HOME >

保護室占拠 NO.1

大野 萌子
2006年10月28日

last update: 20151224


  あなたは精神病院の「保護室」に入れられたことがあるだろうか。
  私の場合は、「保護室」を4日間完全占拠した。

  入院中、私は「認知症」と「妄想状態」の合併症の方と「欝病者」が同室者であった。
  「欝病者」は「大野さんの『いびき』が五月蝿いので全然眠れない」とナースステイションへ再三の「苦情申し立て」を行なっていた。
  自然現象で自己責任はないが、私はあと10日で退院の彼女にはすまないとそれに苦慮した。
  私はそれを解決するには、唯一、他室への移動しかなかった。
  考えあぐねていた私は、ふと、手狭な3人部屋より、廊下を挟んだ向こう側に1人だけの大部屋入室者を目撃した。
  丁度頃合いであり、主治医に理由を述べて移室を申し出た。
  医師の返答は、「あなたはお金ないのでしょ。あの部屋は特別室で一日200円の特別室の料金がかかるの・・・」と断られた。
  じゃ 仕方がない。保護室ででも眠るかと、保護室への移室の許可を取った。「欝病者」の睡眠妨害者にはなりたくなかった。それがパーヘクトな解決法である。布団を持って保護室への移室であった。

保護室占拠

  人の言葉を受け止めとめられないのは「精神科医師」の常である。
  全身で「NO」を叫んでも受け止めた例がない。
  「イエス」・「ノー」は、最低の自己決定・表現であり、人権の最たるものではないか。
  保護室で私はしっかりとそれを自覚していた。
  そうした精神科医師への怨念は、「保護室占拠で自己実現するしかない」と決意した。
  まず、保護室の監視カメラを濡れたトレペを投げて塞いだ。
  「保護室」のドアは「中扉」であった。
  保護室のドアが絶対に開かないように、移動ベッドを盾にして「占拠」した。
  1972年11月25日である。天井近くの明り取りの窓にはチラチラと雪が舞っていた。
  「そうだ。三島由紀夫が自決したのは、11月25日だ。あれから2年か・・・。」と思いつつ、私は始めて「自由」を勝ち取っていた。
  まさしく、人生で始めての自由である。
  ここでなら、何人も私に干渉しない。
  ここでなら、人への気遣いは無用である。
  ここでなら、精神科医師も「イエス」・「ノー」を聞かないわけには行くまい。
  ここでなら、人生の精算もできる。
  ここでなら、アホで病名もつけられない講師も目障りにはならない。
  ここでなら、ここでなら・・・。
  何度、心のうちで叫んだことか。他の患者仲間には一向に迷惑は掛からないことも得心していた。

仲間と運命共同体

  突然、仲良しの「****ちゃん」が隣の保護室に叩き込まれた。
  「助けて・・・出して・・・」と叫びまくった。
  そうか、彼女の病状が『饗応』するので叩き込まれたのだなと察した。
  彼女に語りかけていた。
  「****ちゃん。大野ちゃん。大野ちゃんもここにいるよ。静かで良いねえ」と慰めたら、「大野ちゃん?」と返事をすると、すぐに眠ってしまったらしい。
  無論、私の抵抗は食事の全面拒否。
  突然、「保護室」の覗き窓に封筒に入れられた手紙がおかれた。
  それが、精神科医の説得による両親の手紙であることくらいは直感的に察知していた。
  「フン 娘がどれだけ精神科医に声を封殺されたか・・・知るよしもない」。
  「自分の娘を信じられないか」と怒りと情けなさに、「ポン」と指でその手紙を飛ばした。

天井の電気カバーが外されて

   何日目か、突然天井の電気カバーが外されて、男の顔が保護室を覗き込み、紐がたれ下がっていた。
  救出・・・ふざけるんじゃないと抵抗の姿勢を示した。
  「あなたは電気屋さんですか。私の家も電気工事屋です。もしも、私を哀れと思われるのなら、助けないで下さい」と懇願した。
  折角、手にした自由を奪うな。 それが唯一の私の願望であった。
  紐はスルスルと上っていった。
  水以外は口にしなかった。なければトイレのたまり水で渇きを満たした。
  生きることに絶望し、自殺未遂で精神病を自らで発見し、なお抵抗をするのは、人並み以上に労苦を重ねたゆえで、精神科医には何故それが解らないのだ。
  もう一度いう。精神科医は何故人間を見抜けないのか。
  私が「インタビユー」といわれる時間に、「愚痴」や「泣き言」をいったか。
  全てに希望を失った精神病者に、自由がどんなに切ない最後の望みか・・・。

条件闘争

  自由と孤独は常に共存する。
  それでも、私は自由を選んだ。
  最大の失敗は、精神病院の実態を毎日書き綴った「日記帳」を「保護室」に持ち込めなかったことだ。
  知らねばならない精神病院の実態を書く手段がなかった。
  もういいだろう。
  私は精神医学的に描いた人物だけが、患者ではないことを医師たちに知らしめた。
  それを確認した。
  「保護室」では、次第に労使交渉さながらの条件闘争へと流れていった。
  第一に「ロボトミー」をやらないこと。
  第二に 他病院に転院させないこと。
  第三に 私の要求どおりの食事を作る事。
  それらは、全て医師たちに同意され私は保護室をあとにする。
  その後も、くだらない「教授回診」は全てボイコットすることになる。
  こうして振り返れば、私が最も希求した「心の平和」と「自由」は、保護室以外にはなかったと言える。

  そして、いまも、具合が悪くなると・・・
  フリードリッヒ ヘッベルの悲しみが胸を塞ぐ。

  全ての傷口は流血を止め
  全ての痛みは燃えなくなった。
  されど悲惨の潮より這い逃れて
  人間はもはや己を認め得ない。
      ・
      ・
      ・
  己の墓に生い茂るイラクサの如き人間である。

  2006年10月28日   大野萌子

■言及

◆立岩 真也 2012/**/** 「これからのためにも、あまり立派でなくても、過去を知る」,『精神医療』67
◆立岩 真也 2012/07/** 「もらったものについて・9」『そよ風のように街に出よう』83


UP:20061114 REV:20120610
精神障害/精神医療  ◇大野 萌子ARCHIVES
TOP HOME (http://www.arsvi.com)