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小泉義之著『病いの哲学』(ちくま新書 2006)を読みながら安楽死=尊厳死問題を考える

富山市 四十物(あいもの)和雄 2006/09

last update: 20151224

(1)はじめに――問題意識
  以前、射水市の酒井克岳(かつたか)さんの、同書の『読書ノート』を紹介しましたが、私の今回やろうとするのは、射水市民病院問題での「延命治療中止」を行った当該者である伊藤雅之前外科部長が、事件発覚からほぼ4ヶ月経ってから、自らの行いの告白を始めた事に対して、私たちがどう考えていけばいいのか?の考える材料を提供しよう、という意図で、同書の提起している問題を紹介したい、ということです。
  伊藤医師が今回の問題で「重要な問題提起をした」と語っている訳ですが、彼とは反対の立場から、現在推し進めてられている安楽死=尊厳死法制化に向けた流れに抗(あらが)い、問題点の隠蔽を図る力学と対峙して行こうと思います。
  小泉さんの同書を読む、というスタイルをとるわけは、彼の論点の出し方がきわめて大胆で問題点が分かり易いからです(同時に、対抗案としては大雑把過ぎたり、非現実的な所もありますが・・・・)。私の考え付かないような論点も出しているからです。

(2)同書の問題意識――「病」と「死」と「生」との関係性の「革命」
  予め言っておきますが、同書は読みやすい部類の書物ではありません。「射水市民病院問題」などの安楽死=尊厳死や、「脳死」臓器移植、難病に苦しんでいる人等の問題意識(共有化)がないと、読み通せないものです。ここで問題にしていることをまずおおまかに把握する事が出発点です。その為には〈はじめに〉と5章〈病人の役割〉から読んでいきたいと思います。
  〈はじめに〉で「生きるか死ぬか、それが問題だ」という問い(問題意識)が、批判の対象に挙げられています。この問いが発せられるのはいかなる状況の下なのか?に注意が向けられます。この問いは、実は「何の価値もないかもしれない生(著者はこれを「低次元の生」と読んでいます)」か、「(そのような生に決別する)気高い死」を選択するのか?という問いが(ほとんどの場合)「本当の問い」だといいます。そしてそれは、死を選ばせる力を秘めているのだ、と看破しています。そしてそのような問い自体に抗って、「低次元の生(=病人の生に代表させています)」を肯定することが、同書の狙いである事を述べています。
  この箇所を読んだだけでも、「射水問題」での「延命治療中止」議論が、「人の生死の高低=いのちの選別」という事の核心に触れた問題を、実は隠蔽してきたことが見えてくるでしょう。素晴しい切れ味です。この事に共感または驚嘆した人は、以下の私の紹介を読んでください。そして小泉さんの同書を読んでください。

(3)第5章 病人の役割を読む
  話を進めやすくするために、まず第5章〈病人の役割〉から読む事にします。この章では、パーソンズという社会学者の社会システム論から「医療〈医師―患者〉の社会的役割」という事に注目します。話は長くなるので、本稿に必要な箇所だけ見ていくことにします。
  パーソンズの〈医師―患者〉の社会的役割の核心点は、「病人は自分の力・行為によって健康を回復するのではなく、ケア・援助を受け入れる事を期待」され、「医師へ援助を求める事、協力する義務が課せられていること」、言い換えれば、「病人は病人であることにおいて無知・無力な存在であること、受動者であらねばならないこと」が要求され、「援助者は医師であり、彼が専門職として病人のニーズを判定する資格を持っていること」が要請されているのだ、というのです。だから「病人には概略的にも細部においても、医師の専門的資格を判断する権利がない」。かくして、病人は医師の管理下において「患者」となる(役割を引き受ける事に)なるわけです。この点では患者の「自己決定権」「インフォームド・コンセント」も、この役割構造の枠内での選択権でしかないこと、その事を明快にしている事は、特筆に値します
  次に問題になるのは先の役割構造の「普遍性」から次の事を問題にした点です。
  普通私たちは、医療制度の恩恵に与る者を、回復した後に社会に付記して借りを返す事の出来る人間に限定する理屈を考えがちですね。ところがパーソンズの凄いところは、回復可能・不可能を問わずに、医療の中における〈医師―患者〉役割が貫かれている点を明らかにした事です。その背景には、医学・医療の発展が治療可能性と必ずしも結びついてはいない現実を直視していることにあります。だから彼の問いはこうなります。「いかにして無知・無能な状態に置かれている病人が、本当は無知で無力な医師が知と力を持っているかのように信じる事が出来るのか?」と。
  医学的知識のあるなしに関わらず、病人にとって病気からの「治癒」(医師による「治療」と区別します)は非常に強い願望であるため、医師の側がそれなりの自信を持ったような態度を見せれば、「治らない現実に目がいかずに医師の支配下に」ということは理解しやすい事です。では、医師側の「自信」はどこから出てくるのか?という事になりますね。この時に、彼らの科学技術万能主義と、「治療行為」における「積極的介入を好む偏見=体質」(ここには、この書では十分に触れられていませんが、「命の尊重」と非営利主義を核とした医療倫理の制度的確立+医学進歩信仰と、それに支えられた医療実践に於ける「人間機械論」――人体を医療のため・人類のため犠牲にしても平気な精神は動物実験などで増幅されているものと思われます――とが関わっている様に思えます)が、医学分野の「呪術」を形成した、と述べています。「治らなかった人は元々無理だったのだ」「いろいろ試みられた治療法によって、近い日に治療法が確立されるし、されて来た」「彼・彼女は尊い犠牲だったのだ」という風に、外部の視点からは理解不能な屁理屈がまかり通ってきたのだ、と。
  更にこの呪術構造は、今日においては、「医療の側が治療不可能性を認める」事が日常化してきたことに並行して、旧来の「延命処置=悪い死への道」に代わって、「善き死」を実現する事で、医療・医師への信仰を繋ぎ止めようとして来ている、というのです。「死が免れない病」「治る見込みのない病」ならば、「生きるに値しない命である」から(【註1:この意味のすり替え問題については、これからの記述で批判して行きます】)、それよりは、「親密な人々から孤立する事のない死」「意味ある死」を医師に求め、医師もそれに応えていく方向に向っている、というのが、パーソンズから学んだ著者の判断です。
  そして、不治の烙印を押しながら、「親しい人々」「世間」等のために死ぬ事が善い死だ、それを実現する医師が良い医師だ、というような「死に溺れるマインドコントロール」に対抗して、烙印を押された「病人同士の集団形成」、病からの回復の希望を捨てない独自の「病人文化」創造を著者は提起するのです。
  この辺りの展開は、希望の灯を垣間見させるものとなるのか、それとも抽象論になるのかは、微妙な所ですが(少なくとも、これまでの障害者運動では未だ実現の途上であって、目に見える成果は余りあるようには見えませんが)、その意気を評価したい所です。

(4)ハイデッガーと「死に淫する哲学」
  「死の問題」について最も良く考えられている、と評価されてきたドイツ哲学者ハイデッガーの『存在と時間』を、尊厳死と結び付けて考察した第2章を検討してみようと思います。この章と臓器移植を扱った第3章が、「敵」の側からこの種の問題において深く考えられたものとして、有意義なものに思われるからです。
  この書にはあまり触れられていませんが、ハイデッガーの「死の哲学」の背景には、史上初めて行なわれた世界戦争=総力戦戦争での「死と隣り合わせの戦場体験=敗戦体験」が存在しています。いつ来るか分からない「死の恐怖」の只中に、「一人ぼっちで投げ出された」体験が、戦後=戦間期においても持続している中で書かれたもので、類稀な緊張感を内包しているのが、間接的に小泉さんの著作からも伝わってきているように感じられました。
  ハイデッガーの基本的立脚点は、前述のような時代性を反映して、「時代・社会に埋没され、0に等しい存在と化している私・たち」の、「反逆」としての「おのれの各自性(これを称して『実存』と呼んでいます)」を取り戻そう、という主張のように思われます(【註2】後期ハイデッガーにおいてはかかる実存哲学と決別しているらしいのですが、本題と関係ないので省きます)。それは彼及び同時代人の多くにとっては、「いつ訪れるか分からないが、必ず人は死ぬ」という生活の場での人々の共通の雰囲気・あり方(【註3】彼はそのような存在のあり方を現存在と呼び、その分析を通して「本来的な生」に迫ろうとしているようです――この辺は素人の読みなので決定的誤り以外は大目に見てください)で、このような「代理不可能性」に対して、著者は、何故そのことに固執するのか?ということと、日常的体験において(例えば、飲食、排泄等)も「代理不可能性」が示されるではないのか?という疑問を提出しています。
  著者は疑問を提示しているだけのように思いますので、私なりにとりあえず思い当たる点を述べて見ます。第1の疑問点には、先に述べた時代性の中で「これまで安定していたはずの彼ら・彼女らを取り巻く世界が崩壊の危機に瀕しており、人はかかる崩壊の只中に投げ出された不安の只中に生きている」、その中で「自分の譲れない拠り所」として「代理不可能性(としての本来的な実存)」を出しているように思います。著者がいつの間にか「各自せいの問いを本来生の問いに切り替えている」と指摘しているのは、前述の事があるからだと思われます。論理上の飛躍(すり替え)は、当該の論者の切迫性からもたらされているのでしょう、第2の疑問点は、核心を突いています。それはハイデッガーが「今・ここでの生き方=現存在」を中心に現代社会分析をなそうとしていても、最後まで残る欠陥としての「肉体性」の軽視、「いのちの、意味=価値への解消」に連なっており、「尊厳死」肯定の基底を示しているからです。
  さて、ハイデッガーに対する基本的な批判点を定めた上で、著者は凡庸な安楽死=尊厳死論者、「死に溺れる考え」に対する鋭い批判を展開してゆくハイデッガーの論旨に付いて行きます。詳しくは同書に譲る事にして、その根本的視角を述べてみたいと思います。
  ハイデッガーの立場からすれば、本来的に可能性を本質とした人のありようにおいては「死というほかの可能性を奪う、という可能性」であっても、あくまでも「可能性」としてある訳だから、自殺などの他の可能性を奪う行為や、死の可能性を数値化して死を予防しようとしたり、今はやりの「死の教育」という死への心構えなどは、死をモノ化してコントロール(それは死と一体の人間をモノ化してコントロールする事と同義です)などは、死の「可能性」からの逃避でしかないのです。これこそ彼の最も批判する、他者が既成の選択肢を予め与えた上で、半ば強制させる形での非本来的な選択、として激しく批判します(彼にとっては、選択肢自体や、選択のあり方が問題というよりも、選択する側の存在のありようが問題なのです)。
  一番最初に、私はハイデッガーの生きてきた時代背景と彼の発想の原点との関係を述べました。著者はそこに哲学史(その背後にある西洋民衆思想・宗教史)に根深くある(著者は第1章ソクラテスの死の哲学において考察していますが)の伝統にある肉体に対する嫌悪、受肉に対する不安と負い目(という相反する価値の共存=アンビバレンツ)が重ねられる事によって、彼の哲学の核心が構成されていることを示します。そして、世界に産み落とされた無気味さ・災厄が死へと向う「末期状態」=死の可能性しかなくなった状態に極限化される筈だと言います(【註4】著者はハイデッガーの受肉に対する根本的怯えと救済願望とのモタツキぶりに対して、フランスの思想家フーコーの「生きたいのか、生きたくないのか」というのが唯一の選択肢だといいます。しかし、これは著者自身が本書の〈はじめに〉で提起した問題をクリアーしたものとはいえないように思います。実際フーコーは安楽死を望んだと聞いています。この辺りを著者がどのように考えているのか?聞きたいものです)。
  結局、ハイデッガーは、世界に投げ出され、肉体を与えられた事の無気味さと不安(精神では肉体をコントロールできない)に怯え、その苦悩から救済を、生死の意味自体を求めるために悪戦苦闘したはずでしょう。しかしその挫折の結果、肉体を与えてくれた「疫病神」を一転して肯定し、その肉体の血統に自らを位置づけ(第n目として)、死者の列に参列する事に意味を見出す、という無残な結果を引き起こしてしまったのです(それがその後のドイツ民族共同体至上主義を唱えるナチ党への積極的参加に繋がっていった理由として考えられます)。
  この「転向」(必然性と見る見方もあるが、私にはどちらとも判断できません)において見ておくべきなのは、最後まで肉体に対する嫌悪感が継続されている事、人の生を精神的意味=価値でしか評価できなかった事が挙げられると思います。だからこそ意味を与えてくれる(意味ある死を与えてくれる)「上級価値(神、共同体、人類などの実体や、理念・理想語が代入される)」――勿論その一連の語の中には「患者の最善の利益」も入る――が要請されるのだろうと思います。しかし、このことは各種「上級価値(体)」が、生死の意味を与える機能を肯定することにより、末期の人、「生きるに値する価値のない人」を「安んじて死なせる」ことの道になっていくのです。ハイデッガーのそれまでの「死という不可能性の可能性」の鋭い批判はどこに行ったのでしょうか?

(5)レヴィナスと臓器移植
  この問題は、「射水問題」と直接の繋がりはありません。しかし、私たちは既に3,25の翌日に、県立中央病院で実施された「脳死」臓器移植が、何の批判的コメントもされずに、「いのちのリレー」という賛美一色で報道された事実に直面しました。この臓器移植は、ある意味で究極の尊厳死であると共に、「いのちの犠牲の構造」を最も良く示しているものだろうと思います。ここでは、旧来の倫理観自体が「犠牲―贈与」の系譜を引きずっている事を問題にしなければならない厄介な領域であることを念頭においてもらえたら、と思います。
  レヴィナスという哲学者はリトアニア出身のユダヤ人で、ナチによって親子・兄弟の多くを亡くした人です。本人も収容所からのサバイバー(生還者)です。彼の哲学はナチの雁行の根源を立つため、事実上の師であり、積極的ナチ信仰者であったハイデッガーとの対決の中から形成された物凄く倫理的なものです。彼は人間(私的)主体を原点とする考えに異議を唱え、顔を持った他者が眼前に現われる場が人間社会の根本的なあり方だ、という考えを提起した人のようです(私自身彼の書を読んでいないので、10年ほど前論争されたままうやむやになっていった加藤典洋氏と高橋哲哉氏―『靖国問題』の筆者―との「戦後責任主体論争」で間接的に知っていただけです)。
  レヴィナスは、日常生活において、人は自分の存在が経験の原点=支えである事が当たり前であるように確信している事に対して、異議を唱えます。そのことを、『存在の彼方へ』という書で、「脳死状態」の人が臓器移植(可能)者として置かれた状況において考えていこうとしました。
  20世紀初頭の輸血から開始され、「脳死」臓器移植が可能となる時代の推移を受けて、私の肉体について私の所有物とすら考えて来なかった私たちにとって、私という肉体が突如として「他人のためになるもの」、ドナー(臓器提供者)となりうる、という事態が、「倫理的強迫」を伴って、現前に突きつけられてきたのです。「どうして見ず知らずの人同士がレシピエント(被移植者)とドナーという肉体関係を取り結ぶかもしれない様なこと、が可能になったのか?」という問いを提出します。
  小泉=レヴィナスは、ドナーになるか否かの「自己決定」の際に加えられる「心理的・社会的強迫」に対する批判に対して、「肉体は所有物でないから自己決定の対象ではない」ので「強迫」も許されるかもしれない、と批判を退けます(【註5:この点については違和感があります。後述】)。逆に「極度の火急時」として、「移植しなければ生きられない人がいるから」という「強迫」に触発される立場に立たない限り、「本当に移植しなければならないのか?移植して生き延びる事が出来るのか?本当に移植が公正・平等に行なわれているのか?」という移植医療を批判する立場に立てない、というのです。肉体を受けている生命体としての人にとって、「あたかも他者との連帯の基底には他者による迫害があるかのようである」とも言っています。中には、ドナーにするための出産すら行なわれている現状から、20世紀の輸血によって切り開かれた倫理的な意味は、「移植できる状態になる難しさ」「移植の適合性の難しさ」を通して、「生まれる前からその人に与えられた(他者の身代わりになりうる肉体を持つ私でなければならない)強迫的使命」として、与えられている、というのです。
  ここでレヴィナスと著者の考えは分かれます。レヴィナスはこのような科学技術の開発による専制に由来する「犠牲」の構造(欧米で既に実施され、日本でも国会に提出されている(臓器移植法)改悪の内容)を、全面的に受容して行きます。著者は倫理的使命については受容しながら、その地点において(のみ)犠牲・献身の制度化のあり方を批判できると考えています。私は両方に異論がありますが、もう少し彼らの議論を見て行きましょう。
  レヴィナスは「他者の身代わりになりうる側=『この私』の『代理不可能な者』」の「掛け替えのなさ」において、ハイデッガーの『代理不可能な者』が「血統共同体の中で死んでいくこと」を批判していく訳です。しかし、レヴィナスの「掛け替えのない私」は、「生きている限りの存在」か「死へ向う限りの存在」なのか?と著者は鋭く問います。
  この問いに対するレヴィナスの思索は、著者の案内にも拘らず、本書を読んでも良くは分かりません。ただ『この私』は「肉体を与えられた」。しかも、「移植は万人に平等に責任を課している訳ではないので・・・・それは神・祖先・共同体が与えたのではない。初めからそのようになっていたとしか言いようがない」。もう一方「『この私』が贈り与える責任を負う他者は(私たちと同様の肉体を有して現に生きている)特定の人」。とするならば、「そもそも初めから=生まれる前から」定められた使命があることが、人が生きはじめるための根本的条件だということである、と結論付けているようです。だから、臓器移植はそんな使命=責任に応える一つの仕方として、肯定されるのです。こうして、「死より高き存在(神・共同体等)」ではなく、「他者のために死ぬ事」、「死より高き他者への責任」が死に意味を与えてくれる、というのです。とすれば、「掛け替えのなさ」は「死に向う限りの存在」という事にならないのでしょうか?
  もう少し考えてみましょう。「無意味な状態「無意味な生」「無意味な死」――そういう状態(ここでレヴィナスは「脳死状態」、遷延性意識障害等の人を考えているようです)に追い込まれている人――に狙いを定めて「他者の顔」が迫ってくるのです。「呼吸器」によって生かされている人間は、他者によって、他者のために死ぬ。「これは理不尽な暴力そのものではないのか!」と思わず叫びたくなる事態なのですが、「『命のリレー』という美辞麗句」という言葉が反対論の中でも多数派を占めてしまうのは、一体どうしてなのか?と著者は私たちに問い返してきます。後でレヴィナスを批判する著者ですが、そこには、「自我中心の、自由が価値の中心を占める現代の人間関係」に先立つ「万人のためにある人間存在、兄弟愛・人類愛・連帯の基礎としての〈犠牲=贈与〉という根源的なあり方」への共感=覚醒があるのではないのか、という様に述べています(この場合、「兄弟」と言う意味は、家畜において生かされるのは基本的に雌だけで、雄は種雄を除いて任意の時に殺されることが使命になっているため、別の兄弟のために身代わりとなって死ぬ意味が込められています。人間を家畜として捉えることに対して反発が当然あるものと思われます。しかし、ここで問題にしたいのは、そのように切り取ってみる事によって、現代において死を管理し、配分するのは、神や血統共同体ではなく「人間社会」――これを現代思想などでは生政治などと呼んでいますが――となっており、そこに人間の根源的社会性があるのではないのか?というのが著者らの意見なのです)。
  著者―レヴィナスの考えは以上のような記述から、「人間の肉体を共有財産と考え、社会の必要性に応じて肉体を再配分する」が、人間の根源的社会原則、だと考えている事が分かります。その立場に立たない限り、「人間というものが共に生き延びるべきである」という原則は出てこないと著者は言います。彼はこの点においてレヴィナスのいう「兄弟関係」が、実は「脳死状態」の人などの、レヴィナスが「生の意味を持たないような低次元の命である人」に〈肉体の犠牲―贈与・配分〉を限っている事。そこには結局のところ「低次元の生=死に向う生」は無意味であり、「死ぬ事=犠牲・贈与によって得られる意味」を求めようとする「死に溺れる、死に淫する哲学」に屈している、という批判があります。その差別性に対して、「2個の眼球を持つ人間の中から、贈与=移植する候補者をくじで選ぶことは無条件に正しい」と筆者は言い切るのです。
  ここに来て、私と筆者の立場の違いがはっきりとします。筆者の言う「殺人以外の肉体の贈与なら良いのか?」と、言いたくなります。彼は人が相互に肉体を献身し合う社会を「理想社会」「人間の根源的社会性に立脚したもの」と考えているようですが、これは破産した20世紀の社会主義・共産主義の「ユートピア≒デストピア」の再現ではないでしょうか?
  近代市民社会で生きている人々にとって、平等と同時に自由というものの価値は決して譲れないものだろうと思います。その只中において、個々人は「幸福を追求しようとする、ある種のエゴイズム」を持って生きています。流行の言葉で言えばQOLの向上を生きる力としています。それは確かに個々人のおかれている状態・条件において、自由権や幸福追求権の無制限の行使は差別・格差を助長する働きをします。そのことは、障害者運動の中においても貫徹されて来ています。しかし、それが決定的な対立や敵対にならないように、連帯・共同行動を行なってきている現実のプラスの面を見なければならないでしょう。
  詳しく展開する力量が私にはありませんが、QOLというものが、ある意味でその高低において「命の選別=優生思想性」を発揮する危険この上ない考えになること、なっている事を無視するつもりはさらさらありません。今までは、その事を強く言ってきた方でした。しかしながら、生きていこうとする上で、「より良い状態で生きたい」という欲求を無視することは出来ません。それを無視するならば、人はそれこそ「死ぬ事に意味を求める」方向に行くでしょう。たとえば著者の「肉体を共有する思想」論においては、「2つの眼球を持つ人がその一つを眼球のない人に贈与する事が無条件に正しい」とするならば、「眼球を移植しても良いと考える相手とそうでない相手との、実際における思いの違い」を無視する、というQOL的観点は完全に無視されています。これは暴力的なものといわざるをえません。多くの人がそのような社会的原理が貫徹されるならば自殺に追い込まれる事でしょう。あるいはそのような社会を転覆する反革命の行動に立ち上がるかもしれません。
  確かに、私自身も「主体(自由)の哲学」では捉えきれない献身の構造があると思っています。しかし筆者のように、「その構造から命の犠牲を引き算すべき」という時に「命のあり様=QOL」をも引き算すべきではないか、と思っている次第です(その辺りのレヴィナス的他者論の息苦しさは、「戦後責任主体論争」――私自身は「自国民という主体を立ち挙げてから、他国の人々に対する戦争・戦後責任を負うべきである」とする加藤典洋氏の立論は支持できない者ですが、高橋哲哉氏のレヴィナス的責任に対して、「自由の余地の少なさ」に異議を申し立てている事と相通じるものがあります)。

(6)〈死に淫する哲学〉と犠牲の構造
  死を最も重々しいと見るだけでなく、死をめぐる考察が「真・善・美を手に入れることが出来る」と見做すのが、著者の言う「死に淫する(溺れる)哲学」ですが、この哲学の強力な流れ(=系譜)は、人間存在・社会に存する「犠牲の構造」に対応しているといいます。「誰かが誰かに死を与える。そうして、何かのため、誰かのためにその死が犠牲として差し出される」この「暴力の構造」を、彼は現代思想のフーコーと並ぶ思想家デリダの分析を借りながら、今までの記述の総括を兼ねて述べていきます。
  デリダは「犠牲の構造」の「原典=原点」を『創世記』の有名なアブラハム神話を引きながら、現代社会の犠牲の構造解明の糸口を探ろうとしているようです。知らない人のために要約しておくと(ここの下手さ加減の責任はみんな私=四十物にあります)、本来なら羊を「生贄(いけにえ)」にするところを、神は敬虔な信者アブラハムに対して、「代わりに彼の息子イサクを差し出せ」と「使いの者」を通じて命令する。アブラハムはそれを忠実に守ろうと、イサクを生贄にしようとする。手をかけようとする直前で、神はそれを止めさせ、羊を生贄にする、というストーリーです(旧約聖書には神への信仰が本物であるか否かを確かめるため、に色々な形のストーリーが何度でも出てきます。これらの分析はデリダの考察を深めるために役立つでしょう)。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教に共通の原典である以上、これは、姿を変えて今日にも引き継がれている、と確信するからデリダ―著者は重大視しているのです。神は共同体(ハイデッガーと尊厳死)や他者(レヴィナスと臓器移植)に姿を変え、「神の使い」は医療関係者・政治家・市民にすがたをかえています。ただこの分析は端緒に過ぎない、この犠牲を犠牲とも思わずに実施されていくメカニズムの解明は、これからの課題として残されている、といいます。
  更に分析は、病人にとっての「死に淫する哲学」の役割を問題化していきます。
  この哲学は、末期病人を「死ぬしか可能性のない」「善を成す他者の手によって死を与えられるしかない存在(死ぬ事にしか意味のない存在)」と断定している、といいます。「死ぬ権利・死ぬ自由」に対置されるのは、「生きる権利・生きる自由」ではなくて、「権利を守るに値しない生・生きる自由を既に失くした生」(【註6:ここは第2章で述べた事の繰り返しです】)であり、そのような生の、死への廃棄だというわけです。前述の権利論は「犠牲の構造」への水路でしかありません。
  この事に対抗出来るのは病人の回復を信じ、奇跡を信じることだと著者は言う。現実にそのような奇跡は、起こっているのです。日本の医療では「脳低温療法」の開発や、遷延性意識障害回復(「意識障害」というコトバがサバイバーの発言によって疑問視されるような回復の事例があるのです)の実例があるのです。

(7)病人の哲学と科学
  これまでは、「死に淫する哲学―犠牲の構造」というところで、安楽死=尊厳死、「脳死」臓器移植に貫かぬかれているものの解明と批判がなされてきました。これからは、それに抗う原理と方向についての提示が為される番です。
  さすがの腕力を持った小泉さんも私から見ればスケッチしか描くことが出来ていないように思えます。著者の問題提起に共感を持つ人が協力し合い、病人の闘いという、これまで深く考えられてこなかったことについて、為していくしかないことでしょう。そのためのいくつかの稜線が提出されていると思いますので、難解ではありますが、見ていくことにします。
  パスカルという有名な思索家・科学者の「十字架のイエスの受難を真似ることで、病苦の意味をえようとした試み(私たちはこの系譜にシモーヌ・ヴェーユを加える事が出来るでしょう)」を、著者は「魂と心の病苦を薬物(私はここに心理療法も加えたいと思う)で消去しさえすればすべてが片付く」という考えに対する異議申し立ての提起として肯定的に受容しています。それは私たちを絶望に誘う状況の意識の中から希望が生まれてくる、ということではないのか?!と。その希望とは、不可逆的に死へと傾いていく「生の傾斜」の只中において、とにかく安定した(傾斜のない平面)状態を願うことだ、と言っているように読み取れます。それに関連して、著者は「病気と障害との違い」について、という「具体的な問題(?)」で説明を試みています。
  「障害者、特に生来の障害者は生体と捉えるなら、何も欠けるところはないし、何も余る所はない・・・・・・(受精から出産までの)過酷な過程を凌いで生まれ出てきたすべてものは、完全現実態して受け止められねばならない」。これに対して「病気は、生体の状態から死体の状態への移行であると捉えてみることが出来る・・・・・・移行過程のどの状態においても、安定性や頑健性が損なわれていると考えられる。だからこそ病人に向っては、〈時よ止まれ〉と言いたくなるのである」
  以上からして、次のように言えるのではないのかと。希望は科学技術・医療技術のように人間のコントロール(計算可能性――欲望)可能なものと関わるのではなく、その対象外の事(したがって絶望と隣り合わせの事)と関わってくる、別の意味では自然・肉体という被造物の中に奇蹟的なものの可能性を信じることである、と。ここで著者はマルセルという哲学者のすごい洞察を紹介しています。「私は諸事物を自由に処理する事が出来るようにさせているその当のもの(不随意性)を、私は自由に処理するできないというところに、おそらく、不随意性ということの形而上学的神秘の本質が宿っている」(マルセル)この事を著者は、「自らの身体も動かす第1原因とは何か?」とさかのぼって考えていくと、不随意に身体を動かすものが人間の肉体に内在している、と考えざるを得なくなると言います。それはリハビリ治療などの経験でも実感される所だと言います。この不随意なものは受肉した肉体そのものだと言い換えています。ここにハイデッガー、レヴィナス等の受肉の感じ方(「無気味なもの」「責任を負わされた受難」などとは異なる、「希望」と繋がるもの)があります。
  「精神は自分の全身体を自由に処理できるようになりたいと思っている。だからこそ、不随意生に我慢がならないし、不随意性を無にする自殺や犠牲の可能性を考えもする・・・身体の自由が利かなくなることは・・・・とても怖い事である(【註7】脳性まひ者・パーキンソン病のような人に対する差別の理由でもある)・・・・ところが、そんな人々は生命機能の本質を動く事に求めているのになる・・・・生物を生物たらしめているのは、栄養摂取機能・生殖機能である。感覚機能や運動機能はそれに支えられている・・・・病人の祈りが向うべきは・・・・(この)生物の共通機能なのである」(p174−5)と著者は新たな信仰を対置していきます。
  この辺りの展開は思弁的で難解なものですが、簡単に言ってしまえば、「抑圧からの自由」という意味とは違った意味で、人は何でも自由に環境も肉体も変えることが出来るし、コントロールできる、という信仰(現代では誰もがそうであるので信仰として自覚されていない――それと結びついた科学技術信仰)が〈「死に淫する哲学」―「犠牲の構造」〉と結びついているのではないのか?それが「病人」の生を、死へ向う意味のない生として決め付け、安楽死や尊厳(ある)死へと傾斜させているのではないのか?上記のような「自由」の断念、その根拠としての肉体の制限性=不随意性を直視してみよう、ということではないのか、と私には思えます。
  以上のような洞察の下、医学的にも「病気が死への単線的な過程」という見方に反する「複線的・相互作用的な病気の進行過程と、死の進行の連関」についての科学の再審を提起しています。そのためには病人自身の病態の時間的経過(「病気の自然史・誌」)と(死後の)病理解剖学との架橋について述べられています。私はそういうことにはほとんど無知なので、医師―患者関係の一方通行的な「コミュニケーションギャップ」の問題点の中から指し示された(本稿第3章、本章前半)「病人の生の豊かな可能性」を具体化しようとする試みである以上には捉えられません。この辺りは別の人たちが述べてくれるだろうと思います。

(8)結びに
  毎度の事ながら、時間と他の仕事に追われて満足なものとはなりませんでした。特にレヴィナスの所に時間を食って、当面の実践課題である伊藤医師や県公的病院長協議会に対する批判として、パーソンズの分析をもう少し整理して「何故、無知で無力な医師を信じてしまうのか?」彼らの無知さ加減をもう少し明らかにする課題が残っています。
  とりあえずの課題として、「安楽死・尊厳死」、「脳死」臓器移植を正当化する(外的条件の分析はこれからです)内的思想性についてはある程度理解できたのではないか、と思っています。ただ、主観的な評価とは別に、「難解である」とか、「小泉さんの考えを理解していない」とかと言うことは当然ある者と思います。批判は受けていくつもりです。また立岩真也さんの読みも、ほとんど参考に出来ませんでした。残念な事ですが・・・・・。
  一応今までの運動の、私なりの思想的整理にはなりましたし、同様の刺激を仲間に与えることが出来るのなら、最低限のことはした、と言いうるのではないか、と思います。本稿を手始めに、小泉さんの本書や他の人の意欲的な論考を読んでいかれることを期待します。(2006年9月11日)


小泉 義之 20060410 『病いの哲学』,ちくま新書,236p. ISBN: 4480063005 756 [boople][amazon] ※,


UP:20060913
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