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「『セクシャリティの障害学』合評会」

障害学研究会関西部会第24回研究会 於:茨木市福祉文化会館 203号室
2005/09/04


障害学研究会関西部会第24回研究会

日時:2005年9月4日(土)午後2時〜5時
会場:茨木市福祉文化会館 203号室
テーマ:『セクシュアリティの障害学』合評会
司会:倉本智明さん

●自己紹介(14:00-14:15)

●各著者よりコメント(14:15〜14:38)
倉本(1章):障害者の性については多くの文献が書かれてきたが、学術的考察を加えて本にしたものは初めて。それと、これまでの文献は既存のセクシュアリティの秩序を自明の前提にしてきたものが多かった。むしろ、そうした秩序を、障害者の性を窓にして除いてみる、というのが意図。
 自分の章について。正直言って、性的弱者という言葉にはあまり関心がない。自分はそういう方向で論を立てたいとは思わない。ただ、このことばは現に流通しているし、諸刃の剣ではあるが、現実に介入するためのツールとして使えることも事実。そこで、どうせ使うなら、矛盾がない、使い勝手のいいものにしたいと考えて、それについて書いた。
松波(2章):介助経験から障害女性固有の問題に関心をもつ一方で、私自身はフェミニズムやジェンダー論を勉強して楽になってきたところがある。だが、フェミニズム等と障害女性の問題がうまく結びつかないと感じてきた。かもがわ出版の3冊の「障害者と性」の本や『セックスボランティア』といった本などにしても、ジェンダーの視点は希薄だし、私が追求してみたいこと(恋愛・結婚によってしか女は存在価値が認められないかのような抑圧や、性的主体になりにくいこと)は描かれていないと思った。どういう概念を導入したら、問題がこれまでとは違ったかたちで見えてくるのかを考えて、「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」を一つの切り口にすることにした。解決策でなく、「こういう視点から見てみたらどうか」という提案をしたつもりだ。書いていて何度も「しんどい」と思ったのは、当事者の言説のなかのロマンチック・ラブ・イデオロギーを、非障害者である自分がどう論じたらいいのかということだった。障害者の恋愛や性行動はうまくいった当人には解放感をもたらし、世間への抵抗の戦略になった側面があるが、一方で恋愛・結婚が過剰に目的化されやすくもなったのではないか。そのへんの両義性を描きたかった。
横須賀(3章):もう少し違うことを書こうかと思っていたが、締切が迫って、書くことがない、あと2か月で書けるのは何かと考えて、自分を切り売りするしかないという結論に至って、そうなった。そのほうが自分でも考えやすいし、やがてそうしてみたいと思ってもいたが、こんなに早くするとは思わなかった。障害学に限らず、自分と向き合うことが必要と感じていた。障害学でいうと、つねに障害者が対象とされて、健常者は自分を問わないことが多い。自分で自分を見つめようと思った。ネタとしては他にもいろいろあったが、時間の関係や、商業出版として面白くないネタは入れなかった。ああいう語り口がいいのかどうかは「読者にゆだねる」。最近『セックスボランティア』の書評を60枚ほど書き、『構造的差別のソシオグラフィー』(世界思想社)という本に載る。もうひとつさらに「セックスボランティアの陥穽」というような原稿を書いている。
前田(5章):しまりのない原稿になりそうだったので、ゴフマンを引いたりして、頑張って書いた。むしろゴフマンのあたりがわかりにくかったという評も聞いたので、自分の体験の部分と理論の部分が分かれてしまったかなと思う。自分が介助している人にも、できあがった本を配ったが、意見を言ってくれたりして、それからの入浴介助に論文がフィードバックして、「パンツ一枚の攻防」が続いている。フィードバックがもらえるのがありがたい。論文に書いたことが現実に介入しているのがおもしろいと思う。
草山(6章):当初は性教育のことを書こうかと思ったが、挫折して、結局5年前に書いた論文をほとんど書き直さずに載せることになった。理屈は一切出てこない。マスターベーションの介助とは何かと考えながら書いた。これ以降も聞き取りをしようと思っていたが、まだ進んでいない。「いきなりマスターベーションの介助という生々しい世界に突っ込むと後が難しいのではないか」というコメントももらった。
三島(8章):7章までと感じが違っている、いまの社会福祉士の資格や養成のあり方では、実習が全部施設で行うことについて何もコメントしていない、という評ももらったが、とりあえず現実を書こうと思った。あと「結局ロマンチックな恋愛感情しか論じていない」という評もあったが、あえて「ほのかな思い」だけに注目した。ソーシャルワーカーを養成していく時に「感情をコントロールできて一人前」という考え方がある。たとえば「転移」という語を用いることで障害者の恋愛感情は消えてしまう。ここは、「誘いが存在しない局面」といえる。

●事実確認の質疑(14:38〜14:58)
A:性的弱者論だが、障害者問題とか障害者とは別の文脈で出てきたのか?
倉本:言葉自体が、実践の言葉。理屈があって出てきたのではなく、問題を構築するための道具のようなものとして使われている。いつどういう風に出てきたかについては、正確なところを確認していない。Bさんどうですか?
B:自分はあまり聞いたことはない、あまり耳にしない。
倉本:言い方自体は宮台真司さんあたりがよく使う。自分はよくわからない。岩波の「応用倫理学講座」の『性/愛』を倍くらいにふくらませたのが今回の論文。その原稿の依頼のキーワードは「性的弱者」だった。ただ、同じような内容は、障害者も問題提起しているように思う。
A:障害者を念頭に置いて出てきているということか?もてない男、電車男などは想定されていない?
倉本:そういう文脈でも使われる。ただし、社会問題として構築されていくのは、障害者・高齢者の場合。特に、障害者が中心。それに対して宮台氏はおかしいといっている。言葉の使われる目的が異なっている。二つの使われ方がある。現状を表現する。言葉と、その現状をおかしいと価値判断する言葉と。
C:セクシュアリティの定義はそれぞれの著者で異なるが、ここで聞いてみたい。
倉本:統一していない。横須賀さんや瀬山紀子さんは別にして、著者の大半はセクシュアリティのことを中心に研究してきたわけではない。自分も『障害学の主張』で書いているが、書く人がいないので書いただけで専門的に研究しているわけではない。需要が先にあって作った。この本はいわば、議論のきっかけになるなら、と作った本であり、最初から定義の統一をするつもりはなく、それぞれの著者に任せた。ちなみに、自分はこのことばを、「性に関わる事象と言説の総体」と捉えている。今回担当した章では、もっぱら性的欲望に関わる部分に焦点を当てた。
松波:注3(p.78)に上野千鶴子の定義と、文中での意味を説明している。
横須賀:学術論文ではないので明確な定義はしていないのと、締切が迫っていた。漠然と描いていたのは、性的なことに関わること全般。
前田:定義せず。難しいし、できない。こういうものだとはっきり定義できないが、定義できないことがしんどいことでもあり得るし、おもしろいところでもあり得る、ということを書いたつもりだった。自分ではとりあえず、性的なものだと「感じてしまう」こと。
草山:意識的に考えたことはほとんどない。むしろ、書いてから考えた。
三島:あまりはっきりと考えていなかったが、実習生が受ける利用者からの(恋愛感情の)告白や抱きつきなどの行為について書いた。

●質疑応答(14:58〜15:35)
D:自分の考えるセクシュアリティとは、ずばり身体のこと。ジェンダーやなんだといっても脱構築しきれない「壊し残し」が身体であり、セクシャリティだと思う。一方で、近代社会はなまなましすぎるのか身体のことが公共空間に出て くることを好まない。たとえば福祉業界で「利用者」というと、セクシャリティや、身体が描かれない。無性で無害な存在として塗り込められてしまうような雰囲気がある。ところで、今回の論文集で一番「なまなましい」論文を書いてくれた横須賀さんに是非とも聞きたいことがあります。横須賀さん、いまのセクシャルパートナーのリアクションは?
横須賀:言うのはいいけど、相手のこともしゃべることになるので、こっそり話したい。
D:確かに、セクシャリティや身体は相手があることなのでしゃべりにくいというのはよく理解できます(笑)。だからこそ興味があるし、語られてほしい。
E:せっかくBさんが来ているので、Bさんのことを聞いてみたい。自分でやってきたことについて、性的弱者について考えること。
B:たとえば「会社員で、ヘルパー資格を持っていて、セックスボランティアします」というようなことで、どうやって連絡するかということがある。メールも発信元が特定されかねない。交通費など実費のやりとりをどうするか。自分で財布を管理するのではなく、親が握っている場合、ネットでお金のやりとりをすると名前が出てしまう。ボランティアが名前が出ることをいやがるが、現場でもやりとりできない場合、どうするか。うちの口座を経由しますか、というようなことになる。お金の管理ができず、親が握っているような場合、どうなのか。個々に対応するしかない。うまい方法が考えられるといいと思うが。
倉本:Bさん自身は、セックスボランティアなどで、風俗よりも安いとか実費だけで提供されることについてはどう考えている?
B:風俗店で障害者割引をやっているところもあるが、いいとも悪いとも思っていない。電車の運賃が半額になるのと同じようなこと。ただ、風俗業界に対して勘違いがあると思うのが、安かろう悪かろうではないということ。サービスの内容は多種多様なので、安いから悪いわけでも、高いから満足できるわけでもない。セックスボランティアで、通常より安いとかタダというのは反対。うちは取っている。
横須賀:セックスボランティアは、SARのようなものが想定されている。宮台氏が最初にこの言葉を使ったと思うが、売春合法化すればこの言葉を使わなくてもいいはず。対価を支払えば売春になる。
B:言葉の定義はともかく、自分のページではこの言葉を使っている。NPOのほうでは使っていないはず。なぜ使わないかというと、ボランティアとすると無償奉仕になる。そうすると、タダでセックスできると勘違いされる。それはよくない。「性的介護」とか「サポーター」とかいう言葉にしているはず。
横須賀:宮台さん、Bさんなどが対談したのは知っているが、『SPA!』の対談では使っていたと思う。当時から変わった?なぜ「売春」といわないのか?
B:『SPA!』の当時も、セックスボランティアはタダでないという認識だったが、いちいち説明するのがかなり面倒になった。「売春」を使わないのは、本番やってお金のやりとりがあるのが売春だから。本番しないこともあるので、使わない。
横須賀:本番以外のサービスは合法のはずなので、障害者が性的欲求を満たすのが困難なのは本番以外ないのではないか。ヘルスもピンサロもある。法的に認められていないのは性交以外ないのでは。売春合法化しましょう、というほうが首尾一貫している。「日本にセックスボランティアを!」というのをBさんのホームページで見たのだが。
B:売春合法化は言っている、というか、何で違法なのかよくわからないので、合法でいいんじゃないかと思うが。あまり高らかには言っていないが。
倉本:自分も横須賀さんと同じで、セックスボランティアなどではなく、「風俗のバリアフリー化を」でいいと思う。身体的な接触だけを求めているのではない人たちの欲求は満たされないであろうが、それはセックスボランティアとて同じこと。この点については、これまであまり考えられてこなかったように思う。
A:Bさんの本は読んでいないのだが、ホームページは、風俗店やラブホテルのバリアフリー情報から始められたのではないかと思うが、それはセクシュアルアクセスの問題提起としておこなわれたのだと理解している。ところで、アメリカのDisability Studies Quarterlyのセクシュアリティ特集も、性風俗へのアクセス問題には触れられてはいないが、セクシュアリティへの障害者のアクセス問題に焦点があたっている。それはセクシュアリティだけではなく、他のことへのアクセス問題とも重なる。お金の管理とか、障害学のテーマそのものに広がる。したがって、Bさんの仕事は、セクシュアリティ問題のすべてではないが、セクシュアル・アクセスの問題の一部には違いなく、障害学との接点はたしかに存在しているはずである。ただ、Bさんがこれまでしてきたような風俗バリアフリーの仕事はもうだいぶ進んでいて、充分なのではないかというのが倉本氏や横須賀氏の意見で、それに対して、Bさんは、風俗バリアフリーだけでは解決できない問題や障壁もまだあるということなのではないか。
倉本:自分や横須賀さんが言っているのは、たとえて言うなら、公共交通機関のバリアフリー化を行えば済む場面で、スペシャル・トランスポートについて語るのは変だということ。別立ての対応一般を否定するわけではないが、日本の現状だと、必要なのは一般施設、サービスのバリアフリー化であり、わざわざ別立てのそれを構想する必然性はないと思う。

●休憩(15:35〜15:55)

●質疑応答つづき(15:55〜17:00)
F:セクシュアリティとは何かを共有できない障害者、我々が認識できないコードを持った障害者のセクシュアリティをどうするか。たとえば知的障害者で、抱きつき、性器露出などがあるときに、どう論じるか?
草山:養護学校に勤務していた時にそういうことがあった時は、その当時は余裕がなかったので、その場しのぎの対応しかできなかった。今でもそんなに変わっていないだろう。対処法もなかなか難しい。
C:そういう問題に向き合う余裕がない時に対処を迫られる現場は大変。異文化として肯定することを社会に求めることもできないのが現状で、難しい問題。
F:障害者自身の目線で語っていくのが障害学だとすれば、たとえば好きな人に肩を叩いてほしい、終わったら頬ずりをしてあげたい、という人について、誰にとっていいとか悪いとか言えるのか、ということを考えなければいけないと思う。
倉本:誰しもが言えるようにすべきだが、誰もそれに特権を持っているわけでもないだろう。そういうふうに考えては。
三島:動物と障害者で考えてみたいと思っていたので、今後検討したい。
G:前田さんの「視線の非対称性」というので、介助者に下半身を見られるのと、街中でじろじろ見られるのと、同じに考えているか?街中でじろじろ見られるのに不快感はぬぐえない。一方で自分の視線をサングラスで隠して、自分も人をじろじろ見ることで、プラスマイナスの辻褄合わせしている。
前田:今回は風呂という密室の中の対面状況なので、外出したときの対面状況とは違うだろう。慣れるということについては、性器を見られるということは強い意味づけがなされて重要。街中で見られる状況と密室でのそれとのあいだに、あたかもズレのない、直結する話として論理を持っていったのは不用意だったかもしれない。
倉本:介助関係は特定の関係だが、Gさんが慣れないというのは、特定の人との関係?
G:特定の人の場合は、不特定多数の人に見られるのに比べると、ないに等しい。
E:先ほど倉本さんが言ったように、セクシュアリティの問題というのは、風俗とかでは根本的な解決にならない。あらゆる差別の問題は、結婚という様相において一番よく出てくる。この本ではそこまで行っていない。ロマンチック・ラブ・イデオロギーに関連して松波さんが若干扱っているが。結婚、一緒に住む、ということを目指した時に壁にぶつかる。差別として考えていかないと根本的解決にならない。障害者は収入も少ないし、働けない障害者もいっぱいいる。パートナーの健常者が働いて稼ぎ、介助もしているというケースもある。結婚という制度がいいか悪いかは別にして、障害者と健常者が一緒になって生活している個々のケースを、もっと検討すべきでは?
倉本:そういうケースはむしろたくさん報告があると思う。障害者の集会などではうまくいったケースが報告されることが多い。あらかじめ、そこに差別があり、それを乗り越えて結婚に至った、と想定するのもちがうように思う。
松波:サクセスストーリーはもう要らないと思った。結婚しようとした時に立ち上がる差別については、家制度や優生思想など、考えるべき要素があるが、セクシュアリティとはずれる。少なくとも「うまくいった人」に焦点を合わせる意義を、私は見いだせない。
E:サクセスストーリーだけ取り上げろと言ったわけではなく、なぜ、障害者と健常者が結婚するというときの壁を乗り越えられないのか、をもっと問うべきだと言っている。
H:サクセスストーリーもあまり聞いたことがない。あと、この本は身体障害、介助が中心になっているが、他の障害で特徴があるのかもしれないので、横須賀さんのように自分を語ってくれるとよいと思う。
倉本:たしかに偏りがあるが、直接に扱っているのは特定の障害者だが、そこから普遍的なものを取り出そうとしている論考が多いと思う。
C:大学で輪読会をしたが、倉本さん、横須賀さんとも、男ジェンダーの呪縛から解放されたという語り方をしているが、何がきっかけで男ジェンダーから解放されたのか?また、何が残ったのか?
横須賀:どちらかというと、ジェンダーの縛りから逃れたくても逃れられない、ということを書いたつもりだったが。軽くなったとは自分では思っていない。むしろ男ジェンダーを地でいっているという評価もあるので。
C:当事者の語りから何を学んだらいいかという視点で読んでいる。お茶大の佐藤りかさんが視覚障害者のセクシュアリティを調べているのと、同じような視点で読んでいた。
横須賀:解放されたと書いた記憶はあまりない。男ジェンダーの呪縛についていうと、まず語らない、語るとしてもサクセスストーリーでは、活路は見いだせない。
倉本:「男らしさ」の呪縛から解放されている部分が少しはあるように思う。同化圧力としてはたらくことも多いと思うが、ぼくの場合、インペアメントのために、やろうとしてもできない、ということが、逆に幸いした。同化しようとして失敗した時に、その失敗を、当時のパートナーはむしろ肯定的に受けとめた。ポジティブなフィードバックによる学習といったところか。その後、メンズリブ運動にかかわったり、セクシュアルマイノリティの友達ができたことも大きかったと思う。「見えない」ということがマイナスであるとは限らない。発想を転換すると面白い。出発点は酸っぱいブドウだが、ブドウがどうでもよくなることもある。とはいえ、ブドウはどうでもよくても、未だにリンゴやスイカには未練があるので、あくまで部分的な話ではあるのだが。
横須賀:自分のセクシュアリティが変わったというところは、価値観が変わって、面白いことはやってみようか、というところがある。なぜそうなったかというのは、よくわからない。
I:松波さんの論考はとくに面白かった。軽度障害者については、結婚できるんじゃないかとかいうことで、より強くロマンチック・ラブ・イデオロギーに縛られる。結婚して子供を産んで育てて、というのが健常者より強く呪縛する。ロマンチック・ラブ・イデオロギーだけでなくて、それを強化する別の装置があるようにも感じる。別途ではないかもしれないが、当事者本人が呪縛されているというより、それしかないという形で抑圧されるように感じる。
J:学校現場で、ソープに行きたい男子生徒を男性教師が連れて行くと美談だが、彼氏がほしい女子生徒をホストクラブに連れて行くとクビかもしれない。「最後に結婚があるやん」といわれると違和感を感じるのと通じるかもしれない。
松波:自分の介助経験から書いたので軽度の人のことは触れられなかったが。女性の人生の想定される選択肢に「結婚」がついてまわるのは確かにそうで、軽度の人の場合、周囲から「就労は無理でも結婚が逃げ道になる」と思われたり、「結婚できるだけの魅力があるかどうか」をはかろうとする世間の目にさらされたり、重度の人の場合とは別のしんどさがあるのは確かだろう。『女性障害者とジェンダー』(一橋出版)という本があるが、結婚した女性聴覚障害者が家庭内で奴隷的な扱いを受けている事例が複数載っていた。これは軽度の女性への抑圧をあらわす話だと思った。奴隷的な境遇でも「結婚できたからよし」というふうに思われていたのかと思うとゾッとした。軽度の場合の問題を含め、今後も考えていきたい。

*参加者23名(司会、報告者、介助者含む)

*作成:
UP: 20090713
全文掲載  ◇障害学研究会関西部会  ◇障害学研究会関西部会・2005
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