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尊厳死の法制化に反対します

人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会) 2006/08

last update: 20151224

尊厳死の法制化に反対します(MS Word版)


  日本国憲法には、「ひとりひとりの生存権」が明記されています。バクバクっ子(人 工呼吸器をつけた子どもや同等のケアを必要とする子ども)もそのひとりひとりです。尊厳死が法制化されれば、呼吸器をつけて生きることや、重い意識障害がありながら生きることは、「尊厳のない生き方」「生きるに値しないいのち」と見られ、「生きていても仕方がないいのち」という社会的な無言の圧力を生みかねません。また、自立支援法施行に伴う経済的負担増加、サービス量・内容の低下、医療での自己負担増加、受け入れ施設の減少(特殊疾患療養病床の2年後廃止等)などから、「生きる」という選択をしにくい方向へ追い込まれる可能性が色濃くあります。実は、尊厳死の問題は、バクバクっ子のみならず、わたしたち全ての人間にとって「ひとがひととして生きること」の意味を問うものであり、どう生きたいか、その為にどういう社会を創りたいかを問うものではないでしょうか。
  尊厳死の法制化ではなく、呼吸器をつけていても、重い障害があっても、地域の中で当たり前に生活できる社会の実現をめざすべきです。


バクバクの会15周年長期活動方針より

  生きる権利

  「人工呼吸器をつけていても、どんな障害があっても、生きてほしい。」という思いが私たちの出発点でした。
  しかし、最初から、私たちが子ども自身を丸ごと受け止めていたわけではありませんでした。「世間の目を気にし、遠慮しながら迷惑にならないように行動していた。」「在宅しても、重度の障害者だからと家に囲い込んでいた。」など、私たち親は子どもを思う反面、差別的な目でも子どもを見ていたのです。
  けれども、そんな親の思いや社会状況に関係なくたくましく生きる子どもたちに励まされ、教えられ、「親自身の差別意識や思い」が子どもの生死や生活を決定するという「親の思い」の持つ恐ろしさに気付き、見つめ続ける中で、「人工呼吸器をつけていてもどんな障害があっても"ひとりの人間・ひとりの子ども"、子どもたちの"命と思いを大切に"!」という考え方にたどり着き、バクバクの会の基本理念として定着していきました。 また、「人工呼吸器」についても、機器の取り扱いや必要なケアに慣れ、生活領域が広がるに伴い、終末期医療の生命維持装置という医療機器ではなく、子どもにとっては生活に必要な道具(補装具)であるという捉え方に変わっていきました。
  一方、最近このようなバクバクの基本理念とは反対に、「尊厳死」の法制化を求める動きにみられるように、バクバクっ子たちの生きる権利が制限され、出生前から死に方までコントロールされかねないような危うい社会状況に陥りつつあります。
  私たちのささやかな実践をはるかに超える勢いで、新生児から胎児へ、さらに遺伝子レベルへと命の選別が強化されるようになってきました。出生前診断や遺伝子治療の発展と普及は、子どもたちに恩恵を与える以前に、「命の質」を問う道具として使われ、難病や障害のある赤ちゃんを「生きていても仕方のない命」として選別し、積極的治療の見送りにもつながってきたという現実があります。
  また、京大病院エタノール中毒死事件にみられるように、加湿器にエタノールを誤注入され53時間も吸入させられ死亡したさおちゃんの人権や命が無視され、命を守るべき病院で、不正を摘発すべき検察の場で、事故隠しと虚偽がまかり通っている現実もあります。 さらに、親が、難病や障害のある子どもの将来を悲観し彼らの命を奪うという事件が起きた時、子どもの人格を無視した身勝手な行為として問われるよりも、相変わらず「親の気持ちはよくわかる。」「その子は死んだ方が幸せだった。」など、親に同情が集まり「減刑嘆願運動」が巻き起こるといった社会状況もあります。
  そして、「尊厳死」の法制化…というわけです。「尊厳死」とは、難病や末期患者、遷延性意識障害者が、自らの意思で過剰な延命治療を中止することを認めようというものです。「過剰な(=無駄な)延命治療」の概念の中には、人工呼吸器の使用や経管栄養などの生命維持措置も含まれています。逆に言えば、それらの手段を使いながら生きている人たちの生き方そのものを「尊厳のない生き方」であると否定し、そのような状態は「生きるに値しない」という社会的な無言の圧力を生みかねない危うさがあります。にもかかわらず、「尊厳死」を法制化するということは、「尊厳のない生き方」であると国が認知すること、それを国の価値基準にすることであり、その影響力は計り知れないものがあります。
  このように、「人権の世紀」としてスタートしたはずだったこの21世紀にあっても、バクバクっ子の生きる権利が全面的に認められているとはいえないどころか、ますます制限されかねない厳しい状況に向かいつつあります。だからこそ、わたしたちは原点に立ち返り、バクバクっ子たちの「命と思い」に寄り添い、どんなに重い障害があろうと生きる権利が保障されるよう、社会に向けて訴え続ける必要があります。


●会報『バクバク』69号(2006年7月30日発行) 巻頭言

優生社会を問う〜「尊厳死」法制化の動きに思う

穏土ちとせ(副会長)



  昨年初め、超党派の議員連盟から「尊厳死」法案が提出されそうな動きがあるとの新聞記事を目にして以来、私は、居ても立ってもいられないほどの危機感を抱いていました。そんな中、富山県射水市民病院での人工呼吸器取り外し事件の発覚をきっかけに、このところ「尊厳死」の法制化、延命治療の是非について、メディアでもしきりに取り上げられています。人工呼吸器をつけて暮らす子どもたちからいろいろなことを学んできた私たちからすれば、明らかに偏った一面的な報道も少なくありません。これらの報道が、一般の市民のみなさんの頭の中に「人工呼吸器をつけて生きていること」や「意識のない状態で生きていること」があたかも無駄であると刷り込んでしまわないだろうかと危惧しています。
  バクバクの会15周年の活動方針にも記されているように、近年の出生前診断や遺伝子治療の発展と普及は、難病や重度障害をもった子どもたちに恩恵を与える以前に、「命の質」を問う道具として使われ、難病や障害のある赤ちゃんを「生きていても仕方のない命」として選別し、積極的治療の見送りにもつながってきたという現実があります。さらに、最近、ある医師からは「病院や施設にどんどん人工呼吸器装着者が増えてくると、スタッフ不足によって十分な対応ができなくなる。だから、進行性の難病の患者さんには、人工呼吸器をつけない方向になってきている。また、ケアに対応できないなら気管切開も安易にしない方がいいのではないかという風潮になってきていて、われわれも悩んでいる。」という苦悩を伺う機会もありました。そして、今、尊厳死の法制化を求める動きがどんどん加速度を増しているのです。
  わたしたちの望む社会とは、たったひとつのかけがえのない命であっても、世の中で勝手に作られた規格から外れているからと、生きる権利が制限され、出生前から死に方までコントロールされる世の中なのでしょうか。
  バクバクっ子は、以前に比べてかなり社会的認知度があがり、社会参加できるようになってきたとはいえ、依然、ひとりの子どもとして当たり前の権利を享受できていない場面は少なくありません。前号で報告されたバクバクのアンケート結果の中にも、制度はあっても使えない、人的支援がなかなか得られない、経済的負担が今後ますます増大していくのではないか等、さまざまな不安を訴える声がありました。しきりに「自己決定」「自己選択」などと言っていますが、経済効率ばかりが優先され、安心して生きられる保障のない中、無理やり出さされた答えを「自己決定」「自己選択」などと言ってほしくありません。
  人工呼吸器をつけていても、どんな重い障害があっても、安心して生きていけるような方向を目指さない限り、結局は、今は関係ないと思っている自分たちひとりひとりの生きる権利を奪われていくということを、たくさんの人たちに気づいてほしいと思います。そのためにも、私たちひとりひとりが、もっともっと、バクバクっ子それぞれが生きている日常の姿や営みについて身近なところから伝えていきましょう。


UP:20060830
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