*いまのところ無断転載。著者に転載の可否を伺う予定(立岩)
*文中のリンクは立岩による。
見出し「人工呼吸器をつけて生きる環境を」
「書かれるべき本が、書かれた。障害者運動や安楽死、臓器移植といった倫理問題に対峙してきた社会学者の、やはり、ここが出発点であったかと思った。生きて死ぬことについての最も重要で、最も普遍的な問題がここに凝縮されているからだ。
表題は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と人工呼吸器を意味する。ALSは、物理学者のホーキング博士が患っていることで知られる原因不明の難病で、治療法はまだない。ある患者が「永遠に続くカナシバリ」と表現したように、頭脳は明晰なままた体が動かなくなる。食べることも声を出すこともできず、やがて息が苦しくなる。呼吸器をつけて十年以上生きる人はいるが、国内六千人以上の患者の約七割がつけずに亡くなる。
意識は鮮明なのに鮮明なのに息が苦しいなんて怖い。そう思った著者は、安楽死を認めない日本でなぜ呼吸器をつけない(消極的安楽死ではないか)で死ぬことが容認されているのか、生きるのをやめたいと思うほどの状態があるのかを検証する。
材料は、患者の本(多くがハリー・ボッターの版元・静山社)や患者と家族が作ったホームページの闘病記。足の指やまばたきを使う意思伝達装置で綴られたものだけに、これほどの言葉が発信されたいたのかと驚かされる。「クオリティー・オブ・ライフ(生活の質)」や「自然な死」といった耳ざわりのいい言葉の背後で棚上げされた問題が、患者と家族だけに沈潜していたことも見えてくる。
結論は明快だ。人がいて人工呼吸器があれば、自ら死ぬほどの病気ではない。無責任は承知で、それでも生きろと筆者は言う。「質のわるい生」に代わるのは「自然な死」ではなく「質のよい生」。生か死かの選択に患者を立たせている場合ではなく、生きて当然と思える環境を急ぎ整えよと。
迷い、逡巡を繰り返す著者のくねくねした文章に誘われ挑発された読者は、それでも射抜くべき的は射抜く姿勢に、安堵とかすかな感動さえ覚えるだろう。異論は噴出しそうだが、こんなふうに直言した人は今までいなかっただけに、これはなおさら喫緊の課題と得心した。」(全文)