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共生へ

障害をもつ仲間との30年

山本 勝美 20050625
障害学研究会関東部会 第46回研究会



せやま@障害学研究会関東部会世話人+αです。長文ご容赦。
以下、6月に行ないました研究会の報告です。当日の筆記をもとに記録をつくり、
山本さんに確認していただいたものです。

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障害学研究会関東部会 第46回研究会
*日時 2005年6月25日(土)午後1時半−4時半
*場所 東京都障害者福祉会館「児童B」
*テーマ:共生へ 障害をもつ仲間との30年
*報告者:山本勝美さん

山本/私は母子保健という分野で心理相談員をしていて、子育ての相談を受けて
きました。当然、発達など、いろいろ「遅れ」のあるお子さんと会い、それがきっ
かけで障害を持つ人との関係が広がったという経緯があります。また、心理です
から、精神関係の問題とも付き合ってきました。

母子保健で出会った障害をもつ子やその親と話をしていると、障害がある、遅れ
ているというのは短期間で解決するということがなく、お子さんが大きくなって
からも付き合うことになるということになります。そうして、ずっとつきあって
きたおかげで、学校へ入るまでのシステムがよく見えてきたのです。障害がある
ということで、どこへ送られたか、どこで壁にぶつかったかなどが、すごくよく
見えてきました。

学校は、6、3、3とはっきりしていますが、就学前はどうなっているかという
と、保育園の人は保育園のことは分かる。施設に勤めている人は、施設のことは
わかるが、その他のことは分からない。それで、就学前の分離システムを図にし
ました。これを書くことで、どこへ持っていっても「これは分かりやすい」と言っ
ていただけました。長期間、整理して作った図ですので、思い入れがあります。

▼『調査と人権』
調査の問題について、ことさら取り上げる意味をどこまで分かっていただけるか、
分かりませんが、私にとっては、母子保健の問題と調査の問題が、障害者の問題
を考えるうえでの2大テーマでした。

障害者の家に行って行政が社会調査をするということが人権上の問題を持ってい
た。それをまず踏まえて、70年代に入ってから、「こうした調査は問題ではない
か」と、何回も追及するうちに、行政調査の言葉遣いからやり方からすっかり変
わっていったという経過があります。

この調査反対運動を、広がろうと広がるまいと、とにかくやってきました。合計
6?7回やりました。調査のたびに、それををどうしてやるのかという目標を行
政側は設定します。それを表にまとめました。ある意味、この20年くらいの障害
者の運動の表としても読めると思います。少し古い人だと、調査反対運動を何度
かやったという方はいるのではないでしょうか。ただ、若い方はあったことも知
らないと思います。

今日は、障害をもつ人との私の関わり、あるいは運動の経過を語ることになりま
す。この表があると、分かりやすいと思います。

▼障害を持つ人との関わりについて考える
では、レジュメに沿って話して行きたいと思います。
障害を持つ方の本はたくさん出版されています。障害をもつ方と非障害者の共著
も出ています。また、運動のまとめ、例えば優生思想の本や、生命操作について
も数限りなく出ています。ただ、障害者運動に関わってきたことについて、非障
害者の側から書いた本というのは、ほとんど出ていないと思います。私は、自分
がどういう気持ち、立場でうごめいて、どう障害者問題や障害者とぶつかって、
ほとんどつぶれかかって、またもう1度かかわってというようなドロドロの関わ
りに関する手記を書いてみました。正直、年をくってますから、やってきたこと
を披露することには意味があると思いました。

どれだけ輝いたか、ではなく、長いことやった事を資料としてまとめ、次世代の
人にとって、同じ轍を踏まないためにも、また何かを吸収してもらうためにも、
そうした非障害者の側の関わりについての記録を残すことが必要と考えました。
また、自分としても残したいという気持ちもありました。本屋さんに頼まれて一
気に書いたのではありません。そこがまたミソです。この作品(『共生へ』)に
たどりつくまでには、ぼくなりの長い道のりがありました。これを書き上げて、
これまでにない自分が見えてきました。

▼道のり
長い道のりがあって、経過には、第1段階、第2段階、第3段階という関わりの段
階がありました。第3段階は、本を書いた段階です。非障害者の立場で、自分は
どうだったのか、という点に焦点を当てて自分が書くという段階にきたのが第3
段階ということになります。

障害者との関わりについて「ぼくはこうだった」と書くことには決定的に躊躇が
あり、タブーに近い気持ちでずっと30年近く抑圧してやってきて、逆に初めて蓋
をあけて、ばーっと吹き出すようにこの本が書けた、これが第3段階ということ
です。それまでの長い道のりがあって、第3段階がぱっと開けた。パンドラの箱
を開けたように、蓋を開けた。

▼第一段階・「される側」からの問い直し
第1段階は、いわば運動家、活動家としてやってきた段階です。レジュメにある
ように、69年頃から大学運動・学生運動が始まり、大学にいるものに火がつきま
した。私はそのころ助手でしたが、自分の立場や学問、社会全体などに目が覚め
ていったという経過がありました。大学に火がついたと同時に、臨床心理学会と
いう学会で火がつきました。臨床心理学とはどういう学問か、どういう問題点が
あるのかということを、学会の内部で追求する運動が始まりました。いわば長老
達、40代の人たちに対して、20代?30代初めの若者達が、どういう指導をしてく
れたんだ、私たちは何を学んだんだと、声を上げたのです。

臨床心理学の対象になる人、たとえば、カウンセリングを受ける人、心理テスト
をされる人、今でいうと利用者、「される側」の立場から見直して、自分たち
「する側」の臨床心理の仕事はどういう問題を持っていたのかという、問い直し
を始めたのがその時期でした。それは、とりもなおさず長老たちを批判すること
になり、結局、学会を全部変え、学会改革委員会をつくることになりました。こ
の委員会は今でもまだ残っています。

そのとき何がどのように問い直されたのかということを簡単にいうと、「する側」、
つまり私も含めた臨床心理をする側としての業務を、「される側」、つまりユー
ザー、または昔の言葉でいえばクライアントの立場から問い直す、問題点を洗い
直すということになります。

私は一方では、大学とはなんぞやといったことや、ベトナム戦争にどのように荷
担してきたのかという問い直しをしながら、もう一方で全国の集まりでも学会の
持つ、もっと具体的に専門的な内容にまで踏み込んで、ああでもない、こうでも
ないという問い返しをしてきました。

そういう中で、心理判定、知能指数が何点とか、あるいは、性格テストでいくと、
どういうパーソナリティの問題点のある患者かとかいったことを明らかにして終
わるのではなく、そういう仕事から、むしろ、子どもであれば、地域で共に育つ
ケアとか支援はどうしたら可能になるのか、あるいは、患者さんに対してあるべ
き支援というのはなんなのか、ということを問うていったのです。

そういうことをやっていく中で、障害者実態調査の問題が出てきました。
それに入る前に、先ほどの出産から始まる母子保健の問題に少し触れます。

まず、子どもは生まれてくると健康診断を受けることになります。そこで、子ど
もに問題があるかないかを見極められるわけです。問題がないなら良いのですが、
例えば障害を持つ子の場合は、何らかの問題が「ある」という、問題を見つけ出
されるわけです。ザルで砂を洗ってその中から砂金を取り出すのと同じで、問題
がある、障害があると拾い上げるというのが健診です。拾い上げたら、よく調べ
るための場所へ送り込むということで、検査機関や施設に送られます。そうした
選別システムがいいことなのか、どうなのかをみんなで問い直していきました。

母子保健の仕事が、障害児を見つけ出す仕事だとわかったからには、安易には施
設や検査機関には送らないで、さらに普通の幼稚園、保育園を探すようにしてい
くことが大事なのではないか、選別、振り分けではないケアや相談をしようとい
うように、方針を変えて、保育園、幼稚園を探し始めたのもこうした学問、学会
の問い直しからはじまったことでした。3歳で健診をして障害があるとわかった
子を、ほかの子と同じように普通の保育園、幼稚園に入れるように支援していく
というようなことがまずは目標になりました。

それは現在で言えば「統合保育」とか、「ノーマライゼーション」と一言で言え
るのですが、その時代はとにかく何の言葉もない時代でした。そうした活動は、
欧米やスウェーデンから考え方が入ってきてから日本でも気がついたこと、とい
うのは誤りで、日本でも各地で自前で作っていった流れでした。あとになって、
同じことを世界中で同時多発でやっていたんだということを知り、逆に驚いたく
らいです。

ただ、普通の幼稚園への就学を支援しようということをはじめても、なかなか難
しいものがありました。まず、親自身が、「え?普通の幼稚園ですか?」という
感じなんです。「できればそうしたいけれど、どうすれば引き受けてもらえます
か?」と重い子ほど、お母さんは戸惑っていました。

ただ、実際にそうした場所を探し始めると、受け入れてくれる園が出てくるので
す。奇跡というか。まさかというときにそういう園が出てくるのです。そうして
何年かするうちに、園でお友だちもできてきます。そういう「統合保育」の実践
運動をしている間に、障害者運動のことについて関係者から聞きました。

▼調査反対運動
障害者運動に関わっているうちにいろいろとひどい調査を政府が行なっていると
いうことを知りました。聞くと、障害児・者がひっかかるような調査の手引き書
があり、「精神薄弱ではないかと思われる子を、もれなく、落とさずに調査票に
記入するように」とか、「個別に家を回ってもれなく聞くように」などと書いて
ある。それを今見たら、誰でもびっくりするような内容でした。

まず精神衛生実態調査から問題が始まりました。全国の精神障害者の家を訪問し
て、調べて回るというのです。それは、とにかくやると聞いただけでも病状が悪
くなる人も出たり、最後には自殺者が出ました、73年にはそういう問題がありま
した。また、75年には、養護学校義務化に向けての問題。それから、83年には、
患者さんに総背番号を打つというような調査が行なわれかけた。

さらに、調査の反対運動をやっていたら、宇都宮病院の中で、精神障害者が撲殺
されているという告発が出されました。それで火がつき、やがて精神衛生法が改
定されるようになりました。調査も10年ぐらいかけて反対運動が行われ、調査自
体は改善されるようになりました。

▼当事者の言葉
私は非障害者の立場でよかれと思ってやってきたわけですが、75年の障害者実態
調査をやっていたころは、とにかくどんどん運動を進めていきました。私は、そ
れまで、大学の運動、あるいは親御さんとの実践のなかで、相談員としてリード
する立場で実践をしてきたという経験があったので、自分がリードして調査問題
についてもやっていたのです。それが、「本人の声を聞くべきだ」「本人がどう
痛みを感じているか、当事者には調査はどういうふうに見えるのか、もっとちゃ
んと声を聞くべきだ」と追及されてはっとしました。

自分たちの言っていることを見直すと、やはり「障害者にとってよくない」とか、
「それは選別・差別だ」と言っていて、言っている本人の主語は、「私は」では
なく「彼らにとっては」ということで、結局第三者の立場での思いでしかないん
だと気が付きました。

そこで、障害者本人の声を聞くと、もうとても自分が話せないような重みのある
言葉となって、調査問題を語ってくれたました。「調査は、自分にとって生きる
か死ぬかに関わることであり、もう一度、施設に放り込まれるかどうかに関わる
ことなんだ」という訴えなのです。せっかく府中療育センターから出て在宅で住
んでいるのに、「また僕は施設に戻されるんだ」というのを聞いて、ショックを
受けました。

ぼくが、差別だ、人権侵害だ、と言葉を並べ連ねるよりも、いのちに関わるんだ
という本人の言葉一つのほうが比較にならないほど重たいものなのだということ
に気がつき、そこで当事者の声が原点なのだと、気がついたのが第一段階の終わ
りでした。

▼日常に帰れる私
もう1つ、思いだすのは、運動の場では正義感をもって行政を追及したりしたり
しても、運動が終わると自分の家に帰ってしまう非障害者ということについて考
えました。障害を持つ仲間は、運動が終わると施設へ帰っていくわけです。 

村田実君という障害者は、「自分は厚生省との交渉の後、施設に戻る。施設から
は出られない」ということを言いました。そのとき、例えば、せめて施設から出
てくるための介護をするといったことを共にしてくれないと、厚生省とだけ、力
んで正義感よろしくやってもナンセンスだと言われ、すっかり自信がなくなりま
した。

▼当事者は障害者 第二段階
第一段階を経て、障害者運動において当事者はやはり障害者だという当たり前の
ことにやっと目覚めました。自分は当事者ではなく、支援者、3歩下がって距離
をおき、当事者の立場をたてる、自分はそれを支援する。自分のペースで運動を
進めてしまうことを「健常者ペース」と批判をされたこともこうしたスタンスに
身をおくきっかけとなりました。75年から99年の25年ぐらいそれできました。と
にかく自分は健常者だという立場を忘れないようにやってきたのが第二段階です。

▼ところが第3段階
障害者の目から見た福祉論は、意味があるのではと思い、本の企画をたてて岩波
書店に持っていった。はじめ、担当者は「おもしろい」と言ったが、編集会議で、
いろいろあったようで、「あなたが自分のことを書くなら出します」と虚をつく
ようなことを言われました。

私は、新たに違った角度からモノを見るということに重きを置いた生き方をして
いまして、それまでは絶対におかしいと思っていたような立場にいったん立って
みる、ということをやってみると、それまでおかしいと思っていたこととは別の
ことがみえてくるということがあると思っています。人間は180度回転すると、
全然違った見方ができて、新しい自分がそこから広がってくる。そういうことを
これまでに何度も経験してきました。

それで、「あなたの思いを書け」と言われ、「えー、長い間、そういうのはタブー
だと思ってきたのに」とはじめは考えたのですが、「いやもしかしてこれも大事
な発想なのではないかな」と思い、書こうという気になったのです。

第1章あたりは、長い間、とても触れられない、文章などにはとてもできない、
自分の恥部、トラウマとして、埃にうずもれていたような思い出です。それを今
から解きほぐしてみるかということでした、子どもが親に殺されたのは81年だっ
た、だから書き始めたときに20年前のことだったので、今なら書けると思って書
きました。

はじめは、こんな暗い話で本が売れないと思ったので、序章に、「沖縄にいった
ら、自閉症で盲人の男の人がシンセサイザーを弾いて、それでカラオケを歌って
楽しかった」といったのを書いたのですが、それは、また障害を持つ人のすばら
しさを描くことで、この本の趣旨とは違う、と編集者に言われてボツになりまし
た。幻の序章です。メッキみたいなもので、無理に明るく見せるなということを
感じました。
それで、とにかく、徹底して正直に書こうという気持ちになりました。

▼「器用な通い人になって」という2章
この「器用な」という言葉は、障害者と運動や介護で関わっても、それが終わっ
たらすぐ健常者社会に戻っていくという態度を表現したものです。健常者社会に
いて、ある時だけ「器用」に、「重度障害者の友達」みたいな顔をしている。私
はそれをあまり意識しないでやってきたのですが、この本を書く段階になってそ
うしたことに気がつきました。実際、それまでもうすうす感じていましたが。ぱっ
ぱっと違う世界、つまり障害者世界と健常者世界の両方を渡っているけれど、両
方がつながっていない、切れている。この矛盾をどうするんだという気持ちでや
りきれない気持ちでいたと思います。

私は、「器用な通い人」になってつきあったのですが、どうしても、亡くなって
から、「ぼくの<友達>だった村田くん」という言葉が出てこないことに気がつ
きました。それは今も出てきません。

障害を持つ仲間、または友達という、普通な平易な感覚で親近感を持てる人が、
自分が付き合ってきた障害者のなかで何人いるかと考えると、1人かな2人かな
と思うのです。なぜあんなに長くつき合った村田くんを「友達」と呼べないのか、
と考えました。その答えを出せないまま第3章が終わっています。

▼誘い合わせて訪ねたくなる家
猪野さんは、なんとも言えず、親近感があって、最初から「おねえさん」という
感じでした。行くとうれしくなるような親近感がありました。晩年にはよく家に
行きました。彼女の性的虐待を受けた体験を聞いたのも晩年です。語った相手と
しては2度目だったらしいんです。

一緒に連れて行った学生さん6、7人に、大きい声で体験をはっきり伝えられま
した。私は、「ぼくにそんなことを語ってくれたんだ」と感動しました。男の私
をよくぞそこまで信頼して、打ち明けてくれたと、本当にうれしかったです。た
だし、内容はうれしいものでも何でもなく、大きなフラッシュバックでいつも眠
れない状態ということでした。時をおかずに亡くなるということがわかっていた
ので、本当に書いて良いのかということを確認しましたが、書け、書け、と言わ
れて、それで被害体験を書きました。

最後に、「今でも生きている唯一の1人」、和夫くんとの関係です。どんどん死
んでいってしまうと切ないですが、そういう人との関係を書いたのが、この本で
す。

▼蓋を開けた第三段階
今まで障害者問題では第三者、支援者なんだと、蓋をしてきた自分の蓋を開けて
みたら、本当に言いたいこと書きたいことが山ほどでてきたというのがこの本を
書いて感じたことです。

そうして感じたのは、今まで自分のこんなにあふれるばかりの気持ちをなぜ放っ
ておいたのかということです。ちゃんと取り上げるべき、見直すべきだったと思
いました。本を読んだ仲間の1人に、どうだ?と聞いたら、「当事者は障害者だ、
自分は健常者ペースを自戒して生きる。そして、その先にもう1つ、それでもな
お自分の主体性はあるだろうという段階で書いた本だからこそ、私は買ったんだ」、
と言ってくれた。回り回って迂回して書いた本だから価値があると。

実際、私は、自分に真っ正直に書きました。つらかったけれど、すごい勉強にな
りました。この後、他にも著作がありますが、とにかく、真っ正直に書くのが怖
くなくなりました。すると、相手のことも真っ正直に書かないと、これも一方的
になるので、障害者のひどさもどんどん書くようになりました。あいつはひどい
ヤツだったと言いたくなる。何で怒らなかったかというと、やはり遠慮していた
というのがあったと思います。

ただ、とにかく「ひどいヤツだった」といっぱい書いて、最後には「いいヤツだっ
た」という落としがあります。そういう事実なので、ひどかったということを言
いたい告発本ではありません。

▼介護する側/される側
「介護する」立場と、「介護される」当事者の立場、その関係性をめぐってとい
うテーマを最後に話したいと思います。
最近になってヘルパー派遣の事業所の体制や支援費の体制が整う前は、もっとボ
ランティアの方が多かったです。半分以上がボランティアでやっていました。そ
こでは、介護する人間と介護される人間との人間関係とはどんなもので、どのよ
うにいい関係であり得るのかということを考えることがたびたびありました。

例えば、「青い芝」は、介助者には一切主体性は認めないといっていたことがあ
りました。介助者は手足になるという位置づけです。しかし、実際には、手足に
なるならない以前の問題として、そもそも介護の関係が続かなくなる場合もいっ
ぱいあります。むしろそういう関係のほうが多いと思います。

たとえば、ボランティアとしてきている学生は夏休みは介護には来ないとか、卒
業したらそれで介護も終わりとか、忙しくなくても介護を続けられないというこ
とが起きてくるわけです。そういう、いろいろな意味で、いられなくなってしま
う関係というのが、取り上げるべき問題だと思います。

例えば、「あ、こういう言葉を使ってしまったら差別なのかな」とか、障害者に
はそれを聞けない、とか、障害者との関係を自分で迷って苦しくなって、介護に
もこなくなってしまうといったことが起きていると思います。

使っていい言葉、いけない言葉にすごく敏感になったり、追及されるのではない
かという恐怖感もあって、逃げてしまうといったことも、多くおきてきたと思い
ます。他にもいろいろな理由はあると思いますが、良い関係になりきれず、介護
やボランティアをやめてしまう。このことから、大切なことをきちんと考えなけ
ればならないということになると思います。

今は、支援費とホームヘルパーというシステムがそれなりに整備されて、それぞ
れの関わり自体が職業としての関わりになっていると思うので、個人的人間関係
の問題というのは、見えなくなってしまったように思います。

例えば、介護者会議として、介護者が集まって、悩みやこんなところでぶつかっ
ているという話し合いができれば気も楽になるし、解決できることも増えるので
はないかと思いますが、そういうシステムは作られてこなかったと思います。

また、当事者も「あのヘルパーは嫌いだ」と思っても、やめられたら困るので我
慢している場合もあると思います。「介護する側」も「される側」も、いろいろ
抱え込みながらなんとかやっているけれど、それを表に出せて話し合えるような
関係でないといい関係、いい介護にならないのではないかと私は考えています。

ある自立生活センターでは、介護関係で起きるトラブルを未然に防ぐために、一
定期間のローテーションで派遣先を変えるという方法をとっているといいます。
そうやって、あまり深い個人的な関係に入らないようにして、介護だけはなんと
かやりすごすというようにしているということでした。それが果たして望ましい
関係なのか、もっと深い関係の中で、関係性を探れないのか、と考えてしまいま
す。

それから、もう一つ、 障害者の方で、家にくる人はみんなヘルパーさんで、ほ
かの人は誰もいない、自分の人間関係はヘルパーさんだけだといっていた方もい
ました。人間関係がわりと広いその人ですらそうなのだから、派遣事業だけでやっ
ていると、親や施設からは離れているのに、会う人はヘルパーさんだけじゃ、さ
びしいのではないかなと。その意味で、地域で自立生活をしたとしても孤立して
いるという状況があると思います。

村田実くんが、介護者が無断で休んで14時間もトイレに行けなくなってしまっ
たときに、「助けてくれー」と30分くらい大声で叫んでいたら近所のおかみさん
たちが、おそるおそるドアをあけてやっとトイレに行けたということがあったと
いうエピソードを話してくれたことがありました。アパートの1階に住んでいる
んだけど、アパートの隣の人、上の人ともほとんど接触がないという。そういう
地域生活ってなんだろうという気持ちもしました。

(前半ここまで)

++
せやまのりこ
GCf01456@nifty.ne.jp


以下、研究会報告の後半になります。

++

『共生へ 障害をもつ仲間との30年』(後半)

<補足> 『障害学への招待』へのコメント

山本/障害学研究会で話をするということで、急いで『障害学への招待』を読み
ました。そこで感じたままを2〜3点話したいと思います。

多くの方はこの本をご存じだと思いますが、本のはじめに「障害学に向けて」と
いう長瀬さんの章がありますね。読んで、理論的にまとめて要約して報告なさっ
ていて、言葉もとてもわかりやすかった。ただ一方で感じたことは、今までお話
ししてきたようなぼく自身の問題意識から、どの立場で(障害者の立場でないこ
とは明らかですから)、或いは、非障害者であることを明示しながら書いておら
れるかについて注目しましたが、その点は曖昧だなと感じました。立場性があい
まいだということです。これは問題だと思います。障害者、非障害者の立場にか
かわらず語れるところもありますから、立場性が不明確ということについて、何
も全面的に否定はしませんし、そういう論述方法であっても今までの運動と文献
をさらに深化させる役割は絶対あると、積極的に評価しますが、でもなお、考え
るべきことではあると思いました。

立場性が明確でない文章は、どうしても抽象的になります。例えば、医療モデル
でなく社会的モデルが大事だという論旨もそうです。そんなふうに理論化するこ
とで整理ができるということはあります。それから障害という用語については、
インペアメントと、ディスアビリティとハンディキャップの3つがあるというよ
うな整理、こうした整理をすることが障害学の役目だという面は良いと思います。

ところが、もう一歩進んでいくと、障害者ではない立場なのに、障害者の体験と
か主張をまとめるとき、主語が見えなくなってしまいます。「私は」という主語
抜きの言葉になると、立場性があいまいになるし、迫力もなくなる。私は、今述
べたように、3段階踏んで、自分はあくまでも非障害者だ、障害者ではない、支
援者あるいは同行者という立場としての主体性をきちんと出す、立場をわきまえ
て進むべきだと考えているので、主語が不明確なのはとてもひっかかります。理
論化をするとき、立場が不明確なことの問題点が出てくるのではないかと感じま
す。

二点目は、体験と理論というややもすると対立するようなものをどう考えていく
かということです。私は、年齢とともに体験と直感をとても大事にするようになっ
てきました。人間は、自分がわかっているつもりでいる以上のことを感じている
ので、それを大事にし、しかも自分が感じることに自信を持つことが大切なので
はないかと考えているのです。自分の感じたことに自信がもてない、それを疑う
ことがおかしいということを60代半ばになって思うようになってきました。

体験VS理論、直感VS概念・知力、感性VS知性といった対で物事を捉えようとして
います。特に、こと福祉、障害学、心理学といった人間の学問については体験や
感性が大切だと考えています。体験・直感・感性と理論・概念、知力・知性を対
立するものとして捉えるのがよいのかどうか、ということには疑問もあるでしょ
うし、それは対立させるものではなくて、統合的に考えるものだという一面まっ
とうな論がすぐ出てくると思います。でも、私の今の人生観は、極力、知力の側
に寄らないようにしたいと考えています。学問となると、実際には知性、理論ば
かりが増えてきますし、システムと機械の発達しきった近代社会では、やはり知
性と理論化に気をつけないといけないといつも言い続けています。

障害学というときには、体験を大事にしながら、理論化に進んでいますか、とい
う危険信号を出しながらやっていきたいと考えています。

仮に「障害者とか非障害者とかでなくとにかく人間だ」と言うとすれば、「障害
者である」という立場性が消えてしまうということもありますね。同じような例
で、私も障害をもつ女性の方とつきあってきて、「障害者」と言うとしたら、そ
の「障害者」は男なのか女なのか、ということも考えないといけないと感じてき
ました。

また男にとっては「人間」という言葉がすんなりはいってきても、女からいうと、
「人間」というなかには自分たちは入らない、むしろ、「人間」といってしまう
と、女性をめぐるいろいろな問題が落ちてしまうということも言われてきたと思
います。
そうしたことを考えると、女性も含めてやっている組織なり、運動で、男が「人
間」と言い切ってしまうと、だいたい女性の立場が落ちてしまうという問題はあ
るのではないでしょうか。
ですからさらに、障害学にしても、ジェンダーの問題が抜け落ちてはいまいか、
という疑問もあります。女性障害者の問題、産むとか、不妊手術を受けてしまう
とかいろいろあるのに、そういう問題が一切はいっていないと思います。これか
らはジェンダーの問題も障害学のなかで大切にしていってほしいというのが私の
思いです。


また、この本を読んで、積極的にいいなとおもったのは、立岩さんが、アメリカ
の自立生活センターをモデルにしたCILが日本に広がっているけれど、日本にも、
自己決定や自立生活運動の歴史があるということを言っておられた点です。自立
生活というのはすでに70年の都立府中療育センターの闘いの頃から日本で始まっ
た、それを掘り返すことも学の使命だと書いてありましたね。

ノーマライゼーション、インクルージョンという言葉がはいってくるなかで、そ
ういう言葉やそれにともなう思想が、あたかもヨーロッパから来たとする誤解が
あるように感じます。また、CILがアメリカのバークレーの大学から始まったと
いうことが書いてありますが、それは日本でも同じようなことを考えていたから、
広がったという日本の下地を見ることが大切だと思います。立岩さんはそれを丁
寧に書いていて、それは良いなと思いました。
なぜ「自立」ということが、いまひとつしっくり日本の社会に入ってこないのか、
ということについては、日本特有の「甘え」といった文化史から捉えていけばもっ
とわかりやすくなるのではないかと思いました。

それと、「青い芝」が日本の障害者運動の源泉として描かれていますが、確かに青い
芝の会には、障害者の反差別運動の基本的視点とも言えるものをぼくも感じます。で
も、そればかりに着目ていたら広がりがないのではないか、と感じました。青い芝だ
けでなく、障害者全体、例えば、精神障害者や視覚障害者の運動、ろう文化、それか
らすこし遅れてさっき触れた府中闘争といったことも含めた広い点から考える必要が
あると思いました。


<質疑応答>
A/個人的には、介助関係については、仕事の部分と個人の部分とをきちっと線
引きをすることができればいいのかなと思います。ただ、感情が邪魔してしまう
ということはあり、その解決方法を探しているところです。
自分は、介助者には「仕事は仕事」という良い意味でのいい加減さをもってもら
いたいと思っています。
自分もアパート暮らしで隣の人との交流はありませんが、都会に住んでいると、
隣に住む人は何する人ぞで、私は知らないという部分は大きいと思います。

山本/「都会に住んでいると孤立する傾向がある」ということについては、私も
いろいろ思うところはあります。自分の家はどうかというと、やはり近所とほと
んど付き合っていませんよね。私の生まれ育った町とは違って寂しいですね。私
は地方育ちで古い人間なので、人とあって挨拶しない、行きずりの人ならともか
く、毎日あっている人と挨拶しない、孤立というのはつらいですね。

ただ、それが都市化社会の現実なので、地域といっても、向こう三軒両隣でなく、
例えば私は所沢ですが、所沢の中で、仲間はいっぱいいますし、あるところでは
集まっているし、とことこの家という事業所もあり、そういうのも地域社会とい
うし、それでよしとするべきなのかなと思います。

都市化された構造の中で、近隣関係とか地域社会の人間関係というとしたら、テー
マ別に派遣事業の場所とか、学校ならPTAでもいいし、保育園なら保護者会と
か、そうしたところで集まるという目的指向的な人間関係ならできますよね。そ
れが現実で、そういう人間関係を作ること、同じコミュニティといっても、目的
指向というか、接点があってのコミュニティというのもいいのかなと思っていま
す。それを作っていくことで、「晩ご飯食べにこない?」とか、それは隣の家で
なくても可能であろうと。そういう地域関係もあるだろうと思っています。

B/本の中で、4人の方を取り上げていますが、なぜこの4人の方になったのか、
ということを聞かせてください。
また、正直に書いたということでしたが、それでも書けなかったことはありますか。
また、調査への反対運動についてですが。調査の問題には、その調査の目的と実
施に関わる問題があるということはわかります。たとえば、行政側の意図があっ
て、その意図に沿うような形で調査をしていくことになると、かなり問題が出て
くると思います。ただ、そうではない形の調査もあり得るのではないかと思って
います。障害を持つ人の生活実態を、当事者側、その視点から把握していこうと
いう調査もあります。そう考えると、調査自体というよりは、その目的と、その
目的にかなうような調査をしようという姿勢に問題があるのかなという気がしま
した。

山本/なぜこの4人かですね。最初、10人くらいの当事者リストを持っていて、
その人たちに書いてもらおうと思っていたのが、編集者に「あんたが書け」と言
われて。それで、一番長く深い関わりのあるのは、村田君だったので、村田君は
書くことになりました。荒木義昭くんもいましたが、それほど何人も書けないと
いうところで、選んでいます。一人女性がいれば、バランスもよいということで、
猪野千代子さん。あと、たんぽぽ会という東京都北区で20年やってきた会があ
ります。もう1人が翔太くんだった。これも深い思い出があったので、それが第
1章になりました。

知的障害者、身体障害者、男性、女性、そして、もう1人として選んだのが、人
なつっこいヤツで、いい関係で、今も健在で、親せきのように時々行って、おば
あちゃんと話しこんだり、和夫君と話し込んだりして、とてもほんわかと良い関
係が続いてきました。知的障害児、今は青年ですね。そういうバランスをとりな
がら、なおかつ深みがどういう感じかなと、選んだ結果、こうなったという感じ
でした。

C/介護と介助は、意識して使い分けているのですか。その用法を教えてくださ
い。

山本/「介護」と「介助」、分けて使っていて、それはどうしてかということで
すね。今は逆に高齢者の場合に「介護」と使うことが多く、障害者の場合に「介
助」ということが多いようです。
最初、「介助」という言葉はなかったのです。ずっと「介護」できていたのに、
それがどこかで高齢者と障害者で分けられて、かつ障害者の場合に「介助」と使
うようになった。どちらでもいいのですが、私が使いなれてきた経過があるので、
あえて「介護」という言葉も使っています。

D/最後の障害学の絡みで言うと、「非障害者の障害学」というものがあるはず
だと思います。そこを明確にする必要性があるのかなと思っています。社会モデ
ルといったとき、問題なのは健常者社会という捉え方をしていくということです。
つまり、健常者側の問題として、障害を切り口にして、健常者の社会を捉える学
問というふうに考えたとき、「健常者という立場からの障害学」という問題の立
て方は、あるのかなと思いました。それはこれからもっとやられなければならな
いと思っています。

E/本を読んでいて気になったことから質問です。第1章にでてくる翔太くんの
話で、お母さんが結局、翔太君を殺して自分も自殺を図ったということでした。
この部分で、お父さんのことが1つも出てこなかったのが気になっていて、お父
さんって一体何をしているのかな、と思いました。ここで言えないことがあるか
もしれませんが、いえる範囲で教えていただければと。

山本/お若いのに鋭いですねえ。よく気が付きましたね。これは、いわゆる「母
子家庭」だったんです。この方の場合は、未婚の母という立場でした。昔ならそ
れは、「母子家庭の問題」として取り上げられたのでしょうが、私は、それをあ
えて前面には取り上げないように書きました。
お父さんがいるのに関わらなかったのではなく、この家庭にはいなかった。お葬
式の日に初めて出てきました。ぼくは「いない」という前提でつきあっていまし
た。

F/「自立生活」という言葉に絡んでの質問です。30年前などの先輩の本を読む
と、最大の壁は親、親戚、つまり親元から離れて1人で暮らすという選択肢を選
ぶとき、親が壁だったということが出てきます。自分も、一人暮らしをしたいと
なったら、親と喧嘩してでも、やろうというくらいのスタンスでないと、自立ま
で漕ぎ着けないと思っています。
普通というのもいかがわしい言葉ですが、「普通」、子どもは大きくなれば親元
を離れます。ある程度の年齢になったら、親元から離れて暮らしたいと思うのが
自然です。
最近、パラサイトシングルといった言葉も出てきていますが、そうした言葉は、
自立ということから考えるとどうなのかなと思っています。

山本/大人になった自立する、とはいいますが、いきなりそこで自立が始まるわ
けではないと思います。長い親子関係の果てに、自立や依存というものが結果と
して出てくるのだと思います。また、親の側からいっても、子どもから離れられ
ない、ということがありますね。そういう親の子離れができない問題も、大きな
社会問題だと思います。
考えているのは、大人になったら、ということではなく、最初から一定程度、本
人の主体性や自立性を親は大事にして、一歩さがって見るようなゆとりをもって、
なおかわいい、と育てるくらいの気持ちが必要なのではないかなということです。
それまでの長い経過の中で自立があるのだと思います。

G/感想です。『障害学への招待』の山本さんのご意見のはじめのほうで、自分
が健常者であるということがぼかされているというのを聞いて、なるほど、と思
いました。私自身、障害学ということに、何かもうひとつ乗り切れないものを感
じたのは、なるほどそのせいかと思いました。
「健常者」の研究者の側にも負い目みたいなものがあると思います。その場合、
健常者であっても誰であっても、プロとして研究するようにならないと、途中で
挫折してしまうということがあるのかなと思いました。介護もそうですが、研究
にしてもボランティア的であれば、どこかで折れたり、降りてしまうということ
があるのではないかなと。
それと、介護関係のよしあしということを考えると、良き介護関係を結べなかっ
たケースがあることに気づきます。最低限、ヘルパーなどは、救護ネットとして
必要だしいなければ困りますが、その上で、いい介護者に出会って、良い介護関
係を結ぶことができたら、なおいいのではないか、と考えていいのでしょうか。

山本/介護については、一人の人とよい関係になれるかどうか、ということより
も、介護者一般とよい関係になれるようなシステムや工夫があればいいのではな
いかと考えています。介護者だけで話し合う、そういった意味でのピアカウンセ
リングといったことがあれば、一人で心理的負担を抱え込んでやめていってしま
うというような、不幸な結末は少なくなるのではないでしょうか。
介護者どうしのピアグループカウンセリング、あるいは介護者がかけこめるよう
な相談の場、システムが必要ではないかと考えています。誰かと話すと、負担が
3分の1くらいに減ると思います。誰にも言えずに自分だけでもっていると、ど
んどん自分が滅入ってしまい、破綻をきたす
ということがあるのではないでしょうか。その点では、早めに、介護者のための
相談機関、あるいはピアグループカウンセリング、それと同時に、他方で介護を
受けている当事者が、特に、介護問題を中心に話し合える場が必要だと思ってい
ます。
介護者会議というのはこれまでもありましたが、それは、ローテーションをどう
するかといった実務的な話に終始していたように思います。

H/カウンセリングする側とされる側、障害者の関係で、差別する側とされる側、
介護する側とされる側という関係がありますね。どうしても、強者と弱者の関係
性があるといっていましたが、それを乗り越えていくにはどうすればいいとお考
えでしょうか?

山本/まず専門家カウンセラーとクライアントだったら、強弱という言葉がぴっ
たりかどうかはともかく、社会的にカウンセラーのほうが上というか、強いです
ね。ただし、カウンセリングは、クライアント・センター、クライアントが中心
になって、ということでないと、本来の意味は果たせないと私は考えています。
置かれている立場は強いというより、責任が重いということですね。そういう立
場の人が、弱いとされる相手と同じ目線で話ができるか、そこが生命線ではない
でしょうか。それをぼくはあいつとめているわけです。

ただ、今、臨床心理士の資格化ということが問題になっています。医師にしても、
ケースワーカーにしても、みんな専門職になっていっています。専門家は相当に
苦労して社会的地位を得ています。努力して上りつめた社会的強者が、本当に同
じ目線に立てるのかという疑問があります。
ただ同じ立場といっても、例えば、生活力がない人と医者では、天と地の差があ
るわけです。だから、ピアカウンセリングという考え方がでてきたとも言えます。
私は、それでも、極力、努力して同じ立場にたとうとするかどうか、というのは、
ある意味、誠意の問題だと思っています。その矛盾があってもあがきながら、向
き合うということを考えていきたいと思っています。

ぼくが障害者問題に関わったのは世の中の矛盾といった、一番重い、乗り越えら
れない差別問題がそこにあると感じたからです。重い問題だけに努力してきたの
ですが、差別関係というのは乗り越えられない。どこまでいっても差別はある。
心の中にもある。それは消えない。でも精一杯努めていくんだ。許して信頼して
もらって、その上で関わってくる障害をもつ人とはつきあっていくんだと思って
やってきました。結果、たいがいの人は関わってくれます。いつも後ろめたさを
抱えてはいるので、「器用な通い人」と書きました。ただ、器用に通うくらいな
らやめろというわけにはいかず、それでもつきあって、少しでも障害者の世界を
広げる、ベストをつくすということでいいんじゃないでしょうか。

介護については、事故やミスといったこともあります。介護での事故が原因で、
障害者が死んでしまうということもあります。そういう超えがたい力関係がある
ということは認識しています。もちろん、ミスは許されないことですが。では、
そうした力関係を認識した上で、どうやっていい関係をつくっていくか、いける
か、ということは、私の場合、人生の課題みたいなものだと感じています。

I/介護者同士が相談しあう場があったほうがいいという話がありました。具体
的に介助者が何を話せてなくて、何を話したいのか、それは具体的にどういうこ
とがあると考えていますか?

山本/感情的にひっかかることは全てということになるでしょうか。それは、ひっ
かかっても我慢していられる程度のものから、それがきっかけで介護をやめると
いったことまで含みます。

例えば、トイレの話です。介護者であっても、トイレの介護に抵抗のある人はた
くさんいます。それで、介護者をやめていった人もいっぱいいると聞いています。
おむつの介護というのはいやだというのは、決定的です。いやだなという思いが
ネックになってやめていったということをいっぱい聞いています。

私の結論は、どうしてもできなければ、そう伝えられればいいということです。
今の話ですと、どうやって「できない」、「したくない」ということを言葉にす
るか、そうしたことを話せればいいと思っています。

ただ、何かがいやだなと思ったときに、それを相手に言ったほうがいいというこ
とは確かだけれど、言い出せないという弱さも介護する側はもっていると思いま
す。相手に対して、失礼になるのではないか、とか、どんどん思い詰めていくこ
とが多いと思うのです。

J/言い出せないというのはわかります。なので、続けていくために、失礼と思
うかもしれないが、聞きたいことは聞く、言いたいことは言うということを大切
にしましょう、ということを言っています。

障害者のほうとしても、そういうことを伝えられると「うざったい」という気持
ちもありますが、伝えてくれる安心感もあります。例えば、障害者に対して、
「どういう障害なのか」ということが聞けないということもあるかもしれない。
ただ、自分が介助していく上で、そういう情報があったほうが良いとか、知って
おきたいと思うのであれば、「どういう障害なんですか」と聞いてください、と
言っています。障害者本人としてみれば「またか」と思うかもしれないけれど、
この人は聞いてくれるんだな、自分が伝えたいことは言ってくれるんだな、とい
う安心感があれば、信頼関係につながると思います。

山本/言われたことはまっとうなことだと思います。ただ、実際に、では本当に
話せるかというと、そうでもないだろうという思いもあります。そのために、介
護者の話を受け止めるコーディネーターが大事だと思います。介護者特有の気持
ちが、自分だけの勘違いでなかった、他の人も同じところで悩んでいるんだと、
ほっとできる相談の場が大切だと思っています。例えば、そのためには、センター
に介護者が集まる時間があればいいんじゃないかとも思っています。

K/非障害者としての障害学という話がありました。しかし、障害者とは誰かと
いう話も一方でとても悩ましい問題です。それが、障害者手帳の有無だとはっき
りしていますが、もう少し広く考えると、どこまでが障害者でどこからが障害者
でないかという問題はありますね。私自身、健常者もしくは非障害者と自分のこ
とを書くとき、躊躇する部分があります。手帳を持っていないことははっきりし
ていますが、ではどこまでが障害なのかというとわからなくなる。一方で、非障
害者であることを強く自覚しなければならないという思いはありつつも、二項対
立のような捉え方だけでは見えないこともあるだろうということです。そのあた
りはどう思いますか?

L/関連の質問です。2つの世界の器用な通い人になるという話がでてきました。
これまで私も介助をやったりした中で、確かに2つの世界の間を行き来している、
通い人という感覚を持ったこともあったなと思い返していました。

ただ、障害者の世界と、それ以外の一般の世界、そのように2つに分けてしまう
という感覚は、障害をもっている人の介助を長く続け、そうしたことが自分の日
常生活の中に入ってきたことで、だんだんとグラデーションになってきたと思い
ます。

障害者の世界から一般の世界に戻っていく、自分は戻れるが、障害者の人たちは
戻れないで、常に、その世界にいるという感覚、2つの世界としてそれを把握す
ること自体にどういう意味や可能性があると考えていますか?

例えば、2つの世界という把握をすることによって、一般社会から隔絶された障
害者の社会というものを意識したり、考えたりすることはできると思いますが、
一方で、そういう2つの世界という把握自体が、「障害者の」といったときの意
味を固定的なものにしてしまうこともあるのではないかと思っています。

M/2つの世界という認識に関連して、例えば、「障害者は、障害者の枠組みの
中でしか生きていけない、そこから逃げることができない」という言葉を聞かさ
れたことがありました。そのとき、なるほどと思いました。例えば、機能的なと
ころで1人でできない人、身体的な重度の障害者などは、障害者の枠組みから出
られないと考えることはできると思います。

山本/2つの世界があると立てて、その間を器用に生きていると言いました。そ
れは、「後ろめたさ」がつきまとっていたからだと思うんですね。その感じ方を
聞かれているのだと思いますが。ある意味、2つの世界にこだわり過ぎていたの
かなとも思うので、今の発言を聞いてさらに考えてみたいと思いました。

N/現在、自分のいる自立生活センターで介助者の語り合いの場を何度か持った
ことがあります。そこで、感じたのは、それが一般的、あるいは多くのといえる
かどうかわかりませんが、障害者との関わりや介助関係で、違和感を持たない人
が多いのではないかということです。「器用な通い人」であることに、違和感を
感じない人のほうが多くて、夏休みになったら、実家に帰ったり、遊びにいった
りして、介助に行かないということはあっても、それに対して、後ろめたさなど
は持っていないように思うのです。もしかしたら、それは、時代状況や介助制度
などに関わっているのかもしれません。そういう、違和感を持たない人たちも、
現状では結構たくさんいると思っています。介助先で感じていることをみんな話
しましょうと言っても、特に何も感じていないとか、何を話していいかわからな
いということが多いのです。

そうした障害者問題といったことに関する問題意識を持たないで介助にかかわる
人が多くいるなかで、それでもあくまでも障害者と健常者の関わりを問題にしよ
うとするというのは、どうしたらできるのか、ということを考えています。

山本/80年頃からボランティアという運動が盛んになってきました。ぼくらは運
動をやっていて無償で介護をやっていました。活動家としての障害者が地域に住
んでいて、地域の運動の支援者兼介護者という存在が、不可分のものだったので
す。それが、80年頃から、運動はやらないけれど介護はしたい、それにやりがい
を感じるという機運が若い人に出てきました。ぼくは、驚きました。介護は仕方
なくつきあってするものだと思っていたのに、それにやりがいを感じる人がいる
のかと。発想が違うのだなと思いました。

ごく自然な感じで、障害者の生活に介助者としてはいったり、そこで特に何も逡
巡などは感じていない人たちがいるのではないかと思いました。それは、ぼくな
んかには到達できない、新しいごく自然なナイーブな、屈託のない関わりなのだ
と思います。それをいちいち「いや、逡巡があるだろう」といって掘り下げない
ほうが、良いと思っています。ただ、それで、すぐやめるというのは困るのです
が、悩むのが良いことだとはだんだん思えなくなってきています。

O/山本さんの接しておられた障害を持つ方々は、社会に対して、どう自分の立
場を主張されるのか、障害者として今の社会に対してものを申すということなの
か、そのあたりのことをお聞きになったことはありますか?

山本/社会の中でどういう位置に置かれていると思いますか、という質問はする
必要がないぐらい、いろいろと社会問題を一緒に取り組んでいたので、そういう
質問をした記憶がありません。

ただ、置かれている立場は、世の中に対する怒りをもつ者という立場だったり、
逆に、社会から孤立し、社会に対して怒っていると言いつつ、いい近所関係を作っ
ているという側面もある。いろいろな方がいるとは思いますが。

また、言い方はともかく、逆に「障害を武器にして生きていくんだ」とか、「障
害を武器にして、人々に社会問題を考えてもらうんだ」とか、そういう言い方も
聞いたことはあります。役割ということとはずれるかもしれませんが。  

また、村田実君は、晩年、「今は高齢化社会で、どんどん高齢者が増えてきてバ
リアフリーは考えないといけない課題になるんだ」ということを言っていました。
障害者問題は、その中で考えるのだと。そう言って、彼の住んでいた地域のクラ
ブ生協の会館を建設するときに、建設委員会に飛び込んでいき、設計図に対して、
「エレベーターがない、スロープがない」ということを問題にしました。彼は、
「お年寄りが来たらどうするのか、高齢者が使えるようにしなければいけない」
と主張して、設計図を総とっかえさせたのです。彼が亡くなってしばらくしてか
ら、その会館の落成式がありました。

彼は、自分が高齢者の立場になって発言するんだ、と自信を持って生協の委員会
で活動していました。高齢社会における自分の役割を自負していたということな
のでしょう。

( 以上 )


UP:20050807
障害学  ◇病者障害者運動史研究  ◇山本 勝美 
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