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書評:立岩真也『希望について』

小泉 義之 2006/10/28 『図書新聞』2795:5
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last update: 20151224

  立岩真也の書き物には、三つの基本ラインがある。私的所有論、障害者論、それと、生産様式論の萌芽である。これらは個別的には筋が通っているが、三つを総合しようとすると何かうまくいかない印象がある。以下、三つの基本ラインは、分配論の介在によって、いわば<俗流化>されるという<現実>を問題にしてみる。
  第一。立岩は、「私的所有の規則に正当な根拠はない」として、これを疑う懐疑論者として振る舞う。「生産者が生産物に対する所有権を有する」という「最初の分割のあり方、所有の初期値のあり方」は、合意・先占・労働といった概念によって正当化されてきたが、そこに特段の「根拠」はないし、「その結果、労働の差によって、能力の差によって、受け取るものが、人によって異なってくる」という規則にも「根拠」はないから、規則を随意に変更することが可能である。ただし、徹底的否定や恣意的変更を目論むのではない。穏和な懐疑論者として、<現実>に<乗る>ことを認めた上で、「もう少し多数派に受けそうな筋の話」を目論むのである。少し立ち止まってみる。
  私的所有の規則が想定する概念や状態の論理的=歴史的な順序は、@自己の生産(労働)、A自己の生産物、B自己の所得となる。では、立岩の懐疑はどこに向かっているか。@からAへのステップだ(労働全収権論を核とする講壇社会主義を採らないから)。同時に、「その結果」を問題にするときは、AからBへのステップだ(労働市場や労賃を能力主義・業績主義・貢献主義で捉えないから)。
  では、私的所有の規則を分配の規則として捉えるとき、立岩だけではなく、立岩が論敵とする人びとは、生産物の分配と所得の分配のどちらを考えているのか。これが曖昧である。それが<現実>である。すると、どうなるか。立岩の分配論は、必ずや個人の可処分所得の再分配の要求として受け止められることになる。分配論は必ずや再分配論に<俗流化>する。実際、分配の初期値なるものは、必ずや、個人の人生の初期値なる幻想に縮減して、個人の資産や能力や資格や相続がどうのといった下世話な話に終始する(それがリベラリズムだ)。こうして、<俺が稼いだ金で買ったポテトチップに対して立岩は何の権利があって口を出すのだ>式の反応しか呼ばなくなる。それが<現実>である(ここで@以前の概念や状態として、立岩の身体論を持ち込んでも事情は変わらない)。
  ところで、「市場での決定」は上記の順序のどこに関わるのか。これも曖昧である。それも<現実>である。例示は面倒なので、ここでは<古典的>な批判を想起しておくだけにする。そもそも、自己なるタームで個人と法人を同等に扱ってよいのか、@以前に個人や法人に生産や労働を分配するものを市場と見なしてよいのか、AとBを媒介する貨幣そのものについて懐疑しなくてよいのか、初期マルクスの所有批判から後期マルクスの生産様式論への移行に類比的な認識論的切断が必要なのではないか、等々。
  要するに、<現実>と折り合いながら<現実>を疑うにしても、その痛い所を突いているのか疑わしいのである。そんなこともあって、私などは、立岩の<元少年兵>的な側面に準拠して、「財源がないなどと冗談にでも言うな」「ただそう言いさえすれば、基本的には証明終わり」と威力業務妨害をちらつかせるほうが、実践的にも理論的にも展望が開けてくると思ったりする。
  第二。立岩は、障害者運動の達成を再確認している。本書で最も素晴らしい箇所である。「この国の障害者運動は、ともかくいくつかの地域で、最も多く介助を要する人でも、一人で、地域で、暮らせる制度・仕組みを作ってきた。これは、一定以上の人口を抱えている国としては世界的にも例のないことだと思う。それほど大きな勢力ではなかった運動が現在を作ってきた。生きている人たちの、もう亡くなった人たちの、どれほどの運動、交渉の積み重ねがあったか。これは偉大な成果だと掛け値なしに言える」。
ところが、立岩はこう続ける。「必要と稼ぎは人によって違うので、必要の方に合せて世にあるものを分配する。それは政治の仕事であり、それ以外に政治がすべきことはとても少ない」。ここでも、分配論が介在するや、障害者運動の達成は、所得の再分配に集約されるものであると必ずや<俗流化>される。それが<現実>である。
もちろん、立岩自身は、「世にあるもの」を所得や賃金に縮減しているわけではない。立岩は、金と生産財と労働の分配を主張しているから。では、労働の分配とは何か。立岩は、ワークシェアリングと障害者雇用のことを論じている。ともに再分配としては「合理的な解」であると私も思う。しかし、とくに後者を論ずる文章は、読むだけで重苦しくなってくる。三十年来の重苦しさだ。だからこそ、私などは、労働の拒否や分業の解体という<古典的>な展望に惹かれてきた。必要=欲望に応じて受け取ることだけでなく、必要=欲望に応じて生産することを展望したいからである。生産様式論が必要な所以である。
第三。立岩が生産財の分配において念頭に置くのは、「大量に生産・複製することが容易であるもの」である。情報産業・文化産業・製薬産業における知識財・情報財である。そして、立岩は、「開発者」の所有権は、それ自体に正当性があるわけではなく、「それがもたらす効果によって評価されて調整されるべきものだ」と続ける。要するに、特許期間の短縮と独占価格政策の排除を求めている。異議なしだ。ところで、立岩はこう論じ加える。「国境を越えて」「広範な人たちの技術、生産物への接近を容易にする」べきであると。さらに、「もっと単純な趣味、簡素な使命感によって、ものごとが進むような状態を目指そう」とするからには、「不当なルールは遵守する必要はない」と。「存在の自由」のために「資源を分配すること」なのだから、と。
  その通りだ。貧しき人びとが、稼ぎたいというよりは、生産したい労働したい協同したいと欲望するとき、手元にないものは、生産財(機械や法人も含められるべきだ)であり、信用貨幣(可処分所得としての貨幣のことではない)であり、能力と力能でもあるが、それこそが幾らでも<模倣と複製>(ガブリエル・タルド)が可能な財なのであるから。しかし、タルドが指摘したように、それは分けても与えても減ることのない財(神学用語では神の賜物)であるからには、この生産様式論の萌芽(資本のコミュニズム)は、(再)分配論を介在させた上記の二つの基本ラインとは異質になるはずである。
  最後に。立岩も強調するように、貧しき人びとの望みを叶えるための物質的条件は十分に成熟している。にもかかわらず、どうして<現実>はこうなのか。この点で立岩は揺れながらも、「学問上の争いが社会での争いの一部なのである」と社会学者よろしく落ちをつけてもいるが、それでいいのか。むしろ私は、四十年来、理論と実践の一致など信じてはこなかったので、立岩の<冷徹>な側面に準拠して、「望んでいないなら、このままでよいはずだから、どうこう言うことはない」し、「あなたが望んでいるのなら、それは叶えられる」と言いたい。その意味においてこそ、障害者運動は希望であり、貧しき人びとの闘いは希望である。三つの基本ラインは、有象無象の社会科学者のお喋りに埋もれることなく、その希望を示すことができるだろうか。

◇立岩 真也 2006/07/10 『希望について』,青土社,309+23p. ISBN:4791762797 2310



UP:20061022 REV:
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