中山千夏、出演者は青嵐会に所属していた浜田幸一と中山正暉、その他ジャーナリスト・評論家などであった。このイベント内の話の内容で、自民党は戦争被害者に対して戦後補填が十分でないと訴えた空襲被害者の女性の言に触発され、竹中は浜田をヤジる。会は混乱し、竹中は松田政男と共に会場を後にする。この後、「キネ旬」誌上でJJCの組織体制を批判する。夏、「巷談の会」を浅草木馬亭に会場を移し引き続き口演する。
  十月、「乱世 '75を撃つ大演説会」に参加する。ここで新右翼活動家・鈴木邦男と出会う。この頃から東京・京都間を往復する。同月十一日、シナリオライター・関上芳裕の紹介で、「マキノをめぐる同人社」、映画監督・金森万象をインタビュー。同月十二日、京都に向かい伊藤大輔の「喜寿を祝う会」に白井佳夫と参加。十四日、群馬県玉川温泉へ向かい、マルクス主義歴史学の権威である井上清、その妻と谷川岳を観光。二十二日、東京へ向かい、滝沢一、白井佳夫に同道し、フジテレビにおもむく。二十四日から箱根に籠もり、島歌解説パンフレット、「奄美の哭き歌」等を書く。二十九日午後、銀座三笠会館で白川書院と「鞍馬天狗のおじさんは」出版について話し合う。三十日、京都の金森万象の家へ向かい、十一月十日より連続三日間のインタビューの了承を得る。その後千本丸田町のカフェー「天久」にむかう。十一月十日、滝沢一、白井佳夫と京都の東映太秦撮影所へ向かい同所兼「映画村」最高責任者の高岩所長に面談する(ここで「南部僑一郎文庫」を文化資料として購入して欲しい、と申し入れる)。この後、嵯峨野有栖川町で映画監督・金森万象をインタビュー。夜に、映画監督・金森万象と通信合同社社長・都村健にインタビュー。十二月、巷談舎主催「大演説会 論争への招待」の企画に協力し、出演する。同月、「話の特集」で連載していた "メモ沖縄"が連載中止となる。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  この年の四月下旬に、竹中の仕事場の箱根に神山茂男が現れ、《九時間もの"遺言"を録音テープに残していっている》(3)とあり、五月一日の巷談の会に出演したさい神山がその口演を聴きに来て云々、と竹中は記述しているのだが――。竹中は党員時代、神山と直接の交流関係はないと筆者は推察するが、思想的に何らかの影響を受けていたのではなかろうか。遺言テープ云々のくだりは、事実かどうか定かでない。
  この年、竹中所有の《芸能記者一五年(一九五八〜七二)集めた資料、取材データー》(4)を東映京都太秦映画村の資料館に寄付する。
  『決定版・これが島うただ!』、録音は青山のビクター・スタジオで行なわれる。嘉手苅林昌とそのチームがうたう。
  この年、脚本家・山上伊太郎について、映画監督・稲垣浩、大森伊八と対談。『日本映画縦断3』内に収録されている。おそらくこの両者の関係があり、映画「大殺陣」の編集にたずさわる。
  
  [この年出した本]
  『琉歌幻視行』(七五年八月二十五日刊 田畑書店 定価二二〇〇円)
  《近代社会は、人間のリビドーを、公序良俗に囲いこみ、あるいは埒外に隔離することによって、支配の欺罔を完成した。一夫一妻制度の矛盾を売春によって、法秩序と倫理(仁義)の背反を、封建制度といいくるめてやくざ集団に、そして文明のペテンの最たるものは、「虚と実の皮膜」(近松門左衛門)から芸能をひきはがして、絵そらごとを売る"賤業"としたことである。しかも(やくざ、女郎をさしおいて)、ひとにぎりの芸人には古典・文化財の虚名を与え、上に向かって堕落させた。かくて撃攘の桃源に遥かに遠く、人間の幸福はエンゲル係数で、鼓腹の程度で量られることとなった。"芸能の論理"は文明の惨毒から、ガンジガラメの唯物万能の秩序、すなわち近代社会の巧妙な差別から、人間を解き放つ戦闘性に、支えられねばならない。世阿弥ふうにいうならば「汝、花を武器とせよ!」》(本書より)。
  竹中はここで町田佳声、服部竜太郎など、沖縄の体制民謡学者を批判する。彼らの「学問」の中には、猥歌・春歌を卑俗として棄ててきた背景があると察知し、自らの理念と沖縄の「うた」(文化)をドラマツゥルギーとして、本土のもしくは全世界の「法」(制度)と「文明」(産業)に対置させ、沖縄の「文化」(風と水のリズム)が「法」や「文明」にかわっていかに機能しているかを展開する。
  《そう、私は復帰反対論者であった。琉球独立論といったほうが、さらに正確なのである。一九六九年に沖縄の土を踏んだ、そのときから一貫して、日本に復帰するべからずと、私は主張してきた。それは殊更に異説を唱えて、人の注目をひくためではもちろんなく、沖縄の民衆が切実にアメリカ軍政支配からの開放を求め、「日本に復帰しさえすれば」という、ニライカナイ幻想(天皇制への歴史的幻想!)を抱いていることを、承知した上での発言であった。ニライカナイとは、沖縄の人びとが海の涯てにあると、むかし信じていたユートピア(すなわち竜宮城)、神々はそこから弥勒世の幸を島々にもたらすのである、と。沖縄の民衆を"祖国復帰"に、あれほど烈しく駆り立てたマス・ヒステリアの根底には、ニライカナイ幻想があったのだ。その幻想を断ち切って、小国寡民の独立を目ざすべきだ、というのが私の心からなる、ウチナーンチュへの提言であった》(本書より カッコ内は筆者注)。
  ここで竹中は近代から回顧される、現実性(イデオロギー・意味)に対置する物語に遡行している。これは「復古主義的」な錯誤であるといわなければならない。先にも書いたように、竹中の場合ポストモダンとプレモダンを行き来するのである。
  しかし、この幻想に依拠した小国寡民の独立の展望は力強い文脈で語られる。恐らく、竹中はここで暗黙的に、民主集中制の政体の「正統」(同心円的運動の中心)ということばの抽象性を批判しているのだ。「革命」の原因がマルクス主義的な観点からなされる科学的法則(正統性)に合致しなくとも、結果(小国寡民の独立)は錯誤ではないはずであると考えたのではないかと推定できる。もちろんここで留意しなければならないのは、日本人もしくは他の民族が、いかにして国家的復興を遂げたのかということである。復興はある種の物語的な幻想体系を基盤として、その基盤を共同体の成員が共有することで始めて可能となる(竹中の論理によると、そうらしい)。エンゲルスの著作「空想から科学へ」をもじり、運動のスローガンを「科学から空想へ」としたのは、この理論を暗示する。竹中のロマン的な回顧、その著作の記述方法は、つねに幻想的な観念体系を背景としている。もちろんその方法が正か否かは指導者(アジテーター・理論家)の力量による(と竹中は語る)。このような幻想の共有をこそ、指導者の必要として、アジテイトしなければならないという考えがあったのだろう(時代の潮流に乗ったというのは、このことである)。ここでの危険性は、ファシズムと接続可能な文化=理論であるということだ(と、新左翼に批判されていました)。これには、「大衆民主主義」の「大衆」の熱狂→政治参加がなされなければならない(のだろう)。この大衆的な欲望が見え隠れしたのが、戦前の大東亜共栄圏の思想とその実践であった。
  満州では経済的な膨張政策、(五族協和による)移民政策が行なわれた。ある種の理想的な理論基盤は石原莞爾『最終戦争論』であった(らしい)。ちなみに新聞
  
  『日本映画縦断(2)―異端の映像―』(七五年九月)
  《前近代とか、封建遺制とかいわれる部分に、実は映画の本領があるんだと、それが"縦断"を書く私のテーマであるわけです》(本書より)。
  
  [映画]
  「アジア懺悔行」 「自主制作」 井上修監督 井出情児撮影 四月完成
   東京、大阪、名古屋で自主上映する。七四年三月八日に
  
  Hデータと「評論」
  [浪人街リメーク運動]
   滝沢一が画策し、白井佳夫に連絡を取り、中島貞夫がプロデューサー的なまとめ役をし、映画「浪人街」のリメークをしようとした。七五年十月より画策される。竹中は制作に関与しないといい、「キネ旬」誌上で一年余、「浪人街リメークキャンペーン」で、観客を煽った。これが、制作母体があるかのような幻想を読者に振り撒く結果となった。
  「浪人街」第二稿は深作欣二が書き、第三稿は笠原和夫に委託した。竹中によれば、「深作が「浪人街」を撮りたいと言ったのだが」、「資本のペースに作品が乗った」ため、シナリオ・企画が(観客を代表している)竹中・白井の意向に背くものとなっていったらしい。竹中自身、シナリオに関係していないし、恐らく「映画のつくり方」のイロハをわかっていなかったように思う。演習として、竹中はドキュメンタリー映画「大殺陣」を撮ったのだが……。
  竹中はなにかしらの「運動」を起こすさいに、自らの行動の詳細を雑誌媒体に載せる。これは、在韓被爆者の取材の場合もそうだし、浪人街リメーク運動の場合もそうである。竹中が言う「実証」とは、理想を実現する過程のレポートである。理想を実現するさいに、「運動」が必要になる。だから彼の「実証」の表現は、虚偽(アジテイト)も含めた内容になっていく。これが正か否かは、ことの判断による。いうなれば、竹中が行うのは在野の「政治」なのだ。が、竹中が行う「運動」は、様々な人間関係の調停をしなければならなくなる「共同作業」となるので、運動の実態やことの責任が誰にあったなどを特定することは、一概にめんどくさい作業となる。
  
  [参考文献]
  (1)『琉歌幻視行』
  (2)『いま君に牙はあるか』
   ※ぶちこまれていたヤクザと共に、歌ったらしい。
  (3)「別冊新評」七五年 「梶山季之の世界」
  (4)『スキャンダル紅白歌合戦』
  
  [時代・社会背景]
   
  
  一九七六年 昭和五十一年(満四十八歳)
  一月二十八日から二月一日まで、ビクター・沖縄島うたLP「美ら弾き」(登川誠仁)「辻のブルース」(糸数カメ)の解説を書く。同月二日、帝劇地下レストラン「蘭」にて、五木寛之、コロムビアの森啓、白川書院、ユーコン企画、日刊ゲンダイと出版・執筆・取材打ち合わせ。同月三日、「日本のうた」採集取材のため、九州取材旅行に向かう。同月四日、若松・戸畑・八幡を巡り、地元の図書館で資料調べ。同月五日、空路で対馬へ向かい、関係者と録音打ち合わせ。同月六日から、「日本のうた」の録音を開始する。同月十五日、南部僑一郎の一周忌に参加。東京へ戻り、小林永司と映画「アジア懺悔行」現地試写の打ち合わせをし、その後「週刊読売筆禍事件」の公判準備を千駄ヶ谷法律相談事務所で行なう。同月二十七日、稲垣浩、池波正太郎、松田春翠と座談会。二月二十九日、京都パレスサイド・ホテルで開かれた、映画監督・マキノ雅弘の誕生日を祝うパーティに参加する。参加者は東映の関係者である、佐々木康、山下耕作、小沢茂弘、山内鉄也、中山治雄、地元撮影スタッフ、高岩淡所長、渡辺次長など。三月二十一日、シナリオライター山上伊太郎の終焉の地、フィリピンへ向かう。同月二十六日、フィリピン航空でシンガポールへ。その後マニラからバアンに赴く。同月二十七日、バアンからバギオ市内へ。二十八日、バギオからキャガンへ赴く(?)。春から夏にかけて、宮城野の仕事場で若者たちと「日本映画縦断」のデータ整理をする。六月七日、「エライ人を斬る」筆禍裁判で証人・丸山邦男の喚問に同席する。
  七月二十六日、深作欣二が「浪人街」の第二稿を書いたと聴き、京都へ向かう。
  十月二十七日、都内平河町北野アームスで「エライ人を斬る」筆禍裁判の証人・今春聴(東光)の「臨床尋問」に同席。十二月八日、東京大手町会館で行われた映画『アジア懺悔行』上映のカンパニアで講演、「日本の運命を論ず」。ここから「一水会」鈴木邦夫、四宮正貴、「土とま心」編集人阿部勉ら、一般に右翼と目される人々との本格的な交流を始める。十一月、「キネマ旬報」に連載していた「日本映画横断」が上森子鉄の意向により中断される(上板東映で抗議集会をする?)。十二月十二日、東京の下町入谷にある「入谷映画村」の作品上映会で、映画上映ののち、「事件報告と討論の会」に斉藤正治、松田政男、白井佳夫と共に参加する。十二月二十九日、皇居近くの科学技術館サイエンスホールで「キネマ旬報」読者による「キネ旬読者葬」に参加する。出席者は映画監督・井上修、西村潔、長谷部安春、村野鉄太郎、山根成、録音技術士・太田六敏、シナリオ作家・高田純、評論家・松田政男、上野昂志、吉田智恵男、矢崎泰久、斉藤正治であった。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  『日本映画縦断』により、上森子鉄の旧悪を暴露とは?
  秋、矢崎泰久に革新自治連合の構想をまくしたてる。
  『日本映画縦断3』では、山上伊太郎の戦友である村岡健吉、人見潤介、植田栄一にインタビューする。同じく、比佐芳武にインタビュー。竹中は現地で、フィリピン、シンガポールなどで元日本兵の人々にインタビューして歩いていた。
  竹中に映画「アジア懺悔行」の自主上映、フィリピンの現地踏査を薦めたのは、元朝日新聞記者でキネ旬の執筆者の井沢淳であった。
  
  〔この年出した本〕
  『日本映画縦断3 山上伊太郎の世界』(七六年十一月二十日刊 白川書院 一八〇〇円)
  《マキノ雅弘・メモワールからはじめて一年近く、ほとんど偏執狂ともいえる取材を行なってきた。データをつみ重ね、一つの結論を得て現地へ踏査の足を伸ばしたのだ。前号で述べたように、それは生死を共にした戦友諸氏の証言によってである。仮説は取材から組み立てられ、さらなる取材で裏付けられる、ルポルタージュのそれが方法論なのである》(本書より)。
  《戦後、この国の知的エリート、詩人や小説家たちは、いかに自分は戦争に協力しなかったかということを、競って言い立てた(略)焦土の中で詩を書きながら、私はけっきょく文学と文学者に絶望していったのだ。ただ一人の人・山上伊太郎、軍属=一兵卒として死んだシナリオ作家を知ったとき、はじめ私は疑った。それはきっと偶発的な事故か、日本に帰ることができなかった、ほかの事情があったのだろう、と。日本の知的エリート、とりわけ文弱の詩人・作家の中にタテマエではなく従軍して生還を期さなかった人間など、いるはずがないと思ったのだ。時代の不安のなかで狂気におちいり自殺をえらんだ人々、あるいは獄死を肯んじた人々は数少くあっても、みずから望んだ兵士の生涯を終えた者はなかった》(本書より)。
  《一九六七年、故・南部僑一郎とともに支援した、東映俳優労働組合の争議を、ジャンピングボードとして、私たちは時代劇の復興を企図した。その初志は、「映画をただつくりたい人たち」に纂脱されたが、人間の絆は残ったのである。〔日本映画縦断〕はゆえに、南部僑一郎対談にはじまり、古海卓二の遠い影像をかすめて、伊藤大輔メモワールへと歩みいったのだ。二周目の岡島艶子、そして団徳麿、八尋不二、この連載が東俳労・『祇園祭』の人脈で連?していることをご理解いただきたいのである》(本書より)。竹中はここで浪人街リメーク運動の構想を述べる。《 "作り手の企画"に、突破口を与えるためには、その想像への意欲を、予定の観客である大衆に直接的に連帯することしか手段はない。魚は水を得られなければならない、会社→作家→劇場(映画を与えられる観客)、という構図から括弧をはずした(主体的な)観客→←作家→会社、というひらかれた状況に、"企画"を開放することである。言葉を換えて言うなら、観客が作品をオーダーする権利を持つことだ。誤解のないよう断っておく。それは『どぶ川学級』のような、"組織された"大衆=労働者組合、鑑賞団体、もろもろの党派的映画運動とは発送を根底から異にする。いま、キネ旬の誌上で展開しているこのキャンペーンこそが、革命なのである》(本書より)とぶち上げる。キャンペーンのみが「革命」ならば、手前の一人合点した「革命」なのではないかとつっ込むことも可能だが、『日本映画縦断』は中途で、上森子鉄により連載を中断される。
  
  Iデータと「評論」
  [キネマ旬報『日本映画横断』中断事件]
  《七六年十一月、映画雑誌「キネマ旬報」の(社長、上森子鉄の意向により)編集長白井佳夫氏の突然の解任に端を発して、当時連載中であった竹中労氏「日本映画横断」(第七十七回で中断)、斉藤正治氏「日活ポルノ裁判ルポ」の両連載への中断、あるいは削除等々の言論弾圧が起こった事件である》(1 カッコ内は筆者注)。
  白井は十一月七日夜九時、社長・上森から突然の電話を受け、「(竹中が企画した)山上伊太郎地蔵建立フィリピンツアーで飛行機が落ちたら賠償責任になる、斉藤正治は「日活ロマン・ポルノ裁判ルポ」で(斉藤の)個人的な中傷二項に渡り書いている、白井自身思想的に偏向しているのではないのか、(白井の名前が)売れているようだがあまり図にのるな」、などの旨を理由として解任通告を受ける。上森自身ロッキード事件に児玉誉士夫関係で連累し、総会屋稼業がうまくいかず、精神的にナーヴァスになっていたのではないかと、白井は推測している。
  十一月十一日午後五時半頃、「キネマ旬報」編集長兼取締役の白井佳夫が、社内で社長・上森子鉄から正式に解任の通告を受ける。
  解任のきっかけのひとつに、ロッキード事件の資料の公開をアメリカの大統領に求め、そのための行動を起こす事をアメリカ市民に訴える旨などの意見広告をニューヨーク・タイムズ紙に載せた連盟の一人に、白井の名があり、その一部の内容が日本のジャーナリズムに取沙汰されたため、上森の目に触れたのではないかと、白井は思案した。
  白井は、《社長の顔を見ながら表紙を決め筆者を決め企画を決め、ひとつひとつ気にしながら雑誌をつくる時代がまたやってくるのか》とワンマン社長・上森の編集方針に対する干渉を危惧し、《実を言うと、十八年の、かなりしんどい疾走に僕は疲れてもいる。僕ももう四十四歳、そろそろ自分自身のための仕事をしたい》と考え、解任通告に異議を唱えず「キネマ旬報」社を辞職する。
  この事件に抗議して、永六輔、和田誠、秋山邦春、滝沢一が執筆から降りる(のち、執筆陣に復帰)。
  対して竹中の態度は、《白井佳夫の編集長解任によって、社内の体制・方針が変更されても(日本映画縦断の連載の)契約は契約なのである》と抗議し、通信誌「浪人街通信」の発行を企画、「言論弾圧」に対して徹底抗戦の意思を示す(1)。
  ここで、上森子鉄が竹中・斉藤両氏に会談を申し込むよう、嶋地に連絡をしろと命令する。
  竹中・斉藤の会談までに、社長上森の秘書でキネ旬編集委員の嶋地の電話連絡で説明された、白井に対する解任理由は、「浪人街フィリピンツアーの主催がキネ旬名義となっているが、社長の許可を得ていない。白井は取材でヨーロッパに出かけ「キネ旬パテント裁判」に欠席した、キネ旬は本年度八〇〜一五〇万円の赤字が見込まれている」などであった。
  斉藤・竹中両名のルポ中止理由は、「連載が長すぎる(百回以上続いているものもあるため)、公器である「キネ旬」に書く公人であれば、例えば日活騒動の個人攻撃(ここで問題となっていたのは日活の重役であった田中鉄男)は控えるべきである」、などであった。嶋地は、竹中・斉藤両名と会談を行なうという連絡をつけた。
  竹中が正式に「日本映画縦断」連載中止の通告を受けたのは、七七年二月二十八日であった。竹中によれば《契約を一方的に破棄し、読者への報告の義務を負わず、"自由な言論"を闇に葬ろうとする》所業であるという。編集長・黒井和雄を「人間が矮小な人物」と糾弾しながらも、連載中止を甘受して「読者と心中」する。「読者と心中」するとは、連載中止を一応は甘受したことを指す。
  こののち、若者から離れて法廷闘争を一人で行う。
  竹中は、八七年に「キネマ旬報」社と和解する。
  
  [参考文献]
  (1)「浪人街通信1」七九年三月二十一日発行 自主制作
  
  [時代・社会背景]
  
  
  一九七七年 昭和五十二年(満四十九歳)
   一月十一日、矢崎泰久に銀座の三笠会館で「革新自治連合」の構想を語り、即実行に移す算段を要請する。二、三日後矢崎は五木寛之と話し合い、竹中案を慎重に検討し、とにかく構想を進めようと意思を決定する(※別項参照)。三月二十二日、「エライ人を斬る」筆禍裁判の証人・大島渚が法廷で証言、これに同席する。六月、山上伊太郎地蔵を、彼の終焉の地、フィリピンのルソン島北部のラムット河畔に建立する。山谷開放運動の同志・鈴木国男の骨の一部をルソン島北部のラムット河に流す。同月、「エライ人を斬る」裁判の和解が成立する。
  十月八日、自ら企画した「竹中労を鼓舞する会」が開かれ、箱根宮城野の山から降りて東京の目黒区下目黒に事務所を移し、活動家として現役復帰を宣言する。秋、「週刊文春」に依頼された、「芸能界深層レポート」を書くため、「週刊文春」編集者花田紀凱、取材協力者大下英二と共同で取材に当たる。当初は三回の予定であった。十一月三日号「マリファナより怖い芸能界暴力金融相関図 島倉千代子・水原弘の場合」、十二月十五日号「スキャンダル紅白歌合戦 天地真理を消したのは誰だ」。取材の過激ぶりに、島倉千代子のバックにいた細木和子のそのまたバックにいたヤクザ(細木の知り合いが小金井一家の大幹部であった堀尾昌志だったが、このヤクザは匿名で脅しに来たため特定できず)に、竹中と大下はつけねらわれることになる。竹中は東京のホテル・マンションを転々とする生活を送る。この「週刊文春」から寄稿者から降りた後、また山にこもる。十二月末、「アジア幻視行セミナー」のため、若者たちと演習旅行をする。翌年一月十一日まで韓国から東南アジア一周をまわる。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  「週刊文春」事件で芸能とジャーナリズムの変遷を感じ、寄稿者から降りる。これが要因となって『スキャンダル紅白歌合戦』で、芸能記者として己の現役引退・総括をする。竹中は、自身の取材記事・メモ、データ・コメントが載った出版物をすべて焼却したという。《芸能記者一五年(一九五八〜七二)集めた資料、取材データーは陋屋に山積みとなり足の踏み場もあらばこそ。三年前、東映京都太秦映画村の資料館におさめたのだが、みれん残して私自身の取材メモの類、コメントの載った出版物を手もとに置いたのである。今日はそれを焼こうと思う》(1)。竹中はこのデータを本当に焼いたらしい。十一月二十一日であったと推測できる。
  竹中はこのとき、自らの「青春」と「戦後」の終りを感じたと思われる。七五年頃から、竹中は自らの衰えを自覚していくように思う。ちょうど戦後から三十年が過ぎ、「戦争」を基底とした言説空間(イデオロギー)がもはや通用しなくなったときと符号している。
  
  [芸能界と暴力団]
   論考未完成
  
  Jデータと「評論」
  [「革新自治自由連合」運動] 
  竹中は《キネマ旬報社告訴準備に忙殺され、矢崎泰久に実務をゆだねた》(『黒旗水滸伝』)とある。後年、竹中は事あるごとに矢崎主導の「革新自治連合」(以下、革自連と略す)を批判した。
  二月二十六日、映画「戒厳令の夜」の映画化が決まり企画書を作成し始める。この映画製作権は、矢崎泰久が「革自連」の候補者集めのため、いわゆる過激派とつながりのある竹中を降す画策をせざるを得なくなり、白井佳夫に相談した後、白井が五木に働きかけ竹中に制作権を与えたと言う情報と(『無頼の悲しみ』)、五木の女性関係を徹底的に調べ上げ五木を脅しあげた竹中が無理やり製作権を取ったという話と(若松孝二・談)、《『キネマ旬報』大河連載(日本映画縦断)を打ち切られ、"言論妨害"で同社とオーナー上森子鉄を一九七七年夏、告訴に踏みきったからである。「二つも裁判を抱えたら死んでしまいますよ」と五木から忠告されて、週刊読売裁判勝利和解にみちびき、次の公訴を準備するのに寧日なかった。それで「革自連」から降りたのだ》(2)という話がある。
  このとき、竹中は山上伊太郎地蔵を建立するため、フィリピンを往復している。と同時に、その間に「革自連」発起人から勝手に外されたといっている(調べなければならないのは、竹中がこのとき「戒厳令の夜」のプロデュース云々の話を聴いていたかどうかだ。竹中の記述によれば、七九年にマキノ雅弘から映画化権を買い戻した、とある)。なんにせよ、ここで竹中は運動から身を引く。が、三月十三日「戒厳令の夜」制作準備が一段落ついたのかゴタゴタし始めたのかポシャったのか筆者は判断しかねるが、竹中は「革自連」復帰を矢崎に申し出る。その旨を話し合うため、「革自連」が向かっている方向を確認するため、同月二十四日夜、プリンスホテルのバーで五木寛之、白井佳夫、矢崎泰久、ばばこういちと会談する。ここで竹中はばばと矢崎に対して、「俺の構想通りに事が運んでいない」とキレる(竹中はこのとき、酒を飲みすぎていたのかもしれない)。
  竹中の批判はいささかデモンストレーションを含んでいるのだ。これは彼なりの愛嬌(?)なのだろう。しかし洒落じゃすまないこともある。ここから竹中の運動方針は、幾度の「運動」の挫折から個人の「道楽」としての「運動」に考えがシフトチェンジしていると推定できる。
  
  [この年出した本]
  『自由への証言』(昭和五十二年六月二十日刊 エフプロ出版)
  この本は、本来この時期に出版されるはずではなかったようである。
  読売側と和解が成立したので、下版寸前の本の出版を中止し、いま少し時期を延ばしてから出版せよと竹中はエフプロ側にいったのであった。これは中小の出版社には大打撃である。ここまで来たら印刷会社、取次ぎ会社もキャンセルは出来ない。にもかかわらず、竹中は自らのわがままを通そうとした。
  この原因は、今東光の証人喚問の際、相手側の弁護人に「誠意」や「和解」のきっかけとなる、「志」のある発言を聞いたからであった。彼らの「誠意」に忠実でありたいと竹中は考え、「予定の出版を先延ばしにしていただきたい」とエフプロ出版に相談した。しかし、この本は予定通り出版された。
  竹中はこれに対して怒り、その一部始終を「マスコミ評論」に寄稿する。「マスコミ評論」編集者であった岡留は、井家上隆幸の制止も聞かず竹中を批判した。
  
  察するに、法廷闘争とは「真実」を白日の下にさらけだす装置ではなく、事実関係から立脚する原告・被告両者の証言を闘わせながら「法的」な判断を下す一つの場でしかないということだ。法を遵守する人々でのみ有効な論理であると同時に、それは「国民」であるもののみに適応されるものでしかない。このレポートは、それを明らかにしている。
  
  [参考文献]
  (1)『スキャンダル紅白歌合戦』
  (2)『人間を読む』(幸洋出版)
  
  [時代・社会背景]
  
  
  一九七八年 昭和五十三年(満五十歳)
   四月、株式会社マリンーフーズ社長・ジャバド森と「戒厳令の夜」映画化について懇談。八月、「琉歌幻視行」セミナーツアーのため、若者達と沖縄・奄美へ向かう。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  この頃から、体調により耳がうまく聴こえなくなる。《血圧異常のせいでもなく、学徒動員のさいリンチを受けた右(左?)耳の古傷と、それに影響をうけている左耳の症候群のなせるわざで、五十の坂を越えてから、しばしば突如襲う症状なのである》(1 カッコ内は筆者注)。これは、「戦争の傷の深さ」とみて、間違いないかと思われる。
  七七年、七八年にかけて箱根の山を整理している。
  
  [参考文献]
  (1)「現代の眼」八一年十月号
  
  [時代・社会背景]
  
  一九七九年 昭和五十四年(満五十一歳)
  一月十日、箱根の山の整理が終わり(遠藤徳子が整理する)山を降りる。
  四月四日〜八日、高田馬場の東芸劇場で行なわれた、東郷健プロモートの男色芝居を演出・構成する。ここで《テイノーヘイカ・オカマを掘られるシーンで初日、新右翼「一水会」の鈴木邦男君がステージにかけのぼるというハプニング》(1)が起こる。竹中と鈴木は少しからみあい、危険を察知した観客内の警官(約百名)も乱入、大混乱となる。
  (恐らくこの年の)五月半ば、蜂尾峠越えの山路から鯛生金山へ抜ける道(鯛尾から八女へ福岡県側に下る)で映画「戒厳令の夜」のロケーションハンティング。
  秋、映画「戒厳令の夜」のため、南米コロンビア辺境を二ヶ月余取材する。
  十一月二十三日、日本に帰国。《山根二郎弁護士に対する、「日弁連」(日本弁護士連合会)の懲戒処分について、千駄ヶ谷綜合法律事務所の近藤俊昭弁護士からおよその事情を聞いたのは、帰国後五日後の二七日であった》(2)。〔山根は、同月十一月八日、日弁連に《所属弁護士会の信用を害し、また弁護士の品位を著しく失わしめる非行》(2)を理由に会長名(江尻平八郎)で四カ月の懲戒処分を送達されている。原因は六九年の東大裁判法廷内での山根の《被告人の意思に同調盲従して》《執拗なる言動の反復によって審理の進行を阻害し》《法廷の秩序を乱し》《裁判の威信を著しく傷つけた》(2)、以上の行いが弁護士の職務から逸脱していたのではないか、という旨が理由とされている。問題は、この行いの結果が《懲戒に相当せず》(2)と、七二年三月に綿密な調査によってもはや決定が出されている点にある。にもかかわらずこの旨を理由として「日弁連」が山根二郎を業務停止処分にしたことに、竹中らは異議を唱えたのだった〕。同月二十九日夜、田中小実昌の谷崎賞受賞パーティで大島渚・野坂昭如と出会い山根弁護士懲戒処分に抗議する運動を考え始める。十二月三日、映画「戒厳令の夜」のスポンサード企業の「株式会社・マリンフーズ」に会社更生法が適用される(要するに同社は倒産した)。ここから、竹中は金策とマスコミの対応に追われる。
  
  [この年出した本]
  『タレント残酷物語―スターを食いものにする悪い奴は誰だ―』(七九年一月五日刊 エール出版 定価八八〇円)
  竹中の芸能の論理がもっとも体系化されている書物。しかし、おそらくこのような体系化を竹中は拒んでいたのだろう。
  
  『スキャンダル紅白歌合戦』(昭和五十四年一月十日刊 みき書房 定価九八〇円)
   書き下ろし。竹中がNHKを攻撃するのは、
  
  『『国貞』裁判・始末』(七九年七月三十一日刊 三一書房 著・林美一 坂本篤 竹中労)
   すべて対談で構成されている。
  
  [参考文献]
  (1)『芸能人別帳』
  (2)『法を裁く』
  
  [時代・社会背景]
  
  一九八〇年 昭和五十五年(満五十二歳)
  一月、山根二郎弁護士を懲戒処分とした「日本弁護士連合会」(以下、日弁連)江尻平八郎会長への公開質問状を、三週間にわたり書き綴る。《大島・野坂の再三の打ち合わせ、「弁抜き裁判」法案から(裁判においての代理人は弁護士でなくとも良いという法案)"法曹三者協議路線"に至るボウ大な資料、第二東京弁護士会「議決書」等、山根処分をめぐるすべての文書の検討、「法廷等の秩序維持に関する法律」その成立過程さらには東大裁判公判記録の読み返しと精根のあるたけをかたむけた》(1 カッコ内は筆者注)。一月二十四日に箱根太平台の林泉寺でいとなまれた「内山愚道忌」に参加、遠藤誠と知己となる(竹中は七五年の伊藤公一主催「大演説会」で遠藤と会っている模様だが?)。二月半ばから、山根処分に対する各若手弁護士の賛同が得られ始める。二月二十六日、抗議署名のパンフレットを約三千五百名に郵送する(計七五七名の署名が集まる)。三月八日、「日弁連」第七回司法シンポジウムに参加し、弁護士・山根二郎、遠藤誠、角南俊輔、市民運動家・中山千夏、「話の特集」編集長・矢崎泰久と共に招かれるが、会場では意見陳述一分間のみの発言で終わる。三月十七日、取材のため香港へ向かう(?)。
  五月十七日、東京麹町の東条会館で開かれた「司法の反動化の流れを追って」の逆シンポジウム「司法を裁く」をプロデュースし、弁護士・近藤俊昭と司会を務める。当会で竹中は真摯に時計係をする。
  八月三十日、「下獄満三十二年記念・平沢貞道氏緊急釈放要求集会」の口演を全電通会館で行う。十月二十一日、「鞍馬天狗のおじさん」嵐寛寿郎の訃報を聴く。十一月から映画「戒厳令の夜」の挫折により、隔月ごとに香港・澳門を往復し、《六五年・文革の前夜、香港で知り合った黄明竹(仮名)》(2)を通じて「太圏仔」(紅衛兵ヤクザ)と接触し始める。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  極月、部落解放運動家であった植松安太郎に、三千万のカンパを申し入れられる。金銭の出処は植松の私有地売却案から。植松は、竹中の「太圏仔」との接触の深化、中共による香港左翼出版物への言論干渉の言を聴き、何らかの仕事のバックアップを申し出た。これが情報誌「香港コンフィデンシャル」創刊の発端となる。このとき、竹中の事務所は解散寸前の状態であった。
  この頃、竹中の腹違いの妹・柴は長崎(?)の県庁に勤めている。
  竹中はこの頃重症の神経痛に悩まされていたようだ。伊豆の温泉で療養していた模様。
  
  [映画]
  「戒厳令の夜」()
  七月五日、東宝系で封切られる。
  
  [この年出した本]
  『法を裁く』(昭和五十五年十一月一日刊 発行元JCA出版 発行所耕索社 定価一五〇〇円)
  《呼びかけのはじめから、五月十七日の「山根懲戒処分に抗議する逆シンポジウム――司法を裁く」を経て、総括としてのこの本の上梓に至るまで印刷物の編集や発送、会合その他の準備と連絡事務所、会計の整理の負担などは、すべて竹中労と「夢幻工房」、近藤俊昭弁護士と千駄ヶ谷綜合法律事務所によっておこなわれた》(あとがきより)。
  本書はニュージャーナリズムブームの煽りを受けて試行錯誤した上で書かかれた。
  
  [参考文献]
  (1)『法を裁く』
  (2)「現代の眼」八一年十月号
  
  [時代・社会背景]
  
  一九八一年 昭和五十六年(満五十三歳)
  一月二十六日、「平沢貞道氏無罪釈放・実現決起集会」の口演を豊島区民会館で行う。三月、情報誌「香港コンフィデンシャル」創刊のため香港・日本で調整にあたる。植松の山林を現地調査し、不動産会社に評価を依頼するも、植松の病状が急変し、五月七日に植松安太郎が死去。「香港コンフィデンシャル」創刊計画は頓挫する。三月三日、雛の節句で全国水平社の結成記念日、劇画作家で刺青士の凡天太郎により刺青が彫られ始める。同月四日、太田竜と和解し、太田主催の「無名の会」(アナキズム研究会)に参画する。ここで、文化大革命の総括を目的とする「現代史研究会シンポジウム」開催を企図する。三月八日、《現代中国政治評論の第一人者と目される》(1)齊辛(チーシン)をインタビュー、「中国向何処去?(中国、どこへゆく)」。刺青が完成した春から、香港、マカオ、中国を取材、東京間を往復する日々が続く。この取材は汎アジア、中華人民共和国に対する「革命」ための情報収集を目的としていた。香港マフィア・紅衛兵くずれで香港窮民の英雄「太圏仔(たいくんちゃい)」の取材を本格的に始める。以降、秋まで取材にあたる。
  五月三日、映画監督・五所平之の訃を聞き、野辺送りにかけつける。六月四日、川善多長政の告別式に向かう。六月、「現代史研究会」呼びかけ人として、八三年秋まで、太田竜、加々美光行、佐伯陽介、玉城素、玉川信明、西垣内堅佑、藤原春雄などを呼び、中国文化大革命に対する討論を行なう。
  八月二十三日早朝、豪雨の中、映画監督・伊藤大輔の葬儀に京都に赴く。九月(十月半ば?)、仕事場を横浜市戸塚区小雀町に移す。竹中はここを「雀のお宿」と呼んだ。十月半ば、運動の拠点であった夢幻工房を解散する。
  十二月二十日夜、玉川信明が新島淳善の忘年会に参加する。ここで、新島が酔って玉川に怪我を負わせる。二七日、玉川が竹中に相談するため電話を入れる。竹中は西垣内弁護士を紹介する。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  この年の極月、自ら主催する「竹中労を鼓舞する会」を行なう。
  竹中が刺青を彫ったのは、《なりゆきさ、ガマンできるかできるよという話。彫師の凡天太郎と約束して、男の義理を果たしただけのこと(略)ニュアンス変えて言えば、お道楽にすぎない。どれだけ苦痛に耐えられるかと、『戒厳令の夜』でオチコンダ、不甲斐のないおのれを責めてみた》(2)。竹中は「戒厳令の夜」の際に、「金銭の使い込み」(若松孝二・談)により、若松のツレに首を絞められている。この責任は全て竹中にあるようだ。竹中が映画製作に関わるとどうしようもなくなるのは、筆者の見当違いであろうか。
  「太圏仔」は竹中の背に彫られた刺青を見て、日本の好漢であると判断し、信用したようだ。「太圏仔」取材のために背に刺青を施したと『仮面を剥ぐ』で竹中は記述している。
  八十年代から、メディアは社民化しているようだ。これは、やはりベトナム戦争が結節点である。
  
  [雑誌連載]
  「竹中労の芸能の論理」 「現代の眼」八一年四月号〜八三年五月号
  竹中労の「嫌いだ」シリーズで気に入らない有名人を斬りまくる。
  同連載で、田中角栄に同情的な態度を見せ(八二〜八三年頃からの態度変更。七四年頃には糾弾していた。『角栄だけがなぜ悪いのか』では、彼の「少年性」を視点にして独論を展開している。恐らく、彼が角栄を弁護したのは、)、新潟の雪のひとひら(の票)が角栄を生み、酷しい自然から地に根を張るような力強い宗教である創価学会を生み、大杉栄のような逆賊を生み出したと、新潟の土地性と人々の精神のかかわりをレポートした。角栄に関していえば、《角栄は笈を負って上京する前、佐渡が生んだ北一輝の『日本改造法案大綱』と、細井和喜蔵著『女工哀史』を熟読している》(3)とある。竹中の角栄に対する「読み」も同じである。竹中は新潟に根付く「宗教」もしくは「歴史」的風土性に「革命」を見たようだ。竹中はこの数年前継続して汎アジアへ向かっている。彼らとの連帯を考えるのであれば、このような「宗教」的精神、もしくは「歴史」的風土性から生み出される「人間」に基軸を置かなければならないと考えたのだろう(いわゆる風土決定論)。アジアの民衆の精神の根幹に、「宗教」(歴史)的回心が見られたゆえ、日本とアジアを繋ぐネットワークを構築するためには、この精神を基軸にしなければならないと考えたのであるまいか。竹中のアジアへの視座、そしてアラブなど中東への視座はその点で一致している。
  ここで留意しておきたいのは、現状において、アジア(および中東)という観念は、主に観光用として存立しているということだ。これは資本主義(グローバリゼーション)の枠内で思考される。端的に言ってしまえば、アジアなど存在しない。西洋との対立物(もしくは「受苦」の概念として)、アジアは西洋からそう呼ばれたのだ。同時にこの観念は、近年では「民族」を淘汰した後の「観光地」としてのことばとして機能する。竹中がこのようなアジアを語っていないのは自明である。民族・信仰・宗教・歴史、その関わり合いをラディカルに思索していくのだ。竹中が語るのは強烈な「イデオロギー」である。闘争の原基はここに置かなければならないと考えていたのだろう。この方途が革命に近い、と。しかし、その強烈な「イデオロギー」は、理論化された地点で「転倒」し、「民族」的もしくはマルクス主義的な「闘争」に向かう別次元の根源的なエネルギーに転化する場合がある。絶えず危険性を孕むのだ。
  この点で、竹中が以前まで保持していた「革命」理念との取引がうかがえる。右翼と目されている人びととの対話も、「革命」理念が転回した部分の一環のような気がしてならない。竹中は、「歩く」(移動すること)ことによって思想を転回させるのだ。
  
  [この年出した本]
  『ルポライター事始』(八一年七月一日発行 みき書房刊 定価九八〇円)
  
  『竹中労の右翼との対話』(八一年八月十日発行 現代評論社刊 定価千円)
  
   この頃、新たな運動のカリスマになりうる人材を探していたようだ。その人材は「差別」された人々からしか出ない、と竹中は断言する。
  
  [参考文献]
  (1)「現代の眼」八一年五月号
  (2)『人間を読む』
  (3)『王道楽土の戦争 戦後60年篇』著・吉田司
  
  [時代・社会背景]
  
  一九八二年 昭和五十七年(満五十四歳)
  二月十三日、「平沢貞通氏九十歳集会」で、口演を豊島区区民センターで行う。五月二十九日、《『土とま心』の(編集長)阿部勉と甲州湯村在の父・英太郎を訪ね、その足で岐阜にまわり、「大夢館」の花房東洋君と合流、郡上八幡に遊びました》(1 カッコ内は筆者注)。六月九日、羽仁五郎の葬儀のため葉山へ向かう。
  八月から十一月末まで、《創価学会レポート(群体・夢野京太郎の草稿への加筆をふくむ)と、"中国文化大革命"を総括する連作長篇第一部・一〇八枚の執筆に没頭して、「琉歌行・'82」沖縄への小旅行の他には寧日》(2)のない日々を送る。この間に、嘉手苅林昌の師と言うべき金城睦松が死去、遺稿詩集「たったひとつの命の唄」に追悼文を寄せる。同時に、『獄中十八年』の解説、書き下ろし『大杉栄』が重なり、缶詰め地獄となる。
  十月七日、「同時代批評」編集長・岡庭昇からインタビューされる。十一月十一日、同月十四日、映画「俗物図鑑」にマスコミ界のドン・大屋壮海役で初出演(撮影される)する。十二月、東北・北海道へ『牧口常三郎』の取材に向かう。十二月十八日、「『潮』読者講演会」で「反創価学会キャンペーンと謀略機関」の口演を行う。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  『羽仁五郎戦後著作集』(全三巻)の出版記念パーティーで、大野明男、栗山一夫、野田茂徳、丸山実と進行を務める。
  傾日、冠婚葬祭が立て込む。
  夏、某氏から「田中角栄暗殺」の計画を持ちかけられる。
  十一月から十二月、「一水会」で「内ゲバ殺人」が起きたため、「現代シンポジウム」の司会を降りる。
  
  [この年出した本]
  『ザ・ビートルズレポート』(昭和五十七年六月十日刊 白夜書房 定価)
   復刻版。
  
  『芸能の論理 80年代ジャーナリズム論叢@』(四月刊 幸洋出版 )
  
  『獄中十八年―右翼武闘派の回想―』(昭和五十七年十一月刊 現代評論社発行 著・野村秋介)
   竹中は「序にかえて」と「男の情操は死に至る病である―極私的なあとがき―」を担当する。
  
  [参考文献]
  (1)『獄中十八年 右翼武闘派の回想』
  (2)『仮面を剥ぐ』
  
  [時代・社会背景]
  
  一九八三年 昭和五十八年(満五十五歳)
  一月四日、道志村道志館で、道志村元村長太田智勇にインタビュー。同月八日昼、舞台俳優で「発見の会」リーダーであり"大牧口"の子孫である牧口元美と上野精養軒で対談。二月九日、創価学会副会長和泉覚、辻武寿、参議院議長小泉隆と座談会、「回想の牧口先生」。同日(?)、「同時代批評」で太田竜と対談、「アナキズムの復権」。二月十日、「平沢貞通を救う会」代表委員となり、運営に携わる。二月十一日、「平沢貞通氏再審総決起・森川哲郎氏追悼集会」の口演を豊島区区民センターで行う。三月十三日、「『われら「勝手」に連帯す』出版パーティ&横地孝弘出陣式」で口演(ほぼアジテーション)を札幌自治会館で行う。五月二十一日、札幌の酒場で北海道地方選出参議院議員の丸谷金保と出会う。
  九月十九日、東京・代々木の区民会館で、現代史研究会主催の「大杉栄・伊藤野枝没後六十年追悼集会」に太田竜、瀬戸内晴美、小沢遼子と参加。十一月末、シリア・レバノンの旅から帰る。竹中はトリポリの戦場まで行って来た様子である。同月二十六日、『牧口常三郎』取材行、フェリーに乗り新潟へ向かう。この後、北海道夕張から厚田村へ向かう。
  十二月十日、映画館「上板東映」の閉館イベントに、大島渚、内藤誠、長谷川和彦、山根成之、若松孝二、松田優作などと出席する(「浪人街」運動から?上板東映へ?)。十月二十五日、「アラブ映画祭」審査委員を要請され、漂泊の旅も兼ね、シリア・レバノン向かう(特定できず)。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
  この頃から執筆の際、酒(焼酎)を飲まなければ文章が書けなくなる。この頃以前は原稿執筆の際に一滴も酒は飲まなかったようである。
  
  [ルポライターの写真の撮り方]
  《カラーフィルムを用いず、ASAをぎりぎり八倍まで上げ、ストロボも使わない。記録のみを心がけて、芸術写真は関心の外である。石葺屋根? むろん、お呼びじゃないのだ。私が夢中になって写したのは、"歴史"である。何軒もの家と、看板であった。(略)他愛もないと嗤うなかれ、ルポ・ライターの発見、よろこびはここに存する。"死んだ風景"の向こうに、生々流転する活社会を、庶民の生活史を直感によって洞察するのである。(略)名もなき民衆がそこでいかに生きて、哀別離苦を土に埋めてきたかをもの語っているのだ》(『聞書庶民列伝 牧口常三郎とその時代(1)冬の巻 雪燃えて』)。これからルポライターとなるべくしている、創価学会員も含めた若者たちに向けて書かれた部分と推察することができる。ちなみに、竹中の写真のウデは筆者自身竹中の写真を見たこと無いのでよくわからない。文章の表現能力と、写真の表現能力はだいぶ違う。映画もそうである。竹中はよく文章で「理念」とその表現対象に対して「夢」をブチ上げるが、実際はそううまくはいかない。
  
  [平沢貞通とは]
  竹中は、この年二月十日に、鶴見俊輔(哲学者)、青地晨(評論家)、もののべながおき(市民運動家)、井上泉(社会党代議士)、遠藤誠(主任弁護士)と共に代表委員となる。東京都杉並区阿佐ヶ谷南三-三四-七を運動の根拠地とする。八四年五月三十日に、竹中は代表委員を辞退し、一会員となる。
  
  [雑誌連載]
  「聞書・牧口常三郎とその時代」 「潮」八三年四月〜
  「三酔人・テレビ談語」 「新雑誌X」八三年八月〜
  「春色歌ごよみ」 「ミュージック・マガジン」八三年九月〜
  
  [この年出した本]
  
  [時代・社会背景]
  
  一九八四年 昭和五十九年(満五十六歳)
  「牧口常三郎」の取材のため、小樽・綾棚・江差へ向かう。小樽で戸田城西の墓苑を参り、墓苑所長・佐藤順良にインタビュー。三月、小樽文化会館で学会員にインタビュー。
  四月六日、信濃町で取材・インタビュー。この後、長万部へ。江差町文化センターで、町史編集者と対談。五月上旬、左眼の視界が正常な機能を失う。藤沢市長・葉山峻の薦めで、同市民病院で診療を受けるが、回復不能を宣告される。同月、熊本日日新聞小国支局記者に同行し、「下筌ダム」反対の拠点となった「蜂ノ巣城」に向かう。五月末から六月末まで、アラブに向かう。秋、ダマスカス取材する。取材中、肝炎が悪化して左目の視界が霞み、夜悪夢に魘される。風土病のヴィールスが体内に潜伏する。
  十二月二十日、浅草で手品師・吉慶堂李彩にインタビュー。
  
  [雑誌連載]
  「パレスチナ旅日記」 「新雑誌X」八四年二月〜
  「パレスチナ革命への予断と偏見 夢に狂うと人は言え」 「同時代批評」八四年四月号
  「わが酒の自伝」 「中州通信」八四年十一月〜
  「江青奪還作戦 幻の紅衛兵」「小説CLUB」八四年十一月号
  
  [この年出した本]
  『人間を読む 80年代ジャーナリズム論業C ――必見・怪人21面相――』
  本書は、「序章・対話と構成」「烈女探険・闘う女は美しい」「架空インタビュー・羽仁五郎」「激論・必見かい人21面相どの」「余禄・三酔人ТV談語」で構成されている。ほとんど「新雑誌X」所載である。その他「ヘイ・バディー」「同時代批評」など。遊び心たっぷりの本であるが、東郷健の「皇室ポルノイラスト」を編集長・丸山実が載せたため、野村秋介以下「一水会」鈴木邦男が窮地に立たされる。これは「皇室ポルノ事件」と呼ばれた。以下、事件の顛末。昭和五十九年《七月。『新雑誌X』の天皇不敬イラスト事件で民族派が決起。イラストを載せた『新雑誌X』事務所、それに首謀者の東郷健宅らが襲撃される。また、新宿の路上を歩いていた東郷健を木村三浩(統一義勇軍議長)が襲い、暴行を加え重傷を負わせる》(『言論の不自由?!』 著・鈴木邦男)。このポルノは、マッカーサーが天皇に対し、「オカマほっている」状態を描いたイラストであった。丸山から「編集顧問」の肩書きをもらっていた竹中は、この事件に激怒し執筆を中断、「現代の眼」を小さく復刊しようと画策する。が、状況的に復刊は無理であった。以降、「新雑誌X」は軌道に乗る。
  当事件に際し、丸山実は野村秋介との対談の場を用意する。
  
  [参考文献]
  
  
  [時代・社会背景]
   
  
  一九八五年 昭和六十年(満五十七歳)
   春、東京で取材。五月、左目が失明状態となる。《医師の診断はアルコールの摂りすぎ(つまりアル中)、高血圧、糖尿病による網膜剥離、過労からくる衰弱とアンバランス等々》(1)。この頃から、高額な治療費を稼ぎ出さなければならなくなる。同時に、執筆に支障をきたす。
  七月七日、竹中英太郎画集上梓の宴を渋谷道玄坂上、「清香苑」(竹中の旧友・李康則が経営)で開く。出席者は「潮」編集人外山武成、平凡社の高山洋二、大島渚。八月、「琉歌セミナー85」演習行のため、 九月四日、牧口常三郎山村踏査の目的地、前津江村へ向かう。「下筌ダム」(越後川「治水」計画)住民運動反対派の筆頭に立った室原知幸の墓に参る(2 ※)。同月五日、日田市を一巡し、当教育委員会で村史料を発掘。六日、久留米を経由して八女へ。牧口常三郎の足跡を歩き、筑後川河口の落日を見る。柳川の旧立花家「御花」、十五代目当主と歓談、北原白秋の取材をする。七日、博多へ向かい、伊藤野枝の生家を訪ねる。その後「中州通信」編集人藤堂和子と「赤銅御殿」について話す。八日、筑豊へ向かい、飯塚で伊藤伝右衛門旧邸と嘉穂劇場の取材したのち、小倉に宿泊。九日、歴史学者・奈良本辰也自宅にて対談、「大正の挽歌がきこえる」。十日、帰京。
  秋、浅草の牛鍋屋「米久」で竹中をアラブへ"送る会"が開かれる。日本赤軍と再会のため戦火のアラブ・ベイルートへ(「妹へ――重房信子半生記」の取材も含め)。
  
  [雑誌連載]
  「妹へ――ベカー高原より愛をこめて」 「サンデー毎日」所載 八五年十二月十五日号〜八六年二月二十三日号 
   赤軍兵・山田義昭が脱走。この頃、新聞・メディアで話題となる。
  
  [この年出した本]
  『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・春と修羅(二)』(昭和六十年四月二十五日刊 潮出版社 定価千三百円)
  取材に同行した「潮」編集者は外山武成であった。四巻まで、共同作業。
  本書は、『日本映画縦断3』内の「山上伊太郎メモワール」と同じ位置にある。竹中はつねに「戦中と戦後の間」の意識の変容を考えていた。つまり、「戦争」を巡った思考を引きずっていた。その「戦争」を誠実に生きた人々(戦時下の人間)を表現するための対象が、山上伊太郎であり牧口常三郎だった。竹中はいう。
  《牧口常三郎とその時代は、現在を照射する。明治・大正&昭和戦前、大東亜戦争そしていま、坊主ざんげ風にしか語れぬ〈宗教と戦争〉、この人に即して、私は年来の異論を展開しようと考えた。なぜ、牧口常三郎なのか? 戦時下に死んだ、とうぜん戦後のエクスキューズはない。彼には自己正当化も、弁明も皆無である。口をぬぐっていない、ゆえにむしろ潔癖なのである。戦争を支持したその手は、血潮に汚れているか、いない。彼の信仰は国家・国民の運命と共にあり、人々と同生共死しようとする。〔但偏に国の為・法の為・人の為にして、身の為に之を申さず〕(立正安国論、御勘由来)(中略)大東亜戦争を肯定するのは、この国の革新系政治家・知識人・ジャーナリストの禁忌である。弁護の余地なきものは、存在しない。どのような凶悪犯人でも、法の下に平等であり、弁護士を選ぶ権利がある。「戦争」もとうぜん弁護されるべきではないか? だが「平和」運動家を自認する人の多くは、戦争を肯定したものを肯定することすら、ヒステリックに拒絶する。つい最近、暴力団・山口組の顧問弁護士に対して、大阪弁護士会は、「反社会的集団に加担し、職業的な品位を傷つけた」と、除名もしくは戒告を求めている。同じ理由で、"過激派"に対する救援弁護活動もタブーとされるだろう。そのような時代を、この国は確実に迎えている。「平和」運動家、夫子自身にも累は及ぶ。逆説的に言えば、戦争を断罪するみずからの手で、反戦の弾圧を呼び込むのだ。平和は人間の良識である、まさかそんなことはあるまいと嗤う者は、朝鮮・ベトナム戦争を、"昭和戦後史"を想起せよ。遠い過去の事ではない、そして中核・「日本赤軍」、過激派は反戦運動からうまれてきた。平和も戦争も、つきつめて人間の営為である。人間はその時代、自己が置かれた状況の中で、けんめいに生きようとする(中略)戦争を正義と信じて死んだ、衆生の上にこそ、反戦の墓標は建てられるべきであるのに……なぜ唾を吐きかけるのか? 愚かな悲劇と呼び、「青年よ銃をとるな」と。人間を来り犯すものに対して、武装解除することが平和であるなら、せめても絶対非武装・中立、『イワンの馬鹿』(トルストイ)の国に棲むがよい。極東の不沈空母、アメリカの核の下にいて、おのれの頭の上には「原爆ゆるすまじ」。すくなくとも戦時下、人々はそのように怯懦ではなく、愚かでもなかった。劫火と飢餓の日々を精一杯に生きたのである》(『牧口常三郎とその時代4』)。
  「青年よ銃をとるな」とは、社会党の古いテーゼだったように思う。
  竹中は戦後民主主義(経済的繁栄と平和運動)を批判した。それは、世代感もあるがやはり、諸外国の様相を見てきたがための感覚であるのだろう。しかし、民衆を美化し、過剰な「意識」を投影しているとみることもできる。が、ここで考えたいのは、「戦後民主主義」も一つのイデオロギーに過ぎないという部分である。竹中が主張したかったのは「戦後」へのイデオロギー批判である。つまり、戦後民主主義も一つの歴史観に過ぎないということであろう。それは丸山真男周辺の戦後知識人を批判し、外部(例えばリビアなどの)から直接民主制度の導入を思考していたのではなかろうか。その判断が正しいかどうかは置いておくとして。
  彼の主張はともかくとして、少なくとも、「なしくずしの戦前への回帰だけは勘弁してくれ」というのが、筆者の本音である。が、外部的な制度(政策)の導入については、興味がわく。しかし、それは日本において、「革命」として発現しない。
  
  [参考文献]
  (1)『無頼の墓碑銘』
  (2)『牧口常三郎とその時代(4)』
   ※室原知幸と住民反対運動については、松下竜一『砦に拠る』(ちくま文庫)が詳しい。
  竹中は本書で佐木隆三に触れるが、松下には触れない。竹中と松下の文体は、スタンスが違えども「酷似」している部分が多々あると、筆者はみている。恐らくそれは母性的なものであろう。
  
  [時代・社会背景]
  
  一九八六年 昭和六十一年(満五十八歳)
   二月二十六日(四日?特定できず)、戦火のアラブへ、ひとまずダマスカスへ向かう。三月十日、アラブ及び中近東へ向かい、「日本赤軍」とパレスチナ・ゲリラを取材。査証発行が留保されたため、パレスチナへは最期の取材行となった。この後、再び中近東へ向かう。
  夏、横浜市戸塚区小雀町「雀のお宿」から(都市開発のため)立ち退き、仕事場を北鎌倉高野のヒル・トップに移す。《一軒家で(略)家自体は洋菓子風》(『無頼の墓碑銘』)の家であった。
  冬、リバプールを訪れ、ジョン・レノンの叔父に会い、ビートルズが生まれた町を歩く。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  この年、外務省・公安の意向により、査証の発行を各大使館が留保する。
  
  [この年出した本]
  『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・衆生病む(三)』(昭和六十一年五月二十日発行 潮出版社 定価千五百円)
  
  『にっぽん情歌行』(八六年 ミュージック・マガジン社 )
  
  [時代・社会背景]
  
  一九八七年 昭和六十二年(満五十九歳)
  一月、リビアの土を踏む。四月、「マタバ(国際ふぉーらむ)」議長に選ばれる。この年の極月まで、《パレスチナ・ゲリラ、フィリピンNPA・NDF・全学連、モロ開放戦線をはじめ、ACHE(インドネシア分離独立運動)、パタヤ開放戦線、太圏仔(もと紅衛兵・秘密結社)南太平洋独立運動等々、汎アジア&環太平洋への回路を繋ぎ、日本からの訪問団を送り込む準備を整えました》(1)。このとき同行したのは牧田吉明。
  七月フィリピンから帰る。八月二十一日、千代田区神田和泉町三井記念病院に、病状を隠さず告知することを条件に、入院する。医師によれば《肝硬変に加えて重度の糖尿病、おそらく癌の疑いも》あり、《放置すれば三年、何とかもたせてまず五年の命(略)治癒の可能性なし》という初診を受ける(1)。原因は八四年に感染した風土病ヴィールスが発現したため。
  十月二十九日、「キネマ旬報言論裁判」において、キネマ旬報社との和解が成立する。満映の資料が十二年ぶりに竹中の手元に返却される。
  
  [リビア&アラブ文化情報ふぉーらむ日本事務局(略称=ジャパン・ジャマヒリア)]
   代表・竹中労。竹中個人の道楽として、民間外交(文化情報交流)の窓口を設立する。竹中が唯一の窓口であった。この年の夏から、設立準備に入る。
  
  [この年出した本]
  『聞書・庶民列伝 牧口常三郎とその時代・襤褸の巻(四)』(昭和六十二年四月三十日刊 潮出版社 定価千五百円)
  
  『美空ひばり』( 朝日文庫 )
  
  [参考文献]
  (1)『無頼の墓碑銘』
  
  
  [時代・社会背景]
   
  
  一九八八年 昭和六十三年(満六十歳)
  春、リビアから帰国する。
  四月七日午前十一時五十二分、新宿・丸井内交通公社前にて、父・英太郎が虚血性心不全で死去する。竹中は予定していたリビア行きを取り止め、自身が唯一の窓口であった民間外交「ジャパン・ジャマヒリヤ」の活動を停止(凍結)する。六月十一日、十八日、三井記念病院で内視鏡、高周波で身体を精査する。《数箇所の糜爛が胃壁に発見され、うち二ヶ所に癌細胞が確認》できると診断され、《身辺を整理し、インタビュー・対談・連載原稿を書き上げて、七月十一日再入院》する(1)。
  九月八日、三井記念病院を退院する。
  
  [雑誌連載]
  「大法輪」 「花和尚の毒手一喝」 八八年二月号〜八九年五月号
   宗教のお話。『無頼の墓碑銘』に転載される。
  
  [参考文献]
  (1)『無頼の墓碑銘』
  
  [時代・社会背景]
  
  一九八九年 平成元年(満六十一歳)
  五月二十日、竹中の病状の進行を気づかった井家上隆幸が、横浜中華街安楽園で「竹中労を囲む会」を行う。出席者は井上清、高橋呉郎、神戸明、川本武、金子茂、窪田高光、湯村高好、浅井清弘、小松みどり、村田倫也、伊藤公一。これらの人々は「女性自身」記者時代前後の竹中を知る人物たちであった。
  十月六日から翌年七月十三日まで(二十七回)「金曜プレステージ/ニュース・バトル」に、第一回以降レギュラー出演する。この頃から、テレビ番組出演が激増する。十一月十一日、「たま」が「イカ天」に出演する。
  
  [この年出した本]
  『増補・美空ひばり』(  朝日文庫 )
  
  [時代・社会背景]
  
  一九九〇年 平成二年 (満六十二歳)
  《正月から二月中旬までラジオ・テレビ出演十二回、対談・インタビュー・コラム短文を週平均二本》(1)書き飛ばす。二月二十日、熊本市で亡父・英太郎懐古展&記念講演をする。三井記念病院に入院する。四月十三日深夜、テレビ朝日「金曜プレステージ/ニュース・バトル」で、酔ってふざけた態度で発言していた柿沢弘治自民党代議士を怒鳴りつける。
  四月十八日、トレンドスポッター社の編集プロデューサー・木村恵子から『たまの本』の企画を持ちこまれる。竹中はこれを快諾し、五月四日から二十一日まで彼らの演奏旅行(地方のライブ)に同行し、《ライブ・テープ、自主制作アルバムを聴き、十五時間余りのインタビューを試みる》(1)。
  七月、「金曜プレステージ/ニュース・バトル」に最終出演する。
  十月八日、精密検査・抗がん剤投与(カテーテル)のため五度目の入院をする。十月十二日に、三井記念病院一五三二号室で『たまの本』を書き上げる。
  
  〔竹中労の人格形成とその後の著作に関わる出来事〕
  
   三月十一日放映、「別冊イカ天」で「たま」とテレビ対談。
   十二月九日、京浜安保共闘議長である川島豪が沖縄で亡くなる。彼は、故郷の岐阜に帰り、環境整備共同組合のリーダーとして、同業者の九八%を組織した。竹中は島うたを聴きに、NHK沖縄支局で琉歌行の番組作成のため、川島にとっての「全共闘運動」をレポートするため、沖縄行の日程を組む。「妹へ――ベカー高原より愛を込めて」でもそうだが、竹中は「全共闘運動」、もしくは自身の「運動」に対して、誠実であった。この誠実さが竹中の「理念」であると言える(?)。
  
  [雑誌連載]
  「噂の真相」 「竹中労のページ」 九〇年四月〜九一年四月まで
  
  [この年出した本]
  『百怪、我ガ腸ニ入ル――竹中英太郎作品譜』(  三一書房 )
  
  『たまの本』(九〇年十二月十日刊 小学館 定価一四五〇円)
  産業資本主義の限界と、人間を縛り付ける制度の限界を説く。この本を書くと快諾したきっかけは《若い人達からいったん離れてしまった、ぼく自身のやわらかな魂を、呼び戻そうと思ったからなんだ》(本書より)という。同時に「たま」の、人間が《滅びにむかううた》に《暗い夢をこめた》と語る(1)。竹中の大衆音楽史は、六〇年代『美空ひばり』、『ビートルズ・レポート』、七〇年代『琉歌幻視行』、あいだを置いて九〇年代『たまの本』で完結となる。
  「たま」はジャーナリズムに殺されたという見方があるようだ。それは早計な考えで、竹中いわく《音楽ってお金なんだよ。それから権力だな、タレント握っていさえすれば、天下を取れる業界だからねえ》(本書より)らしい。この「人気」を売る音楽・タレント業界のタレント操作と、労使環境問題にはじめて切り込んでいった書物が『タレント帝国』であった。メディアでいかようにも「人気」を操作できる体質に対抗できるのは、大衆の要求を権力に突きつけることであると、竹中は労音に関わっていたときは考え、七十年代プロダクションシステムの確立において、ナベプロと対抗するタレントの養成とナベプロ以外のプロダクションの復興に力を入れた(「全日本歌謡選手権」が一例)。これには、タレント労働者の不定期雇用(自由の拘束と搾取)が背景にある。竹中は、音楽業界を変える志のある芸能プロダクションに働きかけられる程度の影響力は持っていた。この人気と権力の間で「たま」がどのように変遷していったのか。
  
  「夢幻工房」鎌倉市高野九‐八
  (八〇年当時、「竹中労のイエスの箱舟」と人々に言われた。当初は東京都目黒区下目黒五-二八-一に在ったようだ。「山根懲戒処分」を主に活動していたと思われる)。
  
  [参考文献]
  (1)『無頼の墓碑銘』
  
  [時代・社会背景]
  
  一九九一年 平成三年(満六十三歳)
  三月二十四日、静脈瘤悪化、胸水・腹水貯留で危篤となり三井記念病院に緊急入院する。腹・胸水を七千cc抜く。腫瘍がリンパ腺へ転移し、胸部にまで発見される。《余命一ヶ月》と医師に診断され、四月に遺言書を作成する(1)。同月六日、「島うた特集」(「エクスクァイア」内の特集)取材のため、沖縄に向かう。那覇で食道静脈瘤破綻、コザ市(沖縄市の旧名)で応急処置を受けて、一週間の後(四月十七日)に帰京。インタビュー形式で仕事を続行する。五月初頭から意識の混濁のため、仕事が出来なくなる。病院内で「たま」の曲、琉歌を聴いたまま眠り続ける。竹中労、五月十九日午後九時五十八分、三井記念病院十五階特別室で肝臓癌のため、永眠。二十一日、葬式にて(?)「自由連合」と白抜いた黒旗に棺桶を被われる。葬式はカンパで行なわれた。小林永司が作った戒名では《英生院法勇文徳信士》とある(2)。《通夜はごくごく内輪の編集者やジャーナリスト仲間二〜三十人程度で、当時竹中氏が仮住まいとしていた文京区音羽のマンションの一室で執り行われた。竹中氏のたぐい稀な才能と壮絶な生きざまに対する哀悼の意を示そうという面々による哀別の儀式だった。途中、疲れて隣室に引き上げて仮眠をとっていた女優の樹木希林の凄まじいイビキが聴こえてきた時、静かに酒を酌み交わして故人を偲んでいた面々が、ふと笑いに包まれた》(3)。撒骨は大村茂が沖縄の海へ。遺族の意向により、甲府のつつじが崎霊園に墓がつくられた。
  
  [この年出した本]
  『無頼の墓碑銘 せめて自らにだけは、恥じなく瞑りたい』(九一年八月五日刊 KKベストセラーズ 定価一八〇〇円)
   
  [参考文献]
  (1)『無頼の墓碑銘』
  (2)「話の特集」九一年八月号
  (3)『武器としてのスキャンダル』〇四年刊 ちくま文庫 著・岡留安則
   竹中労 全著作
  『百怪、我ガ腸ニ入ル』内「竹中英太郎画譜」()
  『スキャンダル紅白歌合戦』内「略歴・全仕事」(七九年一月十日初版発行 みき書房 著・竹中労)
  「竹中英太郎伝」(「月刊社会民主」〇二年七月〜〇四年二月まで連載 著・備中臣道)
  『竹中労行動論集 無頼と荊蒄』(七三年 三笠書房)内「我が青春残侠伝」
  『逆桃源行』(七四年 山と渓谷社)内「放浪事始・序にかえて


UP:20070326
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