HOME > 全文掲載 >

『ALS 不動の身体と息する機械』を読んで

―ALSの隠喩について―

宮坂道夫(新潟大学医学部保健学科助教授・生命倫理学/医療倫理学) 2005


 *宮坂道夫さんのHP
  http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/
 *宮坂道夫さんのHPに掲載されている版(前文付)
  http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/opinions/ALS.html

「不動の身体」

  ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、国内に約7000名の患者がいるとされる運動ニューロン疾患で、難病(特定疾患)に指定されている。
  この病気が時に「難病中の難病」と言われるゆえんは、原因不明であることや治療法がないこと以上に、その特有な症状にある。つまり、全身の運動機能、発声、嚥下、呼吸という人間のごく基本的な身体機能が順次失われてゆく。その一方で、感覚や知覚は障害を受けない。それを雄弁に物語るのが、宇宙物理学者のスティーヴン・ホーキング博士がALS患者だという事実であろう。
  症状が進んだ患者は身体をほとんど動かせない寝たきりの状態になるが、わずかに残った運動機能(手足の指や、口、眼瞼など)を使って、パソコンなどで意思表示をしたり、コミュニケーションをすることができる。病状が進行した患者のなかにも、ホームページをつくって様々な意見を表明したり、人に指示を出して仕事を続けたり、活発に社会的活動を続ける人がいる。

ALSと「尊厳死」「安楽死」

  ALSは、医療倫理の領域では特別な関心が持たれてきた疾患でもある。この疾患は、しばしば安楽死や尊厳死といったものと結びつけられて論じられてきた。
  事実として、世界で例外的に安楽死や自殺幇助を認めているオランダでは、全死亡のおよそ2−3%が安楽死または自殺幇助によるが、ALS患者はその10倍の20%の高率で安楽死が選択されている★1。このような実態があるために、ALSという疾患は必然的に安楽死や自殺幇助の問題と関連づけて取り上げられることが多くなる。
  日本では安楽死も自殺幇助も認められていないが、「人工呼吸器の装着・離脱」が1つの大きな争点として議論されている。
  ALS患者の呼吸困難に対して、現状では気管切開と人工呼吸器の装着が唯一の確実な緩和処置である。人工呼吸器をつければ、患者によっては10年以上生きる。ただし、人工呼吸器の装着には痰吸引などの24時間体制の介護が必要であり、この点が特に大きなネックとなる。
  日本神経学会のガイドラインでは、「人工呼吸器の使用を望んでも単身者は不可能であり、家族の積極的姿勢が不可欠で生活歴のなかに深い愛情、信頼がなければ非現実的である場合がほとんどである」と、介護体制がなければ人工呼吸器の装着が難しいことが明記されている。「いったんつけた人工呼吸器をはずしてよいか」という点も倫理的な難題であるが、同ガイドラインでは「本人が望んでも人工呼吸器の停止は不可能」としている。

立岩の本

  立岩の『ALS 不動の身体と息する機械』は、こういった難しい問題に対して、社会学者の視点から1つの見識を示す著書である。何よりもまずその形式に驚かされる。500を超える多数の引用が並んでいる。その多くは、ALS患者が、様々な刊行物やインターネットのホームページなどに発表したものである。
  当事者の語り(ナラティヴ)を拾ってゆく作業は、民族誌(エスノグラフィー)と呼ばれるが、この本は、それとはだいぶ異なる。エスノグラフィーが通常は当事者の語りを丹念に写し取る中で、その人々が生きる生活世界の実態を活写してみせる――いわば《事実fact》について記述であるのに対して、立岩の本は、単なる《事実》の記載ではなく、その《評価evaluation》を行う目的で語りが編集され、構成されている。
  こんな風にいうと、「他人の言説を独善的に編集しているのではないか」と疑う人がいるかもしれない。しかしそうではない。立岩の態度は、首尾一貫して、公正fairであろうとしているように思う。論理学で「あらかじめ1つのことを真と決めつけてしまうこと」を論点先取と呼ぶが、立岩は首尾一貫して、ALSをめぐる言説に散見される論点先取に疑問をぶつけている。
  例えば、「予後」という、診断の根幹についての矛盾が本書の冒頭で指摘される。ALS患者が医師から「2−3年の命」「長くて5年」というような予後を告げられたという証言が多数掲げられる。ホーキングも余命2−3年だと告げられたといい、また医学書などにもそうした記述があるという。
  しかし、これらは〔人工呼吸器を装着しない場合〕(〔 〕内は傍点、以下同)の予後であり、人工呼吸器を装着すれば、患者が20年以上生き続ける場合もある。立岩は、「対応しないときに訪れる死までの時間をこの病気の『予後』とするのはおかしいのではないか。予後は放置した場合の『自然』の経過ではない」と疑問を呈する。至極もっともな指摘だろう。

延命処置をしない、という問題

  そのような論点先取に陥りかねない大きな問題として、上に述べた《人工呼吸器の装着・離脱》の是非をめぐる議論がある。これが本書の1つの焦点になっている。
  この点について、立岩の立場は明確である。この本は、《ALS患者は生きるべきだ》という生の肯定のメッセージに溢れている。立岩は、人工呼吸器を装着せずに死を選択することについて、《尊厳ある死》《自然な死》というような観念で捉えることに疑問を呈する。「息が苦しくなったら、自分らしく、自然に、死ぬだろうか」という素朴な疑問を出発点に、患者の語りを丹念に追ってゆく。
  人工呼吸器を装着することは、当たり前の選択にはなっていない。日本のALS患者のおよそ6−7割が、その選択をしていないという。その《人工呼吸器をつけずに死を選ぶ》という選択は、患者が本当に納得してしているのだろうか――1人の患者の逡巡をめぐって書かれている第7,8章は、この点について多くの患者が思い悩みながら苦しんでいる姿を浮き彫りにする。《人工呼吸器をつけずに死を選ぶ》という信念を掲げながらも、闘病をし、また様々な活動を繰り広げる中で、その信念が揺らぎ、時に思い迷いながら、最終的には人工呼吸器をつけずに死んでいった1人の患者について書かれている。
  この患者はALSの患者会を立ち上げ、病室や自宅で孤立していた全国の患者を結びつける活動をしてきた、よく知られた男性の患者である。特に興味深いのは、同病者が人工呼吸器をつけることができずに死んでゆく姿を目の当たりにして、憤りを表明している様子である。
  自分は「人工的な延命は望まない。自然のままに召されたい。それが残された願いである」(本書の引用番号【319】)「人間のあみ出した機械でやみくもに生かされ続けるのは、ご免こうむりたい」(同【331】)と言いながら、同病者が人工呼吸器をつけずに死んでゆくのを無念の思いで見つめているのである。
  また彼は、「人工的な延命は望まない」という信念を抱く一方で、「意志を伝える手段を奪われ、丸太ん棒のようになっても、私は、人間としての意識を持っている限り、生きていたい。生かされ続けたい」とも述べている(同【332】)。人工呼吸器をつけても発声する装置があるし、コンピュータなどを使って意志疎通をすることはできる。そのことは本人もよく知っていて、自分の考え方の矛盾をめぐって逡巡している様子が描かれている。

倫理問題に影響するイメージ、類比、隠喩

  この1人の患者の姿には、死を前にした人間が抱く不安や、心の揺らぎ、葛藤がよく現れている。《人工呼吸器をつけて生きるか、つけずに(あるいは、はずして)死ぬか》という文字通りに究極の選択は、患者にとっても、また家族や医療従事者にとっても、決定的な決め手のない、不安定な選択である。その不安定さのために、《人工呼吸器の装着・離脱》という問題は、視点の置き方、視野の広さによって、結論が180度変わってしまうことにもなる。
  「人間は自らの死に方を自分で決めてよいか?」――こう聞かれれば、多くの人が肯定するだろう。「ALS患者が、十分に納得して、人工呼吸器を外そうとしている。認めてよいか?」――こう聞かれても、肯定する人は少なくないかもしれない。「機械によって延命されている状態をどう思うか?」――前編(2621号)で紹介した患者のように、それを好ましく思わない人もいるだろう。
  しかし、果たしてこうした問いに対して、私たちは明瞭なイメージを持って判断を下しているだろうか。例えば「機械によって延命されている状態」について、米国でのカレン・クィンラン事件のことをイメージする人もいるかもしれない。

カレン・クィンラン事件とALS

  カレン・クィンランは、1975年に遷延性意識障害となり、家族が人工呼吸器の停止を求めたのに対し、入院先のカトリック系の病院が患者を生かし続けることを主張し、その争いが法廷の場に持ち込まれた。裁判所は最終的に人工呼吸器を取り外すことを許したのだった。
  だが、どれだけの人が、「ALS患者から人工呼吸器を外す」という状況と、「遷延性意識障害の患者が人工呼吸器を外す」という状況との違いを的確に区別できるだろうか。ALS患者には、正常な内的意識がある。彼らの多くが、限られた手段を使ってでも、意思表示をすることができる。ALSの問題を、カレン・クィンランのような遷延性意識障害の問題と類比して考えるには、条件があまりに違っている。
  このように、ある病気に関連した重要な意思決定が、その病気のイメージや類比、あるいは隠喩(メタファー)――何に似たものとして捉えるか――によって大きく影響を受けるというのは、先日亡くなった米国のスーザン・ソンタグが著書『隠喩としての病い』で鋭く指摘したことである。

人工心臓、人工透析器との類比

  前編・後編にわけて論じてきたこの論考の最後に、ALS患者にとっての人工呼吸器を、人工心臓と人工透析器という2つの「人間のあみ出した機械」のどちらに近いと考えるべきか、読者に問いたいと思う。
  これらが最初に臨床応用された状況はきわめて対照的であった。人工心臓は患者をごく短期間しか延命することができなかった。このため患者に「恩恵benefit」よりも「危害harm」を与えているのではないかと見なされた。現在、人工心臓の改良が大幅に進んでいるが、免疫的拒絶の問題は、今日でもなお未解決の問題となっている。
  他方、人工透析器はそれとはまったく逆に、最初から著しい《恩恵》をもたらした。もちろん透析を受けることに伴う時間的・物理的制約はあるものの、腎疾患の患者は何年間、何十年間にもおよぶ生命を得ることができた。
  人工呼吸器が患者にもたらすのは、医学的には、「危害」よりも「恩恵」が大きいことは明白であろう。ただ、立岩も指摘しているように、いまだ未解決なのは、時として接続が外れて患者に死をもたらす危険性があること、そして痰吸引のような介護負担が発生することである。しかし、これは技術的に改良の余地があるだろう。現に、機器の改良や、痰吸引を自動化する試みも進められている。

資源配分の問題としての人工呼吸器

  もし、ALS患者にとっての人工呼吸器が、人工心臓よりも人工透析器に近い位置づけになるのなら、問題はむしろ「それを誰が使えるのか」という資源配分の問題となる。
  1962年に、米国のシアトルの病院で世界初の透析センターが設けられた時に、この資源配分の問題は、後に大きな批判を浴びる方法で決められた。配分の方針を決める委員会は、医学的な基準のみでなく、その人の社会的価値を値踏みするような基準を加えた。つまり、定職を持っているか、子どもを扶養しているかといった属性に加え、その人のパーソナリティであるとか、家族の特徴までも検討事項に加えたのである。委員会は「神の委員会」と揶揄され、《誰が生き、誰が死ぬべきかを決める》という、神のような役割を演じていると批判された。
  この類比をどう思われるだろうか。ALS患者にとって、家族構成や家族の中の人間関係――関係が良好で、介護を引き受ける覚悟がなければならない――によって生きる・死ぬの選択が決められているのは、この「神の委員会」の状況に似ていないだろうか。ALS患者の「人工呼吸器の装着」を議論するにしても、このような「資源配分」の論点を欠くことはできないはずである。これについて、立岩は別の著作で興味深い議論を展開している(『自由の平等』、岩波書店)。
  医療従事者はどうしても目の前の患者やその家族しか視野に入りにくいのかもしれない。治療が不可能な疾患に対して、無力感を感じ、無関心になりがちだということは、たびたび指摘されてきた。立岩は「医療者は、なおらないことに否定的であり、同時に、なおらないで死んでいくことには慣れてもいるということだ。そして社会はそのような場に、(少なくとも今のところは)なおらない人を置いておく。その環境はその人が生きて暮らしていくのに快適なものではない。」と書いている。
  これを皮肉な物言いと受けとめる人もいるかもしれない。しかし、残念ながら、「見捨てられた」ような感覚に打たれる経験をも、また多くの患者が味わっているのである。本書の引用【486】−【488】には、そうした悲しむべき実態が描かれている。
  希望しても人工呼吸器をつけられない人がいる。また、不幸なことであるが、〔本人ではなく家族の意向で〕人工呼吸器をつけない選択がなされる可能性もある。こうした可能性を考えれば、《はずす自由》の議論をする際には、《つける自由》が保障されていなくてよいのかという議論が不可欠だと思えてくる。

ALS患者の生を肯定せよ

  立岩の本は、医療従事者に対して、「ALS患者の生を肯定せよ」「患者の死ではなく生を支えよ」というメッセージを投げかけている。しかも、それは単なる同情論ではなく、理論によって裏打ちされたメッセージでもある。
  ALSに対しては、遺伝子や細胞のレベルでの研究が行われ、また介護を軽減するための機器や、コミュニケーションを支援するための技術の開発も行われている。もっと希望を持って、この疾患やそれとたたかう人たちを受けとめる視点が、医療従事者の中から現れてほしいと願うなお、2月末刊行予定の拙著『医療倫理学の方法――原則・手順・ナラティヴ――』でも、この問題は深く掘り下げて検討しているので、ご批判をいただきたい。

【文献】
★1 J.H.Veldink,et.al.,“Euthanasia and Physician−Assisted Suicide Among Patients with Amyotrophic Lateral Sclerosis in the Netherlands.",New England Journal of Medicine, 346(21)、2002,1638−1644.


UP:20040201
『ALS 不動の身体と息する機械』  ◇生存学  ◇人工透析  ◇全文掲載  ◇全文掲載(著者名50音順)
TOP HOME (http://www.arsvi.com)