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「射水市民病院延命中止事件」と安楽死=尊厳死について考える(5)

四十物(あいもの)和雄(富山市) 2006/12/08
『ゆきわたり』(子供問題研究会)2006年11月号

last update: 20151224

(1)公開質問状に対する「回答しない」という返答

  11,22公開質問状に対する返答が、射水市民病院麻野井院長からと、伊藤元射水市民病院外科部長から、それぞれ正式回答(市民病院)、携帯メール(伊藤医師)から来ました(【註1】[資料1][資料2]として章末に掲載)。どちらも「患者・家族のプライバシー」を理由に「回答できない」というものでした(【註2】 その返答に対する当日の私たち態度については[資料3]参照)。
   伊藤医師については事前の感触から、何らかの回答がなされるものだと思っていました。20日にも話をした折に手書きの文書を片手に「質問事項に対応したものは書けないが・・・・」ということを言っていたので、てっきり来るものだと思っていました。結果的にはその文書を出さなかったことになります。

  [資料1] 公開質問状に対して
  今まで多くのメディアの方々が人工呼吸器取り外し事件に関して詳細な内容を知りたいと訪ねてきました。しかし、個人情報が含まれる重要な点についてお話しすることはしませんでした。私たちはこれまで一貫して、患者家族を守ること、自分たちのために患者情報を利用することはしないことを心がけてきました。
  私たちは事実を隠したいなどとは全く思っていません。私たちは昨年10月、事件発覚直後の短期間に膨大な調査をして、把握した明確な事実を市、県、そして警察に報告したのです。ですから調査を警察に丸投げしたと言う言葉は当を得ていません。もし、その内容に私たちが言及すれば、必然的に患者のプライバシー侵害を避けて通ることはできず、警察の捜査内容に触れないではすみません。患者家族を守るために、上記の内容に関する公表はしておりません。従って、今回の質問状にお答えすることは控えさせていただきたいと思います。
                     平成18年11月17日
  「射水市民病院問題」から安楽死=尊厳死を考える連続学習会
  四十物 和雄 様
                射水市民病院 院長 麻野井 英次

  [資料2] 伊藤雅之前外科からの返答   (【註】メールを合成したものです――本人とは合意しています) 
                     2006年11月22日
   伊藤なりに考えてお答えする責任を感じておりますが、現時点での発言は多くの方々に対してご迷惑になることと、自重することが、適切な対応と思われます。(今の時点での伊藤の立場では)いずれ、明らかにしなくてはいけないと考えております。 伊藤の発言と行動は伊藤だけのものではないと思います。まだ本件が方向性も不明ですから、不要な発言でご迷惑がかかる方々もおられるかも知れません。
   できれば もう少し四十物さんとお話しをしてからにさせていただきたいです。

  [資料3] 公開質問状「回答」に対する私たちの態度
  T.私たちの基本的態度
  私たちの基本的態度を、この間の経緯から考えさせられた事を踏まえて、改めて明らかにします。
 第1に強調したいことは、私たちを含めた普通の人々が「射水市民病院人工呼吸器取り外し問題」(以下「取り外し問題」)が問いかけた事に対して、「密室での論議」から「医療・ケアのことを普通の人の手に!」「開かれた公共議論の場を!」を基本とすること。
  第2に、それぞれのぎりぎりの選択が迫られる現場――それは往々にして利害が鋭く対決する場面でもある――の状況や実態を理解するよう努めること。考えが「対立」しているかに見えても、その多くは「共通の言葉」を持たないことからのディスコミュニケーションに起因する、という立場から、一旦は「共通の言葉」として成り立っているもの・ことをカッコに入れること。
  第3に、その手始めとして事実関係の究明作業の只中から、そこに織り込まれている問題の所在を明らかにしていくことが必要不可欠であること。
  公開質問状はそういう道筋の中で私が出来うる限られた手段として選択されたものでした。
  当初から問題の中心問題として考えていた「安楽死=尊厳死」についても、この【共通の土俵作り―共通のことば創出】作業の開始の中で、限界を自覚せざるを得なくなって来ていることを率直に表明したいと思います。
   (【註】略)
  U.射水市民病院からの返答について
  第1に、「プライバシー」を「錦の御旗」とした、閉鎖性について批判します。
  今回の質問事項は、これまでの同病院の発表、及び伊藤前外科部長発言を踏まえたものであり、「プライバシー」に関わることに触れなくても応えることが可能な質問である、と信じます。仮にそういう部分があれば応えなければ良い問題であり、十杷一絡にすること自体不誠実極まりないこと、と言わざるをえません(伊藤氏が「患者遺族の人との同意」をもとに発言している、と言われていることに対して、何故「プライバシー侵害」と反論を唱えないのですか?そうしないと論理的に首尾一貫しないことになるはずです)。
  第2に、およそ病院の行なっている「病院改革」や「終末期医療に関するガイドライン」の「中身」が、「市民不在」病院(「市民=患者体験者・入通院者・将来の患者」)である姿をさらけ出している、と言わざるをえません
  「どのような場合でも人工呼吸器をはずし、患者を死に至らしめることは考えられない」という基本的立場からの見解を表明出来ないのでしょうか?それは「プライバシー」の問題なのでしょうか?如何に「立派なこと」が言われているのかはよく分かりませんが、市民からはおそらく信頼されないでしょう。
  「人の心をまるで分かろうともしない」返答に対して、もう一度自問自答され、対話の姿勢を打ち出されることを切に要望したいと思います。
  V.伊藤外科部長の回答に対して
  (1) 回答文未提出までの経緯(口頭)
  (2) 「回答文は提出できない」という点では、射水市民病院側と同じですが、「もう少し四十物さんとお話をしてから」という点において、電話のやり取りの中で「キャッチボールを続けて行きたい」という点において、評価をしたいと思います。今回、質問に応えていただけなくて残念ですが「いずれなんらかの回答をしたい」という言とあわせて、「今後の私たちの対話努力が求められている」と受け止め、伊藤氏ともども対話を継続して行くことが私どもの責任だ、という事を胸に刻んでいく決意です。

(2)伊藤雅之前外科部長の発言の開始(8月以降)――衝撃と問題点

  7月下旬NHK「クローズアップ現代」への登場以来、月刊『現代』9月号でのインタビュー、8,3マスコミへの記者会見(新聞報道8,4)と、「人工呼吸器」を外したとされる伊藤雅之射水市民病院前外科部長が、「取り外し行為」とそれに関わる経緯、基本的な自己の考えを公にすることを開始しました(それまでは、いわゆる番記者には発言していたようですが)。このことを後日「死亡患者遺族の支えと励まし」(伊藤氏)を受けての決断だった、と彼は言っていますが・・・・・。
  伊藤前外科部長の発言は多岐に亘っていましたが、基本的には、【第1に】麻野井院長の「事実発表」なるものが「事実を隠蔽・歪曲するもの」であったこと、【第2に】射水市民病院側の対応が伊藤氏自身の人権を無視したものであったこと、【第3に】医師―患者―家族の信頼関係を重視した「人工呼吸器外し」であったこと、【第4に】GL(ガイドライン)の作成はマニュアル化の進行を生み出し、医師の責任逃れの道であること、等にまとめる事が出来る、と思います。
  この発言内容自体について「耳を傾ける必要がある」ものでしたし、全国の病院で広範かつ水面下で行なわれている「延命中止」の実態を知るには、何よりもその行為を行なった当事者(医師、その他の医療関係者、患者遺族)の言い分を聞く必要があるからです。ほとんど裁判以外で明らかにされた事のないことを、「患者遺族の同意を得て」伊藤氏が語り始めたことの意義は大きなものでした。その中で、私たちがそれまでの先入観やそれを刺激・増幅するマスメディアの情報とは異なった実態や人物像が浮き彫りにされた事の意味は大きかったのです。
  伊藤氏の発言自体の問題点について(同時に射水市民病院の立場の問題点についても)は、公開質問状(特に質問事項)で明らかにしているので、そちらを参照してください。

(3)伊藤氏と私(たち)との論争点

  ここで時間的経過を述べることは省略し(ゴチャゴチャするので)、その最大の問題点について述べてみます。それは、私(たち)の「いのちの選別を許さない」「死なない・死なせない」という基本的立場とは相対的独自性を持って、「今回の『延命中止』はおかしい」という考えを支えてきた2つの論拠と真っ向から衝突するものでした。
  私たちの論拠は、一つには、「意識不明の状態――伊藤医師による射水の呼吸器取り外しの対象となった患者6名(正確には7名か?その1名とは院長命令で再装着された人のことを言っている)は全てそのような状態であったとされている」の患者にとって、「苦痛」は無い筈であるから、「死を急ぐ必要」がない、わからない、ということ(【註】この論点については「『脳死』は人の生きている状態である」という立場からの「苦痛が無い」との断定は間違いであり、逆に呼吸器外しの論拠に道を開く、との異論が想定されます。私もそれを受け入れて「苦痛の存在も不明」とし、その上で人工呼吸器外し=「延命中止」は、「『死の宣告条件を満たしてしまう事態』という取り返しのつかない一線をこえるもの」として批判しなければいけないと思います)。二つには、「患者を支える家族の経済的身体的精神的負担は社会的保障の充実で軽減することが可能」ということから、「周りの人――主に家族や医師の影響を受けて――の気持ちに左右された患者本人の不本意な感情」は大きく軽減できる。したがって、その時点での与えられた社会保障の水準を前提にした「死に急ぐ行為」は根拠がない、ということでした。
  伊藤氏自身は「救命治療(延命治療――彼は明確な区分はできないという立場です)」は患者本人の身体をズタズタにするもので、「きれいな遺体を残したい(――遺体も生物的にはまだ生きている、と伊藤氏自身は考えている)」という考えを持つ家族の立場は、医師としては無視できない、という立場を採ります。そこから出される(推測される)反論は、一つめに対して、「意識が無い(――【註】:彼はそのように考えているから延命中止も患者本人には苦痛がほとんど無いと考えているようです。その点は今後最大の論争点とする必要があります)」状態では苦痛が無いのだから、確認できない本人の意思よりも、本人の生前意思表示その次に本人を大切に思っている家族(【註】:それらの判断について、伊藤氏は臨床の現場で長らく付き合えば分かるものだ、と言います)の意思を重視する必要が在ること。二つ目に対しては、「死への過程に入った人=末期(不治かつ死の宣告期が迫っている)に入った人」がいかなる死を迎えるのか?は、社会的な問題にも還元されない筈で、「本人その次に家族(の生死観)によって決定されるべき」ということだろうと思います。

(4)〈共通の言葉〉の模索と論点の再整備

  公開質問状の提示と回答を求めるためのやり取りの中で、伊藤氏とは生死を巡る〈共通の言葉〉(共通の感受性と行ってもよい)が中々見つけられないことに気付きました。
  伊藤氏を初めとした臨床医の立場からすれば、私たちの「いのち」というコトバは「生死の連続性を切断したもの」で、「三兆候死の絶対化」という観念論に陥っている、という風に受け取られているようです。逆に私たちから見れば、伊藤氏ら医師の立場は「死に淫する哲学」(小泉義之)そのもので、「末期の『いのち』を死に至る過程としてのみ捉える――死に至ることに意味を見出す――『いのちの選別』に加担しているもの」と受け取ってしまいがちです。どうもその落差をまずは考えないといけないのではないのか?ひょっとしたらどちらも「いのち」の1面しか捉えていないのかも?そう考えると、お互いにどういう場面での「いのち」と接し、どういう問題と直面しているのか?という事を理解する様に勤めることがまず要求されているのだろう、と感じざるを得なくなってきました。その背景には鎌田実氏(諏訪中央病院名誉院長)や柳田邦男氏(ルポライター)のように、臨床現場を良く知った人の中に、伊藤氏と割りと近しい考えの人がいることを発見したことや、伊藤氏自身が尊厳死法制化に反対している、ということがあります。また、こちらがそう思っているだけかもしれませんが、彼の方から「救命・延命中止に反対する障害者」の立場を理解しようとする姿勢がみられる、ということもあります。
  その作業と並行しながら、「死ぬ=死なせるための論拠」ではなく、「生きるための論拠」の再構築が迫られている様に思います。第一の論点は修正し、意識および痛みがあるのか不明な(ある可能性が高い人体所見が続々と出てきている)現状では、生きる方を優先して考えないといけない、としなければいけないこと。第二の論点については、基本的にはそのままで良いし強調しなければいけない(特に医師の立場からは見えにくい問題である。「生か死」を選択しなければいけない状態をできるだけ回避することが望ましい。医療・ケアの充実や経済的負担がないところでは、自然に生きる道を「選択」していけるのではないだろうか)。その上での補足論点(第三点でもいいが)として、出来る限り容態が悪くなる前に患者の意思が確認できる話し合いの場を持つ(但し「死に傾き易いこと」を考慮に入れた「生きる選択肢」の話――難病者等生きることが日々闘っている人の体験談を話す等――を多く持つ。意思確認は同意書ではなく自発的な書面にし、必ずしもそれに縛られないことがあり得ることを確認して置く)こと等々(まだまだ観念的なところがありますが、「たたき台」として出してみました。批判的な検討をお願いします)として。
(5)今後の闘いについて――倫理の法への取り込みに抗して

  〈共通の言葉〉を見出す必要性について、次のことを忘れてはいけないと感じています。それは、伊藤医師がそして射水市民病院が「人工呼吸器取り外し」という〈コトバの一人歩き〉と、その国家=法への取り込みに対して、ほとんど無自覚=無防備なままでいることです。又、それを主要に担ったマスメディアの人々も同様だ、ということです。そこに欠けているのは、行為を意味づける言葉の疎通こそが〈言葉の一人歩き〉を生み出し、一方で多くの障老病者の生死に関わる深刻な事態を生み出していることへの、他方で、言葉の一般化を法が取り込み法制化=ルール化しようとしてことへの自覚であり危機感です。
  〈法の言葉〉と〈医療の言葉〉の疎通については度々指摘されてきましたが、当該の医療行為が〈違法行為〉と名指しされ意味づけられた瞬間、〈法の言葉〉が言葉の多様性を(実は〈医療の言葉〉においても同様のことは起こっているのですが、〈法の言葉〉は暴力=処罰発動の根拠として、「絶対的な力」を持っていることを無視できません)奪い支配していくのです。そうすることによって、法の支配下においてしか医師の側も、障老病者や普通の人の言葉も流通しづらくなり、そこで(道義的倫理的)正当性を主張しようとすれば合法性を主張するしかなくなるわけです(正当性=合法性?)。その事を見抜かない限り、伊藤医師は安楽死=尊厳死法制化論者の枠でしか見られなかったり(実際立件されればそういう論陣を張らねばならなくなる論理的必然性があります)、安楽死=尊厳死反対論者は立件=処罰肯定論者としてしか見られなくなるのです。そこではアメリカ輸入のものではない、必要とされる医療・生命倫理の議論の場は奪われてしまっているのです。
  今問題になっている医療機関の指針作りも〈生死の問題〉に直面するや否や――出来る限り二者択一的な場面は回避するに越したことはありません。そのためには経済的人的援助が不可欠です(【註:この点については後日考えをまとめたいと思います】)――尊厳死の法制化の問題を避けて通れなくなっています。現に救急医学会)の指針原案([資料4]参照)や秋田赤十字病院指針は「死なせるためのルール・条件」を提示しつつ、尊厳死法制化を求めています。とりあえずの尊厳死の許容条件として「脳死」を出しつつ、それが又「脳死=人の死の基準」論を加速させ「臓器移植法」改悪へとリンクされ、相互に力を増幅し合う危険な状況になっています。
  このような事態の中で、私たち〈法の言葉〉に回収されずに医療行為を一つ一つ吟味する営みを専門家と共に対話を継続しながら行っていかねばならないでしょう。と同時に、前述のような指針作りにひとつひとつ反撃していかなくてはならないのだと思います。

  [資料4] 抗議文(一部略)
  日本救急医学会 特別委員会 有賀 徹 殿
  2006年12月6日 「射水市民病院問題」から安楽死=尊厳死を考える連続学習会
  私たちは本年3月25日に発覚した、富山県射水市民病院「人工呼吸器取り外し7名死亡問題」に衝撃を受け、この事実解明と事態の真相究明の作業を通しながら、4月より安楽死=尊厳死に対する連続学習会を行なってきたグループです。私たちの基本的立場は、「いのちの選別に反対する」「周りの感情によって患者の意思が左右される事態を無くする」「死なない、死なせない」ということです。
  本12月6日共同通信新聞記事において、貴学会特別委員会が「終末期医療 呼吸器外しも選択可」という指針原案をまとめられたことに対して、私たちは驚きと怒りの声を禁じえません。一度「死なせるルール」を作るならば、「滑り易い坂道を転ぶように」それが一人歩きをし始めていくことは、オランダ等の安楽死先進国ですでに実証されています。射水の問題においても、人工呼吸器を取り外した医師や同意したとされる遺族の想い――それ自体私たちからは理解できない問題はありますが――からは遊離し、外見上のみから是非の判断がなされる、という事態を招いています。いまやそれが手続きを整えた「死なせるルール作り」の方に大きく傾斜しているのが今日の由々しき動向であるといわざるを得ません。
  分からないことに早急に結論めいたものを出すことは極めて危険です。特に社会的に大きな影響力を持つ貴学会におかれましては・・・・・。医師の原点に立ち返って、「死なせない努力」・患者の生きようとする「いのちの力」を信じて議論を行なうようお願いいたします。
  その様な観点から指針原案に強く抗議し、撤回されることを切に要望します。


UP:20061222
安楽死・尊厳死  ◇安楽死・尊厳死 2006
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