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<難病と倫理>研究会発表

小泉 義之 2007/02/10
難病と倫理研究会第1回京都セミナー

last update: 20151224

*MS Word版:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/n_e_h.doc

1 二つの主題

 今日は、二つの主題について問題提起をします。一つは、病人の可能性、病人が為しうることについて、もう一つは、病人の不可能性、病人に為しうることがないことをめぐってです。
 一つ目の主題は、『病いの哲学』(ちくま新書)の「病人の役割」で少しだけ触れた論点です。おおむね政治的経済的社会的な論点です。具体的には、各種の患者運動と障害者運動、特にさくらモデルなどを念頭に置いていて、その達成から何を学びとれるか、その達成からどんな未来図を描けるかという問題意識に立っています。
 二つ目の主題は、『病いの哲学』で書かなかったことです。倫理的で宗教的な論点に関わります。一例として、キルケゴールの『死に至る病』を取り上げます。キルケゴールは絶望を死に至る病と呼んでいます。逆に言うなら、死に至る病は絶望だとしています。このキルケゴールの議論について検討してみます。
 これら二つの主題の関係については詰めて考えてはいませんが予め一つだけ述べます。「患者の権利」は基本的に受動的なものです。この「患者の権利」は「死の権利」に到りました。ここに極まれりというか、ここでドン詰まりになったと思います。それは必ずしも悪い知らせではないと私は思っています。そして、私は、「患者の権利」が「死の権利」へ到るその経路とは異なる道を考えてみたいわけです。

2 病人の可能性について:保険でも扶助でもない道

 先ず、社会保険や国民健康保険は、本来の保険というか、教科書で理想化された保険とは異なるということを指摘することから始めます。
 仮に、国民全員が保険に入るとします。その目的は、リスク分散と相互扶助・社会的連帯だとします。そのとき、原因不明の稀少病は、誰でも罹りうる病気ですから、しかもたぶん最悪の災厄の一つでしょうから、国民全員がそれに備えるためにも保険金を掛けることになります。とすると、原因不明の厳しい稀少病に「当たり」の人は、その最悪の事態を可能な限り補償するための資金を得ることになるはずです。仮に国民全員の保険が、いわゆる保険原理に従って組織されているなら、原因不明の厳しい稀少病になる人こそが、少なくとも生活上の心配はしなくて済むはずです。
 ところが、ご承知のように、現行の各種の保険制度はまったくそのようなものではありません。この一つをとっても、現行の保険制度が、教科書的な保険制度とはまったく異なるものであることが明らかになります。
 こうなった原因は、おおむね歴史的なものであると言えます。一つは、保険が制度として成立してきた歴史、もう一つは稀少病がそれとして医学的・社会的に認知されてきた歴史に原因があると言えます。

 <資料>では佐口卓『医療の社会化』を引いておきました。佐口卓にも見られるように、通説的な理解はこうなっています。
 健康保険は労働保険として始まっています。その目的は、現に労働している人が病気などで労働できなくなったときに、速やかに労働力を恢復させ、もって産業経済の発展と利益に資することに置かれます。ですから、労働保険において病気がどう意味づけられているかというと、病気とは、労働できる人間を労働できなくする状態であり、労働できるように恢復するまでの一時的な状態であると見られることになります。病気は、一時的失業と貧困状態の原因と見られますし、その点で、病気は労働災害や自然災害と同列に見られることになります。
 ところが、すぐに気づかれるように、このように労働保険の目的が解されるなら、初めからその保険の対象外とされる人がいることになります。すなわち、労働できない人、労働していない人、労働しなくなった人、そして、病気になっても恢復の見込みのない人です。つまり、健康保険の目的を、労働者の一時的貧困を防ぐという防貧だけに置くわけにもいかないわけです。

 そこで、歴史的には、昭和十五年前後、戦時中に、健康保険の目的は国民全員の健康の保持と増進に置かれることになります。この辺りの歴史は私には不分明な点が多いのですが、<資料>3頁で言及されている診療方針の「昭和十六年の改正」が重要だと思います。昭和十六年、まさに戦時中ですが、「これまで診療方針に定められていた、保険事故の範囲外とする傷病名の具体的例示を廃し、それが先天性たると後天性たるとを問わず、医師として治療を要すると認めた程度の傷病に対しては、すべて保険診療とする」ことになりました。つまり、医師によって治療可能な病気はすべて、健康保険の対象に繰り入れられることになったわけです。
 これは決定的に重要な変化でした。当時は、この変化は、社会政策から社会事業への変化として把握されていたと思われますが、現在から振り返ると、社会保障制度の始まり、福祉国家の始まりであると言うことができます。また、社会学で言う医療化の始まり、病気や障害の医療モデルの始まりであると言うこともできます。
 そこはともかく、いま重要なのは、健康保険の目的が、治療可能な人の健康保障に置かれても、依然として、治療不可能な人がその対象から除外される可能性が残るということです。そうなると、治療不可能な人は、労働不可能であるなら当然貧困に陥る可能性が大ですから、今度は社会事業・国家扶助の対象になるということになります。しかし、ご承知のように、治療不可能な人に対して、たとえ最低限の生活であれそれを保障・扶助するためには特別の手当を必要とするのですが、このニードは、健康保険によってもカバーされないし生活扶助によってもカバーされないことになります。QOL向上を医療化する道が開かれてきましたが、そこは措きます。

 このように、福祉国家の始まりにおいて既に、治療不可能な人は、各種の制度の狭間・谷間・境界に置かれてしまいます。保険と扶助の間、医療と福祉の間、労働とニードの間などです。
 この点は、理論的にも概念的にも整理が必要なところですが、ともかく福祉国家の諸制度において対象から零れ落ちる人びとがいて、その代表的な事例が、治療不可能で稀少で厳しい病気であるということを再確認しておきます。

 さて、このような状況に対する一つの解決策を示したのが、「難病」概念であり「難病対策」であると言うことができます。この辺りは皆さんの方が詳しいですので簡単に確認しておきます。予め述べておきますと、今日の私の発表の趣旨は、この解決策では足りないということを問題提起することにあります。

 <資料>として、衛藤幹子『医療の政策過程と受益者』と白木博次の書き物を引いておきました。「難病」と「稀少病」の関連は昨年も問題化されましたが、ここでは関連するとしておきます。
 「難病対策」を三つの部分に分けることができます。<資料>の6頁を参照して下さい。第一に「調査研究の推進」で、これは間接的に病人の利益に繋がります。第二に「医療費自己負担の解消」で、これは直接的に病人の利益に繋がります。(ここでひと言添えます。<資料>38頁に引きましたが、ALSの人工呼吸器装着者は1530人で在宅者は779人です。夜間も含めた24時間対応に必要な資金は、総額では大した額ではないですから、すぐにでも出せるものです。制度がどうのとか、予算がどうのといった議論など本来は全く無用なはずです。ただ現状では、何らかの正当化の議論をせざるをえません。そのときは<人を見て法を説く>という方便を使うことになります。ですから、国民保険の理念からして、とか、生活扶助の目的からして、とか説けばいいわけです。ここでの発表はその方便も効かなくなる状況を想定しています)。第三に「医療施設の整備、地域保健医療の推進」ですが、これは二面的であって、専門家団体ないし職能団体を介して間接的にも直接的にも病人の利益に繋がります。注目しておきたいのは、この第三の部分です。<資料>7頁下の最後の引用部分を読んでみます。
 「難病対策は、ある意味では従来にない新しいタイプの医療政策プログラムとして出現した。したがって、これによって新たに権益を創出しようという動きはあっても、既得権者は存在していない。現に、日本医師会のプレゼンスは、難病対策の実施段階がある程度進行してからであった。また、当初から重要な役割を演じた二つのアクター、すなわち受益者の集合にすぎない患者組織とボランタリーな専門職集団に、既得権益など存在するはずもなかった」。
 ここの意味はこうです。だからこそ、各種制度の狭間にいる専門職と患者は、新たな権益を獲得しようとしたのだし、新たな権益を獲得して既得権とするべきであるということです。<資料>12頁に引きましたが、難病対策に法的根拠は与えられていません。ですから「財政逼迫」を口実にして継続を打ち切られる危険があります。一般に、福祉国家の諸制度の狭間にいる者は、各種の給付・サービスを打ち切られる危険にいつでも脅かされます。だからこそ、利権の既得権化が必要ですし、それを目指すことが正当なのです。
 私の見るところ、白木博次はその点について極めて自覚的でした。ただし、白木博次のやり方には限界があります。<資料>の15頁を見て下さい。

 白木博次の論文は、理念的な議論の部分と現実的な議論の部分の二つからなっています。その理念的な議論は立派なもので、現在でも意味のあるものです。すなわち、白木によるなら、医療の本質は教育の本質に似ており、「赤字投資」「不採算医療」こそが、病院の外の社会で多様な利益や善きことをもたらすから、実は社会全体で見るなら「黒字採算」になっている。だから社会復帰の見込みのない者たちに「医療と福祉」の資金と人材を投じても、社会の全体としては「黒字採算」になる。それはGNPを伸ばしさえするのだ、というわけです。
 ところが、白木自身はこの理念的な議論だけでは立ち行かないことも十分に自覚していました。<資料>16頁の真中を見て下さい。「東京都の政治情勢」が変れば「大きく後退する可能性」があることを予測していたのです。
 そこで白木は、現実的な議論を展開し、ある程度は実行して実現しました。<資料>の16頁から17頁にその項目だけを並べておきました。それはひと言でいえば、<箱物>を建設して「一般会計」で維持する制度を創出することです。そうしておきさえすれば、それに伴う新しい権益が既得権として守られていくという展望です。だからこそ、白木は、病院に教育と研究の機関を併設することに固執したのです。<箱物>さえ作っておけば、そのランニング・コストとメンテナンス・コストは毎年確保されるし、教育研究施設を併設しておけば、毎年輩出される専門家集団はその職権と職能を維持するために、医療と福祉の連携、各種機関との連携を否が応でも開発せざるをえなくなるはずであるという展望を抱いていたのです。
 誤解があるといけませんので何点か補足しておきます。第一に、私の評価ですが、この路線は正しかったし今でも幾分かは正しいと思っていますが、それだけでは立ち行かない状況に既になっていると思っています。第二に、この白木の構想は、建設行政・土木行政・土地改良事業に似ていますし、その限りで病人を自然資源や国土や農地に似たものに位置づけているのですが、その善し悪しは別にして、これまたそれだけでは立ち行かなくなっていると思います。ですから、第三に、私が問題提起したいのは、権益を確保する道は正しいにしても、その権益を<箱物>以外に求めるべきであるということです。これは、現在、土木・建設路線(これは日本では軍事産業の代替の機能を果たしてきたわけですが)が見直され、既得権益の再分配・取り合いが始まっている状況に対応するということです。そして、第四に、これが最も重要な点ですが、その権益は病人に賦与されるような道を探るべきであるということです。なお、この白木の構想が歴史的にうまくいった背景には、おそらく神経内科そのものの歴史的変化があったかと推測されますが、その辺りは皆さんに教えていただければと思います。

 では、病人自身が権益を確保する道は、どのようになるのでしょうか。「死ぬ権利」に到るような「患者の権利」、これと違う道はどうなるのでしょうか。手掛かりとして、近年の動向を簡単に検討してみます。一つは実験的治療などのsubject(被験者、主体)となる動向、もう一つは事業体の主体となる動向です。

 <資料>には、前者の動向に関連して、吉村義正『無声の喋り』、Renee Fox, Experiment Perilous、ラメズ・ナム『超人類へ!』、飛んで、この動向に肯定的な論文5本、すなわち、田代志門、Hughes、Truog、Pentz、Mastroianniの論文を引いてあります。この辺りの議論と実際は皆さんも周知のことかと思いますので、むしろ私の感想めいたものを述べておきます。
 病人が、特にPentzの表現では"terminal wean" patientsが、何ら自己利益にならずとも、利他的な動機から、献身的犠牲の精神で、それこそ主体的に被験者になるということは、ありうることだし、あることだし、あってもいいことだと思います。そして、それを正当化するための道徳的心理的議論はいくらでも思いつきますし(Foxの古典的調査が列挙しています)、そこに起こりうるトラブルも想像がつきますし、ガイドラインも書こうと思えば書けるでしょう(Pentzのそれを<資料>35頁に引いておきました)。しかし、幾つかの違和感があります。
 第一に、「われわれ」がそれを推奨して許されるのかという疑問があります。この点はいまは措きます。
 第二に、この類の議論でいつも気になるのは、では、その実験のプロトコルが医学的科学的に批判的に検討されているのかということです。例えば私自身は追ってはいないのですが(誰が追うべきかという問題があります)、Pentzが検討する実験は癌の遺伝子治療のためのベクターの性能の実験のようですが、はたして、現状でそんな実験に意味があるのかと問い返したくなります。また、terminalである状態は実験結果に影響するか否かが分別されているのかと問い返したくなります。要するに、terminalでしかやれない実験で、かつ有意義な実験などというものがあるのだろうか、あるとすれば、癌一般の治療ではなく、癌のterminalな状態の治療でなくともその改善そのもののための実験であるべきではないのかと主張しておきます。
 第三に、たしかに私も、terminalな状態の人間にも為しうること、能動的主体的に為しうることを探し求めているわけですが、しかも「ただ」死んでゆくこと以外の何か、死んでゆくことにおいて同時に為されるようなそんな何かを求めているわけですが、それが被験者になることだけしか思いつけないというのでは余りに余りであると言わざるをえません。あるいは、こう言ってみます。医療に寄与する以外のこと、医療化される以外のことがありえないとどうして決め付けられるのだろうかと。
 しかし、これは誰にとっても答え難いことでしょうから、もう一つの事業体の動向について考えてみます。<資料>では、中島孝の報告書、川口有美子の報告書と論文、岡部耕典『障害者自立支援とケアの自律』を引いておきました。

 キーワードを列挙すると、「患者が自営する事業所」「利用者と事業者の一体化」「利用者共同組合」などです。
 これらの事業体・経営体は、おおむね、現行制度と患者の間の媒介者、公的な事業や支援やペイメントの受け皿と位置付けられています。このことは、現状では明らかに重要ですし、その辺りは皆さんに教えてもらうべきことです。私としては、今日の役目として、もう少し夢見る役割を演じてみたいと思います。
 言いたいことは簡単です。そんな事業体そのものが利権や特権を獲得するべきだということです。行政や企業や大学が持っている許認可権や各種権利を獲得ないし分有するべきだということです。その方向に向かって、法律・行政・企業・研究機関が再編成されるべきだということです。では、どんな利権や特権が考えられるでしょうか。思い付きしか言えません。しかし、ともかくこの方向で検討してみてほしいというのが私の主張です。
 <資料>の18頁に引きましたが、「学用患者」であった吉村義正の『無声の喋り』を読みますと、彼はある時期から「病院内で新聞販売業務」を行なっています。だとしたら、病人ないし病人団体は、病院等の施設内で独占的販売権を獲得してもいいのではないでしょうか。新聞に限ることはありません。食品、患者の日用品、病院の事務器具、さらには、医薬品などの販売権を独占してもいいのではないでしょうか。
 <資料>の21頁には、よくある話ですが、簡単に流されてしまう類の話を引いておきました。ALSの研究で発見されたIGF-1は、それに伴う技術を含め、アンチエイジング治療やエンハンスメントにおいて活用される可能性があります。つまり、莫大な利益を生む可能性があります。とするなら、その利益はALS患者も得る権利があるのではないでしょうか。一般に正常と病理、正常と異常の対比において、病理や異常がなければ、具体的には病人が生きていなければ、医学的にも科学的にも知りようのないことばかりであって、それがこの福祉国家においては膨大な産業に活用されているわけですが、だとすれば、病人がそこで利権を分配される制度設計を行なうべきではないでしょうか。例えば治験データの所有権・使用権は、集団としての患者に帰されるべきではないでしょうか。
 この点では、現在の焦点は薬をめぐる諸権利の行方になるかと思います。<資料>ではエンジェル『ビッグ・ファーマー』とヒーリー『抗うつ薬の時代』『抗うつ薬の功罪』を引いておきましたが、かれらは企業と医学界を批判して対策を提案するのはいいのですが、患者の利益・権利・利権のことなどまったく思ってもいない様子なのです。私は、公的な研究機関と患者団体が共同の事業体を創設して薬品の製造と販売にあたること、しかも基本的には患者が経営する店舗で安価に独占販売することを夢想しています。<資料>の23頁に引きましたが、エンジェルが言うように、現状では「患者アドボカシー・グループ」はマーケティングに受動的に組み込まれています。とするなら、為すべきことは、エンジェルのような周辺的専門家が幅を利かすことではなく、患者団体がマーケティングの利権を獲得することです。この点で、まさに「難病対策」のシステムこそが、大きく発展すべきだと思います。
 もう一点述べます。<資料>の40頁からStone, The Disabled Stateを引いています。これは、42頁にあるように、Who Benefits from a Flexible Disability Category?と問いを立てています。誰が福祉国家・福祉社会で利益を得ているかという問いを立てて、それは決していわゆる「受益者」(だけ)ではないと答えています。そうなのです。受益者・受給者・被験者など、受動的な位置に置かれている者(だけ)が利益を得ているのではないのです。とすると、病人が病人として為しうることは、病人を資源として、病人に特定の役割を押し付け、利益を得ている勢力の既得権を取り返すことになるはずです。
 先ほど、政治経済学的に病人を位置付けると自然資源に相当すると述べたことについて補足します。病人は、農業労働における土地、牧畜労働における家畜、工業労働における材料に相当します。さらに言うと、土地の自然力、家畜の生命力、材料の物理的力に相当するのが、病人の生きる力、病気のまま生きる力、その死ぬ力ということになります。病人はこんな仕方で医療生産に関与していますが、そこをクールに見据えながら、何を引き出せるのかということになります。道は二つあります。一つは、自然力の生産への寄与を、自然からの無償の贈与と捉え返して、その無償の贈与に対して儀礼的返報を行なうという道です。自然に捧げ物をすること、環境保護運動を行なうこと、古代・中世の宗教的な慈善活動もその一例になります。もう一つは、自然資源たる病人が、集団的に主体化する道です。それは、まるで大地や動物が大音声を発して、人間に対し何ものかを要求するように、特権や権能を要求することになるのだと思います。病人の集団が、テリトリー、シマを要求することです。病人の集団が、貨幣の分配よりは資本の分配を求めていくことです。これが私の夢想する別の道です。

3 病人の不可能性をめぐって:『死に至る病』の批判的読解

 ここまでの話は、病人の能動化・主体化といっても、政治的経済的社会的なレベルのものでした。病人には、依然として、そうしたレベルの権益や権利があるし、可能性や希望があるという話でした。
 しかし、そうした可能性を可能性として引き受けられない状態もあります。可能性という名の希望が失われた状態、絶望の状態があると思います。少なくとも、そんな状態がまさに起りうるし可能であると思って、人びとはあれこれの議論を為すことがあります。そんな状態は、さまざまな名前で呼ばれ、さまざまな仕方で想像され表象されています。末期状態、植物状態、脳死状態などです。そして精神と肉体の二元論をとりますと、実際二元論をとらざるをえないのですが、精神が消失して肉体だけが生きている状態と、精神は生きているが肉体はママならなくなる状態が際立ってきます。後者の状態については、近年はALSがあげられますが、歴史的には別のものがあげられていました。ですから、ここでは、一般に絶望的な状態と目される病人をめぐって、どんなことを語りうるのかを考えてみたいと思います。

 予め二つほど述べておきます。
 私は、このような問い、すなわち、絶望的状態における希望の可能性はあるのかという問いを立てるというそのこと、その問いを握って離さないことが大切だと考えています。この問いに何か明解で説得的な正解があろうはずもないからですが、そんな問いを立てることすら思いつかずにあれこれの所業に走る人びとは許し難いと考えています。これについては最後に一例をあげます。
 死をめぐる問題について、いつも少し不思議なことは、私はともかく殺すことはないと思うだけですが、他方には殺したがる人や死にたがる人がいつでもいるということです。私とそんな人びととの違いは何なのだろうかと思います。ちなみに<資料>の43頁をご覧下さい。Veldinkの論文を引きました。この論文はオランダでALS患者が安楽死や医師幇助自殺を選んでいることを報告したものとしてしばしば参照されるものですが、読みますとそのオランダでの調査の範囲でも、4%の患者が気管切開と人工呼吸器の使用を選んでいると書かれています。あのオランダでも、4%の人はそうやって生き延びているし、それを支えている人がいるのです。この96%と4%の違い、いまは比率が問題ではなく、両者は何が違うのかということです。
 その違いは、何らかの仕方で、宗教的なこと、スピリチュアリティに関わっています。これだけでは広すぎますので、問題を限定します。
 しばしば、生命倫理の分野でキリスト教の影響が大きいと指摘されることがあります。ところが、私の読んできたキリスト教文献からしますと、現代の生命倫理や死生観で援用されるキリスト教ないし宗教性は、異端と呼ぶのももったいない、宗教性以前の世俗的信念にすぎないものに見えます。私はむしろ、キリスト教は人間の病気や人間の肉体について最もよく考えたものの一つであると見ています。もちろんキリスト教が何か正解を出したわけではないのですが、絶望における希望を考える上で参照に値するものの一つであると見ています。その辺りを問題提起としてお聞き下さい。

 <資料>の43頁にロラン・バルトの『ラシーヌ論』を引いておきました。これを読みますと、昨今の生死の議論がラシーヌ悲劇の性格を持っていることがわかります。これは今の場合、誉め言葉ではありません。ロラン・バルトは、悲劇を批判して、<資料>の46頁に見られるように、「ラシーヌ悲劇の活用形に欠けている人称が一つだけある。「我々は(nous)」である」と書いているからです。簡単に済ませますが、96%の人は悲劇を演じているのに対し、4%の人は悲劇の空間の外で別の問題に取り組んでいるのです。

 次に<資料>の47頁に進みます。クロード・ベルナールは毒物のクラーレに関心を持っていて、最初の実験を1844年に行なったと報告しています。そしてクラーレの作用をこう記述しています。<資料>の48頁です。「筋肉を収縮せしめる神経要素の死が生物全体の死をもたらし」とです。そしてベルナールは、これは古今の詩人が最も恐ろしい苦しみと想像していた状態にほかならないと述べてもいます。

 その上で<資料>の48頁からのキルケゴール『死に至る病』を見ていきます。これは1849年に書かれています。また、キルケゴール自身は、一次感染か母子感染かは定かでありませんが梅毒に罹っていて進行性麻痺で死亡したようです。彼自身の兄弟姉妹も進行性麻痺で早死にしたようです。このことを念頭に置いて下さい。
 先ず「絶望」は「病」であると宣言されます。文字通りに病気のことだと読むべきであると考えて読んでいきます。では、どんな絶望的病気なのでしょうか。
 「この世的な苦悩」のことではありません。<資料>49頁に書かれているように、「困窮・病気・悲惨・艱難・災厄・苦痛・煩悶・悲哀・痛恨」のことではありません。普通の意味での「致命的な病」のことでもありません。
 <資料>49頁から50頁にはこう書かれています。「この病では人は断じて死ぬことはない」のだが、「死ぬことができないというまさにそのこと」が「絶望の苦悩」になっている状態のことである、「死にうるという希望さえも失われている」状態のことである、とです。
 つまり、19世紀半ばにおいては、おそらく、クラーレの毒性や進行性麻痺の病状からも出発して、絶望的状態としての病が想像されていたのです。このことはおそらく歴史的にも、神経系の生物学や医学の成立と連動していたはずです。

 さて、常にそうですし、仕方のないことですが、そこから先へ踏み出すキルケゴールの議論は混乱しています。強調したいのは、混乱して当然だし、混乱すべきだということです。幾つか拾って指摘していきます。
 第一に、絶望的状態に対する治療は、可能性という名の希望であることが確認されます。ところで、この世では、死にうる可能性も無くなっていて、可能性は零と想定されていますから、この世にない可能性を希望として信仰するという理屈になります。<資料>50頁の下を見て下さい。キルケゴールはこう書いています。
 「誰かが気絶した場合には、我々は水やオードコロンやホフマン氏液を持ってくるように叫ぶ。だが誰かが絶望せんとしている場合には、「可能性を創れ! 可能性を創れ!」と我々は叫ぶであろう。可能性が唯一の救済者なのである。可能性! それによって絶望者は息を吹き返し、蘇生する。可能性なしには人間はいわば呼吸することができないのである。時には人間の想像の発明力だけで可能性が創り出されることもありうる、――だが結局は、神にとっては一切が可能であるということのみが救いとなるのである。すなわち結局は信仰が問題なのである。」(62)
 神は全能であるから、死後の復活の可能性を希望とするわけですが、もちろんそれで片が付くわけではありません。まともな宗教者ならそれで済ましはしません。神に対する信仰が、今この世での絶望的状態に何かをもたらすということ、あるいは、今この世での絶望的状態の只中に信仰への導きがあるということを説得し納得したいと思うからです。信仰を信念にしたいからです。
 ところが、第二に、キルケゴールは、そうしたいはずなのに、やはりそこに成功はしていません。<資料>50頁の辺りでは、絶望を分析して自己の中に永遠なるもの(世俗化すれば「永遠の命」「ゲノム30億年」「大河の一滴」などです)が存すると論証したがっていますが成功していません。また、<資料>51頁では、自殺はできない前提で始めたはずですが、ともかく自殺は「罪の絶頂」であるとしていますが、これも議論抜きで断言されるだけです。しかも混乱があるのに回避しています。絶望状態には自殺できる可能性すらないとされていたはずです。にもかかわらず、自殺の可能性があるかのように想定して、それが禁じられると語るのです。また、絶望状態に残されたとされる自殺の可能性は、全能の神にはないのだろうかという伝統的な問題もあります。
 それでも、第三に、これもキルケゴールは成功していないのですが(しかし何をもって成功と言うべきなのでしょうか)、ユダヤ教-キリスト教の極めて重要な伝統の一つ(たぶん他の宗教にも見出すことができると思いますが)、信仰と呼吸の類比を提出します。<資料>の50頁から51頁にかけてです。ならば、絶望的状態にあって、呼吸の可能性を創ることこそが、神の救いに匹敵するはずです。しかし、キルケゴールはそうは書けませんし、その類比を考え抜くことをしません。人間の発明力の可能性が当時はなかったからでしょうが、そこは措くとして、事柄からして、人間の発明力だけが救いになるわけではない事態を見据えるからでしょう。
 そして、最後に、キルケゴールは、絶望が悪魔的なもの(デモーニッシュなもの)になると書きます。<資料>の51頁から52頁です。今は読み上げませんが、私の見るところ、たぶん通常の理解には反するでしょうが、キルケゴールは、この悪魔的な絶望を否定しているのではありません。絶望的状態で生き延びること、絶望的状態に固執して生き残ること、これは通常のキリスト教徒からするなら(96%の目から見るなら)悪魔的な所業であるにしても、まさにそれ故に、神に対する反抗者として、というより、神の失策の証人として生きることであるから、その限りで神の全能への信仰を試す意味があるのだと言いたいのです。世俗化して言い直してみて下さい。「神」を世俗化して、「家族」「政治・経済・社会」と言い直してみて下さい。キルケゴールが己の進行性麻痺に絶望しながら、彼は路上で倒れて死んだと伝えられていますが、4%の立場からするなら、キルケゴールはその絶望的状態を悪魔的に死ぬまで生き抜いたと見ることもできます。

 錯綜し混乱した話になりました。<資料>52頁からはアウエルバッハとドゥルーズのものも引きましが、これも読んで考えるなら錯綜し混乱した話になります。
 簡単に素朴にまとめて終えます。言いたいことは簡単です。どんなことについてであれ物を考え始めたらわからなくなるということです。生死をめぐって知識人や研究者があれこれ言いますが、よく恥ずかしくもなく、西洋の伝統ではとか、日本の伝統ではと口にできるものだと思います。しかもそんな一知半解の連中が、人間の生死を決めている。まったく許し難いと思います。
 最後に一例をあげます。多少古くなった議論の例です。「死に匹敵する苦痛」「死より辛い苦痛」などと語られることがあります。そう言いたくなる場合があるだろうとは思います。ところが、ある種の人びとはこんな議論を拵えます。
 第一に、苦痛が増すほど、鎮静のドラッグの量は増える。第二に、ドラッグの量が増えるほど、余命期間は短くなる。この二つを公理のように立てます。苦痛の強さ、ドラッグの量、余命期間の短縮度の三つが単純に比例すると想定するわけです。
 その上で、先ずこう進められます。苦痛が非常に増してドラッグの量が非常に増えるなら余命期間は零になるだろう、とです。ここには沢山の嘘があります。苦痛の強さとドラッグの量には最大値や上界があるはずですから、三つのものの比例関係は破綻するはずですが、そこは無視されて、次にこう進められます。苦痛が非常に増すと「死んだほうが増し」状態になるから、ドラッグを使って余命期間零にしてもいいだろう、とです。ここにも沢山の誤魔化しがあります。鎮痛と殺害に使用するドラッグは同じではありません。余命期間零になることと、殺すことや死なすことは同じではありません。そこで、補足の理屈が次々と加えられます。加えられることで議論が不透明にされて、あたかも難しい問題であるかのように見せかけられます。その過程で、出発点の二つの公理のようなものはそのままにされますから、何だかんだ言っても苦しみを癒すには余命期間零化しかない、と思わせることになるし、議論する当人もそう思い込むわけです。
 この程度の屁理屈で人間の生死が左右されているわけです。屁理屈に対して応戦してもせいぜい理屈にしかなりませんので、率直に言って私はやる気になりません。しかし、世間に向かって何かを言って行動するには方便を弄さなければなりません。状況・分野・相手に応じて戦術を変えざるをえないし理屈を捏ねなければならないのも確かです。しかし、再びしかしですが、生死に関して抗弁・理屈を捏ねざるをえないというまさに受動的な状況こそ無くさなければなりません。
 そして、病人自身がまさに可能な間は可能な範囲で可能な限り能動的主体的に行なえるような、心置きなく生き延びられるような、そんな改革を展望することが、絶望的状態になってはいない者たちに課せられた責務であると思います。


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