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富山・射水(いみず)市民病院事件と安楽死=尊厳死法制化攻撃

富山市 四十物(あいもの)和雄 2007/02/01
(射水市民病院問題から安楽死=尊厳死を考える連続学習会)

last update: 20151224


T.射水市民病院事件とは?
 2006年3月25日に発覚した以下の事件を指す。
 上記病院外科病棟入院患者7名が(50〜90歳、男4人、女3人、ほとんどが末期がん)2005年までの5年間に「人工呼吸器」を外され死亡していた、とされる事件である。
 その後の事件の経過については後で述べる。この事件をきっかけにして水面下で模索されていた尊厳死法制化とそれに関連したガイドライン策定の動きが一挙に躍り出て、それにマスメディアが拍車をかける、というとんでもない事態が起きてしまった、ということに注目しなければならない。またそれに乗っかり、従来「意思の尊重」を言ってきた日本尊厳死協会が「家族でも意思決定を代行できるように」と主張し始めたのである。
 何故このようなことが起こってきているのかについて、私たちは危惧の念を抱かずにはいられないのである。

U.安楽死の尊厳死化
 (以下は小松美彦氏(名著『脳死・臓器移植の本当の話』PHP新書 2004の著者)の提起を受けて、私の考えの軌道修正を行なって書いたものである)
 安楽死は、「苦痛」除去のために死以外ないとされる中で選択される死である。それに対して尊厳死は、「機械に繋がれた状態などの『不自然さ』を苦痛と捉え」る「尊厳志向」の死である。このように動機志向がもし「尊厳」にあるとすれば、死の方法も間接的な方法にとどまらず、積極的な死なせ方も含む事に注目しなければならない。丁度オランダの安楽死法が「苦痛」を精神的に拡大解釈して、対象者を限りなく拡大している道と逆の方向から「生きるに値しないいのち」=「尊厳の奪われたいのち」を抹殺しようと本質を有したものとして、見抜かねばならない。

V.尊厳死の対象者と「意識=脳中心主義」的偏見
 昨年末から「脳死」者を「死者と同然」として上でのガイドラインが出始めてきた(秋田赤十字病院、岐阜県立多治見病院)。本年2月には日本救急学会が同様の物を出すという。今国会に提出されている「臓器移植法」改定案の核心である「脳死=人の死の基準」法制化と相互に連携しながらの攻勢がなされているのである。
 ここで問題にしなければならないのは、尊厳死の対象者の大半が「意識がない」とされている誤りについて少し述べる。
 確かに日本において「脳死」者と判定されている人から蘇生した人はいない。しかしながら、「ラザロ兆候」という独特の祈りに似た動きをすることや「臓器移植時での頻脈、血圧上昇」という事実、慢性脳死者の存在(21年間生きた人もいる現実)などから、「本当に死んでいるのか?」と普通の人が現実を知れば、疑問に感じる例が多く出されている。海外で「脳死」判定された人が日本で蘇生した例も存在している(毎日新聞05/7/26夕刊等)。更に言えば、「脳死」者が「意識がない」と断定すること自体が出来ないのである。「刺激に対する反応」しか原理的に検査法はないのであるが、「意識があってもアウトプット出来ない状態」(夢の事を想起されたい)を確認する方法はないのである。とするなら、意識があるかもしれない人に意識がない、と決め付けることは非常に残酷な事以外の何者でもない。
 「脳死」の場合でさえそうなのだから、いわゆる「植物状態」の人に対する「意識がない」「治療法がないからかえって大変」というとんでもない偏見は早急に是正されねばならない筈である。紙面の関係で詳しく書けないが、上記の人たちには周りの人たちとの間の訓練によってコミュニケーション可能な私的言語が存在する。更には治療法も開発され、成果を挙げているという。
 そういう実態を、医師を始め私たちは知らないまま尊厳死の是非を議論してきたのではないだろうか!私たちの意識=脳中心主義的偏見がもたらしてきた「尊厳観」「自然観」(実は「いのちの選別」)の是正こそ迫られているものといわねばならない。
 また補足していえば、「自己決定権」も尊厳死の歯止めにならない。ここでいう自己がどれほど本人を含めた無知による社会的偏見や、周囲の負担という形の圧力から自由なものであろうか?実際オランダでは半数もの人が自己決定抜きだという(ヘンディン『操られる死』時事通信社、2000)。そのうち、コミュニケーション能力が欠けているとの理由で80%の人が安楽死させられたという。

W.尊厳死法制化の背景――社会保障の削減
 一言で言えば、90年代半ばから開始され、小泉政権において全面開花した新自由主義的な「病気は自己責任」という考えと、それに基づく社会保障の削減政策の全面展開が問題の背景にある。特に障老病(異)者の病院からの追い出しと、在宅介護への半強制化は特筆に対するであろう。それでも「自己―家族責任」が取れなければ「尊厳死を法的に保障しましょう」という事ではないのか!(NPOに対してもその一翼を担わされようとしている!何故障老病者だけが尊厳死・「自然死」の対象として特別視されねばならないのか?)経済的効率性のもとに人々のいのちを切り捨てようとしているのだ。

X.その後の「射水市民病院事件」
 人工呼吸器を外した伊藤雅之元外科部長は、7月テレビ放送に出演して以来、各種のメディアに登場。我々市民からの公開質問状には答えずに、自分を擁護するメディアには登場を繰り返してきた彼は、年末の「延命中止肯定派医師」の援護を受けたテレビ番組に生出演し、実質上多数派として社会的に承認されたのである。これは彼が口先で尊厳死の法制化やガイドライン作成に反対を表明しながらも、実質的にそれらを推進するグループに「ヒーロー」として祭り上げられ合流していく事を、図らずも暴露したという意味で、段階を画すものであった。
 同時に、伊藤氏を批判してきた医師は誰もメディアに登場せずに醜態をさらけ出し、無責任さを暴露してしまった、といわざるを得ない。結局のところ自分たちの医療現場において「延命中止」が行われていることに対する根底的な解明と克服をなそうとしなかった結果としかいいようがない。

Y.厚労省の4月ガイドライン策定を阻止しよう!
 今年に入ってからも尊厳死法制化・ガイドライン策定派は勢いづいている。2月中旬(19日?)日本救急医学会の指針が予定されており、4月厚労省のガイドライン策定も迫ってきている。
 我々は障老病異者と共に、障害者運動の原点に立ち返り学びなおし、優生思想=「いのちの選別思想」と徹底して対決してきた日本の誇るべき運動の底力を出し尽くそうと思う。そのことに少しでも多くの賛同と結集を訴えたい。


UP:20070201
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