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「支援における代理表象の倫理――ある知的障害者の自立生活を支える取り組みから」

野崎 泰伸 20051023
第78回日本社会学会大会自由報告 於:法政大学


 本発表では、生活全般における決定を自ら行うことのできない重度の知的障害者の地域における自立生活を支える支援者の倫理を考える。そのことによって、「自己決定」できないような障害者の場合の自立生活を支えようとする支援のあり方から、支援における代理表象の倫理を浮かび上がらせようとする。そのために、現在自立生活を始めて8年が経過する神戸市在住のXさんの支援を例として考えてみる。

 Xさんは、現在50代で、身体と知的の重複の障害を持つ。自らの意思によって行動すること、または行動を指示することができない。そこが、身体障害のみの自立生活と大きく異なる。従って、介助者を管理することすらXさんひとりでは不可能となり、Xさんの知的な部分における代行が必要となる。そこで、Xさんを支援するための支援者の集まりが月例で持たれることになる。支援者はXさんの直接介助に関わる者、Xさんが利用する介助サービスを提供する事業者、すでに地域で自立生活を行う身体障害者などである。

 その会議では、Xさんが生活上必要とするすべての意思決定の代行がされる。具体的には、(1)すべての金銭管理(会計担当者の任命と会計報告を含む)、(2)介助者のスケジュール調整、(3)介助者の募集育成、(4)緊急時対応の体制作り、(5)行政などとの交渉と各種事務手続き、(6)介助者への介助内容の要請と必要事項の連絡、(7)介助者の管理(各介助者の仕事をチェックする。介助者を解雇する権限も含む)、などである。

 自分で介助者を管理をすることが困難な知的障害者の介助をする場合、介助者がいい加減なことをしたり、またそれでも許されてしまう場合が多いと思われる。介助者を管理できない方の支援を行う際には、細かいことまできっちりとルールを作っておくことが重要である。そのため、当該会議においては時間厳守、金銭管理(一円たりとも曖昧にしない)、仕事の完遂(やるべき事を家族や次の介助者に押しつけない)、キャンセル時の対応なども逐一ルール化している。例えば「私用電話は実費を払う」「Xさんの家にあるものを食べたら、それに見合ったお金を払う」「コーヒーは、一杯10円」というようなことも、ルールとして徹底させている。「細かいことにこだわると関係が事務的になるので、各自の信頼関係にゆだねるべきだ」という主張もあるかもしれないが、それは介助者側への利益しかもたらさない、身勝手な考え方ではなかろうか。また、金銭管理に関しては、介助者が結託して不正をしない限りは、絶対にいい加減なことが起こらないようなシステムを作っている。

 また、家族と同居されている方の場合、お金に関してつい曖昧になってしまうことや、家族から曖昧さを望まれることもあるかと思われる。しかし、それは長期的には、家族にいわれのない多額の負担を強いることになり、介助をつけることそのものが困難になってくることもあり得る。家族が曖昧さを望まれているとしても、その点を理解してもらい、甘えることなく、一円たりとも曖昧にせず、きっちりと、また淡々と、お金に関してはごく事務的に処理すべきと考える。それをせずに家族からの信頼を得ることは不可能だと考える。お金だけでなく、食事やおやつや手土産などについても同様である。それらを遠慮なくもらうことを称して「暖かみのあるつきあい」などと言い出す介助者もいるかもしれないが、それは介助を受ける側の負担を無視したものだと言える。また、その「暖かみのあるつきあい」という考え方が、本人や家族に対して介助者からの無言の脅迫となり得ること、介助者にとってその障害者は一人でも、介助を受ける本人や家族にとって介助者は沢山いるのだということを忘れてはいけないと考える。

 支援者チームがわきあいあいとする必要は全くない。それは馴れ合いの原因ともなる。また、身内のり的な空気を醸し出すのは、すでにそこにいる人には心地良いことかもしれないが、一方でそれは、すでに完成された集団として外部の人に閉じた印象を与え、新しい介助者が増えることを妨げることにもなりかねない。その機関は、介助者の集団ではない、少なくともそうは位置付けないということも重要である。利害関係が混乱するからである。ましてや、介助者の懇親会的なものであっては全く意味がない。その人の介助者であるかどうか、日頃どれほどの関わりがあるかどうかに関わらず、批判的な視点を持ってその機関に参加する人を探すことも必要であろう。

 介助者は基本的に、生活に必要な介助をするのが仕事だと考える。自己決定が困難な障害者の場合、最大限本人(と家族)の意向を考慮(想像)しつつ、生活の大きな流れを考えるのは支援者チームの役割。それを受けて、実際にそれが実行できるようにすることが介助者の仕事である。支援者チームは、障害者のニーズを把握(想像)し、介助中の過ごし方を介助者に伝えることが必要になる。

 支援者や介助者は、現時点では大抵の場合障害者や家族に対して圧倒的に優位な立場であることを忘れてはならない。「やめられたら困る」「世話になっている」「迷惑をかけている」「本来は家族がやるはずのことなのに」などという言説が、雄弁にそうした事実を物語っている。よって苦情がないということが問題がないということの証拠には決してならない。

 抑圧関係の中にあって、障害者やその家族が苦情を言うということが、どれほど困難なことであるかは無視されてはならない。また、その抑圧関係ゆえの言えなさを無視して、ただ「何かあれば何でも言って下さい」と言うことで介助者が安心したり、ましてや「思っていることがあるなら何でも言うべきだ」など開き直ることはもってのほかである。言えないのは、いまある抑圧やこれまで受けてきた抑圧の結果であるのかもしれず、障害者や家族に勇気がないからでは決してない。言わせないのは誰なのか。いまある抑圧やこれまで受けてきた様々な抑圧を放置してきたのは誰なのか。そもそも言えない知的障害者の場合も、だからといってごまかすのでは決して許されないことだろう。つまりは、放っておくと、支援者や介助者は調子に乗り放題なのである。そして、それでも誰にも批判されないことは多い。そんな調子でも下手をするとありがたいことに褒められたり感謝されたりもする。障害者の支援や介助をやろうという人には、褒められたり感謝されたりするのが人一倍大好きで自己批判が大嫌いな人が、自戒も込めてたぶん多いと思われる。そういった人によって自己正当化のための思考停止や無茶な主張がなされても、他の多くの介助者や支援者も同じ病におかされているので、それがまたすんなりと受け入れられがちである。

 また、「友達としての介助」などという、とんでもないことを言い出す介助者もいるかも知れない。しかし、そのような主張は介助者の仕事内容や責任を曖昧にするということで、それもまた介助者にしか利益をもたらさない。「ざっくばらんな付合い」「あたたかい関係」などというのも同様である。また「対等な関係」などという主張もそうである。それらは介助者の優位性を確保しつついい加減なことをするための言い訳であり、詭弁である。逆に、これまで障害者が「対等」を主張してきたのは、そのような「介助者との対等」では決してない。むしろ、そうした言い草がもってしまう欺瞞さを告発しようとするような「対等」を主張してきたのではないのか。

 いくら支援者が良かれと思っても、本人に意思確認ができないことについては、その決定に明確な正当性がないという危うさを忘れてはならない。本人の幸福からはほど遠い決定をすることも十分にあり得る。これはどうにもできないことなのだろうが、少なくとも「決定してはみたものの、この決定には何ら正当性がないのだ」ということを意識していると、無自覚なのよりかは少しくらいはましな決定ができるかもしれない。そして、どんな些細な決定であっても、その決定に至る根拠とその根拠の正当性をいけるところまで考えることが重要なのである。

 これまで書いてきたことの説得力を一挙に無くすのは承知で言うが、そもそも、その人が明らかに心からそれを望んでいることが確認できないなら、誰かがその人を代表することの正当性を主張できる根拠はない。Xさんの場合でなら、「Xさん会議」がXさんを代表することの正当性は全くない。ただ、なんとなく流れでそうなっているだけである。一生懸命考えている、などということは何の根拠にもならない。しかし、だからといって誰かが代表することをやめるわけにはいかない場合がある。代表する正当性はないが、それをしないことの方が障害者にとって大きな不利益となるなら、それもまた勝手な判断だが、葛藤を持ちつつ代表するしかない。そして、その葛藤を意識し続けることは非常に重要である。支援者のその危うさに少しでも説得力を持たせ、悪意の有無に関わりなく不当な行為がなされないようにするためには、支援者集団が常に批判にさらされるべく、内にも外にも開かれたものでなくてはならない。批判し合える場とムードを確保することのみが、かろうじてそれを担保する。


UP:20080108 REV:
生存学創成拠点・成果  ◇障害学
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