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「射水市民病院問題」から安楽死=尊厳死を考える (射水市民病院前外科部長伊藤雅之氏発言の検討を中心に)

2006/8/20      富山市 四十物(あいもの)和雄

last update: 20151224

(1)はじめに
 去る8月4日付で、各マスコミにおいて射水市民病院前外科部長伊藤雅之氏の「『延命中止処置』に関する弁明」が一斉に流されました。これは、7月26日NHK「クローズアップ現代」から始まり、月刊『現代』9月号記事掲載を経由して報道されました。この過程の意味については不明ですが、直接には、伊藤氏の側からする始めての【「人工呼吸器外し問題」の経緯と自己の医療判断・処置の正当性、病院長麻野井氏の対応に対する批判であり、司法の場でも徹底抗戦する意思表明】と受け止めることが出来ます。
 何はともあれ、院長側の発表しか為されて来ず、「延命中止事件」の事実関係が殆んど明らかにされてこなかった状況は、これで変化するわけで、まだまだ事件の真相が明らかにされるまでには時間がかかりますが、「スタート地点」にやっと着いたことは間違いのないところです。
 前述の事を受け、今回は伊藤発言について、私(たち)素人が問題に出来る範囲内で検討を行うこと(これについては、主に月刊『現代』記事に依拠します)、を主にし、それと関連して一連の「新生児―乳児の延命中止問題」、毎日新聞記事(7月26日付夕刊)での「脳死」判定についても、触れて行きます。何分勉強不足なので(富山での運動の蓄積や経験がない領域なので、初歩的な知識の提示を別途資料で補いながら)進めて行きます。

(2)伊藤発言の骨子
 伊藤前外科部長の発言は多岐に亘っていますが、基本的には、【第1に】麻野井院長の「事実発表」なるものが「事実を隠蔽・歪曲するもの」であったこと、【第2に】伊藤氏自身の人権を無視したものであったこと、【第3に】医師―患者―家族の信頼関係を重視した「人工呼吸器外し」であったこと、【第4に】GL(ガイドライン)のマニュアル化の進行は医師の責任逃れの道であること、等にまとめる事が出来る、と思います。
 この指摘自体には、私は「耳を傾ける必要があること」について認めるにやぶさかではありません。それでも「しかし・・・・」と言わざるを得ないものであることも事実です。その最大の問題は、伊藤氏が自らの「診断」「治療方針」についての誤診の可能性について、殆んど触れていないことです。医療現場ではよくあることについて無自覚な事です(それと関連して、「脳死」「脳死状態」についての知識も非常に問題点だらけです―この点については後述)。もっと言わせてもらえば、「『誤診』をする事が一番の問題ではなくて、その可能性を常に頭において、何度も検討することが必要なのです」そのように私は確信します。
 又、多くの医師から言われていた人工呼吸器の装着の是非についても、十分に応えているとはいえません(カルテ等が警察に提出されている以上、この医療についての再検討する責任の少なくとも半分は院長側にあると思われます―
 ―要するに緊急の救命処置が必要な状態だったのか?それ以前に患者と緊急時の事はについて話し合っていたのか?などが問われる問題としてあります)。ここがしっかりとしていないと、いかに倫理的に立派な事を言っても、医師としてはダメだと思います。
 又、本人や家族に対する治療方針についての意思確認も、私からみれば非常に不十分であると思われます。特に、「延命中止」を家族と同意して行く過程(本人同意はその中6件の内の3件だと言っていますが、間接的な家族を通した確認2人や、かなり以前の―これもどの位か確認できません―本人の意思が1人である、と述べているだけで、その確認過程もアイマイなもので、非常に問題があります――後述)が不透明です。
 以下、各項について述べて行きます。

(3)誤診の可能性、本人・家族への説明について
〈a〉誤っている「脳死」理解
 医療知識がないのと、具体的指摘をする材料がまだまだ欠けているので、「脳死(状態)」に関してのみにします。
 月刊『現代』での話では、伊藤氏は「自発的呼吸停止」「瞳孔散大」「対抗反射」をもって、関わった全員が「脳死」(あるいは脳死状態―この違いについては文脈からは読み取れませんが、正確には「脳死」判定を行なっていない場合は、「脳死状態」と呼ぶべきです――そのことは「脳死判定」が行なわれれば良い、というものではなく、「現行法の枠内においても手順を尽くしたのか否か?」をはっきりすべきだ、という意味合いです)だとしています。これは明らかに説明不十分でしょう(地元の「北日本新聞」2006/9/4付には、死因が表にして書いてあります)。
 どの人の例も、この不十分な診断を根拠にして、「延命中止」を家族と同意しているのですから、このことは「非常な重み」を持っています。
 (「脳死」に関してある程度の知識を得てもらうために、私なりの説明をします。あまり正確ではないのですが、問題の核心の重要な点として、参照してください。以下の記述には医療社会学専攻の市野川容孝氏の2006/5/13脳死・臓器移植法集会シンポジュウム発言も参考にしています)。

 「脳死」に至るには大体2つのパターンがあるようです。第1は、頭部に対する外傷によって脳がヘルニア化(膨張)し、脳圧の上昇によって圧迫された脳の中身がそこにある脳幹部を押しつぶす。すると脳に血液を送り込む圧力より高くなり、酸素の供給が絶たれて脳細胞が死んでいくパターン。第2は、心臓マヒ等で血液が脳に一時的にいかなく、呼吸困難で酸素の供給がたたれたりする2次的なパターン。後者は前者に比べて脳内の場所によってダメージの受け方が違う、という特徴を持っているようです。問題なのは、どの細胞が生きていてどの細胞が死んでいるのか分からないため、「脳死判定―基準」によって検査する方法が取られているのですが、「決定的な検査ではない」ということです。現在でも「脳死」の判定基準は国や地域によって(一説によると病院によって)違う、ということです。「ある国では死んでいる人が別の国では生きている」という、大きな問題が生じてくるのです(後述)。
 ここから、どの時点が生死を分ける決定的なターニングポイントかも分からないし(そもそもターニングポイントが実在するかどうか自体が分からない)、「確実に脳死状態――「脳死」ではなく――になると思われていた人が生き返った例が多く存在する」のです。このように研究は進んでも、脳の働きや治療法については分からないことだらけのようです。
 現行の日本での正式な「脳死判定」は、「無呼吸テスト」という死期を早める恐れのある問題のあるテストが義務付けられています。ところが、このテストの最中に、複雑に身体が動くラザロ徴候という行動(見ていると苦しがって暴れているようにしか見えない行動もあるそうです)が問題にされていますし、その時「血圧や脈拍が高くなる」という事例も沢山見られます。また、「脳死判定」が下された後でも「何年も生き続けた」「出産した」例も多く報告されています。この点に関連して、市野川さんは「イ、脳は内的生命(消化、血液循環等)の器官・機能に直接的な影響を及ぼしていない、ロ、内的生命機能が、重い脳損傷後に停止する場合、後者が原因だとは言えない。植物的=有機的生命は脳の影響からかなり独立して機能すること、ハ、死の兆候の第1群として、呼吸停止、血液循環停止、感覚反応の消失、体温の27度以下の低下、全身筋肉の弛緩が挙げられるがこれらは蘇生可能な仮死状態でもみられるものなので、即座に死亡判定をしてはならないこと――19世紀末のドイツ医学事典より――現代の意志はこういう歴史的文献を読んでいないのではないのか?等」を指摘しています。「死とは何なのか?何でないのか?」という根本的問題についての議論が十分なされているのか?を問うています。
 要するに、私たち素人から見て一目瞭然の「死」が確認されない「脳死」という概念自体が問題なのです(有名なように「脳死」という概念が普及したのは、臓器移植をするためであることが、すでに明らかになっています)。――これと関連して、記事内容(情報の確認の不徹底さ=当該者からの事実調べの有無、コメントの偏り等)にいろんな点で不十分さはあるにせよ、毎日新聞2006/7/26付夕刊記事「脳死:米・カナダ滞在中の3人、日本で意識回復」という記事には、医師の「脳死状態」という説明の恐ろしさの一面をあぶりだしています。

 高齢者の「末期医療」の現場では、「臓器移植」をする可能性はないので、高額で手間の掛かる「脳死判定」は通常行っていないようです。この場合でも、前述の様な問題を抱えているからこそ、脳外科医の意見を聞いた上で、「脳死」ではなく「脳死状態」か否かを診断する必要があるように思います(心肺停止だけでは一時的仮死に過ぎず、蘇生する可能性があります)。
 そういうことへの配慮を伊藤氏の話からは受け取る事が出来ません。「脳死(状態)」という診断をどのような根拠で行ったのか?市野川さんが問いただしているような医師としての根本的問題について、どう考えているのか?明らかにする必要があると思います(これは伊藤氏だけではなく、後述するようにガイドラインを求めたがる全ての医師にといたい問題です)。そこが明示されない限り、いわゆる「尊厳死」許容条件(東海大判例「死期が間違いなく間近に迫っている」)すら満たしていない事になると思われます。

〈b〉診断の確実性について
 前項〈a〉において、診断の確実性について「脳死(状態)」を例に、やや長く言及しました。私の見る限り、伊藤氏の説明では「死期切迫」の判断の確実性が言及されていない、という事でした(「死期切迫」しているからといって、命を絶つことが患者本人にとって良いこと、だとは思いません。本人に確実な不利益がない限り、そのままの状態を維持する事が悪いとは言える理由がありません)。とするならば誤診の可能性があるわけで、その点についての検討をどう行なったのか?そもそも意識していたのか?更なる説明がなされるべきです。

〈c〉本人、家族への説明について――その「誘導性」
 具体的に病状、治療方針について、本人、家族への説明をどのように行なっていたのか?が、全くわかりません。私が問題に思うのは、あくまでも患者・家族は医師に対して「従属」した立場で臨まざるを得ないことを、どこまで認識していたのか?が問われています。
 伊藤氏が「善意の人」であることはほぼ間違いのないところです。しかし、先程の「脳死(状態)」の様に、実際の病状より重いような説明をすることは、例え善意から発した言葉でも、「絶望」を抱かせ「延命中止同意」への誘導となること、その事をどれほど自覚していたのか?が問われています。その点において、伊藤氏は自分の判断・方針へと、家族を誘導していたようなのです。
 「本当は死を迎えているのに、『脳死状態です。回復の見込みはありません』と言ってくれない医師に対しては、家族だって『機械を外してください』とは言えません。・・・・・・われわれ医師の言葉や態度が、ご家族に『外して欲しい』と言わせている部分もあります」(『現代』9月号p57)という発言があります。ここを読む限り、「誘導」を自覚していたようです。どうも伊藤氏は、〈死が避けられない時、「延命中止」を医師・家族が本人に出来る「善行」である〉という、強固な確信を持っていたことは間違いないようです(同書p57、3段目参照)。
 「何故、『自然な死』を言うのなら、特別の苦しみを訴えている状態ではない患者が死に至るまで待ってあげないのか?呼吸器を外すのは窒息状態になるので、とても苦しいはずであるにも拘らず(この事はぐらいは医師ならば分かるはず)・・・」。
 このように検討してみると、「尊厳死」肯定論者で、パターナリズム(温情主義を伴った父権主義)に染まっている伊藤氏の姿(及び、現行の医療現場のあり様が)が見えてきます。これでは、後述する富山県公的病院長協議会「申し合わせ書」などに見られる「終末期医療」についての、彼の「医療のマニュアル化」批判も素直な気持ちでは受け取れません。
 蛇足ですが、彼に対して「人工呼吸器外し」を同意した少なくとも6人の患者の家族の側から、「不平・不満」が全然出てこないことも不思議な事と思いませんか?そういう「わがまま」が出てこないことに対して、伊藤氏の人格性(医療技術の方は素人からは中々出てこないものです)の「良さ」を上げる人もいるかもしれませんが、私はへそ曲がりにも、ここにパターなリズムの典型を見てしまうのです。「文句が出る」ほうが当たり前ではないでしょうか?

〈d〉前もっての、家族を通しての、本人意思表示の問題
 結局は体験したことがないことを想像して決める他はない問題であるから、当てにはならない事を、はっきりと確認すべきです。
 以前、NHK富山放送局編集の「射水市民病院問題」特別番組で、中島みちさんが強調されておられたように、患者の気持ちはちょっとしたことで、コロコロ変わるものらしい(「らしい」としてしか書けない私の経験不足を感じます)のです。「うれしい事、楽しい事があると、それまで『死にたい。死にたい』を連呼していた人が別人のように代わるのです」といっておられたのが印象的でした。本当に「苦しみを他人と共有するとその苦しみは半減する。喜びは倍になる」という諺が息づいている世界だ、と思わずにはいられませんでした。
 その点から見れば、「リビング・ウィルはあくまでも参考程度の非拘束のもの以上であってはならない」ということだろうと思いました。同時に、支えている人の顔色一つで、患者の生死をめぐる気持ちを左右させる、本当に微妙なものであることを学んだ気がしました。その事を抜きにした「延命中止」論議は、患者のおかれている状況を無視した、周りの人間たちの談合になるのだと思います。その行き着く先は、患者本人の「不本意な形での」意思表示を「錦の御旗」にした、「死への道」になりかねないのです。
 以上の点からも、伊藤氏のリビングウィルに対する肯定論は間違っています。

〈e〉家族同意の危険性について、触れていないこと
 前項でも触れましたが、世話する家族の意向次第で、本人の静止に対するかんがえ・気持ちは大きく左右されるのです。家族は、社会が全面的にバックアップする条件を整備しない条件下では、簡単に「本人の事を思っている」とはいえない(最初から疎遠な人もいるだろうし、看病疲れでそのようになる人もいるでしょうが)こと。したがって、家族の本人意思の推測を当てにすることはできないこと。その点において、伊藤氏の発言はよく考え貫かれたものではないか、意図的に触れられていないのか、どちらかである、といわざるを得ません。

(4)富山県公的病院長協議会「申し合わせ書」批判
〈a〉「射水市民病院延命中止事件」の検証の欠落
 この「申し合わせ書」(2006/5/30)が、石井県知事の後押しの下、急遽作成されたものであること。「射水市民病院長報告」を前提としてなされたものであることは、すでに周知の事です。ここに働いているのは、「如何に病院の『不祥事』(「死亡事件」という重みのある出来事ではなく)をなくするか?」「如何に医師の責任を問われずに済むか?」という動機以外の何者でもありません。
 だから当然にも、最大の欠陥は、「射水市民病院事件」の検証を経たものではない、という点が挙げられるのです。何故あのような事態が続いて起きたのか?その背景や具体的な医療はどうだったのか?等の核心的な問題が抜け落ちて、「チーム医療なら解決できる」「書面で厳格に合意を取ることは、患者・家族の選択権、自己決定権にも合致する」から、射水のような形ではない「合法的な延命治療が出来る」と言わんばかりの内容になっています。医師―家族―患者の階層的構造が「空気の如く存在する限り」、強制された「自己決定」「同意(・不同意)」がまかり通るだけです。

〈b〉医師だけで作成された「談合文書」
 医療は患者、家族(支援者)、医者、看護婦等の協力でなされていくことを【原則】とする以上(主役は患者)、医師だけで「申し合わせ」「ガイドライン」を決めること自体が問題だ、というのが私の基本的立場です。
 前項で述べたように、かように拙速に医師仲間で重要な文書を決定したのは、「身内の庇い合い」「責任逃れ」以外の何者でもないからこそ、上記の【原則】を確立しようとする視点がまるでないのです。だから、「人工呼吸器はずし」などの行為のみならず、【輸液の減量化や人工呼吸器の酸素濃度の低下等が「自然に死を迎えてもらう」美名の下になされている――この中には正当な処置もあるようですが、それを行なっている医師は理由も分からずにマニュアル化したロボットのように「医療行為」をおこなっている現実】が問題にもされていません(「朝日新聞富山版記事『最後の選択』2006/7/3〜7/6参照)。
 このような機会にこそ、医師以外の医療スタッフ、医療利用者、援助者が、それぞれの立場を「対等」に述べ合い討議する場が設定され、基本的な合意や相互指摘をしていく必要があるのだろう、と思います。

〈c〉医師の権力・権威の再強化
 今までの記述からも明らかなように、「申し入れ書」には、市民から、司法から「医師の『象牙の塔』」を何としても守りたい、という一貫した姿勢を読み取る事が出来ます。形こそ違え、それこそが「射水市民病院事件」で問われている最大の問題だと言うのに・・・・・。むしろ、「外科部長の独断」なるもの以上の、集団化によって、マニュアル化によって「医師の権威」の再強化をはかっているものです。
 ちなみに、集団で医師が診断した場合でも誤診の割合は、非常に高い(例:鹿児島安楽死事件)し、説明についても絶望を抱かせるような誘導説明をしない、という保証はどこにもありません。
 医師の診断・治療方針はどこまで正しいのでしょうか?同一診療科・病院の医師間の外部に対する閉鎖性は際立っています。医療ミスがあってもお互いにかばい合って隠蔽するし、射水の問題でも明らかなように、射水市民病院の側から、未だ外科部長のなしたとされる行為を客観的に明らかにしようという動きはありません(伊藤氏が沈黙を破った以上、それに対してきちんと応えること、市民からの検証にも門戸を開くことが問われているのは言うまでもないことです)。「チーム医療の徹底」が、「医師間の上下関係の固定化」や「マニュアル医師の増加」の温床とならない保証は全くありません。また、そういう中での「チーム医療」が、誤診の削減に繋がる保証もないばかりか、誤診の隠蔽の役割を果たさないとも限らないと思うのです(この点では、伊藤氏の批判は当たっています)。
 更に言えば、患者や本人への病状説明についても、自分たちの治療方針への合意に繋がるような「誘導」となる説明は、「チーム」で対応した場合の方が危険性は大きいかもしれませんね。1人より2人3人の方を信用しやすいですから、簡単に出来る可能性が高いのです。

〈d〉外部に開かれた医療を
 その事を考えるなら、当該の医療機関と全く利害を異にした患者の人権を守る機関を設立し、当該病院の治療や同意内容をチェックしていく方向で考えるべきでしょう。
 病状悪化以前の本人の意思表示尊重と同意書作成については、悪化すれば意思に変化が起こって当然であることから、「何回も本人意思を確認する」ということ自体は評価して良いでしょう。しかし問題は、本人意思が確認できない状態になった時には、結局参考意思表示として考えることが明記されていないことは問題でしょう。ましてや、家族の同意による「延命=救命治療中止」は、本人と一身同体でない以上非常に危険であるはずです(家族の共同性が解体してきているのは、いまや常識となりつつあります)。書面でしようがしまいが、(特に生死の判断に関わる問題においては)「医療現場での密室性」は変わらないはずです。「申し入れ書」はそこを誤魔化しています。「密室性」をチェックしていくにはどうしたら良いのか?を集中して論議していく必要があります。

〈e〉「延命よりもQOLの向上を優先する」の両価性
 「延命よりもQOLの向上を優先する」ということは、緩和ケア・医療を優先していく、ということなのでしょうか?イマイチ分からない所ですが・・・・。
 確かに、尊厳死=安楽死の対案として、緩和ケア・医療は大いにもてはやされる傾向にあります(このことについては再考の余地がある気がします)。
 まず、疼痛技術(痛みを止める技術)の習熟度においても、緩和ケアの普及率から行っても、これは未だ机上の議論としか思えないことが一つ(緩和ケアで亡くなられる方は、ガン死亡者のうちの2〜3%と聞きますし、またそれを支える人材が圧倒的に不足しています)。したがって、多くの人は緩和ケア病棟・ホスピスを利用できない格差をどうするのか?という問題です(「医療格差」)。
 第2に、この緩和ケア先進病院において、病院のガイドラインに基づいて「『新生児』の延命治療中止」が粛々と為されていることです。「延命よりもQOLを優先させる原則」の下で・・・・。「新生児」には意思表明力がないので、親権者が代理決定することになりますが、障病児に対する社会的偏見と援助体制のない中においては、「延命中止」を病院側よりも彼ら・彼女らの方が強く主張する傾向があります。それが先の原則と矛盾しない形で成されている、ということに不安を覚えます。これは、原理的にはQOLの評価を巡る問題です。詳しくは後述しますが、当人自身のQOLと他者から見たQOLとは一致しないし、「意思表明の出来ないヒト」のQOLは無視される、という問題でしょう。

〈f〉指針、制度化を求めることの帰結
 最後に、法制化やGLが策定されれば、それ自体が一人歩きをして、医師個々人の倫理的責任解除をもたらす可能性が高いこと。そこから来る野放図な拡大解釈・拡大適用はオランダの安楽死合法化に伴う、対象の拡大や本人意思のみ確認の横行、更には「自殺幇助」まで行なわれていった実例とほぼ同じようになるでしょう。今必要なのは、拙速にGLや法制化を推し進める事ではなく、一人一人の患者・家族の状態によって何が最も適した治療とケアであるのか?試行錯誤を通しながら、共通の土台を作っていくことが求められているのではないのでしょうか?!
 逆にマニュアル化を求める方向は、医師の側が終末期を含めた医療方針をコントロールしていこう、という志向性の現われと見ることが出来ます。実際には「考えたとおりに進まない」のが医療現場でしょう。医療―治療は(実験)科学ではないことを自覚しなければならないと思うのです。このことの確認からしか治療は進まないのではないでしょうか?

 以上、結論的には、医師集団によるGL策定そのものが問題を悪化させかねないものであること〈パターナリズムの強制〉。それよりも問われているのは、患者・家族の人権・社会保障を制度的に守る事を優先させた上での、医療関係者と患者・家族の対等な意見交換の場であり、政策制度へとつなげていく場の確立ではないのか、という事です。

(5)緩和ケア、「QOL向上主義」で大丈夫か?――「新生児延命中止」事件を通して考える
〈a〉緩和ケアと安楽死=尊厳死との「親和性」? 
 「淀川キリスト教病院新生児延命中止事件」は、ホスピスを持つ緩和ケア先進病院での出来事で驚かされています。しかし、「苦痛から解放してあげたい」と考えるのは当たり前の事で、このような延命中止が行われていない、と考えている方が不思議だったはずなのです。あまり問題にされなかったのは、私だけの思い込みかもしれませんが、「意思表明力」したがって「異議申し立て」の手段を持たなかったヒトに対する、私たちのQOL観(「当該の人が生きていることを無視することの出来る考え=価値観」)の「優生思想性」だろう、と思っています。
 北日本新聞2006/08/5付の盛永審一郎富山大学教授(倫理学専攻)の「投稿」によると、【ベルギー(安楽死法制化された国)の実態(フランダース地方)を記した報告書(1999,8〜2000,7)で、1年間に亡くなった新生児292人中143人が親の決定で積極的または消極的安楽死を受けている。内訳は生命維持装置の停止(54人)、未装着(32人)、命を短縮する鎮痛剤(40人)、生を終わらせる薬投与(17人)。その主要なり理由は、「生き延びる見込みが無い」「生き延びてもQOLが低い」というものであった】といいます。
 日本においては、その実態が殆んど隠されています。これを「阿吽の呼吸」「寝た子を起こすな」として隠蔽(賛美)してきた現実に対して、実態把握に努めていく必要がある、ということはまず前提です。
 確かに「延命治療中止」は緩和医療の1種と見做すことも出来るのです。その訳は、緩和医療は、「苦痛を和らげ、患者のQOLを高める目的で薬剤を使用するが、その結果死期が早まっても『死を意図したもの』でない」(間接的安楽死)し、新生児の場合がO.Kならば、理屈の上では大人の場合においても、「延命治療の中止」に当人意思の推定同意があり、苦痛からの解放を目指して行われる限り、許容される、という事になります。淀川キリスト教病院のケースはそうであるから問題がないのでしょうか?

〈b〉「一旦装着した人工呼吸器は外さない」という「原則」が新生児の場合は何故除外されるのか?
 上記の事件と、射水のケースを受けて作成された県公的病院長協議会「申し合わせ書」の、私も賛同する(但し、「申し入れ書」の場合は装着の段階で「イエス、ノー」を選択を迫られる、という問題点があります)「一旦装着した人工呼吸器は外さない」という「原則」と比較した場合、不可解です。
 「人間の尊厳」という場合、「私は私である」という自覚を伴った自己意識を持った者だけが、その「主体」なのか?脳死状態・植物状態・認知障害の老者・胎児・新生児・胚は、尊厳の「主体」とはならないのか?!ここには、「ヒトはどこで人間(社会的に価値ある存在、承認された存在という意味で使用しています。その基準は自己意識活動、コミュニケーション能力の有無であることが多い)となるのか?」という問題意識が発生するところの「優生思想」があります【ここで問われているのは、前述のヒトの性質を個々人に還元する発想だろうと思います。個々人の性質(劣生)と思われるものを、社会的関係性(価値観の上でも、社会の構成原理とそれに基づく制度)において有意義なものとして受容していく、また、そういう関係へと変えていく社会的な感受性・想像力だろう、と思います――この点において、小泉義之氏の一連の提起を受け止めちと思います(但し彼の暴力観については許容できませんが)】
 だから、延命治療中止問題は、終末期のあり方や看取りの問題だけで考えられては良くなくて、人間相互がお互いの命全体をどう考えるのか?という問いを突きつけているのだ、と思います(ムズカシイですね!)。

〈c〉生死を(過剰に)コントロールしようとする思想の問題
 私には無理して生きようとするのも、無理して死なそうとするのも、自分の生き方としては好きになれません(勿論後者は絶対に嫌ですが、前者も嫌です。医療とは、生死や苦痛をコントロールしようとする最先端のものでしょうね)。実際の生死の境に立つならば、どうなるか分かったものではないので、リビングウィルやそれと同類の「コントロール思想の極」的発想だけはしたくありません。医者をサンザン困らせて死んでみたいものです。
 私はある時期から(多分、マルクス主義が嫌になった事とタイアップしていると思いますが)、「過剰にコントロールするのもされるのも、願い下げにして欲しい」と思うようになりました。それには障害者運動の理念(実際とは違う事に注意!)で一番気に入ったのが、「ありのままでいい」という考えの影響が大でした。勿論これは安定した状態を指すものですから、「しんどい状態が続く事は嫌である」ということと両立します(障害者の中には医療そのものに反対した人もいましたから)。
 こういう視点からすると、緩和ケア・ホスピスの考えは良いように思いますが、如何せん、貧乏人で、根が「甘えん坊」ときているから、苦しくなると周りに当り散らしながらクタバッテイクノダロウ、と思っています。「処遇困難者」として追い出されるのが落ちでしょう。
 「良い死」を望むのも「悪い死」を忌避するのもせずに、成り行きに任せたい、という無責任(運動で「責任」云々ばかり言ってきたり、聞かされてきているので)でやっていきたいのです。
 ところが厄介な事に、そういう風にはさせてくれないのが、医者なのです(家族、友人は何とか説得できますが)。彼らはヒトの生死を左右したり、苦しみを左右する技術をなまじ持っているがために、その力を使いたがるようなのです。その材料として、私たちは知らず知らず従属していくのです。「○○先生」と自然に呼ぶように飼いならされていくのです。
 そうなると余計彼らの自尊心・名誉欲をクスグリ、「自分が生死を左右する事」に力を感じて「生き生きとしてくる」のです。困ったものですねえ。しかし、胸に手を当てて考えると、実は私たち近代人は、自然や他の「劣った人々」に同様の事をしてきたのではないのでしょうか?そして「自分たちこそ文明人、豊かで平和的で(平和憲法を持っているんだぞ!――実は自分たちで勝ち取ったわけではないのに)、科学の力によっていろんな困難を克服する力を持って来ているんだ」と自惚れたりしているのです。この快感を味わった人間はその状態を守るためには、何でもやるんです。そうなると、ますます自分は勿論のこと、他人をもコントロールしようとして、とんでもない管理社会を作ってしまうのではないのでしょうか?いま、日本を初めとした「先進国社会」の上記の傾向と、医療をめぐる動向とが、タイアップしているようです。
 そういうことを何とかしたいと思うのです。「コントロール万能神話」にいつまでも固執していると、いつの間にか自分たち自身がコントロールされる事に無感覚になり、それを推進する権力を肥大化させてしまいかねないのです。尊厳死=安楽死に繋がる発想は、その際たるものでしょう。
 そういう考えから、私自身は「生死そのもの」ではないにしても「QOLをコントロールする」という緩和ケア・緩和医療の発想にも馴染めないのです(実際はそういうことを望む欲望はあるのは致し方ないにしろ、専門家を最小にして「近しい人」を中心とした人々の助け合いを理想としたいものです)。いずれにせよ、こういう問題は簡単に結論が出ないし、出すべきではないとだけは言えるでしょう。

〈d〉「(肉体的)苦痛」を取り除く事を最優先したら?
 私は、個人的意見として、患者の「QOL向上」などという大それたことを言うより、当面は「(肉体的)苦痛・不快を取り除く」ということさえすれば良いと思います。そういう技術はすでに確立されているようなので、要は医師側にそれを学ぶ準備が有ればいい訳です(身体的苦痛感が現われないだけの処置、という見方も不可能ではありません。この辺は、脳科学が進歩しているに関わらず、未だに意識とは何か?ということやそれに関連した全身麻酔などの作用メカニズムなどが分かっていない、のと同様に、疼痛医療のメカニズムもわかっていないと思うので、確かなことは言えないだろうと思います)。
 苦痛や不快感が取れればそれだけで、「死のう」とする生理的要因はなくなるし、将来への不安感を感じなくてもよい「余裕」が出てくるはずだと思います(いわゆる「意識のない状態」ではそういうことは考える事さえ出来ませんから)。
 また、QOLを巡る厄介な問題に医療の側が介入しなくてもよいですから(ここは異論・反論の多い所でしょう)。QOLを巡る問題はじっくりと議論されねばならないでしょう。
 それらを考えると、安楽死・尊厳死を医師が考える事自体が、医療上の理由からは全くありえない話になるはずだ、と思うのですが・・・・・。
 勿論この場合でも、「苦痛はあっても意識的活動を出来る限りしたい」という要望に応えるだけの幅を持たせる事が必要不可欠ですが・・・・・。


UP: 20060904
◇四十物和雄 
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