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「【資料】カール・ビンディング/アルフレート・ホッへ『生存無価値な生命の毀滅の許容 その範囲と方式』についての簡単な注釈」

四十物 和雄 20060618

last update: 20151224


(1) 出典に関して
  町野朔他編著「安楽死・尊厳死・末期医療」(1997 信山社)から抜粋しました。良く見ると「要約」なので、ある人のホームページで原典翻訳が出版されている事を知りそれを購入しました。原典は中々読み辛いものなので、概略を知るには「要約」でおおよそ分かります。ただホッへの書いた部分がないのでそれを補う必要があります。そこで簡単に私の方からの注釈を付けることにしました。その際、下記原典翻訳者の「批判的評注」をかなり参考にさせてもらいました。
  完訳は『「生きるに値しない命」とは誰のことか』(2001 窓社)。ここでは原典は『生きるに値しない命を終わらせせる行為の解禁』と、分かりやすく訳されています。関心のある人は購入なさるか、私の方から期限付きで貸し出しますので申し出てください。

(2) 原典出版の背景
  細かい事は省きます。
  ビンディングは刑法学者で、保安処分と関係する今日の刑法学多数派=新派(犯罪予防理論)に反対した、自由意志論を中核とした応報刑主義者です(ここの所が私には驚きでした。安楽死=優生主義者=保安処分主義者と等号で結び付けて理解している、悪しき左翼の伝統はカッコに入れねばなりませんね)。
  共著者のホッへは精神科医で、クレペリンの疾患単位説に対抗して、疾患は多様な原因から発症する病では適用できないと批判し、先天的型と新しい不規則な症候の結合で発症する型とに分類する立場を採っています(なお、ホッへは後者には一定の同情を示しつつも、前者については激しい差別感情を示しています。後述)。
  前者は本書公刊直前に亡くなったが、ホッへはナチ時代を生き抜いて、自分の身内が安楽死の犠牲になったときに、患者殺害の反対者に転向しているという。この事実は、安楽死の是非を考える上で重要な事といえます。

(3)問題意識の骨子
  学者特有の回りくどさを頭に入れて結論の方から読んでいくと、狙いは安楽死、すなわち「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」にあったことが分かります。四の一(p57)「考察の前提として、その存続が本人または社会にとって(註:この「社会にとって」が最大の論争点です!)法益としての保護に値しない生命というものがあるか」という問題設定がそれです。そのことに対して著者は「しかり!」として、その対象者を3グループに分けるのです。
  第1は、「傷病のために助かる見込みのない(状態)」にある人々で、「不治のがん患者や結核患者、致命傷を負った者」。第2は、「生きていたい意思も死にたい意思も持たないような、不治の精神病者(註:今日で言えば重度の知的障害者・精神障害者を指すと思われる―訳が適切でない!)」(p58上段)。第3は、「精神の健全なものが致命的な創傷等によって意識喪失状態に陥ってしまった場合」(p58下段)。特に、著者は第2グループに対する安楽死を、「生存意思がない」し、「家族・社会にとって極めて重い負担となっている」以上、「彼らの殺害を禁止する理由は・・・・いかなる見地においても存在しないように思われる」と強調する。これこそ歯止めなき安楽死への道を開くものであり、ナチの安楽死計画に応用されたものです。
  ここで補足をしておくならば、ホッへはビンディング以上に差別的な眼で第2グループを見、そのグループを更に[a]後天的な「精神的な死」に至ったケース[b]先天的な、あるいは初期に患った病で「精神的な死」が生じたケースという風に分けて、後者の無価値性を強調しています。しかしながら、一括して殺害の解禁を是認するという非常さを示しています。彼は露骨に「国威の発揚」と「経済的理由」から、その非常な措置の正当性を主張しています(註:手渡した資料の編集者が何故ホッへの書いた部分を要約しなかったのか?その意図が私には分かりません。何故なら、彼の論の方が安楽死解禁の理由が分かり易いからです)。もっと言えば第1次世界大戦の敗戦からの経済的荒廃から立ち直るためには、「生きるに値しない命」を犠牲にすることが緊要である、という意図が鮮明なのです(註:ホッヘにとって、一人息子が第1次大戦で戦死した一方で、「非生産的な命」に社会の経費が使われている事に対する憤りがあったこと、も間違いないところでしょう。これは他の多くのドイツ人が共有する感情であったことを忘れてはいけないでしょう。これは今日の安楽死=尊厳死法制化が高まってきている背景とも重なるでしょう。安定した職に就けず、社会保障費がドンドン削られていくのが「当たり前のご時世」となっている今日、「誰が生きるに値しない命なのか」の線引きを求める社会的欲望は日増しに増大している、といえましょう)。

(4)安楽死と優生思想
  ここで窓社版の訳者の間で、安楽死解禁について(ナチ時代においては、第2グループに対して組織的な安楽死が実施されました。第1、3グループについても非公式な形で安楽死が為されていたようです。)の解釈が相違している事に触れておきます。
  佐野誠氏と森下直貴氏の考えの違いで、前者は安楽死肯定の理由は経済的側面にあることを強調し、生殖細胞や遺伝子レベルでの議論抜きでなされている事を挙げています。代表的な優生学者レンツが「人種衛生学=優生学」からは、「命を終わらせる行為」よりも「生殖細胞の消滅としての断種」を問題にしたことを引用して強調しています。
それに対して後者は、優生思想を、「全ての命の間に優劣をつける考え」の事で、「優秀」とされる命を保持・純化・創出する方向と、「劣悪」とされる命を排除しようとする方向とがあるが、後者のやり方には隔離・不妊化・抹殺の3段階があり、安楽死の解禁はその最終段階、と言っています。
  私の個人的意見を述べます。厳密には佐野氏の言うことの方にやや分があるでしょう。森下氏の概念規定は厳密ではなく「何でも優生思想」というこれまでの運動の側の雰囲気を表現した様なところがあるかもしれません。ただ、第2グループの存在そのものを「生存意思がない」「生きるに値しないいのち」と決め付け「この様ないのちの存在そのものの抹消=絶滅」を提唱し実行する事は、明らかに優生思想だといえると思います(優生学の立場からは「非学問的」ではあるが・・・・。ちなみに、今日の様にヒトゲノムが解読されるような時代においても、何が優生・劣生を選別する学問的基準なのかがはっきりしているとはいえません)。更に言えば、日本の障害者運動が世界的にも先駆けて優生思想を問題して来た事実の重みを抜きに語ることはできません。正確に言えば「命の選別」思想を「存在そのものの抹消=優生思想」へと拡大適用してきたこと(支配層が本来優生学の対象といえるか分からない人々を優生学まがいの言葉で隔離・抹殺してきた事)に対決して闘ってきたこと、その運動の歴史を考えると、森下氏の言い分にはそれ相応の意味があるように思います。
  私は以上の事を踏まえて、これまで優生思想と呼んできたことの多くを「いのちの選別思想」と言い換えることにしていますが、存在そのものの抹殺が問題になっている場合は、やはり、優生思想という言葉を使うことにしています。「いのちの選別」一般では問題に出来ないと思いますから。又、優生学と優生思想とも区別して使用します。優生学そのものは殆んど学問的には成果がなく、優生政策の実行と優生思想の浸透に寄与してきただけだ、と思っています(戦後日本で成立した「優生保護法」による多大な害悪は、本来優生学の対象者とはいえない人々に対して猛威を振るったのですから)。

(5)安楽死の解禁
  ワイマール共和国時代のドイツにおいては、ビンディングらへの賛成意見は圧倒的少数派で、法学者からは「生きるに値しないいのちを終わらせる行為」の解除は法的に不可能。医師からは知的障害者、精神障害者にも「生存の意思は当然にも存在すること」等によって反対されました。
  ところが、このような考えが全く通用しなくなった時代がやがて到来するのでした。それがナチの時代であり、本書に基づいて、ヒトラーの侍医テオドア=モレルの「安楽死に関する報告書」が作成され、「障害者安楽死計画」の必要性が確認された経過が実証されています。それに基づき秘密裏での子供の安楽死計画、そして成人の安楽死計画へとエスカレートして行きました。
  現在入手できるのは、モレルの「報告書草案」です。そこでは、第1に、安楽死の対象をビンディングの言う第2グループ、すなわち知的、精神的障害者に絞り(脳性まひ者は知的障害者として、その対象になりました)、「生存無価値な生命」(以下、私が普通に使用している「生きるに値しないいのち」と書きます)の定義をもビンディングから借りていることから、本書が「安楽死計画」に多大な影響を与えたことは間違いのないところです。
  「生まれつき・・・・極めて重度の肉体的・精神的障害を持つが故に、継続的なケアによってしか生きられず、奇形である為にその容姿が世間の憎悪の的となるような、人間社会との精神的つながりが最も低い動物のごとき段階にある精神病者【駐:訳としては正しくない、と思われる。今日でいう知的・発達・精神・障害者―脳性まひ者も含まれている―の重度者を指している】は、生きるに値しないいのちを終わらせる行為に関する法律に基づき、医師の介入によって短縮されうる」
  モレルのこの言葉は、ビンディングの「法の観点ばかりか、社会共同、道徳、宗教といったどの観点から見ても、真っ当な人間の反対物であり【駐:訳は意味が不明なので私なりの表現にしてみました。ここの箇所は資料では反映されていません。】、接したものの殆んどに驚嘆の年を呼び起こさずには置かない人々、そのような人々の殺害解禁に反対する理由はない」や、ホッへ「精神的に死せるものが位置する知的水準は動物種でもかなり下等なほうであり・・・・」という内容と呼応しています。今日ではバイオエシックスの論者に同様な主張が見られます(有名なのが、動物の権利論者=ピーター・シンガー等)。この差別的確信は、生物学的・優生学的に証明されようともしていないこと、に注意しなければならないでしょう。
  ここで注意点を一つ。何故ヒトラーの侍医モレルが第2グループのみを積極的に選択したのか?他のグループは国家意思としては除外されたのか?(何度も言うように、当時のドイツにおいては、安楽死法制定以前のオランダ―オランダほどではないにしても日本においても――に見られるように非公然・非組織的には安楽死は行われていました)という疑問です。
  今日の安楽死=尊厳死容認動向は優生思想的なものが全面にはいまだ出ていません。明らかに「超高齢化時代」における社会保障費(医療費)削減の流れの中で、緊急かつ抵抗の少ないであろうと思われる老・病者(この文書で言えば第1グループ)をターゲットにしています。当事者の側からすれば「肉体的痛み(その他の耐え難い生理的不快感―嘔吐、発熱、呼吸の苦しさ等)」が伴う「将来への不安感」が安楽死=尊厳死の容認に繋がっています(緩和ケア、疼痛治癒の普及によってかなり解決される問題なのですが)。そこでも働いている論理は経済的負担の軽減です。
  ところが、ナチの時代には、経済的なものだけでは説明できない優生思想的偏見、すなわち、第2グループに対する「生存意思のない(言葉として表現できない)者」、したがって(ここに論理の飛躍があるのですが)「法益たる資格が甚だしく損なわれたがために、いのちを存続させることがその担い手自身にとっても、社会にとっても一切の価値を持続的に失ってしまったような人の命」の対象者として重度知的・精神的障害者を挙げたビンディング、ホッヘの見解を採用したのでした(1933年に実施された医師エーバルト=メルツァーの「施設収容障害者の親の心理アンケート」は彼らの見解を否定するために為されたものでしたが、皮肉なことに、「わが子のいのちの短縮を願う」親が多く、逆利用されたようです)。それが社会的に納得のいくものだったからでしょう。戦時国家総動員体制下においては、「全ての障(傷)老病者がその体制の脚を引っ張る欠陥人間とされている」が、「精神的に死んでいる者」には「いかなる苦しみもない」がゆえに、「彼らへの殺害は通常のものとは違う」(ホッヘ)、と言い切り実行できたのでしょう。この辺りの解明は未だ重要なテーマだろうと思われます。

(6)医師専門主義による、安楽死=尊厳死、延命中止
  知的・精神的障害者にとってのみならず、身体障害者、難病者、傷病者においても、社会の側がコミュニケーションのバリアーを解除しようとしない限り、法律的責任主体となりにくい事情が今日においても存在しています【註:障老病に関わる意思疎通をその個人の責任にしないことが求められます】。そこから「生存意思がない」とか「生存することに否定的である」と決め付けるわけには勿論行きません。そのバリアーを取り除く努力をしなければならないのは社会の側です。その努力の欠如を不問にしたままで、「QOLが低い」と他者(主に医師)から決められる事態が危険極まりない「いのちの選別」に繋がるものであること(QOLというものはあくまでも自己評価にとどめるべきであり、他者はそれを尊重すべきだというのが私の考え――そのためには他者の圧力や本人自身の肉体的な苦痛のない状態での意思表明や本人の安心度合の把握が要請されます)を先ず言っておかねばならないと思います。
  このような立場は、【個々人の痛みや苦しみを、その当人自身の性質・能力等の責任にし、「社会に貢献しない・迷惑をかける存在」として切り捨ててきた見方――能力主義、優生思想、安楽死思想に共通して存在する人間観】にあることに対する反省から、現時点において私が言いうることです。それに替わるものは未だありません。ただいえることは、ありのままの姿において(ボーとしているときがそれに一番近いかもしれません)安らぎを感じることができること、を大切にしたいというくらいです。
  安楽死=尊厳死に替わるものは、疼痛治癒(痛み・不快を和らげる医療を一部とした人々の試み)・緩和ケアによる上記の状態の確保であり、近しい人との交流交友関係の回復だろうと思っています。寿命を縮めることがあっても・・・・。この辺りは個々人の考えを尊重するしかないことでしょう。
  そういう夢を抱きながらも、その夢は現実においては殆んど実現が難しくなってきているのが昨今の状況です。
  ここで、ビンディング、ホッヘ等の安楽死思想と今日のそれとが切断されたものであるのか?を問うことは無駄ではないでしょう。
  かれらの文献に見られる安楽死の対象の類型化はそっくり今日にも当てはまります。どのグループに対しても安楽死を解除せよと言う彼らの主張は、今日オランダ、ベルギー等において、法制度的にはもっと厳格なチェック体制を有した形で実現されています。見た目には第2グループに対する組織的な安楽死だけは実施されていないようです。しかしその実情は、医師の専制と対象の拡大という形をとっていることを見逃してはいけません。医師グループにとって(国家にとって)どのグループも「無駄な延命をしている」と見なしているのが実情の様ですから・・・・。
  彼らの知的・精神的障害者に対する度し難いほどの差別はストレートには見られなくなりました。障害者運動の成果でしょう。しかしながら、差別している視線はなくなってはいません。差別する専門家側の【自らの知的能力への過信と専門家至上主義】(その一体性は原典では非常にはっきり分かります)、理性(というより知性か?)優位の人間観は今でも反省されているとはいえないし、ましてや、戦争・侵略責任、人体実験の責任を取らずに来た日本の医療関係者は、自己の専門性によってどれだけの被害を及ぼしてきたのか(成果も数多く残してきていますが)?ということについては、露ほどにも自覚がないと思われます(ちなみに射水市民病院現院長麻野井氏は安楽死・尊厳死のことについての知識は、事件発覚当時の昨年10月までは殆んどなかったそうです)。その上で、射水市民病院事件の事実解明と教訓を自らの責任において為そうとしないまま(他の病院関係者の黙認下において)、医師主導の医療のマニュアル化と責任回避化がなされてきているのです。この点を忘れずに考えていきたいものです。

  そういう点について考える素材として、この文献を学習する意義は十分あると思います。あいにくと不十分な資料しか提供できなかったことをお詫びします。


◆Binding, Karl.;Hoche, Alfred 1920 Die Freigabe der Vernichtung lebensunwerten Lebens: Ihr maB und ihre form, Felix Meiner, Leipzig=20011126 森下 直貴・佐野 誠 訳『「生きるに値しない命」とは誰のことか――ナチス安楽死思想の原典を読む』,窓社, 183p.ISBN:4-89625-036-2 1890 [boople][amazon][BK1] ※ d


UP:20060714
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