HOME >

患者の私を見て下さい

高澤 信一 2005/04




  私は 高澤信一 1948年4月生まれ57歳、福井市に在住しています。
  2004年6月から日本ALS協会福井支部支部長を引き受けています。
  県立藤島高校、立命館大学経営学部を卒業して東京海上火災保険(株)の子会社の東京海上損害調査(株)に技術アジャスターとして約30年勤務して2004年1月にALSで療養欠勤後に病気退職しました。技術アジャスターとは損害保険の事故車の見積り、査定、事故原因調査、示談代行等が主な仕事でした。
  妻と2人の息子の4人家族です。家族4人共にスポーツと音楽が大好きで、息子達は仲間とバンドを組んでいてピアノ、ギター、ドラムを楽しんでいます、最後の旅行も2000年秋にエレクトーンフェスティバル福井大会、北陸大会で金賞を貰って名古屋に連れて行ってくれました。
  息子は2人とも福井大学に通学しています。高校時代に長男(剛)は藤島、次男(篤)は高志高校でハンドボール部のキャプテンをしていました。実は妻(恵子)も藤島高校で女子ハンドボール部に属していて当時の仲間や多くの友人が妻の厳しい状況を見ていろいろと助けてくれています。大変感謝しています。妻はマラソンが趣味で年に何度か10Kmマラソンに参加していましたが、私のALSが進行して送迎が不可能になった2000年11月3日の武生の菊花マラソンを最後に送迎ができなくなって妻のマラソン参加も終わりました。家族皆が自宅介護に慣れて来た2003年の福井マラソンに久し振りに参加しました。長男は”来年は永平寺マラソンにも出たら!僕が送って行くから”と言ってくれました。2004年は2回走れました、次男は留守役で私を介護してくれました。近くに居てくれて大変助かっています、私の介護や妻の手伝いを学業と共に家庭教師等のバイトをしながらも手助けしてくれています。

  私は1998年12月にALSを発病しました。50歳でした。
  私は子供の頃からスポーツが大好きで高校までは野球部に属していました、会社に入ってからは市民野球、市民ソフトをやりながらゴルフを楽しんでいました。
  不思議なことに好きなゴルフの練習をしている時に、身体の変化に気付きました。今まで届いていたネットに、どんなにフルスイングしても届かなくなってしまいました。いつも一緒に練習していた友人も”おかしいから病院で診てもらったら”と言ってくれたため翌年1999年2月に高校の同級生が開業している佐藤形成整形外科に行きました。検査の結果は右の握力が以前の半分に落ちていました。高校時代には右70kg左55kgだったのが、右35kg左45kgに落ちていました。左は年相応ですが、左右逆転は有り得ないことでした。暫く腕の筋トレを続け通院しましたが診察結果、筋肉に異常は有るが原因は整形外科の領域では判断できないために神経内科で再診してもらってくれと言って福井県立病院の宮地先生を紹介してくれました。しかし次男の高校受験と発表が気になって、検査は少し遅れました。 
  嬉しい合格発表を確認した後の4月2日に県立病院に行きました。筋電図等の検査をいろいろ受けました。検査結果は6月初旬に妻と同伴にて説明がありました。医学書等で予想していた通り最悪のALS(筋萎縮性側索硬化症)でした。病名を告知されましたが私の方からもALSですか? と質問できるほど意外と冷静に受け止められたように思いました。ALSという病気の様子は、テレビで見たことはありました。しかしながら不自由さは余り感じていなかったためにぼんやりと[不安な自分の将来が、見えたかな]と考えた程度でした。
  9月から1ヶ月間金沢大学医学部附属病院(第2オピニオン)に検査入院しました。左腕の筋萎縮も始まっていましたがALSというよりは上位運動ニューロン病と診断されました。首より上には異常は見られないとのことで少しだけ喜びました。 

○ ALSの進行と仕事

  発病して2年ほどは、歩くことも運転することもできました。 
  2001年4月ALSが発病して2年4ヶ月で歩行困難になり車椅子の生活が始まりました。それ以前より歩行は少しずつ不自由になっていたため、気になっていたのは仕事を継続できるかどうかでした。既に外勤から内勤に変わっていましたが車椅子での勤務が可能か心配でした。以前より上司を通じて話しを進めていたためか、4月1日に完全歩行困難になって20日後には、妻の机も私の机の隣に用意してくれて、車椅子での勤務を了解してくれました。それも午後2時から5時までの勤務で1日分扱いをしてくれました。いよいよ出勤です。自宅用の車椅子でワイシャツ、スーツを着せてもらいネクタイを締めてもらいます。非力な妻には大変です。私を抱き上げないとズボンも履けませんでした。トイレを心配する必要は運良くありませんでした。前年より顧客用に社内バリアフリー化が始まっていて廊下、階段の手摺、障害者用トイレは設置済みでした。6階建てのビルなのでエレベーターも当然設置してありました。パソコンと電話を使う仕事で、工夫して社内での不安は無くなりました。
  本社から常務が見えて、仕事を続ける事は生き甲斐になり病気の進行も遅くなるかもしれない、会社はできる限りの応援をするので身体が許す限り出社して下さいと言われました。
  身体障害者に対して温い会社だと自分が勤務している会社ながら感心し、感謝しました。
  福祉に前向きな会社で助かりました。福井県立病院神経内科医の宮地先生にも同じように、今まで通りに仕事ができることは生き甲斐にもリハビリにも効果が出て、病気の進行を遅くさせる効果もあるかも知れないからできる限り長く仕事を続けて下さいと言われました。毎日、感謝しながら残された勤務を頑張りました。
  会社まで1kmだったことが車椅子での通勤を可能にしてくれました。1kmの間に難関がありました。足羽川(アスワガワ)に掛かる橋でした。坂道の角度に違いがあって妻の力では登れない急坂の桜橋(サクラバシ)は避けて遠回りの九十九橋(ツクモバシ)を渡りました。
  雨の日は助手席が回転して車椅子も載せられる車に半年前に入れ替え、長男に運転してもらいました。家の中には別の車椅子があって、在る日会社に行く前、車椅子を乗り替える時にずり落ちて妻ではどうしようもなくなり、近所の奥さんに助けてもらい会社に行けました。
  しかし8ヶ月後には車椅子に座っていても呼吸困難に陥り、その後2年間の欠勤療養に入り2004年1月に退社しました。
  車椅子に乗っての記憶は沢山ありますが、全て家族、友人、会社の上司、同僚、近所の人、医師、看護師、ボランティアの人達、その他いろんな人達の温かい手助けで生きていると感謝しています。
  スポーツ大好き人間が、歩けなくなるなんて思ってもいなく、辛くて悲しく思いました。
  重度ALSの患者が車椅子に乗ることについて思うことは、一番に全て手助けしてもらわないと生きていけない、それでも自分のため、私を必要とする家族のために生き続けたいと思いました。

○ 人工呼吸器装着について

  2002年初期から欠勤生活が始まり寝たきりの生活で風呂は息子達に代わって「あじさい」というデイケアサービスに入れてもらいました。首から下はほとんど筋肉がなくなり手足はまったく動かなく力もありません 寝たきりの状態で寝返りも打てません、さらに横隔膜などの呼吸筋も弱くなりましたが顔の表情、目や口の動きは変わりありませんでした。
  2002年4月8日、次男篤が福井大学の入学式の日の夜中に呼吸困難に陥りました、数日前から呼吸が弱く苦しくなっていましたが、自分で呼吸することが殆どできなくなって苦しみ出した私の顔を見た妻は篤を呼びましたが篤も困り果てて、”どうしたらいいの”と妻に問うたために、呼吸困難時の応急処置として、溺れた人を救助する際に胸を押す人工呼吸の方法を県立病院の理学療法士の小林義文先生に聞いていたことを思い出して、声を絞り出してタイミングも指示しながら篤に頼みました。かなり楽になりました。その間に救急車を呼びました。救急隊員は酸素マスクを着けたために、篤に頼んだように胸を押す人工呼吸の方法をお願いしました。楽に病院に行けました。まだ少し自発呼吸ができたため苦しくなったら看護婦さんに頼んで胸を押す人工呼吸の方法をお願いしました。気管切開し人工呼吸器を装着前に鼻から空気を送り込む人工呼吸器、鼻マスク装着となりました、鼻マスクは慣れるまでに時間を要するため暫らく入院しました。見たかった篤の入学式の晴れ姿は、見ることができませんでした。
  2002年8月17日夜中に鼻マスクを装着していたにもかかわらず呼吸困難に陥り救急車で県立病院に連れて行かれました。熱は39℃以上あって誤嚥で肺炎を起こしていました。20日は記念の日になりました。先生に”始めますか”と言われて全身麻酔を吸わされた後は目が覚めるまでは何の記憶もありません。呼吸が何とも言えない程楽になりました、気管切開し人工呼吸器を装着しました。
  呼吸は楽になりますが自分の声は失われる、命は保つことはできるが自分の辛さ、妻や家族の介護の厳しさも予想できました。一時は私がいない方が家族は楽だろうからと[死]を考えたこともありました。家族は私の[死]など考えてもいなく、どんなことをしても生きていて欲しいと思っていました。妻に「お父さん(私)が死んで残った家族が幸せにはなれない、まだまだ必要で生きていて欲しい」と言われました。私がいないと家族の生活が困難になることも知っていました。自分でもまだ大事なんだな、治療法は見つかっていないが、近い将来発見されると希望を持って装着をお願いしました。福井県立病院神経内科医の宮地先生は最初から、呼吸器の装着を推進してくれました。
  生か死か、厳しい選択でした。今は正しい選択だったと確信しています。
  ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発病した時は患者と家族への早い告知が必要です、妻の介護への覚悟が一番でした、(私の妻は当然と思っていました)歩行困難になった際の自分の将来への準備、呼吸器装着しての自宅介護への準備も必要です。

○ 呼吸器を装着しての日常生活を日記より抜粋

  10月1日に退院し自宅療養に入りました、季節の変わり目のため体温の調整に苦労したり筋萎縮が続き身体中が痛む日もありました。当初は飲み込む力が弱く食事が大変というより怖いくらいでした、昼食の時に夕食の不安を考える日々でした。吸痰のための睡眠不足等の妻の介護の厳しさが現実になってきました。
  2003年になると少しずつ慣れてきました。2月頃からは飲み込みがだいぶ強くなり好きだったトンカツやカキフライまで小さくすれば食べられるようになりました。カフを抜けば話しも2時間はできました。さらに3月に入ると全くできなくなっていた自発呼吸ができるようになってきました。原因はわかりませんが訪問看護に来てもらう1時間30分以上は呼吸器無しでいれるようになりました。
  (2004年春には自発呼吸は15分程度までに落ちました。)
  4月に入り桜が咲き始めたのと晴れた日を選んで妻と子供に連れられ初めて新しい車椅子で近くの公園に花見に行きました。自宅介護が始まって半年振りの外出です。桜は満開で風も爽やかで気持ち良く、なんとも言えない懐かしさで一杯でした。50m先の公園に行ったのは記憶では1年半ほど前だと思います。久し振りの散歩は楽しかったし写真も撮ってもらい本当に感謝しました。車椅子には呼吸器を着けないでアンビューだけ持って出かけました。調子もよかったために近くの小学校の桜まで見に行きました。時間は30分近くでしたが自発呼吸だけで帰って来ました。家族共に自信が付き次は5月のツツジを見に行こうということになりました。
  5月初旬に緑公園に家族4人で出かけ綺麗なツツジを見て楽しく過ごしました。散歩は気持ちがいいです。
  6月半ば、最近は”伝の心”パソコンを使い始め、1つだけ動く顎を使ってメールやインターネットを楽しんでいます。皆さんのホームページを見せていただきました。手に取るように皆さんの頑張りが浮かんできます、年齢、性別、症状は少しずつ違っていましたが同じように悩み、苦しみ、将来が不安でいっぱいだということも感じ取れました。しかし皆さんが希望を捨てず少しでも早く、確実に、自分の足で歩くことができるようになりたい、そのための新医薬、新しい治療方法、ヒトゲノム計画、遺伝子治療、再生治療(ES細胞)等で夢の治療の実現を待っていることも良くわかりました。私も家族も同じように祈っています。
  7月12、19日に武生の中村病院と福井総合病院で”伝の心”のデモンストレーションが開催されました。東京から日立の小澤さんが講師に見えました。高澤さんに是非、出席して欲しいと県難病支援センターの吉川先生に頼まれました。挨拶文を作って欲しい、その文を”伝の心”で読んで欲しいと言われ『今を大事に生きたい』という挨拶文を作って発表しました。
  『今を大事に生きたい』
  私は 高澤信一 1948年生まれ55歳福井市に在住しています。
  妻と2人の息子の4人家族です。息子は2人とも福井大学に通学しています。近くに居てくれて大変助かっています。
  私の介護や妻の手伝いを学業と共に家庭教師等のバイトをしながらも手助けしてくれています。
  ALSを発病したのは50歳の12月です。現在は首から下は動かなく人工呼吸気を装着して生活しています。
  右腕の衰えから始まりました。不思議なことに好きなゴルフの練習中に気がつきました。
  いつもは届くはずのネットにどんなにフルスゥイングしても届きません。
  ここから新しい家族4人の生活が始まりました。
  診断通りに2年4ヶ月で歩行困難になり車椅子の生活、3年8ヶ月で呼吸困難に陥り、人工呼吸器での生活で声も徐々に失いました。
  私から何もかも奪い取ってしまう超難病と思い続けていましたが奪えないものがありました。
  当たり前に感じていた家族の愛、温もり、思い遣りが病気になって改めて嬉しく思い起されました。
  奪われた声は”伝の心”(意志伝達装置付き パソコン)で戻りました。
  メール、インターネット等の新しい世界が広がりました。
  科学の進歩は、人生を諦めないことが次の幸せな世界を呼び込めることを教えてくれました。
  さらにこんな私にでも皆さんに喜んでもらえることが有るということが解りました。
  いつも手作りの新鮮な野菜を持って来てくれ、お世話になっている近所の高校時代の恩師に「君が今を大事に生きていること、元気で明るく生きていることは周りの人達に勇気と夢を与えてくれているんだよ」と教えて貰い、気がつきました。
  人間は今を大事に生きていてこそ価値があることをお伝えし、ご挨拶といたします。
  大きな拍手で大盛況でした。少しはハードルが高くなったかな?と思いました。

  10月1日(水)は退院して丸1年経ちました、呼吸器を着けて自宅介護が始まりました。山あり谷ありの1年でした、その間皆さんの御世話になり生きて来ました。特に妻の介護は並大抵のものではありませんでした。剛、篤の息子達も色々と手伝ってくれて大変助かっています本当に感謝です。良い家族になったなと妻に言ったら、お父さんが作った家族でしょうと言われ嬉しかった。よりによってこの日に体調を崩して辛い1日を過ごしました。家族にも”明日の朝は命があるかわからない”と、つい不安になり言ってしまいました。急に寒くなり体温の調整が効かなくなったのといつも飲んでいる睡眠薬を飲まなかったために痰が止まらず一睡もできず寝不足が原因ででした。耳鳴りや寒気、身体中が重く辛く動悸もして過去には経験のない辛さでした。光陽生協病院の院長の平野先生の薬で一晩で辛さは全て治癒しました。
  この日から身体が敏感になり呼吸音や痰の響きが大きく感じ、背中の骨への圧迫が強くなり痛くてたまりません。首の力が弱くなり簡易トイレに座ると暫くで首が前に垂れてしまいます。枕に頭を乗せても重く位置が定まりません。敏感になったのも首の性かも知れません。以前には感動も小さいと書きましたが、今は過敏症になったようで身体中の骨が下から押し上げられ、肺の下の背骨と脇骨は痛くてたまりません。更に喉が締めつけられるように感じ苦しくて、私の命も長くないと思うようになりました。寂しくてなんとも悲しく辛い日々を送っています。
  10月20日(月)往診があって平野先生に今の辛い身体の状況と精神的な不安を訴えました。痰の音が胸に響くのが凄い、背骨が肺の後ぐらいで突き上げられるように痛い、首が弱くなり重くトイレに長く座れない、腕が重い、身体全体が過敏になっている。死に対して不安で妻や子供の将来が心配でたまらない等を訴えました。先生は特に異常は見られなく急に何かが起こる心配はないと言われました。11/3日の丸岡の霞ガ郷温泉でのALSの集会にも出かけてもかまわないとも言われました。新しく出た精神安定剤を呑んでみますかと言われ、何でも試してみますと答えました。看護婦の畑さんが精神アドバイザーを月1回よこしますので話して下さい、詳細は打ち合わせして連絡しますと言いました。
  11月2日(日)家族4人で公園に散歩に行きました。木々の紅葉が鮮やかで感動しました。妻がもう少し遠くまで行こうと言って安養寺まで行きました、懐かしい古い銀杏の木も見れました。剛は私の両手を持ってお地蔵さんに手を合わせてくれました。思わず家族が幸せに過ごせますようにと祈りました。戻る時日差しが眩しかったら篤は歩きながら手で影を作ってくれました。2人の優しさには涙がこぼれます気温は9月下旬頃の25℃もありました。気持がよかったと言ったら、遣り甲斐があるから又行こうと篤が言いました。

  2004年1月1日(木)元旦 申年
  篤に車椅子に座らせてもらい、テーブルに着き金杯で乾杯して新年を祝いました。ただし今年に限って剛はグァム旅行のためにいなく、初めて3人だけのお正月になりました。
  1月9日(金)損害課の送別会を自宅で開いてくれました、顔色が良くて安心しましたと言われ元気も出ました。長い間お世話になり大変有り難う御座いました、東京海上は私の人生そのものでした。
  1月26日(月)往診がありました。身体は異常無い70〜80才までは生きるつもりで頑張り、福井県のALS患者の先駆者になって下さいと平野先生に言われました。更にALSは難病の中でも名が知られていて、国の支援も進み治療も着実に進歩しています、皆も応援しています、頑張りましょう、それにこんなにいい奥さんはなかなかいませんよと付け加えてくれました。妻も長生きすると治療できるかも知れないと期待しています。
  2月8日(日)立春寒波が続き5日連続雪が降り、積雪50cm以上になりました。
  気温も低く、手足は氷のように冷たく、痰も多く背骨も痛く、辛い日を過ごしています。
  自分では、こんな身体でよく生き続けられているなと感心しています。生きたい気力は十分です。
  4月17日(土)眠る前は身体が熱く、特に手が燃えるように熱く痰が多く眠る前に6回も痰を採ってもらう辛い夜でした。体温調整ができなく、4月中旬だと言うのに25℃以上の夏日が続き、痰が乾きカニューレに絡んで大きな音になったのでしょう。
  4月21日(水)ヒトゲノム採血のため、近江草津病院オーダメイド医療情報室からメディカルコーデイネーターのM先生、副院長、看護師の3人が見えました。最初はヒトゲノム採血のビデオを見ました、遺伝子治療の説明や採血への協力でした。(インフォームドコンセント)これほど大掛かりのヒトゲノム計画は世界初めてで、文部科学省が難病治療に遺伝子を分析して解明しようとする計画です。採血した血液は東京大学医科学研究所の中村教授に送られ、一本は遺伝子の分析、他はタンパク質の分析に使用されるそうです。現在200人の血液が分析済みで後1年3ヶ月後には、原因を解明して何か新しい医薬が開発されているでしょう、希望を持って頑張って下さいと言われました。北は金沢、南は島根と10人採血したそうです。妻が採血了解の代筆をして約50分で終わりました、大きな目標が現実になりそうです、どんな苦痛、苦労にも負けず頑張ります、先生方どうか早い治療をお願いします。PM8時頃に草津病院のM先生から電話が有り、採血した血液は無事に東京大学医科学研究所へ送りましたと言われました。
  5月18日(火)福井医療専門学校で120人の生徒を前に県立大学福祉学科、小林明子先生の講義の手伝いをしました、10時間掛けて”伝の心”で作製した私の経験やアドバイスを真剣に聞いてくれて嬉しかったです。患者の心を先取りできる、思い遣りの有る医療専門家になるよう期待します。
  5月26日(水)県立大学から18日の福井医療専門学校での講義の際の生徒の感想文113通が届きました。自分の職業を理学療法士等に目標を定めている生徒さん達は、私達生きた標本が新鮮なためか、真剣さを感じました。役に立ててよかったと思いました。
  小林明子先生から先日は御苦労様でした、高澤さんの効果は大でした、これからも二人三脚でお願いしますと、お礼のメールが届きました。更に感想文の感想と講義での体験記の感想の依頼がありました。医療専門学校で学園祭が有りました、バザーの収益金からALS協会に5、000円の寄付金がありました。
  6月13日(日)県の難病支援センターの吉川先生が見えました、退院して在宅介護を受けている難病患者のネットワークを作ろうと、県立病院の宮地先生達が始めました。患者の困っていることを聞いて廻っています、市内だけでなく遠隔地でも治療や介護が受けやすくできるようなネットワークを作りたいようです。ALS協会と県の行政が手を繋ぎ、難病患者や家族を支援したいという、有り難い話でした。私が元気で生きていることは難病患者に生きる励みと勇気を与えてくれるため、高澤さんは家族や多くの難病患者のためにも長生きして下さいと言われました。皆さんの役に立つなら私を利用して下さいと答えました。
  6月16日(水)ALSのニュースに医療専門学校での生徒さんを前にした、私と妻の写真が大きく載っていました、私が授業のために書いた文書、アドバイスの中から車椅子に乗ったことについての文書が掲載されていました。総会には金大医学部附属病院の、駒井助教授よりの、最新のALSの治療についての講演や、東京府中の患者、佐々木公一さんの訪問も予定されていました。

  ◎福井豪雨災害での経験
  2004年7月18日(日)福井豪雨災害で私の地区にも避難勧告、避難指示(避難命令)が出され県立病院に避難入院をしました。幸いにも私の家は500m手前で浸水は免れました、避難勧告も解除され翌日には息子達に頼んで帰宅できました。この災害で重度身体障害者の私が実感したことは、町内会長さんが言った「浸水してからでは遅いんだよ」と言う言葉でした。我々のように呼吸器を装着した患者は、受け入れ病院の確保が一番です。浸水した後では車椅子を積めるリフトカーも来てくれません。私は避難勧告時に病院、リフトカーを確保して出発しましたが30分後には上流で足羽川が決壊しました。もし床上浸水だとコンセントも水に浸かり呼吸器、吸痰器も使用不可になります、避難勧告が出たら速やかに行動を起こし、必要な携行品は普段から準備しておきたいです。
  新潟豪雨で死亡した多くの人達は70才以上の一人暮しの老人でした。避難指示が出てからでは携帯等の通信網も麻痺します。人力を使える重度身障者、一人暮しの老人の支援ができるネットワークが必要と思いました。
  二人の息子が20日からボランティアに行っていました、行って見ると床下浸水でも、泥を掻き出すため、床板を取り除き暖房材等を取りかえる事など大変だとわかったらしい、息子達は力仕事には役立ったが、知人宅へのボランティアは来てくれる気持が嬉しいと喜ばれたと言いました。妻は私達がいつも皆さんに来て頂き、お世話になって嬉しいのと同じですと答えました、私も同じだと思いました。ボランティアは力だけでなく、心が大切なんだとわかります。
  福井豪雨災害と命名された集中豪雨を、重度身障者としての経験を活かし皆さんに伝えたいと思います。
  8月7日(土)Am9時30分過ぎに自宅を出て福井県立大学での小林明子先生の授業に特別講師として妻と二人で参加しました。広い構内で緑がいっぱいでした看護学科と社会福祉学科の80人の学生を前に先生のお手伝いをしました。今回は夏季講習で2、4学年が参加しました、男子は3人だけで残りは全て若い女性で華やかでした。感想を聞いた時に感激したためか、涙声で答えてくれた女子学生もいて嬉しかった、妻も胸が一杯になったらしい。今日も剛と篤がリフトカーへの乗り降りを手伝ってくれた、ありがとう。
  8月10日(火)小林明子先生から、凄い反響の感想文が来ています、私達夫婦の生き様は大変役に立っているとお礼のメール有り。次も頑張りますと返信しました。
  9月20日(月)敬老の日 助手席が回転する剛の車に呼吸器と携帯用吸痰器を載せて越前海岸に向かいました、朝日町の”道の駅”で駐車してソフトクリームを3個買ってカボチャのソフトを妻に食べさせてもらって美味しかった。河野村付近から海岸線を北上して日本海を満喫しました。パーキングで海を見た時太陽が水面に輝き綺麗でした。剛は三脚を立てて海をバックに写真を撮りました。篤が柵に腕をもたれ掛けている姿が格好良かったため剛に一枚撮ってと頼み、後は篤が撮りました。兄弟が撮り合う姿を見て妻は感激していました。シガレットライターからコンセントを引けるようにセットしてあるために呼吸器の使用時間は気にしないで最高3時間のドライブができました。身体はどこも痛く無く呼吸も順調でした。我が子だからしてくれる事です、妻の気分転換にもなりました、ありがとう感謝します。
  10月10日(日)台風は東京の上空を通り過ぎ今日は台風一過の秋晴れで予想最高気温は27℃です、マラソンには暑過ぎると思えるが条件は皆さん同じです。妻はスカイブルーのTシャツを着て頑張ってきますと言って出かけました、ユニフォーム姿がとても若々しく見えました。
  お母さん頑張レ! 結果は10kmを8位でメダルと賞状を貰って喜んで帰って来ました、戻った時に花束を渡しておめでとうを言ったらもう一度喜んでくれました達成感が有ったそうです。
  小林明子先生より日本ALS協会の大きい計画への参加依頼が浜中、国富さんの三人に有りました、ルー・ゲーリックにちなんでのキャンペーンで日米野球ALS啓発キャンペーンと募金活動です、11月12日(金)名古屋ドームでのナイターでの予定です。宿泊するかどうかは検討中です。
  10月17日(日)小林明子先生からALS福井支部患者で呼吸器を着けた患者の中での”患者の思い”を「訪問看護と介護」という月刊誌に医学書院より2005年1月より連載される事が決定したために第1回目は支部長の高澤信一に原稿の依頼がありました。訪問看護士やヘルパーさんが読んで全国的に普及しているそうです。
  10月26日(火)長野の妻の友人から大きいダンボール箱に満タンの野菜とリンゴが送られて来ました。妻が見せてくれた野菜だけでも大きなキャベツ、はくさい、大根、ニンジン、サツマイモ、ジャガイモが手品みたいに次から次へと箱から出て来て台所が溢れて妻は嬉しい悲鳴を挙げていました。台風、豪雨、噴火、地震の災害で野菜は大高騰しています、大根等を近所の奥さんにあげたら胸に抱きかかえて喜ばれて嬉しそうでした。夜大根が美味しかったと長野にお礼のメールを入れました、返事に寒くなり電気毛布を使い始めたと言っていました。
  11月2日(火)日米野球の名古屋ドーム行きの福井支部は中止になりました。理由は参加メンバー10人は名古屋の患者で一杯になったことと呼吸器の電源確保や寒さ対策、遠方からの患者には厳しいということが理由でした。
  11月10日(水)午前中は武生から言語療法師さんと看護婦さん、保健所の保健婦さん水口(訪問看護婦)さん岡部(ケアマネージャー)さんが集まってくれて私の嚥下が弱くなったのを鍛え直して美味しく食べられるよう努力しましょうという事になりました。希望が持てそうな若い女性の言語療法士さんでした楽しみにしています。福井県のALS患者で嚥下を鍛え直すために言語療法を始めたのは私が初めてだそうです。何でも挑戦します。
  12月5日(日)今朝は痰も少なく朝食もスムーズでした。夜は一度も痰も水も採らなかったそうです。昼食中に痰も出なく後の浣腸も一回で済みました、更にフットバスに入る前から足は温かく入ったら更に気持よくなりました。こういう日が続くと嬉しいです。
  12月15日(水)夕方小林明子先生と難病支援センターの吉川先生から電話をもらいました。気管切開をして日赤に入院中で19才の筋ジストロフィのKさんという若い男姓患者が、呼吸器を着けるか否かの判断と退院後の生活を私の生活を見て参考にしたいと申し出た家族がいますので、19日(日)に訪問してもよろしいですかということでした。勿論了解しました、頑張って明るく生き続けるのが家族にとって一番大切なんだという事を見てもらいます。
  12月23日(木)「天皇誕生日」高木裕美先生と小松長生さんのコンサート[ザ、ソナチネ]を三国未来館まで行って楽しみました。水沢先生(御主人)にお世話になりました、お礼コンサートの感想をメールしました。[家族皆が楽しめました、いろいろ御配慮頂きましてありがとうございました。駐車場も最適な場所を確保して頂き車椅子も濡れず助かりました。素敵なコンサートで、高木先生のピアノ演奏の素晴らしさは見事で感動しました。
  三国未来館ホールが満員になるのも頷けます、そこには水沢先生の手助けが見え隠れしています、頂いた3枚のトロントでのCD気がつきました、夫婦協力してのコンサートは大成功でしたもっともっと続けて下さい楽しみにして待っています。
  車椅子を積んで車2台で初めてのコンサートへの挑戦も何のトラブルも無く楽しめました、妻も感激して涙ぐんでいましたありがとうございました。高木先生には立派な息子さん達でと褒めて頂きまして嬉しく思いました、これからも宜しくお願いします。
  三国生まれの小松長生さんの指揮が見られて幸せでした、家族で挨拶をさせて貰いたかったです]
  12月25日(土)家族でクリスマスパーティを開きました、私も車椅子に乗せてもらいテーブルに着きました、シャンパン、ワイン、地酒を飲ませてもらいカキフライ、若鶏の煮物などを食べさせてもらいました。
  最後は妻の手造りチーズケーキを食べてコーヒーを飲みながら篤のギターの弾き語りで”さくら””桜”を聞きました歌もギターも惚れ惚れする程素晴らしい響でした、剛とは尾崎豊のアイラブユーを歌いました、とても素敵でした”うまいうまい”と言って妻と拍手喝采しました。
  12月31日(金)午前中から雪です児玉先生に私の文章が載った本[訪問看護と介護]のコピーと[福を呼ぶお酒]を本が出た記念として届けました、美味しそうなお酒をありがとうございましたと喜ばれました。
  妻の弟夫婦が立派な花束とケーキを持って来て年末の挨拶に来てくれました。二人共仲のよい夫婦で会うと嬉しいです。いつもお世話になりありがとうございました
  [福を呼ぶお酒]を持って帰ってもらいました。お互い良い年を迎えましょう。
  明るい妻や子供達が傍にいてくれて幸せです。この一年ありがとうございました。
  
  2005年1月1日(土)元旦 酉年
  お神酒を金杯で乾杯して飲んだ後に、今年は良い年で有りますようにとお願いし、おせち料理を頂きました。今年は酉年で剛は年男です幸多き年と願います。
  1月10日(月)pm10時頃から手足が暑くなり手袋を脱がせてもらい、首が痛くなり枕を外してもらい、目がボーッとなって眼鏡を外してもらい、ベッドの頭の上下や腕のリハビリまでしてもらいましたが後頭部がボーッとなり耳がワンワン響いて頭の血管が切れるかと思いました。妻が入浴中にこのまま意識が無くなり入院したり、死亡したらと考え始めて妻や子供達に申し訳ないと思いました。涙が止まらなくなりました、風呂から出てきた妻が気付いて剛と一緒に頭顔首のマッサージをしてくれました。結果だいぶ良くなりました。原因はパソコンのし過ぎで疲れが出たのだと思いました。夜は眠れました。
  1月19日(水)国の難病情報センターのオペレーター松尾紀子さんが吉川先生と県の職員と3人で見えました、東京の神田に勤務していて難病情報センターのホームページを作成していると言われました。
  福井県は県の難病支援センターができたのは全国でも特に早く、設立当初は国の職員が勤務していたそうです、宮地先生や小林明子先生の御尽力は凄いと思いました。私も国、県の役に立てれば嬉しいです。患者に”元気でお過ごしください、あなたは必要なんです頑張って生き続けましょう”とエールを送ります。
  2月7日(月)福井大学教育学部助教授心理学の細田先生が県難病支援センターの吉川先生と見えました難病患者のネットワーク作りのための調査に廻っているそうです、先にMさん宅を訪問しましたが胃漏にしていますが元気でいましたと聞きました。大変嬉しいです。頑張りましょう。
  2月18日(金)妻が図書館に出掛けて訪問看護婦さんがリハビリをしている時に児玉先生の奥さんが部屋に入ってきて、元気でよかった、よかったねと言って伊予柑を10個も持ってきてくれました。昨晩家の前を通った際に真っ暗だったため入院でもしたのかと思って心配しましたと言われました。吸痰直後のため出ていた涙を拭いて腕を何度も摩ってよかった、よかったねと言って帰られました。いつも、お世話になります。本当に感謝です。
  2月28日(月)pm3時30分頃に小林義文先生から依頼があった国際協力事業団が招いたアジア、アフリカからの理学、作業療法士の海外研修生と通訳とALS協会のスタッフ南さんを含めて8人の訪問見学がありました。スリランカ、パキスタン、ウガンダの男姓、マレーシア、マラウィ、タンザニアの女姓の男女6人でした。私が”伝の心”を使用している時に見えました。重度身体障害者が指以外を使用してパソコンを利用している様子を見て驚いていました。メールやインターネットも使用していますと説明しました。[訪問看護と介護]の本に載った写真を”伝の心”で映し出して見てもらいました。私の病気ALSを妻が説明したら、皆さん聞いたことはありませんとメモを採っていました。タンザニアの女性(38才)は明るい人で、キリマンジャロが綺麗です案内しますから見に来て下さいと言いました。全員が写真の添付されたメールアドレスを置いていきました、忙しくなるのかな?
  東京より雪景色の福井の方が綺麗との誉め言葉も頂きました。皆さん素敵な人達で楽しい1.5時間を過ごせました、いい経験をさせて頂いてありがとうございました。話しをしていて姿形や色が違っていても人の心は同じだなと心から思いました。
  帰る前に篤のカメラで記念写真を撮ってもらったら、全員がポケットからデジカメを出してきて篤と直前に見えた理学療法士の宮本さんに渡して写真を撮ってもらいました。最後に全員と握手をして分かれました、皆さん温い手でした。
  少しでも訪問見学の役に立ちアジア、アフリカの自宅療法に役立てれば嬉しいです。
  3月4日(金)朝、妻が足羽山から帰って来て二階で着替えをしている時に階段の下から呼ばれる声がしたため驚いて降りたところ、児玉先生の奥さんが赤飯を3箱買って来てくれました、剛の卒業祝いと先日のお寿司のお礼ですと言って持って来てくれました。朝食に食べさせてもらいましたが、私は眠っていて何も知りませんでした。妻は新しい親ができたみたいだねと言いました、その通りです。
  3月6日(日)児玉先生の奥さんが[訪問看護と介護]の後編を戻しに来られて、二つ貰ったからと言って小浜の小鯛の笹漬けを持って来てくれました、毎日のように何かを届けてくれますが先日届けた寿司が迷惑にならないように願います。テレビで琵琶湖マラソンを見ていた時に、結婚した年に三重県湯ノ山温泉からの帰りに琵琶湖湖畔の喫茶店で一服したのを思い出しました。妻に言ったら勿論覚えていると答えました。
  3月7日(月)往診が有りましたが異常は無しでした。平野先生にタンザニアの女性(38才)は明るい人でキリマンジャロが綺麗ですから見に来て下さいと言われました、行くには医師の同行が必要ですと話したら”行きます”と言われました。
  高澤さんも世界に広がって行きますねと言われました。

  3月11日(金) 妻が図書館に予約して有った立命館大学大学院先端総合学術研究科の立岩真也先生の『ALS:不動の身体と息する機械』という本を借りて来ました。橋本操さん等の文書も参考に出ています、人工呼吸器を装着した人は最初の苦痛は少しずつ無くなって来て殆どの人が生きていてよかったと言う感想を書いています。近眼の人が眼鏡を掛けるのとALSの人が人工呼吸器を装着して生きようとするのも同じです、ただ廻りの介護が厳しいという差は有ります。
  私のリハビリに来てくれる理学療法士の鈴木君は、高澤さんを訪問する時は病人を相手に訪問する感覚は持っていません、口パク会話ながらどんどん会話が進むようになりました、県立大学での講演や日赤での”伝の心”のデモンストレーション更には[訪問看護と介護]という雑誌に「人工呼吸器と共に生きる」という題で私の文書が掲載されたり、話しをしていても教えられる事が沢山あります、とても病気の人と話しているとは思えませんと言っていました。
  3月15日(火)剛が夕食に戻って来た時に野坂の両親からの”じじ、ばば”と書かれた御祝儀袋を見せてくれました、中に入っていた手紙には[結婚25周年、銀婚式おめでとうございます二人の息子が立派に育って嬉しいです、金婚式まで頑張りましょう]と書かれていました。この年まで高澤家の面倒を見て頂き本当に感謝します、ありがとうございました。
  3月16日(水)朝、妻が散歩に行っている間に玄関に以前児玉先生の奥さんに頂いたのと同じ赤飯のパックが2個置いてありました。児玉先生からだろうと思いありがたく頂きました。赤飯は銀婚式の御祝として朝食にオジヤにしてもらって食べましたありがとうございました。
  朝、顔を会わせた妻に”おはよう、25年間もありがとう”と言ったら”とんでもない、こちらこそありがとうございました、これからも宜しくお願いします”と言う返事が返ってきました。
  野坂爺チャン、婆チャン、淳チャン、静枝さん(妻の弟夫婦)に御祝いありがとうございました。
  25年間お互いを信頼しながら生きて来ました、素敵な二人の息子にも恵まれ
  銀婚式を迎える事ができました、皆様に感謝します。嬉しいです。
  この度はお祝いまで頂いてありがとうございました。
  私はALSという難病に罹って皆様にご迷惑をおかけ致していますが
  恵子には”必ず元の身体に戻って幸せにする”と誓っています。
  子供達が大好きな爺チャン、婆チャン、淳チャン、静枝さんですいつも、お世話になります。
  これからもご指導をお願いします。
  この幸が皆様に広がりますように祈っています。
  高澤信一   とのお礼文を書きました。
  剛がケーキ、篤が花束をプレゼントしてくれて銀婚式を祝ってもらいました。
  二人のカメラで別々に写真を撮ってもらいました。
  3月20日(日)春のお彼岸の日です、昼に父の墓参りに行きました。妻や子供達は墓を綺麗に洗って花を飾ってお参りしました。私は車のシートを墓に向けてもらって手には数珠を持たせてもらいお参りしました。
  墓参りの前に清さん宅に寄って妻は仏壇にお参りして私は清さんの写真を見せてもらいました、とても爽やかな顔でした。
  ドライブは北潟湖に向かってもらいました。久し振りの景色が懐かしく感激しました。暫く湖を見ていると曇っていた空もだんだんと晴れて来ました。剛は吉崎御坊まで行こうと言って更に湖畔に沿って北進しました。道沿いに咲いていた梅の花が満開で真っ赤に染まって綺麗でした。次回は是非梅の花をバックにして写真を撮りたいと思いました。吉崎御坊は通り過ぎ石川県に入りました。暫く走った後に塩屋の浜に行き日本海を見て戻りました。帰りは空港道路を走り坂井町道の駅に立ち寄り、妻は夕食の買物をして剛はソフトクリームを買って来て篤と二人で食べさせてくれました。美味しかったです。福井大学を通過後よく行ったパン屋を思い出してパンを買って帰りました。呼吸器を積んで4時間の小旅行でした、高木裕美先生と小松長生さんのコンサート[ザ、ソナチネ]を三国まで行って楽しんで以来3ヶ月振りの外出でした。身体はどこも辛くなく快適で爽やかで楽しいドライブでした。墓参りを含めての楽しいドライブに連れて行ってくれた妻と息子達に感謝しますありがとうございました。
  3月21日(月)篤に昨日の礼を言い”楽しかったありがとう”と言ったら”僕も楽しかった、今度はお父さんに連れて行ってもらう”と言いました。解かった次は海外旅行にしようと言いました。篤には私の死など頭に有りません、新しい治療法も暫くで開発されると思うから是非連れて行って欲しいと言いました。僕はアメリカのグランドキャニオンやオーストラリアに行きたいが、お母さんを連れて先にスイスに行っておいでよと言いました。
  3月28日(月)2002年8月20日から使用していた人工呼吸器が新型に変わりました。途中で一度交換しましたが約2年7ヶ月経過しました。変化したのはバッテリーの充電時間が長くなって4時間〜4時間半使用可能になりました。停電になっても少し気が楽になりました。重量は500g程度軽くなりました。最近呼吸器が外れる事故が増えているために解かり易くするようにブザーの音が大きくなりました。取り替えると呼吸をする度にボーンボーンという音が喉や胸に響いて苦しく感じました。往診が同時に有ってカニューレを取り替えました平野先生に聴診器で呼吸音を確認してもらいましたが”元の呼吸器と同じで問題有りません、慣れれば大丈夫です”と言われました。
  3月29日(火)夜は眠剤を飲んでいるため眠れました、妻も吸痰は一度もなく水を二回採っただけと言っていました。昨日よりは大分慣れてきましたが夕方痰が溜まってくるとボーンボーンという音は大きくなってきました。すぐに慣れるでしょう。剛は福井大学全体のホームページを作成する担当者に選ばれて週8時間タッチするそうです。
  アルバイトにはなるそうですが大変ですね御苦労様です。専攻している情報メディア工学大学院の桜井教授に指名されたそうです。
  3月30日(水)光陽生協病院への出資金10万円を妻が納めてきました。いつも、お世話になりますが8月にはデイケアも完成予定でショートステイもできます。これからまた利用させてもらいます。
  4月1日(金)剛は大学院1年生、篤は大学4年生です。頑張りましょう。
  Kさんが一昨日の保険領収書とアベカワ餅を持って来てくれました。惨めな高澤君なら顔を見るのは辛かったので一昨日は顔を会わせる事ができなかったが[訪問看護と介護]のコピーを読んで頑張っているのが解かって嬉しかったと言って、今日は上がって下さいと言う前にベッドの横にきて”元気でよかったな”と話し掛けて来ました。顔を会わせたら相変わらずKさんは若々しく明るくて、元気がよかったです。ゴルフの話しました。ネンリンピックに6回もでて北海道や徳島にも行けて楽しかった、さらに経費がただなのが一番よかったと言っていました。私も病気が治ったら又一緒にゴルフに連れて行ってねと頼んだら”顔色が良いね頑張れよ、またいつでもゴルフに行こう”と言ってくれました。ゴルフまでは無理と考えていましたが希望を持って頑張れば叶うかもと思いを新たにしました。私は今もメンバーです。
  4月5日(火)訪問入浴が有りました窓から見えた空は青空で気持ちがよかった。
  3月初めから毎晩手足が冷たい日が続きホットパックを巻いて寝ています。
  最近右の瞼がピクピク震えます。疲れているのかなと思いました。さらに側臥位にしてもらうと目まいがするようになりました。自宅療法を始めた頃にも目まいがありましたが暫くで治りました。今回はどうなるか不安です。首から上に筋萎縮の進行が始まったのではと不安になります。
  4月9日(土)剛は午前中から花見茶屋にバイトに行きました。暖かい陽気と咲き始めた桜に誘われた花見客がたくさん来ていたそうです。
  NHKスペシャルで再生医療についての放送が有りました。中絶した赤ちゃんの幹細胞移植をして失った機能の再生に役立たせようという医療で今回は脊髄損傷の回復や神経難病、特にALSの治療が報じられました。再生治療は研究や治療に国の倫理の制限等がなく、一人っ子政策だったために中絶の多い中国が先端を切っています。研究の先端はアメリカですが倫理の問題で治療は中断しています。世界の国では政策として研究を推進していますが日本は研究の推進も倫理の問題も3年前から話し合っていますが全く進展しないため国からの研究費も出ないため遅れをとっています。重度神経難病患者としては寂しい気がします。ALSの治療を受けた西欧の男性は筋肉が回復しています、幹細胞を脳への移植手術が効果を現しています。私も中国に飛んで行きたいです、楽しみにしていますが現在中国とはトラブル続きが残念です。

  4月14日(木)57歳の誕生日を迎えられました。嬉しいです。
  児玉先生の奥さんが朝早くに誕生祝にお赤飯5人前を持って来てくれました。
  亡くなった私の両親の変りに間違いありません本当に感謝します。
  約束どおりに花見ドライブに連れて行ってもらいました。新型の呼吸器を載せて家族4人で足羽山の紫陽花坂からスタートしました。暖かい気温に青い空は絶好のドライブ日和でした。桜は満開で花のトンネルを通りました。木曜日の午後なのに沢山の花見客が溢れていました。足羽山からは遠くに真っ白な白山が見えました。安養寺のしだれ桜を見た後、剛の知り合いのケーキ屋さんで好みのケーキを選びました。次は:桜通り;を走り足羽川堤防沿いの見事な桜並木と長く連なる鯉のぼりを見ました、満足しました。美味しいケーキを食べてコーヒーを飲みました。
  素敵な誕生祝でした、ありがとうございました。 来年の誕生日にも楽しい日記を書きたい気持ちで一杯です。

  ○パソコンを使用した理由

  以前から文書、日記等は記載できましたが、”伝の心”の開発者の小澤さんに自宅でメール機能をセットしてもらいました、インターネットを接続してもらい、ニュース、病気、年金、アテネオリンピック等いろいろ検索もできるし、ALS協会との連絡や同じALS患者とメル友にもなれました。毎日”伝の心”を開いています、前向きに生きていきたいです。
  パソコン”伝の心”は、顎にセットしたセンサーで起動させています。

  1)医療や福祉関係の学生さんへのお願い
  私は、今、男女二人の若い理学療法士さんにリハビリをしてもらっています。彼女は私の口パクを良く読み取り、会話が弾み楽しいです。ALSを理解してヒトゲノム計画も理解してくれて嬉しいです。
  彼は一年目でしたがいろんな面で上達しました。私と一緒に撮った写真を光陽生協病院リハビリ科の新しいホームページに掲載しました。
  私は、呼吸器を載せることができる大型の車椅子を使用しています。ALSの患者は自分で車椅子を動かせません。また、家族だけでは、いつでも散歩はできません。家族と協力して、たまには散歩に連れ出して下さい。
  また、当たり前ですが患者さんごとの病名を良く理解し、適応したリハビリをして、患者さんが希望を持って生き続けられるような明るくて、元気がいい話ができる生徒さんになって下さい。
  2)年金や保険、福祉制度についての支援情報がほしい
  患者は生活費を心配します。自分が重度の障害を持った時に、障害年金について誰も教えてくれませんでした。私は友人に聞いたりインターネットで調べて、妻に請求を頼み支払って貰えるようにしました。
  老人や一人暮し、パソコンを使えない人のために、障害年金や介護保険、支援費等も、勉強して教えてもらえると大変喜ばれると思います。

  私は2004年6月の総会から日本ALS協会福井支部支部長を引き受けて、東京から来てもらった[ALS患者のひとりごと]の作者の佐々木公一さんともお会いしました。以前から佐々木さんの活動は”伝の心”インターネットを通じて読ませてもらっていました、感心するばかりでした。佐々木さんには遠く及びませんが難病、ALSの患者に:あなたは必要なんだ生き甲斐を持とう;と全国の人に伝えたいと思い、微力ながら立命館のOBとして頑張り過ぎず、未来を夢見ながら参加させて下さい。
  重度身体障害者のALS患者でも生きている事を見てもらいたい。希望を持って生き続けましょう。
  息子達が小さい時に家族で京都旅行へ行きました、金閣寺から竜安寺へ歩いて行く際に道路からグラウンド越しに以学館を懐かしく眺めた記憶が有ります、18年前の春で竜安寺の桜は満開でした。
  もう一度母校、立命館大学衣笠を自分の目で見てみたいです。

  高澤信一


UP:20050427 REV:0612(誤字訂正)
ALS=筋萎縮性側索硬化症  ◇日本ALS協会福井県支部  ◇Archive
TOP HOME (http://www.arsvi.com)