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「射水市民病院延命中止事件」と安楽死=尊厳死について考える(3)

四十物(あいもの)和雄(富山市)
『ゆきわたり』(子供問題研究会)2006年7月号

last update: 20151224


(1)はじめに

  今までの記述において、事件の発覚(2006/3/25)から県公的病院長協議会(25病院)の「癌終末医療に関する申し合わせ」作成に至る経過を追って来ました。この間の流れは細部の点で――「事件の張本人」である外科部長が自らの一連の行為に関して沈黙を守っている以上、「事件の真相」は浮き彫りにされて来ず、射水市民病院院長発表と、それを受けた石井県知事の強い根回しによる、県下公私を貫く病院の終末期医療ガイドライン作成だけが一人歩きをしている現状です。それを国家レベルで正当化と敷衍化をはかるものとして、「安楽死=尊厳死法制化」が強く推進され始めてきている、という現状だろう、というのが私の認識です。
  今回はこの流れをつかむ為のものになる予定でしたが、マスメディアの安楽死賛美の報道記事が掲載されることにより、闘いもそこを中心にせざるを得ない状況になったので、このことを中心に述べることにします。「申し入れ」検討の詳細については、次回に延期することにします。

(2)北日本新聞「いのちの回廊」海外オランダ編(3)の安楽死賛美記事

  北日本新聞は富山県内最大の発行部数を誇る新聞で、そのメイン企画として、昨年12月から「地域医療の危機――特に医師の減少と医療レベルの地域間格差に関して――の現状をキャンペーンしよう」と企画されたのが、「いのちの回廊」シリーズでした。3/25「射水市民病院呼吸器取り外し7人死亡事件」の発覚以降、企画をその事件に合わせた終末医療中心のものに変更し、「外科部長擁護」の多数派民意と、射水市民病院長―石井知事の「終末期ガイドライン作成路線」との間にバランスを取りながら、傾向としては「延命医療中止」の世論形成を行ってきている、という役割を果たしてきたのではないのか?というのが私の評価です。緩和ケアやホスピスの考えを海外編の最後で記事にしていましたが、医師・専門化中心の考えに完全に取り込まれていて、障(傷)老病者の立場=視線から、マイノリティの試みから学ぼうとしていませんでした。
  さて具体的な記事に移りましょう。
  6/6〜6/9の4日間連載されたオランダシリーズ自身、海外での取材に伴いがちな「別の視点からの取材」が困難なことに全く無自覚である、という欠点に貫かれています。自発的安楽死協会の意向=誘導を全く疑うこともなく、更には、取材対象に完全に感情移入してしまったのが、第3回「死を選んだ父」でした。
  取材インタビュー、安楽死を選択した父の事を語る娘さんの意図に沿うように、ストーリー風に描かれた安楽死賛美になっているのです。彼女の父はALS(筋萎縮性側索硬化症)という体の筋力が原因不明のまま徐々に喪失し、呼吸まで出来なくなってしまう難病中の難病です(ALSについては私もまだ読んでいませんが、立岩真也著『ALS―不動の身体と息する機械』医学書房 2004参照のこと)。以前は呼吸困難に陥って死に至る病気でしたが、人工呼吸器装着によって相当長い間生きることが出来、生活を楽しむ可能性が開けているとのことです。
  このような現実については世界の医療界では常識になりつつあり、当然オランダでも医師の間では常識となっていると思われるのに、この記事には安楽死と対極に位置する医療的選択肢の中に、一言も人工呼吸器の事が出てこないのです。考えられるのは、医師が治療法として提示しなかったか(とするならば、医療水準が遅れていたか、説明せずに安楽死へ誘導したのかが考えられます――オランダの現状を知るにつけ安楽死対象の拡大が問題化しているようなので後者が考えられます)?それとも娘さんが意識的に口を閉ざしたのか?が考えられます(何分、彼女はオランダ自発的安楽死協会の、取材対象に選んだ人ですから、その可能性もあります)。
  そこの所が、記事では全くわからないのです。また記者の彼女への質問にも出て来ません。
  では当該記者が人工呼吸器治療にまるで無知だったのか?というと、そうではない様なのです(ちなみにその記者は担当記者内のトップで、それ以前の取材からALS等の呼吸困難者に対する人工呼吸器装着の有効性を、知識としては知っていたのでした)。障老病者・マイノリティとの間に緊張感がない感受性が取材活動を通じても変ってこなかったこと。もっと言えば、彼らに対する共感性が欠けた所で(表面では聴き取れない声に耳を傾けようとせずに)、専門家や代弁者ばかり気に掛けて来たこと(これは重要な事なので、(4)章でまた触れます)の結果ではないか?と思われます。
  この取材記事では、安楽死の関係者が皆非常に美化され、「美しい最後」を全うした、というストーリーしか描かれておらず、死を前にした人々の動揺や混乱がまるで描かれていないのです。そして後は関係者全員が満足な結末を迎え、安楽死した父を讃える内容になっているのです。そして記者のコメントが「浸透する安楽死」としてまとめられているのです。これは明らかに安楽死に共鳴した記者のかく記事以外の何者でありましょうか

(3)抗議行動

 このような記事に対して、私が呼びかけの連続学習会からのみならず、障害者中心の民間団体NPO法人文福からの抗議文が出され、小規模ながらも抗議行動が展開されました(【註】:文福の抗議文と闘争報告は以下掲載)

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「文福」発第5号                   2006年6月20日
いのちの回廊 生と死の地平 オランダ編6月8日記事について
抗議及び要望書
北日本新聞社 代表取締役社長 梅沢直正 様
富山市五福3734−3  NPO法人 文福  理事長 八木 勝自
                         TEL/FAX 076-441-6106

  私たちNPO法人文福は今から3年前に、どんな障害があろうと皆が安心して地域社会で生活が出来るようにしていきたいと、障害者と健全者で活動してきている団体です。この目的を実現するために、ヘルパー派遣事業やレクリェーション、移送サービス、連続学習会や映画上映会など幅広く、いろんな人との関わりを大切にしながら活動して来ています。
  しかし、去る3月25日の射水市民病院人工呼吸器取り外し事件以来、この事件をきっかけに社会状況は、一気に終末期医療を中心に、ガイドライン作り、「尊厳死」法制化に向けて動き始めました。
  私たちはどんな障害があろうと、あたえられた命を大切にして生きていくことが当然の事だと思っています。その視点から、今回の射水市民病院の事件に対しても激しい憤りを感じていました。
  その中で、貴社はそれ以前からずっと『いのちの回廊』という欄を設けて医療問題に関心を持ってこられたことは、ある程度評価していました。ところが最近になって『生と死の地平』という海外編で、「安楽死」の国という事でオランダを四回にわたって取り上げられ、特に6月8日の三回目は、まるで「安楽死」を美化し、推進するかのごとく、貴社からの何のコメントもなく記事として載せてありました。
  これに対しては、激しく抗議します。なぜなら、1994年秋にTBSが『依頼された死』というドキュメンタリー番組で、オランダの「安楽死」について貴社と全く同じ報道をした事がありました。その時も、オランダという国民性や文化などの違いを抜きに、ただ単に「安楽死」という実例を挙げただけでした。これに対して放送直後から、当事者団体や各関係団体から激しい抗議が、寄せられ、次週でTBSが謝罪したという経過があります。そういう過去の事例があったにも関わらず、貴社には「安楽死」問題を取り扱う時の配慮が全くありません。何故、事例だけをそのまま載せられたのでしょうか?
  オランダの「安楽死」の歴史は古く1970年代から行われており、いくつかの事件を契機に、論議が巻き起こり法制化されました。95年のNHKが行った実態調査では、法制化されてからは「安楽死」の条件がだんだん拡大されていき、本人の意思だけではなく家族の意思や背景に複雑な家庭状況があったというし、未成年者や精神科患者の意思も認めるようになり、健康な人でも対象になるという報告があります。また、法制化が年を重ねていく中で医師が権限を持っているので、「安楽死」を促すなどの事例があったとも報告されています。そしてオランダの医師連盟は「ケアがイギリスと同じようなレベルだったら『安楽死』を必要とする人は減少するだろう」と言っています。
  このような実態をどこまで把握し取材して来られたのか、ものすごく疑問に感じます。この記事だけを読んだ人たちが、どう受け取るかは、全く考えておられなかったのでしょうか?
  「安楽死」を選択するまでに、医師からあらゆる説明がなされての結果なのか、この記事からは全くわかりませんでした。同じ病気(ALS)の人たちが人工呼吸器をつけて生活しているとかが、全然書かれていませんでした。また、この記事からは、治る見込みのない者は、自ら死を選ぶのがまるで美徳であり、「安楽死」を選択する事が如何にも良い事であるように書かれています。治る見込みのない者が、いつまでも生きている事が「死ぬ勇気がない」、「臆病者である」かのように思わせるような表現で描かれています。これは、今の「尊厳死」法制化に拍車をかけるものでしかありません。改めて強く抗議します。もっと、公正中立な立場で改めて記事を載せられるように、また、日本の当事者の取材も含めてされるよう、そして貴社の意見を聞く場を設けられる事を強く要望いたします。
  この抗議及び要望について6月いっぱいまでに何らかの返答をお願いします。


  6月20日に、理事長と私と介助者の4人で北日本新聞社に行き、抗議及び要望書を渡してきました。
  まず、渡した文章を読んでもらってから、私たちが今回何故抗議したかという説明を対応に出てきた人に話しました。
  相手の人は『私たちは決して「安楽死」を推進しようという意図はないです』と言われましたが、しかし、「この記事だけを読んだ人は、そう受け取るのではないか」と言うことを繰り返し話ました。その中で、「他の国がどうなっているのか知らせて皆に考えて欲しいと思って取材に行った」「オランダ編だけで4回あるので全部読んでもらえたら、意図は分かると思います。」との事でした。
  こちらとしては『「安楽死」の問題を載せるなとは言っていない、載せる時の配慮があまりにもなされていなかったのではないか』『「安楽死」に対して、もっと公正中立な立場で記事を書いて欲しい』「このシリーズの最後で良いから、日本の同じ病気の患者さんの取材とかこのような抗議とか意見があった事を是非載せてほしい」また、「この抗議文を受けて、編集部の人たちがどう思ったのかを、簡単で良いから文章にしてこちらに送って欲しい」「できれば、意見交換が出来る場を作って欲しい」と言いました。それに対しては、「そういう要望は分かりましたが、私の一存では決められないので、持ち帰って検討させてください。」という事で、話し合いは終わりました。
  簡単ですが、まとめて見ました。何らかの誠意ある返事が来る事を期待して待っているところです。
                 文責 河上千鶴子 (アパッチより。)
 【四十物の註】
  ?「相手の人」とは執筆者である朝日裕之社会部部長デスク
  ?この抗議文に対する回答はなされていない(2006/7/7現在)

(4)オランダ安楽死の実態と医師(集団)の権力性

  私から見れば、オランダの安楽死の実態は(かなり限られた情報源とはいえ)、こういう法律が制定される事による一般的な法則性である、拡大解釈による対象者の拡大と適用基準の曖昧化、適用に関係する人々の権力の拡大と癒着化が進行している、ということです。具体的には、安楽死・尊厳死法制化を阻止する会の清水昭美さんによると、[1]症状の拡大適用(精神的苦痛への拡大、不治の病でなくても適用、死期の切迫者以外の人、健康者にも拡大)、[2]本人の意思から家族の意思へ、更に家族の意思を察する医師までの決定権の拡大[3]年齢も未青年まで拡大、特に深刻なことは患者の要求や同意抜きで医師の1/4以上が安楽死を行っているし、それを「問題なし」としています。当然にも安楽死の拡大に無責任・無感傷になった医師は、患者の治療をいい加減に考えるようになり、その結果が安楽死の選択を半強制化していく、という悪循環に陥っていくという事も、清水さんは指摘しています(ネーダーコールン靖子『美しいままで』祥伝社 2001参照)。
  私自身その辺は無知なので、今後の勉強課題としたいと思います。

  ところで、このオランダの例は、日本の現状に何を問い掛けているのでしょうか?
  富山県を巡る詳細な問題については次号で報告するにして、「延命医療中止のガイドライン(以下GL―以前GRと書いていたのは全て間違いです)作り」の問題点と関連付けて見たいと思います。
  現状の動向の核心は、【医師の(専門性なる物を口実にした)権力性】について、まるで批判点がないことです。逆に医師が責任を問われないように協調することを推進してしまう事です。このことがもたらす弊害は非常に強いものです。その良い実例がオランダ安楽死王国の医療事情かと思います。
  医師の診断・治療方針はどこまで正しいのでしょうか?同一診療科・病院の医師間の外部に対する閉鎖性は際立っています。医療ミスがあってもお互いにかばい合って隠蔽するし、射水の問題でも明らかなように、未だ外科部長のなしたとされる行為が明らかにされていません。そういうところでなされる対策は反省ではなしに、「外科部長のような不祥事が発覚までに至らないようにはどうするのか?」という所で考えられがちです。「チーム医療の徹底」がその温床とならない保証はありません。また、医療水準も似たもの同士の間でのチーム医療が、誤診の削減に繋がる保証もありません。
  次に、患者や本人への病状説明についても、自分たちの治療方針への合意に繋がるような誘導となる説明は簡単に出来るのです。何分素人相手ですから。その事を考えるなら、当該の医療機関と全く利害をことにした患者の人権を守る機関を設立し、当該病院の治療や同意内容をチェックしていく方向で考えるべきでしょう。
  病状悪化以前の本人の意思表示については、経験していないことを想像して行う者である以上、悪化すれば医師に変化が起こって当然であることから、あくまでも参考意思表示として考えるべきでしょう。ましてや、家族の同意による「延命=救命治療中止」の同意は、本人と一身同体でない以上非常に危険であるはずです。
  「延命よりもQOLの向上を優先する」ということは、医師としては言うべきではないことです。本人が「その向上」を言う場合でも、あくまでもその保証を前提に出来ない不確実性が存在します。ましてや、医師が「QOLの向上」を語ることは、自らの医療水準の低さの隠蔽に繋がり、更に悪い事には「向上の期待できない者」は「治療の意味がない」として、「唯一の向上策」として「早く楽にさせる=安楽死・尊厳死」を進める口実にもなりかねないものです。延命中止派が言っている中止が実は最も苦しいものであるらしいことは、いまや常識です。
  最後に、GLが策定されれば一人歩きをして、医師個々人の責任解除から来る野放図の拡大解釈・拡大適用はオランダの例とほぼ同じようになるでしょう。一人一人の患者・家族の状態によって何が最も適した治療とケアであるのか?試行錯誤していくことが何よりも求められているのではないのでしょうか?!
  したがって、医師集団によるGL策定そのものが問題を悪化させかねないものであること。それよりも問われているのは、患者・家族の人権・社会保障を制度的に守る事を優先させた上での、医療関係者と患者・家族の対等な意見交換の場であり、政策制度へとつなげていく場の確立でしょう。           【続く】


UP:20060725
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