HOME > 全文掲載 >

「グローバルな新トレンド 医療ツーリズム」

児玉 真美 200611 介護保険情報 2006年11月号

last update: 20110517

英国から南アに飛んで手術
 英国スタフォードシャー在住のイエイツ氏(当時70歳)は2000年10月、右股関節の痛みに苦しんで専門医のところへ行った。5年前に左股関節を人工関節にしてもらった時にも3カ月ほど手術を待たされたので、そのくらいの覚悟はあった。ところが今度の手術は1年半も先になるという。イエイツ氏は大いにショックを受けたが、そこはIT時代の高齢者である。さっそくパソコンに向かった。まず米・仏・独の病院を調べ「結構いい値段だなぁ」などと思っていると、ひょっこり見つけたのが南アフリカはヨハネスブルクのクリニックだった。
 メールで医師と直接やり取りをしたところ、欧米の約3分の1の費用で手術が受けられると分かった。1年半も待つよりは、と翌年3月に南アに飛んだイエイツ氏は到着の6日後に手術を受け、4週間滞在して帰ってきた。「あちらでのサービスは全くもって素晴らしかった」と満足している。
 イエイツ氏の体験談が紹介されているのは、2001年5月31日付のガーディアン紙の記事「NHS(国民健康保険制度)の手術待ちにうんざり? では海外はいかが?」である。
 氏のように医療サービスを求めて海外へ出かける人は、その後も急増しており、世界中でmedical tourism(またはhealth tourism)が一大ビジネスを成しているらしい。「医療を求めて海外へ」というと、日本では臓器移植をイメージしてしまうが、どうやら一般的な医療にまで広がっているところが新しいトレンドのようだ。

安くて早い、便利で豪華
 その最先進国の一つが、タイだ。Board of Investment of Thailand のウエブ・サイトによると、タイはアジアの医療ハブをめざして「5カ年計画」を2004年にスタート。同年に60万人だった海外からの医療ツーリストは、06年にはざっと100万人に膨れると予想されている。呼吸器・循環器系の手術から美容整形、タイ式マッサージ、ホリスティックまで守備範囲は多彩だ。首都バンコクにあるバムルンラード病院は、世界のどの病院よりも外国からの患者を多く受け入れていると豪語(CBSニュース05年9月4日)。豪華ホテル並みの病室と8カ国語の通訳がいる国際患者センターを備え、そのHPは14カ国語で読むことができる(日本語版もあり、日本語でのメールも可)。
 もう一方の雄はインド。在英インド高等弁務局のウェブ・サイトには「インドの医療施設」というページがあり、インド各地で受けられる治療を詳しく解説。掲載されているインド最大の医療コンツェルン、アポロ病院の写真は、まるで宮殿のようだ。医療ツーリズムをIT産業に次ぐ次世代の成長産業と位置づけるインドは、民間医療サービスへの助成など国を挙げて力を入れており、2012年には23億ドル産業に成長すると見込まれている(International Herald Tribune05年12月2日、CNN8月1日など)。
 シンガポールも負けていない。9月に同国で開催されたIMF(国際通貨基金)の年次大会では、各国代表と同行者を対象に、最新流行の美容治療と健康診断を1割引で売り込む病院が現れた。年間20万人という海外からの患者は半数以上がインドネシアからとあって、欧米への顧客拡大を狙った作戦だったようだ(BBCニュース9月12日)。
 参入しているのは他にもフィリピン、マレーシア、トルコ、ドイツ、ハンガリー、ラトビア、コスタリカ、キューバ、レバノン……もっと調べれば、まだまだ出てくるだろう。国によって得意分野があるが、美容整形から整形外科、呼吸器、循環器系の手術、臓器移植、生殖補助医療まで、ありとあらゆる治療が並んでいる。治療費は欧米の3分の1から10分の1。それでも人件費が安いから、サービスは充実。コールボタン一つでナースが飛んでくるそうだ。
 病院のHPはもちろん、往復から滞在中のすべてをパックで引き受けるツアー会社、お好みの治療を探してくれるブローカー会社など、各種リンクが張られた医療ツーリズム関連サイトは、ネット上にまさに目白押し。それぞれ医療レベルの高さや治療費の安さ、豪華なアメニティ、エキゾチズムや独自色を強調し、売り込む声がにぎやかだ。アフターケアや医療過誤の際の対応に懸念の声もなくはないが、医療ツーリズムは外貨獲得の手段として既に立派に確立したビジネスのようである。

背景には先進国の医療崩壊
 しかし、こうした医療ツーリズム隆盛の背景にあるのは、実は欧米先進諸国における医療の行き詰まりである。アメリカでは医療費の高騰と無保険者の増加が社会問題となって久しい。その結果、治療を拒むことが出来ないERに患者が殺到し、本来の機能が危ぶまれていたり(Washington Post 6月15日・9月28日)、中間所得層や、さらにその上の所得層でさえ医療費の支払いに問題を抱えているという調査結果が報告されている(AP8月17日)。
 医療の荒廃に、ブレア政権による必死の医療改革も追いつかないイギリスでは、心臓手術すら1年以上待ち。病院では看護師不足で食事介助の手が足りず、入院中の高齢者の6割に低栄養の懸念がある(Yahoo!UK&IRELAND News 8月29日)というから、すさまじい。
 治療待ち患者リストの長さに病院の処理能力が追いつかず、ついに患者の選別に踏み切ったのはニュージーランドのカンタベリー州だ。5300人の患者に待機リストからの削除を通知したそうだ(The Press8月4日)。削除された患者はどうなるのだろう。
 医師不足が深刻なオーストラリアでは、陣痛が始まっているのに病院に受け入れを拒否された妊婦が、道端の車の中で死児を出産するという事態まで発生した(The Australian 6月8日)。
 ここまで自国の医療が崩壊すれば、見切りをつけたお金持ちは、安くてスピーディな医療を買いに発展途上国に出かけていく。「医療のグローバリズム」と品よく呼ぶことも出来ようが、医療ツーリズムとは、金持ち国の医療が貧乏国にアウトソーシングされる構図にほかならない。

片や貧困と病気に喘ぐ自国民
 欧米のお金持ちが優雅に療養するアポロ病院から程遠い、国民の3分の1が暮らすというインドの田舎からは、こんなニュースが聞こえてくる。インドの農家も最近では国際競争に晒されるようになり、競争力をつけるには、アメリカから高価なバイオテクの種や肥料などを買わなければならない。しかし、その一方でアメリカが自国の農家に巨額の助成を続けるので、綿の価格は下落。インドの零細な農家が生き残るには高利貸から借金を重ねるしかなく、かんがい施設も災害保険も不備な中で、ひとたび娘の結婚や不作の年があれば完全なお手上げ状態だ。2003年には17000人以上の農夫が自殺し、その後も続いている(NYTimes9月19日)。
 前出のInternational Herald Tribuneの記事によると、インドでは簡単に治療できる下痢で年間60万人が命を落としている。結核で死ぬ人が年間50万人。人口1万人に対する医師の数を比較すると、イギリスの18人に対して、インドは4人。もっと自国民の健康増進に力を入れろ!……と、インドのお医者さんたちは怒っている。
 もっともな怒りだと思う。



*作成:堀田 義太郎
UP:20100212 REV: 20110517
全文掲載  ◇児玉 真美
TOP HOME (http://www.arsvi.com)