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太田典礼小論――安楽死思想の彼岸と此岸――

大谷 いづみ 2005/03/25 『死生学研究』 (東京大学人文社会系研究科)5:99-122

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「日本ではホスピスがたくさんできたら安楽死問題は解決するように思うとする甘い楽観主義者もあるが、私はここを安楽死への一つの道と受けとった。」  ――太田典礼『反骨医師の人生』一九八〇年


一.素描  安楽死・尊厳死に関する歴史研究・思想史研究は、これまで、米国オレゴン州、及びオランダを中心になされてきた(1) 。安楽死法制化の「先進国」である両国がすでにそれを実現し実行されていることを考えれば当然のことではある。だが、いずれもこれまでの生命倫理学の枠組みを用いて事後的に論争を整理しており、同時代の観点で整理されているとはいいがたい。

 本稿でとりあげる太田典礼(一九〇〇〜一九八五)は、日本の死ぬ権利推進団体である日本安楽死協会(現日本尊厳死協会)を設立し牽引した人物として知られる。同時に、避妊具太田リングを開発した戦前からの産児調(99p)節運動、性科学研究、戦争後一九四八年に施行された優生保護法の、前年社会党による同法案提案者、戦前の京都未解放部落での無産者診療運動、社会党衆議院議員など、多彩な活動を活発に行い、性科学、産児調節、優生保護法、安楽死、自伝のほか、原始宗教や樺太研究、最晩年の小説など多岐にわたる著作を発表した。

 本稿では、典礼が、その安楽死運動において行ってきた叙述に焦点をあて、彼の安楽死思想が排除の論理を伴うものであることを指摘し、そこから、現在の安楽死・尊厳死研究、ひいてはホスピスや緩和ケア、終末期医療のあり方の理論的背景をなす死生学に、別ようの光をあてることを目的とする。

 典礼の安楽死思想に先行研究は存在しない。典礼の評伝としてまとまったものに、稲子俊男[一九九九]があり、記述の多くは太田の自伝に依拠している(2) 。稲子によってしばしば引用されているものとして、太田典礼を偲ぶ会編[一九八六]がある。平等文博が未公刊の資料を含め、幼少時からの太田の足跡を辿る仕事に着手しており、その一端が、平等[二〇〇三]に著されている。山本宣治研究や性教育で業績を持つ小田切明徳もまた、性科学研究の側面から太田の人と業績を整理する作業をはじめている。安楽死運動擁立の一九七〇年代を中心に、典礼と典礼が牽引した日本安楽死協会による安楽死法案の適用行為の推移については、拙稿[二〇〇三]で整理した(3)

 なお、文中差別的表現がしばしば登場するが、いずれも典礼の原文にもとづくものであり、その旨了解されたい。

二.安楽死思想
(一) 合法化の提案

 典礼がはじめて安楽死について発言したのは、『思想の科学』誌に「安楽死の新しい解釈とその合法化」を発表した一九六三年八月のことである。前年の一九六二年末に山内事件名古屋高裁判決が出ており、年明けからすでに法学雑誌では安楽死論議が始まっている。だが、医師の立場ではじめて苦痛緩和を目的とした、典礼にいう安楽致死、医療致死を明確に合法化することを提案した点に、典礼の新しさがある。

 一九六三年時点で、典礼が提案した安楽死立法化の適用行為は、「苦痛を和らげることを主目的とするもので、(100p)死期を早めることを目的としない。従って、使用するのは薬剤であって、麻薬あるいは睡眠薬、神経安定剤である。ただ、その使用の結果、生命を短絡する危険があってもそれにこだわらないという立場に立つ」ものである。「直接に死を招き、あるいは死を早めるような方法はとらない。絞殺などの暴力や観血的手段、血管内空気注射、電気、毒殺薬などは用いない」とあり、したがって、彼が合法化をめざしていたのは、今日の分類でいえば、いわゆる間接的安楽死にあたるもので、積極的安楽死に類する行為は適用外である(4) 。「延命のための処置は充分に施す。この消極的安楽死は併用しない」と明記されており、この時点では、苦痛緩和が安楽死の主たる目的であった。また、がんをさとらせないようにするのが人情であるとの立場から、希望は本人または家族によるとされた。なお、典礼によれば、この提案への反響は松田道雄から激励の葉書が一枚あったのみだという(5)

(二) 啓蒙
 典礼が実際に日本安楽死協会を組織したのは一九七六年であるが、その発端は、一九六八年に植松正や稲田務らとともに設立した「葬式を改革する会」であった。老境に入ったのか、安楽死運動の起点となった同会発行の小文で、典礼は「人生はまもなく終着駅につきます。もう車庫へはいるだけだ」(6) と述べているが、その翌年、六年前に安楽死論を展開した『思想の科学』誌上で、典礼は、「老人の孤独」と題して以下のような指摘を行う。


 「……社会にめいわくをかけて長生きしているのも少なくない。ただ長生きしているから、めでたい、うやまえとする敬老会主義には賛成しかねる。
 ……ドライないい方をすれば、もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。」(7)

 「孤独の思想」を特集した『思想の科学』誌の他の執筆陣の論考はいずれも内省しつつ社会改革に向かう一九六(101p)〇年代末の熱い空気を顕現している。その中で、典礼のこの文章は、ひとり異彩を放っているが、同稿で典礼は、さらに大胆に筆を進める。


 「老人孤独の最高の解決策として自殺をすすめたい。数年前、本誌で、安楽死論をのせたが、更に一歩進めて、自殺を肯定しよう。……自由思想によれば、自殺は個人の自由であり、権利でさえもある。老人が、もはや生きている価値がないと自覚したとき自殺するのは、最善の社会的人間的行為である。……
 老人はなおる見込みのない一種の業病である。まだ、自覚できる脳力のある間に、お遍路に出るがよい。老人ぼけしてからでは、その考えも気力もなくなってしまい、いつまでもめいわくをかけていながら死にたくないようなことをいうからである。……いちばんよいのは、国外へ出ること、そして未開民族の仲間に入れてもらうことである。パスポートをすてて、いくらかの土産と金をもって行けばかんげいしてくれる。そこで行きだおれになれば、適当に始末してもらえる。私はこれを望んでいる。」

 これは文字通り、老人に対する自殺のすすめであり、自殺を目的とした失踪のすすめである。社会にとってめいわくな罪悪となった老人が、それでもなお「社会的人間的」であるために、自殺するか失踪せよ、と呼びかけているのである。しかし、ここでは、それが安楽死の「倫理的な」様相を携えて行われていることを確認したい。

(三) 再提案
 安楽死立法化の発言の再開は一九七二年であったが、そのきっかけは前述の「葬式を改革する会」で安楽死が話題になり、会員の刑法学者植松正の協力を得て『安楽死』(8) を出版したことにある。同書の叙述をもとに翌七三年には『安楽死のすすめ』を単著で出版し、これはその後も長く読まれた。

 立法化提案の再開は、有吉佐和子『恍惚の人』がベストセラーになって老人問題がクローズアップされ、同時(102p)期に「植物人間」が話題になりはじめた、時代状況の変化のさなかに行われた。典礼自身の認識においても両者は分かちがたく結びついていたが、その安楽死運動は同時代の老人・植物人間の問題化と連動して活発にとりあげられることになった。

 この変化は、六三年の立法化案との明確な相違となって顕れた。延命処置を中止・軽減する消極的処置、すなわち消極的安楽死を適用行為に加えた点である。これに付随して、「植物的人間と同格に議論がある」としながらも適用条件に「死期の遠い不治」を挙げ、しかもその範囲を「中風、半身不随、脳軟化症、慢性病の寝たきり病人、老衰、広い意味の不具、精薄、植物的人間」に拡大している点、トインビーの「知能なき老人は罪悪である」という言葉を引きながら、これらを「ただ社会的負担になる人命」と同定し、「社会の大きな負担であること」「益なき人命」が「将来必ず問題になること」の本人、家族の自覚が望まれる旨が記述された点を確認しておく。

 典礼が以後「安楽死の権利」を主張するに際して必ず附記する「老人や不治の患者への無駄な延命治療で金儲けする医師」に対する厳しい非難に、一九七三年に実現した老人医療の無料化が影響を与えていることは間違いない。同時に、彼の『安楽死のすすめ』は、人口問題の項を、人口の老化と人口爆発について記述した後「だからといって、安楽死をというわけではないが、見込みなき延命は問題になってきた」と結んでいる(9) 。バース・コントロール運動はマルサスの人口論に端を発しているが、典礼にとっては、産児調節運動、優生運動だけでなく、安楽死運動もこの文脈にあった。

(四) よき死
 カレン裁判と前後して、以下のごとく、「尊厳を傷つける生」に対して、自らが選ぶ「よき死」「品位ある死」が布置されるようになる。


「患者の方も脳軟化でいつまでもたれ流しで生きていることは、生の尊厳を傷つけるものとして拒否しよう(103p)とする傾向にある。ことに立派な業績を残した人々の間に高まりつつある(10) 。」

「よき死、グッド・デスの確保、苦しまない平和な死。植物人間化して、見苦しい生きざまをさらしたくない。つまり品位ある死を望む、ということ(11)

 一九七六年一月、日本安楽死協会の設立にともなって「リヴィング・ウィル(生者の意志)」が作成され、それまで含まれてきた「家族の意見」の適用条件に大きな変化が生じた。「本人の意思」の確認と代諾の可否は、死ぬ権利の重要な案件である。だが、一九七九年に発表された同協会の末期医療特別措置法案では、延命措置の停止に関する個人の意思決定権の代行を認めないとしながらも、意思能力のないもの(12) について裁判所の審判をうけることができるとされた。

 一九八一年、イギリス及びスコットランドの任意的安楽死協会が作成した自殺の手引き書の処遇が問題となり、その年末、協会は新しい運動方針を発表して、これまで何かと批判の対象となってきた積極的安楽死を否定し活動の重点を自発的消極的安楽死の法制化とリヴィング・ウィルの普及におくことが定められた。同時に、自殺のすすめや手助けを行わないことが宣言されたものの、自殺の自由はみとめることも同時に明記され、「健全な精神の持ち主は見苦しい死をさけたい。ボケてなお生きたいとは思わないのだが、自殺は自ら行うことで、第三者の手による積極的安楽死と混同してはならない。」との解説が付された。付記には、積極的安楽死を推進する団体との批判が会を誤解させその進展を阻んでいる、という無念さが透けて見えるようである。しかし同時に、「自殺の自由」を守ろうとする典礼の意志、さらには、健全な精神の持ち主は、自殺してでも見苦しい死をさけるという「よき死」への強い意志も明記されている。自発性が強調されたこの変化は、ある特定の死のありようが「よき死」として規範化され、それゆえに「意思能力のない者」が問題として浮かび上がるという構図、その処遇をどうするかが問題化されるという構図を内包していた。(104p)

 一九八三年、典礼がかつて激しく批判した「尊厳死」の語を冠にした会名への改称が決定された。会名改称に際し、典礼は協会員に「消極的安楽死の思想を普及させるためには、『どちらの表現が正しいか誤りか』ではなく、その時その時の内外の情勢を考えて運動に有利な表現を採用すればよい」と釈明する。かつて、本意とは別に穏健な安楽死立法を提案したことについて「何歩も後退してもいいから法的に認めさせるメリットは何かと問うた渡辺淳一に、「それによって啓蒙の役も果す」(13) と答えた典礼は、安楽死立法化の提案を「よき死」の啓蒙の第一歩と見なしていた。

三.排除
(一) 対立

 精力的かつ戦略的な安楽死運動の中で、典礼が、終始「むずかしい問題」として警戒を隠さなかったのが障害者団体からのクレイムである。

 発言再開の一九七二年に前後して、親による障害児/者殺害事件の減刑嘆願運動に対し、脳性マヒ障害者団体「神奈川青い芝の会」が「安楽死」させられる側からの異議申し立てを提起すると、典礼の安楽死運動は、しばしば心身障害者問題と結びつけて語られることになる。その象徴が、発言再開直後の一九七二年一〇月、『週刊朝日』に掲載された、「ぼくはききたい ぼくはにんげんなのか」と題する記事である(14) 。奇しくも同年、「胎児条項」の導入を含む優生保護法の改正問題、兵庫県「不幸な子どもの生まれない」対策室が全国に先駆けて発足させた、羊水検査の費用を県費で負担する制度の双方に「青い芝の会」は激しい反対運動を展開した。ここにいたって典礼は、優生保護法制定者・擁護者にして安楽死運動の立役者という、彼の生涯を代表する二つの運動において、心身障害者と真っ向から対立することになったのである。実際、一九七七年に九州大学で行われた典礼と成田薫の講演会が福岡青い芝の会と青医連(青年医師連合)の抗議行動で混乱し、その後、京都大学十一月祭の安楽死シンポジウムにおいて、全障連(全国障害者解放運動連絡会議)の抗議により、典礼の参加が急遽取り下げられ(105p)るという事件(15) もおきた。前後して、大学祭等の集会で、典礼はしばしば学生たちの糾弾を体験している。

 しかし、障害胎児の中絶と安楽死は、障害者の存在を否定するものであるという障害者からの異議申し立てを、典礼は頭から否定する。とりわけ、前述の『週刊朝日』の記事については、自著のなかで、自らの発言も引きつつ詳細に紹介して「安楽死が、全く障害者殺しにされてしまっている。ひどい見当違いである。誤解どころではなく、むりやり心身障害問題と結びつけることによって安楽死に対するまじめな議論を否定しようとするもの」と断ずる(16) 。一九七八年、松田道雄らによって結成された「安楽死法制化を阻止する会」の、「『安楽死』を肯定することは、事実上、病人や老人に『死ね』という圧力を加えることになるのではないか」という懸念にも、態度は同様であった。

(二) 負担な生命
 では、典礼自身、先天的な障害胎児の中絶と心身障害者の「安楽死」問題をどのように考えていたのだろうか。以下に彼の叙述を拾ってみる。


「……劣等遺伝による障害児の出生を防止することも怠ってはならないのである。いま世界の人口過剰が大問題になっており、量より質が重要視され、健康人間、健全社会をめざしているのである。」(17)

「……心身障害者は前述の植物人間と同様、積極的安楽死の対象にはならないのである。不治にあるにしても、死期が切迫しているわけではないし、肉体的苦痛はたえられないほどではなく、むしろ精神的苦痛の方が強い、また苦痛を自覚せず、本人の意志表示ができないような重症の障害者もあり、本人の意志の尊重より、世話をする家族に安楽死の希望の高い場合が多く、今回の北区の障害者殺害事件のようなことが起りかねない。医師はこうした家族の要望にそうべきかどうか、積極的安楽死はできなくても、治療をしないとい(106p)う消極的安楽死の対象になるかどうかである。これも程度によりけりであるが、生きている限り、むやみに治療を打ち切ることはできないであろう。」(18)

「……重度心身障害者は安楽死の対象にはなりにくいが、その将来を案じて世話している親が殺害するという事件も珍しくない。せめて欠陥児の発生を防ぐ必要があり、先天的欠陥児、極端な未熟児の哺育の限界、染色体異常胎児の中絶、重症精神病者の待遇など、むずかしいものが山積している。脳軟化の高齢者問題もあり、公害、薬害のからんでいる場合も多い。」(19)

「老人ぼけがひどくなって意識の表明ができないとか、交通事故や中風などいろんな外傷や病気で脳の障害が起きると心障者となります。肉体の方も甚だしい欠陥のあるのは身体障害として、個人的生活はもちろん、社会生活にも支障を来し、程度にもよるが植物人間のように人格を喪失しているのもあります。……
 ……障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。」(20)

 叙述に一貫しているのは、心身障害児の出生防止によって人間の質を重視する消極的優生の立場である。しかし、安楽死となると、叙述は微妙に食い違う。すでに生まれて現に存在している障害者は「積極的安楽死の対象にはならない」が「治療をしないという消極的安楽死」は「程度によりけり」だから、両者を併せれば「安楽死の対象にはなりにくい」というくくり方に落ち着くのだろうか。

 歯切れが悪いのは、障害者が「生きている」からに外ならない。しかし、安楽死の対象にはならないはずの、その現に「生きている」障害者が、なぜか安楽死と関連して語られる。しかも、典礼の言葉は、障害児/者を殺した親を擁護したがっているようも読める。そもそも「いないのが理想」で出生防止をすべきだと断言している存在の世話をしてい(107p)るからか。いずれにせよ、典礼の叙述は「むりやり心身障害問題と結びつけることによって安楽死に対するまじめな議論を否定しようとする」反対派への批判を、自ら裏切っている。

(三) 「人間」の範囲
 むろん、典礼にいう「立派な業績を残した人々」が望む「よき死」「品位ある死」は、リヴィング・ウィルによって確認されるのであった。だから特段業績も残さず「インテリ」でもなく「よき死」を望まない人は、「いつまでもたれ流しで生きて」「生の尊厳を傷つけ」、「見苦しい生きざまをさら」すだけのことである。だが、心がけ悪く、「よき死」「品位ある死」に対する「意思」の是非が確認できないまま「植物人間」、「本人の意志表示ができないような重症の障害者」「老人ぼけがひどくなって意識の表明ができない」ような老人こそが、典礼にとって「いていいかどうかは別として」、「いることは事実」な、「しかし、できるだけ少なくするのが理想」な存在なのである。そういう人間存在の処遇を、典礼がどのように考えていたかを、次に示す。


 「ここで大きな問題が二つ起こってくる。一つは個人的な生きる権利に関するものであり、いま一つは人口問題につながる社会的な生そのものについてである。
 法律で人間の規定、とくに意識のあるなしが明らかでないと、安楽死に関して生の権利を云々することができるかどうか疑わしいと思うからである。
 生命、人命とは意識あることが基本条件であるはずであり、そうでなければならない。一切の権利は意識なくしては主張することができないからである。それとも生の権利は、意識し主張するとしないにかかわらず、人間という形の存在に、生きている肉体そのものに本来的に附帯しているとするのか。とすれば生の権利と責任の矛盾をどうするか。」

(108p)
 「問題は、病気によっては肉体的にも精神的にも一人前ではなく、人格を喪失しているのもあるので、こういう病人の取あつかいをどうするかです。
 次は何才までを人間扱いするかです。かくしゃくたる老人もいるが、多くは老化すると一人前でなくなります。しかし、法律では何の規定もなくどんなにボケても人格をもっていることになっています。……しかも、いわゆる老人ボケも脳出血など、脳の障害を伴うことが多く、一種の病気です。従って、人間扱いを停止する年令の上限は規定されていません。」

 「公人としての資格は成人になる二十才となっており、二十才以上でも罪を犯して有罪となると、刑の重さによって公民権が停止され、あるいは医師などの資格を失い、また禁治産者、準禁治産者の規定があり、公民権を失います。
 ところが犯罪者以外は、知能、思考能力などがどんなに不足していても、何らの規定もなく、大きな矛盾があります。」(21)

 現に生きて存在している人間存在だから、安楽死の対象にはならない。だからクレイムは「誤解どころではなく、むりやり身障者問題とむすびつけることによって安楽死に対するまじめな議論を否定しようとするもの」なのだと、典礼はいった。だが、同じ『安楽死のすすめ』で、「世界の人口過剰が大問題」となって「量より質が重要視され、健康人間、健全社会をめざしている」社会では、「安楽死に関して生の権利を云々することができるかどうか疑わしい」「人間の規定」を「明らか」にしておかなければならないとも語る。「人間という形の存在」、まさに生物として「生きている肉体そのもの」にすぎず、人間としての「責任」を果たさない生命の「権利」に疑問を提起する。どこまで「人格を喪失」した病人、老人を「人間扱い」するべきか、犯罪者ならば公民権を失うのに、と。(109p)

 確認されるべきは、典礼が「人間の権利」に疑念を提起するするために「人間の規定」を明らかにせよと「人格」の語を持ち出す時の、その用い方である。一九七三年と八二年のこの記述は、まさに同時期、米国で提出されたパーソン論そのものである。

(四) 人権審査委員会
 この問題は、典礼にとって、もっとも「やっかいな」ものであったに違いない。障害者団体からクレイムがついたからとか、それを理由に反対運動が起きたからというだけではない。「人間ではあるが人格ではない存在者」、今風にいえば「ヒトではあるがパーソンではない存在者」を社会のやっかいだと考える典礼にとって、その安楽死思想の議論構成にとって「やっかい」なのである。では、どうするか。社会は「健康人間」による「量より質」の「健全社会」であるべきと考える典礼は、人格の疑わしい人間存在に対する合法的な処置を、以下のように提案する。


「……このようにひどい老人ボケなど明らかに意志能力を失っているものも少なくないが、どの程度ボケたら人間扱いしなくてよいか、線をひくのがむずかしいし、これは精神薄弱者やひどい精神病者にもいえることですが、むずかしいからといって放っておいてよいものでしょうか。……
 この半人間の実態はどこでもあいまいなままにされているが、是非明らかにしてもらいたいものです。……人間の形だけしておれば人間なのか、そのためまともな人権が侵害されることになるのをどう考えるか、どちらの人権が尊重されるべきか、もっと公正に論じて対策を立てるべきではないでしょうか。人権の過剰保護にならないように民主主義の立場から、人権審査委員会のようなものをつくって、公民権の一時停止処分などを規定すべきではないか、と考えます。」(22)

 公民権の一時停止が決定された後、その処遇の何が議論されるのかを、典礼は詳しくは語らない。だが、植松(110p)正との対談で見る限り、「植物人間」の安楽死は確実に想定していて、それは「死の判定委員会」のようなものだという(23) 。だとすれば、少なくとも、典礼の安楽死思想に関する限り、松田道雄らの反対論、障害者の存在を否定するものであるという障害者団体からのクレイムは、決して反応過剰ではなかったことになる。

 協会は後に、「運動方針をはっきりと転換するまで、太田理事長の本心が消極的安楽死に定まらなかった」と、当時を述懐する(24) 。運動方針を転換するに際し、確かに典礼は自殺の自由は認めながらも「自殺はすすめたり助けたりはしない」とし、自殺は当人が行うことで「第三者による積極的安楽死ではない」と断言した。だが、上記、「半人間」の公民権を「人権審査委員会のようなもの」で第三者によって停止せよという叙述は、方針転換後の発言なのである(25)

四.ユートピア
(一) 小説に託す

 典礼が、自殺を目的とした失踪に「理想の死」の原型を見ていたことは、その最晩年にも変化はなかったようである。死の前年、典礼が一九八四年に刊行した二冊の小説集のうちのひとつ、短編集『老人島』の冒頭に掲載された同タイトルの小説「老人島」は、老人たちが廃島に移住して理想郷を建設するという設定である。また、短編集は、精神分裂病(ママ)の青年が失踪する小品「火が燃える」で最後が閉じられている。帯に大書された「昭和版『楢山節考』」の文字が目を惹く。

 もちろん、「老人島」も「火が燃える」も、現実ではない小説上の「お話し」に過ぎない。典礼自身、小説を書くにいたった心境を「年をとると子供のように考えが単純になる。と同時に自由奔放な発想になり、現実を超越した実想がしきりにわいてくる。小説こそ人生のあらゆる面を表現できる手段であり、魂を燃やす唯一の道」(26) だと述べているから、「現実を超越した実相」と「自由奔放な発想」を、小説という表現手段に自覚的に求めたのだといえる。しかも、「これは単なる道楽」でも「老人ボケを防ぐため」でもなく、「積極的に高齢の英知を社会的に役立てるため」だとも述べているから、小説のメッセージを通して社会を啓蒙する意欲には、満々たるものがある。(111p)

(二) 富者の楽園
 ここで「老人島」の梗概を記す。県会議員にして町の素封家、遠藤眞吾は、妻の死後、自宅で老子を読む会を開催していたが、隣島の全島民が近く離島して無人島となるのを聞きつけ、集団移住することを決意、アナキストの友人木村幸三を片腕に、輪読会の仲間を中心に実行する。無為自然を範とする生活だが、戦前から性科学をものにした典礼らしく、老人の性も赤裸々に描かれる。

 病いや死への対処はこの楽園の主たるテーマで、元製薬会社員であった木村がケシの実を頒布し丸薬(老子丸!)の製法を教える。木村と遠藤の発案で、死を前にして蒸発するための洞穴を聖域にすることが認められ、老子にちなんで凾谷関と名づけられる。肉体の苦痛は阿片でおさえ、いよいよの時はケシの丸薬をたずさえて覚悟の死を独りで迎え、周囲に自殺幇助の科を負わせないという、理想の死の実践態である。

 突然死した住人の埋葬が島民の手で行われ、死を覚悟した行方不明者が嵩むに及んで、町役場や警察との間で騒動もおこるが、老人たちの理想社会を応援する声に助けられて事なきを得る。一時乱婚状態から諍いもおこるが、これもそこそこに落ち着く。

 自分が逝った後の悲嘆を恐れて、愛する笑子との同棲を強いて解消した木村は、死が二人を分かつまでと、笑子に再びの同棲を申し入れる。今さら老いらくの恋でもなかろうと笑子に断られた木村に、遠藤が独り言のように語りかけて、物語は幕を閉じる。


 「セックスを楽しむもよし、セックスから解放されるのもよし。セックスのからんだ愛なんて、そう憧れない方が気楽だよ。おれもはじめは男女同棲の方がトラブルがなくてよいと考えたが、必ずしもそれが自然だとはいえないよ、人間は本来孤独なもんだ。生まれるときも一人だったし、現在も一人だ。もう死に近いのだから一人の方がよいと思うようになった。」(27)
(112p)

 老人の性という性の実相を克明に描くとともに、死別・離別の悲嘆や孤独への対処が、理想の死の重要な主題であることを、典礼は見逃さない。一五年前に老人の孤独は「何の役にも立たなくなって生きている社会的罪悪の報い」であると断言し、老人に自殺・失踪を啓蒙した典礼が、自らの死を目前にして、愛を射程に入れた悠揚たる孤独を語る。その変化に、第一線で活躍の場を持つかくしゃくとした立場でのかつての老境でなく、足腰衰えて車椅子を必要とする身となった老境を読み取ることも可能であろうか。

 とはいえ、『老人島』の理想郷は、あくまで富者の楽園である。生涯現実的な実践家であった典礼は、老人島への移住希望者に厳格な経済的条件を求めた。「少なくとも一人月十万円以上、あるいは少なくとも十年間の生活費をもっていること」がそれで、加入金に各人五〇万円が別に科される。明記される登場人物の身分は元会社員、教員、公務員である。移住者の中核が老子輪読会の会員であったことも含め、楽園の住人が知的にも経済的にも恵まれた中産階層に限られていることは明白である。

(三) 病者の悲惨
 短編集『老人島』の最後を飾る「火が燃える」では、「老人島」とは別ようの失踪が描かれる。主人公朝吉は、血族結婚による精神分裂病が示唆された設定である(28) 。発病した朝吉は発作のたびに放火してまわって入退院をくり返し、両親の苦悩の種である。父は町会議員を辞職し、朝吉の後始末で気苦労を重ねながら働き盛りで死ぬ。

 母と主治医の小沼は、性欲の旺盛な朝吉が、赤線廃止後素人の娘を襲うのではないかと恐れる。断種を条件に同病同士ならなんとかなろうという算段で、小沼医師は、うつ病気味で行きおくれの戸島英子とひきあわせ、なかば騙して結婚させるも破綻。今度は元売春婦の子持ち女と再婚するが、財産を持ち逃げされてこれも破綻に終わる。拾ったノラ犬に人間にはない情を感じ、二〇頭を超えると保健所と騒動が起きる。「犬権主義者」の支援があったことから町長選にまきこまれ、ノラ犬屋敷は強制撤去となる。(113p)

 この間、朝吉の暴力にさらされていた母は中風と呆ケ(ママ)で入院し、独りになった朝吉は、淋しさからはずみで飼い犬ピコと交わる。「犬と夫婦になったからには人間とは縁を切ろう」と、自らは木の芽草の葉で飢えを満たし町の残飯でピコを養ってささやかな平和な日々を送っていたが、弱ったピコが死に場所を求めて失踪するや、再び発作が朝吉を襲う。
 ある日、みちがえたように背広を着込んだ朝吉は、もう何もわからなくなった入院中の母に涙ながらの詫びと最後の別れを告げた後、手がかりひとつ残さず消息を絶つ。物語は、次の言葉でしめくくられる。


 「こうして一人の分裂病者の失踪は、社会から一つのやっかいが消えたことになったわけである。
 でも朝吉はいったいどこへ行ったのだろう。不思議な男だ。最後は一時的にしても正気になったのだろうか。かわいそうに。」

 「老人島」の老人たちが、性も愛も孤独も含めて人間として生活を享受しつつ最期は失踪して自らの始末をつけるの比し、「火が燃える」では「失踪」にいたる朝吉の悲惨な人生が冷徹に描かれる。老人島の老人たち同様、朝吉も地域の「上の部」に恵まれる設定でありながら、病んだ精神が両親と本人を不幸に落としてゆく悲惨である。苦悩の父が脳溢血で半身不随になり、母が痴呆の果ての植物状態を示唆されて描かれるのもまた、「老人島」の死とは対比鮮やかな描写である。両者の結末から、何を読み取ることができるだろうか。

(四) 失踪=理想の死?
 「老人島」が理想の死、理想の老境を描く富者の楽園であるのに比し、「火が燃える」は病者の悲惨を描いていると述べた。では、典礼はどのような形で病者の悲惨にケリをつけたのか。

(114p)
 「母のひどい状態を見たせいか、朝吉の頭ははっきりしていた。
「これも因果な病気のせいだ、許してくれ。わしもすきこのんで病気になったんじゃない、おかあが憎うていじめたんとちがう。病気がしたんだ。病気は向こうからやって来たんだ、ああ何という残酷なことだ、情けない。おかあもおやっさんも、わしのようなこんなでけそこないをこしらえようと思って、いとこ夫婦になったわけではなかろう、自然にでけたんだ。人間に責任はない。神さんが悪い、それなのに苦しみ悲しむのはあわれな人間だ、理屈にあわん。神も仏もあるもんか。泣いても泣ききれん。」

 失踪の直前、朝吉は、母を抱きしめて泣きながら自らを右のように嘆く。いっとき正気にもどった朝吉の、悲痛な叫びである。「老人島」の末尾で語られる遠藤の、老境の孤独を悠揚と引きうけようとするさまに比し、「社会から一つのやっかいが消えた」と典礼の手で断ぜられる朝吉の「失踪」は、まさに彼の「消息」が、悲痛な嘆きをともなう孤独とともにあることを想像させる。しかも続けて、典礼は無情ともいえる叙述を重ねる。


 「精神病というのは人間のいる社会で起る病気なので、人間という相手がなければ起ってもちがった形をとるだろうか。狂暴性を表しても、人のいないところなら社会への反応はないわけで、勝手に一人だけが高いところから飛び降りて死ぬようなことが起るにしても、社会とは関係ない。朝吉がどこで発作を起こしても、人が迷惑しなければほっておいてもいいわけである。」

 人間という相手がなければ、病いはおさまるかもしれない。とすれば、朝吉はふたたび社会に戻れるだろうか。あるいは病いがおさまって「正気」の続く朝吉は、「老人島」の遠藤同様の悠揚たる孤独の境地に至るだろうか。あるいは、人間社会に戻って再び発病するよりも、正気のうちに、覚悟の死を選ぶだろうか。何しろ、朝吉は、いっとき正気にもどってはっきりした頭で母に別れを告げ、その足で姿を消したのである。(115p)

 とすれば、朝吉の失踪は、病者の悲惨ではなく、いっとき正気に戻った、つまりいっとき「健康な人間」にもどった病者の、理想の死を射程に入れた、理想の失踪ということになる。とすれば朝吉の失踪は、社会にとって朝吉にとって、なんと都合のよいことであろうか。病者を社会の負担と考える価値観からすれば。しかし考えてみれば、「老人島」の理想の失踪とそれが意味する理想の死もまた、社会にとって老人たちにとって、なんとも都合のよい失踪なのである。老人を社会の負担と考える価値観からすれば。

 しかし、「火が燃える」に描かれた朝吉の「失踪」の、何が「理想」なのだろう。その存在が、「自殺死体」も残らず、「のたれ死に」したのかどうかもわからないままに「人のいないところ」に「消え」てしまったことか。つまり、人の目、社会から見えない存在になったこと、か。しかも朝吉は、誰に強制されたのでもなく、「いっとき正気」になった頭で、つまり、自らの意思で「失踪」しているのだ。

 短編集『老人島』には、その帯に「昭和版『楢山節考』」の文字がひときわ大きく飾られていたと書いた。安楽死についての発言を再開した一九七二年からのち、典礼は深沢七郎の『楢山節考』や姥捨て伝説にしばしば言及する。かつては、「集団生存のための倫理」として、「不治の病人や老人や赤子までも儀式化して、あるいは集団構成員の義務として死に導いた」のだと。「その集団を維持し存続させるために、社会的道義的な力がそうすることを強要し、自ら進んでそれに参画することこそ」が「あたりまえ」であり、「人の生命に対して、集団存在のための倫理のもとに容易に広義の安楽死が行なわれた」ので、それが共同体の「倫理」なのだと(29)

 深沢七郎の『楢山節考』でおりんが息子に楢山まいりをせがんだように、典礼の描く現代版『楢山節考』の「老人島」では、自ら老人島に移住した老人たちが、さらに自ら自死のための聖地(アジール)、凾谷関へ赴く。半身不随の北村老人は凾谷関の風穴まで妻の引く茣蓙で運ばれ、その先を一人で這っていった。狂気にある朝吉でさえ都合よく正気に戻り、正気の沙汰で死への失踪を選ぶのだ。彼らはいわば、望みの如く雪の楢山に眠ったであろうおりんの現代バージョンである。典礼版『楢山節考』には、楢山まいりを拒む又やんを七谷につきおとす倅は登場しない。足も腰も動けないほど弱っていながら食料を盗んでとらえられた雨屋の亭主も登場しない。そもそも楢山(116p)まいりを拒む又やん自体が登場しない。『楢山節考』で攪乱を起こした「やっかい者」は、典礼版『楢山節考』では、あらかじめ消去されて、雨屋に制裁を加える村人たち、又やんを七谷につきおとす倅が行ったような、あからさまな排除の行為を要しないほど、隠微に、しかも徹底的に排除されているのである。そこには、小説という形だからこそ可能となった、小説に託された、典礼の安楽死思想を貫く排除の論理が、彼岸の「ユートピア」として描かれている。此岸の安楽死思想の実現に、典礼は死の判定委員会による植物人間の安楽死と人権委員会による公民権の一時停止を構想したのだ。典礼が夢想した彼岸のユートピアは、委員会方式という制度の装いを得て攪乱者を排除し、此岸のディストピアの実現へと水路を開く。

五.先駆者
 典礼の安楽死思想が内包する「社会の負担となる人間」「半人間」に対する明確な排除の論理を、どのように評するべきか。そこに何が隠されていて、何をみるべきか。そこから逆説的に何を学ぶべきか。

 少なくとも私は、わずか四半世紀前にこのような差別的言辞に満ちた出版物が公けに許されたのかと驚きの念を禁じ得ないし、表現のはしばしに心のざわつきを感じ続けた。反射的に嫌悪感を感じ、読み進めるのが困難であった箇所も多い。とりわけ、小説「火が燃える」はその最たるものである。本稿では触れることができなかったが、松田道雄ら安楽死運動への反対者や、心身障害者団体のクレイムを支援する学生たちを、その私信までも公開して「田舎者」「半脳人間」という言葉で断ずるに接しても、同様の思いをいだく。だが、当時の文脈に置いて読み直したとき、また別ようの姿も見えてくる。渡部昇一による「神聖な義務」問題が一九八〇年であったこと、宇都宮病院事件が一九八四年に起きたこと(30) を考えれば、様々な活動において「先駆者」であった典礼も、時代の子、時代の反映であったのだといえなくもない。

 とはいえ、典礼の先見性は、明らかである。同性愛や老人の性、葬式改革など、筆致には人々を睥睨する傲慢さが否めぬにせよ、その着眼点には、典礼が自認する科学的合理主義だけではなく、「自分らしい生と性と死」を(117p)求める現在の指向の先駆を見ることができる。先駆という点でいえば、ホスピスの、日本最初の紹介者としての典礼を見落とすことはできない(31) 。一九八二年の時点で「死に関する教育」の必要性を説いている点も指摘されるべきである(32) 。そこでの語りは、「よき死」という、典礼が好んで使用した言辞に収束されてはいないだろうか。また、典礼が徹底した無宗教と科学的合理主義を自認・表明する一方で終生原始宗教への関心を寄せ続け、「タマシイがそのあたりをうろついているような気になるので、私はあまり墓詣りしたくない」(33) と述べていることも、紹介しておきたい。死と死者に対する、合理主義だけで語りきれない振幅に、生命科学時代の死生学が担っている射程の「先駆」を見ることもできよう。

 典礼は、人口過剰と「人口の老化」、負担の増える医療費を問題化するに際して、老人や心身障害者の存在と安楽死とホスピスを結びつけた。同時に世間への啓蒙を実践し、若者への死の教育と患者教育の必要性を説いた。そこには「社会の負担」となる「半人間」への冷徹な排除の論理が貫かれていた。しかもその「半人間」を定義するに、どこまでも「人間」「人格」を理性的・知的な能力に限定する現代のパーソン論の原型が通底している(34) 。典礼の先駆性は、理性的・知的な人格の死を「よき死」という一つの様式に規範化し、啓蒙・教育化し、有形無形の宗教性(本人は否定しながらも)をも携えた点にある。その「先見性」を考えれば、現在の死生学が典礼の末裔であることの一面を、否定はできまい。とすれば、現在のホスピス運動、緩和ケア、生死の教育の論理の中に、死生学・生命倫理学の中に、典礼の叙述にみられるような、ある意味では単純な、しかし剥き出しの差別性を拭い捨て、より洗練された言辞で、より巧みな様式で、「社会の負担」となる者への、「半人間」への排除の論理を、それらは隠蔽しているはずである。それを析出することもまた、死生学・生命倫理学の責務ではないだろうか。

 冒頭の「日本ではホスピスがたくさんできたら安楽死問題は解決するように思うとする甘い楽観主義者もあるが、私はここを安楽死への一つの道と受けとった。」(35) という言葉は、典礼の一九八〇年の言葉である。この言葉をどのように理解し判断するか──それは、現在の尊厳死言説と尊厳死思想、その彼岸と此岸を読み解く鍵になるはずである。(118p)



脚注

(1) たとえばK.Foley and H.Hendium (ed) The Case against Assisted Suicide (Johns Hopkins U.P. 2002)、 T.E.Quill and M.P.Battin (ed) Physician-assisted Dying (Johns Hopkins U.P. 2004)を参照のこと。

(2) 典礼はその生涯に数多くの著作を残しているが、そのなかで自伝と位置づけられるものが二冊ある。ひとつは戦時中二度の投獄体験を記した獄中記、『青と赤――私は見てきた』(妙義出版、一九五七年)であり、これは後に『ここをわが家と覚えしか――戦時下の獄中記録』(人間の科学社、一九八〇年)として改題・再刊された。今一つは、雑誌『現代の眼』に一一回にわたって連載され、後に『反骨医師の人生――太田典礼自伝』(現代評論社、一九八〇年)としてまとめられた。その他、太田リングの認可にあたって公刊された『太田リングの記録』(太田リング研究所、一九七四年)にも、リング認可にいたるまでの半生記が綴られている。

(3) 典礼の評伝は、稲子俊男 『産む、死ぬは自分で決める──反骨の医師太田典礼』(同時代社、一九九八年)、太田典礼を偲ぶ会編『生き生きて八〇余年』(太田リング研究所、一九八六年)、平等文博「太田典礼――-その生と性と死をめぐる闘い(1)」(『大阪経大論集』五三巻五号、二〇〇三年、一六三−一八三頁)がある。本稿の基礎になった拙稿として、本文中に挙げたものに、「『いのちの教育』に隠されてしまうこと――『尊厳死言説』をめぐって」(『現代思想』三一巻一三号、二〇〇三年、一八〇−一九七頁)、他に「尊厳死言説の誕生」(『現代思想』三二巻一四号、一四二−一五二頁がある。なお、本稿のために作成した太田典礼他に関する資料はHPに上げ、逐次更新される。アドレスはhttp://www.ritsumei.ac.jp/kic/~gr018032/index-j.html

(4) 太田典礼「安楽死の新しい解釈とその合法化」(『思想の科学』一九六三年、七二−八〇頁)。

(5) 戦前松田が典礼の無産者診療運動を手伝い、一九七二年に安楽死運動を再開した際、本来は安楽死支持者である松田道雄が「すいせんの辞」をよせながら、その後安楽死法制化をめぐって対立したことを考えれば、何が二人を分けたのかは十二分に検証されるべき主題である。

(6) 太田典礼「葬式無用と改革」(稲田務・太田典礼編『葬式無用論』所収。葬式を改革する会、一九六八年、八(119p)八−一二四頁)。一二二頁。引用した箇所は「仙人の話」と題された章で、『九大医報』一九六八年四月号に寄稿された文章の転載である。

(7) 太田典礼「老人の孤独」(『思想の科学』八五号、一九六九年、四二〜四七頁)。四四、四六頁。

(8) 太田典礼編『安楽死』(クリエイト社、一九七二年)は、安楽死論議がメディアで話題になった一九七四年九月、刊々堂と社名を変えた元クリエイト社から『安楽死──善き死若しくは厳かに死ぬ権利』として増補版が再刊された。増補版には宮野彬の「アメリカ安楽死協会の活動状況」が追加されている他方で、松田道雄の「すいせんの辞」は外されている。なお、典礼は活発な著述と出版を行っているが、出版物には修正・加筆・編集を加えた転載・重複が多い。その精査は、彼の思想と主張の変容と本意を看取する上で重要である。

(9) 太田典礼『安楽死のすすめ──死ぬ権利の回復』(三一書房 一九七三年)。一二七頁。安楽死と人口問題をつなげる記述は一九七三年が初出である。ローマクラブ「成長の限界」の発表が一九七二年、邦訳が一九七三年に公刊されていることが影響していると推測される。

(10) 太田典礼「理解進む『安楽死』感情論を排し、冷静な見方を(論壇)」(朝日新聞、一九七五年六月二九日)。

(11) 太田典礼「望み得るか『品位ある死』インタビュー、聞き手・藤田真一」(朝日新聞一九七七年八月二六日夕刊)。

(12)
後の日本尊厳死協会は、「意思能力のないもの」を、法的に遺言作成がないと見なされる一五歳未満の未成年者と心神喪失者などがこれに当たると解説している(日本尊厳死協会編『尊厳死――充実した生を生きるために』一九九〇年、講談社、一九八頁)。ただし同書の記述は一五歳以下と誤記されている。

(13) 太田典礼・渡辺淳一「安楽死はどこまで許されるか」(『暮しと健康』一九七二年九月号、三六−四一頁)。四〇頁。

(14) 「『ぼくはききたい ぼくはにんげんなのか』身障者殺人事件 安楽死させられる側の“声にならない声”」(『週刊朝日』一九七二年一〇月二七日号。一五一−一五五頁)。太田典礼、花田春兆、植松正、那須宗一らの発言が紹介されている。

(15) 私はこの事件は、シンガー事件の先駆と考えている。その意味でも、典礼は「先駆」であるが、「青い芝の会」の先駆性もまた、同時に指摘されるべきであろう。

(16) 太田『安楽死のすすめ』一三九頁。

(17) 前掲書、一五八頁。(120p)

(18) 前掲書、一三七頁。

(19) 太田典礼「安楽死、苦痛と死」(『教育と医学』二六巻八号、一九七八年、六三−七〇頁)。七〇頁。

(20) 太田典礼『死はタブーか』(人間の科学社、一九八二年)。三九、四一頁。

(21) 最初の引用は太田『安楽死のすすめ』一一八−一一九頁。後の二つはいずれも太田『死はタブーか』一二八−一二九、一二四頁。

(22) 太田『死はタブーか』一三〇−一三一頁。

(23) 太田典礼・植松正「安楽死と人命の尊厳を考える(対談)」(日本安楽死協会編『安楽死論集 第五集』所収、人間の科学社、一九八一年、一一−一三頁)。二六三頁。一九八〇年の法令ニュースより転載された。

(24) 沖種郎「拒否反応──法制化反対運動」(日本尊厳死協会編『尊厳死──充実した生を生きるために』所収、講談社、一九九〇年、二〇一−二〇八頁)。二〇八頁。

(25) 正確を期せば、運動方針の転換は、一九八一年一一月二七日の第三八回理事会で決定され、その暮れの会報で周知された。「人権委員会」が叙述された『死はタブーか』は、一九八二年二月に公刊されているから、執筆はほぼ同時期であった可能性もあり、典礼においては両者が併存していたことも考えられる。

(26) 太田典礼「老境のあいさつ」(太田典礼を偲ぶ会編『生き生きて八十余年』太田リング研究所、一九八六年、三〇五−三〇八頁)。三〇八頁。

(27) 太田てんれい「老人島」(太田てんれい『老人島』所収、太田出版、一九八四年、五−一〇一頁)。「老人島」のこの引用は、一〇〇−一〇一頁。

(28) 太田てんれい「火が燃える」(前掲書所収、二〇一−二三二頁)。引用箇所は順に、二三二頁、二三〇頁、二三二頁。

(29) 太田典礼「安楽死の倫理」(『安楽死』所収、一九七二年、五九−八二頁)。六〇−六一頁。

(30) 「神聖な義務」は、上智大学教授渡部昇一が、血友病の息子を二人持つ作家、大西巨人を名指しして、遺伝性疾患のある子どもを産まないようにすることは「神聖な義務」であると主張した週刊文春掲載の同名のエッセイ。「遺伝的な欠陥のある者」や「ジプシー(ママ)」の「処理」の肯定的な発言を引いて物議をかもした。宇都宮病院事件は、精神病院、報徳会「宇都宮病院」で患者へのリンチ、乱診、無資格行為などが発覚した事件で、精神病者のおかれている状況、精神病院の実態を世に知らしめる端緒となった。(121p)

(31) 典礼が和田敏明との共訳でハイフェッツ&ミルトンの『死を選ぶ権利』(金沢文庫)を出版したのは一九七六年四月。彼はこれが日本最初のホスピス紹介だと述べている。現時点ではこれを反証する記述は他に見出せない。翌七七年秋、典礼は英国聖ジョセフ・ホスピスを訪ね、二度にわたって協会研究会で「ホスピス」を題した講演を行っている。一九七八年の第二回日本安楽死協会年次大会ではホスピス推進が提案され、これは朝日新聞の見出しをかざって報じられた。

(32) 太田『死はタブーか』(前掲書、一一頁)で「ここで死の恐怖に対する教育、死の覚悟を説く必要を痛感します。もちろんこれは死が近づいてからではおそすぎるので、もっと早く病気になった時に始めねばなりません。いや健康なときから行う必要があります。それは死に関する教育で、広くは人生教育であって、性教育における全人教育の延長です」と述べている。また、四一頁では、「患者の教育が必要だ」とも述べている。

(33) 太田「葬式無用と改革」一一四頁。

(34) 私が今まで見たところでは、典礼の著作の中に彼がバイオエシックスの文献を読んだ形跡はない。が、少なくとも当時米国安楽死協会会長であったジョセフ・フレッチャーへの言及はあり、安楽死国際会議を通じて交流もあった。いずれにせよ、ほぼ同時期に平行した叙述であり、この点はまた改めて考えてみたい。

(35) 太田『反骨医師の人生』二五八−二五九頁。


(おおたに・いづみ 千葉科学大学非常勤講師・立命館大学大学院先端総合学術研究博士課程)


  *『死生学研究』:
   東京大学人文社会系研究科・21世紀COE「生命の文化・価値をめぐる死生学の構築」の研究機関誌





★追記1

本文中「ホスピスの,日本最初の紹介者」という記述は,脚注31で述べたように,太田典礼自身の以下の記述にもとづく。

「ホスピスがはじめて日本に紹介されたのは私らの訳したハイフェッツの『死を選ぶ権利』で,ついで鯖田豊之の『生きる権利,死ぬ権利』に詳しく出ており,それによって東京の鈴木荘一らの臨床研究のグループが六月に有名なセント・クリストファーホスピスを訪れている」
                          太田典礼『反骨医師の人生』(一九八二年。初出は一九七九年)

しかし,太田典礼がハイフェッツ&ミルトンを訳出出版した前年,一九七五年四月にエリザベス・キュブラー=ロスの『死ぬ瞬間の対話』を訳出した川口正吉がそのあとがきのなかで,聖ジョセフ・ホスピスのラマートン博士の著書に序文をよせたシシリー・ソーンダースの言葉を引くかたちで,英米のポスピスについて約1ページ半を割いて言及している。
「日本におけるホスピスの歴史概要(1)〜(3)」(『医学史研究』六九,七〇,七二号)をまとめた谷荘吉は,川口の記述について「近代的ホスピスに関する紹介記事としては,この著者が第一号ではないかと思われる」と特記しているが,谷のホスピス史概要のなかに太田の聖ジョセフ・ホスピス訪問記事についての記述はない。
太田典礼が日本におけるホスピスの最初期の紹介者のひとりであることにまちがいはない。1970年代の太田典礼と安楽死運動,同時期の日本のホスピス運動創立期の関係(の交錯と変容?)については,機会を得て報告を予定している。
なお,谷の上記文献については,東北大学大学院博士課程の田代志門氏よりご紹介いただいた。ここに記して感謝したい。

       2007年4月14日
       立命館土曜講座「「生存学」の創成――障老病異と共に暮らす世界へ」第2回
       「「よく死ぬ」ことと「よく生きる」ことの「間」――「尊厳死」言説をめぐって」の報告に際して



★追記2

注(3)に記載されたアドレスは,以下に移転している。
http://devita-etmorte.com/



*以下はHPの作成者による

UP:20050509 REV: 20070501, 20151222
大谷 いづみ  ◇太田典礼  ◇全文掲載
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