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「「青い芝の会」の発足と初期の活動に関する検討―特に背景との関連に注目して―」

廣野 俊輔 2007
『同志社社会福祉学』21,37-48

last update: 20151224

T先行研究の検討と本稿における問い
1.先行研究の検討
 本稿の目的は,「日本脳性マヒ者協会青い芝の会」(以下,「青い芝の会」という)の発足と初期の活動について検討することである.このような検討に,いかなる意義があるかを明らかにするために,まず関連する先行研究をふりかえっておこう.
「青い芝の会」は,優生思想に対する抵抗,地域での生活の要求,障害を肯定的にとらえかえそうと試みたこと等により,よく知られている障害者団体である.研究としては,1990年代以降に,いくつかの論考が発表されているが,それらのほとんどは,上記の活動が顕著に表れてきた1970年以降の「青い芝の会」に焦点をあてている.
たとえば,立岩真也は「青い芝の会」の1970年前後からの活動を,日本における自立生活運動の1つの源流として位置付けている(立岩1995).また,森岡正博は生命倫理学の立場から,「青い芝の会」における優生政策反対の思想と,「産む,産まないは私が決める」と主張したフェミニズムの思想の対立について検討している(森岡1997).障害を肯定的にとらえかえす試みについては,倉本智明が,1970年代の「青い芝の会」のリーダーであった横塚晃一の言説を読み解くことによって,検討している(倉本1997).さらに,「青い芝の会」において展開された介助者との関係をめぐる議論については,山下幸子が当時の介助者へのインタビューや,当時の資料から論じている(山下2004;2005)1).先行研究で,唯一,1970年以前の「青い芝の会」を取り扱っているのは,鈴木雅子の研究である(鈴木2003).鈴木は会報『青い芝』や当事者の聞き取りをもとに,高度成長期における「青い芝の会」の活動と思想について詳細に検討している.鈴木は,親睦的な目的をもって発足した「青い芝の会」が要求運動に傾斜していく過程を記述し,その背景にあったのは,「どのような重度の障害者も国家によって生存が保障されるべき」とする思想であったとする.
以上のように,「青い芝の会」に関する研究は,1990年以降,着実に増えてきている.しかし,述べたように,多くの研究は1970年代以降の「青い芝の会」を対象としている.それぞれの研究者が関心をもつ特徴が,1970年以降の「青い芝の会」に見いだされるという点から,このような傾向は一概に責められるべき事ではない.しかし,多くの研究は,1970年以前の「青い芝の会」について,発足当初は親睦的な団体であったと述べるのみである2).

2.本稿の位置づけと問い
 次に,以上の先行研究の検討をふまえて,本稿の位置付けを明らかにしておきたい.まず,本稿は「青い芝の会」の1970年代以降が注目される傾向を理解しながらも,それ以前もまた重要であるとする立場に立つ.1970年以降の「青い芝の会」の活動が,注目すべきものであるなら,なぜ,どのように,そのような主張をもつに至ったのかも,また重要であろう.また,後の検討で明らかになるが,「親睦団体であった」という指摘は,誤りではないが,1970年以前にも様々な変化をしている「青い芝の会」を正確に表現しているとはいえない.本稿では,1970年以前の「青い芝の会」の理解を深めるための試みの1つである.その試みの一端として,今回は,まず厚生省への要求運動の前年までを初期として,「青い芝の会」の活動と思想について検討する3).
 ところで,先行研究の検討で述べたように,鈴木はすでにこの時期について言及をしている.それゆえ,本稿には鈴木の研究との異同を示すことが求められるだろう.鈴木の研究は,述べたように会報「青い芝」やインタビューをもとに,「青い芝の会」の思想や活動について,詳述している.ただし,その力点は,初期ではなく,1962年にはじまる要求運動の思想や生活保護観,結婚観の変容,施設から地域への志向の変化にある.これに対して,本稿ではあえて初期に限定した記述を行い,「青い芝の会」の成立や初期活動の背景を重視する.そして,「青い芝の会」成立や初期の活動にみられる思想と周囲の状況との変化はどのような関係にあるのかを中心的に論じていくことにする.
 以上に述べたことをふまえて,本稿における問いを明示しておこう.本稿における問いは,初期における「青い芝の会」の活動や思想が,それをとりまく背景とどのような関係にあったのか,である.この問いに答えるには,初期における「青い芝の会」の活動の背景,「青い芝の会」の活動の内容を明らかにする必要がある.
 最後に,今後の展開について述べておこう.Uにおいて,「青い芝の会」を取りまく周囲の状況について述べる.次に,Vで「青い芝の会」内部における活動と思想の変容について述べる.最後に,WでU,Vをふまえて,本稿の問いに対する筆者なりの解答を示す.

U「青い芝の会」の発足と初期の活動をとりまく背景
1.発足時の状況
(1)肢体不自由教育における思想的特徴
 Uでは,「青い芝の会」の発足と初期の活動を取り巻く背景を明らかにする.まずは,当時の肢体不自由者に対応していた医学,教育の専門家が,どのような思想的特徴を有していたかを検討したい.
 1950年代の背景を検討するにあたって,肢体不自由教育の思想的な特徴をふり返っておくことが有益である.というのも,「青い芝の会」は創設者の全てが光明学校での学校生活を経験しており,また支援者も多くは光明学校の関係者である.そして,その光明学校は,戦前からの肢体不自由教育の拠点だったからである.その展開を詳述する余裕はないが,本稿にとって重要だと思われる特徴を2つ挙げておきたい.
 1つは,当然のことながら,整形外科あるいはそれに影響を受けた肢体不自由児教育が肢体不自由児の治療を志向していた,ということである.日本の整形外科学の創始者田代儀徳は,整形外科の誕生について,「而シテ専小児ニ於ケル佝僂病性骨湾曲ヲ矯正スルヲ目的トシテ崛起シタルモノナリ」と述べている(田代1921:718).この整形外科は,第一次世界大戦を期に小児だけでなく,国民全体を対象とするようになる.重要なことは,それまでおそらく放置されていた障害が,治療や処置の対象となったということである4).
 このような障害への整形外科的対応はその背景にどのような思想をもっているのだろうか.田代は負傷兵の職業訓練に触れながら,整形外科的な治療を施すことによって恩給などの節約に繋がり国富の増加につながること,そして,負傷者本人にとっても自ら働いて,生活費を得られれば精神的な満足につながるとしている(田代1921:724-5).
 もちろん,整形外科が確立されたからといって,すぐさまあらゆる障害が治療されたわけではない.本稿で扱う脳性マヒを含めて,治療や訓練に長い期間がかかる場合もある.それゆえ,肢体不自由児のための施設が求められることになる.
 この肢体不自由施設との関連で,戦前から続く肢体不自由者に対する医学,教育の思想の2つ目の特徴が明らかになる.それは,障害をもつ子どもだけを集めるということが,彼らを守ることになるという思想である.たとえば,先の田代は,肢体不自由児に関する講演の中で,「又自分タチハ達者ナ者子供ト一緒ニ遊ブコトガデキナイトイフヒガミガ起ル,精神的影響ガヨクナイ,ダカラ私ハ光明學校ノヤウナモノハ獨立シタモノデナケレバナラヌ,既設ノ小學校ノ一部ヲ借リテヤルトイフ説ニハ賛成シマセン」と,光明学校の父母の話にふれながら述べている(田代1934:603).また,青い芝の会の設立に協力した第3代光明学校校長松本保平も「(普通学校では,肢体不自由児は心理的に不安になるが―筆者補注)ところが特殊学校にあると,全てが同じような障害をもっている多数の中の一人であるから,自らを特に悲惨であると思うことも少ないし,格別に同情を示されることもないから,劣等感に陥るという傾向も少なくなる.」と述べている(松本保平先生遺稿集編集会1990:129)5).
 これまで,肢体不自由教育の思想的特徴について述べてきた.そして,当時の肢体不自由教育は,肢体不自由を治療・訓練すること,社会から保護するという2つの志向をもった思想の上に展開された,ということを示した.
ところで,このような思想的特徴は,批判されるべきものだと考える向きもあろう.しかし,創設者の高山久子が,「あの頃は,C・P(脳性マヒ者―筆者補注)はバカの部類でした.外に出す事・目に触れさせることは家の恥,タブーの時代でした.三人(青い芝の会の創設者の3人―筆者補注)とも通学路では見世物でした.校内(光明学校)だけが平等の世界でした.」と表現する,当時の状況を考慮する必要がある6).実際,後に検討するように,このような思想が,「青い芝の会」の発足にも影響している.
本節では,「青い芝の会」の発足と初期の活動の背景として,戦前から続く肢体不自由教育の思想的特徴を検討した.続いて,当時の背景を戦後の身体障害者施策との関連から検討しよう.

(2)戦後障害者施策と脳性マヒ者
 身体障害者福祉法の成立に関する先行研究の示すところによれば,身体障害者福祉法は成立当初,傷痍軍人を対象として想定しており,更生がその目的であった(丸山1998).つまり,重度障害者や更生の困難とされる者は,事実上,身体障害者福祉法の埒外に置かれていたこということだ.このことについては,「青い芝の会」の内部でも,身体障害者福祉法の等級が現実に適合していない,として問題視されている7).
 更生を重視したという事と合わせて,注目しておきたい身体障害者福祉法の特徴は,生活施設が存在しなかったということである.『青い芝』によると,保養所に収容される脳性マヒ者がいたことが明らかだが,身体障害者福祉法による施設として,身体障害者療護施設が設置されるのは1973年になってからである.
 続いて所得保障の面に着目してみよう.1959年11月に国民年金法が成立し,障害者福祉年金が実施される.発足時の障害者福祉年金の月額は,1.500円であり,1963年の改正後も月額1.800円である.1959年の常用労働者の平均現金給与額が22.608円であるということから,障害者福祉年金が極めて少額であり,生活するには全く足らないものであったことが明らかである(総理府統計局1960:334).
 続いて,肢体不自由児のための教育施策について検討しよう.文部省によれば,1956年4月の時点で,肢体不自由児のための養護学校は,分校を含めて7校であったとしている(文部省1978:418)8).「青い芝の会」が発足した,1957年には公立養護学校整備特別措置法が全面施行となり,以後,養護学校は急速に整備されていく.ただし,「青い芝の会」発足の時点では,何ら教育を受けることができない児童が多く残されていたことも,事実である.そのことは,後に検討するように,「青い芝の会」において,学校に通うことができない児童を対象に,塾の活動を行っていたことによく示されている.
 これまで,脳性マヒ者をとりまく障害者施策の要点を列挙してきた.以上のような特徴から,どのようなことがいえるだろうか.まず,脳性マヒ者にとって,もし,光明学校のような学校へ入学することができなければ,基本的には,家庭で過ごすことになったと推測できるだろう.さらに,学齢期を過ぎれば,どのような場所に就労できるか,がポイントとなったであろう9).雇用されることが難しければ,やはり,家庭で世話を受けることになったであろう.もちろん,先程,参照した高山の回想をも考慮に入れるなら,家庭にいる場合の外出の機会もおのずと制限されていたと考えることができる. 

2.重症心身障害への社会的認識の高まり
 これまで,発足当初の状況について述べてきた.ところで,「青い芝の会」が発足した時期は,障害者を取り巻く状況も変化していく節目の時期でもあった.その変化とは,重度障害者への社会的な関心の高まりである.この変化は,1960年代を通して起こったものであり,本稿の時代区分を超えてしまう部分もある.しかし,「青い芝の会」の初期の活動の変化が,社会における重度障害者への関心の高まりと関連しているので,変化の全体像を確認しておこう.
 まず,変化の契機であるが,小林提樹による問題提起が大きいと考えられる.小林は,児童福祉法では,対応できていない重度の障害児がいることを提起した.小埜寺直樹が小林の言葉を参照しつつ,述べているところによれば,これらの障害児が1958年6月20日東京都社会福祉協議会における「重症欠陥児対策委員会」において重症心身障害児と名付けられたという(小埜寺2000:154).ここで注意をしておきたいのは,やはり小埜寺が述べているように,この重症心身障害児について,「要するに重症心身障害児とは,当時の施策対象から漏れているという点で,共通性を有していただけであり,その内実は多様であったということである(小埜寺2000:154).このことにより,後の「青い芝の会」では,「重症心身障害児」という用語は,脳性マヒと知的障害の混同を助長するものとして,非常な反発を受けることになる.
 ともあれ,このような問題提起は,重度の障害者に対する社会的注目を集めることになる.このことを確認するために新聞記事を検討しておこう.たとえば,1958年11月9日の読売新聞は,日本心身障害児協会の発足と島田療育園の設置計画を伝える記事を掲載している.その中で,重症心身障害児は「精薄児や肢(し)体不自由児施設からも見はなされた暗い谷間の子供達」と報じられている.このような報道は,1961年5月に島田療育園が開設されるとより多くなっていく.
 重度障害者への注目は,先述のように,1960年代を通して高まる.1963年には,重度の障害児をもつ親である水上勉が,重度障害児の施策の促進を訴えて,「拝啓池田総理大臣殿」を発表した(水上1963).また,1964年には「全国重症心身障害児(者)を守る会」が結成される.堀智久の研究の示すところによれば,1965年〜1967年にかけて,これらの親による運動は飛躍的に受け入れられて,後のコロニー構想につながっていく(堀2006).
 厚生省に目を向けても,1961年度の「厚生白書」で職業的更生のかなわない者の存在を認め,重度障害者の施設が緊急の課題であるとしている(厚生省1962).また,1963年には,「重症心身障害児療育実施要項」が策定され,重症心身障害施設を補助事業として開始している.
 これまで,「青い芝の会」を取り巻く状況の変化を検討した.その結果,本稿で「青い芝の会」の初期の活動と位置付けた時期である1957-1961年は,社会において重度障害者への関心が高まり始める時期と重なっているといえるだろう.続いて,「青い芝の会」の活動の内容を検討しよう.
 
V「青い芝の会」の発足と初期の活動内容
1.発足と当初の活動
(1)発足
 「青い芝の会」は1957年11月3日に発足した.発起人は,金沢英児,山北厚,高山久子である.金沢が回顧しているところによれば,会発足の直接の契機は,発起人の3人が1956年5月12日の大田区身体障害者福祉協会の集いに参加したことである.3人は,集いに参加し脳性マヒ者自身の団体を作る必要を感じていたという(金沢1957:2).そこに,職業安定所の身体障害者係として勤めていた,原田豊治に出会い,団体の結成を提案され,決心する.また,「青い芝の会」の発足について,高山久子は,フラナガン神父が造った『少年の町』という町そのものが,孤児の収容施設になっている映画をみており,同じ境遇の人が町まで運営している,それがいいと思っていたのが,発足のきっかけとしてあるかもしれない,と述べている10).このような高山の考えは,当時の肢体不自由教育の専門家の思想と非常に親和的であるといえよう.
 しかし,なぜ,脳性マヒ者だけの団体が必要とされたのだろうか.いいかえれば,他の障害者と同様に扱われることに,どのような問題があると考えられたのだろうか.会長の山北厚は挨拶で次のように述べている.

各地に身体障害者の協会が出来はしましたものゝ,そこには各種の障害者が入会して居りますため,その要求せんとするところのものも各々に異なり,私たち脳性マヒ者はその意志の発表器官に障害を来していますためにその発言権が極めて弱く,私たちの欲していることはなかなか実現しないのであります(山北1957:4).

 この山北の言明は,脳性マヒ者が一般身体障害者の中で,疎外されやすい存在であることを示している.おそらく,脳性マヒ者だけの団体として成立し,その後も脳性マヒ者以外の障害者の入会を許さないという方針を堅持するのは,このためである.
 それでは,このようにして,発足した「青い芝の会」はどのような目標をもっていたであろうか.山北の先の挨拶によれば,1つは弱い発言力を高めるために「政治的圧力団体」になること,もう1つは,「忘れられがちな脳性マヒ者に光をあてること」となっている(山北1957:4-5).そして,前者は実現できないとして,後者を主眼にするとしている.このことから,最初から政治的な発言を行える団体になることを志向していたが,さしあたって会員の交流,互助を前面に出して活動することになったといえる.次に,具体的な活動を検討しておこう.
 
(2)初期の活動
 @レクリーエション
 レクリエーション活動は,初期の「青い芝の会」の活動のうち,大きな比重を占めている.レクリエーションは,会員でバスを貸し切るなどして行われる旅行であり,1958年の江の島への第一回バス旅行を皮切りに,毎年行われている.そして,このことが,親睦団体という評価につながっていると思われる.そして,ほとんどそれは,省みられることがない.しかし,当時の文脈の中で考えるなら,この活動は,別の評価も可能ではなかろうか.
 たとえば,後の急進的な運動の中でリーダーとなる寺田純一は,第1回レクリエーションに参加した感想を会報に寄せている.それによれば,「とにかく,いなかにすんでいてほとんど友をもたぬ僕にとって,会のみなさんと直接接することができたのは,素晴らしいことでした」と述べている(寺田1958:10).また,第1回のレクリエーションは朝日新聞(1958・4・27)が大きく報道している.それによれば,「会員の中にははじめて海をみた人もいる」と伝えている.
 これらのことから,後からみれば,「単純な親睦活動」であっても,当初は,家からなかなか出ることができなかったという点を考慮するなら,ひとまず外出し,同じ障害をもつ人と交流できるということは,画期的な活動であったと考えられる.
A塾
 「青い芝の会」の塾は,学校に通えない脳性マヒ児童の教育を保障するという目的で,1958年4月に開始された.当時,肢体不自由児の学校が極めて少数であったことは,前節でも述べておいた.その実状を伝える読売新聞(1954・3・10)は,この年の光明学校の入学希望者は200名を超えたにも関わらず,入学は25名であったことを伝えている.さらに,「この子をなんとか・・・」と親が頼み込む姿もあったという.
 このような背景の中で,塾は,開始される.塾の開設を知らせる会報の記事は,「偶然にもわれわれは各々,正規の学校教育からオミツトされている肢体不自由児に,幸いにも正規に教育を受けられた者としてそれらを少しでも教えてあげたいという,という気持ちを等しく抱いていた」と述べている(無記名1958:1).場所は光明学校の校医伊藤京逸が自宅剣道場の2階提供した.1周年記念の会報には,塾に子どもを通わせている母親が感想を寄せている.それによれば,「時折ヴェラアンダの手摺りにもたれて登校するお友達の後姿をさびしそうにぢつと見送っていたこの子でしたが,塾に通うようになつて間もないある日,“お母さんちつとも羨ましくなくなつた”と申します」と子どもの喜ぶ様子を伝えている(成田1958:39).
 この事業は,規模こそ大きくないものの,当時の教育・福祉制度の不備を補完することを志向する取り組みであったといえよう.また,自分たちの力で事業をすることが,社会へのアピールにもつながると考えられた.この塾の活動は子どもが集まらないようになる1961年の3月まで続けられる.

BPR活動
 初期の「青い芝の会」において、社会に正しく脳性マヒ者を理解させることもまた大きな課題であった.すでに述べたように,脳性マヒへの注目は医学においても,1950年代であり,一般的には,脳性マヒ者はほとんど理解されていなかったと考えられる.
 たとえば,金沢は,「即ち,そのおかしな格好や,よくしゃべれないこと,或は脳性マヒという言葉そのものから知能もやられているのではないかと思われ,しいては人格そのものものを疑われるわけである.」と述べている(金沢1959a:2,傍点は原文).もちろん、それだけとはいえないが、「青い芝の会」は、こういった社会の誤解を解消、緩和のためもあり、テレビ、ラジオ、新聞などに何度も登場している.
 それゆえ,「青い芝の会」はメディアが誤った情報を流布することに非常に強い反発をしている.たとえば,「数万と推定される脳性マヒ者は白痴か精神病者として一生を終わるのが大部分」としている読売新聞(1958・3・28)の記事に対して抗議をしている.当初,知的障害者や精神障害者と混同されることが,非常に大きな問題であったのである.

C更生部
 「青い芝の会」では1959年4月から,会員の要望を受けて,更生部を開始している.更生部とは,職業的な技術を身につけるために,アケビ細工や編み物を行う活動である.この活動は,当時の「青い芝の会」の自立観をよく示している11).更生部の設立にあたって金沢は,「我々にとつて一番大切な,最も切実なことは何かと云えば,それは,云うまでもなく自分で自分の生活を支えていけるようになることである.そして本会の目的もそこにあるはずである」と述べている(金沢1959b:5).当時の「青い芝の会」において,このとこから,職業的な自立が大きな目的であったことが理解できる.
 このことと合わせて,もう1つ確認しておきたいことは,初期の会報において,脳性マヒ者の「社会性のなさ」が話題になっていることである.つまり,脳性マヒ者が社会に受け入れられないのは,自らの責任という議論である.もちろん,これに対する反論も存在するが,自らの状況を自らの至らなさの帰結とする志向が,厳然として存在していたのである.
これまで,「青い芝の会」の初期の活動を簡単に紹介してきた.その結果,当初,「青い芝の会」では,@脳性マヒ者同士の交流,A脳性マヒ児の教育の保障,B世間の理解を得ること,C職業的な自立,が大きな問題として取り上げられていたことを示した.続いて,「青い芝の会」において,会の活動に参加できない脳性マヒ者が問題となってくる状況を検討しよう.

2.重度問題の顕在化
 「青い芝の会」では,発足当初から,会員による不満が出されている.主要な不満は,役員と会員の間に乖離があること,そして,地方に住む脳性マヒ者や重度の脳性マヒ者が活動に参加できないということである.
 これらの不満はいずれもが,「青い芝の会」の拡大を背景にしていると思われる.最初,40人余りで発足した「青い芝の会」だが,会報20の集計によれば,正会員250人,賛助会員50名と非常に拡大している.特に重度の障害者は,会の活動に参加できず,事実上,会報以外に楽しみのない者もいた.たとえば,秋山和明は,会員が非協力的であるとした山北の記事に反論して,以下のように述べている.「しかし,重度の者はそうはいかない.会合に出ることもないから,どのような人が会員になっているかも知らない.そのため親しみもわかない.」(秋山1961:6).
 この問題の解決のために,「青い芝の会」では,支部制の発足,文通の呼びかけ等を行っているが,以後も同じような不満は繰り返されており,根本的な解決には至らなかったと考えられる.
 この問題は,当時の「青い芝の会」の運営から見れば,やっかいな問題であろうが,今日からみれば,重度の障害者の問題を顕在化するきっかけともなったといえる.会報に寄せられた,重度者の手記には「今日は私の誕生日30年間も生きてきたのに母は今だに赤ちゃん扱いです.今だにどころか一生かも知れない.はだ(マ)はだ(マ)残念ですが,得することもあるから五分五分かな・・・私の気性としては特別扱いされるのが一番いやです.変わり者かしら.」と記されている(小林1958:10).先にも述べたように,当時脳性マヒ者は,家族に介護を受けて暮らすことが多かったと考えられる.ところが,この手記によると,家族に介助をうけることにとまどいが見受けられる.また,このようなジレンマがありながらも,さしあたり家族にたよるしかないことから,親亡き後も問題となる.そして,施設に対する要望が出てくる.たとえば,会員の君島稔は,「又,親のない後のことを考えると,何年先になんつてもよいから青い芝の会の方たちが助け合い乍ら暮らせる場所ができたらどんなにいゝかと思います.」(君島1960:4).
 このような経過で,福祉制度や福祉サービスに対する要求が必要であるという認識が高まったと考えられる.このような志向の変化は,更生を重視していた金沢の発言の変化によく示されている.すなわち,「ともかく,身障者の福祉行政の中に更生という柱とゝもに,保護という柱も立ててもらいたいものである.重度の身障者も安心して幸福な生活が送れるために」としている(金沢1961:5).
 「青い芝の会」は,1962年に,当事者だけの団体として初めて厚生省を相手に施設増設などを求める運動を起こすのだが,その背景には,このような経緯があったのである.
 このように,重度障害者の問題の顕在化は,概ね,周囲の状況と符合しているようにみえる.しかし,社会的には重度の障害者の関心を高めることになった「重症心身障害児」という概念が普及すると,「青い芝の会」では,知的障害と脳性マヒとの混同を助長するとして,この用語に非常な反発を示している,「青い芝の会」にとって,重症心身障害という用語は,社会の重度障害者への関心を高めるという意味では,プラスに働いたと考え得るが,知的障害と脳性マヒとの混同を助長する恐れがあるという意味で,危惧すべきものととらえられたのである12).

W結論と今後の課題
本稿では,「青い芝の会」の初期の活動とその背景を検討してきた.最後に両者の関係について考察し,結論を述べる.
 まず,当時の時代背景と「青い芝の会」の活動が,よく整合している部分について述べる.第1に,「青い芝の会」の発足は,当時の状況をよく反映しているといえる.すでに検討したように,「青い芝の会」には,当時の養護学校と同様に,同じ障害をもった人が集まることにより,厳しい偏見から自分たちの身を守るという期待があったといえる.
 第2に,更生部の活動にみられるように,職業的自立を大きな目標に掲げるという点は,当時の肢体不自由教育の思想,障害者福祉施策の目標とも極めて親和的である.「青い芝の会」の初期における,社会性のなさに関する議論も,障害を専ら個人の責任で緩和・解消すべきであるとする,社会の支配的価値観を内在化したことによるものと考えられる.総じて,偏見の厳しい社会でお互いに助け合い,努力し,PRを通じて理解を得ていこうという活動の方向は,当時の社会背景をよく反映しているといえる.
 第3に,社会的な変化との関連についても,やはり,「青い芝の会」は,社会の変化をよく反映しているといえる.むしろ,非常に早い時期から重度障害者についての議論がなされていたという点,また後には,厚生省陳情を行った点から,変化を促進する役割をも果たしたといえよう.社会において,重度障害者への関心が高まる1960年前後には,やはり「青い芝の会」においても,重度障害者問題が関心を集めているのであった.
 続いて,「青い芝の会」に特有な状況について考える.まず第1に,そもそも「青い芝の会」が他の身体障害者団体から独立して作られた理由でもある,言語障害ゆえに,他の身体障害者から疎外されやすいという状況がある.脳性マヒ者だけの組織にこだわるのは,そのためである.
 第2に,職業的自立の重視は,早くも,初期の間に相対化される.もちろん,職業的な自立を重視する主張がなくなるわけではないが,早い段階で,職業的自立を追求するだけでは,重度の障害者の生活の助けにはならず,保護も合わせて要求するべきだという見解が出される.このことと符合して,障害者福祉行政における国家の責任が徐々に重視され,後の厚生省陳情につながる.
 第3に,第2の指摘とも関連しているが,重度障害者への関心の高まりは,述べたように,社会的な変化の影響もあるが,非常に早い段階で起こっている.これについては,社会的な変化の影響の他に,「青い芝の会」において,活動に参加できない重度の障害者が問題になっていたという,内在的な原因によると考えられる.
第4に,「青い芝の会」における知的障害者との混同を忌避する議論は,社会の価値観をよく反映しているともいえるが,一方で,重症心身障害という用語をめぐって,その用語が,脳性マヒと知的障害との混同を助長するとして,非常な反発を示しているのだった.これによって,「青い芝の会」は重度障害者の問題に関心を向けながら,―後には,重度障害者の施策充実を求めて厚生省に陳情しながら―,それを社会に周知させるキーワードであった,重症心身障害という用語については,非常な反発を示すという,一見,捻れた立場をとることになる.
以上,述べてきたように,「青い芝の会」発足と初期の活動は,概ね,当時の社会状況をよく反映しながらも,脳性マヒ者特有の状況によっても強く規定されているのである.
最後に,本稿で残された課題について述べておきたい.本稿は,1970年以前の「青い芝の会」を明らかにするための試みの1つであった.それゆえ,当然,本稿で述べた以降の「青い芝の会」について,研究することが課題となる.また、当時の社会的背景についても、特徴の列挙に留まっている。この点の精査も今後の課題となる。

1)他に倫理学の立場からの研究として,「青い芝の会」の思想とジョン・ロールズ,アマルティア・センなどの思想を比較した野崎恭伸の研究,優生思想とについての「青い芝の会」の思想を検討した森岡次郎の研究がある(野崎2006;森岡2006).1970年代以降,「青い芝の会」の支部は全国的に拡大する.これに対し,行われている研究は,「青い芝の会神奈川県連合会」についてのものが多いが,最近では,他の地方を対象にしている研究も出されてきている(定藤2006;土屋2007).
2)また,「青い芝の会」の内部においても,1970年以降,それ以前の運動について否定的な評価が下されるようになる.
3)ここで,時代区分について説明をしておきたい.本稿の時代区分は,荒川と鈴木の業績を踏襲している(荒川・鈴木1997).「青い芝の会」の初期を発足の1957年から,厚生省に対する陳情運動を行う前年の1961年までとする.陳情運動の実行はやはり1つの大きな転換であるということから,このような時代区分を採用する.ただし,それぞれの時代区分もまた,次の区分へ向けて変化している過程でもある.本稿では,初期と区分されている時期の内部における変容過程に注目をしている.
4)ただし,本稿で特に取り上げる脳性マヒに関していえば,個別的に論文や著作がだされるのは,1950年以降である.
5)原典は,「肢体不自由教育概論」と題された論考であり,1957年のものと推定されているが,未発表のため,遺稿集を用いた.また,松本は一方で,肢体不自由児が本質的には健常児と変わらないと強調している.
6)高山久子からの手紙による.
7) たとえば,「青い芝の会」主催のキャンプにおいて,身体障害者福祉法が事実上,傷痍軍人のことのみを想定しているとして,脳性マヒの個別法が必要だという意見が出たと報じられている(会報4).
8)光明学校は,養護学校ではなく,学校教育法上の「その他の学校」として成立している.それゆえ,光明学校は,厳密には養護学校ではないが,7校のなかに含まれている.また,この7校の中には光明学校の多摩分校,私立の嫩葉学園を含んでいる.最初の公立養護学校としては,大阪府立養護学校,愛知県立養護学校が1956年4月1日に創設されている.ちなみに,公立養護学校整備特別措置法に伴い,1957年から,光明学校は東京都立光明養護学校となっている.
9)ただし,「青い芝の会」の発足のきっかけを作った原田豊治が「(脳性マヒ者に仕事を見つけられず―筆者補注)そのまゝ帰って頂く.そんな後姿をみて申し訳ない気持ちと共に,どうしても,世の中の人々の理解が得られなければとしみじみと感じた」と述べている(原田1958:6).この記述から,脳性マヒ者の就職は容易ではなかったことが読み取れる.
10)高山久子からの手紙による.
11) 編み物の様子が雑誌『リハビリテーション』1966年8月号に写真で掲載されている.
12)「青い芝の会」の知的障害に関する言説の変化は障害学会での筆者の報告を参照されたい.報告内容は立岩真也のホームページで閲覧可能である.

文献
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荒川章二・鈴木雅子(1997)「1970年代告発型障害者運動の展開―日本脳性麻痺者協会『青い芝の会』をめぐって」『静岡大学教育学部研究報告(人文・社会科学篇)47,13-32.
原田豊治(1958)「青い芝雑記」『青い芝』一周年記念号,8-9.
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金沢英児(1959a)「脳性マヒの話(5)」『青い芝』6,2-3.
金沢英児(1959b)「一番大事なことは何か―更生部をつくるにあたつて―」『青い芝』6,5.
金沢英児(1961)「更生と共に保護を」『青い芝』19,5.
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山下幸子(2004)「健全者として障害者介護に関わるということ―1970年代障害者解放運動における健全者運動の思想を中心に―」『淑徳社会学研究紀要』
山下幸子(2005)「障害者と健常者,その関係をめぐる模索―1970年代の障害/健全者運動の軌跡から―」『障害学研究』1,213-238.
(規定字数16,000字)



UP:20080129 REV:
廣野 俊輔  ◇青い芝の会  ◇全文掲載
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