公開質問状
伊藤雅之射水市民病院前外科部長 様
2006年11月7日
「射水市民病院問題」から安楽死=尊厳死を考える連続学習会
(呼びかけ人四十物和雄)
連絡先:〒930-0862 富山市有沢811市営住宅7-102 Tel/Fax 076-422-0039
last update: 20151224
私たちは、本年3月25日に発覚した「射水市民病院人工呼吸器取り外し事件」(以下「取り外し事件」)に大きな衝撃を受け、この事件の真相解明と問題の所在と解決の道とは何か?を考えようと、四十物が呼びかけて活動を開始した学習団体です。4月23日第1回から、9月を除き10月第6回まで毎月連続して学習会を開催して来ました。
7月下旬からの伊藤雅之前外科部長の一連の発言開始によって、3月25日麻野井院長によって病院側記者会見で発表された事実経過、問題の所在、医療倫理について、双方の間でかなりの相違が明らかになりつつあります。
本来ならば、司法による「裁き」という「解決」以外にも、双方の間での前述の相違点について、一般の人にも公開して議論を深めていくことが、「取り外し事件」の究明と「終末期医療」「安楽死・尊厳死」等についての考え方を決めていくことに不可欠である、と私どもは考えています。
しかしながら、「立件」の有無という難しい条件がありながらも、伊藤氏の「勇気ある発言」を活かして、「公共の議論の場」を創らなければならないにも拘らず、一向にそうした動きは見られません。抽象的な死生観や医療政策の問題に議論が終始し、具体性の問題は司法に委ねてしまうなら、もし「立件」されなかった場合、一体どこで「事件の真相」が究明されるのでしょうか?また、その事実を根拠としての議論ができるのでしょうか?
そのことに危機感を抱いている私たちは、射水市民病院と伊藤前外科部長それぞれに対して、以下のような公開の形での質問を投げかけ、その回答を基に公開の議論の場を作っていく一助にしたいと考えています。私たちは些細な集まりですが、この公開質問状の趣旨をご理解いただき、以下の質問事項に回答を寄せていただきたい、と切に要望します。
回答締切日を二週間後の11月21日にさせて頂きます。文書にて連絡先まで郵送してください。
射水市民病院側への質問状及び回答書は、締切日後郵送にて送らせて頂きますので、御了解願います。
(なお、郵送が遅れる可能性がある場合は、メールかFAXで先に文面だけ送ってくださっても結構です。メールアドレス:mikotomiya@river.ocn.ne.jp)
【質問事項】
1.「取り外し問題」に関わった6件の内、まだ説明されていない2件についての経過説明をお願いします。また、「取り外し問題」発覚のきっかけとなった例についても説明をお願いします。
この件については完全に除外されているようなので、宜しく。[【註】未説明患者2件は、(1)02年12月女性80歳代(多臓器不全)(2)05年10月女性80歳代(肺炎・急性腎不全)4件については、マスコミ新聞8,4付各紙で報道されています]
2.「取り外し」関わった6人全員が「脳死状態」で「余命一両日から数日だった」と説明されておられますが、発覚のきっかけとなった2005年10月9日入院、12日「取り外し」、院長命令で再装着の男性患者さんが、21日まで10日間生きておられたことについて、どう思われていますか?「誤診」の可能性はないのですか?
3.6人の患者さん全員が「脳死状態」だと述べられていますが、「臨床的脳死診断」の4条件の内「瞳孔散大」(一件のみはDICである事を述べられていますが、脳死判定条件に含まれていません)としか説明されていません(「対光反射消失」は「脳幹反射の消失」の1部に過ぎません)。「平坦脳波」の存在すら示されていません。「臨床的脳死診断」を複数の医師で実施されたのですか?されていないなら「脳死状態である」と説明することは誤りではありませんか?
4.もし「脳死状態である」と判断する「それなりの理由(意識不明の状態)」があるならば、患者さんに耐え難い苦痛があることも不明な筈です。そうすると、何故「取り外し」=死なせることを急ぐ必要があるのでしょうか?(この点では、麻野井院長の記者会見での「患者の状態不明の場合は命の維持に全力を注ぐのが医師の責務」という意見の方に説得力がある気がしますが)
5.どんな優れた医師でも誤診を犯したり、自己の医療方針へ患者や家族を誘導する危険性と隣り合わせであることを、どのように点検していたのでしょうか?第3者の存在が必要不可欠だと思いますがどうでしょうか?
6.「終末期医療」の拙速なルール作りに対する、「ルール化によって人の死の迎え方に対する医師の葛藤が無くなる」と言っておられることは傾聴に値するものと思います。しかし主観的にはともかく、個々の医師の生命観という「ルール」による「独断」や「自己満足」という危険な罠に陥る恐れに対して、どのように注意、反省をなされていたのでしょうか?
[以下署名]