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雇用の平等化に向けた理論の探求

遠山 真世(立教大学コミュニティ福祉学部) 2005/08/27
障害学研究会関東部会 第48回研究会


   *レジュメ
   *博士論文章構成
   *記録
    *報告
    *コメント・応答
     事前にHPに掲載したファイル(別ファイル)
    *質疑応答


 
 *レジュメ

1.問題の所在

1.1 障害者をとりまく社会状況
・差別禁止法の登場・普及
・経済不況→完全雇用の崩壊・政府支出の削減
・能力主義の激化

1.2 2つの主張
@差別禁止による「機会平等」:能力にもとづく選抜
 障害に配慮した環境整備、適正な能力評価
 →あらゆる障害者の問題が解決するのか?
A雇用保障による「結果平等」:すべての障害者の雇用
 能力にもとづく選抜を否定
 →どこまでの雇用保障を実現しうるのか?
・差別禁止+雇用保障
 競争的雇用+非競争的雇用
 →単純に両立しうるのか?

1.3 検討課題
それぞれの主張の理論的な問題点とは
議論を進展させるためには

 ・「能力」に目を向ける
 ・「障害」「能力」「機会」の関係
 ・障害者の「雇用問題」とは

2.障害者の雇用問題

2.1 「能力」の問題
能力=職務の遂行にとって必要な知識や技能
   教育・訓練や努力をつうじて習得する
   選抜において評価され、参入/排除が決定される
能力の習得・評価を妨げる要因:
@教育・訓練の機会が少ない:<習得機会の制限>(a)
A努力しても能力習得が困難:<習得率の制限>(p)
B評価の場・環境が用意されない:<評価における障壁>
(b)
<障害にともなう制限>(h)
⇒健常者との能力差が生じる
C「努力」(E)も能力習得に影響する
(グラフ:別途解説)
健常者と同じだけ努力しても、同じだけの能力を習得する
ことは難しい

2.2 雇用問題
・健常者個人と障害者個人の能力差
→健常者グループと障害者グループの能力差
 →グループ間の就業格差(ex.就業率の差)
 (グラフ:別途解説)
・<障害にともなう制限h>がなければ、健常者と同様に努
力しうる
 →<努力量E>の平均値は健常者グループと障害者グルー
プで等しくなる
 →グループ間の就業格差はなくなる
 (グラフ:別途解説)

 「問題」=「障害」によるもの
     =習得機会の制限a・習得率の制限p・評価にお
ける障壁b
      →能力差−排除→就業格差

 <努力量E>の少なさによる問題:「障害」によるものと
はいえない

2つの主張:「問題」を適切に把握・解決しうるか?
      それぞれが「能力」をどう捉え扱っているか


3.理論モデルの対峙

3.1 能力主義モデル
差別禁止による「機会平等」
障害に配慮した環境・適正な能力評価→「能力」にもとづ
く選抜
・ここでの「問題」:習得機会の制限a、評価における障壁
b
 習得率の制限p:個人に残される
・「属性」(生来的、所与)にもとづく処遇は不当
 「能力」(自ら獲得する)にもとづく処遇は正当

・習得率の制限p:障害(インペアメント)による、「属
性」と同質
         ここでは個人の「能力」として扱われ

「障害」問題を部分的にしか解決しない
軽度障害者にとっては有利、重度障害者にとっては不利

3.2 反能力主義モデル
雇用保障による「結果平等」
能力にもとづく選抜を否定、すべての障害者の雇用を求め

・能力が関わる問題すべてを社会的なものみなす
 社会の対応力・包容力の問題とする
・能力差:社会的な環境や障害(インペアメント)によっ
て生じる(a,b,p)
 能力そのものを社会的なものとみなす
・能力:全面的に社会的なものといえるのか?
 努力の問題:社会的解決を正当化できるのか?
「問題」を過剰に解決しようとする
重度障害者にとっては有益、軽度障害者・健常者にとって
は・・・


 2つのモデル:<習得率の制限><努力>の捉え方・扱い
方が相反する
        理論的な弱さ、解決範囲の過小をはらむ
 ⇒一方の選択は困難、両立しがたい

4.新たな理論モデルの探求

条件:理論的な弱さ・対立を解消する
   「障害」問題を過不足なく解決する

4.1 従来モデルの共通論理
個人にとって責任のない問題:個人では選択できない要因
による問題
→個人が被るべきでない→社会的に解決すべき
・従来のモデル:個人に「責任なし」とする範囲が異なる
        能力に関わる各要因の性質をふまえてい
るか?

4.2 <責任モデル>
・障害にともなう制限h:習得機会の制限a・習得率の制限
p、評価における障壁b
            個人にとって選択できない、責
任なし
 →それによる能力差・排除・就業格差:社会的解決の対


・努力E:障害の影響を受けない部分
     個人にとって選択できる、責任あり
 →それによる能力差・排除:社会的解決の対象外
3つの「障害」問題を同時に問題化・解決
あらゆる障害者に適用可能

4.3 責任モデルによる雇用政策
現行の施策:単独では不十分、両立しがたい
・差別禁止:能力主義モデル、「能力」による競争
・保護雇用:反能力主義モデル、能力によらない雇用
・割当雇用:(特別枠モデル?)、障害の有無別での雇用
新たな政策
・習得率の制限にも配慮した選抜:差別禁止
・障害にともなう制限に応じた雇用枠:割当雇用
・雇用保障による就業格差の解消:保護雇用
いずれかを選択する、複数を組み合わせる
→解決される範囲は同じ。就業格差はなくなる。


5.新たな「平等」を求めて

5.1 研究成果
・「能力」に着目し、「問題」の内容・範囲を再検討
・従来のモデルを理論的に分析、対立の構図を解明
・新たなモデルを提示、今後の政策を構想

5.2 新たな「平等」とは
「平等」=「障害」問題が存在しない状態
雇用平等=<障害にともなう制限h>による問題がない状態
     <責任モデル>により実現される
あらゆる障害・社会経済状況に対応しうる

5.3 今後の課題
・責任モデル・政策の実現
・分配システムの検討:所得保障との関係

参考文献

荒木兵一郎・中野善達・定藤丈弘編,1999,『講座障害をもつ人の人権 2 社会参加と機会の平等』有斐閣.
Barnes, C., Mercer, G. and Shakespeare, T., 1999, Exploring Disability: A Sociological Introduction, Cambridge: Polity Press.(=2004,杉野昭博・松波めぐみ・山下幸子訳『ディスアビリティ・スタディーズ――イギリス障害学概論』明石書店.)
Barnes, C., Oliver, M. and Barton, L. eds., 2002, Disability Studies Today, Cambridge: Polity Press.
Blanck, P. D. ed., 2000, Employment, Disability, and the Americans with Disabilities Act: Issues in Law, Public Policy, and Research, Illinois: North Western Press.
石川准・倉本智明編著,2002,『障害学の主張』明石書店.
苅谷剛彦,2001,『階層化日本と教育危機――不平等再生産から意欲格差社会へ』有信堂高文社.
定藤丈弘・佐藤久夫・北野誠一編,2003,『現代の障害者福祉(改訂版)』有斐閣.
笹谷春美・小内透・吉崎祥司編著,2001,『階級・ジェンダー・エスニシティ――21世紀社会学の視角』中央法規.
Shakespeare, T. ed., 1998, The Disability Reader: Social Science Perspectives, London: Continuum.
障害者差別禁止法制定作業チーム編,2002,『当事者がつくる障害者差別禁止法――保護から権利へ』現代書館.
杉野昭博,2002a,「イギリスにおける割当雇用制度と差別禁止法――グローバル化時代の要請」『季刊福祉労働』93:52-59.
―――――,2002b,「機会平等法の国際的展開――オーストラリアとイギリスの機会平等法」,河野正輝・関川芳孝編『講座障害をもつ人の人権1 権利保障のシステム』有斐閣,77-86.
竹内章郎,1993,『「弱者」の哲学』大月書店.
立岩真也,1997,『私的所有論』勁草書房.
―――――,2001,「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」『季  刊社会保障研究』37(3):208-217.
遠山真世,2001,「障害者雇用政策の3類型――日本および欧米先進国の比較を通して」『社会福祉学』42(1):77-86.
―――――,2002,「障害者−健常者間の就業機会の格差――評価指標の検討」『厚生の指標』49(10):7-13.
―――――,2004,「障害者の就業問題と社会モデル――能力をめぐる試論」『社会政策研究』4:163-182.
八代英太・冨安芳和編,1991,『ADAの衝撃――障害をもつアメリカ人法』学宛社.


 
 
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2004年度 東京都立大学大学院 社会科学研究科 社会福祉学専攻博士論文
「障害者の雇用問題:平等化に向けた理論と政策」
章構成

1.本稿の問題意識と構成

 1.1 障害者雇用をめぐる状況
 1.2 本稿の構成
 1.3 本稿の位置
 1.4 用語の解説

2.障害者雇用問題の研究動向

 2.1 日本における先行研究の概観
 2.2 欧米における先行研究の概観
 2.3 障害学における先行研究の概観

3.論点の整理と課題の設定

 3.1 日本における議論の課題
 3.2 欧米における議論の課題
 3.3 障害学における議論の課題
 3.4 本稿での検討課題

4.障害者の労働能力と雇用問題

 4.1 労働能力の定式化
 4.2 障害者−健常者間の労働能力の差
 4.3 障害者が雇用される条件
 4.4 障害者−健常者間の労働能力の差と就業格差
 4.5 障害者の雇用問題とは何か

5.能力主義モデルと反能力主義モデル

 5.1 能力主義モデルの理論構造
 5.2 能力主義モデルの問題点
 5.3 反能力主義モデルの理論構造
 5.4 反能力主義モデルの問題点
 5.5 2つの理論モデルの本質的相違と両立可能性
 5.6 障害の社会モデルにおける理論的課題
 5.7 新たな理論モデルの必要性

6.新たな理論モデルの検討

 6.1 従来の理論モデルに共通する視点と論理
 6.2 「責任モデル」
 6.3 責任モデルにもとづく問題解決
 6.4 責任モデルの意義
 6.5 責任モデルの課題
 6.6 障害の社会モデルと責任モデル

7.責任モデルと障害者雇用政策

 7.1 障害者雇用施策の概要
 7.2 3つの理論モデルと障害者雇用施策
 7.3 各国における障害者雇用政策
 7.4 責任モデルにもとづく障害者雇用政策
 

8.新たな「平等」を求めて

 8.1 本稿の成果
 8.2 今後の課題
 8.3 雇用機会の平等化に向けて


 
 
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 *記録

8月27日(土)障害学研究会関東部会 第48回研究会


土屋 それでは定刻になりましたので、障害学研究会 関東部会 第48回の研究会を始めたいと思います。
 今日は、立教大学コミュニティ福祉学部にいらっしゃいます、遠山真世さんをお招きして、「雇用の平等化に向けた理論の探究」というテーマでお話しいただきます。コメンテーターには、立命館大学の立岩真也さんをお迎えしました。
 研究会を始める前に、参加者の方に、一言ずつ自己紹介をいただいてから、始めたいと思います。
 ご覧になって分かるように、要約筆記と、手話通訳がいますので、なるべくゆっくり喋るようにしてください。
 言い忘れましたが、レジュメが用意されています。お手元に、A3のレジュメが3枚あると思います。また、拡大のレジュメ、点字の資料もあります。必要な方は、申し出てください。
 それでは最初に。私は今日司会を務めます土屋と申します。障害学研究会関東部会の世話人の1人です。よろしくお願いします。

 各人自己紹介:略

 では、遠山さんの報告に移りたいと思います。1時間ほど報告の後、休憩を取り、その後立岩さんにコメントをいただきます。自己紹介を含めて、おねがいします。

 今日の報告者の遠山です。初めまして。よろしくお願いします。
 まず、簡単に紹介します。私は、東京都立大学の博士課程で5年間過ごし、この3月に博士論文を出し、博士課程を修了し、5月から立教大学のコミュニティ福祉学部で助手をしています。普段は、社会福祉の実習の事務や、学生の指導をしています。
 研究では、雇用問題をテーマとして、まず最初のころは、障害者の雇用政策を国際比較し、3つの類型にまとめました。
 次に、障害者と健常者の格差をどうやって測ったらいいかという研究をしました。単純に就業率、失業率ではかったのでは問題があるのではという議論をしました。
 そこから、雇用機会の平等とはどういうものか、それを実現するにはどうすればいいかという形で研究を進めてきました。
 障害学研究会とのかかわりは、2001年12月に、今日はいらっしゃっていないですが、長瀬さんに声を掛けていただき、政策の類型の話をしました。そこで、障害者に対する差別や、能力とはどういうものかという話をさせていただき、皆さんからご意見をいただきました。
 2002年の社会学会で、石川准先生司会の部会でも報告をさせていただき、能力と労働市場からの排除の問題、機会平等とはどういうものかという報告をしました。そのとき、立岩先生に声をかけていただき、『社会政策研究』という雑誌に論文を載せることができました。それが博士論文につながり、今日報告させていただきます。
 この研究会や障害者学のメーリングリストの皆様に長い間ご意見や励ましをいただき、本当にありがたく思っております。またこうして報告の機会をいただき、博士論文を外で報告するのは初めてで、この場で報告できること、また立岩先生にもコメントをいただけることを本当にありがたく感じています。立岩先生の話を聞きに来た方もたくさんいらっしゃるでしょうが、しばし、お待ちください。
 では、報告をさせていただきます。
 雇用の平等化に向けた理論の探求というテーマで報告します。
 はじめに申し上げますと、今日の報告の主題は、雇用を平等にするにはどのような理論が必要なのかということです。障害者の方が働きたくても働けないという状況をどう改善するかというところに、議論の焦点があります。雇用されるか否かの決定、労働市場の入り口がどうあるべきかというところです。所得保障の問題とは、さしあたり、切り離して、雇用の機会のみに焦点をあててお話しします。
 まず、障害者の雇用をとりまく社会状況、及び研究の動向について、お話しし、そこから問題や障害がどいうものかを再検討する必要がある。そういう問題に対して、従来の議論が何を行ってきたかをお話しし、議論を先に進めて問題を解決するために、新たな考え方を提示し、それに基づいて政策を考えてみたい。最後に、これまでの研究をふまえてたどりついた、「平等とは?」ということについての見解を示して、報告を終えたいと思います。
 障害者を取り巻く社会状況です。大きなこととして、差別禁止法が登場し、機会平等という考え方がかなり普及してきたことがあります。一方で、経済不況、完全雇用が崩壊して、政府支出を削減しなければならない状況になってきた。その中で、能力主義がますます厳しい状況になってきて、障害をもつ方々がより一層厳しい状況におかれていることが予測されます。そうした状況に対し、アメリカの差別禁止法をめぐる議論や障害学や障害福祉の中での雇用問題についての議論を見てみると、大きく分けて2つの立場がこれまでのところ、出てきています。
 まず、差別禁止法による機会の平等を主張する立場。この立場は、能力に基づく選抜を求めていると言えます。障害に配慮した環境を整備して、適性な能力評価を行うことを求める立場です。ですが、あらゆる障害者の問題が解決するのかという点では、疑問が残ります。
 これに対して、雇用の保障による結果の平等を求める立場があります。この立場は、能力に基づく選抜を否定して、すべての障害者の雇用を求める立場です。ですが、先ほど申しましたように経済的に厳しい状況の中で、どこまでの雇用保障を実現出来るのかという点に、議論の余地があるように思います。
 それからもう1つの立場もあります。差別禁止と雇用保障を同時に実現すべきだ、という立場もあります。ですが、この立場は競争的な雇用と、非競争的な雇用とを両立させるという話で、そんなに単純に両立できるものかどうかという点で疑問が残ります。
 このように、大きく分けて2つの対立的な主張がこれまでのところ出てきていて、そういう状況で、議論が停滞しているという感じです。機会平等という考え方が、どちらかというと優勢かも知れませんが、結果の平等を求める意見も依然として根強い状況です。
 それをふまえて、まずそれぞれの主張に理論的な問題点があるのではないかという疑問があり、その点を議論する必要があると。そして、議論を先へと進めるためには、能力というものにもっと目を向ける必要があるのではないかと考えられます。というのは、先の2つの立場というのは、能力をめぐっての対立だとということができるかと思います。能力に対する考え方、見方が全く違う。じゃあ、いったい、能力とはどういうものなのか、というところから考えてみる必要があるのではないかと考えます。そして、障害や能力、雇用の機会が、どういう関係にあるのかを明らかにして、障害者の雇用問題とは何なのかというところを考えることで、こうした状況を打開する糸口が見つかるのではないかと考えまして、検討を行いました。
 今日の報告の前提は、まず、働けない人が必ず出てしまう、そして、能力によって働けるか、働けないかが決まる。そういった避けられない現実を前提にします。そうした厳しい現実の中で、私たちがどこまでを問題にできて、どういうふうに主張していくことができるのかを、考えていきたいと思います。
 また、能力に着目するということを言いますと、能力に着目することを拒まれがちというか、能力について議論するというと、不快に思う方もいらっしゃるかなと思います。私もこれまで、その点でいろんな批判を受けてきたわけですが。これまで、能力は自分の責任、自分のせいだというように考えられてきたのに対し、障害学、とりわけ社会モデルの成果としては、社会的な要因によって、能力が阻まれている部分を切り離すというところにあったと思います。でも、今まで言われてきた成果で十分なのだろうか。さらに社会的なものと言うべき部分があるのではないかと考えています。
 よく誤解されるのが、能力のない人は、排除されていいという話なのか、ということだとか、障害者に努力を強制することなのか、というふうに言われますが、そうではなくて、障害の部分を社会的に保障すべきだという話だと思っていますので、その点を心にとめて聞いていただければと思っています。
 では本題に入っていきます。ここでまず、能力というものを職務の遂行にとって必要な知識や技能であり、教育や訓練、努力を通じて習得するもので、選抜で評価されて労働市場への参入か排除かが決定される、というように定義したいと思います。その上で、能力の習得や評価を妨げる要因として3つ考えられます。
 まず、教育や訓練の機会が少ないこと。これを、「習得機会の制限」と呼ぶことにし、記号の(a)とおきます。
 2つめに、努力しても能力の習得が困難という問題があって、それを「習得率の制限」と呼びます。記号は(p)とおくことにします。この「習得率の制限」ですが、例えば、重度の身体障害者の方が健常者と同じことをするにしても、どうしても時間がかかってしまうとか、労力が健常者よりもたくさん必要になるということや、知的障害者の方でしたら、1つの仕事を理解するのに時間がかかってしまうとか、他の人のサポートが必要になるという問題。それから精神障害の方の場合、調子が悪くなってしまうので、無理ができない問題だとか、通院の必要がある、ということも、この習得率の制限に含まれると私は考えています。
 それから、3つめの評価の場や環境が用意されないこと。障害者だからといって、評価すらされないという状況や能力を十分に発揮するための環境の配慮がなされないという問題がここに当てはまりますが、これを「評価における障壁」として(b)という記号で表します。
 これらの3つの要因をひとまとめにして、「障害にともなう制限」と呼ぶことができるかと思います。これを(h)とおきます。
 これら3つの要因があるおかげで障害をもつ方と健常者との能力差がどうしても生じてしまう。ただし一方で、4番目ですが、努力というものも能力の習得に影響を及ぼしているだろう。自発的に能力の習得に向けて時間を費やすだとか、労力を費やすという部分もあるだろう。
 この現象をグラフにかいて説明したいと思いますが、視覚に障害をおもちの方も、口で説明するのを聞いて、イメージしていただけたらと思います。タテ軸が能力でヨコ軸が努力の量。直線のグラフで努力に応じて能力を習得できる場合というのは、傾きが1。1努力したら1能力が増えるという形。健常者の場合、努力に応じて能力が増えると考えていいと思いますが、障害者の場合は、障害に伴うさまざまな制限によって、努力をしても能力の習得がはばまれる。ということで、障害者のグラフの傾きは、健常者のグラフより小さい。このように図で示すことができるかと思います。
 障害者と健常者が同じだけの努力をした場合、健常者に対して障害者は同じ努力をしても、健常者と同じように能力を習得することが難しい。別の説明をしますと、同じ能力を習得するためには、健常者より多くの努力をしなければならない。そういうことが分かります。
 今のグラフで説明したかったのは、健常者と同じだけ努力しても、同じだけの能力を障害者が習得するのは難しいという現象です。ここで、努力という話を持ち出しますと、これまた印象が悪くて批判を受けるんですが、努力という要因を想定して議論を進めることで明らかになること、主張できるようになることがある、という話になっているはずですので、しばしおつきあいをいただければと思います。
 能力というものを、このように考えた上で、では、障害者の雇用問題とは何かということに話を進めたいと思います。先ほどの4つの要因が、能力に影響を与えるということになると、健常者個人と障害者個人で、能力差が生じてくる。その個人の能力差が集まると、健常者のグループと障害者グループの、全体としての能力差が出てくる。平均値の差が出てくると考えていただけばいいと思うわけですが、そうしたグループ間での能力差が、健常者と障害者の間での就業格差を生み出す。例えば就業率の差などに出てくる。
 またグラフで説明します。障害に伴う制限がある場合の能力の分布を考えます。ヨコ軸が能力、タテ軸が人数。能力の分布のしかたは、標準的なものを考えますと、だいたい平均的な、真ん中へんにたくさんの人が集まっている。能力の低い人と高い人は少なくなっている。これを健常者のグラフとすると、では、障害者のグラフはどうえがけるかと言いますと、全体数の差がありますので、このような形ですかね。能力が低い側により多くの障害者が集まる形になります。
 能力の平均値は、障害に伴う制限がある場合には、障害者の能力の平均値の方が低くなります。ここで、社会の全体の中で、例えば、7割の人が雇用されるということを想定しますと、ある一定の能力よりも高い人のみが雇用される。雇用される人は、ある能力以上をもつ人ということになります。そうなると、能力は全般的に健常者の方が高いので、健常者の人はたくさん働けるけど、障害者の中では、働けない人がたくさんになってしまう、と。これが障害にともなう制限がある場合です。
 次に、制限がない場合のグラフを書いてみますと、能力の平均値は同じになる、と。どういうことか説明が必要ですが。レジュメの方に戻っていただいて、障害に伴う制限がない場合には、障害をもっていても、健常者と同様に努力しうる。言いかえれば、障害の有無によって、努力できるかどうかに差はない・・・はずだと仮定することにします。おそらく、障害に伴う制限がなければ、障害をもっていても健常者に負けないくらいがんばれるのだというふうに思ってらっしゃる方も多いかと思いますが、そのように考えるとするならば、努力量の平均値が健常者グループと障害者グループで同じになると。グループ間で、努力の量に差がなくなる、と。そうなった場合、能力の平均値は同じになる、ということです。その中で、ある一定の能力以上の人が、雇用される、と。例えば、社会全体で7割の人が雇用される状況では、健常者も7割の人が、雇用されて、障害者も7割の人が雇用されることになるわけです。障害に伴う制限がない場合には、障害者も健常者も同じように努力しうるんだと考えると、最終的には、健常者グループと障害者グループでの就業格差がなくなるという現象を今のグラフで説明しました。
 このように問題を整理しますと、ここで問題だといえるのは、障害によるもので、ここで指摘できるのは、習得機会の制限と習得率の制限、評価における障壁の3つである。それが障害者と健常者の能力差をつくりだして、能力の低い人が、労働市場から排除されることによって、グループ間の就業格差が生まれる、と。このように問題は整理できると思います。
 一方、努力量の少なさによる問題。努力をしなかった人の問題というのは、障害によるものとは言えない、ということになると思います。
 このように整理できた問題に対して、はじめにお話しした2つの立場は問題を適切に把握して解決しうるものだろうかということを考えるにあたって、2つの主張がそれぞれ能力というものをどう扱っているのだろうかという点を次に考えてみたいと思います。
 2つの主張の背後にある考え方、理論はどのようなものなのかというのを、整理してみます。まず、差別禁止による機会平等を求める立場というのは、障害に配慮した環境、適正な能力評価を実現することによって、能力にもとづく選抜を求める立場です。さしあたり、この立場の背後にある考えを「能力主義モデル」と呼ぶことにします。この能力主義モデルで問題とされているのは、先の4つの要因のうち、習得機会の制限と評価における障壁の問題です。一方で習得率の制限による能力の低さ、それを理由とした労働市場からの排除というものは、ここでは問題にされません。こうした考え方の背後にあるのは、性別や人種差別の訴えの中での考え方、公民権運動の考え方に影響を受けている。そこでは生来的で所与の属性にもとづく処遇は不当である。自ら獲得する能力に基づく処遇は正当だというような考え方があるのではないか、と。そういう公民権運動の考え方と社会モデルが指摘した社会的障壁、ディスアビリティの議論が重なり合う形で差別禁止法が形作られたと言えると思います。
 (レジュメの)次のページにいっていただいて。ただ、ここで習得率の制限というのは、インペアメントという意味での障害によるもので、自分ではどうにもならないというものだと思いますが、それを考えると、習得率の制限という問題は、能力主義モデルで考えている属性と同じ性質を持っている、と。ところがここでは、個人の能力として扱われてしまう。
 したがって、この能力主義モデルは、障害の問題を部分的にしか解決しないもので、軽度の障害者、習得率の制限が小さい人にとっては有利なものだけれど、習得率の制限が大きい重度の身体障害者の方や知的障害者の方にとっては不利が残るものだということが言えます。
 これに対して、雇用保障による結果の平等を求める立場について、次に考えてみると、この立場は、能力に基づく選抜を否定して、すべての障害者の雇用を求める立場です。さしあたり、「反能力主義モデル」と呼ぶことにします。この反能力主義モデルは、能力がかかわる問題のすべてを社会的な問題とみなす。社会の側の対応力、包容力の問題とするという考え方があります。議論の中では、能力差は社会的な環境やインペアメントによって生じるのだと。だから能力の問題は、全部社会的なものとして扱うべきだという考え方が出されています。
 ですが、能力というものが全面的に社会的なものと言えるのか。まったく個人の中から出るものがないのか、という点で、疑問が残りました。そうすると、努力というものを考えると、能力が低い障害者については、すべて保障しろ、という主張にも無理があるのではないかと思います。そうすると、この反能力主義モデルは問題を過剰に解決しようとするものといえるのではないでしょうか。たしかに重度の障害者にとっては有益なモデルですが、とりわけ健常者の失業問題を考えたときに、障害者の能力の低さは、全部障害によるものだから保障しろ、と。一方で健常者の能力の低さは、全部努力によるものだから保障はなし、ということが通るかどうか。障害者のみ、能力の有無にかかわらない雇用を主張できるのかどうかということで、やはり限界があるのではないかと思います。
 このように見てみますと、2つのモデルは習得率の制限と、努力という2つの要因の捉え方や扱い方が相反する。能力主義モデルでは、この2つが個人の努力として扱われてしまう。扱われるのに対して、反能力主義モデルでは、すべて社会的なものとして扱えという主張です。また、それぞれに今まで指摘したような理論的に弱い部分や解決範囲が過大だったり、過小だったりするという問題をはらんでいることが分かります。そうすると、どちらか一方のモデルを選ぶというのもやはり難しい。だからといって、両立も、同じ問題に対する考え方がまったく違っているわけですから、2つのモデルを両立しろというのも困難があるということが言えます。
 ということで、新たな理論モデルはないものかどうかという話に入っていきます。新しいモデルの条件は、理論的な弱さや、2つのモデルの対立を乗り越えることと、障害の問題を過不足なく解決することです。
 これまでの理論モデルの背後にある考えをたどっていくと、同じような考え方に基づいているのではないかと。同じような考えというのは、個人にとって責任のない問題、個人では選択できない、どうにもならない要因による問題は、個人が被るべきではない。したがって社会的に解決すべきだと。そういう、同じような考え方が、奥底の方にあるのではないかと。ただし、これまでの2つのモデルは、個人にとって責任がないとする範囲が違っていた。能力主義モデルの方では、属性に関わることや社会的な要因、いわゆる差別については責任がないとしていた。反能力主義モデルは、能力全体について、個人に責任がないと考えていた。というわけですが、能力に関わる4つの要因の性質を適切に踏まえているかという点では、やはり疑問があって、そのことによって、それぞれのモデルとも、問題を抱えてしまっていると言えます。なので、4つの要因の性質を踏まえた上で、先ほどの共通する考えに基づいて問題を把握し直して、社会的な解決の範囲を定めてみようと。
 障害に伴う制限、習得機会の制限、習得率の制限、および、評価による障壁は、個人にとっては選択できない、責任がないものだと言えると思います。そうすると、障害に伴う制限によって生じる能力差や、労働市場からの排除、就業格差は社会的解決の対象とすべきである。それに対して、「努力」は障害の影響を受けない部分と考えておく。個人にとって、どうにかなる、選択できる部分で、個人にとって責任があるものだと考えることにする。それによる能力差や労働市場からの排除は社会的な解決の対象からはずれる。
 このような考えを、さしあたり「責任モデル」と呼ぶことにします。こうした責任モデルに基づいて考えてみると、はじめに指摘した3つの障害の問題を同時に過不足なく問題として取り上げることができて、社会的な解決を要求することができると。また、障害に伴う制限の大きさや、その内容に応じて解決を主張できる、という意味で、あらゆる障害者に適応可能だと言えるのではないかと。また、健常者の失業問題を同時に考えることができるのではないかと。こうした責任モデルに基づいて、次に具体的な雇用政策を考えてみたいと思います。
 まず、現在使われている主な3つの施策は、差別禁止と保護雇用と、割当雇用です。差別禁止は能力主義モデルに基づくもので、能力による競争を実現するもの。保護雇用は、反能力主義モデルに基づいていて、能力によらない雇用を実現するもの。割当雇用は、かなり古い考え方で障害の有無別での雇用を、実現しようというものです。
 これら3つの施策は、それぞれ単独では問題の解決にとっては不十分だし、理論的にも両立しがたいものであると言えます。そこで責任モデルに基づく新たな施策がどういうものかといいますと、まず、習得率の制限にも配慮した選抜を求めることができると思います。それは差別禁止によって、実現される。次に、障害に伴う制限に応じた雇用枠を割当雇用という仕組みを使ってつくる。習得率の制限や、障害に伴う制限の大きさ別にグループを細かく分けて、そのグループ間で同じ割合で採用することを求める。例えば、応募者全員のうち、半分の人を雇用する場合には、健常者であっても応募者のうち半分。障害者であっても応募者のうち半分という形の割り当て方を求めることはできるだろう、と。それから3つめは、雇用の保障による就業格差の解消。保護雇用を実施することによって実現できる。
 これらのどれかを選択してもいいし、複数のものを組み合わせてもいいもので、いずれにしても解決される範囲は同じで、結果的に就業格差はなくなるということになります。
 最後のまとめとして、今日、お話したのは、まず能力に着目することによって、問題の内容や範囲を再検討した。それを基盤として従来の2つのモデルを理論的に分析して、どういったことで対立をはらんでいるのかを明らかにした。そして、新たなモデルを提示して、今後の政策を構想してみました。これまでの成果を踏まえて、では、これから私たちが求めていくべき平等というものはどういうものかということですが、ここで平等は障害の問題が存在しない状態と定義できると思います。それは、これまで言われてきた機会平等とも結果平等とも違うものです。雇用の平等について言えば、障害に伴う制限による問題がない状態。この状態というのは、責任モデルによって実現できるものなのではないかと思います。そうした平等というのは、あらゆる障害の種類、あるいは程度や社会的な状況、経済的状況にも柔軟に対応できる平等の在り方なのではないか、と。障害者の雇用問題以外のことについても、「障害とは何なのか」ということをきちんと議論した上で社会的な解決はここまでなされるべきだと、主張ができるだろうと思います。
 今後の課題としては、責任モデルやそれに基づく政策を実現につなげていくことと、雇用以外の問題に当てはまるかどうかということを検討していくこと。それから、全体的な社会的分配システムを検討することです。
 今日のお話は、雇用の機会についてのお話でしたが、所得保障と雇用機会を関連づけてこれから考えていかなければと思っています。報告は以上で、次のページは主な参考文献と、あとは、博士論文の章構成を載せました。
 報告は以上です。

(拍手)

土屋 遠山さん、ありがとうございました。報告の時間を守って、1時間きっちりで発表していただきました。これから少し休憩をとります。前にある時計で、55分から始めたいと思います。10分程度の休憩を取り、そのあと、立岩真也さんからコメントをいただきます。
 では、一旦休憩とします。会費についてですが、休憩後袋を回すので、それにお金を入れていただくようになります。よろしくお願いします。
 それから、明石書店の方がこの部屋の中で本を売っていらっしゃるので、関心のある方、ぜひ覗いてください。出たばかりの『障害学研究』や『セクシュアリティの障害学』についてなど、あります。
 立岩書店からも一言。『社会政策研究』に興味を持たれた方もどうぞごらんください。
 あと1冊、川本隆史さんが編者になられた『ケアの社会倫理学』という本ももってきています。以上広告でした。

   【2時55分再開】


 
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 *コメントと応答

土屋 そろそろ始めます。席についてください。コメンテーターの方がお戻りになってません。
 待っている間に会費を徴収させていただきたいと思います。今から袋を回します。学生の方は1000円、社会人の方は1500円です。袋が回ってきたら代金を入れて回してください。よろしくお願いします。

土屋 では、コメンテーターの方もお戻りですので、後半を始めます。
 最初に20分ぐらい立岩真也さんからコメントいただき、その後、皆さんで議論していきたいと思います。立岩さん、よろしくお願いします。

立岩 はい、立岩です。では、コメントします。
 まず、1つに、前置きみたいなことを言います。僕は今回、遠山さんがやっておられるような仕事はとても大切だと思っています。それをまず1つ言っておきます。
 障害学というくくりをするかということはともかくとして、障害ということに関わって、いろいろな事が調べられていいし、考えられたりしていいわけですけど、遠山さんのやっておられるような仕事は、見渡してみると割合手薄なところだと思います。少なくとも我が国においては。そういう意味で、遠山さんのやっておられる仕事は貴重だと思いますし、また私自身も関心がありますし、それから、またこれから研究をしていきたい人にとっても魅力的な、そして意義のある領域であるというふうに思います。これが1つです。
 これは障害学ということに限らず、実は、社会科学の幾つかの領域で、ある意味ではほとんど同形というか、同じ形の理論的な作業が進められているというふうにも思います。その一つは経済学の領域であり、また、政治哲学といわれている領域、またそれが重なるとこのなど。そういう仕事が行われているということを1つ付け加えておきたいと思います。
 ホームページに上げたファイルの中にもちょろっと出てきますが、僕がすぐに思いつくのは、ジョン・ローマーという経済学者です。これは翻訳はまだ出てませんが、そのうち翻訳されるという話も聞きますが、"Equality of Opportunity"「機会の平等」というテーマの本に展開されている話と、今日の遠山さんの話と、かなり似ているところがある、あるいは同じようなところが気になって考えているという感じがします。そういう理論モデルを構築し、そこから何が見えてくるかを考えるのは、たいへん大切なことだというふうに思います。
 今日、しゃべっていると、聞きながら考えながらは、なかなかうまい具合に、特に今の報告のポジティブな部分を捉えて、なおかつ分かりやすく話すというのは難しいと思いましたが、まあ1点。まずは「この仕事は重要だ、大切だ」ということが一つ。
 二つめですけれども、ある意味やっかいな難しい話ではありますが、問題の捉え方の部分は、ある意味、皆さんが日々考えていたり、あるいは、これって変なんじゃないの、っていうか、そういうところから発している議論だと思うんですね。そういう意味で、決して皆さんが日々考えている、あるいは生きているリアリティみたいなものと離れているわけではないということです。どういうことかというと、機会の平等という話があったりして、それで社会的な環境や、出自など、自分個人ではどうにもならないものによって、様々なものが規定されている。その結果を個人が引き受けなければならなくなっている。これはおかしいじゃないか、と思うわけです。そして、その機会の平等を言う人たちも、そのことについては、「はい」というわけです。
 ですから社会的な環境なりなんかを補って、平等にすればいいじゃないか、というようなことを言うわけですね。
 で、その次に障害ということを考えてみるわけです。とすると、障害というものにしたって生まれながらにであったり、あるいは途中で事故だったりなんかして、ふりかかってきたものであって、そんなものに自分は責任があるかというと、「それはないだろう」と考えるわけです。そうすると社会環境っていうものについては社会は面倒をみるけど、社会的に補うことはするけれども、しかし、障害ということについては、それはしない、という話がどうも怪しくというか、不思議というか、なように見えてくる。遠山さんの話の筋の、少なくとも1つは、そこに目を付けるところにあった。つまり、個人に帰せられるものと、帰せられないもの、といったときに、それはどういう分け方なのかとしたときに、与えられたものとそうでないもの、と考えたときに、障害だって与えられたものでしょ、と考えたら、今までの機会の平等という話も話が変わってくるはずだよね、という部分ですよね。そこに正当にも着目されて、その議論を進めようとしている。そういうところが、ここにおられる参加者の人たちも、問題認識として共有される部分だろうと思いますし、私が考えてきたことでもあるわけです。という意味では、非常にストレートな話の始まり方というか、問題関心から発してるんだろうと思います。
 それで、ちょっと、その裏話というか、せっかくこういうしゃべる場ですから言いますと、さっき遠山さんが紹介してくれた『社会政策研究』っていう、あと1冊ありますが、確かにその特集は私がお世話するような形になってできたものです。ここに今おられる方でいえば、寺本さん、瀬山さん、岡部さん、そういう人たちが原稿を書いてくださった。なかなか良い、自画自賛ですが、特集になっていると思います。ただこれは完全に依頼論文という形で、実質上、査読パスという形で書かれたのが多いのではなくて、実際には他の一般論文と同じように、査読にかけて通ったものです。時効というか、出版されてしまったから言うと、僕は遠山さんの論文の査読者の1人だったのです。僕のあやしい記憶によると、最初のバージョン、出されてきたものは、今、僕が指摘したような、機会の平等派に内在する論理的な問題点というか、おかしなところを突いていって、そこから議論をしないといけないというポイントがあって、私はその通りだと思って、少なくてもそのことだけでも、はっきり言う価値はあるだろうということで、ポジティブに評価したわけです。ただ、他の人が何か言ったということもあって、第二版というか、最終的に掲載されたバージョンは、それよりもある意味進化した内容になったような、漠然とした記憶があります。
 そこの中で、ここで言われる責任モデルという話が割とポジティブに出てきたような気がして。実は、僕はそれでも十分通っていい論文と思いましたから、もちろんOKは出したわけですけど、そこまで、ある意味議論が先に進むが故に、引き受けなければいけないというか、難しいポイントが出てくるような気がして、そういう査読というか、コメントもしたような記憶があります。
 それを手短に話すのはやっかいなんですが、あえて、それでもコメントの役をおおせつかったわけですので、少しお話をすると、さっき言いました、つまり、一般的に個人に帰せられているものの中に、個人に帰せられちゃいけないのではないか、って思うものがある、そういう直感というか、リアリティみたいなものがある。そこが発している部分がある。
 それと、遠山論文のもう1つのポイントは、そこの中を2つに分ける話をしているわけです。つまり、ここでは話を単純にするために障害によるもの、と短絡的に言ってしまいますが、障害に関わった部分と、個人の努力に帰される部分と、そういうふうに分けるというのが、もう1つの眼目になってくるわけです。これもまた、ある種の、我々のリアリティとしては、そういうのってあるよね、やっぱ頑張ったらそれなりに報われていいかもしれないし、そうでなかったらしょうがないね、という話になるのではないか、そういうリアリティみたいなものが、僕らにも、多くの人にとってもあるわけですよね。そこの部分も込みでモデルをつくっていく、そういう営みであろうと思うわけです。
 問題は、仮にその話をそこまでは受け入れたとした上で、それがどういう意味合い、意義を持つのだろうか。あるいは、使える話になるのだろうか、ということになるだろうと思います。
 それで、まず1つ、こういうことを考えてみます。障害があるグループと障害がないグループがいて、それの人たちに職を割り振るような場面を考えます。つまり、グループごとに考える。そのときに、遠山さんは障害固有に起因する部分にしては、個人の責任がない、したがってそれについては何らかの対応がいる。この何らかの対応っていうのが何なのかっていうのは後にしますが、それ以外にもう1つ、遠山さんは努力の話をすることになります。そのときに、あるグループをどう扱うか、障害をもっているグループをどう扱うか、もっていないグループをどう扱うか、っていうところに、問題は努力という項、変数が効いてくるかという話なんです。これはロジカルに難しい。
 つまり、例えば障害をもっているグループともっていないグループの間に努力について差があるかを考えます。仮にあると言えたとします。しかし、そのグループの分け方が、そもそも障害があるということと障害がないということで分けたわけですから、そうすると普通に考えると、その努力の有無ということも、障害がある、障害がないということに起因する、かかわって差が生じているというふうに考えざるを得ない。するとそれは、まさに障害によって規定されているものになり、その狭義の意味での努力っていう問題ではなくなる。そうすると、それはカウントされないというか、そういう意味では2つの間に努力という項目において差をつけるという話にならないということが論理的に言えると思います。そうすると、グループ間の処遇の差において、「努力」っていう項目は、実は効かない。もってこれないという理論的前提から、そういう話になるだろうと私は思いました。これが1つ。
 そうすると問題は、障害をもっているグループと障害をもっていないグループの間での、グループとしての処遇の差ではなく、個々人の間の、雇う、雇わないとか、雇うとしたらどういう条件で雇うとか、ということにおいて、このモデルを適用するという話になってくるのかなというふうに思うわけです。よろしいでしょうか?
 投稿論文のときにもコメントしたことですが、そして、皆さんも聞いていて、「うーん」と思ったと思いますが、ここでは話を簡単にするために2つだけしか喋りませんけれども、努力によるものと、障害によるものとを分けるということ。それがどういうふうに可能かと思うわけです。使えるという話なら、ある種の機会、環境というものが同じである。そして評価が同じである。そして障害の度合いが同じである。しかしながら職務遂行能力ではAさんは100で、Bさんは50だと、そういうことになると他の3つは同じであるから、これを規定するのは努力の差であろう、ということになり、これはいたしかたない。だから、この場合は、Aさんは雇われ、Bさんはそうではない。そういうケースはありそう、それなりに受け入れられそうな気がします。ただ、やっかいなのは、今ここで、3つは同じで、なおかつ結果としての能力が違う、と。そうすると違うのは4つ目だけだ。これも論理的にはそうなるわけですが、実際には、人がおかれた境遇であるとか、人が有している障害というのは千差万別であったりします。そうすると、4つの、遠山さんが挙げている成分をどういうふうに分けて、この部分は努力に帰されるものだということが、あらゆる場合とは言わなくても、かなり多くの場合浮上してくる。障害をもっているAさんと障害をもっているBさんとの比較でも起こることですが、それだけではなく、障害をもっているAさんと、障害をもっていないBさん。Aさんは100でBさんは50であるという場合、いわゆる機会、評価が同じであるとして、仮に努力というものが独立に取り出すことができ、それにおいてはAさんとBさんは同じである、と。障害者Aと障害者でないBは同じだけの努力をした。しかし、出てきた結果はAさん50でBさんは100であった。そうした場合には、4つのうち3つが同じですから、残りの1つである障害に関わる部分によってこの差異は帰結した、と。したがって、この差異については云々っていうことになるわけですけれども。
 まあ、この場合も、先ほどと同じように3つが同じであるということが規定された上で言えることになってくるわけですから、そこのところは、現実にはさまざまに困難である。そこのところをどう考えていくのか。これは実は、さっき最初の方で上げた、機会の平等派。機会の平等は多くの人が言いますが、これまでの機会の平等で、何かしらまずいところがあるっていう、ある程度の自覚をもつ、リベラルの左派というのか、アメリカでいうと、民主党左派でしょうか、そういうところに内在させている問題だと、私は思います。
 それから話は前後します。最初と今の話との間に話すべきでしたが、思い出しました。これも、多くの方が感じたと思いますが、基本的に遠山さんのモデルは、働く手前の段階で人がもっているというか、働くにあたって人が形成されてきた能力、そういう感じですね。例えば勉強して、勉強できるようになったら、それを職場で活かす、というようなもの。実際に働く場面での職務遂行の現場における能力の違いというのはあるでしょう。いちばん簡単に思いつくのは、僕がこれこれの障害のために、他の人は8時間働くが、僕は3時間しか働けないというようなこと。そういう違いをモデルの中にどう取り込むか。これは、おそらく、そんなに本質的な問題ではなくて、モデルを少し取り替えれば、補えば、解消というか、なんかできる問題だろうと思いました。ですからこれは、やれば、そういうものを取り込んだものができると思います。
 さて、1つ間の話を入れましたけれども、それにかかわって、遠山さんがなさっている話というのが、どういう、政策的というか実践的なインプリケーションをもつかという問題があると思います。もちろんそれは、さっきしゃべったように、4つ挙げられた要因をどう分離するかという話にもろにかかわります。そのことを申し上げた上で言うと、どこからいこうか......。
 まず1つは、現実にはこういうことがあります。Aさんの能力とBさんのもっている能力というものと、市場での評価というか、実際に与えられる処遇というものが、完全に比例したり、対応したりするとは限らないと思うんです。例えば、Aさんは100点だった、Bさんは50点だったとします。じゃあそのAさんは市場では100受け取れて、Bさんは50というかというと、そういう場合もありますが、そうでない場合もある。つまり、Aさんは雇われたけど、Bさんは雇われなかった。したがって受け取りにおいては、Aさんは100で、Bさんは0である。そういうことはあるわけです。そういう意味で言えば、実際に社会の中で受け取れるもの、単にお金だけと考える必要はありませんが、一番端的なものはお金です。そういうものと、能力の差異、簡単に点数化したのは、緩い関係はするけれども比例はしなかったりする。100、50だったものが、結果としては100、0になるというのはよくあることです。そうすると、その間の関係をどうとらえるかという問題が出てくるだろうと思います。つまり、ある種の能力を測って、その点数を対応させた形で社会や雇い主がその人に給料をあげるということをする、そういう話になるのか、ならないのか。実際にはなっていないわけです。
 しかし、今言ったように100と50あったとして、差異が努力による差異だとして、Aさんは、Bさんの2倍がんばった、だからそれはそれでいい、というふうに仮に考えたとして、そこで正当化されるのは、100と50だったりするわけです。しかし実際には、Aさんは雇われてBさんは雇われないということになって違ってくるわけです。
 何を言いたいかというと、そうしたときに、社会はどう対応するという話になるのか。そういう問題が必ず出てくるっていうことです。そして、その手前に、どういうふうにそれを評価するのか。つまり、市場において設定させる価格だったり、労働市場において扱われる扱われ方と、別様に何らかの処遇がある。それは直接に雇用主がすべきだというふうにはならず、政府なりがそこに対応するとしても、それに見合った形のものをといって、Aさんの能力と、Bさんの能力を何らかの形で比較可能なものにする必要が出てくるのではないか。
 そうした場合、同じ職務、職種であれば、同一の労働に関する同じ評価を測定することがあるいは可能であるかも知れない、おそらく可能でしょう。しかしながら、仕事の種類が異質なものである、そういった場合の比較の問題というのは、それよりも、はるかに当然やっかいになってくる。そういった問題をどう考えていくのかというのが、この話から出てくるのではと思いました。
 そしてもう少し具体的なところにいくと、ADAというか、差別禁止というスタイルの政策とのつながり方の問題をひとつ、今の話のつながりで言っておくと、こういうことがあります。なんであれが実際に曲がりなりにも可能であるようにされているのか。これは、評価、与えられている機会、環境のような要因と評価という要因、障害に由来する部分と、ここではちょっと変えてしまいますが、障害に由来する部分と、それと努力に由来する部分がある。4つかけて、ということになります。そうしたときに、評価はある種、情報の誤伝達みたいなものですから、実際には能力があるのに、ちゃんと評価する人がいないとか、ある種経済学的に言えば、情報の誤伝達のような話ですから、それをいったんパスして、その誤差みたいなものは是正する。そこはそこでイコールになるということにする。
 もう一方で、例えば、職場環境のあるなしによって、ある人は働けたり、ある人は働けなかったりしていた。それはその人のせいか、というとそんなことはない。そこは是正することにしましょう。純粋なマーケット、市場のモデルではそこの部分を補正する内在的な力ははたらかない。つまり、環境を補正するためのコストを込みにして雇用主は考えますので、そこの部分は、コストを勘案して雇用主は雇ったり、雇わなかったりということが起こります。
 そうすると職場環境の整備にお金がかかる人は雇われないというのは、放っておかれたマーケットの中では起こります。例えば差別禁止の法律というのは、それはダメだとなる、その分のコストを企業でもて、というか、あるいは、政府が助成金を出す等、そういったことで、そこは補正できる、すべきである、とするわけです。
 そうすると、1つめと2つめが同じになります。そして、なおかつそれ以外の部分での能力が同じであるとすれば、その雇う側にとっては2人を差別する要因はなくなる。故に、少なくとも競争力においては同じになる。そういう形によって、最初の部分の、例えば、職場環境なりの補正を行うことによって、そのことによって、実際のAさんの職務能力とBさんの職務能力は同じになるから、マーケットにもっていっても、そこの中にビルトインすることができるようになるんですね。という話なんです。
 しかし、そこで見落とされているのは、そういったことによっては、補正されないような能力の差があるわけです。ここでは、努力の差というのはいったんおきます。そうすると障害によって生じたものとそうでない人がいて、やっぱり違うということになる。それはある種、見てみないふりをするというか、見ないことにして、実質的には個人に帰せることにしてそういう意味で仕事ができない人が、仕事が出来ない、職に就けない、ということが正当化されてきたというのが、基本的なアメリカっぽいやり方の流れです。
 遠山さんは、それでは不十分であると正当にもおっしゃったわけです。
 そうすると、問題は3番目の障害という部分によって、事実的に能力に差があるにもかかわらず、何かをすべきだというときの、その何かというのが、どういう形で実際の社会の作動というか動きの中にインプットしていくのかという問題がやはり残るだろうと。そういう意味で、遠山さんの指摘は正当であるが故に、その環境を同じにしてというか、同じように働けるようにして、そうでない部分については、障害に起因する部分は放置しないという正当な立場なんですが、それと今までやられてきた政策の間にはギャップがあります。そのギャップをどう埋めていくかが、という問題がやっぱり残ります。これは全部でなく、1つの例ですが、そういう問題が残る気がします。僕が思っている勘所がうまく伝わっているかどうか自信がないですが、そういったやっかいごとを、このモデルの議論は含まざるを得ない。しかし、そういったやっかいごとをきちんと順序立てて考えていくということは、私はきわめて大切なことであると思って聞いていました。
 ですから、1つ質問という形で一旦終わらせていただきますと、2番目にお話ししたような、「分ける」という話。障害による部分と努力による部分を分けるのはわかる気もするし、妥当性もある気がします。しかしそれは現実にどうするの?という話です。
 それから、そうやって出てきたものを、能力の差というものを、何か指標にして政策なりを考えるのであれば、そこでは同じ仕事をAさんはこれだけできるが、Bさんはこれしかできない。それは努力によるものだから、しかたないという言い方はできるかも知れない。しかし、世の中には様々な仕事があり、全然違う仕事ができる能力と、そうでない別の仕事が出来る、出来ない能力、みたいなものを、比較したりするようなやっかいな問題を抱え込まざるを得ないのではないか。とすると、その問題にどう対処するか、あるいはもう1つ、例えばその点数化されたものと、実際の市場においてなされている処遇は明らかに違う。その間の距離みたいなものをどういうふうに埋めていくかという問題が残るのではないか。ということで、隔靴掻痒の感をもたれた方もいるでしょうが、私としてはとりあえずその辺のことをお聞きしようかと思った次第です。
 長くなりすみません。

土屋 では、遠山さんに今の質問に答えていただいてよろしいでしょうか。大きく分けて2つ、小さくわけると3つ質問がありました。では遠山さん。

遠山 立岩先生に今日の報告を整理して、位置づけていただき、なおかつ皆さんがもっているリアリティとも疎通をはかっていただき、たいへんありがたく思っています。
 では、コメントにお答えしたいと思います。
 まず、大きな点として、努力とそうでない部分を、実際にどう分けるのかという問題について。たしかに、その評価の場面で出てきた能力について、どこまでが個人の努力で、どこまでが障害によって妨げられているのかというのを、その場で出てきた能力から判断するのは難しいと思いますが、評価の場面までの過程で能力を習得するための機会が、例えば健常者の人の半分しかない。とか、同じ作業をするにあたり、健常者より長く時間がかかるから、同じ時間をかけた場合に、健常者の何割くらいしか作業ができない。そういう検証は、障害の種類や重さ、あるいはこれまでの生活してきた状況からどのぐらい能力の習得機会が妨げられてきたかということと、同じ作業をするのに健常者と比べてどのぐらい時間がかかるのか。同じ時間をかけた場合にどのくらい妨げられているのかということは、あくまで推測ですが、仮に特定することは可能なんじゃないかと。努力がこのぐらい、というのを言うのは難しくても、機会の制限や習得率の制限がこのぐらいだということは、ある程度言えると私は考えています。
 実際にヨーロッパで障害の判定がなされて、そこから保護雇用にいくかどうかというのを判断するわけですが、そのときに、この人は健常者の何割くらいの能力だということだとか、その障害者の能力が健常者の平均のこれくらいだからこれぐらいの賃金を保障すべきという判定も行われていることを考えると、個人個人の、特に習得率の大きさを正確に特定するのは難しいかも知れない。しかし、ある程度近い形で明らかにすることはできるだろうと考えています。
 実際に努力による部分と、そうでない部分を、分けることが難しいのは確かにその通りですが、ここからはちょっと立岩先生のコメントからはずれるかも知れませんが、現実的に分けるのが難しいからといって、努力や習得率の問題を考えるのを避けてしまうとすれば、能力は全部個人のものだとか、あれは全部社会的なものだという議論の、どうにもならない状況に戻ってしまうので、現実的に分けるのが難しかったとしても、使わない手はないのではないかと思います。
 それからもう1点、大きなところで。労働市場に入ったか入らないかで、能力の違いとかなり受け取りの差が大きく違ってくるという話がありまして、能力の違いは100と50だったけれども、労働市場に一方は入れて、一方は入れなかった場合は、受け取りが100と0になってしまうという場合を、どう考えるか、ですが、もちろん、片方は100で片方は0でいいというモデルではないと思っていまして、労働市場から排除されて受け取れない事に対しての保障、具体的には所得保障ということになるとは思いますが、それも責任モデルによって、正当化されるのではないかと思っていますが、その辺はまだ研究の上で、詰め切れていないところです。労働市場から排除された人に対する所得保障も視野に入れて考えてはいます。
 あとは、保護雇用のような形で雇用して、賃金を払うという形も解決策としてあるかと思います。大きなところはそのようなところだと思います。
 その他、お答えすべき部分がありましたらもう一度おっしゃっていただけたらと思います。

立岩 いろいろあるのですが、たぶん全体の時間のことがあると思うので、一旦、会場にまわした方がいいように思います。いずれにせよ、ある程度はこれ、ややこしい話だと思うんですよ。しゃべり言葉でというか、今の場で、いろんなことを詰め切れるというのは、当然、いかないと思います。僕にも関心のあるテーマではあるので、時間をかけて、遠山さんの博士論文を土台、というか素材にして、紙の上で考えられることを書いていって、つき合わせていって、見えてくるものを見ていきたいと思っています。
 あと1時間、2時間いただければ詰めるところは詰められるところまで、と思いますが、それはこれからのお楽しみとして、私としては一旦引いて、皆さんの話を、遠山さんにぶつけられたらと思いました。
 以上です。


 
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 *質疑応答
  cf.事前にHPに掲載したファイル(別ファイル)

土屋 立岩さん、ありがとうございました。おっしゃっていただいたように、あまり時間が残されておらず、16時20分には会場の片付けに入りたいと思っています。残された時間は30分です。その時間を有効に使いたいので、非常に大きな質問と大きな回答と難しい議論になっていますが、一旦、会場からの質問を受け付けたいと思います。大きなことでも、小さなことでも構いませんので、質問のある方は、挙手を。
 もうすでに挙手がされていて困ってしまいますが。最初の打ち合わせでは1つの質問に1つの回答をということでしたが、時間の関係もありますので、まとめて質問を受けてよろしいでしょうか。
 それでは今質問があるという方は、ハッキリと挙手をお願いします。7名ですね。それでは7名の方に順番にマイクをまわします。近いところから、ツルタさん。

ツルタ 今回やってほしいと言った人間として、立岩さんには交通費もなく来て頂き、どうもありがとうございます。
 私は福祉工場という保護雇用というか、ある意味いびつな職場で働いていますが、僕の感覚からすれば、いびつな感覚があって、労働という苦役を含む行為を障害者にも担わしてあげたい、という思いがあって、それは義務じゃないかという思いがあります。
 そういう意味で、所得保障とリンクするというのは必然的に出てくる話なのかなと思っていますが、それが今の事態の中で、自立支援法が廃案になりましたが、反対運動の中で、応益負担のことが中心に問題にされ、介護のことが取りざたされていましたが、あの法律の中では職業能率の評価をはじめるということが謳われていて、それはもう現実のものになろうとしている。専門家だけで評価されようとしている。誰がどうやってそれをやるかが大きな問題になっていて。そこに当事者をどう入れていくかが、抜けてはいけない問題です。現実には、たぶん自立支援法の就労体系の中ではどこからも反対は出ていないので、次回上程されたら通っていくことになりそうだと思います。労働能力の評価問題をどう出すかが、リアルで直近の大きな問題であることを言っておきたいと思います。
 そこでまず、大きな問題としてそれを指摘します。それについて遠山さんがどう思っておられるのかということを伺いたい。

土屋 言い忘れましたが、発言はゆっくりと、発言前に名前をお願いします。

日笠 練馬のヒカサです。途中参加でレジメをちゃんと読んでなくて、ごめんなさい。とぼけたことを聞くかも知れませんが、能力の判定というところです。障害をもっていない人がこれだけのことができ、かたや障害をもっているとこう、そういう見方だと判定は厳しいと思います。すると結局今までの能力はこれだけですよという見方にそのままに乗っかるわけですよね。僕を基準にしたニュースタンダードで、これだけはできる、これはできないという分け方、できない方に比重を置いて、そこから積み上げていくという捉え方で、これだけできる、できないというのが、逆に分かりやすいんじゃないかと思いました。

森 黒板に書かせていただきます。
 バックグラウンド、例えば、私は経済学をバックグラウンドにしていますが、雇用問題を研究している人、たくさんいると思いますが、そのことに関して図を書いて話します。
 先ほど、遠山さんがこのようなグラフを書きましたが、私の立場から説明したいことがあります。先ほどのグラフはタテ軸が能力、ヨコ軸が努力のものです。遠山さんの場合は、障害者は人の数倍努力が必要というようなお話のグラフだったと思います。なので、ある一定の能力を得るためには、障害者の方がよりたくさん努力をしなくてはいけない、というお話しがありましたが、その他にもう1つ考えなくてはいけないことがあると思います。
 それは、障害者と健常者を比べた場合、健常者の場合は努力した分だけそれだけ能力をアップできるという性質があると思いますが、障害者はそれに対して保障があまりされていませんので、その分、能力でも低くなってしまうという面があると思います。
 障害者の場合、もう1つ、山形のグラフを描いていただきましたが、これは障害のない方とある方では、性質が違うと思います。山の形が同じ山の形ではないと思います。真ん中だけ極端に上がっているような山形か、低い山形になるのか、山の形も障害をもっているためにさまざまな形が出てくると思います。
 ですから、障害をもつ人の場合、努力をできる人の数というのも考慮しなければなりませんので、健常者の山の形、スムーズな、真ん中が緩やかに上がって、下がっていくような、左右対称の形には必ずしもならないと思います。これは経済学でいえば、「分散が多い」という言い方をします。「分散が多い」というのは、直線のグラフとも関連づけられます。遠山さんはいろいろ経験を積まれ、研究をされていますが、このことを考慮されたら、さらに研究の内容が変わってくるのではないかと思いました。

(拍手)

臼井 立岩さんのコメントと一部は重なると思います。能力がある人、ない人、能力の高い人、低い人というのを、固定的に言えるのかな、というのが、お話を伺って、一番、違和感がある部分です。同じ人でも環境やサポートで能力が変わってくる。固定的にとらえていくことはできないです。
 私は2001年くらいまで障害者の政策研究集会の労働プロジェクトで活動をしていました。レジメ「4−3、新たな政策」の部分。大体、この当たりで差別禁止を一番において、割り当て雇用的なこととか、それから特に所得保障という意味で、スウェーデンなどでとられてきた雇用政策を取り入れることなども考えられると、組み合わせになると、当時も話に出ていました。遠山さんの指摘の中で、健常者の失業問題を同時に考えていくとか、働き方の問題も考えていくことも重要だと思います。
 質問ですが、障害者雇用に関心を持つ研究者は、わりと私が本を読んで限りでは少ないので、どんなきっかけで障害者雇用に関心をもったか、もう少しお聞きしたいと思います。

サイトウ 4年前に遠山さんの報告を聞いたときに思って、今日も感じましたが、1つは、なんで働くのか、という部分。働くということのイメージと、なんで働くのか。ツルタくんからは、働くという義務を障害者に味わわせてやりたいというような話もありましたが、そのへんについての、基本的な前提、働くっていうこと、労働について、どういうイメージを持っているのか、もう少しないと、僕はちょっと信じられないんですね。
 昨年、僕は失業して、失業保険もらいながら、前と変わらないことをやっています。労働なのか、なんというかよく分からない、活動というか、やっていますが、今年はそれにたまたま給料がくっついたと。そういう形で働いている自分、というか、給料をもらっているという意味で働いています。昨年は働いていないけど、やっていることは同じというか、働くっていうことにあまり過大な意味が付与されるのは嫌だな、というのを最近ますます思うんです。
 そのへんを含めて、労働ということについてもう少しお願いしたいです。

ホシカ まず、努力ということを理論構築の中に組み込んでいこうという、遠山さんの研究のモチーフについては、僕自身は非常に共感をもっております。多少違う文脈ではありますが、障害学や社会モデルの議論の中で個人がもつ努力をどう位置づけられるかがこれから課題になってくると思いますので、そこは詳しく話しませんが、非常にシンパシーを感じています。
 その上で、3点質問があります。まず1点目が、やや外在的になりますが、先ほどサイトウさんがおっしゃったこととも関連しますが、労働という領域の性質について、どういうふうに捉えられているのかということです。もちろん遠山さんの議論は平等化に向けた理論構築というのがテーマですから、その限りで平等の言葉、権利の言葉といってもいいかも知れませんが、そういう文脈で議論されるというのは、それ自体有用だと思いますが、ただ、労働という領域は、一方では必要なものをアウトプットするという機能的な側面、よく効率性と言われるような文脈で、必要なものをアウトプットするために人的支援が投入される場、という意味合いがあるわけで、そうだとすると、雇用政策全般にわたって、平等というような文脈で完結させるのはすごく難しい気がします。もっと言えば、本来は全員が働かなくてもいいはずで、アウトプットできる人間が働く、という選択肢も本来はあるはずだと思います。そのへんのバランス、平等の言葉で労働の問題を語ることと、機能性の側面で語ることのバランスをどういうふうに考えているのかというのが一点。
 あと2つは、やや内在的というか細かい話ですが。先ほど立岩先生からは、責任のある部分とない部分を分けられるかという話がありました。仮に、論理的には分けられるだろうし、現実的にはある程度区分できるとして、そうだとして、まず1つは、責任といったことの中身にどこまでを含んでいるのかということです。遠山さんの議論の中では、インペアメントの部分では、属性的な性質をもっていて、生来与えられた所与のものだということが前提になっているんですが、先天性の場合はそうかも知れませんが、後天性の場合、ある種の個人の選択が介在するという意味で、責任をどう捉えるかという問題、捉え方次第では責任を帰属することもできるでしょうし、あるいは、治療、その他によって、あるいは何らかの器具の装着とか、多少SF的なものも含めてインペアメントが解消できる可能性が出てくる場合に、それを解消しないことも個人の責任なのかとか、とかですね。どこまでを、インペアメントに関わる部分のどこまでを所与と言い切れるのか、責任としてはどこまで言えるのかということについて、どういうふうに考えていらっしゃるのか、が2点目。
 3点めは、責任モデルの適用範囲について。例えば、習得率が、障害、インペアメントをもっていることによって制限されることはあると思いますが、その部分は社会的に補正されるというのは主張として正当だと思います。ただ、習得率は、今は障害に関して言えば障害の有無によって習得率が変わってくるということになりますが、もっと個人差といわれるレベルで、努力が能力に変換される率は違うはずで、その意味で努力と能力獲得は障害の有無にかかわらず、比例しないはずだと思います。
 その点については、この責任モデルはそこまで含めて補正の対象とするのか、もう一点いえば努力量も、障害者集団と健常者集団を比べたときに、努力量に差があるとすれば、それは社会的につくられたもので、本来は同じになるはずだという仮定を置かれるとすると、それはその違う集団の分け方をした場合には、またそこで生じる差については本来はないはずのもので、社会的につくられたものだと言えると思います。
 そうだとすると、それをもっと細分化していくと、個人に関わる努力量の差も、結局はどこまでが個人に帰せて、どこからが社会的につくられたものなのかという線引きが、社会の側にどんどん後退していって、結局すべての要因が社会によってつくられるか、そうであるのかどうか、ということです。

テラモト 言われてしまったこともあるので、言われてないことについて言います。
 能力を測るときの尺度をどうするのかとか、何の能力について判断するのかというところが根底については細かい話だと思いますが、抜け落ちているのではないかな、というのが1つです。
 2つめ、ある種の能力の高いとか低いということがあったといえるとしても、障害者については、妨げられてきたハンディキャップというのがあるのだと。であるからハンディキャップの部分は社会的に補うべきだという建て方ではあるが、比較のときに妨げられてきたハンディキャップは仮想的というか、実体的には現れてきていない、想像的であるといえる。だからこそ、その能力が努力であるのかそうでないのかということが、なかなかいいにくいということがあるのではいかと思います。
 3点目は、能力の測定といったとき、遠山さんは、おそらく客観的な測定というのが可能であると思っているのかどうか、分からないんですが、客観的な測定があるようにも思うのですが、その客観的な測定はどこまでできるか、ということです。
 もう1つは、規範的である、政策的な、客観的ではないけれども、ここはこうしておきましょうという、みたいなところの、社会的な、規範的なレベルでの測定というのは、もしかしたら可能かも知れない、というのがあります。ただ、客観的な測定というのと、規範的測定という、そういう尺度があり得るのではないかという提案です。
 以上です。

土屋 すみません。たいへん心苦しいお願いですが、今の方々の質問に答えられる限りで答えていただくと同時に、今日のまとめを、遠山さん、よろしくお願いします。

遠山 まだまだいろいろ言い足りない方は多いかと思いますが、様々なご意見、ありがとうございます。この会が終わってからでも、メールなどでご意見をいただけたらありがたいと思います。今発言してくださった方のご質問にも答える時間が足りませんので、また後ほど議論させていただければと思います。
 幾つか、お答えするとすれば、まず、能力をどう考えるか、とか、その中での努力をどう考えるかが、依然としてみなさん気になるところかと思います。私自身も気になってはいますが、現時点ではこれだけの主張ができるんじゃないかということで、この場ではなかなかぱっと答えられませんし、時間をかけないと、考えを詰めることができない問題ですので、これからの課題として考え続けていきたいと思います。
 また、労働をどう考えるかという点でも、やはり言及が必要かと思います。私の考えですが、やはり、自分で働いて稼いで生活するのが基本だと。そうしないと社会は回っていかないだろうと考えています。その中で、働けない人に対してどう配慮するかというところで、問題をこれまで考えてきたつもりです。より多くの人が働いて、自分でよりたくさんの稼ぎを得て生活していく社会がいいのではないかと思っています。
 ですが、労働市場から排除されてしまう人に対する保障もやはり必要だと考えてはいて、そのあたりと今日の話とが、うまくつながるかを、まだ考えてないので、今後の課題としたいと思います。
 森さんからいただいたコメントは非常に技術的なところで、今までそういうところからコメントをいただいたことがなかったので、すごくありがたいと思います。また後からまた教えていただきたいので、よろしくお願いします。
 あと... 臼井さんにいただいた、そもそも、この問題に関心を持ったきっかけはどういうところかです。私は自閉症の成人の方の施設で、実習を一ヶ月しまして、そこの施設では皆さんがすごく働いていました。外の企業にも働きにいっていて、施設内でもすごく働いていた。それをみて、障害をもっている方にとって働くというのはどういう意味をもつのだろうと思ったのが最初のきっかけです。やはり障害をもっていても働きたいという方はたくさんいますし、所得保障がなされたからといって働けなくてもいいということではないだろうというのが、ずっとあります。その辺はまだうまく研究に乗せられてない部分ではありますが。
 ホシカさん、テラモトさんにいただいたコメントは、研究としてちゃんと詰めていかなければいけない部分だと思います。今後議論させていただきたいですし、自分も考えていきたいと思います。
 最後のまとめです。立岩先生にもまとめていただきましたが、私の意図、何のためにこの話をし、わざわざ努力だとか能力の話を持ち出すのかについてはご理解していただいたと思います。ただ、この話を実践に結びつけていくには、まだいろいろな壁があると思いますので、そのへんを今後皆さんからご意見をいただいて、一つ一つ実現につなげていけたらなと考えております。
 ありがとうございました。

土屋 遠山さん、ありがとうございました。また、先ほどもツルタさんがおっしゃっていましたが、交通費もなく、立岩さんにもお礼をいいたいと思います。

(拍手)

 そして、今日通訳をしていただいた、手話通訳の方、要約筆記の方、本当にありがとうございました。情報保障にご協力いただき、みなさんもありがとうございました。この会は終了にしたいと思います。

 連絡事項をさせていただきます。
 会費は皆さん、お支払いになりましたでしょうか。まだの方、お支払いになってからお帰り下さい。それからまだまだ、議論もつきていないと思います。質問をおもちの方、遠山さんにお聞きになりたい方、たくさんいらっしゃると思います。遠山さんも時間があるということですので、どのくらいの方がいらっしゃるかは分かりませんが、どちらかで食事か、飲み会の企画があるそうです。ぜひそちらにもご参加ください。今日はおしまいにしたいと思います。
 ありがとうございました。

 すみません、次回は、まだ決まっていませんが、障害学のメーリングリストでまた、お知らせをしたいと思います。是非、この場で発表をしたい方、随時募集をしていますので、立候補をお待ちしています。

土屋 今、斉藤龍一郎さんから、立候補の手が挙がりましたので、さっそく日程調整をしたいと思います。またお知らせしたいと思います。
 それでは遠山さん、立岩さん、本当にありがとうございました。終了します。

(拍手)


UP:20050825 REV:1011,13,14
遠山 真世  ◇障害学Archive
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