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森岡研×立岩研・合同研究会

2006/09/02土 1400〜 於:立命館大学

last update: 20151224


■ はじめに 野崎泰伸

 2006年9月2日、大阪府立大学の森岡ゼミと立命館大学の立岩ゼミとの合同研究会が開かれた。同年6月に、DPI(障害者インターナショナル)日本会議において、森岡・立岩両氏、さらには立岩ゼミの院生でもある川口有美子氏が生命倫理分科会のパネラーとして同席した。その場に筆者も居合わせ、4人で合同研究会の案を検討し、近々開始することで合意した。なお、大阪府立大学のほうは「現代思想研究会」特別版という位置づけでもある。
 研究会当日には、両ゼミの院生はじめ、教員や川口氏・筆者の知り合いなども参加した。進行は2部構成となり、1部は筆者の報告、2部は森岡・立岩両氏からの提起を受けつつ自由討論という形で進められた。1部の報告は、その後に筆者の博士論文「「生の無条件の肯定」に関する哲学的考察――障害者の生に即して」となるものであった。1部での議論を受けて、2部のほうは、立岩氏の『希望について』とそれについての森岡氏が論評から、生の肯定、分配、欲望、自殺、安楽死・尊厳死といったテーマについての議論となった。それは、1部での議論とも大いに重なるものであった。

 両ゼミとも、それぞれプロジェクトがあり、それぞれに活発に研究活動が行われている。院生どうしにおいても、違うゼミに所属しながらも同じような研究をしようとしている者もいる。とりわけ、障害/老い/ジェンダーなどをめぐる現代的な問題において、それは顕著に見られる。ぜひ、これからも両ゼミの交流、ひいては「現代人間社会分野」(大阪府立大学)、「公共領域」(立命館大学)を中心に広く研究活動が共有できれば幸いである。

 案内より)
(12時から14時まで同会場で立岩さん、堀田さんの自主研究会参加自由です)
1400 森岡研×立岩研合同研究会スタート

1400 報告1 「生命の価値の位置づけ――欲望・平等・正義」
    野崎泰伸(大阪府立大学大学院人間文化学研究科院生)
1530 自己紹介・コーヒーブレイク

1600 森岡先生と立岩先生のお話

   「立岩社会学と森岡生命学はマジョリティに届いているか」
1800 質問自由討論
1900前後 終了→懇親会


■ 第一部 報告要旨 「生命の価値の位置づけ――欲望・平等・正義」(野崎泰伸)

 本報告では、「生の無条件の肯定」という主張が含意するところを述べるものであった。生命を「すべての価値(自由・平等・正義など)の基底となるメタ価値」であると位置づけ、そのうえで「どのような生も、無条件に肯定されるような価値および社会構造」について模索した。生命は、それが宿る存在と切り離しては語れないものであり、その意味において私が言う生は、生命と存在との臨界点にある。換言すれば、ある生命を否定するということは、その生命が宿る存在をも否定しなければならない。このように、生命と存在とは不可分な関係にある。私の主張は、生命と存在との臨界点である生を、無条件に肯定することを正義とする1つの価値体系に他ならない。
 そこで「正義」というとき、実行可能性の問題とはいったん分けて考えなければならない。実行不可能な正義に意味はない、という反論を許さないためである。しかしながら、そうすると今度は、その正義はただの絵空事に過ぎない、という批判にさらされることになる。確かに、正義の完遂は不可能である。しかしながら、正義の完遂のためにこそ不正義を1つ1つなくしていく必要があるとすれば、その意味において「不可能なる正義」が有意味になる。そして、不正義を1つ1つなくしていく際に方法論的に取り入れられるのが、漸進的改良主義である。すなわち、不正義に対し言明、さらには存在レベルで「反証」していこうとする。カール・ポパーの「批判的合理主義」の考え方を、正義論における方法論として位置づけようとするのである。
 この考え方は、正義論を正当化主義によって捉える従来のリベラル派の議論をも撃ち抜く。正当化主義によっては、「他者」はあらかじめ想定された範囲でしか位置づかない。それに代わって、反証を中核に据える正義論においては、「他者」の現出が私たちとの境界線を侵犯してくる可能性を示唆する。そこが大きな違いである。そして、具体的な論点としては、中絶の問題、延命と尊厳死の問題が挙げられた。生の「入口」と「出口」における難問だが、それらを「生の無条件の肯定」という方向で考えることを示唆した。
 さらに、このような「論理」だけをもってしては社会の多数派は動かない、という問題についても示唆した。これについては、結論は出なかった。しかし、まず第一義的に論理的であること、だとしても論理は説得とは別物であることなども提起された。


■ 第二部 森岡正博氏、立岩真也氏による対談とディスカッション
 *第二部のテープ起こし+編集 杉田 俊介

 【森岡】延命治療について私が思い出すのは、昭和天皇が倒れた時、徹底して延命しましたね。普通の人ならとっくに死んでいるのに、血液をどんどん輸血した。一説によると自衛隊員の血液をヘリコプターで空輸してたそうです。人は無条件に生きていてよいという主張がありますが、それは人々を、昭和天皇のあのレベルまで延命させた方がいい、ということになるのでしょうか。全員が昭和天皇の下血時のような濃厚医療をしたほうがよい、しないなら生命の肯定に条件をつけてることになる、というのなら、それはかなり極端な主張になってしまうのではないか。
 次に、自己犠牲の話です。立岩さんは、生や生存権は絶対に他人には譲渡できないものである、と話していた。そうすると「私は国家や大切な人のために自己を犠牲にする、誰からも強制されず自分の意志でそうしたい」、というような譲渡も許されない、ということになるけど、それでよいのでしょうか。
 もちろん、一度自己犠牲を許してしまうと、その人だけではなく、他の人にも自己犠牲を強制することになってしまう、だから危ないじゃないか、という反論はあります。その人は自由意志でやっているけど、いったんそれを認めると、社会の中では強制にすりかわっていく、だからその人の自由意志の行為も初発で禁止すべきだ、と。そういう論理はどこまで有効なのか、と常々思っている。というのは、私自身が、生体移植などについて、そういうことを言ってきた。その人はそれでいいかもしれないけど、めぐりめぐって弱い人にしわ寄せが行く、と。でも、常にその論理で反論することには「罠」があるんじゃないか、という気もする。
 もうひとつ、選択的中絶の話。立岩さんも同じだと思うけど、私自身は、選択的中絶をなるべくしないためにはどうすればいいか、という風に考えてきた。ただ、その時には色々な言い方がある。こないだ中国で国際生命倫理学会がありました。私も行って、選択的中絶をしなくていいような社会のあり方を模索すべきだという話をした。会場はけっこう紛糾して、色々質問があった。
 ひとつに、こういう意見があった。「たとえばダウン症などについてはあなたの意見でいいのかもしれないけれど、一口に染色体異常といっても沢山の種類があって、たとえば生まれてすぐに確実に死ぬような赤ちゃんがいる。そういう赤ちゃんの場合でも、あなたはスクリーングは一切しないほうがいい、と考えるのか」と。私にしては珍しく、即答できなかったんですね。私や立岩さんは、これまで、生命は選別しないほうがいい、とある意味で十把一絡げで主張してきたのかもしれない、と思うわけですよ。でも、非常に具体的なケースを突きつけられた時、どうするのか、どう答えるのかという問題が残る。私の中でもまだはっきりした答えはない。その時、ダウン症はいいけど、他の場合はよくない、としてしまえば、そこで生命の選別をしているわけですよね。
 出生前診断に関する分科会では、柘植あづみさん、武藤香織さんも発表者だった。私も聞きに行った。アジアからの参加者が多かった。ディスカッションしたんだけど、そこで、選択的中絶に躊躇する意見を言っていたのは、日本人だけだったんですね。他のアジアの人はわりとあっけらかんとしていた。日本人に対し、「なぜそこまで選択的中絶に躊躇するの?よくわからない」という質問があった。一番印象的なのは、インドから来た女性で、「障害児のスクリーニングは母親の義務である」とはっきり言っていました。柘植さんは、日本では選択的中絶をした母親は「自分はよい母親だろうか」と悩む、と言ったんだけど、そのインドの女性はそれにも「なぜ?よい母親になるためにスクリーニングするんでしょ?」と言っていた。このあたりがすれちがっていて、これは、私や立岩さんが日本でしている議論をいきなり「世界」へ持っていくとズレてしまう、といういい例だと思う。そのインドの方も発表したんだけど、彼女によると、インド社会では、障害児を生み育てることに非常にコストがかかる。先進国とは前提が違う。インドではまずはスクリーニングを前提とせざるをえなくて、そのあとで、ではそれをいかに少なくしていくのか、という議論の順序になる。そういうことをいっていた。今の私に答えはないのだけど、考えさせられた。
 大阪版の朝日新聞に記事を書いた。アメリカで生命倫理学の会議があり、私もそこで発表してきた。そこへ乱入して抗議行動をしたのが、「まだ死んでいない(ノットデッドイエット)」というグループで、アメリカの障害者運動で一番過激な団体。青い芝の会のような感じだった。会議で一番面白かったのは、この出来事だった。私はその後も、彼らとコミュニケーションを取っています。今日は、記事に書かなかったことにふれます。かれらは、抗議をしたわけですよ。それは、エスタブリッシュメントの学者や医師が、生命倫理を論じること自体への、アンチテーゼだった。で、どうなったのかというと、この会議は朝から晩まで2日間あったんだけど、2日間がすぎるにしたがって、最初の、驚いて会場を出て行く人もいたような、怖さや動揺がだんだんなくなっていった。最後には、障害者たちが「いなかった」かのように、会議が終っていきました。実は彼らの抗議で、会議が1時間送れた。彼らは不法に入ってきた。主催者は警察を呼ぶこともできた。ところが、警察をよばなかった。あえて、彼らに叫ばせた。ちょうど私の隣で、主催者と障害者団体のリーダーがやり取りをしていた。結果、「おれたちの声が反映されていない」といったので、主催者は、あえて彼らに発言させた。10分くらいかな。発言のあとは割れんばかりの拍手が会場から起こった。そこあと、かれらは、粛々と会場を去った。そのあと、会議が始まった。で、2日間かけて、動揺が収まっていった。
 会場の中で、こういうことを言っている人がいた。昔はこういうことがあるとすぐ警察を呼び、逮捕者が出るなど、対立が明確化していた。でもいまは、こうやって対話によって当事者と学者が議論していき、お互いの誤解を解いていけるようになった、バイオエシックスも成熟した、と。でも、私は全く逆のことを思った。成熟したバイオエシックスというのは、当事者による体を張った抗議行動までも、ここまで、無害化して収めてしまうやり方をとうとう手に入れたのか、と思った。感覚的な印象なんだけど、一九七〇年代から、マジョリティは、30年かけて、マイノリティの抗議行動を、波風立てない形で取り込んでいくやり方を覚えたのか、そういう気がしました。皆さんの現場でも似たような状況があるのかな。
 立岩さんから、譲渡できないものとしての生という話、野崎さんから生の無条件の肯定、という話がありました。でも、その時「生命」とは何を意味するんでしょう。私はそれをちゃんと哲学的に考えたい。立岩さんや野崎さんはどうなんだろう。本当に言いたいのは「生命」じゃなくて、もしかしたら「存在」ではないですか。生命はいろんな意味内容を含む。ライフ、レーベン、ヴィーなど、色々あるけれど、日本語でいう生命、「いのち」という言葉の含意は、かなり多様ですよね。生命観の違いがある。たんに存在や生存だけではない。個人が死んでも何かが続いていく、子どもを産んで子孫がつながっていく、そういう再生産などもふくめている。あるいは、大きな生命とか、大自然もふくまれている。エコロジーが必ず入ってくるわけ。でも皆さんの議論はそれをふくんでいないようにみえる。野崎さんや立岩さんがいうのは、生存・存在なのであって、それを「生命」と言うと、まずいのでは。まずは素朴にそういう反論をしてみたい。
 先ほど野崎さんを批判しました。でも、私も野崎さんと同じように考えてきた。私の言葉で言えば「根源的な安心感」という言葉です。『生命学には何ができるか』の終りの方で、それを言っている。私たちは根源的な安心感をこそ守るべきではないか。たとえ私が、障害を持って生まれても、背が小さくても、これから老人になっても、私の生はこの社会に平等にむかえいれられるだろう、むかえいれられるはずだ、と心から本当に思えること。人々がそう信じられること。それを根源的な安心感と私は呼ぶ。それを大事なもの、守らなければならないもの、と考えてみる。こういう考え方で、どこまでいけるのか。これからちゃんと考えていきたい。たとえば先の選択的中絶は、この観点から否定されます。
 根源的な安心感という考え方は、「人間の尊厳」ということの基礎付けにも使えるんじゃないか。生命倫理でも哲学でも、人間の尊厳はとりあえず大事だと思われているけど、その概念の中身は空虚、という状況がある。でも、人間の尊厳ということを、もう一度哲学的に基礎付けられるんじゃないか。立岩さんや野崎さんと、私の方向性はそんなに変わらないと思う。ただ、言い方は違う。皆さんからの反論も、違ったものになるでしょう。どちらが遠くまでいけるのか。それをやってみたい。富士山に登るルートはいくつあっても構わないわけで、それぞれの言い方の長所と短所があるからね。
 もう一つ。自殺の問題。これは非常に重要ですよね。生命学をやる限り、自殺のことをどうするの、という問いには、ケリをつけたい。うまく言葉にできないし、直感的なものだけど、こんな感じで今は考えています――私は「自己否定の自殺と、そうではない自殺」を、分けて考えたい。前者については、色々批判したいし、働きかけもしたい。ただ、後者もある。それはどういうものか。うまく言葉でいえないが、ただ一つ、思っているのは、こうかな。「これ以上生きていてもいいし、生きていなくてもいい、と心から思えた時に、私が、生きることを選ばないこと」、そういう自殺は肯定していいような気がする、と。自殺に対する否定的ではない関わり方があるとすれば、一つはここかな、と思っている。自殺を否定する言葉ではなく、肯定する言葉、それを語るのは非常に難しい。こういうことを言うと、紛糾するのが目に見えていますが。それから、今「私は…」と言ったけど、ただ、他人に対してはどうか。これはむずかしい。私も今は答えがない。これについて、いま論文を書いている。けど、迷いもある。社会の中でそれを言って許されるのか、ということもある。森岡がそれを言うのはいいが、他の人が自殺するのを後押しするから、それは言うべきではない、と言われるかもしれない。
 
 【立岩】一つめ。出生前診断については、プロライフvsプロチョイス、保守vsリベラルという対立が一つあって、これはみんなが知ってることになってます。ただ、それとはやや違うスタンスの主張も他方にあるということです。「まだ死んでいない(ノットデッドイエット)」という団体については、たまたま僕もホームページを見つけて、その存在を知りました。評価はともかく、そういう事実は事実としてあるのであって、それはまずは見た方がよいだろう。それが僕が言ってきたことの一つです。そして、その主張がそうよくできたものではないことはあると思います。でも、一点突破の連中がいることは、ある意味心強くもある。彼らの発言のつじつまはあっていないかもしれないけど、なにかインパクトがあるということはある。そうして言われたことをフォローして、理屈付けするという仕事もある。両方あっていい。僕自身は、どちらかといえば彼らの後衛の役割だし、それを今後も続けていきたいと思っています。
  二つめ。野崎さんの話の続きで、「生命」のこと。たぶん自分は、これまで、生命という言い方はあんまりしていないです。森岡さんが言うように、そこには色々な意味がふくまれるからです。存在、あるいは生存・生活、などと言ってきたと思う。これについては、ただそれだけ確認しておきます。
  三つめに、「根拠」のこと。人の考えは、別のルートをたどっても、結局あんがい同じところにいく。論理ってそういうもの、と思っている。「根源的な安心感」だけど、僕だと別の言葉になるかもしれないけど。「純粋な利己主義」とか。『看護教育』の連載で森岡さんの本を紹介した回でもそのことは少し書きました。
  そして、『自由の平等』と、その少し前の文章で考えたのは、『私的所有論』のような「他者から始める」という形ではない形で進む方向もあるんじゃないか、ということ。「私がどんな状態でも、その社会の中では、生きていける」。それは、かなり、いいことだ。そしてそれは、「私からいける」、「私」から始めても行けるのではないか、とそういうふうに考えてみます。社会的分配は、ある種の利他主義や、保険制度を前提にしなくても、考えられる、根拠づけられるのではないか。『私的所有論』のように他者から始めるのではなく、それと同時に、別のやり方で、「私」から始めて、私の利益は少し下がるかもしれないけど、まあいいか、というような。
  この辺は、森岡さんと、基本的に同じことをやっている気はする。ただそれが本当に、生存権、生存の権利の「根拠」なのかどうかはわかりません。理由とか根拠を、そもそも言う必要があるのか、という思いも一方にはあります。ただ、多くの人が、一致して良い、望ましいとは思わなくても、まあそれでいいかな、それくらいならいいかな、と思えるような、そういうものがあったら、現実はそちらの方向に向かいやすくなりますよね。それは無理難題ではないよね、と。実際に生きている、暮らしている現実の中で、その現実を変えていくことができる。そういうものがあるんでないかと言ったり書いたりすることができる。そしてそれは脆弱な、弱いものでは案外ない、「みんなそう思わない?」くらいは言ってみてもいい。意外に、そういう言い方が、学問の世界にはあまり表立っては見当らない。それは不思議でもある。だから、まあ自分がそういうことを言ってもいいのかな、脳天気に、それでいいんじゃない、という話をしてるんです。
  ただ、それでも、抜き差しならない問題はあるかもしれない。クリティカルな極限状況が世にあるって事実は認めないではない。救命ボート状況とかね。でも、それを何かしらの典型として語る語り口には、ちょっと違うだろう、と前から思ってきました。誰かを殺すことが誰かを生かすことに即なる、という状況はそうそうないし、あったとしても、それがそうそうないようにしていくことはできる。そんなに無理しなくても、減らすことができる。もちろん、それは完全にはなくならない。なくならないけど、それを典型例として語ることについては、注意深くなければならないと思います。
  四つめ。自殺のこと。僕も、自殺全般を否定するような話は、今までしてきていないです。ただ、社会的波及効果のことは考えなくていいとして、そもそも、自分には積極的に「自殺していいじゃない」というようなことを語る理由がないから、肯定すると積極的に言うこともしないということです。それは、フーコーがカトリックを敵に回して語らなければならなかったというのと違う。
  ただ、一つ言えるのは、安楽死・尊厳死を批判するとき、それは「自殺だからよくない」という言い方にはしないでおこう、とは思っているということです。宗教的に自殺はダメだからダメだ、というの言い方とは違う言い方がどこかにあるだろうと思っているということです。安楽死は、自殺は自殺なんだけど、その部分集合です。自殺のある部分、中絶のある部分がきもちわるいのはなぜか。そう考えてみる。自殺全般を否定する、というのではなく、そういうふうに語った方がいいと思う。わたしの在り方がわたしが生きる生きないを決めてしまう状況は違うのではないか、という言い方で言おうとしてきたこということです。
 
 【森岡】皆さんにもお配りした『論座』の書評(↓)があります。立岩さんの『希望について』を部分的に批判している。2点。一つは、立岩さんの論理だけでは、マジョリティが社会的分配に賛成することにはならないのではないか。多数派には言葉が届かないのではないか、ということですね。二つ目は、人のエゴイズムや欲望の問題。立岩さんの論理でいけば、そこにどういうふうに介入するのか。立岩さんの論理では、人々のエゴイズムや欲望に勝てないのではないか。そこの考察が欠けていないか。法律や制度で多数者にも強制すればいい、というけれど、そもそも法律や制度を作るのが金持ちや多数派の人々なのだから、本当に立岩さんの言うような法律や制度が実現できるのだろうか。そういうことを書きました。立岩さんの仕事は、「こう考えてみよう」「こう言われたら、こう言い返してみよう」というものだったと思う。でも、立岩さんからそういわれても動かない人たちの問題については、どうでしょう。立岩さんのやっているのが社会学である以上、この辺のことは踏まえなければならないのでは。
 
 【立岩】多数派とか動かない人についてはどうするの、ということに関しては、そんなにアイディアがあるわけではないんですよ。では言いようがないのかというと、そうでもないと思っています。いくつか言いようはある。例えば、他人に対するざまあみろという心性のことでいえば、こういう話で大切なのは、当り前のことなんだけど、「欲望の複数性」はあるということだ。ざまあみろという気分は、僕も含めてあるよね。でも、それが「人間っていうのはそういうものなのさ」となると、それは違うのではないか。その人は、それとは違う価値も同時に持っているだろう。そこは一つ押さえておきたいわけで、そうじゃないと、「人間ってこういう面もあるよね」って話が、「人間はこういうものだよね」「だから世の中は動かないよね」という話になってしまう。欲望Aと欲望Bの配合はかなり微妙でファジーだろう。状況に応じて、偶然的、可変的だろう。そういうことをまずは認めようということです。
  たとえば僕は累進課税を強力に肯定します。そこで、いわゆる高額所得者、その上位5%でも10%でもいいです、その人たちから税を取る、ってことにしてしまってよい。それなら、国民の過半くらいの同意は取れるんじゃないか。その辺、ぼくは「やれるところからやりましょう」主義者であって、その辺からやればいいと思う。エゴイズムはどうすればいいの、ってことについてはちょっとわからない。わからないけど、確認したかったのは、一人の人間の中には複数の欲望があって、そのバランスなのだろうということ、ちょっとしたことでそれは変わるのだろうということ。多数派と少数派の関係自体も、そう考えると、微妙なバランスの中で拮抗している。その配合もちょっとしたことで変わりうると思う。

 【森岡】一つだけ思うのは、たとえば累進課税のことでいえば、我々は直接民主主義の社会では生きていない。間接民主主義です。国民の大多数が累進課税に賛成したとしても、法案を審議するときに、それを決めるのは議員という高所得者層なわけで、つまり、法案が通ったら自分の身を切られる人がそれを決めていくわけですよね。じゃあそれはすんなりは通らないんじゃないか。そのあたりの構造的問題は、社会学者だから、ちゃんとやらないと……。

 【立岩】とりあえず、代議制なら代議制は認めるとしましょう。すると、人々がどういう投票行動をするか、ということしか残らない。それはそうです。比べてましなことを言う人に投票するしかない。こういうことにしかならない、たいした話じゃないけど。

 【質問者】世界でみれば、日本の経済水準は上位の何%かに入るわけですよね。アフリカとか、他の貧しい国の人を助けるために、日本全体の累進課税を強化しようと。すると、日本にいる低所得者層は、より一層低所得者層になるのでは。すると、どこまでが最低限の生活になるのか…。

 【立岩】まず事実として、世界全体でみれば、日本はたしかに恵まれている。だから、基本的に拠出すべき場所にいる、払わなければいけない。これはまずそう言うしかないです。だから、そう言う。ただこのとき、国内の誰から多く取るか、ということはあります。これは非常に直観的な言い方ですけれど、「中」から上の人、これはいやでしょうけど、ぼくも含めてね、それらの人には多く取られることを呑んでもらう。だから支払いが多くなるだろう。そのへんの、誰がいくら、という話については、計算がちゃんとできる人と一緒に仕事して、実際にいくらなのかと、ちょっとしてみるのもいいかな、と。原則的には、そういう話の順序になるだろうと思います。

 【堀田】立岩さんの「私から考えても、他者への分配がいえる」とか、森岡さんの根源的な安心感とかいった場合、それはどのくらいの範囲を考えていらっしゃるんでしょうか。普遍的に「全てのひと」というレベルなのか、それとも身近な人のレベルなのか。
  それから、その安心感を脅かす他者がいた場合、どうするのか。

 【森岡】後半の質問から。「生の無条件の肯定」という場合、例えばヒトラーの生命はどうするのか、という質問と同系の質問だと思います。基本的には、私は、根源的な安心感を普遍的なものとして考えている。人間の尊厳を基礎付けるようなものとして。ただ、その場合も「人」の範囲をどう考えるか、という問いは残るわけだけど、それは今は置いておきます。もちろん、根源的な安心感を壊そうとする人に対しては、何らかのアクションをしないといけない。ただし、その時、そのアクション自体が、根源的な安心感を壊すという自滅的な方向へ行く場合もあると思います。これはまずい。ただ、その場合はどうすればいいかということについては、答えはないのかもしれない。他者が積極的に攻めてきたらそれを撃退していいのか、というレベルですね。それに対しては、撃退しないといけない、撃退する必要があるケースがあると思うと同時に、撃退することで自滅的に根源的な安心感を崩すことにもなるケースがあるかもしれない。いまギリギリの話をしていますが、根源的な安心感も、オールマイティな答えではないかもしれない。

 【下地】国際的な分配のことでいえば、貨幣のレベルで考えたらダメなんじゃないでしょうか。衣食住のレベルで考えた方がいい。そうすれば、国内の貧困層にはダメージはない。それと、「第三世界の水準を低くとどめおく」ことで儲けている人がいる、という他方の状況もありますよね。増税よりは、そいつらを排除していった方がいいんじゃないか。両方あると思う。これも欲望の複数性というか。

 【立岩】今の話については二つとも同意しますね。自力更生という言い方はかなりまずい面もふくむんだけど、いわゆる途上国の場合、国内に人も物も充分にあるけど、その供給の仕組み、仕掛けうまくいってなくて、財が足りない、ということもあるかもしれない。そうすると、けっこう、国内のうまくつくれていないところをうまくつくることで、わざわざ外国からもってくるよりも、うまく行く面はあるのかもしれない。
  もう一つ、さっきの堀田さんの質問だけど、権利や義務と同じように、「私から〜」というのも、ぼくは普遍的なものだと思っている。

 【質問者】立岩さんにお聞きしたいんだけども…。仕事で疲れている人、追い込まれている人々の場合は、自然と、エゴイズムが出てくるんじゃないか。ソ連のコルホーズとか…。生活が貧しい人は、分配という考え方にいかないのではないだろうか。そういう人も分配に賛成するほど、世界は富んでいるのでしょうか。

 【立岩】まあ一つの答えとしては、世界は富んでいる、と言えると思う。僕はね。付け加えれば、うまく仕組みをつくればいいし、働きたい人に働いてもらえれば、そうすればうまくまわる。僕の議論は基本的にゼロサムで、高い所から低いところへ回せばいい、そればっかり言っていて、そこは批判されもする。高い位置にいる人の合意は取れるの、とか。
 それでも同じことを言いますけど、だけど同時に、うまくやれば増やすべきものは増やせるとも言います。現実に、世界全体が窮乏化していかない道を選ぶことは、充分可能だと思う。基本的には、その話に尽きるんだけれども。
  もう一つの方についていえば、たとえば、人の欲望というか、そこはわりと話を分けながら一つずつ見ていったほうがいいというか、たとえばこないだ出た稲葉振一郎さんとの本でもちょこっとしゃべったんだけど、嫉妬という感情は、よくみていくとそれ程悪くないんじゃないか。というのは、よく社会的分配をいう平等派(エガタリアン)は、嫉妬・ルサンチマンで動いている、と批判されるけど、それにどう答えるかです。嫉妬は、そんなにいいものではないかもしれないけど、そんなに悪いことのようにも思われない。そこは冷静にみていきたい。あと、あまり働かず沢山もらいたい、できればさぼりたい、というメンタリティのことなども、同じふうに言えるかもしれない。

 【質問者】親の子供の育て方と、存在の肯定・承認は、どういうふうに関わってくるのでしょうか。育てることは、相手に介入する、相手を変えることでもありますよね。それはどうなんでしょうか。子育てや教育ということと、子どもの存在のありのままの承認との関係、というか。これは先ほどの第三世界の話とも関わるかもしれませんが……。

 【森岡】私は、根源的な安心感ということでいえば、今の質問の方面からはきちんと考えてきていないので、うまくお答えできないかもしれないですね。私が根源的な安心感というとき、生まれる時、死ぬ時、などの場面を中心に考えてきたから。ただ、子育てということに限っていえば、条件(〜しないとうちの子じゃない)を付けた子育てはダメだろう、それは安心感を大切にしていくやり方とは違うだろう、くらいのことは言えるだろう。まあ、これは子育てについての、消極的な面からの言い方ですね。積極的なところからは、今はまだちょっと考えていない。

 【立岩】教える、育てる、ということについてはちゃんと考えた方がいいと思います。教育学者がやっていることは、最初からバイアスがかかっているので、あんまり面白くない。この会場にいたらごめんなさいですが。
  教えるということが親から子への介入であるのは間違いないんです。押し付けている、そういう面があるのは事実だから、まず認めた方がいい。親は子に、子どもが選べないものとしての何かを与えている。そこは動かない。その上で、何を与えた方がよく、与えない方がよいのか、と考えを進めるのがいいということです。そこはやっぱりグラデーションになっていて、子どもに対する完全な強制も完全な自由放任もない。
  次に、そこで何を教えるか、何を言うかですよね。「君ができるようになる、働けるようになると、こうなる、それはこれだけのことであり、これだけのしかありませんよ」とかね。
 
 【川口】ちょっと話しを戻して森岡さんのお話にあった「自殺の肯定のしかた?」について。原稿には書かないでくれとかは言わないんですけれども(笑)、私はいまALSに関わっていて、死んでしまいたいという人は多い。途中で治療をやめて、つまり人工呼吸器を外して、死んでしまいたい、と。殆どの人が一度はそれをいう。それが一過性ならいいが、最近は医療や介護費用の増加などで、今までのQOLを保つことができなくなってきている。患者は自力でQOLを高めることができない、幸せになることができない。生きているだけで精一杯ですが、自分の責任ではないのに、周りをまきこんでいく。そんな中でも自分から死ぬことが決して認めれないから、患者は落ち込んでも立ち直れたんですけど、これからは周りの人が「自殺したい」という本人を止めることがなくなっていく気がしている。今後、数年間が勝負になってきている。最近は『難病と在宅ケア』という雑誌で、3人のALS当事者が、「こう言う場合は死にたい」という手記を寄せている。それぞれ読んでいくとそれぞれ理由がある。一人はトータルロックトインになったら。もう一人は、元ドクターで、自分の身体が痛みに非常に敏感で、呼吸器はつけたけど、こんなに体が痛いとは知らなかったと。それが理由でも安楽死できるんじゃないかと。もう一人は、千葉の鴨川に住んでいる患者。いくら待っても、公的介護保障は東京みたいにならない。娘や妻をまきこんでしまう。「待っていられない」。希望が全くない。三人ともそれぞれ死ぬための理由がある。でも、だから、だからこそ、「死にたい」と、耳を傾けてくれる他者に訴えるわけ。裏事情をふくめて一人一人を細かくみていくと、「否定的ではない自殺ならいい」とは、単純には言えなくなってくると思う。だけど、生命倫理学者は、事情を勘案しないで、「否定的ではない自殺ならいい」とか言ってしまう。

 【森岡】話を聞いていると、今のケース3件に限れば、私には全部自己否定の自殺のように聞えるんですね。私の頭の中の分類では。私がさっき言ったのは、「これ以上生きていてもいいし、生きていなくてもいい、と心から思えた時に、私が、生きることを選ばないこと、そういう自殺は肯定していい」ということで、今のケースは全部それにあてはまらない気がします。

 【川口】いえ、自分から自己否定していくわけではなくて、今は大丈夫だけれど、そういうきつい条件が来た時に、自分は本当は生きていたほうがいいけれど、周りのことも考えて、生きていない方がいいんじゃないか、という想定をしている。実際その時を体験していない本人にも、想定したことはわからないのに。ただ、私にとっては、それらは、自己否定の自殺ではない、ほんとは自己否定かもしれないし、あるいは、そのどちらでもないのではないか、第三の自殺、というか――

 【森岡】そうですね。もっと繊細に考えれば、自己否定という言葉は使わない方がいいかもね。自己否定の自殺かどうか、ではなく、さっきの、「これ以上生きていてもいいし、生きていなくてもいい、と心から思えた時」云々というほうで議論を進めたほうがいいかもね…。

 【質問者】そのとき、「どちらでもいい」のに、どうして「死」の方を選択できるんですか。

 【森岡】たとえば、放っておいたら死ぬ、とかね――。今まで医療をうけてこなかった、この期に及んで治療は受けたくない、とか、そういうことはあるでしょう。今までのように生活して、その延長上で、そのままで死にたい。それは否定できないんではないですか。

 【川口】治療を開始しない。それは、周りがその人を放置しているんではないですか。死ぬと分かっている人を放置しているから…死ぬにまかせる、見捨てるわけですし…そういう社会でいいのか、というか…

 【森岡】こういうこと言うと、また哲学者は極端な例を想定すると言われそうだけど(笑)、たとえば、その人を見ている人がまわりに誰もいない、とかね。社会的にね。どういうかな…森の中で一人死んでいく、とかね。

 【質問者】自然死というか……

 【森岡】そう、自然死のイメージが一番近いのかもね。自殺が全部ダメなら、死を納得した自然死もダメになるわけですよ。論理的にね。でも私はそうじゃないケースもあると思っていて、それは例えば、一人で、本当に自然の中で、死んでいくとか…
  
 【下地】そうすると、社会が全くないというか、本人も含めて、全く判別できないというか……

 【森岡】私なんかはあると思うわけですよ。登山が好きで、雪山で遭難しちゃった時とかに、ヘリコプターが来ているのを知っているのに、知らせない、とかね。

 【質問者】私の患者さんにもALSの人がいるんですけれども。全介助で、段々身体の状態は落ちているんだけど、進行は遅いんですね。で、彼女は、人工呼吸器も胃婁もつけないと。積極的な治療を自分は望まないと。今は在宅の長時間介助で生きているけど、次の段階になったらそれはいらないと。実は、彼女の場合、夜間は介助者が誰もいないんですね。だから緊急呼び出し装置を設置しておくんだけど、危ない状況になっても、彼女はそれを押さないんですね。もう十分生きたと。まっとうしていると思うと。本人はそういうんだけども、周りから考えると、どうなんだろう。いま川口さんが仰ったように、見捨てることになるのかなと。すごく、それは考えますよね。たぶんいつか選択を問われるんですね。私はその時、これ以上生きろ、とは言えないかも……

 【川口】私も彼女のことは知っていますが、彼女の場合はそれでOKと思うんですよ。個別でこちらの思いも違うんです。だけど彼女のことを語る時、みんな「美談」にしてしまうの。特に保健婦などは周りの患者にそういう事例を話して歩く。どこどこの何さんはあんなにいい死を迎えたよと。我慢して治療を受けずに立派に死んだと。でも、たとえば虫歯になったら医者は治療停止なんてせず全部治すわけですよねえ。ところがなぜALSでは、治療停止はいつとか、自己選択とか、がんばって死んで偉いとか、そういう話になるのかと。そこは、いつももめるところであって、患者会の中でも意見は真っ二つに分かれています。彼女の場合は全然OKと私は思っていますが。結局、個別性ですね。支援していながら、そろそろ医者にモルヒネをと、使ってもらうケースもあるわけですよ。ただ、世間に対して、「良い死に方」を代表的事例として、美談として、紹介するのはどうかな。終末期医療のあり方も、そっちに進んでしまえば、結局は安上がりですからね。医療なんて使わないで死ねるなら使わないでいいわけですよ。でも、例えば彼女に30年間生きられるお金を先に与えておく。あげておいて、使わないのだからその時に戻せばいい、じゃなければ誰かほかの患者にあげればいい。そういうシステムができないうちに、「死んでもいい」という話にもっていくと、他の人たちも治療が受けられなくなっていく。
  ただ、そうは言っても私だって個別にはモルヒネを勧めたりもする。二枚舌だとは思うけど、倫理も二重性があって、それをうまく使い分けられないと実際にはまずいんじゃないかなと思う。表立っては私、絶対死んでもいいとは言わないですよ。弱者に一番お金が回るように考えながら発言している。死にたい人は死んじゃっていい、って、橋本みさお(友人のALS患者)も言うんだけど。本当に医療イコールお金だから。それだけしか指針がない、っていうか。

 【大谷】たぶんそこは、森岡さんと立岩さんのぎりぎりの違いというか。立岩さんならそこに踏み込まない、その手前でとどめている。ただ、それだけでは語れないところを森岡さんは言おうとしていて、制度やお金だけでは片付かない面はある。ただ、やっぱり、それを心の中で思うことと、書いてしまうことには違いがある。「ああ、よく言い当ててくれた」という人もいる一方で、森岡さんの発言を受けて、死に吸い込まれていく人もいる。そういう危うさがあるわけで、書くか書かないかといえば、一センチくらい「書かないで」という方に傾いているわけで(笑)。松田道夫の最後もそうですよね。それを書いてしまった。発話者の責任、知識人の業、ということはあるかな。

 【森岡】なかなかこれは答えが出ないと思いつつ、ずっと考えているわけですよ。私も川口さんと同じで、実際に臓器移植法案の作成に関わっていましたから。オープンとクローズドで、発言の内容が違う、違わざるをえない部分があるんですよ。全く仰る通りで、私も使い分けている。ただ、今回の自殺の問題に関しては、臓器移植と同じような二枚舌を使う必然性を、今は感じていないんです。今のところね。今後はわかんないけども。皆さん色々いうから(笑)。

 【川口】先生みたいに、やさしい人がいるから救われる人もいるんです(笑)。死んでもいいよって言われて、それでようやく生きようという気になれる人もいるから。でも、私にはそれは言えない。当事者側の発言には必ずお金(保障)がからんでくるから。生きるしかないうちは、ゼッタイに貰えるわけですが、反対に自由に死ねるようになればだんだん貰えなくなる。先生の言うことはよくわかるけど、死んでもいいよという優しさが勝っちゃいけないんです。負けながら言ってもらわないと(笑)。
  
 【森岡】(笑)今のが結論っぽいよね。生命のことを掘り進んで考えていった時、どうしても自殺の問題にぶつかる。その時に、いま話してきたようなことを考えざるをえないと思った理由の一つは、そうじゃないと、結局「死は全て敗北」になってしまう。そういう思いがあったわけ。うん。針の穴くらいの可能性かもしれないけど、私の主張がちゃんと通れば、そのケースの死は敗北じゃないんですよ。これを言わなかったら、死は全て敗北になりますよ。私には「人生の終わりは全て敗北だ」という世界観は、受け入れがたいところがありますね。
  
 【大谷】それはきっと、個別的な宗教というか、そういう部分に踏み込むことですよね。
  
 【森岡】それはそうですよ。生の価値を掘り進んで考えていったら、片方の足は宗教的な価値に立脚するところまでいかざるをえない。ただ、それはあくまで宗教性の次元であって、宗教ではないと私は言っているのだけど。
  
 【質問者】森岡さんは、死に対する恐怖はなくなったんですか。
  
 【森岡】いや、それはありますよ、依然として。ただ、そこは面白いところで、「恐怖はありつつ、死んでもいい」って思えるかもしれないよね。そういう「生きても、死んでもいい」っていう死の捉え方からふり返って、それを「生きていく」ことの支えにしていくこともできるかもしれない。
  ひょっとしたら、私が今ここでいった話というのは、ある人が、そういう「生きても、死んでもいい」という状態にあるか否かは、客観的な判断基準がないのかもしれない、ということかもしれない。ケースとしては想定できるけれども、具体的に誰がそうか、というのはわかってはならない、という話なのかもしれないね。これはすごく抽象的な話で、立岩さん的な話とはクロスしないかもしれない。でも、そういうケースがないかといえば、絶対ある。そのあたりがツボっていう気がするね。

 【立岩】それはあるかもね。でも、ロジカルに考えると、ある人の自死を認めるってことと、死が敗北であるってことが、どのくらい強いつながりがあるかってことは、ちょっと考えてみないといけないかな。そういうことをどこまで詰めていくべきか、っていうかな。スタイルの違いがあるじゃないですか。今日はそういう話は出来ませんでしたが、僕には僕の、森岡さんには森岡さんの考え方、書き方の筋道はある。それってどうなの、というか。こういう話はまた継続できれば、と。
 
 
cf.
◆立岩 真也 20020225 「森岡正博の本」(医療と社会ブックガイド・13),『看護教育』43-02(2002-02):118-119(医学書院)
森岡 正博 20060901 「書評:立岩真也『希望について』」
 http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm#tateiwa
 『論座』2006-9:314-315 http://opendoors.asahi.com/data/detail/7531.shtml
森岡 正博 20060811 「米国の障害者運動の現在」,『DPI われら自身の声』22-2:30-32
◆2009/03/27 JUNKU大阪トークセッション・森岡正博×立岩真也「生死を決める、その手前で」


UP:20070630 REV:0825, 20090305
森岡 正博  ◇立岩 真也
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