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市民社会のルールとして、なぜ障害による差別の禁止が必要か
村田拓司
『季刊福祉労働』第108号(現代書館) pp.42-49
(特集 地方発・障害者差別をなくす取組み)
障害による差別を禁止し平等を目指すとは、人間は多様な存在ゆえに、特定の基準により心身機能の差異に序列を付けて各人を不当に扱うことを止め、その多様な存在に根ざす尊厳において等しく扱うことを目指すこと、と言える。障害のある人も含めた多様なすべての人が参加する社会を実現するには、障害差別禁止が必要となってくる。
はじめに
「働きたくても働く場所が少ない。まるで、身体障害者は『働かなくてもいい。収入が少なくて当たり前。』と言わんばかりの対応で……『できない! 危ない! 任せられない!』と決めつけ、チャンスさえ与えられない」
「小学校入学前、普通学級に通いたいと意思表示したのに入学通知は来ず、教育委員会に受領しに行ったら、親の『見栄』だと言われた。小学校の教員に、連絡帳に『良いところはない』と書かれた。高校の教員には、話をする前から『知的障害者とは関係がない。つきあえない。』と考えている人が多い」
「コンビニ等、店内が狭く、車いすが不便。手すり・スロープは当たり前のように設置してほしい。障害者用トイレを増やしてほしい」
「『聞こえないのでは何かあったときに困る。保護者の方を連れてきて下さい。』と聴覚障害を理由に借家を断られる」
等々、これらは、千葉県健康福祉部障害福祉課が募集した障害のある人に対する差別に当たると思われる事例のごく一部である(注1)。筆者も全盲ゆえに、一人暮らしは危険という理由で居室の賃貸を断られたり、区役所窓口で案内を請うたら厄介者扱いされたり、ある自治体の職員募集要項を取り寄せると「活字対応可能」などと全盲者に不利な要件が書かれていたり、とこれまでに同じような経験をしている。周囲の障害のある人たちに話を聞いても、同じような事例は枚挙にいとまがない。
本稿では、まず第一に、障害による差別とは何かを論ずる。第二に、平等の実質的意義と障害差別禁止の必要性を論ずる。最後に、障害による差別の禁止を具体化するに当たって解決すべき課題について略言する。
障害による差別とは何か
差別とは「(1)差をつけて取りあつかうこと。わけへだて。正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと……(2)区別すること」(『広辞苑』第五版)、「(1)ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること……(2)偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること」(『大辞林』第二版)とされる。
一般に「差別意識」などと言う場合、単に区別するというよりは、多くは偏見や先入観に基づいて、ある基準の下に事物に序列を付け、正当な理由もなく不当に扱うこと、と言えよう。では、差別を禁止して目指すべき平等とは何か。先の筆者なりの定義付けからすれば、特定の基準で事物に序列を付けず、等しく正当に扱うこと、ということになろう。したがって、人間の平等とは、人間に序列を付けず、個々人を同等なものとして正当に扱うこと、と言える。
しかし、人は一人として他者とは同じでなく、性別あり、年齢差あり、いわゆる障害の有無ありと多様である。それを等しく扱えるのか。等しく扱う理由は何か。
最近、生物の多様性を尊重することの重要性が説かれている。二十一世紀の地球市民の憲法とも言われる"The Earth Charter"(「地球憲章(2)」)には、その前文で「私たちが未来に向かって前進するためには、自分たちは、素晴らしい多様性に満ちた文化や生物種と共存する、ひとつの人類家族であり、地球共同体の一員であるということを認識しなければならない」とあり、また「I. 生命共同体への敬意と配慮 1. 地球と多様性に富んだすべての生命を尊重しよう。 a. 生きとし生けるものは互いに依存し、それぞれが人間にとっての利用価値とは無関係に、価値ある存在であることを認めよう。b. すべての人が生まれながらに持っている尊厳と、人類の知的、芸術的、倫理的、精神的な潜在能力への信頼を確認しよう」とある。要するに、まずは人類を多様性に満ちた文化や生物種と共存する地球共同体の一員と捉え、生物の多様性それ自体を人間の利用価値の有無とは無関係に価値ある存在として尊重すべきものとする。このことを人間と社会との関係にも当てはめて、個人は人類共同体(社会)の一員であり、人間の多様性それ自体を、労働・生産能力といった特定の能力の有無とは無関係に、価値(尊厳)ある存在として尊重すべきである、と言えるのではないか。そして、人の尊厳とは生まれながらに認められるもので、それは、多様性のある存在それ自体から導き出されるもの、と言えよう。つまり、その多様な生存それ自体に意義があり、その多様性が尊重されなければならない。多様性を排除した均質的な社会は脆弱で、「ある社会がその構成員のいくらかの人々を閉め出すような場合、それは弱くもろい社会なのである」(国連・国際障害者年行動計画(3))という一文も、この意味で捉えられよう。
以上から、障害による差別を禁止し平等であることを目指すとは、人間は多様な存在であって、特定の基準により心身機能の差異に序列を付けて各人を不当に扱うことを止め、その多様な存在に根ざす尊厳において等しく扱うことを目指すこと、と言えよう。
次に、障害による差別とは何かについてより具体的に検討する。
まず、目が見えないから雇用しない、耳が聞こえないから入学させない、などは、人をその障害を理由に拒否・排除して不当に取り扱っていることから、差別であることについて、理念的にはさほど異論はないであろう。補助犬や車いすを利用していることを理由に、貸家への入居、交通機関の利用、商店への入店を拒否する、なども、障害ゆえに補助犬等を利用しているのであるから、やはり、障害を理由に差別しているのと同じである、と言えるのではないか。
では、次のような場合はどうか。即ち、障害のある人の入学や入社、施設・交通機関の利用を拒んではいないが、教科書の点訳や手話通訳者の配置、画面読みできる業務用パソコンなど支援機器の用意、職場や校舎・駅などへのエレベータの整備はできない、といった場合である。障害のある人の入学や入社、施設利用などを拒んではいないのだから差別ではないし、点訳・手話通訳・支援機器は障害のある本人が用意すればよい、などという人もあるかもしれない。しかし、大教室で後ろまで聞こえないからといってマイクを学生に準備させる大学はないし、社員に自前で業務用のパソコンを用意させる企業はない。一般に社員や学生、利用者のための施設や設備については、学校や企業、事業者が整備してきたはずである。なぜ障害のある人々に対しては整備する必要がないのか。
外国語の勉強を特にしたこともない日本・インド・豪州・米国・英国の人たちを集めて討論会が開かれたとする。討論は、日本人以外は英語圏の住民ばかりだったため主に英語で進められたが、通訳がない。日本以外の国の人たちは難なく英会話がこなせるが、日本人はうまく英会話ができない。発言の順番が回ってきたので、日本人はやむなく日本語で発言した。この例では、参加の機会は平等に与えられているが、主催者側からの通訳という必要な配慮がないため、互いの意思疎通ができず、特に少数派の日本人は阻害され、英語圏の人たちも日本語が分からないため意見交換ができないことになる。このとき、日本人は通訳者を自前で用意せよと言うべきか。討論会主催者こそあらかじめそれを用意すべきだとは言えないか。同様に、手話を常用するろうの人たちの会合に、聞こえる人が参加した場合、やはり、手話通訳がなければ、いくら参加はご自由にと言われても、聞こえる人は疎外感を覚え、ろうの人は音声言語が分からなくて困ることも容易に想像される。
これらの例からも分かるように、参加や利用の機会が平等に与えられても、それらを実効性のあるものにするためのそれぞれの参加者・利用者の事情に応じた配慮がなされなければ、実は、その参加や利用は無意味なものでしかないのである。
平等観の実質化と障害による差別の禁止の意義
参加や利用からの排除のみならず、必要な配慮を欠くことまで差別と言えるであろうか。ここで、平等観の歴史的変化についてみておこう。
近代市民社会の発展には、自由と平等の理念が深く結びついていた(例:フランス人権宣言一条「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」)。しかし、十九世紀には、国家は市民社会に介入せず(私的自治の原則)、個人を抽象的な法的人格として均等に扱い、その自由な活動を保障すれば足りるという形式的な機会の平等であったため、結果的に貧富の拡大など不平等をもたらした。二十世紀には、その反省にたち、労働者といった個人の社会における具体的地位に着目し、その保護のため国家の一定の介入を認め、私的自治の原則も修正されて、労働基本権・生存権の保障など実質的な条件の平等が目指された(4)。このような背景の下に成立した日本国憲法には、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(一三条)、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種(等)により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」〔一四条一項。なお、(等)は筆者。本項後段の人種等の中に「障害」は明記されていないが、後段の禁止事項は例示的列挙であって、社会通念から見て不合理な差別は前段により禁止されると解される(5)〕、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(二五条一項)と規定されている。一三条では、個人の尊厳と、自由な自己決定による幸福追求の権利に対して国政上最大の尊重を要することを、一四条では、尊厳のある個人に対する適正な処遇を請求できることを、包括的に規定したものと解することができる(6)。あわせて、二五条では、請求しうる適正処遇の最低限度は健康で文化的な生活を営みうるものであるべきことを示している、と言える。
これらの規定は、前述のように、多様な個人は尊厳のある存在であり、個人の尊厳が価値的に平等なことを確認したうえで、その尊厳を確保するために、他者から各人に対し、その人に応じた適正な処遇・配慮がなされる必要があることも示している。人間は社会的な存在であって、他者との関わりがなくては生存できないからである。そして、個人が多様なゆえに、処遇・配慮も多様であり、適正になされる必要があるのである。にもかかわらず、心身機能の差異や労働能力の有無といった特定の基準によって排除されることは、多様な存在を前提とする自然の理と、個人の尊厳を基本として形成されるべき社会のあり方に反した愚かなことと言わなければならない。また、処遇・配慮を機械的になせば足りるとすれば、個人の尊厳は傷つけられ、人間らしさを失うことになり、とりもなおさず、尊厳のある個人により構成されるべき社会の基盤を掘り崩すことにもなる。
前述の国際討論会の例のように、機械的な参加機会の平等は、配慮を要する人にとって、疎外・排除と同じく、不当な扱い即ち差別以外の何ものでもない。単に参加者の参加機会の平等を認めるだけでなく、参加者各人の事情に応じた配慮を行い、条件を等しくして初めて、真の参加の実質的平等が実現する、と言える。したがって、障害による差別の禁止とは、障害によりその人の参加・利用を拒否し排除することに止まらず、配慮を必要とする人に対して、合理的な範囲内で期待される配慮を怠ることによる実質的な参加・利用の阻害をも禁止することを意味すると言えよう。この意味で、障害のある人の社会参加を実質化し、尊厳ある多様な存在であるすべての人による社会を実現するには、市民社会のルールとして障害差別禁止が必要となってくるのである。
注意すべきは、必要で合理的な配慮は、実は、配慮を特に必要とする人のみならず、配慮を提供する側の利益にも資すること(日英通訳や手話通訳の例を想起されたい。あるいは、商店がバリアフリー化されれば顧客が増える)、合理的とは、過剰でも過小でもなく程良いという意味のほか、提供側の資力や公共性その他の諸般の事情を勘案して総合的に判断されるということである。
障害による差別禁止の具体化における課題
第一に、憲法条項は障害差別禁止の根拠となりえるものではあるが、文言が抽象的で、たとえある行為が差別に当たると解されても、その無効が帰結されるだけで、具体的な救済措置が法定されていない以上、我が国の司法のあり方からして裁判所が差別行為者に救済措置を義務づけることまでは期待できない。せいぜい、損害賠償請求権が認められる程度である。それゆえ、禁止すべき差別行為と差別からの具体的救済措置を規定した障害差別禁止法が必要となる。
第二に、差別のような人権侵害事例のほとんどは、私人間の事案が占めている(7)。ところが、憲法は、原則として国など公権力に対する関係で人権の不可侵を保障するものであり(8)、他方、私人間においては、前述した私的自治の原則が妥当する。そのため、現状では、私人間の差別事案には憲法が直接適用できず、民法一条(信義則、権利濫用禁止など)、九〇条(公序良俗違反)や七〇九条(不法行為)などに憲法の個人の尊厳や平等の主旨を含めて判断するほかない。ここでも障害のある人の利用しやすい環境の整備、合理的配慮措置などを求めることが難しい。さらに、応募段階での不採用、不動産賃貸の交渉段階での拒否などは、私人間の関係成立以前の場合であり、民法すら介在しにくい。このような場合にも、具体的な救済措置を規定して私的自治の原則を修正する障害差別禁止法が必要となる。
以上より、個人の尊厳と多様性への配慮に満ちた誰もが住みよい二十一世紀社会の実現には、市民社会のルールとしての障害による差別の禁止と、そのための法制整備が必要となる、と言えよう。
注
1 「障害者差別に当たると思われる事例」千葉県健康福祉部障害福祉課。URL:
http://www.pref.chiba.jp/syozoku/c_syoufuku/keikaku/sabetu/sabetuzirei.html
(二〇〇五年七月二七日現在)。
2 地球憲章については「地球憲章」、URL:
http://www.gcj.jp/earth/
(二〇〇五年八月一日現在)。全文の日本語訳(訳:地球憲章委員会日本支部)は、環境省のホームページで閲覧できる。URL:
http://www.env.go.jp/council/21kankyo-k/y210-02/ref_07.pdf
(二〇〇五年八月一日現在)。
3 「国際障害者年行動計画(一九八〇年)」(国連総会決議34/158 一九八〇年一月三十日採択)『アジア太平洋障害者の十年(一九九三年〜二〇〇二年)資料集』財団法人日本障害者リハビリテーション協会。URL:
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/intl/jsrd/z00001.htm#21
(二〇〇五年七月二十二日現在)。
4 芦部信喜『憲法(新版)』一二一ページ以下、岩波書店、一九九七年。
5 芦部 前掲書一二七ページ。
6 参考:佐藤幸治 現代法律学講座『憲法(第三版)』四四三ページ、青林書院、一九九五年。
7 「平成十六年中の『人権侵犯事件』の状況について(概要)〜人権侵害に対する法務省の人権擁護機関の取組〜」によれば、二〇〇四年中に新規に救済手続を開始した人権侵犯事件数は二二、八七七件、このうち、公務員・教育職員等による人権侵犯は二、〇七〇件、私人間の侵犯は二〇、八〇七件。これは、差別事案に限らないが、同じ傾向にあると想像される。URL:
http://www.moj.go.jp/PRESS/050520-1/050520-1.html
(二〇〇五年七月二十六日現在)。
8 芦部 前掲書七九ページ。
参考文献:河野正輝・関川芳孝共編『講座 障害をもつ人の人権@ <権利保障のシステム>』有斐閣、二〇〇二年。
UP:20051025
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村田 拓司
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