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社会的連帯‐再考
――他者の存在の〈保障〉と〈承認〉をめぐる/のための試論――

安部彰 200703 『現代社会学理論研究』(日本社会学理論学会)第1号: 70-83

last update: 20151224

*以下、あくまで「草稿」です。

 本稿では、リチャード・ローティの連帯論の吟味と解釈をつうじて、次の二点を明らかにする。(1)それが社会的連帯の目的と理由を説得的に示す議論であること。(2)〈現在〉の社会的連帯論にたいするローティの懐疑の妥当性について。
 まず、ローティが社会的連帯の目的とする「残酷さの回避」は〈人々の存在/あることの保障〉という我々の共約的な価値に叶っている点で、またその理由とされる「他者の受苦への共感」は、我々の経験的な事実に根ざしたものである点で説得力をもつ。だがこれには、それによって実現される生の保障は低い水準に止まるという批判がある。しかしその批判には、我々がふだん「残酷さ」という言葉/概念によって指し示している事柄/事態は広いがゆえに、他者の「自由」までをもその射程に含む可能性をもつ、と応じうる。
 他方で、ローティにおいてかかる懐疑は「人称的な連帯」への志向というかたちをとるが、我々はその妥当性についての判断を留保する。たしかに〈身近な〉他者を起点とする「人称的な連帯」では「残酷さの回避」は十全に達成されえない。だが〈身近な〉他者の解釈しだいで、また社会的連帯論において相互性を与件としないのであれば、そう結論するにはまだ議論の余地がある。またローティは、社会的連帯論をア・プリオリな真理/原理に基づけようとする「基礎づけ主義」を拒絶する。だが基礎づけの有無よりも、「残酷さの回避」という課題を同じくする多様な語り/信の効果と作用を比較評価し続けることの方がむしろ肝要だといえる。

キーワード:社会的連帯、コミュニティ、リチャード・ローティ

1.はじめに
 今日みられるコミュニティにたいする高い関心は、モダニティの不安定な条件下―経済/文化のグローバル化―において解体された、我々の「帰属belonging」への希求が醸成されつつあることの表現である(Delanty 2003=2006)―かかるジェラード・デランティの顰に倣えば、昨今の社会的連帯論の再燃もまた同じ条件によってもたらされた反応であるといってよい(1)。すなわちそれは、グローバル化を同じくその背景とした「制度としての福祉/福祉国家」の縮小と、その裏面としての「社会統合」―国家的/地域的な包摂と排除―の進行にたいする「反応」あるいは「抵抗」として現在現象しつつある、と。ところで、そのような状況論と関係しつつも―いや、それとは別に―我々には社会的連帯論に注目する理由があるといわなければならない。というのも、それは現代の人々のかかる「希求」それ自体を支え、可能とする条件のみならず、我々が〈存在する/あること〉といった基底的な条件の探求をその主題とするものだからである。つまり我々の生/自由にかかわる「財goods」の(再)分配のあり方を、理論的―根源的―に追究する思考、それこそが「社会的連帯論」と今日呼ばれるものにほかならない(2)。
 本稿では、以上の消息に鑑みて、リチャード・ローティの連帯論に注目し、検討する(3)。しかしもちろん社会的連帯論は他にもあり、そのそれぞれが独自の意義と吟味に値する論点をもっている。にもかかわらず本稿が殊更にローティを取りあげるのは、以下に明らかになるように、大きく二つの理由からである。すなわち第一に、それが我々に社会的連帯の目的と理由を説得的に示す、有力な議論であると思われる点。社会的連帯論は〈他者の存在/あることの承認〉をときに強制をともないつつ求める。よって人々がその理論にもとづいた制度を支持し、(再)分配に応じるためにも、かかる点は重要であるといわなければならない。そして第二には、〈現在〉の社会的連帯論にたいする懐疑がそこにはあるからである。ローティにおいてその懐疑は〈「人称的な連帯」への志向〉というかたちをとるが、我々はそれが果たして妥当なものか、社会的連帯論における新たな視座の提起たりえているか、吟味してみたいのである。以上をはじめとしたローティの連帯論が内包する論点のさらなる展開可能性を展望することも本稿の目的となる。

2.社会的連帯論の〈現在〉と〈課題〉
 ローティの連帯論の紹介と吟味に向かう前にまず、社会的連帯論の〈現在〉について簡単に―本稿の議論に必要な範囲で―押さえておこう。それをつうじてまた、かかる〈現在〉におけるローティの連帯論の位置も同時に定めておこう。

(1)社会的連帯とは何か
 まずは〈社会的連帯とは何か〉について、定めおく必要がある。「社会的連帯」という概念は、文字どおり、「社会的」という形容詞と「連帯」という動詞との合成によりなっているが、このことはしかしここで「社会的」といわれるものがまた限定詞でもあることを意味している。そもそも「連帯solidarity」とは「二人以上の人が協力して事に当たること」の謂である。つまり「連帯」とは作用にほかならず、その点において価値的には無記である。しかしそれに「社会的」という形容/限定が付されることで「連帯」はひとつの価値、あるいは理念を志向した概念となる。どういうことか。
 まず「社会的」とは、字義どおりにとれば、「社会規模での」ということである。だが、そもそもここで「社会」とはいったい何を指すのか。我々の〈現在〉の文脈、つまり歴史的な文脈では、さしあたりそれは「国家」のこととされてきた。社会的連帯は「1870年代以降のヨーロッパにおいて徐々に社会保険として制度化され、……第二次世界大戦を挟む時期に、構成員の生活保障を普遍的に実現しようとする福祉国家ないしは社会国家として確立されるようになった」(齋藤 2004: 1)のである。つまり〈社会的な規模での連帯〉とは、すなわち「福祉国家」体制のことにほかならない。しかるに他方で―いや、そのこととも密接に関係して―、そもそも「社会的」という形容詞/限定詞それじたいが、ひとつの価値あるいは理念を体現する概念であることを、我々はあわせて指摘しておかねばならない。市野川容孝が「社会的social、sozial」なる概念の歴史的/思想史的な系譜と変遷を検討しつつ正当に指摘するように、「社会的」には〈生の平等〉という価値/理念が包摂されてきたのである(市野川 2006)。
 以上から、我々は「社会的連帯」という概念を〈人々の平等な生を保障するために、社会/国家の成員が協力すること〉と理解しておく。以下にみるように、ローティの連帯論は〈人々の平等な生の保障〉を目指す点では社会的連帯論にほかならない。すなわち、市野川が指摘するような意味での「社会的」という価値/理念を共有する点において〈現在〉の社会的連帯論に帰属する。だがそれは、その価値/理念の実現の仕方をめぐっては違和の念を表明していると解釈できる。ともあれこの点については後に触れることとし、続いては〈我々は何のために連帯する必要があるのか〉、そして〈我々は何ゆえ連帯する必要があるのか〉といった、連帯の「目的」と「理由」についてみておこう。いうまでもなく、この点をめぐっても各論があるが、そのひとつひとつを個別に比較検討する紙幅が残念ながら我々にはない。よってここでは、かかる各論の論点を適切に焦点化している齋藤純一(2004)の整理・議論に従いながら―ときにそれを修正/拡張しつつ―その〈現在〉の把握に努める。

(2)社会的連帯の目的
〈我々は何のために連帯する必要があるのか〉。その解はじつは、ここまでの議論において、すでに与えられている。すなわち「人々の平等な生の保障」がそれであるが、ここではこの点を再度確認しつつ、その「目的」の内実をより詳細に定めておこう。
 齋藤によれば、社会的連帯は「強制的な資源の移転」、「(再)分配」を要請するものであるがゆえに「人びとがそれぞれ異なった仕方で追求する何らかの特定の価値を実現するために、そうした公共的な資源を用いること」、つまり「非共約的な価値」をその内容とすることはできない。したがって、それが実現しようとする生の保障は「共約的な価値」、すなわち「人びとがそれぞれどのような「善についての構想」を追求しようとするのであれ、誰もが必要とする(ないしはより多くを欲する)価値」をその内容としなければならない(齋藤 2004: 281)(4)。
 では、その共約的な価値とは何か。これにも各論がある。たとえば、齋藤が挙げる他にもいくつか候補が考えられるだろう(5)。この共約的な価値をめぐる多様な視点にかんして、齋藤自身はその比較検討を避け、「それらがいずれも、人の生に関わる価値を非共約的なものと共約的なものとの二つの次元に分節化し、公共的な資源の再分配が正当化されるのは、共約的であると定義された価値を実現するためだけであると見ていることを確認できれば十分である」(齋藤 2004: 282)と述べるにとどめ、その定義/内実は、政治的な自由のもとでの公共的な論議をつうじて暫定的に決まってくるだろうとする。しかしながら我々としてはさらに一歩踏みこんで、かかる「共約的な価値」の内実を次のように定めておきたい。そもそも〈共約的な価値とは何か〉をめぐって視点が分化するのは畢竟、〈生の保障がどの程度までなされるべきか〉にかかわってのことである。つまり〈我々がなすべき生の保障のレヴェルをどこに設定するか〉をめぐって見解が異なっているだけであり、人々の「生」、すなわちその〈存在/あること〉を保障しなければならないという価値を共有している点では同じである。とすれば、〈人々の存在/あることの保障〉を「共約的な価値」と、すなわち「社会的連帯の目的」としてよいはずである。

(3)社会的連帯の理由
 さて、我々は〈人々の存在/あることの保障〉のために連帯するとして、次に問われるべきは〈我々は何ゆえ連帯する必要があるのか〉である。これについて齋藤は、我々が「社会的連帯を形成し、維持しようとする理由とは何か」、「互いの生を保障し合うために、一定の資源が他者に移転されることを自ら承認する理由とは何か」と問いつつ(齋藤 2004: 286)、その理由を四点―@「生のリスク」A「生の偶然性」B「生の受苦への感応」C「生の複数性」―挙げている(齋藤 2004: 287-298)。
 もとより齋藤も述べるように、社会的連帯の理由は以上の四点に尽くされるものではないだろう。またそれらは分析的には峻別可能であるが、現実には―我々がじっさいに社会的連帯を支持する動機としては―複雑に絡み合ってもいるであろう。しかしながら、この点には立ちいらず、ここではローティにおいては連帯の理由が「生の受苦への感応」に求められていることを指摘しておくにとどめる。ローティが提起する、その「理由」の内実については次章にて詳述する。

(4)社会的連帯の二つの形式―「非人称の連帯」と「人称的な連帯」
 社会的連帯論の〈現在〉の押さえとして最後に、「社会的連帯の二つの形式」についてみておこう。ここで「二つの形式」と呼ばれるものは、すなわち「非人称の連帯」と「人称的な連帯」のことにほかならない。ここまで我々は、社会的連帯を、社会/国家による資源の強制的な徴収と(再)分配をおこなう形態―「非人称の連帯」―として理解してきた。しかし齋藤も認めるように、社会的連帯にはそもそも「互いの生を保障するために人びとが形成する人称もしくは非人称の連帯」(齋藤 2004: 1)の二つの形式がある。
 齋藤によれば、「非人称の連帯」とは、見知らぬ人々のあいだに成立する、強制的な連帯のことである。そこでは、見知らぬ者たちが保険料や税金の強制的な拠出をつうじて互いに生のリスクを支えあう。すなわち、社会保険という制度を媒介に結果として成立するもの、それが「非人称の連帯」である。こうした連帯の具体的な形象としては福祉国家を想起すればよい(6)。他方で、「人称的な連帯」とは、特定の人々のあいだで自発的なネットワークとして形成されるものである。多くの場合、それは既知のメンバーのあいだでの相互的な生の保障、すなわち人称的な関係性にもとづいて形成される連帯である(齋藤 2004: 275-276)。
 ところで、これら二つを比較したとき、「非人称の連帯」は安定性という特長を有している。すなわち「人称的な連帯」が特定の人々のあいだでのネットワークという形態をとるがゆえに、その生の保障が社会の全域には及ばないのにたいし―この論点については第4章(2)にて検討する―、「非人称の連帯」は社会保険という制度的な形態をとるため、構成メンバーの生の保障をあまねく可能とするという点において安定している。またそれは制度によって媒介されているがゆえに、保障される側と保障する側の関係が相対的に不可視化され、そのことによって相互のあいだに「依存」と「犠牲」といった否定的な感情が生じるのを抑制しうる点でも優位性をもっている。これにたいして「人称的な連帯」―正確には、かかる連帯形式への志向―も、それが社会的連帯論であるからには、〈人々の存在/あることの保障〉を「非人称の連帯」とともに第一義的な課題とする。しかしながらそれは他方で、たとえば次のような言葉/事態を厳粛に受けとめる。

〔福祉制度、つまり「非人称の連帯」によって〕わたしの住まいの戸口の見知らぬ人びとは、たしかに福祉を受ける権利を有している。しかし、こうした権利を管轄する役人からはたしてかれらが相応の尊敬と思いやりを受けているかどうかは、まったく別問題なのだ(Ignatieff 1984=1999: 21、強調と〔 〕による補足はともに引用者)。

 すなわち「人称的な連帯(への志向)」は、イグナティエフがここでいう「別の問題」の前で立ちどまってしまう。それは〈承認〉―尊敬、思いやり―という契機を看過することができないと感じる。あるいは天田城介がイグナティエフを引きつつ指摘するように、「語られ‐聞き届けられる」ことこそを求めるニーズ―友愛、愛情、帰属感、尊厳、尊敬―が、「未知なる/非人称の連帯」によって「基本財の分配」がなされることを条件とすることを承知しつつも(天田 2004: 298-299)、にもかかわらず(再)分配とは異なる位相にある〈承認〉という契機にこだわってしまう。というのも〈承認〉の本質―すなわち、その問題/困難―とは、ほかならぬ〈この私〉が〈あなた〉を承認し、また承認されたいという契機、そして〈あなた〉がほかならぬ〈この私〉に承認され、また承認したいという契機にこそあるとそれは考えるから(7)。 かかる「別の問題」は、〈現在〉の社会的連帯論が抱える〈課題〉のひとつと数えられてよいだろう。
 すでに触れたように、そして以下にみるように、ローティの連帯論は「人称的な連帯」のこうした志向と親和性をもっている。だが、その「非人称の連帯」にたいする批判が妥当性をもちえるのは、生の保障においてその優位性―すくなくとも同程度の安定性―を示しうるか、あるいは批判する当の相手が満たしえてないとする〈承認〉の困難を補完できる場合に限るだろう。果たしてローティの懐疑は、かかる点をクリアできているであろうか。あらかじめいっておけば、我々はこの問いに十全な答えを与えることができない。本稿では「人称的な連帯」の(不)可能性をわずかに展望するにとどまる。

3.ローティの連帯論
 それでは、以上の社会的連帯論の〈現在〉と〈課題〉を背景としつつ、ローティの連帯論の内実をみていくこととしよう。ここでは、ローティにおける連帯の目的と理由、そしてそれが「経験-個別主義」とでも称されるべき特徴をもつことが示されるだろう。

(1)連帯の目的と理由
 まず、ローティにおいて連帯の「目的」は何か。ローティはその独自のリベラリズムの立場から、「リベラル」を「残酷であることが我々のなす最悪の事柄だと考える人々」(Rorty 1989: ID)と定義しつつ、自らが構想するリベラル・ユートピアの目標を「残酷さの回避avoiding cruelty」として定める。

私が構想するユートピアでは、人間の連帯は「偏見」を拭い去ることや、これまで隠されていた深淵に沈潜することによって認識されるべき事実ではなく、むしろ達成されるべき、ひとつの目標とみなされる。かかる目標は、探求ではなく想像によって、すなわち見知らぬ人々を苦しみに曝された仲間とみなす想像力によって達成されるべきである。連帯は反省によって発見されるのではなく、創造されるのである。かかる連帯の創造は、遠くの他者の苦痛や屈辱の個々の細部にまで我々の感受性を拡張することによってなされる(Rorty 1989: IE)。

そのうえで上の引用に明らかなように、「生の受苦への感応」を連帯の「理由」として指定する。すなわち我々の多くがつねに/すでに他者の受苦に共感してしまっているという〈事実〉についての認識をその根拠とする(8)。しかしながら第一に、ローティにおいて、この「他者の受苦への共感」は「人間本性human nature」に起因する、ア・プリオリな原理ではない。「非‐歴史的な真理ahistorical truth」が実在するという形而上学的な見解を斥け、実践―「行為者の観点の至高性supremacy of the agent point of view」―を旨とするプラグマティスト=ローティは、当然そのような〈普遍主義〉の立場をとらない(Rorty 1999)(9)。そうではなく、現時点においてさしあたり有用であるように思われる道具/手段を用いた行為をつうじて、その目的の実現を目指す。つまり我々の課題は、いかに想像力を駆使して「他者の受苦への共感」という〈事実〉を拡張し―「連帯は創造される」―、「残酷さの回避」という目的を達成するかにあるのであり、かかる〈事実〉の合理論的な「基礎づけ(正当化)」は必要でも有用でもない―「連帯は反省によって発見されるものではない」―とされる(10)。また第二に、かかる基礎づけえない〈事実〉に裏打ちされた「残酷さの回避」という「目的」は同時にまた、ローティ=リベラルにとっての究極的な信でもある。それは、その信の根拠をもはやトートロジカルにしか言明しえない「終極の語彙final vocabulary」にほかならない(11)。

(2)経験-個別主義
 さて、このように「残酷さの回避」という「目的」の実現を目指すローティは、そのための実践的な契機/手段を、〈身近な〉他者への共感に求めることになる。より詳しくいいなおせば、「心を揺さぶる物語sentimental story」を用いることをつうじてなされる「感情教育sentimental education」の意義を強調しつつ、〈身近な〉他者にたいする我々の共感能力に方法的/道具的に注目する。他者への倫理的義務への問い―「どうして私は親戚でもない、不愉快な習慣をもつ、見知らぬ他人のことを心配しなければならないのか」―にたいする伝統的な答え方―同じ種の一員であるという認識から生じる義務の強調―の有効性を否定するローティは、より妥当な答え方として〈身近な〉他者を引き合いに出して、その問いに応じること―「彼女はあなたの義理の娘になる可能性もあるのだから」、「彼女の母親が彼女のために嘆き悲しむだろうから」といった物語を語ること―を推奨するのである(Rorty 1993: 133)。
 以上のようなローティの立場を、我々は「経験-個別主義」と名づけることができるだろう。すなわち、それが「我々は多くの場合、つねに/すでに他者の受苦を感受してしまっている」、「我々は〈身近な〉他者に共感しやすい」といった我々の〈事実〉に訴えつつ、その〈事実〉とも折り重なるかたちで具体的な他者との関係の「個別性」を強調するものである点において(12)。あるいは約めていえば、ローティの懐疑は他方で、それが他者との経験的な距離(感)を捨象することにたいして向けられたものにほかならない、という点で。「経験-個別主義」は、このように他者との「距離(感)」と切り離しえない〈承認〉という契機に留意する点において、「人称的な連帯」とその志向をともにするのである。

4.ローティ連帯論の吟味
 さて、以上にみたローティの連帯論のきわだった特徴/論点としては、以下の点が挙げられるだろう。すなわち、(1)「残酷さの回避」「他者の受苦への共感」として定位された連帯の目的と理由。(2)その〈現在〉の社会的連帯論への懐疑から導出される〈距離〉の問題。(3)その思想/認識論的立場―プラグマティズム―から導かれる〈普遍主義への懐疑〉の一側面をなす〈基礎づけ主義の拒絶〉。本章では、そのそれぞれの可能性と限界を吟味してみたい。

(1)残酷さの回避
 まず、ローティがその連帯の目的として掲げる「残酷さの回避」から。我々は最初に、この「残酷さの回避」が〈人々の存在/あることの保障〉と同義であること、つまり我々の基底的/共約的な価値であること、すなわちローティの連帯論が社会的連帯論にほかならないことを確認しておかねばならない。「残酷さ」の根源的/先鋭的な形態は、いうまでもなく対象―他者―の存在の消滅にかかわるものである。とすれば、「残酷さの回避」とはまずもって〈他者の存在/あること〉を承認することにほかならない。〈他者の個別性を尊重する〉という意味での〈承認〉に比して、それに先立つ―〈承認〉の可能性の条件でもある―かかる〈根源的な承認〉を、以下では《承認》と呼びなおしておこう。
 しかしながら、その「残酷さの回避」のために「他者の受苦への共感」を理由とする連帯は、原状回復的なものに止まる点で、その生の保障はきわめて低い水準に止まらざるをえないといわれるかもしれない(13)。これにたいしてはまず、他者の「自由」はおろか《承認》さえ、まだまだ十分に達成されてないという我々の社会の現実を引き合いに出して、その意義を強調するという応じ方がある。しかしここではさらに、「残酷さ」という言葉/概念の無規定性をもって、それに応じておきたい。たしかに「残酷さの回避」とは、第一義的には、他者を《承認》することである。しかしながら「他者への受苦への共感」の範囲、すなわち「残酷さ」という言葉/概念によって、我々がふだん指し示している事柄/事態はことのほか広い。それは《承認》にとどまらず、他者の「自由」までをもその射程に含む、すくなくともそうした可能性をもつ。つまり、損なわれたものを回復するに止まらない可能性をもつ(14)。とするならば、「残酷さの回避」は、社会的連帯の「目的」たりえる内実を十分備えているといってよいはずだ、と。

(2)距離
 社会的連帯の「目的」を達成するために、プラグマティスト=ローティが提示する手段は果たして有効か。続いては、そうした観点から、まず〈距離〉の問題を取りあげる(15)。はじめに我々は、この問題がローティの連帯論―「経験-個別主義」―の中核的な論点であることをまず強調しておこう。すでに触れたように、これこそが〈現在〉の連帯論への主要な懐疑/批判点―その反転としての「人称的な連帯」への志向―をなしているからである。そこでまず我々は、かかる〈距離〉の問題がいかなる問題であったかを再度確認しておこう。すなわちそれは「非人称」にもとづく連帯論が他者との経験的な距離(感)を捨象することにかかわる。そうした捨象にたいして「経験-個別主義」の立場から、〈身近な〉他者を起点とした連帯を志向する点にあるのだった。
 ところで〈距離〉の問題は、古今そして洋の東西を問わず、倫理/学のアポリアのひとつである。それは分析的には大きく〈A:自他の非対称性の問題〉と〈B:私に現われる他者の非対称性の問題〉に分節できるが、いま我々の文脈において問題となっているのは〈B〉である。この〈B〉に関連した道徳的問題を仮設した議論は、倫理学においてもすくなくないが、そこにおける問題設定じたいはほぼ大差ないとみてよい。よってここでは任意にひとつの例を引くにとどめる。バーナード・ウィリアムズによって提出された問い、および彼自身によるその応答を―小泉義之による要をえたパラフレーズを借りて―参照することとしよう。まず、その問いとはすなわちこうである。

救助隊員のあなたが、沈没事故の連絡を受けて現場に急行したとしよう。ところが、救助隊員のあなたが乗っている船には一人分の余裕しかないのに、現場では二人の人間が溺れていたとしよう。さらには、溺れている一人はあなたの恋人であり、もう一人は見ず知らずの他人であったとしよう。このとき、あなたはどのように選択するのが正しいだろうか(小泉1996: 23)。

 この問いにたいしてウィリアムズは次のように答える。

あなたは躊躇なく恋人を助けるべきである。他の一人を差し置いて恋人を選択することについて、それを正当化するための根拠は必要ない。というのは、あなたにとって恋人の価値は、あなたの良い人生の基本的価値であるし、あなたの道徳的人格の基本的構成部分をなしているからである。そして、あなたの良い生活を、誰でも救出すべきだという普遍的道徳によって押し潰すことは不当だからである」(小泉1996: 23-24)。

 こうした極限事例が果たして現実にそうあるものかを、まずは疑ってよいともいえるが、それは措こう。むしろ指摘しておかねばならないのは、ここで提起されているのがじつは〈距離〉の問題ではないということである。というのも、このケースでは「恋人」も「見ず知らずの他人」も同様に生存の危機に曝されているからである。このような生死にかかわる事態にかんして〈遠近〉という観点を持ち出して判断することじたい、小泉がいみじくも指摘するように、道徳的に誤っているのではなかろうか(16)。すくなくとも〈他者の存在/あることの保障〉を第一義的な目的として掲げる社会的連帯論の文脈からはそのようにいえるし、またいうべきである。
 しかしながら、このウィリアムズの設定は、そもそも「〈身近さ〉とは何か」という視点を我々に与えてくれる点では有益である。〈身近さ〉がむしろ他者との「対面性」にかかわる事柄なのではないかということを、それが示唆してくれるからである。たしかに一般に〈身近さ〉とは、そのように感じられる他者の属性にかかわるものであろう。じっさい典型的には、ローティが想定しているように、血縁/地縁、友人/恋人などを指すだろう。しかしながら〈身近さ〉という事柄が、そのようなものだけに尽きないことは、ほかならぬ我々自身がよく知るところでもある。我々は必ずしもそうした観点だけにもとづいて他者の〈遠近〉を判断しているわけではない。たとえば、その置かれている状況や関心を共有する他者を、〈身近な〉存在として感受することが往々にしてあるように。かくして〈身近さ〉とは、一意的に決定しえない事柄である。我々はかかる広がりをもった〈身近さ〉を、ここで《身近さ》と呼びかえておこう。
 ともあれ、いまは〈身近な〉他者を起点とした連帯を志向する「経験-個別主義」の立場から、「残酷さの回避」がいかに達成されうるか考えてみよう。〈他者の存在/あることの保障〉という点において、「非人称の連帯」にたいするその優位性―すくなくとも同程度の安定性―を果たしてそれは示しうるだろうか。
 直感的な結論からいえば、難しいように思われる。「経験-個別主義」は、相互に〈身近〉と感じられる他者からなる個別的なネットワークで社会をすみずみまで埋め尽くすことによって普遍的な連帯の達成を目指す。またそれは〈身近な他者〉の範囲を漸進的に拡張することをつうじて、かかる目的の達成を補完しようとする。このとき、自発的に連帯が形成されていくという点で〈承認〉の問題も―相対的には―クリアされることだろう。ところで、かかる「人称的な連帯」の難点は《承認》―〈他者の存在/あることの保障〉―が社会の全域に及ばないことであった。批判者は、そのようなネットワークから外れる者―誰からも〈身近〉と感じられず、また誰をも〈身近〉と感じない者―が必ず出てくるはずだという。この指摘じたいはおそらく、いや事実そのとおりだろう。
 しかし我々がそのように結論するのは一定の留保のもとに、である。というのも第一に、先にも触れたように〈身近さ〉を《身近さ》と解釈するのであれば、ネットワークの拡張はもうすこし先までいける。つまり、その属性にかかわらず、状況や関心を同じくしていることや、困窮に苦しむ者や困難に遭遇している者と対面的な関係に置かれていることが、私に《身近な》存在として彼/彼女が現われていることであると考えるのであれば。そのさい、直接的な対面関係にあることを必ずしも与件としなくともよい。たとえば、電子メディアを介しての間接的な対面もそこに含むことができるはずだ(17)。
 また第二に、「人称的な連帯」に限界があるとされるのは、そう主張する立場が「相互性reciprocity」を与件としているからである。したがって、そのような〈相互性という名の自己利益〉を出発点としないのであれば、すくなくともそれを社会的連帯論における不動の前提―アルキメデスの点―として置かないならば、現実には験されることはないだろう試みについて展望してみることが可能となる。その試みとは、たとえば「贈与」という形態をとった次のようなものとなる。Bを《身近に》感じるAから贈与を受けたBは、彼/彼女にとって《身近な》存在として現われているCに贈与し、Cはそれを《身近な》他者であるDに贈与する…といった非対称的な贈与がそれである。ただしこれとて、その実現可能性feasibilityという限界とは別に、規範的な限界は設定されよう。贈与は送る側の生存が脅かされない範囲で、また贈与は自発的にそれが差し向かう範囲で、とのような。
 ともあれこのように考えたとき、〈私〉から同心円的に進んでいっても、連帯はさらに先までいける。つまり、別の〈私〉がいればよい。言い換えれば、いまは〈遠く〉に感じられるあなたの〈承認〉は〈この私〉によって必ずしもなされる必要はなく、現在あなたを《身近に》感じている誰かによってなされればよい。それでもたしかに、あなたが〈この私〉に〈承認〉して欲しいという契機は残るかもしれない。しかしすくなくとも〈私〉はあなたに〈承認〉されなくても大丈夫だと思うことはできるはずだし、現にあなたが〈承認〉―それ以上に《承認》―されていることが何よりも大切なことと考える〈私〉は、それを与えるのが必ずしも〈この私〉でなくともよいと思えるはずである(18)。かくして我々は、以上の二つの観点からローティの懐疑の妥当性―「人称的な連帯」の(不)可能性―を吟味/展望してきたが、もとよりそれらをもって議論が尽されたとは到底いえない。

(3)基礎づけ主義の拒絶
 最後に我々は、ローティの〈普遍主義〉への懐疑から導かれる論点、すなわちその〈基礎づけ主義の拒絶〉について考えてみたい。第3章(1)で触れたようにローティは、我々の生や信の絶対的な基盤であるア・プリオリな真理/原理の実在の「発見」を第一義とするような「基礎づけ主義foundationalism」を斥け、代わりにその実践をつうじて我々が「真なるもの」―「強制なき合意unforced agreement」―を不断に(再)創造していくことを推奨する(19)。彼のこうした主張を、ここでの文脈に置き換えれば、それは次のようなものとなるだろう。すなわち、我々は「他者の受苦への共感」という〈事実〉の想像力を駆使した拡張をつうじて「残酷さの回避」の達成を目指すべきだが、そのさい、かかる〈事実〉や目的の「基礎づけ(正当化)」は必要ないし、それは有用でさえない、との主張に。我々はローティのこのような主張にたいして、いかなる態度をとるべきだろうか。
 ここでも結論からいえば、我々はローティのかかる見解に与しない。正確には、ローティとその批判の意図は共有しつつも、基礎づけへの志向をもったメタファーは、そうした志向性だけを事由に降ろされるべき梯子である、と断ずることには賛同しない。たしかにローティが基礎づけ主義を拒絶するのは、絶対的な真理なるものへの希求が、人々が「真なるもの」を共同で創造していくことの躓きの石となるのを危惧するがゆえである。我々の考えや信とは無関係に成立しているとされる、そもそも存在するかどうか不確かなものを追求するよりも、具体/現実的な他者との連帯を志向するこうした態度を、我々も彼と共有したいと思う。しかしローティ自身の思想に即すならば、すなわちプラグマティズムの立場を貫くならば、むしろ「残酷さの回避」という帰結をもたらしうる「語り」、あるいは「メタファーmetaphor」の出来/不出来こそが(20)、社会的連帯論における焦点となるのではないだろうか。つまり、基礎づけへの志向をもったものをも含めた多様な語り/メタファーが「残酷さの回避」という課題の達成にかんして秘める可能性を、我々はすくなくとも慌てて手放す必要はないし、また手放すべきでもないのではないか。
 すなわち現在、我々のまわりには、かかる可能性を秘した多様な語り/メタファーが存在するが、そうしたもののひとつにレヴィナスの倫理学を数えることができる(21)。たしかにレヴィナスは、〈「顔visage」こそ倫理の源泉にほかならない〉と主張して、倫理を「顔」によって基礎づけようとする。また彼においてその「顔」―他者―は「神」のアナロジーにほかならず、それゆえ〈この私〉と同じ/対称的な存在者にみえる〈あなた〉にたいして、ときに「身代わり」さえも要請されるような無限責任を果たして〈この私〉はもつのだろうかという疑念を、ほかならぬ〈この私〉に生じさせるものではある(22)。しかしそのような疑念も、いま〈この私〉がたまたま抱いている―抱かされている―信や価値に発しているにすぎず、別様なるそれが〈私〉に訪れるかもしれない。すくなくともそうした可能性があり、また「顔」のような〈不可能なるもの〉が〈事実〉として感受される―現にされてもいる―可能性がある以上、我々はそれが基礎づけ主義的であるとの理由だけで棄却する立場を取るべきではないだろう。かくして我々は、次のようにいわなければならない。社会的連帯論における賭金は畢竟、ローティがいうような基礎づけ志向の有無ではない。そうではなく、むしろ多様な語り/メタファーの効果と作用を、「残酷さの回避」という課題/信―ローティにおいてもそれは「終極の語彙」、すなわち「信」にほかならないのだった―に即して比較評価し続けることこそが賭金となるはずだ、と。

5.むすびにかえて
 まず我々は、以上で吟味してきたローティの連帯論とその展開可能性について次のように結論しておこう。第一に、ローティの掲げる社会的連帯論の「目的」と「理由」―「残酷さの回避」と「他者の受苦への共感」―には、我々がそれを受容しうる十分な論拠がある。また第二に、その「人称的な連帯」論も、〈身近な〉他者の解釈しだいで、また「相互性」を社会的連帯論の与件としないのであれば、〈承認〉のみならず、《承認》の問題をも克服する可能性を有している。さらに第三に、我々にとっては「基礎づけの有無」といった語り方の差異に拘泥するよりも、その語りの多様性をむしろ歓迎し、「残酷さの回避」という同じ課題/信の実現に向けて「連帯」していく―新たなメタファーを創出する、あるいはすでにあるものを鍛え上げていく―ことの方が必要でも有用でもあるのだ、と。
 しかしながら本稿は、上の二点目、すなわち「人称的な連帯」の(不)可能性に決定的にかかわる「距離」の問題については、いまだ予備的な考察の域を出るものではない。「人称的な連帯」の安定性と実現可能性にかんする、同じことだが、それが「非人称の連帯」に代わりうる、あるいはそれを補完する「別の仕方」での社会的連帯論たりうるかについての吟味は不十分なものにとどまっている。ついては今後も論究を継続していくことになるが、そのさい「経験-個別主義」に帰属しうる「ケアの倫理ethics of care」の議論も視野にいれていくことになるだろう。自他の非対称性、そして他者のあいだの遠近法的関係―その私への現われの非対称性―を根幹としつつ、〈身近な〉他者を起点とした―〈人称性〉にもとづいた―他者への「配慮care」を説くその議論は、本稿が未決のまま残さざるをえなかったのと同じ《承認》の不安定さと〈承認〉という問題/困難を抱えている。だからそれもあわせて検討するなかで、かかる問題/困難から脱却する道筋を、我々はさらに探求していかねばならない。


[注]
(1) 近年のコミュニティにたいする我々の高い関心を反映したコミュニティ論の再燃はまた、「社会学の社会理論への転回」として出来している。デランティの著作の章立ては、そのような転回をパフォーマティヴに示したものであるといってよい(山之内 2006)。
(2) good(s)は、「善」とも訳されるが、本稿では「財」と表記する。というのも、我々の生にとって「善きもの」こそ「財」にほかならないからである。
(3) ローティからの引用は拙訳を用いた。また本稿では、ローティの連帯論を「社会的連帯論」と表記しない。それは偏にローティが自らの所論を社会的連帯論と呼んでいないという事情による。ただし本稿をつうじて明らかになるように、その主張の内実はまさしく社会的連帯論にほかならない。
(4) かかる価値とは、別様にいいなおせば、「どのような生を生きるのであれ、誰もが達成しえてしかるべき、それゆえ誰からも剥奪されるべきではない一群の価値」(齋藤 2004: 282)でもある。
(5) 齋藤が挙げているのは、ジョン・ロールズの「社会的基本財social primary goods」、ロナルド・ドゥオーキンの「資源resource」、アマルティア・センの「基本的な潜在能力basic capability」、井上達夫の「公共的価値」である。
(6) 「ヨーロッパでは19世紀最後の四半世紀以降、国民国家をユニットとする社会保険の制度が徐々に形成されてきたが、それは、強制的な社会的連帯の典型的なかたちを示している」(齋藤 2004: 275-276)。
(7) そもそも〈(再)分配/承認〉という二項対立それじたいが、すなわち「(再)分配と承認のジレンマ」(ナンシー・フレイザー)という問題設定こそが問題であるとする、アイリス・マリオン・ヤングの指摘は正当だろう(cf. 大川 1999)。しかしながら他方で、ここにみたような想いと逡巡が、〈私〉やあなたにやはり生じてしまうというのも、また事柄の反面であるだろう。
(8) 以下、〈事実〉と表記した場合には「経験的事実」を指す。また以下では、齋藤の用語である「生の受苦への感応」を「他者の受苦への共感」と表記する。そうすることによって、指し示されるところの内容が、より明確になると考えるからである。
(9) ローティの〈普遍主義〉にたいする態度、とりわけその〈普遍的人権〉にたいする見解についてはRorty(1993)および安部(2006)を参照せよ。
(10) したがって「他者の受苦への共感」は、我々が道徳法則に自律的に従ったことの結果でないのはむろんのこと、本来的にそのような欲求/衝動をもつからでもない。それは我々の多くは何の因果によってか、たまたまそのように感じるようになったという〈事実〉にほかならない(北田 2003)。
(11) 「なぜ、残酷であってはならないのか」という問いにたいする合理的な答えなどない。すなわち、「残酷が恐るべきものであるという信beliefを、循環論に陥らずに理論的に支えることは不可能である」(Rorty 1989: ID)。
(12) もちろん「両親や子どもを大切にするといった、些細で表面的な類似性」(Rorty 1993: 129)に目を向けよ、とローティが主張するとき、そこで彼は〈遠く〉の、見知らぬ他者との連帯―「かれら」を「私たちの一員」とみなすこと―を企図しているのであるが、そのためにも「個別性」に留目することがやはり有効であると考えていることには変わりない。ローティがわが国において最も注目されている文脈は、この「私たちwe」の強調と、それと密接に関連した「自文化中心主義ethnocentrism」をめぐる議論であるが、これについての私の解釈は別稿にて詳論を期したい。
(13) 齋藤は社会的連帯が達成すべき生の保障のレヴェルを五段階に分けたうえで、「生の受苦への感応」を理由とする連帯は第二のレヴェル―人々の生存は社会的に保障されるが、その水準はぎりぎりのものとなる―に止まる可能性があると指摘している(齋藤 2004: 299-301)。
(14) このように考えるならば、「残酷さとは何か」と問い、その外延をあえて画定することは、有用どころか必要でさえないといえなくもない。だがそれは、〈残酷さとは何か〉という問いじたいが無意義なものである、と述べることではない。立岩真也が指摘するように、かかる問いは依然、重要な問いとしてある。「人を害することはしてはならない、誰かが抑圧されているならそれはよくない。……実際、自由主義者も共同体主義者もそのように言う。何でも認めるのではなく、人を害さない限りで自由や伝統を認めるのだと言う。それは正解ではあるだろう。/しかし何が害することで、何がそうでないのか、それが問われているのだ」(立岩 2006: 264)。
(15) かかる観点からも当初は、「感情/共感の優位性」とでも称すべき論点も、ここであわせて吟味する予定であったが、今回は紙幅の関係上、割愛せざるをえなかった。詳論はまたの機会を俟つこととし、以下ごく簡単に触れておきたい。「残酷さの回避」という「目的」の達成を我々が目指すとき、「他者の受苦への共感」という〈事実〉が科学的な知見によって裏書されれば、かかる主張はより説得力をもつことだろう―ローティは必ずしもこのような理路に賛同しないだろうが。この点については、たとえば、進化論的倫理学などを援用しつつヒューム倫理学を検討した神野慧一郎(2002)や、「他者の受苦への共感」のもとになる「悲痛distress」という基本情動が、人間に生得的/普遍的なものとして備わっているとする情動科学の知見(Evans 2001=2005)が興味深い。しかしながら他方で、問題はそもそも理性/感情という二元論的な構図それじたいにあるともいえる。じっさい他者への共感に必要となる想像力は理性と関与的な能力/作用であり、そのいずれかに還元できるものはない。これについては、ほかならぬローティの思想においても、「残酷さの回避」の達成には「理性」という契機も重要な役目を果たすと解釈することが可能である(安部 2006)。
(16) 小泉の答えはこうである。「いつも不思議に思うのは、人間の生死は最も重要な問題であるはずなのに、最も算術的に処理しやすい問題となってしまうということである。二人を救助する方が一人を救助するよりも正しいということには、2が1より大きいということ以外には根拠はない。……私はむしろこう言いたい。救助隊員は躊躇なく二人を乗せるべきである。〈三人とも助かるか、それとも三人とも助からない〉のが〔道徳的には〕最善であると思うからだ。……生死に関してさえ、遠くより近くを優先して構わないとする〔ウィリアムズのような〕共同体論者 はどこか誤っているとしか言いようがない」(小泉 1996: 24-25、〔 〕による補足は引用者)。
(17) もちろんこのように断ずることは短絡に過ぎるであろう。だからこの論点についても、和田伸一郎(2004)などを検討しつつ、より詳細に考えてみるつもりである。
(18) こうした物言いが乱暴に響くだろうことは、もちろん知っている。第一それは先に私自身が触れた〈承認〉の本質/困難と矛盾しているではないか、と。たしかにそのとおりである。そのように〈承認〉の本質/困難は、かくも、あくまでも深い。しかし我々はここで何か思い違いをしているのではないだろうか。たとえば、〈私〉の想いと行動は必ずしも一致していなければならない、あるいは〈私〉のあなたへの想い、あなたの私への想いは変わらないはずである、と。しかし現実に〈私〉の想いと行動は往々にして分離している/分離可能だし、〈私〉やあなたの想いはときとしてうつろう。そのことを問題にすることもできるが、しかしそれはまた避けえないことなのではないか。〈私〉のなかに、そしてあなたのなかにも、想いや欲望はつねに/すでに複数ある。かかる複数性を一点に収斂することはできないし、またすべきでもない。むしろそうした制約/困難のもとで、いかに他者とかかわりうるかが問われているのだ。
(19) ローティの「真理」あるいは「客観性」にたいする見解については安部(2006)を参照。
(20) ローティのいう「メタファー」とは、言語の「馴染みのない使い方unfamiliar uses」、「新しい理論を展開することに我々を従事させるような使い方」のことを指す。それはまた彼の独自の用語である「再記述redescription」と同義である。翻ってそれらの対義語は「リテラルliteral」である。すなわちリテラルは、メタファーとは逆に、言語の「馴染みのある使い方」、あるいは「人々がさまざまな状況下で何を述べるかについて旧来の理論で対処しうる使い方」を指す(Rorty 1989: 17)。
(21) たとえば、ローティ同様、「他者の受苦への共感」という「理由」にもとづいて「何も共有していない者たちの共同体」を構想するアルフォンソ・リンギス。そこでは、彼によるその形容に反して、人々は受苦への「感受性」を「共有」している(Lingis 1994=2006)。また他方で、その「何も共有していない者たち」がまた、ともに食べ、生殖する者たちであることに注目しつつ(小泉 2006)、あるいは「相互性」を「公共的相互性」というより豊饒な概念へと編み変えつつ(後藤 2006)、そして「制御可能なもの/ことがあることの快」を「制御不可能なもの/ことがあることへの快」へと転轍しつつ(立岩 1997、2004)、連帯の構想を練りあげようとするメタファーが今日立ちあがりつつある。
(22) かかる「顔」という原理から導出された「超越論的」とでも称しうるレヴィナスの倫理学を、あくまで現象学の「手法」に則って―事象に即しつつ―批判的に検討したものとして佐藤(2000、2004)。

[文献]
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――――, 1974, Autrement qu'etre ou au-dela de l'essence, Martinus Nijhoff.(=1999,合田正人訳『存在の彼方へ』講談社(講談社学術文庫).)
Lingis, Alphonso, 1994, The Community of Those Who Have Nothing in Common, Indiana University Press.(=2006,野谷啓二訳『何も共有していない者たちの共同体』洛北出版.)
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――――,2004,『物語とレヴィナスの「顔」』晃洋書房.
立岩真也,1997,『私的所有論』勁草書房.
――――,2004,『自由の平等』岩波書店.
――――,2006,『希望について』青土社.
和田伸一郎,2005,『メディアと倫理―画面は慈悲なき世界を救済できるか』NTT出版.
山之内靖,2006,「訳者解説―グローバル化と社会理論の変容」ジェラード・デランティ『コミュティ―グローバル化と社会理論の変容』NTT出版,281-301.

(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程)


Rethinking of Social Solidarity
ABE Akira

This paper is an inquiry into Richard Rorty's views on social solidarity. I attempt to clarify two things: first, whether his argument over the reason and purpose of social solidarity is persuasive; second, whether his doubts about the current argument over social solidarity have validity. That doubt appears with respect to the possibility of "solidarity based on others."
 On the first point, I think his argument is persuasive. Rorty says social solidarity has the purpose of "avoiding cruelty." It is my understanding that in this insistence "avoiding cruelty" is consistent with our common values. We can generally understand that the notion of "avoiding cruelty" includes not only recognition of the being of others but also recognition of the freedom of others. On the other hand, Rorty says social solidarity comes from what he calls "sympathy for the pain of others." I think that this insistence, based on our experience, is useful for "avoiding cruelty."
 Regarding Rorty's doubt, I reserve judgment on its validity. I agree that it is certain that "solidarity based on others" cannot secure the being of all social members. But I state my agreement with a reservation for I also think that the interpretation of "closed others" and the conception of social solidarity based on reciprocity are controversial subjects. On the other hand, I conclude that his rejection of universalism, namely, the rejection of foundationalism is invalid. In my thinking, foundationalism is not worth serious consideration from a pragmatic point of view. I assert, in contrast, that continuously and jointly evaluating various beliefs that have "avoiding cruelty" as their purpose is the most important point for social solidarity.

Key words:social solidarity, community, Richard Rorty



UP:20080822
  ◇Rorty,Richard[リチャード・ローティ]
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