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2004年度
東京都立大学大学院社会科学研究科
社会福祉学専攻博士課程 学位論文
障害者の雇用問題:平等化に向けた理論と政策
遠山 真世
*PDFファイル版
http://www.arsvi.com/2000/0503tm.pdf">
謝辞
本稿は、既発表論文「障害者の就業問題と社会モデル:能力をめぐる試論」(『社会政策研究』4:163-182,2004年)を大幅に加筆・修正したものである。
本稿を執筆する過程で、多くの方々のお世話になった。上記の拙論に対して、立岩真也氏(立命館大学)、鶴田雅英氏(東京都大田福祉工場)、田島明子氏(立命館大学)から、大きな励ましや厳しいご批判をいただいた。本稿においてそれらにお応えしようと試みたつもりであるが、不足している部分については今後も検討を重ねていきたい。障害学研究会関東部会第19回研究会での報告「障害者雇用の国際比較:新たな政策の構想」(於:東京都障害者福祉会館,2001年)は、本稿の構想といえるものであるが、報告に対しては、長瀬修氏(現:東京大学)をはじめとする参加者の方々から多くのご意見をいただいた。構想を示して以降、かなりの時間が経過してしまったが、みなさんにご意見をいただいたからこそ、ひとつの論文として完成させることができた。第75回日本社会学会大会での報告「差異と排除の規範理論:障害者雇用の見地から」(於:大阪大学,2002年)に対しては、石川准氏(静岡県立大学)、杉野昭博氏(関西大学)をはじめとする多くの方々から有益なコメントをいただいた。そこで与えられた新たな論点や課題は、報告内容を発展させることに大いに役立ち、本稿へと結びついている。
社会政策研究ネットワーク研究会には、博士課程を通して参加させていただいている。そこでの学際的な研究報告や多様な視点からの議論は、研究を進めるうえでの大きな学問的刺激を与えてくれている。下平好博氏(明星大学)、武川正吾氏(東京大学)、平岡公一氏(お茶の水女子大学)、藤村正之氏(上智大学)、三重野卓氏(山梨大学)、鍾家新氏(明治大学)、山井理恵氏(明星大学)、上村泰裕氏(法政大学)ほか参加者の方々に深く感謝申し上げたい。
また、学内の先生方や元助手の方々、先輩・同輩・後輩のみなさんにも、たいへんお世話になった。本稿に関してはもちろんのこと、研究生活全般において多大なご指導とご支援をいただいた。個々のお名前はあげないが、これらの方々に心から感謝の意を表したい。
目次
1.本稿の問題意識と構成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
1.1 障害者雇用をめぐる状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
1.2 本稿の構成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
1.3 本稿の位置・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
1.4 用語の解説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
2.障害者雇用問題の研究動向・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
2.1 日本における先行研究の概観・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
2.2 欧米における先行研究の概観・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
2.3 障害学における先行研究の概観・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
3.論点の整理と課題の設定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
3.1 日本における議論の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
3.2 欧米における議論の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
3.3 障害学における議論の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
3.4 本稿での検討課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
4.障害者の労働能力と雇用問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
4.1 労働能力の定式化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
4.2 障害者−健常者間の労働能力の差・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
4.3 障害者が雇用される条件・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
4.4 障害者−健常者間の労働能力の差と就業格差・・・・・・・・・・・・・・・37
4.5 障害者の雇用問題とは何か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
5.能力主義モデルと反能力主義モデル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
5.1 能力主義モデルの理論構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
5.2 能力主義モデルの問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47
5.3 反能力主義モデルの理論構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
5.4 反能力主義モデルの問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51
5.5 2つの理論モデルの本質的相違と両立可能性・・・・・・・・・・・・・・・53
5.6 障害の社会モデルにおける理論的課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・54
5.7 新たな理論モデルの必要性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56
6.新たな理論モデルの検討・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58
6.1 従来の理論モデルに共通する視点と論理・・・・・・・・・・・・・・・・・58
6.2 「責任モデル」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・60
6.3 責任モデルにもとづく問題解決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
6.4 責任モデルの意義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・66
6.5 責任モデルの課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67
6.6 障害の社会モデルと責任モデル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69
7.責任モデルと障害者雇用政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・71
7.1 障害者雇用施策の概要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・71
7.2 3つの理論モデルと障害者雇用施策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74
7.3 各国における障害者雇用政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・75
7.4 責任モデルにもとづく障害者雇用政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・77
8.新たな「平等」を求めて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80
8.1 本稿の成果・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80
8.2 今後の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82
8.3 雇用機会の平等化に向けて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82
参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・84
1.本稿の問題意識と構成
1.1 障害者雇用をめぐる状況
アメリカで差別禁止法が制定されてから10年あまりが経過した。差別禁止法の登場は、日本における障害者の問題に関する政策のあり方をめぐる議論に大きなインパクトをもたらした。その結果、社会のさまざまな領域において障害者政策が発展し、近年では、日本でも差別禁止法の導入に向けた動きが本格化しつつある。
差別禁止法は、労働市場における障害者の雇用問題をめぐる議論に対してとくに重要な影響を与えた。それにより、障害者の雇用問題のとらえ方や政策の基盤を根底から揺るがす事態が引き起こされた、といっても過言ではない。日本における障害者雇用政策が障害の有無や種類、程度に応じた仕組みとなっているのに対して、差別禁止法は、障害の有無等への着目を廃して、労働能力の有無を重視した雇用を実現しようとするものである。こうした差別禁止法のインパクトに加えて、割当雇用制度を中心とした政策のもとで障害者の雇用状況が一向に改善されないという背景もあり、雇用問題の議論においても、日本の社会的背景や労働市場の仕組みに適した差別禁止法の具体的な検討が進みつつある。そこでは、割当雇用制度を廃止し、差別禁止法およびその理念である「機会平等」を中心とした政策への転換を求める意見がみられる一方で、労働能力にもとづく選抜や処遇を差別的であるととらえ政策転換に慎重な姿勢を示す論者も、依然として多くみられる。
一方、欧米における議論の動向をみると、差別禁止法制定以降、当初の期待に反して障害者の雇用がほとんど促進されていない実態が明らかとなり、その背景や原因を解明しようとする研究が数多く行われるようになっている。そこにおいては、労働市場の内外に障害者に対する「差別」が残っているためと考える論者が多い中、問題のとらえ方や「平等」についての見方に対して疑問を投げかける論者もみられる。つまり、差別禁止という手法や機会平等というあり方そのものの正当性が問われはじめているのである。
差別禁止法の制定を受けて、障害者の雇用問題をめぐる国内外の議論において、労働能力にもとづく雇用の実現か、労働能力によらないあらゆる障害者の雇用の実現か、という対立軸が出現したことになる。すなわち、差別禁止をつうじた「機会平等」とあらゆる障害者への雇用保障をつうじた「結果平等」との対立である。現在までの議論をみるかぎりでは、この対立は乗り越えられていない。それどころか、互いの見解の内容を比較・検討し、議論を進展させようとする動きもまだみられていない。とくに日本においては、こうした政策のあり方や「平等」に関する見方の違いは、アメリカと日本の社会的背景の違いからくるものとして理解される傾向にある。
しかしながら、こうした対立は、障害者の雇用問題をどのようにとらえるか、いかなる状態を正しいと考えるかという点での違いである。これは、労働市場での雇用における「問題」とは何か、雇用機会はどうあるべきかについての見方の対立であるといえる。すると、雇用問題をめぐる対立は、「障害」とは何か、それをとりまく社会はどうあるべきかといった、より根源的な問いをめぐる対立に結びつくものであると考えられる。このようにみると、従来の議論にみられる対立は、単なる見解の相違として片づけられてはならないものであることに気づく。障害者の雇用における「問題」とは何か、いかなる「平等」が実現されるべきかという点について、一定の「答え」を見出すことが可能であり、かつ必要であるといえるのではないだろうか。そのためには、従来の対立をこえて議論を展開することが求められる。
1.2 本稿の構成
以上のような問題意識にもとづき、本稿では、労働市場における雇用機会の平等のあり方を問い直すとともに、障害者にとっての真の平等を実現するための理論と政策を検討してみたい。
まず2章では、障害者の雇用問題に関する国内外の先行研究を概観し、そこで何が問題とされいかなる解決が求められてきたのかを整理する。そこでは、差別禁止法を何らかの形で評価し、今後の政策のあり方について検討しているものを中心にとりあげる。差別禁止法の登場によって、これまでの研究や政策の理論的基盤の再考が迫られることになった。そのため、差別禁止法をめぐる議論をみれば、問題のとらえ方や「平等」についての見方、問題解決や平等実現の手段に関する基本的な見解の相違を把握できると考えられる。これらの先行研究に加えて、障害問題の研究を大きく発展させ差別禁止法の成立にも影響を与えた「障害学」の分野で、障害者雇用についてどんな議論がなされてきたのかについても概観する。
先行研究の概観をつうじて3つの異なる立場が見出されるが、つづく3章では、それぞれの立場の主張を整理・比較し論点を抽出するとともに、それをふまえて本稿の課題を設定する。そこでは、3つの立場の主張がそれぞれに内在的・外在的な議論の余地を残すものであることが明らかとなる。障害者の雇用問題は障害者の労働能力に深くかかわるものであるにもかかわらず、いずれの立場においても労働能力の問題に根ざした議論がほとんど行われていない。このことは、障害者の雇用問題の内実がいまだ解明されていないことを意味している。
そこで4章では、まず、障害者の労働能力に影響を与える4つの要因に着目し、障害者の労働能力や健常者との労働能力の差を理論的に定式化する。そのうえで、労働能力の差や労働市場からの障害者の排除、障害者‐健常者間の就業格差(就業率などの差)がどのように関係しているのかを分析する。それをつうじて、障害者の雇用問題の内容や範囲が特定される。
5章においては、まず、先行研究にみられた3つの立場のうち対立的な2つをとりあげ、それぞれの理論的な構造を解明し「理論モデル」として確立させたうえで、4章の分析と関連づけて2つの理論モデルを批判的に検討する。そこでは、各モデルの理論的矛盾が指摘されるとともに、問題解決の範囲や対象となる障害者の範囲における問題点が示される。これにより、2つの理論モデルの本質的な違いや関係についても明らかとなる。5章では、障害学における議論の理論的支柱となっている「障害の社会モデル」についても検討する。ここでの分析をつうじて、従来の理論モデルがいずれも障害者の雇用問題の解決にとって不十分であることが示されることとなる。
それを受けて、6章では、問題を適切に把握し解決するための新たな理論モデルの検討を行う。ここでは、従来の理論モデルに共通する視点と論理を抽出し、それにもとづいて新たなモデルを構成する。その結果、従来の理論モデルの矛盾や対立を超克し、かつあらゆる障害者の「問題」を過不足なく解決しうるモデルが提示される。
つづく7章においては、新たな理論モデルにもとづいて、今後の障害者雇用政策を構想してみたい。そこでは、まず、各国で実施されている施策のうち主要な3つをとりあげ、従来の理論モデルおよび新たな理論モデルと関連づけて、それぞれの特徴を整理する。次に、新たな理論モデルにもとづいて、今後の政策のあり方を具体的に検討する。いずれの国であっても、ここで提示される政策のいずれかを実施し、障害者の雇用問題を解決することが求められる。
そして最後に、8章において本稿でえられた知見をまとめるとともに、あらゆる障害者にとっての真の「平等」に関する筆者の見解を示すことにする。
1.3 本稿の位置
本稿では、労働市場における雇用機会の平等化に焦点をあてるため、障害者に対する所得保障の問題については議論を行わない。労働市場における雇用は、人々が生活に必要な財を得るための手段として主要な位置を占めている。そのため、社会全体としていかなる分配システムを構想するかに関心をおくと、雇用をつうじた財の分配と所得保障をつうじた再分配をどのような関係に位置づけるか、2つの分配の枠組みの大きさをどのように設定するか、といった点について議論することが必要となる。いいかえれば、社会全体としての財の分配システムのあり方と関連づけて、雇用機会のあり方や雇用機会の拡大と所得保障とのバランスを検討することが求められることとなる。
しかし、本稿では、所得保障や社会的分配のあり方とは切り離して、雇用機会のあり方そのものについて議論する。なぜなら、労働市場における雇用は、財を得る手段としてだけではなく、社会参加の場や自己実現の場としても人々にとって主要なものであり、重要な意味をもつものだからである。つまり、労働市場において働くこと自体が目的としての側面を有しているのである。したがって、そうした場に参入する機会が一部の人々にとって閉じられたものであるならば、機会のあり方そのものについて議論する必要があり、そこに不当な問題が存在しているのなら、それは解決されなければならないといえる。そのため、本稿ではひとまず雇用機会の平等化について掘り下げて議論し、雇用機会のあり方と所得保障や社会的分配のシステムとを関連づけた検討は、本稿以降の課題として残しておくことにしたい。
1.4 用語の解説
本論に入る前に、本稿で使用する用語を解説しておく。なお、差別禁止法・割当雇用制度・保護雇用制度については、詳細な説明は省き、基本的な仕組みについてのみ述べることにする。
障害・障害者
「障害」や「障害者」の定義は、国によって、また法律や制度によって異なっている。医学的なレベルでの心身の機能の低下や欠損をさす場合から、社会的な環境との関連でとらえ、社会生活におけるあらゆる困難を意味する場合まで、「障害」の定義にはさまざまなものが存在する。世界保健機関が提唱した「機能障害」「能力障害」「社会的不利」という分類は広く知られるところとなっており、また、近年では、障害者に問題をもたらす環境や制度、人々の態度といった要因や社会の全体的な構造を「障害(ディスアビリティ)」とする見方も示されている。
こうした中、本稿では、とくに断らないかぎり「心身の機能の低下や欠損」という意味で「障害」という言葉を使用する。なぜなら、以降の分析で明らかになるように、障害者の雇用問題には労働能力が深くかかわっているのだが、労働能力を軸としてこの問題を考えるには、心身の機能の低下や欠損への着目を避けて通れないからである。したがって、本稿における「障害者」とは、心身の機能の低下や欠損をもつ者のことをさしている。なお、括弧つきで「障害」と記す場合には、医学的なレベルでの障害から社会生活上の困難までを含んでいる。
重度障害者
本稿では、「重度障害者」を主に「労働市場への参入がとくに困難な者」という意味で用いる。そこには、心身の機能に低下や欠損が生じている者のうち、労働市場での雇用にかんして大きな困難をかかえる者のみが含まれる。心身の機能に大きな低下や欠損が生じていても、障害に応じた職場環境の整備などによって十分な労働能力を発揮しうる者は含まれない。具体的には、重度の知的障害者や精神障害者、脳性まひなど一部の重度身体障害者がこれにあてはまりやすいと考えられる。
雇用
本稿における「雇用」とは、一般の労働市場において雇用契約を結び、最低賃金など被雇用者としての基本的権利が保障されている状態で働くことを意味している。そこには、一般企業における雇用や公務員としての雇用、後に述べる保護雇用制度のもとでの雇用が含まれる。これに対して、授産施設や小規模作業所など、障害者のために特別に設けられた場において労働関係法の適用を受けずに働く「福祉的就労」は、本稿での「雇用」に含まれない。
差別禁止法
差別禁止法は、公共サービスや交通機関、教育や雇用など、社会のあらゆる領域における「差別」を禁止する法律であるが、本稿では雇用に関する規定のみをとりあげる。雇用の領域に適用される差別禁止法において「差別」として定義されているのは、主に、障害者に利用可能な職場環境を整備しないこと、障害に配慮した採用試験を実施しないこと、および障害をもつことを理由として受験や雇用を拒否することである。これらの「差別」が禁止されることにより、障害者が適切な環境条件のもとで労働能力の評価を受けることができ、そこで労働能力があると判断された障害者は労働市場に参入することが可能となる。
割当雇用制度
割当雇用制度は、雇用主に対して、全従業員のうち一定比率以上の障害者を雇用するよう義務づける制度である。割当率に満たない場合、雇用主は、不足した人数に応じて納付金を支払わなければならない。逆にいえば、実際に障害者を雇用しなくても、人数分の納付金を支払うことによっても雇用義務を果たしたことになる。
保護雇用制度
保護雇用制度とは、一般企業での雇用が困難な障害者に対して、障害に配慮した特別な環境のもとでの雇用を提供する制度である。保護雇用を行う事業所やそこでの被雇用者は、政府による運営資金の助成や賃金補填を受けることができる。現在では、福祉的就労を保護雇用に含める論者もみられるが、本稿では労働市場における一般的な雇用に焦点をあてるため、福祉的就労は保護雇用に含めないこととする。日本における「福祉工場」は、労働関係法が適用されているため、保護雇用にあてはまるが、アメリカにおける「保護工場」は、労働関係法が適用されていないため、保護雇用にはあてはまらない。
雇用保障
本稿では、労働能力による競争をつうじた労働市場への参入が困難な障害者の雇用を促進するための手段全般を「雇用保障」として定義する。そこには、主に、政府が障害者のために雇用の場を提供する保護雇用と、企業に対する義務づけによりそうした障害者の雇用の促進を図る割当雇用が含まれる。労働能力にもとづく競争を実現しようとする「差別禁止」との対比で、「雇用保障」という概念を用いる。
機会平等/結果平等
一般的に、「機会平等」は、社会的・経済的活動に参加する機会に性別や人種、出身家庭などによる格差が生じていない状態、という意味で用いられる場合が多い1)。ここには、だれもが労働市場において雇用されることが含まれていると考えられる。一方「結果平等」は、社会的・経済的活動をつうじて得た財や地位に性別等による格差が生じていない状態、という意味で用いられることが多い。
これに対して、障害者雇用に関する議論においては、概して、「機会平等」は労働能力の適正評価にもとづく選抜のことを指している。ここには、障害者が実際に雇用されることは必ずしも含まれていない。一方「結果平等」は、あらゆる障害者が労働能力の有無にかかわらず雇用されることを指しており、雇用の結果としての財の平等を含んでいない。
このような意味内容の相違は、雇用を財を得るための「手段」ととらえるか、雇用されること自体を「目的」ととらえるかの違いによると考えられる。すなわち、一般的な定義においては、雇用は財を得るための手段とみなされているのに対して、障害者雇用の議論においては、雇用は目的として位置づけられているのである。本稿では、財の獲得とは別に雇用機会のあり方を検討したいため、とくに断りがないかぎり、障害者雇用の議論と同様の意味で機会平等と結果平等を用いることにする。
注
1) たとえば平岡公一は、機会平等を「特定の社会的活動に携わる機会、特に職業に
就く機会や教育を受ける機会に、人種・民族、性別、出身家庭などの属性によって
格差が生じない状態」、結果平等を「教育や職業等の社会的活動を通じて得られる社
会的地位や所得、資産等の社会的資源の量に格差がない状態」と定義している(平
岡 1999: 36)。
2.障害者雇用問題の研究動向
2.1 日本における先行研究の概観
アメリカで差別禁止法が制定されて以降、日本においてもその内容が紹介されるとともに、日本での導入を視野に入れた意義や問題点の分析が行われてきた。制定当初は差別禁止法に対して批判的な態度を示す論者が多かったものの、近年では、日本の社会背景に適した差別禁止法にかんする議論が進められ、具体的な試案が提示されるにいたっている。
花田春兆(1991)は、差別禁止法の対象が労働能力をもつ障害者に限定されている点を問題視し、能力主義・効率主義であるとして厳しく批判した。差別禁止法のもとでは労働能力の低い障害者、とりわけ重度の障害をもつ人々の問題が解決されない点を危惧しての批判である。調一興(1991)はアメリカとヨーロッパの政策を比較したうえで、差別禁止法は日本にとって影響をもたらさないとの見通しを示している。労働能力の低い障害者にも雇用を保障しようとするヨーロッパの政策の方が日本には適合的であり、重度障害者の労働権の保障の観点からみると差別禁止法では不十分であるという。また、八代英太(1991)は日米間での雇用に対する考え方の違いを指摘し、日本における障害者の雇用促進に対する差別禁止法の有効性を疑問視している。アメリカにおいては労働能力の有無が重視されるのに対して、日本では労働能力の有無によらず雇用を保障することが目標となっているためである。これらの批判は必ずしも同一の視点からなされたものではないが、差別禁止法を否定的にとらえ、障害者に対する雇用保障を求めている点では一致しているといえる。
関川芳孝(1991,1999)や定藤丈弘(1991, 1993a, 1993b, 1994, 1996)は、差別禁止法やその理念としての「機会平等」の考え方を積極的に評価する一方で、一定の限界を有するものとして批判してもいる。そこでは、差別禁止法や機会平等理念は、労働能力をもつ障害者の雇用を実現するものとして高く評価されている。関川は、健常者を前提とした社会の環境や価値観を改善し、障害者の能力を尊重しようとするものとして差別禁止法をとらえている。定藤は、主要な領域への障害者の参加を促進しうるとして、機会平等理念に期待をよせている。その一方で、対象が労働能力をもつ障害者に限られている点では、批判的にとらえられている。関川は、あらゆる障害者の雇用を実現する施策としては不十分であると指摘し、差別禁止法の対象とならない障害者に対しても雇用を保障することが必要であると主張する。定藤は、自由競争の結果としての雇用や所得における不平等が改善されない点を問題とし、雇用保障や所得保障をつうじてあらゆる人々の「実質的な平等」を実現するよう求めている。彼らの議論においては、差別禁止法と雇用保障をつうじて「機会平等」と「結果平等」を同時に実現することが目標とされている。
近年では、日本での差別禁止法の導入に向けた議論が高まりをみせている。そこでは、割当雇用制度の廃止を視野に入れ、機会平等・差別禁止を中心とした政策への転換が求められている。桑木しのぶ(2002a, b)は、日本の割当雇用制度のもとでは障害の有無による区分が行われ、障害者が対等な労働者として扱われない点を問題視する。そのうえで、障害者にとって不備な環境や人々の態度こそ改善されるべきであり、適切な環境条件が整備されれば障害者も健常者と同様に働くことができると主張する。金政玉(金・鎌田 2002)は、割当雇用制度が実際に雇用を促進する仕組みとなっていない点を指摘したうえで、差別禁止法をつうじて環境や偏見を改善することを求めている。杉野昭博(1998, 2001, 2002a, b)は、近年の国際的動向をふまえて、今後の日本の政策においても差別禁止法が中心となるという見通しを示している。国際化や個人化の流れの中では、割当雇用のような集団単位での障害者の保護は困難になり、個人単位で権利を保障する機会平等・差別禁止が重要性を増すというのである。ただし、差別禁止法の制定を推進しようとする議論には、一定期間は割当雇用制度を残すという意見や、福祉的就労を正規雇用として位置づけるという意見もみられる(障害者差別禁止法作業チーム 2002a, b)。
日本の先行研究においては、さまざまな視点から差別禁止法が評価され今後の政策が考案されているが、大別すれば3つの立場に分けることができる。機会平等・差別禁止法を中心とした政策への転換を図ろうとする立場、差別禁止法の効果を疑問視しあらゆる障害者への雇用保障を求める立場、差別禁止と雇用保障の併用をつうじて機会平等と結果平等を同時に実現しようとする立場である。これまでのところ、これら3つの立場の議論は別々に提示されるにとどまり、立場の違いをこえて議論を展開しようとする研究はまだみられていない。
2.2 欧米における先行研究の概観
次に、欧米における研究動向をみてみよう。アメリカで差別禁止法が制定された当時は、「障害者」や「差別」の定義のあいまいさや法解釈の困難さ、運用上の問題点を指摘するものが多かった。しかし、近年では、障害者の就業率や健常者との就業格差が一向に改善されないことを受けて、差別禁止法の構造や有効性じたいを見直そうとする研究もみられるようになった。
P. S. Miller(2000)やT. デゲナーとG. クィン(2002)は、差別禁止法こそが、障害者の完全参加を実現し平等な社会を達成する手段として有効なものであるという見方を示している。ミラーは、障害者の高い失業率の背景に環境の不備や雇用主の偏見などの差別が存在していると指摘し、それらの差別が撤廃され適切な環境条件が整備されれば、障害者の労働能力が示され雇用が実現すると考えている。デゲナーは、社会的な環境や制度、価値観などを問題とし障害への配慮を求める「機会均等モデル」こそが、市場経済に適合的であり国際的に通用する唯一のものであると高く評価している。
その一方で、現行の差別禁止法では障害者に対する差別を完全には払拭できないと指摘する論者もいる。M. A. Stain(2000)は、障害者の労働市場への参入を阻む要因として、差別についての雇用主の理解が不十分であることや、職場環境の整備が多大なコストにならない範囲でしか義務づけられていないこと、健常であることを重視する価値観などを問題にしている。W. Wilkinson and L. Frieden(2002)は、労働市場における差別が労働能力による競争を妨げる点だけでなく、社会に蓄積され浸透した不平等な構造が障害者の労働能力に影響をおよぼすことも指摘している。M. L. Baldwin(1997)は、障害の種類によって偏見の大きさが異なっていることや、環境整備の必要性や障害者の労働能力にかんする情報が不足していることにより、知的障害者など一部の人々がとくに労働市場から排除されやすいと分析する。これらの論者たちは、こうした労働市場の内外における根強い差別を撤廃し、あらゆる障害者に対する柔軟な配慮を実施するよう求めている。それによって、労働能力にもとづく「真の競争」が実現し、障害者の完全参加が達成されるという。
これに対して、労働市場の内外における差別禁止を徹底しつつ、とくに不利な障害者の雇用を実現するための政策が必要であるとする論者もみられる。T. L. Scheid(2000)は精神障害者の問題をとりあげ、労働能力や雇用コスト、安全性の面でとりわけ根強い偏見にさらされていると指摘する。L. A. Boucher and T. Walz(2000)は、知的障害者が所得や教育の不平等、労働経験の不足、特別な配慮の必要性などが原因でとくに不利な状況にあるとしている。こうした問題に対して、これらの論者たちは、差別禁止を徹底し柔軟な配慮を実現することを求めるとともに、十分な競争力をもたない障害者に対して非競争的な雇用の場を提供することを主張している。
その一方で、機会平等や差別禁止法に替えて新たな考え方が必要であるとする論者もいる。R. K. Scotch and K. Schriner(1997)は、差別を撤廃すれば障害者の完全参加が達成されるという見方を真っ向から否定している。それによれば、教育や資源の不平等が障害者の労働能力の低さや意欲の低下を生じさせ、その結果として労働市場における不利や雇用機会の不平等がもたらされるという。そして、こうした問題を解決するためには、問題のとらえ方自体を根本的に転換することが必要であるとする。そこでは、身体的・精神的な差異など人々のもつさまざまな差異によって引き起こされる問題を、社会の側の対応力の不足としてとらえることが主張されている。労働市場からの障害者の排除もそうした問題の中に位置づけられており、障害に応じた配慮とともにすべての障害者の雇用を実現することが求められている。R. K. Scotch and K. Schriner(1997)は、こうした問題のとらえ方や政策によってはじめて障害者の完全参加が実現するという見方を示している。C. Baylies(2002)も、障害者が直面するさまざまな問題を社会のあり方の問題として位置づけることを提案する。そこでは、身体的・精神的な差異や能力の違いから生じるあらゆる問題の社会的解決が求められている。
欧米における先行研究からも、日本の場合と同様に3つの立場が見出される。差別禁止を支持しその徹底を求める立場、差別禁止とともに雇用の保障が必要であるとする立場、機会平等・差別禁止に替えて新たな見方や政策への転換を図ろうとする立場である。日本における議論と比べて、差別禁止によって問題が解決するという見方と解決しないという見方の対立が明白である。また、労働市場の内外における不平等や差別を問題としながらも、立場によって異なる解決策が提示されている点が特徴的である。
2.3 障害学における先行研究の概観
障害者の問題を考えるうえで、イギリスを中心とした「障害学」の発展を忘れることはできない。とくに「障害の社会モデル」は障害研究におけるパラダイム転換をもたらすとともに、問題の解決に大きく貢献してきた。ここでは、社会モデルの基本的な枠組を概説したうえで、障害者の雇用に関連する議論をとりあげて整理する1)。
障害の社会モデルとは、障害者が直面する問題を健常者中心の社会がつくり出した問題として把握しようとする理論枠組である。そこでは、「障害」は、身体的・精神的な機能の欠損としての「インペアメント」と、社会の側にある要因やそれによる問題としての「ディスアビリティ」とに区分される。ディスアビリティには、社会的な環境や制度、人々の偏見や態度といった個々の要因から社会の全体的な構造や価値観など、さまざまなものが含まれる。そして、それらが障害者の不利や排除、制限、抑圧といった問題を引き起こすとして、社会的な対応によってそれらを除去・修正することが求められることとなる。こうした社会モデルの見方は、障害者運動や障害者政策の理論的支柱となり、差別禁止法の制定にも大きな影響を与えた。
障害者と労働市場の関係について論じたものとしては、V. FinkelsteinやM. Oliverによる研究がある。V. Finkelstein(1980)は、近代産業社会の発展を3段階に区分し、障害者の社会における位置づけを分析した。それによれば、農業が中心の社会においては、障害者は労働の場において何らかの役割を担うことができたが、産業化社会においては機械化された工場における労働が中心となったため、それに適応できない障害者は労働市場から排除されることになったという。これに対して、ポスト産業化社会においては、科学技術の進歩や人的支援の発展によって、障害者が再び労働市場へと参入できるようになると予見されている。M. Oliver(1990)は、こうした研究成果による示唆を受けて、障害者の労働市場からの排除に対するイデオロギーの影響を重視した議論を展開した。その分析によれば、資本主義の出現・発展によって「生産の様式」が変化するにつれて、それに適応できない障害者が労働市場から排除されることとなったという。M. Oliverにおいては、インペアメントの有無を基準として働ける者と働けない者が区分されることが最大の問題とされ、そこに医療主義イデオロギーの関与が見出される。医学的な診断が労働市場からの障害者の排除を正当化する根拠となり、さらには社会全体を区分・統制する基準となったというのである。
労働市場における雇用に関する研究では、障害者と健常者との就業格差のデータにもとづいて、障害者に対する構造的な「差別」の存在が指摘されている。そこでは、障害を考慮しない職場環境や就業形態、能力評価の仕方、「労働能力がない」という偏見、経済効率への価値づけといったディスアビリティが問題とされ、それが就業格差をつくり出すと考えられている。そして、労働市場や個別の企業の側にあるディスアビリティを問題とせず、リハビリなどにより障害者の労働能力を高めることに終始する政策が、差別を助長しているとして批判される。ここでは、環境条件の整備や障害への配慮を徹底しこれらのディスアビリティを取り除くことにより、障害者の完全参加が実現され機会平等が達成されるという見方が示されている(Oliver and Sapey 1999; Barns et al. 1999)。
近年では、科学技術の進歩・情報化・グローバル化といった国際的な動向や、それにともなうバリアフリー化や労働形態の多様化が障害者の雇用に与える影響に対する関心が高まっている。そこでは、そうした変化によって多くの障害者が労働市場に参入できるようになる一方で、知的障害者など一部の障害者はそこから取り残されたままになると分析されている(Finkelstein 1993; Barnes et al. 1999; Abberley 1996, 2002)。どれだけ社会的な環境条件が整備され障害への柔軟な配慮が実施されても、そこで十分な労働能力を示しえない一部の障害者が排除され続けるというのである。さらには、労働市場に参入できる者とできない者という区分が障害者−健常者間のみならず障害者内部でも発生し、それがいっそう明確なものになると見通す論者もみられる(Finkelstein 1993; Holden and Beresford 2002)。そして、こうした事態に対する解決策として、割当雇用などをつうじて多くの障害者の雇用を実現することや、労働をつうじた分配とは別に所得を再分配するシステムを整備することが求められている(Abberley 1998, 2002; Rioux 2002)。
また、障害者と健常者の就業格差の根源は資本主義労働市場にあると考える論者もみられる。M. Russell(2002)は、利益の最大化と経済効率を追求するシステムにおいては、雇用コストを要する障害者は最も不利な状況におかれていると分析する。差別禁止法はそうしたシステムに沿って機能するものであり、障害者の構造的な不利を改善しないという。そして、社会環境や人々の偏見を正すだけでは不十分であり、資本主義労働市場や差別禁止法の構造そのものを根本的に問い直す必要があると主張している。
障害の社会モデルの関心は、雇用場面におけるミクロな要因から労働市場の仕組みなどマクロな社会構造にまで及んでいる。そこでは、社会的な構造・環境・制度・態度・価値などさまざまなディスアビリティが障害者の不利な状況をつくり出し、その結果、労働市場から障害者が排除されるとともに健常者との就業格差が発生すると考えられている。また、社会がいかに改善されてもそうした不利・排除・格差は解消されないことが予測され、それに対しても社会的な解決が求められている。
日本においては、立岩真也が障害学の立場から労働市場と財の分配のあり方を検討している2)。立岩は、労働市場での生産量に応じて財が分配されるシステムについて、正当性はないが不可避かつ有効であるとする。これに対して、そうしたシステムのもとで労働能力の低い障害者が財を受け取れない事態については、本人に非はなく不当であるとしている。そして、そうした人々の生活を保障するための再分配システムを、労働に応じた分配システムとは別に整備することを主張する。そのうえで、労働に応じた分配システムを、再分配に必要な資源を確保するための手段として位置づける、というあり方を提案する(立岩 1994, 1996, 1997: 323-372)。
その一方で立岩は、労働能力による選抜は、適切な人材配置を実現し多くの障害者の労働市場への参入を可能にするものであり、強制されねばならないという(立岩 1994, 1996, 1997: 370)。しかし、そうした選抜の結果として労働能力の低い人々が排除されることを積極的に肯定しているわけではない。労働市場への参加を希望する人々に機会を開くべきであるとし、障害者の雇用政策の必要性を指摘している(立岩 1994, 1997: 359)。また、労働の場へ参加することの意義や、再分配に加えて収入を得られること、労働をより多くの人で担うほうがよいことなどからも、政策による介入が正当化されるとしている(立岩 2002a, b, 2003a)。
立岩は、障害者雇用政策の具体的な内容にも言及している。差別禁止法については、問題全体を解決するものではないとしながらも、労働能力による選抜を実現するための有効な方法であると評価する(立岩 1994, 1997: 370, 2002a)。そして、今後の政策として、差別禁止法を実施するとともに、就業率をみて割当雇用制度を実施することを提案している(立岩 2001a)。
以上、障害者の雇用問題に関連する国内外の先行研究、および障害学における先行研究を概観した。差別禁止法や今後の政策をめぐる議論は、差別禁止法を推進・徹底し機会平等を実現しようとする立場、機会平等や差別禁止法ではなく雇用保障をつうじてあらゆる人々の雇用(すなわち結果平等)を求める立場、差別禁止の実施とともに雇用保障を行い機会平等と結果平等を同時に実現しようとする立場に大別することができる。しかし、これらの先行研究の関心は、重度障害者の問題や労働能力をもつ者が対等に扱われない問題、全体的な雇用の促進、日本社会における差別禁止法の適合性、労働市場内外の差別など、実に多様である。また、障害学の領域における先行研究でも、労働市場での選抜の場面に存在する個々の要因から、より全体的な社会構造や労働市場の仕組み、人々の価値観など、さまざまなレベルでの「ディスアビリティ」がとりあげられている。
次章では、本稿で検討すべき課題を明確化するため、まず、それぞれの立場の主張の内容を整理し、各立場が何を問題としているのか、いかなる状態をめざしているのか、どのような問題解決をめざしているのかを明らかにする。そのうえで、他の主張と照らし合わせつつ、それぞれの主張についての疑問点や議論の余地を指摘するとともに、それをふまえて本稿の課題を設定する。
注
1) 障害の社会モデルの理論枠組については、M. Oliver(1996)やC. Barnes et al.
(1999=2004)を参照されたい。
2) 実際の立岩の議論は、より多くの論点を含む幅広いものであり、また複雑に入り
組んでもいる。ここでは、筆者の関心に直接沿う部分を取り上げ、筆者なりに解釈
したうえで整理した。
3.論点の整理と課題の設定
3.1 日本における議論の課題
日本における先行研究を概観したところ、差別禁止法への評価や今後の政策に対する見方において異なる3つの立場が見出された。
第一に、差別禁止法に期待をよせ、それを中心とした政策への転換を図ろうとする立場である。この立場が求める政策によって実現するのは、障害者の労働能力が正しく評価されること、およびそれにもとづいて選抜が行われることであり、その結果、労働能力を有する障害者が雇用されることとなる。ここでは、障害に配慮した環境条件が整備されれば、障害者も働く場をことができ、健常者と対等に扱われることになると考えられている。
しかし、他の立場の議論をふまえると、機会平等・差別禁止によってあらゆる障害者の問題が解決されるのか、という疑問が生じる。労働能力の適切な評価にもとづく選抜が行われたとしても、労働能力が相対的に低い人々は労働市場から排除される。その中には障害者も含まれうる。他の立場の論者たちは、差別禁止法のもとで重度障害者が排除されることを懸念しているが、この立場においては労働能力の低い障害者の問題についての言及はなされていない。差別禁止をつうじてそうした障害者の雇用も実現するのか、あるいはそうした障害者の排除は解決する必要のない問題なのか。こうした点が明らかにされなければ、ここで主張される政策が問題解決にとって十分かどうかを判断することは困難といえる。
また、差別禁止によって障害者の雇用がどの程度促進されるのか、という点でも疑問が残る。差別禁止法を支持する論者たちは、それによって障害者の雇用が拡大することを期待している。しかし、実際の効果については、差別禁止のもとで十分な労働能力を発揮しうる障害者がどのぐらい存在しているかによる。場合によっては、割当雇用制度のもとでの雇用状況よりも悪化するおそれもある。この政策のもとで障害者の雇用が促進されうることを示したうえで、政策の転換について検討する必要があるといえるだろう。
第二に、雇用保障によって結果平等を実現しようとする立場である。この立場は、差別禁止法のもとでは重度障害者の問題が解決されない点を批判し、労働能力の低い障害者に対しても雇用を保障するよう求めている。ここでは、労働能力にもとづく選抜が否定され、労働能力の有無にかかわらずあらゆる障害者が雇用されることが目標とされている。
しかし、健常者の失業が深刻化している現状をかんがみると、障害者に対する雇用保障がどこまで正当化されうるのかという疑問が生じる。この立場においては権利としての雇用が前提となっているが、それを前提としえない状況になりつつあるのである。完全雇用の実施が困難な現状を前提として、どの範囲まで障害者に雇用を保障することが可能なのかが検討される必要がある。ここでは障害者が雇用されないこと自体が問題とされているが、健常者の失業をふまえて、どこまでが「問題」といえるのかを問い直す必要があると考えられる。関川(1991, 1999)は、「社会的に許容しがたい格差」が残っている場合には雇用保障を行うべきであると主張しているが、その具体的な程度については言及していない。障害者と健常者との間に格差があってはならないのか、それともある程度の格差なら許されるのか。また、なぜそのようにいえるのか。これらの点を明らかにしたうえで雇用保障を求めることが必要といえる。
第三に、差別禁止および雇用保障をつうじて機会平等と結果平等を同時に実現しようとする立場である。これは、機会平等・差別禁止の利点を活用しつつその限界を補うことにより、全体としてあらゆる障害者の雇用を実現しようとするものである。ここで提示される政策は、労働能力をもつ障害者の問題を差別禁止法で解決し、労働能力の低い障害者に対しては雇用保障を行う、という重層的な仕組みになっている。
しかし、機会平等・差別禁止は労働能力にもとづく選抜を求めるものであり、結果平等・雇用保障は労働能力の有無を問わない雇用を求めるものである。これら2つの平等や施策を同時に実現しようとするとき、そこには、労働能力にもとづく選抜を肯定する方向とそれを否定する方向とがともに含まれることとなる。このようにみると、機会平等・差別禁止と結果平等・雇用保障はそう単純に両立しうるものでないように思われる。関川(1991, 1999)は結果平等と機会平等とが対立する可能性を指摘し、労働市場においては差別禁止を実施しつつ社会福祉の領域において雇用保障を行うべきであるという考えを示している。それにしても、障害者の雇用を実現するための政策において対立的な2つの枠組を併設しようとしていることに変わりはないといえるだろう。この立場の主張を正当化するためには、2つの平等や施策が理論的に対立しないことが示される必要がある。
日本においては、これまでのところ、以上の3つの主張が個別に示されるにとどまっており、これらを比較・検討し、立場のちがいをこえて議論を展開しようとする研究はみられていない。3つの主張の中に対立的なものがあるだけではなく、それぞれの主張をとってみても理論的に不十分な点が多いように思われる。また、他の立場の主張や経済的な動向をふまえると、それぞれに議論の余地が残されていることがわかる。こうした研究状況では、障害者の雇用問題の解決を社会に対して訴えかけていくことさえままならないといえるだろう。まずは、それぞれの主張を理論的に精緻化するとともに、重度障害者や健常者も視野に入れて「問題」とは何か、いかなる「平等」をめざすべきかを再考することが必要である。そのうえで、「問題」の解決や「平等」の実現に向けていかなる主張を展開していくのかについて議論することが求められる。
3.2 欧米における議論の課題
欧米の先行研究からも3つの立場を見出すことができた。
第一に、差別禁止法に信頼をおき、その継続・徹底を求める立場である。ここでは、障害者の雇用状況が改善されないことや健常者との格差が縮まらないのは、労働市場の内外において差別が残っているためであると考えられている。労働市場の外では、教育機会や資源の不平等が障害者の労働能力の低下をもたらし、労働市場での選抜においても、職場環境の不備や雇用主の偏見が根強く残っており、障害者の雇用の妨げとなっている点が指摘される。
ここでも、日本での議論と同様に、差別禁止の徹底によってあらゆる障害者の問題が解決するのかという点で疑問が生じる。この立場の論者たちは、それによって障害者の完全参加と平等が実現すると考えている。確かに、労働市場の内外にある差別が完全に撤廃されれば、障害者も健常者と同様に教育等の機会をことができ、労働市場において労働能力を正しく評価されることとなる。しかし、適切な環境条件のもとでも十分な労働能力を習得・発揮できない障害者の不利が、それで解消したといえるのだろうか。あらゆる障害者の問題を解決しうることが示されないかぎり、この政策が十分なものであるとはいえないだろう。他の論者が指摘するように重度障害者の問題が残されるなら、なぜその解決が不要であるのかを明らかにする必要がある。
さらに、多くの論者が障害者と健常者との就業格差を問題としているが、差別禁止の徹底をつうじてそれが解消されるのかは定かでないといえる。Baldwin(1997)は、障害者−健常者間の就業格差に、労働能力の差によって説明できる部分と、それによって説明できない部分(ここでは「差別」と定義される)があることを実証している。この分析結果は、差別が撤廃されても障害者と健常者の間には労働能力の差が残り、その結果として就業格差も残る可能性を示しているといえる。労働能力の適正評価にもとづく選抜によって格差は解消するのか。格差が残るならそこに不当な部分はないのか。そもそも、なぜ就業格差が解消されるべきなのか。この立場においては、これらの点についてほとんど議論されていない。
第二に、機会平等・差別禁止を批判的にとらえ、問題の見方や政策の根本的な転換を求める立場である。ここでも、社会における構造的な差別が障害者の労働能力の低下や労働市場における不利をもたらす点が問題とされている。しかし、差別禁止をつうじて機会平等が実現されるだけではそうした差別は解決されず、障害者の完全参加や真の平等は達成されないという。そこで、身体的・精神的な違いや能力の違いを含めて、人々のさまざまな差異にともなう問題を社会の対応力の不足によるものとしてとらえ直すことが主張される。あらゆる問題を社会のあり方の問題として位置づけ、その社会的な解決を正当化しようとしているのである。そこでは、労働能力の低さを理由とした労働市場からの排除も社会の側の問題とみなされ、すべての人々に対する雇用の保障が求められることとなる。
しかしながら、労働能力の低い者の排除が全面的に社会の失敗によるものといえるのか、いかなる場合にも雇用保障は正当化されうるのか、という点では疑問が残るところである。これは、労働能力の低さがすべて社会的な差別によってもたらされたものといえるのか、という問いでもある。労働能力の低さが差別以外の要因による部分を含むなら、労働能力の低い者の排除がすべて社会的な問題であるとはいえないかもしれない。そうであれば、その社会的解決すなわち雇用保障を全面的に正当化することはできない可能性がある。労働能力の低さやそれを理由とした排除がいかにして生じるのかが解明されないかぎり、この立場の主張が正当なものかどうか、またはどこまで正当化されるのかを判断することは困難であるといえる。
第三に、労働市場の内外での差別禁止を徹底するとともに、労働能力の低い障害者に対して雇用を保障するよう求める立場である。この立場においても、重度障害者が根強い差別に直面しており、それによって労働能力の低下や不利がもたらされることが問題となっている。ただしここでは、差別を撤廃し障害への柔軟な配慮を実施することとともに、十分な競争力をもたない障害者についても雇用を実現することが主張されている。労働能力にもとづく競争が行われる枠組と同時に、そこで雇用されにくい障害者のために非競争的な枠組を用意することが必要だというのである。
この立場の提示する政策のもとでは、労働能力にもとづく選抜を肯定する枠組とそれを否定し労働能力によらない雇用を行う枠組が併設されることになる。するとやはり、これら2つの枠組は単純に両立可能なのか、こうした政策は理論的に正当化されうるのかという疑問が生じる。2つの枠組が対立するのであれば、差別禁止と雇用保障を同時に実施することは困難である。これらの枠組や施策がいかなる理論基盤のもとに両立しうるのかが示される必要があるといえる。
また、この立場においては、他の立場と同じく労働市場の内外における差別が問題とされ、労働能力の低い障害者に対する雇用保障が求められている。しかし、あらゆる障害者の排除がそうした差別によるものなのか、どこまでの排除が差別によるものかについては論じられていない。ここでは、差別禁止と雇用保障をつうじてあらゆる障害者の雇用が実現することがめざされているが、障害者の労働能力の低さや排除が差別以外の要因によるのであれば、雇用保障が正当化される範囲は限定されることとなる。社会的な差別が障害者の労働能力や排除にどう関係しているかによって、この立場の主張が理論的に正当化されない部分が出てくる可能性がある。
以上の検討から、欧米の議論にみられる3つの立場は、いずれも労働市場の内外における差別を問題としながら、その解決策については大きく異なる見方をしていることが明らかとなった。そこには、労働能力にもとづく競争を徹底しようとする考えと、それを廃棄しようとする考えとの明らかな対立が存在している。また、それぞれの主張には理論的に危うい部分が含まれていることもうかがわれた。とりわけ、差別禁止によってあらゆる障害者の問題が解決されるのか、また、どこまでの範囲で雇用保障が正当化されるのかについて、さらなる議論が求められる。
こうした研究状況は、全体として問題の把握・目標の設定・解決手段の選択についての統一的な見解が存在していないことに加えて、それぞれの主張においてもそれらが理論的に対応していないことを露呈するものであるといえるだろう。そして、こうした事態は、障害者の労働能力の低下がいかにしてもたらされるのか、労働市場における不利がどのように生じるのか、それらの問題が障害者と健常者との就業格差にどう結びつくのか、といった点が解明されていないために起こっていると考えられる。それぞれの主張の理論的な正当性を確認するためには、また、主張の対立をこえて議論を方向づけるためには、障害者の労働能力に着目して雇用問題の内実を明らかにすることが不可欠かつ不可避であるといえよう。
3.3 障害学における議論の課題
最後に、障害学における議論について検討しよう。障害の社会モデルでは、障害者が直面するさまざまな問題は、健常者中心の社会によってつくり出されたもの、社会の側にあるディスアビリティがもたらしたものと認識される。障害者の労働市場からの排除についても、健常者を基準としてつくられた全体的な仕組みや具体的な職場環境・労働能力の評価の仕方・雇用主の偏見などによる問題としてとらえられている。
障害の有無による選抜を最大の問題とする議論に依拠すれば、労働市場から排除された人々が障害者であり、障害者の排除すべてがディスアビリティによるものということになる。しかし、障害の有無による選抜から労働能力による選抜へと移行しつつある現在においては、障害者の排除の中には労働能力の低さを理由としたものも含まれていると考えられる。これをふまえると、どこまでがディスアビリティによる排除であるのか、障害者の労働能力の低さは全面的にディスアビリティによるものか、といった点は実のところ明らかでないように思われる。とりわけ、労働能力の適正評価にもとづく選抜が実現すればディスアビリティが除去されたことになるのか、そこで労働能力が低いとされ排除されることもディスアビリティによる問題なのかについて、具体的な分析がなされているとはいいがたい。
また、多くの論者が障害者と健常者との就業格差をとりあげ、障害者の構造的な不利を示している。確かに、障害に配慮しない職場環境や能力評価、雇用主の偏見によって障害者が排除されれば、健常者との間に就業格差が発生することになる。また、労働市場の外部における社会的な不平等も、障害者の労働能力を低下させ、その結果として就業格差をつくり出す。しかし、労働能力の低さがすべてディスアビリティによって生じるものといえるのかは必ずしも定かでない。障害者の能力低下にここで問題とされるディスアビリティ以外の要因によって生じる部分があるなら、ディスアビリティが修正・除去されたとしても就業格差は解消されない可能性がある。それとは逆に、就業格差(の一部)がディスアビリティによってつくり出されたとはいえない可能性もありうる。就業格差じたいをディスアビリティとするにしても、そこにいかなる社会的な要因や構造が関わっているのかを明らかにする必要があるだろう。
近年では、障害者に対する雇用保障とともに、労働市場から排除された者のための所得保障が主張されている。そこでは、労働市場からの障害者の排除が不当な問題として認識されているといえる。適切な環境条件のもとでの選抜にも何らかの不当な部分が存在していると考えられているのである。しかしながら、それがどのような問題であるのか、そこにどのようなディスアビリティが関与しているのかは明らかにされていない。このことは、社会モデルの理論枠組によって特定されていないディスアビリティが存在する可能性を示唆しているといえる。
以上のようにみると、障害者の雇用問題をつくり出しているディスアビリティの内容や範囲がいまひとつ明確でないことがわかるだろう。このことは、障害学において何が問題とされているのか、障害者の雇用問題とは何かが詳しく論じられないまま、主張が展開されていることを意味しているのではないだろうか。こうした事態は、障害者の労働能力にどのような要因が影響しているのか、障害者の労働能力と労働市場からの排除、健常者との就業格差がどのように関係しているのか、という点が解明されていないために起きていると考えられる。それらを明らかにしたうえで、何を問題とすべきか、社会モデルによってどこまでを問題化できるのか、そしていかなる解決が必要なのか、について検討しなおすことが求められる。
なお、立岩の議論は、障害者の雇用問題に直接関係する部分に限定してみると、労働にもとづく分配システムとは別に再分配システムを確立するとともに、労働市場における障害者の雇用を拡大しようとするものである。その点では、欧米の障害学における近年の議論と軌を一にするものであるが、単に雇用保障の必要性を指摘するだけではなく、障害者の雇用が支持されるさまざまな理由をあげるとともに、具体的な政策についても議論している。そこで障害者の雇用政策を正当化する根拠として示されているのは、労働の場へ参加する機会を開放すべきである点、より多くの分配を得ることができる点、社会運営のコストをより多くの人々で分担しうる点などである(立岩 2002a, b, 2003a)。そして、具体的な政策として、差別禁止法と割当雇用制度を同時に実施することが提案されている(立岩 2001a)。
しかしながら、立岩の示す根拠によって障害者の雇用を義務づけることができるのか、という点では疑問が残る。というのも、立岩が提案する政策は、差別の禁止によって労働能力をもつ者の雇用を実現しつつ、そこから排除された労働能力の低い障害者の雇用を割当雇用制度によって義務づけるという政策である。立岩がこの政策を正当化するためにあげている根拠は、障害者の雇用を積極的に支持するものではあるが、労働能力の低い障害者の排除を不当化するものではない。だとすれば、立岩のあげる根拠により、障害者の雇用を「望ましい」として求めることはできても、障害者を「雇用しなければならない」とまではいえないのではないか。労働能力の低い障害者の雇用を義務づけるためには、そうした人々の排除が不当であることを示す必要があると考えられる。
また、立岩が労働市場で生産できない障害者に財が分配されないことを否定する背景には、「本人に非はない」という根拠が存在していると理解できる(立岩 1991, 1997: 323-372)。生産できないことや能力が低いことについて、本人に非はないとする理由は必ずしも明示されていないが、おそらく、障害をもつために能力が低いことや、能力の低さが社会の環境や構造によってつくられることが、念頭におかれていると考えられる。このように、障害者の能力の低さを本人に非のないこととみなすのなら、そうした認識にもとづいて、労働能力の低い障害者の排除が直接的に否定されてもよいはずである。
3.4 本稿での検討課題
以上の分析では、国内外の議論から見出された3つの立場の中には、労働能力にもとづく選抜の肯定と否定という対立が生じていることが明らかになった。差別禁止法の導入・徹底を求める立場は労働能力の適正評価にもとづく選抜の実現をめざしているのに対して、雇用保障をつうじた結果平等を求める立場は労働能力の有無にかかわらずあらゆる障害者の雇用が実現することをめざしている。しかし、いずれの立場の主張も、問題がすべて解決するのか、どこまでの保障が正当化されうるのか、理論的な整合性をもつ主張なのかについて、それぞれに議論の余地を残すものであった。障害者の雇用において何を問題とするべきか、いかなる状態をめざすべきか、どのような解決策が求められるのか、という点でのあいまいさや対立が存在しているのである。障害学の議論についても、対立的な主張がみられるわけではないが、あいまいさをかかえている点では同じことがいえるだろう。こうした事態は、障害者の雇用問題が労働能力に深く関係するものであるにもかかわらず、労働能力の問題に踏み込んだ議論がなされておらず、障害者の労働能力や労働市場からの排除、健常者との就業格差の関係が分析されていないために起こっていると考えられる。逆にいえば、こうした分析を行うことこそ障害者の雇用問題の内実の解明につながり、それによって今後の議論の方向性が見えてくるのではないだろうか。
このような従来の議論の課題をふまえて、以下の分析では、まず障害者の労働能力に影響する要因を抽出し、障害者の労働能力の低さや健常者との能力差を理論的に定式化する。これにより健常者との能力差がいかにして生成・顕在化するのかを示すとともに、それが労働市場においてどう扱われるのか、どのように就業格差に結びつくのかを明らかにする。この分析をつうじて、障害者の雇用問題の内容や範囲が特定されることになる。次に、先行研究にみられた3つの立場のうち対立的な2つに着目し、それぞれの主張の理論的な構造を解明し「理論モデル」として精緻化・確立させる。そこでは、各立場が問題をどうとらえているのか、どのように解決しようとしているのか、背後にいかなる論理が存在しているのかについて分析を行う。そのうえで、理論的な整合性は保たれているか、「問題」を過不足なく解決しうるか、あらゆる障害者に適用できるかという視点から、それぞれの理論モデルの問題点を指摘する。これをへて、2つのモデルの本質的な違いや関係が明かされるとともに、2つのモデルの両立可能性が吟味される。それに加えて、障害の社会モデルの理論構造や問題点についても検討する。第三に、こうした分析をふまえて、今後の議論の方向性が見定められることとなる。いずれかの理論モデルが障害者の雇用問題の解決にとって必要十分であることが示されたなら、そのモデルに依拠して議論を進めればよい。どのモデルにも問題があることが示されたなら、従来のモデルの修正や新たなモデルの検討が必要となる。
4.障害者の労働能力と雇用問題
本章では、まず、障害者の労働能力に影響を与える要因を抽出し、障害者の労働能力および障害者−健常者間の労働能力の差を理論的に定式化したうえで、労働市場において障害者が健常者以上の労働能力を示し雇用されるための条件を明らかにする。次に、労働市場において顕在化した能力差がいかにして障害者と健常者との就業格差(就業率等の差)をもたらすのかを分析し、障害者の労働能力・労働市場からの排除・健常者との就業格差の関係を解明する。これらの分析をつうじて、障害者の雇用問題の内容と範囲が確定されることとなる。
4.1 労働能力の定式化
まず、人々の労働能力が何によって構成されているか、という点から考えてみよう。障害者の雇用問題に関する研究で、労働能力を構成する要素に着目した研究は、管見のかぎりでは見あたらない。そこで、ここではひとまず障害者の問題を離れ、教育社会学や社会階層研究、ジェンダー研究の議論を参照し、一般的な能力を理論的に定式化してみることにする。そのうえで、障害者と健常者の違いを考慮しつつ、障害者の労働能力や健常者との能力差を定式化することにしたい。
教育社会学や社会階層研究、ジェンダー研究では、M. ヤングの提示した「メリット(業績)=IQ+努力」という定式がしばしば取り上げられている(苅谷
2001: 147, 宮島 1999: 90,徳川 2001: 220)。
これらの議論においては、「メリット」「IQ」「努力」がそれぞれ何を意味するものなのか、論者の間に必ずしも共通の理解があるわけではないが、そこではメリットとして主に学力や成績といったものが想定されているようである(苅谷
2001: 148, 徳川 2001: 220)。すなわち、これらの研究では、教育の場で獲得され発揮され評価される能力という意味でメリットが用いられていると考えられる。
「IQ」は、一般的には個人の「知能」を示すものと考えられているようであるが1)、苅谷剛彦は「学校での成功へと変換される『潜在的な能力』」という意味を与えている(苅谷
2001: 148)。いずれにしても、IQは個人のもつ何らかの<生得的な資質>を指すものであると理解することができる。これらの研究では、そうした個人の生得的な資質に親の学歴や職業、所得による違い(階層差)がみられることや、生得的な資質には親からの遺伝よりも社会的な環境が大きく影響していることが、実証にもとづく一般的な見解とされている(苅谷
2001: 148,近藤 2000: 232-236)。
「努力」については、それを直接的に扱った研究がほとんどない中で、苅谷が、学習時間を努力の量を表す指標とみなしたうえで、出身階層によって学習時間に差がみられることを実証している(苅谷
2001: 143-164)。さらに苅谷は、個人の努力量を規定する要因として内発的な「意欲」に着目し、そうした意欲にも階層差がみられることを実証している(苅谷
2001: 214-217)。ただし、M. ヤングの定式における「努力」は、メリット(すなわち能力)を構成する一部分であるから、学習時間などの努力量そのものとみるよりは、そうした努力が能力として結実したものとみるのがよいだろう。
そうすると、個人の能力は生得的な資質の部分と努力によって生後に獲得する部分から構成されており、生得的な部分と後天的な部分の双方に社会的環境が影響を及ぼしている、ととらえることができる。そこで、このことをM.
ヤングの定式をもとに数式によって表現してみよう。
今、 個人iが現時点で保有している能力を ( )、個人iの生得的な資質を ( )、個人iが努力によって生後に獲得した能力を ( )、個人iがおかれている社会的な環境を示す係数を
( )とし、社会的環境が生得的な資質に影響していることを と の積で、社会的環境が生後獲得する能力に影響していることを と の積で表す。すると、個人iの保有能力
は式[1]のようになる。
[1]
ここで、社会的環境の影響を積によって表現しているのは、生得的な資質や後天的な能力が社会的環境によって拡大したり縮小したりする様子を表現したいためである2)。能力の獲得にとって有益な環境(
)のもとでは個人の生得的資質も後天的能力も存分に伸長するが、能力の獲得にとって不利益な環境( )のもとでは個人の生得的資質も後天的能力の伸びも制約される、といったイメージである。なおここでは社会的環境は生得的資質にも後天的能力にも同じ影響を及ぼすと仮定している。
先に参照した研究では学力や成績がメリットとみなされていたが、ヤングの「メリット=IQ+努力」という定式やそれをもとに筆者が作成した式[1]は、そうした教育の場における能力のみにあてはまるものではないだろう。労働市場において評価される労働能力も同様の要素から構成されていると考え、これらの定式を労働能力にあてはめることも可能であろう。ただし、労働能力をやや限定的に「特定の職務に必要な知識や技能」と定義すると、生得的な資質という要素は労働能力の構成要素としては考えにくいかもしれない。というのも、大半の職務に必要な知識や技能は教育や職業訓練をつうじて生後に習得されるものと考えられるからである。もちろん、生まれながらの才能が効力を発揮する職務もあるだろうが、その場合でもその職務に関する知識や技能があったうえで才能が功を奏するものと考えられる。したがって、ここでは労働能力をおおむね生後に習得されるものとみなし、生得的な資質という要素を捨象することにしたい。すると、個人iが現時点で保有している労働能力
は式[2]のようになる( )。なお、ここでは、いかなる職務についての労働能力も個別に定義可能であり、労働能力の大きさは特定の単位のもとに正確に測定されると仮定する。
[2]
次に、式[2]もとに、労働市場において評価される個人の能力や社会的環境の影響、後天的能力について考察を深めてみよう。
先に参照した教育社会学等の研究で、学力や成績に影響する社会的環境として着目されていたのは、主に親の学歴や職業、所得といった出身階層の状況である。そこでは、たとえば中学時の成績というように、同一の教育年数を経た時点での能力が階層間で比較されている(苅谷
2001: 55-56)。このように、教育年数が同じ場合には、成績に家庭環境の影響が反映されると考えられるが、労働能力の場合には、教育年数や訓練の期間の長さが家庭環境よりも直接的に影響しやすいと考えられる。また、後述するように、障害者にとっては教育や訓練の機会が健常者と比べて限られていることが重要な問題であると考えられる。そのため本稿では、労働能力に対する出身階層の影響を捨象し、教育年数や訓練期間といった労働能力を習得するための機会の量を、ここでの社会的環境として取り上げることにする。こうした労働能力の習得機会は、だれにとっても等しく開かれているわけではなく、特定の属性や障害の有無によって異なっているのが現状であろう。そこで、個人iにとって利用可能な労働能力の習得機会の大きさを示す係数を
( )とすると、 個人iが現時点で保有している労働能力 は式[3]のように書き換えられる。
[3]
また、個人が労働能力の習得に費やした努力は、すべてそのまま労働能力として結実するとはかぎらないだろう。そう考えるとき、努力を労働能力へ変換する力の個人差についても考慮する必要が生じる。このことは、後述するように、障害者の労働能力や障害者と健常者の労働能力の差を考えるうえで重要な意味をもつ。そこで、個人iが労働能力の習得に費やした努力量を
( )3)、努力量を労働能力へと変換する力を<労働能力の習得力>と定義し、その大きさを示す係数 ( )としてみよう。すると、個人iが生後に努力によって習得した労働能力
は式[4]のように表される( )。
[4]
これを式[3]に代入すると、個人iの保有能力 は式[5]のように書き換えられる。
[5]
さらに、労働市場においては、個人iの保有能力 が常に完全に発揮され評価されるとはかぎらない。特定の属性や障害をもつことを理由にあらかじめ排除され、労働能力を発揮する場さえ用意されない場合も多いだろう。たとえそのような場が用意されたとしても、とくに障害者の場合には、保有している労働能力を存分に発揮できる環境や条件が、評価の場に用意されていないことも多いと考えられる。そこで、個人iの保有能力
の発揮や評価を妨げる要因を<評価における障壁>と定義し、その大きさを表す係数を ( )としよう。ここで、 の状態とは個人iの保有能力 が完全に発揮され評価された状態を表しており、
の状態とは個人iの保有能力 がまったくあるいは一部分しか発揮・評価されなかった状態を表している。そして、 の値が小さいほど評価における障壁が大きいことを意味しており、
の値が大きいほど評価における障壁が小さいことを意味している。たとえば のとき、個人iの保有能力 が70%しか発揮・評価されない状態にある。これらの点をふまえると、労働市場において発揮され評価される個人iの労働能力
は式[6]のように表される( )。この労働能力 を<顕在的能力>と呼ぶことにしよう。
[6]
なお実際には、労働能力の習得機会や習得力、評価における障壁の大小によって、個人が労働能力の習得に費やす努力量も左右されることが予想される。たとえば、教育や訓練の機会が少ない場合や、努力しても思うように労働能力を習得できない場合、労働能力の発揮や評価を阻む障壁の存在を予見している場合などには、努力する意欲が抑制され実際に努力しなくなる、ということが起きてもおかしくない。逆に、習得機会を十分利用でき、努力すればするほど労働能力が伸び、労働市場においてそれが存分に発揮でき評価されるならば、努力する意欲も増大する可能性がある。そうした要因間の相互作用を考慮に入れると式[6]はより複雑なものとなるが、ここでは議論を単純化するため、それぞれの要因は互いに独立であり、ひとつの要因は他の要因に影響を及ぼさないと仮定する。
つまり、労働能力の習得機会の利用可能性や習得力、評価における障壁は個人の努力量に影響を与えない、換言すれば、習得機会・習得力・障壁の大小にかかわらずだれもが等しく努力しうる、と考えることにする。
以上の議論をふまえて、次節では、式[6]をもとに障害者の労働能力や障害者と健常者の労働能力の差について分析を進めることにしよう。
4.2 障害者−健常者間の労働能力の差
今、障害者をjとし健常者をiとすると、労働市場において評価される各人の労働能力は式[7]のように表される。
[7]
通常の労働市場においては顕在的能力が個人間で比較され、その高い者が雇用される一方で、その低い者は不採用となり労働市場から排除される。このとき、選抜の場において測定される障害者jと健常者iの労働能力の差は次のようになる。
[8]
ここで、議論を単純化するために、労働能力の習得機会の大きさ、労働能力の習得力、および評価における障壁の大きさは、障害者の集合・健常者の集合それぞれについて近似値を定数として定義できるとする。すなわち、
[9]
であるとする。このとき、式[7][8]は次のように書き換えられる。
[10]
[11]
障害者の場合、社会において利用できる教育や訓練の機会は、健常者と比べて制限されている場合が多いと考えられる。欧米の研究では、障害者と健常者との間に学歴の差があることや、障害児に対して健常児と同等の教育機会が保障されていないことが問題とされている(Barnes
et al. 1999=2004: 140-148)。日本においても、障害者と健常者では大学や短大への進学率に差がみられることが指摘されている4)。そこで、健常者にとって利用可能な習得機会の大きさを
とし、すべての健常者が同量の習得機会を利用できると考えることにする。そして、障害者にとって利用できる習得機会は健常者と同量もしくはそれ未満であると考え、
の変域を とする。実際には、健常者であっても、女性や黒人など特定の属性をもつ者にとっては、利用できる習得機会が限られているかもしれない。しかし、ここでは障害者と健常者の違いを強調したいため、健常者の場合を
、障害者の場合を として議論を進めることにする。
また、障害者の場合、その障害によっては労働能力の習得力に支障が生じていることも少なくないと考えられる。とくに重度の身体障害者や知的障害者の場合、労働能力の習得に向けて多大な努力を費やしても、健常者と同様に労働能力を習得することは難しい場合が多いと思われる。たとえば、脳性まひをもつ障害者であれば、パソコンを健常者と同様の速度で操作できるようになるのは、補助具を用いたとしてもほぼ不可能といってよいだろう。また、知的障害者であれば、何らかの知識や技能を身につけるのに、人的な支援を活用したとしても、健常者より多くの時間を要するであろう5)。そこで、健常者は努力量に応じて労働能力を習得できると考え、健常者の習得力を
とする。一方、障害者は努力量に応じて労働能力を習得することが難しい場合もあると考え、 の変域を とする。実際には、健常者であっても、何らかの事情によって、努力に応じて労働能力を習得できない場合があるかもしれない。しかし、ここでは障害者と健常者の違いを強調したいため、健常者の場合を
、障害者の場合を として議論を進めることにする。
さらに、労働市場における選抜のさいにも、障害者のほうが健常者より大きな障壁に直面する場合が多いと考えられる。障害を理由としてあらかじめ排除されるという問題や、障害者にも利用可能な設備が整えられておらず、十分な労働能力が発揮できないといった問題が、多くの研究において取り上げられている(たとえばBarnes
et al. 199=2004: 149-156)。そこで、健常者の場合には評価における障壁が存在しないと考え、健常者の障壁を とする。一方、障害者の場合には障壁が存在することもあると考え、
の変域を とする。もちろん、健常者であっても、女性や黒人など特定の属性をもつ場合には、保有している労働能力がまったくまたは一部分しか評価されないという状況がありうる。しかし、ここでは障害者と健常者の違いを強調したいため、健常者の場合を
、障害者の場合を として議論を進めることにする。
なお、障害者の努力量 についても、先に述べたのと同様に、労働能力の習得機会や習得力、評価における障壁の多寡が影響を与えることが予想される。また、障害そのものによって、努力を導き出す意欲が阻害されている場合があるかもしれない。しかしここでは、議論を単純化するため、障害者の努力量
は労働能力の習得機会や習得力、評価における障壁や障害そのものによる影響を受けないと仮定する。つまり、障害者も健常者と同様に努力しうると考えることにする。障害の有無やその他の要因にかかわらず、だれもが自らの意志にもとづいて努力しうると仮定する、と言い換えてもよい。
これまでの仮定を整理しよう。健常者iは社会に用意されている労働能力の習得機会を十分に利用することができ、自ら費やした努力量に応じて労働能力を習得することができる。また、労働市場では保有している労働能力を余すところなく発揮でき、それが適切に評価される。すなわち、健常者iは
の状態にある。一方、障害者jは健常者iと比べて利用できる習得機会が制限されている場合が多く、努力量に応じて労働能力を習得することが困難な場合も多い。また、労働市場において労働能力の発揮や評価が妨げられる場合も多い。すなわち、障害者jは
の状態にある。このとき、式[10][11]より、健常者iおよび障害者jの顕在的能力 、健常者iと障害者jの顕在的能力の差 は次のようになる。
[12]
[13]
ここで ( )とおくと、式[12][13]は次のように書き換えられる。
[14]
[15]
すると、 を、障害者の労働能力にかかわる制限全体の大きさを示す係数とみなすことができる。こうした制限は、ここでの仮定のもとでは、障害をもつことによって障害者のみが経験するものであるといえる。障害にともなう制限が大きいほど
の値は小さくなり、障害にともなう制限が小さいほど の値は大きくなる。障害者であっても障害にともなう制限を受けない場合には である。
図4.1は、健常者iおよび障害者jの顕在的能力 をグラフ化したものである。ここでは、縦軸を顕在的能力 、横軸を努力量 としたうえで、努力量
の増加にともなう顕在的能力 の変化を表した。グラフの傾きは健常者iで1、障害者jで である。障害にともなう制限が大きいほど の値は小さくなるから、障害者jのグラフの傾きも小さくなる。障害にともなう制限が小さいほど
の値は大きくなるから、障害者jのグラフは健常者iのグラフに近くなる。
図4.1 障害者および健常者の労働能力
4.3 障害者が雇用される条件
さて、通常の労働市場においては、労働能力が個人間で比較され、それにもとづく選抜が行われる。そこで労働能力が相対的に高いと評価された者は雇用され労働市場へ参入することができるが、労働能力が相対的に低いと評価された者は労働市場から排除されることとなる。これをふまえて、以下では、労働市場において障害者が雇用される条件について考えてみよう。なおここでは、健常者と同等以上の労働能力をもつと判断された場合、すなわち
となる場合に障害者が雇用されることにする。
まず、式[15]より、 となるのは次のような場合である。
[16]
これによると、障害者が健常者以上の労働能力を示し雇用されるためには、健常者の 倍以上の努力量を労働能力の習得のために投入しなければならないことがわかる。努力量がそれに満たない場合、障害者は健常者以上の労働能力を示すことができず、その結果として労働市場から排除されることになる。
( )のとき、障害者にとって必要な努力量は
[17]
である。これに対して、健常者にとって必要な努力量は
[18]
である。式[17][18]より、障害者と健常者の必要な努力量の差は、
[19]
となる。 のとき となることから、健常者と同等以上の労働能力を示すためには、障害者は健常者と同等以上の努力量を投入しなければならないことがわかる。式[14]より、
の値が小さいほど の値は大きくなる。つまり、障害にともなう制限が大きいほど、障害者にとって必要な努力量も増大するのである(図4.2)。
図4.2 障害者にとって必要な努力量
次に、障害者と健常者の努力量が等しい場合について考えてみよう。 とおくと、健常者および障害者の労働能力はそれぞれ
[20]
となるから、両者の労働能力の差は
[21]
となる。障害にともなう制限が存在している状態( )では となるから、このとき常に障害者の労働能力のほうが低いと評価されることになる。健常者と同量の努力をしたのでは、障害者は健常者以上の労働能力を示しえず、結果的に労働市場に参入できないのである。障害にともなう制限が大きいほど(
の値が小さいほど)、障害者と健常者の能力差( )は拡大する(図4.3)。式[21]より、障害者と健常者の努力量が等しいとき となるのは の場合のみである。つまり、健常者と同量の努力を労働能力の習得に投入した障害者が就業機会をえるためには、障害にともなう制限のない社会が実現されることが必要になるのである。
図4.3 努力量が等しい場合の労働能力の差
4.4 障害者−健常者間の労働能力の差と就業格差
以上の分析では、障害者の労働能力や健常者との労働能力の差がどのように生成・顕在化するのかを明らかにするとともに、障害者が雇用されるための条件について検討した。通常の労働市場においては、こうした労働能力にもとづいて選抜が行われ、労働能力の低い者が排除される。障害にともなう制限を受けている障害者の労働能力は、個人が多大な努力量を投入しないかぎり、制限のない健常者より低くなりやすい。そのとき、障害者は労働市場から排除されやすい状況にあるといえ、労働能力による選抜の結果、障害者と健常者との間に就業格差が発生することが予測される。では、個人レベルでの労働能力の差は、集団レベルでの就業格差にどのような影響を及ぼすのであろうか。
今、障害者グループJおよび健常者グループIの顕在的能力の集合的な近似値(たとえば平均値)を 、努力量の集合的な近似値を としよう( )。先に、個人の努力量を、障害そのものやそれにかかわる社会的要因の影響を受けず、自ら選択・制御できるものと定義した。これは、障害の有無にかかわらずだれもが同様に努力しうることを意味している。このとき、各グループの努力量の集合的な近似値は、障害そのものやそれにかかわる社会的要因の影響を受けない。したがって、グループ間の努力量の集合的な近似値に差は生じない。このとき
とおくことが可能になる。 は、障害者と健常者をあわせた全体の努力量の集合的な近似値を示している。すると、健常者グループ・障害者グループそれぞれの顕在的能力の集合的な近似値
は次のようになる。
[22]
よって、両グループの顕在的能力の集合的な近似値の差は
[23]
となる。障害にともなう制限がある状態( )においては、常に となるから、障害者グループの顕在的能力の集合的な近似値のほうが必ず低くなることがわかる。このとき、労働能力にもとづく選抜の結果として、集団レベルでの就業格差が発生すると予測できる。一方、障害にともなう制限がない状態(
)においては となり、両グループの顕在的能力の集合的な近似値の差は発生しないことがわかる。このとき、労働能力にもとづく選抜をつうじても、集団レベルでの就業格差は生じないと予測できる。また、障害にともなう制限が大きいほど(
の値が小さいほど)両グループの顕在的能力の集合的な近似値の差は大きくなるため、グループ間の就業格差も大きくなることも予測できる。
顕在的能力の集合的な近似値の差と就業格差との関係については、シミュレーションによって確認することができる。今、健常者 人、障害者 人からなる
人の母集団を想定しよう。健常者と障害者の人口比は とする。健常者グループ・障害者グループいずれに属する人々も、労働市場で評価対象となる労働能力をもっている。そして、それぞれのグループにおいて顕在的能力の分布は正規分布にしたがい、各グループの標準偏差
は等しいが平均値 は異なると仮定する( )。このときのグループ間の平均値の差を とおく( )。
健常者グループ:人口 、人口比 、
障害者グループ:人口 、人口比 、
[24]
[25]
健常者グループの顕在的能力の分布が標準正規分布にしたがう場合、 、 になる。今、この条件下において、労働能力 が 以上の値のとき労働市場に参入することができ、
未満のときには労働市場から排除される仮定する( を限界値とする)。標準正規分布において 以上の値 が出現する確率を とすると、健常者グループにおける就業率
および就業者数 は
[26]
となる。一方、式[25]より、障害者グループにおける就業率 および就業者数 は
[27]
となる。全体での就業者数は であるから、全体での就業率 は、
[28]
となる。
それでは、式[28]をもとにシミュレーションを行ってみよう。ここでは、仮に としたうえで、 および の値をさまざまに変化させたとき、 となる地点での
と の値を比較する。<表4.1>には、 となる地点の周辺部分の結果のみを示した。まず、 に固定し の値を変化させると、 の地点で となる。このとき
であり、健常者‐障害者間で就業率に格差はない。次に、 に固定すると の地点で となる。このとき であり、 のときと比べて就業率の格差 が拡大していることがわかる。以下、
の値を0.5ずつ増加させ、同様の手順で の値を求めていく。すると、 の値が増加するにつれて が拡大していく。 のときには となり、0.81もの格差が生じていることがわかる。ここでは、
まででシミュレーションを終えているが、 であっても、 の値が増加するにつれて就業率の格差は拡大していくことが予測される。また、社会全体での就業率
を変化させても同様の現象が起きる。
ここでの障害者グループと健常者グループの平均値の差 は、グループ間の顕在的能力の集合的な近似値の差 に相当すると考えてよい(すなわち )。式[23]より、この差は障害にともなう制限によって生じるものであるから、グループ間の就業格差
についても、障害にともなう制限によってもたらされるものであるといえる。障害にともなう制限が大きいほど( の値が小さいほど)、障害者−健常者間の顕在的能力の集合的な近似値の差
は広がり、就業格差 も拡大する。障害にともなう制限が小さいほど( の値が大きいほど)、顕在的能力の集合的な近似値の差 は縮まり、就業格差 も縮小する。障害にともなう制限が解消されたとき(
)、 となり顕在的能力の集合的な近似値の差はなくなるから、 となりグループ間の就業格差も解消することとなる。
表4.1 労働能力の差と就業格差
:健常者グループと障害者グループの顕在的能力の平均値の差
:就業の限界値 :健常者の就業率 :障害者の就業率
:全体での就業率
4.5 障害者の雇用問題とは何か
以上では、労働能力の習得機会・労働能力の習得力・評価における障壁・個人の努力量という4つの要因に着目し、障害者の労働能力や障害者−健常者間の労働能力の差を理論的に定式化した。それにもとづくと、障害にともなう制限がある状態で、障害者が労働市場において雇用されるためには、障害者は健常者と同等以上の努力量を投入しなければならないことが示された。また、障害にともなう制限がある状態においては、障害者グループと健常者グループとの間に労働能力の集合的な差が発生し、その結果として障害者−健常者間の就業格差が発生することも確認された。これらの分析をふまえると、ここでの障害者の雇用問題の範囲や内容を次のように整理することができる。
障害者の労働能力を規定する要因として取り上げた4つの要因のうち、労働能力の習得機会・労働能力の習得力・評価における障壁の3つは、障害者が障害をもつことによって経験する制限とした。一方、努力量については、障害の有無にかかわらず個人が自らの意志で決定できると仮定した。このとき、労働能力の習得機会・労働能力の習得力・評価における障壁の3つは「障害」が関係する要因であるのに対して、努力量は「障害」が関係しない要因であるといえる。
これら4つの要因は、労働市場において障害者と健常者の間に労働能力の差をもたらす。障害者と健常者の顕在的能力の差には、労働能力の習得機会の違いによる部分・労働能力の習得力による部分・評価における障壁による部分・努力量の違いによる部分が含まれている(式[13])。これらのうち、「障害」が関係する要因がもたらしたといえるのは、労働能力の習得機会の違いによる部分・労働能力の習得力による部分・評価における障壁による部分である。一方、努力量の違いによる労働能力の差は、「障害」とは関係なく生じたものである。すなわち、障害者と健常者の間にみられる労働能力の差全体のうち、「障害」が関係しているのは、障害にともなう3つの制限によって生じた部分のみである。
通常の労働市場においては、個人間の労働能力の差が特定され、それにもとづいて選抜が行われる。そこで労働能力が高いと評価された障害者は雇用されるが、労働能力が低いと評価された障害者は労働市場から排除されることになる。労働能力の低さを理由とした障害者の排除には、労働能力の習得機会の違いによる能力差を理由としたもの・労働能力の習得力による能力差を理由としたもの・評価における障壁による能力差を理由としたもの・努力量の違いによる能力差を理由としたものが含まれている。これらのうち、「障害」が関係するものは、労働能力の習得機会の違いによる能力差を理由としたもの・労働能力の習得力による能力差を理由としたもの・評価における障壁による能力差を理由としたものである。一方、努力量の違いによる能力差を理由とした排除は、「障害」が関係しないものである。すなわち、労働能力の低さを理由とした排除全体のうち、「障害」が関係しているのは、障害にともなう制限による能力差を理由としたもののみである。労働能力の面で障害にともなう制限を受けている障害者は、労働市場での競争において不利な状況にあり、排除されやすい存在であるといえる。
障害にともなう制限による障害者と健常者の労働能力の差は、集団レベルでの労働能力の差をもたらし、障害者−健常者間の就業格差(たとえば就業率の差)となって現れる。すでにみたとおり、障害者−健常者間の就業格差は、障害にともなう制限すなわち労働能力の習得機会・労働能力の習得力・評価における障壁の3つによってのみ発生するものである。努力量を「障害」が関係しない要因と仮定したとき、障害者グループと健常者グループの間には努力量の差は生じないため、努力量によって障害者−健常者間の就業格差が発生することはない。
これらのことから、障害者の労働能力に影響する要因・障害者−健常者間の労働能力の差・労働能力の低さを理由とした障害者の排除・障害者−健常者間の就業格差のうち、「障害」が関係するものをここでの障害者の雇用問題と定義すると、そこには、労働能力の習得機会の制限・労働能力の習得力の低さ・評価における障壁という3つの要因、それらによってもたらされる能力差、そうした能力差を理由とした排除、その結果としての就業格差が含まれるといえる。なお、障害の有無にかかわらずだれもが同様に努力しうるという仮定のもとで生じる就業格差は、すべて障害にともなう制限によってもたらされるものといえる。
注
1) 近藤博之(2000)は、人々の能力違いをもたらすのは生得的な知能か社会的な環境か、
知能を規定しているのは遺伝か環境か、生まれつきの能力差はあるのかないのか、とい
った点についての論争や対立を整理している。
2) 社会的環境の影響を和や差で表すと、社会的環境によって何もないところから能力が
出現したり、すでにある資質や獲得した能力の一部分が削減されるようなイメージの数
式になってしまう。
3) より具体的には、たとえば、個人iの費やした努力量 を、労働能力の習得に向けた
意欲 ( )と実際に費やした時間 ( )の積により、 と表す
ことが可能かもしれない。
4) 大西哲は、大学や短大への進学率が盲学校・聾学校・養護学校・一般の高校の間で異
なっていることを示している。それによれば、卒業生の進学率は、盲学校で8.3%、聾学
校で9.4%、養護学校で0.3%であるのに対して、一般の高校の卒業生の進学率は42%とな
っている(大西 1999: 303)。
5) 立岩も、おそらくこうした障害者を念頭におき、能力の獲得にはさまざまな制約があ
り、自らの意のままに獲得できない場合もある点を指摘している(立岩 1997: 336)。
5.能力主義モデルと反能力主義モデル
前章では、障害者の労働能力に影響する4つの要因に着目し、障害者の労働能力および障害者−健常者間の労働能力の差を定式化したうえで、障害者の雇用問題の範囲と内容を整理した。それをふまえて、本章では、先行研究にみられたそれぞれの立場の主張がどのようなものであるのかを分析してみよう。まず、差別の禁止による機会平等の実現をめざす立場と雇用保障による結果平等の実現をめざす立場を取り上げ、それぞれの主張の内容を整理し、「理論モデル」として提示する。そこでは、それぞれの立場がどのように問題を把握しているのか、いかなる状態を望ましいと考えているのか、それをどのように実現しようとしているのか、という点について、背後にある考え方も含めて明らかにする。次に、それぞれの理論モデルを前章の分析と関連づけて批判的に検討する。そこでは、理論的な整合性や問題解決の範囲、対象となる障害者の範囲といった点から分析を行う。ここでの分析によって、2つの理論モデルの根本的な違いや両者の関係性が明らかになる。そして最後に、障害の社会モデルの理論的課題についても検討する。なお、ここでいう「理論モデル」とは、何らかの問題を把握し解決のあり方を考えるさいの理論的な枠組のことを意味している。
5.1 能力主義モデルの理論構造
まず、差別の禁止による機会平等の実現を主張する立場からみてみよう。2章で概観したように、この立場は、労働市場の内外における「差別」を問題とし、その完全な撤廃によって労働能力にもとづく選抜を実現し、問題解決を図ろうとするものである。この立場において問題とされているのは、障害に配慮しない職場の環境や条件、雇用主の偏見や無理解といった労働市場における要因のほか、労働市場の外における教育の機会や資源の不平等などである。そこでは、これらの「差別」が対等な競争を妨げ、障害者の労働市場への参入を阻んでいると考えられている。また、労働市場外での不平等な社会構造によって、障害者の労働能力の低さや意欲の低さが生じることも指摘されている(Wilkinson and Frieden 2002)。そして、この立場からは、こうした労働市場内外での「差別」を完全に除去することが主張されている。労働市場の内外で差別の禁止を徹底することにより、対等な競争が実現し、障害者の労働市場への参入が達成されるというのである。
こうした主張を4章の分析と関連づけてみてみると、この立場が問題としているのは、主に、労働市場で労働能力が評価される際の障壁、および労働市場の外における労働能力の習得機会の少なさであるといえる。そして、ここで求められているのは、そうした障壁が取り除かれるとともに、習得機会が健常者と同様になることであるといえる。すなわち、この立場においては、 および の状態が問題とされており、 かつ の状態の実現がめざされているのである。そして、ここでは、 かつ の状態が実現されたときの労働能力にもとづく選抜が、望ましいあり方とされている。 かつ のとき、健常者iの顕在的能力および障害者jの顕在的能力は、式[14]より、 であるが、これによる選抜がこの立場においては望ましいと考えられているのである。このとき健常者iと障害者jの労働能力の差は、式[15]より である。
こうした選抜が実現したとき、 である障害者は雇用されるが、 である障害者は排除されることとなる。この立場の主張によれば、 である場合の障害者の排除は、労働能力による選抜に反する不当なものということになる。一方、
である場合の障害者の排除は、労働能力の低さを理由とした正当なものということになる。 の場合の障害者の排除は、この立場においては問題とならないのである。
それではなぜ、この立場においては、顕在的能力 にもとづく選抜が望ましいあり方と考えられているのだろうか。なぜ の場合の障害者の排除は問題とされないのだろうか。この点について、一般的な能力主義の考え方を手がかりとして考察してみよう。
「能力主義」とは、一般的には、能力にもとづいて差異的な処遇を行うことや、能力に応じて地位や職業、財などが配分されることを意味する。しかし、それが身分や性別、人種といった属性にもとづく処遇やその結果としての格差への批判を背景として登場したことをふまえると、能力にもとづく処遇やその結果を正当とし、属性にもとづく処遇や結果を不当とする考え方も含めて能力主義と理解することができる1)。こうした能力主義のもとでは、属性にもとづく処遇は「差別」とみなされ、その撤廃が求められるとともに、属性が不利益につながらないための環境条件の整備が求められることとなる。ここで、能力による処遇や結果が正当とされ、属性による処遇や結果が不当とされるのは、その考え方の背後に、属性は生来的な所与の要因であり、自らの力では変更できないものであるのに対して、能力は自らの力によって獲得できるものである、という認識が存在しているためと考えられる2)。そして、そのような性質をもつ属性によって個人が不利益を被ってはならない、という論理が存在していると推察される。
障害者の雇用に関して労働能力にもとづく選抜を主張する立場においては、こうした能力主義の考え方を基盤として問題が把握され、解決が求められていると考えられる。つまりこの立場においては、障害者の問題は、能力主義のもとでの「属性」の問題としてとらえられていると考えられる。ここで「属性」の問題とされているのは、労働能力の習得機会の少なさおよび評価における障壁である。そして、それらが障害者に不利益をもたらすと考えられており、習得機会の平等化および障壁の除去、すなわち「差別」の撤廃が求められているのである。これに対して、「属性」の問題が解決された状態において観察される障害者の労働能力の低さや、それを理由とした障害者の労働市場からの排除は、「属性」の問題とはみなされない。そして、 である場合の障害者の排除はすべて、能力主義のもとでの「能力」の問題とみなされ、社会的解決の対象から除外されることとなる。
このように、障害者の問題を「属性」の問題としてとらえ、その解決を求めるとともに、労働能力にもとづく選抜を実現しようとする見方を、「能力主義モデル」と呼ぶことができるだろう。それでは、こうした能力主義モデルは、障害者の雇用問題を把握し解決するための理論モデルとして、どのような問題を有しているのだろうか。次節において検討してみよう。
5.2 能力主義モデルの問題点
前節でみたように、能力主義モデルのもとでは、 かつ の状態が実現され、 による選抜が行われることとなる。そこでは、 である場合の障害者の排除は正当なものとみなされ、社会的解決の対象から除外される。このとき、障害者の労働能力の習得力は であるが、これによる障害者の労働能力の低さやそれを理由とした排除は、「属性」の問題としてではなく「能力」の問題として扱われ、障害者個人のもとに残されることとなる。4章4節では、障害にともなう制限が存在している状態では、障害者と健常者の間に集合的な能力差が生じ、その結果、2つのグループに就業格差が生じることを示した。それをふまえると、能力主義モデルの求める状態が実現しても、 であるかぎり、障害者−健常者間には就業格差が生じるといえる。
こうした能力主義モデルにおいては、障害にともなう労働能力の習得力の低さ の問題をどのように扱うか、ということが重要な論点となるだろう。すでに示したとおり、能力主義モデルの求める状態が実現したとき、労働市場において評価される障害者の労働能力は であり、そこには障害にともなう習得力の低さの影響が含まれているが、能力主義モデルのもとでは、障害にともなう習得力の低さによる能力差や排除の問題は、社会的に解決されるべき「属性」の問題とはみなされず、個人の「能力」の問題として扱われることとなる。だが、先天的な障害にしても後天的な障害にしても、「障害」が個人にとって不可避的に生じるものであり、一度障害が生じるとそれ自体を解消することは困難であるという点を考慮すると、障害にともなう習得力の低さやそれによる労働能力の低さは、障害者にとって回避したり修正したりできないものであり、能力主義が問題とする「属性」と同じ性質をもつものであるといえる。そうすると、そうした性質をもつ障害者の労働能力の低さを理由とした障害者の排除は、このモデルの考えにしたがって「属性」の問題として扱われるべきであるといえる。ところが能力主義モデルは、意図的か非意図的かは別として、そうした労働能力の低さまでを個人で対応可能な「能力」の側に位置づけ、社会的解決の不要な問題として扱っていることになる。
なおここで、能力主義モデルがそもそも障害にともなう習得力の低さを想定せずに障害者の能力をとらえている、という可能性も考えられる。換言すれば、能力主義モデルは、障害者も健常者と同等の習得力をもっており、自らの努力に応じて能力を習得できる、と考えているのかもしれない。つまり、このモデルにおいてはもともと と想定されており、 という能力を前提として問題がとらえられている可能性がある。確かに、労働能力の習得機会を十分に利用でき、障害に配慮した環境が整備されれば、努力に応じて能力を習得できる障害者もいるだろう。しかしながら、たとえば脳性まひや知的障害をもつ人々のように、社会的な環境条件が十分に整えられたとしても、健常者や である障害者と同様に労働能力を習得するのが難しい障害者も少なくない。そうした障害者の問題を解決するためには、 であることを前提に議論を進めるべきであるといえる。障害者の能力についても とする素朴な能力観を前提としていたのでは、そうした障害者の問題は解決されないのである。
こうした能力主義モデルのもとでは、4章5節で定義した「障害者の雇用問題」のうち、労働能力の習得機会や評価における障壁の問題は解決され、それらによって引き起こされる障害者の能力の低さや、それを理由とした排除は解消される。その一方で、障害にともなう習得力の低さに起因する問題は残され、その結果、障害者と健常者の就業格差も残されることとなる。能力主義モデルの求める状態が実現したとき、健常者に近い習得力をもつ障害者すなわち の状態にある障害者であれば、努力に応じて労働能力を習得できる可能性が高まり、労働市場において雇用される可能性も高まる。このような障害者には、軽度の身体障害者や軽度の知的障害者、重度の身体障害をもっていても障害への配慮によって十分な労働能力を習得・発揮できる障害者などがあてはまりやすい。これに対して、障害の影響で習得力が大きく低下している障害者、すなわち の状態にある障害者は、能力主義モデルの求める状態が実現しても、十分な労働能力を習得・発揮することが困難であり、雇用される可能性は低いままである。すでに述べたように、このような障害者には脳性まひなど重度の身体障害者や重度の知的障害者があてはまりやすい。これらのことから明らかなように、能力主義モデルは障害者の雇用問題を一部分しか解決しないものであり、また、そこで障害にともなう制限が解消され労働市場への参入が可能となるのは一部の障害者に限られる。その意味で、このモデルは、あらゆる障害者の問題を把握・解決する理論モデルとしては不十分なものであるといえる。
5.3 反能力主義モデルの理論構造
次に、雇用保障による結果平等の実現を主張する立場について検討しよう。2章で概観したように、この立場の論者たちは、差別を禁止し機会平等を実現するだけでは問題は解決されないと考えており、労働能力によらずあらゆる障害者の雇用を保障するよう求めている。欧米の議論においては、労働市場の外での教育や資源の不平等、労働市場における環境の不備や雇用主の偏見といった「差別」は、そう簡単に解消できるものではないという見方が示されている(Scotch and Schriner 1997)。また、日本の議論においては、能力にもとづく処遇そのものに対する否定的な見方も示されている(花田 1991, 大谷 1999,竹内1993: 17-30)。能力にもとづく処遇を正当とする考えのもとでは、障害者の排除が温存・強化され、とくに重度障害者が取り残されてしまうというのである。こうした問題に対して、この立場の論者たちは、問題のとらえ方そのものを転換することによって、問題を社会的に解決することを主張する。C. Baylies(2002)やR. Scotch and K. Schriner(1997)は、身体的差異や精神的差異、能力の差異といったあらゆる差異をだれもが有する普遍的なものとして位置づけるとともに、そうした差異による問題を社会の側の対応力や包容力の問題としてとらえ直すことを提案している。また、竹内章郎は、能力を社会的な環境や制度、他者とのかかわりを経て習得・発揮されるものと考えることにより、能力による問題のすべてを社会の側に還元しようとしている(竹内 1993: 133-190, 1998)。
こうした主張を4章の分析と関連づけてみると、この立場は、労働能力の習得機会や評価における障壁による問題だけでなく、労働能力の習得力の低さおよび努力量の違いによるものまでも含め、あらゆる能力差を理由とした排除を不当なものとみなしているといえる。ここでは、労働市場において顕在化する労働能力の差 を理由とした排除すべてが否定され、雇用保障という形であらゆる排除の社会的解決が求められている。この立場においては、障害にともなう制限による能力差の問題だけでなく、努力量の違いによる能力差を理由とした排除も、すべて社会の側の問題として位置づけられているといえる。あらゆる能力差の問題を社会の側に還元することで、結果的としてあらゆる能力差が社会において意味をもたない状態、すなわち という状態の実現をめざしていると分析できる。
それでは、この立場は、なぜ能力にもとづく選抜を全面的に否定し、あらゆる障害者の排除を社会の問題として位置づけようとしているのだろうか。それは、この立場が重度障害者を念頭において問題をとらえ、そうした障害者の社会統合を実現するための理論枠組を検討していることによると考えられる。すなわち、重度障害者の問題の社会的解決を正当化するためには、能力にもとづく処遇をすべて否定し、能力差の問題をすべて社会に還元することが必要である、と考えられているのである。また、そのような考えの背後には、障害者の能力の低さは社会的な環境や障害自体によって引き起こされるという認識と、そうした能力差による問題は個人に残されるべきでないという見方があると推察することができる。実際に、この立場においては、教育機会や資源の不足が障害者の能力を低下させる点や、障害が障害者の能力に直接的に影響を及ぼす点が指摘されている(Baylies 2002, Scotch and Schriner 1997)。4章で着目した要因との関連でみると、ここでは、労働能力の習得機会や評価における障壁の問題( )とともに、障害にともなう労働能力の習得力の問題( )が把握されているといえる。そして、これらの問題を個人の側に残さないようにするために、労働能力を問わずあらゆる障害者に雇用を保障することが求められていると考えられる。
このように、労働能力にもとづく選抜を否定することであらゆる障害者の雇用を実現しようとする見方を、「反能力主義モデル」と呼ぶことができるだろう。それでは、こうした反能力主義モデルは、障害者の雇用問題を把握し解決するための理論モデルとして、どのような問題を有しているのだろうか。次節において検討してみよう。
5.4 反能力主義モデルの問題点
前節でみたように、反能力主義モデルのもとでは、労働能力の低さを理由とした障害者の排除がすべて不当なものとみなされ、あらゆる障害者に対する雇用保障が求められる。そこでは、障害者の労働能力の低さが障害にともなう制限( )によってもたらされると考えられており、そうした制限による問題をすべて社会の側の問題としてとらえ直し、社会的解決を図ることが主張される。反能力主義モデルの求める状態が実現したとき、労働能力の有無にかかわらずあらゆる障害者が雇用され、いかなる能力差も問題とならない社会が実現することになる。
こうした反能力主義モデルにおいては、努力量の違いによる労働能力の差をどのように扱うか、ということが重要な論点となるだろう。式[15]に示されているように、労働市場において顕在化する障害者と健常者の能力差には、障害にともなう制限による能力差だけでなく、努力量の違いによる能力差も含まれている。障害者の労働能力の低さは、習得機会の違いや評価における障壁、障害にともなう習得力の低さのみによって生じているとは限らないのである。この点をふまえると、労働能力の低い障害者の排除のすべてを否定し、あらゆる障害者への雇用保障を正当化することには無理があるといえる。4章では、個人の努力量を障害の有無に左右されない要因と定義した。このように努力量をとらえるとき、労働能力の低さが努力量の少なさによって生じている場合の排除を否定することはできない。理論的にみて、反能力主義モデルのように障害にともなう制限を問題にするだけでは、そうした場合の排除を否定することはできないのである。したがって、その場合の排除に関しては、社会的解決を正当化することができないといえる。このことから、反能力主義モデルの主張は、理論的に正当化されない部分を残すものであるといえる。
なおここで、反能力主義モデルが重度障害者の問題を解決するために提示されたものである点をふまえると、このモデルが障害者の労働能力に対する努力の影響をそもそも想定していない、という可能性が考えられる。反能力主義モデルでは、障害者の労働能力は努力が影響する余地がないほど障害にともなう制限によって大きく規定されている、と考えられているのかもしれない。確かに、障害者の中には、機会の不平等や障壁によって労働能力の習得や発揮が大きく妨げられ、障害そのものによっても習得力が大きく制限されている者も少なくない。また、障害にともなう制限が努力量に影響を与えることも否定はできない。しかしながら、すべての障害者の労働能力がそうした大きな制限を受けているとは考えにくいし、労働能力の習得における努力の余地をまったく考慮しないのも、現実的とはいえないだろう。
このことは、このモデルをあらゆる人々に適用しようとするとき、特に問題となる。このモデルへの転換を主張する論者たちは、健常者も含めたすべての人々の問題を同様にとらえ、社会的に解決することを求めている。R. Scotch and K. Schriner(1997)は、人々の身体的・社会的・文化的な差異によるあらゆる問題を社会的な環境や制度の失敗としてとらえることが必要であるとしている。竹内(1993: 158)は、健常者の労働能力についても社会的な環境や人々との相互関係を経て習得・発揮されるという見方を示し、あらゆる人々の問題をひとつの理論枠組のもとに包摂しようとしている。ところが、このように障害にともなう制限を受けていない人やそうした制限の小さい人の問題を反能力主義モデルで扱おうとすると、理論的に社会的解決を正当化できない部分が拡大することになる。というのは、式 [12]からわかるように、障害にともなう制限が小さい、もしくはない状態のとき( )、労働能力に占める努力の余地が大きくなる。すると、この場合には、その労働能力の低さの問題を社会の側に還元する根拠が弱まり、雇用保障を正当化することが困難になるのである。つまり、障害にともなう制限の大小(すなわち努力の余地の大小)を無視して、多くの人々をこのモデルに包摂しようとするほど、理論的に正当化されない部分を多く内在させることとなるのである。
こうした反能力主義モデルのもとでは、4章で定義した「障害者の雇用問題」の範囲を超えて、努力量の違いによる能力差を理由とした排除までが不当化され、それに対する社会的解決が求められることになる。努力量を障害にともなう制限に左右されず個人の意志で設定できるものとし、労働能力に対する努力の余地を前提としたとき、このモデルは「障害」が関係しない問題までをも解決しようとしているといえる。また、このモデルは、障害にともなう制限が大きい障害者(努力の余地が小さい障害者)にはあてはまりやすく、そのような人々については雇用保障が正当化されやすい。しかし、障害にともなう制限が小さい障害者や障害をもたない人々(努力の余地が大きい人々)には、このモデルはあてはまりにくく、雇用保障を正当化することが困難である。これらのことから明らかなように、反能力主義モデルは、「障害」の問題を超えて社会的解決を要求しようとするものであり、また、自らの障害者像にあてはまらない人々までを把握しようとするものである。その意味で、障害者の雇用問題を把握・解決する理論モデルとしては、過剰な射程を有するものであるといえる。
5.5 2つのモデルの本質的相違と両立可能性
これまでの分析により、障害者の雇用問題をめぐる議論から見出された2つのモデルの理論的な構造が明らかにされるとともに、それぞれのモデルの問題点が指摘された。それをもとに2つのモデルを対比させてみると、能力主義モデルと反能力主義モデルでは、障害者の労働能力や健常者との能力差に対する見方が異なっていることがわかる。とりわけ、障害にともなう習得力の低さの問題と努力量による問題について、2つのモデルは相反するとらえ方をしていることに気づく。能力主義モデルは、障害にともなう習得力の低さによる能力差と努力量の違いによる能力差を、いずれも、「障害」による問題ではなく、個人の「能力」の問題とみなしている。これに対して、反能力主義モデルは、それら2つを含む能力差全体を「障害」による問題として把握しようとしている。このように、障害者の労働能力や健常者との能力差のとらえ方が異なっているため、2つのモデルの間に、「正当な排除」と「不当な排除」の区分のずれが生じている。そしてその結果、2つのモデルが求める社会的解決の範囲にもずれが生じているのである。能力主義モデルは、労働能力の習得機会の違いによる問題と労働能力の評価における障壁による問題のみを社会的解決の対象としており、障害にともなう労働能力の習得力の低さによる問題と努力量の違いによる問題を社会的解決の対象から除外している。これに対して、反能力主義モデルは、習得力の低さによる問題と努力量の違いによる問題をも含めて、あらゆる労働能力の差を理由とした排除を不当とし、社会的解決を求めている。
ただし、これまでみてきたように、どちらのモデルも、習得力の低さと努力量という2つの要因の性質を的確にとらえているとはいえず、それによってそれぞれに理論的な問題をかかえることとなっている。障害にともなう習得力の低さは、障害者が不可避的に経験する問題であり、能力主義でいう「属性」として扱われるべきものである。また、努力量を障害にともなう制限を受けない要因としたとき、その違いによる問題を社会の側に帰する根拠に欠けることとなる。また、いずれのモデルも、「障害」の問題を過不足なく解決するものではない点と、あらゆる障害者に適用できるものではない点で、障害者の雇用問題を把握・解決するための理論モデルとしては不十分といえる。
それでは、能力主義モデルと反能力主義モデルを両立することは可能なのだろうか。2章で概観したように、日本の先行研究では、差別禁止と雇用保障を併用することにより機会平等と結果平等とを同時に実現しようとする主張が提示されていた(関川 1999; 定藤 1996など)。欧米においても、差別禁止を徹底することと同時に、労働市場への参入が困難な重度障害者に対する非競争的な雇用の提供を求める論者がみられた(Boucher and Walz 2000; Scheid 2000)。こうした主張は、労働能力にもとづく選抜を肯定する枠組とそれを否定しようとする枠組を同時に実施せよというものであり、能力主義モデルと反能力主義モデルの両立を求める主張であると理解できる。能力主義モデルが労働能力の習得機会の問題と評価における障壁の問題を解決し、障害にともなう制限の小さい障害者にとって有効である一方で、反能力主義モデルが労働能力の習得力の低さによる問題を解決し、障害にともなう制限の大きい障害者にとって有効なものであるのなら、これら2つを両立させることが都合のよい解決策であるように思われる。
しかしながら、これまで指摘したとおり、能力主義モデルと反能力主義モデルでは、障害にともなう労働能力の習得力と個人の努力量という2つの要因に対する見方が対立しており、それらの違いによって生じる能力差の問題を相反する形で扱っているのである。このような根本的な対立を含む2つのモデルを両立させることは、理論的に不可能であるといえる。差別の禁止と雇用保障を同時に実施し、機会平等と結果平等をともに実現しようとすることには、理論的にみて無理があるといえるのである。
5.6 障害の社会モデルの理論的課題
能力主義モデルと反能力主義モデル、およびそれら2つを両立する案の検討に加えて、障害学から提示された「障害の社会モデル」のもつ理論的な課題についてもふれておくことにしよう。
障害の社会モデルが登場して以降、社会のさまざまな領域の問題について、それを基盤とした議論が行われてきた。障害者の雇用問題に関連する先行研究では、これまでに障害者を排除する労働市場の構造や、「健常であること」や経済効率を重視する価値観、職場環境や労働能力の評価基準、雇用主による偏見といった要因がディスアビリティとして抽出されてきた(Oliver and Sapey 1999; Barns et al. 1999)。そして近年では、そうした要因を除去するだけでは問題は解決されないとの見解が示され、労働市場から排除された障害者のための再分配システムの整備を求める議論が出現している(Abberley 1998, 2002; Rioux 2002など)。しかしながら、3章3節で指摘したように、労働市場からの障害者の排除のうち、どこまでが健常者中心の社会によってつくり出されたものといえるのか、労働能力の低さを理由とした障害者の排除にどのようなディスアビリティが関係しているのか、といった点は必ずしも明らかではなかった。
これに対して、4章において、障害者の労働能力に影響する4つの要因に着目し、問題を整理したところ、労働能力の習得機会、評価における障壁、労働能力の習得力という3つの要因によってもたらされる能力の低さ、それを理由とした障害者の排除、その結果として生じる障害者−健常者間の就業格差が、障害者の雇用問題として特定された。これらの問題のうち、障害の社会モデルのもとで明示的に把握されてきたのは、労働能力の習得機会の不平等と評価における障壁の2つである。社会モデルにおいては、これら2つの要因は社会の側にあるものとされ、それらの要因による障害者の排除は社会的につくり出された問題として認識される。一方、障害にともなう労働能力の習得力の低さの問題は、これまでのところ、明示的には把握されてきていないように見受けられる。
社会モデルが障害にともなう労働能力の習得力の低さの問題を「障害」の問題として明確に特定できていないのは、それが社会の側に存在するディスアビリティに焦点をあてる一方で、インペアメントに着目することを避けてきたためであると考えられる。障害にともなう習得力の低さは、脳性まひや知的障害の例を想起すればわかるように、インペアメントによって直接的に生じるといってよいものであり、かつ、社会的な環境条件が改善されても容易には解消されないものである。このような要因による問題は、社会の側に原因を求めているだけでは把握することが難しく、インペアメントに目を向けることによってようやく明示的に問題化できるものであると考えられる。障害にともなう習得力の低さの問題を新たに「ディスアビリティ」として顕在化させるためには、社会的な環境条件の問題とインペアメントによる問題とを同時に問題化しうる視点や枠組みが必要といえるだろう。
5.7 新たな理論モデルの必要性
本章では、障害者の雇用問題に関する国内外の議論から見出された2つの理論モデルを検討したところ、いずれもそれぞれに理論的な問題点を有しており、障害者の雇用問題を把握・解決するための理論モデルとして適切なものではないことが明らかとなった。能力主義モデルは、障害にともなう労働能力の習得力の問題を、「属性」の問題としてではなく「能力」の問題として扱っていた。しかし、障害にともなう習得力の低さが障害者にとって不可避的で変更不可能であることをふまえると、それによる問題は「属性」の問題として解決されるべきものであるといえるのであった。また、能力主義モデルは、「障害」の問題を部分的にしか解決しないものであり、障害にともなう制限の大きい障害者の問題を残すものであることも指摘された。一方、反能力主義モデルは、障害にともなう制限の問題に加えて、努力量の問題をも社会の側に還元し解決しようとするものであった。しかし、障害に左右されない要因としての努力量の影響を認めるとき、このモデルの主張は正当化されない部分を含むことになるのであった。また、反能力主義モデルは、「障害」の問題とはいえないものまで社会的解決の対象とするものであり、障害にともなう制限の小さい障害者や障害の制限を受けない健常者には適用しにくいものであることが指摘された。それに加えて、これら2つのモデルを両立させるという解決策も理論的に成立しがたいことが示された。さらに、障害の社会モデルも、社会的な要因に注目するがゆえに、障害にともなう労働能力の習得力の問題を把握できないという問題をかかえていることが指摘された。
いずれのモデルも障害者の雇用問題を把握し解決する理論モデルとして適切でないことが示された今、従来のモデルの問題点や対立を解消し、「問題」を過不足なく把握・解決しうる新たな理論モデルを模索することが求められる。
注
1) 一般的な能力主義の概念や背景については、苅谷(2001: 67-96)および徳川(2001)
などを参照した。
2) 能力主義の考え方の背後にあるこうした「属性」や「能力」に対する意味づけは、多
くの論者によって指摘されている(たとえば小内 2001: 16,立岩 1997: 327)。
6.新たな理論モデルの検討
本章では、障害者の雇用問題の把握・解決にとってより有効な理論モデルについて検討する。新たなモデルに求められるのは、従来のモデルの理論的な問題点と対立を解消すること、「障害」の問題を過不足なくとらえられること、そして、障害にともなう制限の大小に柔軟に対応でき、あらゆる障害者に適用しうることである。
前章で指摘したように、従来の2つのモデルの理論的な弱さや対立の根底には、障害にともなう労働能力の習得力の低さと努力量に対する見方の問題が存在していた。いずれのモデルとも、それら2つの要因の性質を的確にとらえないままに問題を扱っており、それによって理論的な問題をかかえるとともに、互いに対立することになっているのであった。従来のモデルのもつ理論的な問題点を解消し、両者の対立を乗り越えるためには、障害者の労働能力に影響する4つの要因の性質をふまえたうえで障害者の雇用問題をとらえ直し、解決の範囲や内容を導出することが必要である。そして、それを可能にするための新たな視点と論理が求められる。以下では、能力主義モデルと反能力主義モデルに通底する視点や論理を抽出し、それをもとに新たな理論モデルを組み立ててみたい。
6.1 従来の理論モデルに共通する視点と論理
まず、能力主義モデルの根底にどのような視点や論理が存在するのかを探ってみることにしよう。前章では、能力主義モデルが、労働能力の習得機会と評価における障壁による問題を「属性」の問題として位置づけ、社会的解決の対象とみなしている一方で、労働能力の習得力と努力量の問題を「能力」の問題として位置づけ、社会的解決の対象から除外していることが明らかになった。そうした問題区分の背後には、「属性」を生来的で変更できないものとし、「能力」を自ら獲得するものであるとする見方が存在していると推察された。そして、そのような性質をもつ「属性」によって個人が不利益を被ってはならない、という論理が存在していることがうかがわれた。
このモデルに内在する「属性」や「能力」への意味づけをさらに抽象化すると、「属性」は個人にとって選択・制御できない要因として、「能力」は個人にとって選択・制御できる要因として認識されている、ということができる。そして、個人にとって選択・制御できない要因による問題は、個人に責任のないものであり、したがって個人に残されるべきではないが、個人にとって選択・制御できる要因による問題は、個人に責任があるものであり、個人で解決すべきである、といった論理を見出すことができる。すなわち、能力主義モデルは、問題をもたらす要因が個人にとって選択・制御可能か否かという視点から個人に責任のある問題かどうかを判断し、社会的に解決されるべき問題とそうでない問題とを区分していると考えられるのである。
では次に、反能力主義モデルの根底にある視点と論理について分析してみよう。前章では、反能力主義モデルが、あらゆる障害者の労働能力の低さを理由とした排除を否定し、すべての障害者の排除を社会のあり方の問題とすることで、解決を正当化しようとしていることが明らかになった。そうした主張の背景には、障害者の能力の低さは社会的環境や障害そのものによってもたらされる、という見方が存在していると推察された。そして、そのような能力の低さによる問題は個人の側に残されるべきでなく、社会的に解決されるべきものである、といった論理が存在していることがうかがわれた。
反能力主義モデルが、障害者の能力の低さによる問題を個人に残されるべきでないものと考えているのは、そうした問題を個人に責任のない問題としてとらえているからに他ならない。そして、そうした問題を個人に責任がない問題と認識しているのは、障害者の能力の低さが、社会的要因や障害そのものといった、個人にとって選択・制御できない要因によって生じていると考えているからと理解できる。つまり、反能力主義モデルでは、障害者の能力の低さを理由とした排除が、障害者にとって選択・制御できない要因による、個人に責任のない問題とみなされており、そうした問題が社会的解決の対象として位置づけられているのである。
また、障害の社会モデルも、同様の視点と論理にしたがって問題を把握し、解決を図ろうとしていると考えられる。障害の社会モデルは、障害者が社会において直面する問題を、社会の環境や制度、価値観などといった要因によってつくり出されたものであるとし、それらの要因の除去・改善による問題解決を求める。裏を返せば、そうした社会の側にある要因は個人がつくり出したものではなく、それによって個人が不利益を被るのは不当である、という考えを読み取ることができる。つまり、社会モデルにおいては、あらゆる障害者の問題が、個人にとって選択・制御できない要因によってもたらされた、障害者には責任のない問題として認識されており、社会的な対応による問題の解決が求められているのである。
このようにみると、いずれのモデルにおいても、個人にとって選択・制御できない要因による問題が個人に責任のない問題とみなされており、そうした問題は個人が被るべきではなく、社会的に解決されるべきである、と考えられていることがわかる。問題の区分の仕方や解決の範囲に違いはあるものの、いずれのモデルも、そうした共通の視点から問題を把握し、同一の論理によって解決を正当化しようとしているのである。ただし、すでにみたように、どのモデルも、障害者の労働能力に影響する4つの要因の性質をふまえておらず、障害者の雇用問題を適切に把握しているとはいえないのであった。
6.2 「責任モデル」
それでは、障害者の労働能力に影響する4つの要因の性質を考慮したうえで、従来の理論モデルに共通する視点と論理にもとづいて障害者の雇用問題をとらえ直すとともに、改めて社会的解決の範囲を特定してみよう。
本稿では、障害者の労働能力に影響し健常者との能力差をもたらす要因として、労働能力の習得機会・労働能力の評価おける障壁・障害にともなう労働能力の習得力・労働能力の習得のために費やした努力量の4つに着目し、議論を進めてきた。これら4つの要因のうち、第一に、障害者にとって利用できる労働能力の習得機会が限られていることは、障害者が障害をもつことによって社会の中で不可避的に直面する問題であるといえる。社会において健常者と同等の習得機会を障害者に対して用意するかどうかを、障害者個人が決めることはできない。すでに用意されている習得機会を実際に利用するかどうかを決めることはできても、習得機会の多寡そのものについては障害者には選択の余地はない。また、障害者個人で習得機会を用意することも困難である。このことから、習得機会の少なさは障害者にとって選択・制御できない要因であり、それによって生じた労働能力の低さは障害者が自ら選択・制御した結果ではないといえる。したがって、習得機会の少なさによる能力差を理由とした障害者の排除は、本人に責任のない問題であり、社会的に解決されるべきものであるといえる。
第二に、障害に配慮しない職場環境によって労働能力の発揮が妨げられることや、雇用主の偏見等によりあらかじめ拒否されるといった問題も、障害者が労働市場において特別に経験するものであるといえる。健常者であってもこうした障壁に直面する場合がありうるが、障害者に対する障壁は健常者と比べて格段に大きいと考えられる。このような職場環境や偏見といった障壁は、障害者個人が自らつくり出すものではない。労働市場において障壁が存在するかどうかを、障害者自身が決めることはできない。また、障害者個人では、そうした職場環境を改善したり偏見を除去したりすることは困難である。このことから、労働能力の評価における障壁は障害者にとって選択・制御できない要因であり、それによって生じた労働能力の低さは障害者が自ら選択・制御した結果ではないといえる。したがって、評価における障壁による能力差を理由とした障害者の排除は、本人に責任のない問題であり、社会的に解決されるべきものであるといえる。
第三に、障害者が労働能力を思うように習得できない、健常者と同様に習得することが困難であるといった問題は、障害をもつことによって障害者が不可避的に経験するものであると考えられる。これまでも例示してきたように、脳性まひや知的障害をもつ人々が健常者と同じ努力量を費やしたとしても、それに応じて同様に技能や知識を身につけることは難しい。こうした習得力の低さは、障害によって直接的に引き起こされるものであるといってよい。障害がほとんどの場合個人にとって不可避的なものであることを考慮すると、障害にともなう習得力の低さも障害者にとって避けられないものであるといえる。また、そうした習得力の低さを障害者自身が是正することも困難であると考えられる。このことから、障害者の習得力の低さは本人にとって選択・制御できない要因であり、それによる労働能力の低さは障害者が自ら選択・制御した結果ではないといえる。したがって、この要因による労働能力の低さを理由とした障害者の排除は、本人に責任のない問題であり、社会的に解決されるべきものであるといえる。
第四に、労働能力の習得のために個人が費やした努力量については、本稿では、障害による制限を受けないものと定義し、障害の有無にかかわらずだれもが同様に努力しうると仮定している。苅谷が明らかにしたように、個人の努力にも出身階層やその他の社会環境の影響を受ける側面があり(苅谷 2001: 214-217)、また、すでに述べたように、障害にともなう制限が大きい場合、労働能力の習得における努力の余地は大きく限定されうる。しかしながら、労働能力の習得のために費やす努力量を個人の意志で設定できる側面があることも、否定はできないであろう。このように、労働能力に対して努力も影響を及ぼすという前提に立ち、努力量を個人にとって選択・制御できるものとみなすとき、努力量の少なさによる労働能力の低さは障害者が自ら選択・制御した結果である、といえることになる。したがって、そうした労働能力の低さを理由とした障害者の排除については、本人に責任のある問題であり、社会的に解決する必要はない、といえることになる。
以上のように、障害者の労働能力を規定する4つの要因の性質をふまえ、「個人にとっての責任の有無」によって問題を区分すると、障害者の労働能力の低さを理由とした排除全体のうち、個人に責任のない排除であるといえるのは、労働能力の習得機会の少なさ・評価における障壁・障害にともなう習得力の低さの3つの要因による能力差を理由とした排除である。そして、個人に責任のない問題は個人が被るべきではなく、社会的に解決されるべきであるという見方に立つと、これら3つの排除の社会的な解決が正当化される。これに対して、努力量の少なさによる能力差を理由とした排除は、個人に責任のある問題として区分され、社会的解決の対象からは外されることとなる。このような個人にとっての責任の有無にもとづく問題のとらえ方を、<責任モデル>とよぶことができるだろう。
能力主義モデルは、障害にともなう習得力の問題を、個人にとって選択・制御可能な「能力」による、個人に責任のある問題の側に位置づけていた。一方、反能力主義モデルは、「障害」に左右されない努力量による問題をも、個人にとって選択・制御不可能な、個人に責任のない問題の側に位置づけていた。それによって、2つのモデルは、それぞれ理論的な問題点をかかえるとともに、互いに対立する結果となっていたのである。これに対して、責任モデルにもとづいて能力差をもたらす各要因の性質をとらえ、問題を区分することによって、従来のモデルがかかえる理論的な弱さや対立を解消することができる。そして、「障害」による問題を過不足なく把握し、社会的解決を正当化する論理を示すことが可能になる。また、責任モデルは、障害にともなう制限による問題と個人の努力量による問題を別様に扱うよう求めるものであり、そこでは、障害にともなう制限の大小(努力の余地の大小)に応じた解決が正当化されることとなる。したがって、このモデルは、障害にともなう制限の大きさの違いを超えて、あらゆる障害者に適用することが可能である。さらには、障害にともなう制限をもたない健常者( )に対しても適用可能である。
6.3 責任モデルにもとづく問題解決
では、以上のような責任モデルにもとづくと、いかなる問題解決のあり方が考えられるのだろうか。障害者の雇用問題の第一段階は、障害にともなう制限によって健常者との間に労働能力の差が生じることである。第二段階は、この能力差が労働市場での評価において顕在化し、それを理由として障害者が排除されることである。そして第三段階は、こうした障害者の排除が蓄積することにより、健常者との間に集団的な就業格差が生じることである。ここで論点となるのは、どの段階でどのように社会的介入を行い問題を解決するか、ということである。従来の理論モデルにおいても責任モデルにおいても、労働能力の習得機会の不平等および評価段階における社会的障壁による問題は不当とされており、また、差別禁止や機会平等の意義は国際的に認められている。これらをふまえると、それら要因による問題は、労働能力の習得機会の平等化および評価における障壁の除去、すなわち差別の禁止によって直接的に解決されることが望ましいといえる。ゆえにここでは、障害にともなう労働能力の習得力の低さによる問題に焦点をあて、 かつ が実現した後に残る の問題の解決策について検討することにしよう。
第一に、習得力の低さよる労働能力の低さを防止・解消しようとする策が考えられるだろう。具体的には、障害の治療によってあらかじめ習得力の低下が生じないようにすることや、 倍の習得機会を提供することで労働能力の低下を克服させる、といったことを想定することができる。しかしながら、これらの解決策は労働市場の外部で行われるものであり、労働市場における雇用機会の不平等を直接的に是正するものとはいえない。また、障害を完全に治療することはほぼ不可能であるし、障害者個人に多大な負担を強いることにもなる。習得機会を増やすという策についても、障害者が労働市場に参入しようとする前に実施されるものであり、また、健常者以上の能力を習得できるかどうかは障害者個人の自発性に大きく依存することとなる。これらの点から、障害にともなう習得力の低さによる労働能力の低下を防止・解消するという解決策は、責任モデルにおいては否定されることになる。
第二に、労働能力の評価のあり方を是正するという解決策が考えられる。労働市場においては通常、そこで発揮された労働能力 によって比較が行われ、その低い者が排除されるのだが、こうした選抜の仕方に対して介入し、その修正を求めるのである。責任モデルの求める選抜とは、障害者個人に責任のない能力低下を評価の対象から除外し、個人に責任のある部分すなわち努力量のみを評価の対象にする、というものである。このような評価、は障害者の顕在的能力 を 倍した値 を算出することより、実施することが可能である(式[29])1)。
[29]
今、 を障害者jの<本来的能力>と呼ぶことにしよう。このとき、式[13][29]より、健常者iと障害者jの本来的能力の差は
[30]
となる。これより、本来的能力の評価が実質的には努力量の評価であることがわかる。
ここで、障害者個人の習得力 の値を特定することができるのか、という点が新たに問題となってくるかもしれない。しかし、障害にともなう習得力の低さは、障害の種類や程度によって大きく規定されると推察される2)。そうであるなら、 の値を障害の種類および程度によっておおむね同定できるから(すなわち )、そこから習得力の大きさを予測し、本来的能力 を算出することも不可能ではない。ただし、そこでの および の値はあくまで予測にもとづくものであり、また、健常者の平均的な水準との比較から導出されるものである。したがって、障害者個人の や健常者個人との差を正確に測定することは困難といえるかもしれない。だが、上記のようにして実際に近い値を算出することができ、それによる選抜をつうじて雇用機会の平等化を図ることが可能なのである。
また、労働能力にもとづく選抜の仕方を是正する策としては、障害の種類および程度ごとに顕在的能力 を比較する、といった方法も考えられる。すなわち、 の値ごとに分けられたグループの中での による競争である。同一グループ内では の値は一致するから、グループの中での比較においては習得力の低下は意味をもたなくなる。そして、実質的には努力量による比較・選抜が行われることになる。このとき、同一グループ内での個人j1とj2の能力差は次のようになる。
[31]
ただし、ここでは、グループ間での採用率を等しくすることが条件となる。たとえば、応募者全体のうち8割を採用する場合、いずれのグループからも労働能力の高い順に8割を採用しなければならない。このとき、採用率は個々の企業の経営状況に応じて定められることになるだろう。責任モデルは選抜のあり方を規制するものではあるが、雇用枠の大きさまでを指定するものではない。こちらの解決策も、習得力の個人値 を正確に特定できない点で課題を残すものではあるが、雇用機会の不平等を是正し多くの障害者の就業可能にするものである。
労働能力にもとづく選抜を修正するという解決策は、評価の対象から個人に責任のない部分を除外することを求めるものであり、責任モデルから導出される直接的な解決策といえるだろう。
最後に、顕在的能力 にもとづく選抜をつうじて競争的枠組から排除された障害者に対して雇用を保障する、という形での解決が考えられる。ただし、責任モデルのもとでそれが正当化されるのは、障害にともなう習得力の低さによる労働能力の低さが理由となっている場合のみである。そのため、通常の労働市場から排除された者を対象として による選抜を行ったうえで、雇用を提供することが必要となってくる。そのさい、障害者や企業の分布の地域差などを考慮して資源を投入することが求められるだろう。ただし、この策をとる場合には、社会全体としての雇用機会の不平等は解決されるものの、個別の企業における不平等は解決されない。
これらいずれの解決策においても、結果的に努力量 にもとづく選抜が行われることとなる。そして、どの策をとったとしても、最終的にはグループ間の就業格差が解消することになる。逆にいえば、グループ間の就業格差が解消するまでは、いずれかの策を講じることによって、障害にともなう習得力の低さに起因する排除を防止するか、それによる労働能力の差を理由として排除された者への雇用保障が実施されなければならないのである。なお、これらの方法は、労働能力の習得機会の平等化や評価段階における社会的障壁の除去が完了していない段階でも実施可能である。 および の値も障害の種類や程度によって大きく規定されるだろうから、それをもとに の値を特定し の値を算出すればよい。とはいえ、雇用や教育など社会のさまざまな領域でそれぞれ機会の平等化が図られるべきであり、また、個別の企業においても機会の平等化が図られることが望ましい。こうした立場から、本稿では、労働能力の習得機会の平等を実現し( )、労働能力の評価における障壁を取り除いたうえで( )、本来的能力 にもとづく選抜を実施する、もしくは の値で分けてグループごとに選抜を実施する、という解決策を提案しておきたい3)。
6.4 責任モデルの意義
障害者の雇用問題をとらえる従来の2つのモデルは、障害者の労働能力に影響する要因や、それによる健常者との労働能力の差の性質を考慮しないまま、正当な排除と不当な排除とを区分し、社会的解決の範囲を特定しようとしていた。そのために、それぞれに理論的な問題をかかえるとともに、「障害」の問題を過不足なく把握・解決することに失敗する結果となっていた。また、2つのモデルがいずれも一部の障害者にしか適用できないものであることも明らかとなった。そして、両者は同じ要因やそれに起因する問題について対立的な見方をしているため、2つのモデルを同時に実現することも不可能なのであった。
これに対して本章では、「個人にとって選択・制御できない要因による問題は、本人に責任のないものであり、社会的に解決されるべきである」という従来の理論モデルに共通した視点と論理を抽出し、それにもとづいて労働能力に影響する各要因の性質をとらえ直すとともに、労働能力の低さを理由とした障害者の排除を正当なものと不当なものとに区分し、社会的解決の範囲と内容を改めて検討した。本章で提示された「責任モデル」により、従来の2つのモデルが有していた理論的な問題や対立を解消することができ、かつ「障害」の問題を過不足なく把握・解決できる見通しが示された。また、能力主義モデルの対象者として適合しない障害者も、反能力主義モデルの対象にあてはまらない障害者や健常者も、同一の理論モデルによって把握することが可能になった。責任モデルは従来のモデルに通底する視点と論理を基盤として形成されたものであり、これにより、従来のモデルを修正しつつ接合することに成功したといえるだろう。
これまでの障害者の雇用問題をめぐる議論は、能力主義モデルと反能力主義モデルのどちらが正しいのか、どちらが有効なのかという段階で停滞していたように感じられる。しかし、本章の検討をつうじて2つのモデルが統合され社会的解決の範囲が確定したことにより、いずれのモデルを選択するかという問題から1つのモデルのもとでどの解決策を選択するかという問題へと、議論の焦点が移されたことになる。
さらに、責任モデルは労働市場における雇用以外の問題にも応用可能であると考えられる。高等教育の機会などのように、何らかの能力が必要とされる場であり、かつ参入しうる人数が限定されている場における能力にもとづく選抜のあり方を、責任モデルに依拠して修正することによって、その場に参入する機会を平等化できる。また、責任モデルにもとづくと、賃金補填または所得保障も正当化されうる。障害に起因する労働能力の低下は、労働市場における生産量の少なさをもたらし、賃金の少なさとして帰結することとなる。そうして生じる障害者の所得の少なさは、個人にとって責任のないものであるといえるから、それに対する補填・保障が正当化されることとなる。
また、責任モデルは、障害者の問題にかぎらず、性別や人種、社会階層に関連する問題の解決にとっても有効であると考えられる。そうした「属性」にかかわる問題は、責任モデルにおいて社会的に解決されるべきものとして把握される。したがって、特定の属性をもつことによって直面する機会や資源の不平等など、属性にかかわるあらゆる問題の社会的解決が正当化されることとなる。
6.5 責任モデルの課題
こうした意義の一方で、責任モデルにはいくつかの課題も残されている。
第一に、責任モデルを実施するにあたっては、障害にともなう制限の大きさ( の値)を特定することが必要となる。いずれの解決策をとる場合であっても、障害にともなう制限による労働能力の低下を除外した評価が行われ、解決範囲が特定されることとなる。すでに述べたように の値を正確に算出することは現在のところ困難である。責任モデルをより現実的なものとするためには、障害の有無・種類・程度による労働能力の習得機会の不平等・評価における社会的障壁の大きさ・習得力の低下の違いに「実証的な研究が求められる。
第二に、責任モデルは障害の有無・種類・程度に着目して問題を把握・解決しようとするため、そのようなあり方の是非が問われることになるかもしれない。社会モデルはインペアメントへの着目を否定することから始められ発展してきたし、障害問題についての議論が全体的にインペアメントの社会的な意味を無化しようとする方に向かっている。これに対して、責任モデルを実施しようとすれば、インペアメントに再び目を向けることが必要となる。しかしながら、インペアメントに着目することによってようやく把握可能となる問題も存在しているのであり、責任モデルが求めているのは、それを社会的な問題として顕在化させるためのインペアメントへの着目なのである。決してインペアメントに関わる問題を個人の側に帰するための議論ではなく、その点で責任モデルは医学モデルや個人モデルへの回帰ではないのである。
第三に、責任モデルのもとで実現される状態とは、結局のところ「努力による競争」であるが、その是非についても議論の余地があるかもしれない。障害者に対して努力を要請することが必ずしも適切であるとはかぎらない、といった批判もなされうる。しかしながら、責任モデルが求めているのは、あくまで障害によって努力が制限されている場合の問題解決なのである。そして、本稿での議論は、努力することが不可能または不適切であるような障害者の事情も考慮したうえで、社会的に解決されるべき範囲や内容を指定しようとするものなのである。責任モデルは、いかなる障害者に対しても努力を強制しようとするものではなく、努力可能な者や意欲をもつ者の努力を尊重しながらも、努力不可能な障害者に対する配慮を求めるものである。
第四に、「個人にとっての責任の有無」から社会的解決の範囲を特定することについては、より慎重な議論が必要であると考えられる。ここで提示した責任モデルでは、問題を引き起こしている要因が個人にとって選択・制御可能なものか否かという点から、問題に対する自己責任の有無を判断している。このようにして解決の範囲や内容を定めようとする議論は、社会的分配のあり方をめぐってすでに提示されてきたが4)、そうした議論に対しては否定的な見解も示されている(盛山 2004,立岩 2001b, 2003a, b)。そこでは、本当に自発的選択による問題といえるのか、どこまでが自己責任によるものといえるのかを確証できないという点から、自己責任の有無によって社会的分配のあり方を規定しようとする議論への批判がなされている。
確かに、自己責任の有無を軸として社会的解決の範囲を特定することには、そうした困難さがともなうかもしれない。しかしながら、本章で指摘したように、障害者の雇用問題をめぐる理論モデルが社会的解決を正当化するさいの視点と論理を共有していたことをふまえると、何らかの社会的解決を要求するあらゆる議論は、意図的ではないにせよ、「個人に責任のない問題は社会的に解決されるべきである」という見方を有していると推察できるのである。自己責任の有無にもとづく問題把握を避けられないとすれば、われわれが議論すべきなのは、当該の問題に関する自己責任の有無をどのように判断するか、という点なのではないだろうか。現時点では筆者はこのように考えているが、責任モデルの妥当性については、社会的分配に関する議論を検討した上で、改めて吟味することにしたい。
6.6 障害の社会モデルと責任モデル
最後に、本章で提示した責任モデルと障害の社会モデルとの関係についてもふれておくことにしよう。
障害の社会モデルを基盤としたこれまでの議論をみるかぎりでは、労働