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障害問題のパラダイム転換のために

―障害学批判(障害学から反障害学へ)―

三村 洋明



(はじめに)

  '障害'という言葉は比較的新しいようですが、かっては、医療・リハビリテーションの対象としてとらえられていました。そこでの、「障害学」の推進者は専門家と呼ばれるひとたちでした。その専門性の抑圧批判が「障害者」と呼ばれる者たちから出る中で、そして「障害者」運動の大きなうねりの中で、障害ということのとらえ方の反転ともいうべき転換が起きました。「イギリス障害学」の主張する「障害とは、社会が「障害者」と規定する人たちに作った障壁である」という主旨の規定です。その学的転換を進めたひとたちの中心には「障害者」と呼ばれるひとたちがいました。それまでの「障害」は医療モデル、新しい障害は社会モデルと呼ばれています。ところが、これはいずれも'障害学'と同じ言葉で呼ばれ区別されない中で、'障害'という言葉自体が、どちらの立場で使っているのか、学を語るひとの中でもあいまいなままに進んでいます。
  そして、医療モデルにとらわれた中で、「障害と言うことばには否定的なイメージがあるから」と、ことばを置き換える動きが出て、この混乱に拍車をかけています。'しょうがい''障碍''障がい''「障害」'・・・カオスがもつエネルギーとして、その違いを互いに認め合って、などと言うには余りにも、議論のかみあわされていない現状がそこにはあるのではないでしょうか?  そして、「(障害を論じる)ひとの数ほど、様々な表現がで、障害規定がなされている」ようです。
  欧米では、議論を始める時に、言葉の定義から始めるという習慣があり、学の出発の基礎的な作業と思うのですが、「障害とは何か」という問いかけをすると、非建設的提起とか、空論好きとかいう批判を受けるようです。
  「障害とは何か」と言う問いかけをちゃんとしないでなされる「建設的な議論」と言うのは、基礎のない建物を造るようなことではないかとわたしには思えるのですが、まさに「砂上の楼閣」といえる学を作ろうとしているのではないでしょうか?  そこでは、基礎的なといかけは、建設的ではない議論になるようです。
  もう何年も前に「障害学研究会」が発足する前の、「障害学への招待」という連続講座で、「障害学と名をうって議論をし、会を発足させようとするのに、なぜ、そもそも「障害とは何か」と言う問いかけをネグレクトしているのか」という問いかけをし、それ以来様々な形で、この問いかけを続けています。誰もこの問いかけにちゃんと答えてくれません。
  そもそも議論自体がちゃんと成立しません。「なぜ、障害に学などつけるのだ」とか、「障害を学問の対象にするな」という意見さえ出てきます。
  そこに障害という解決すべき問題があり、それを解決するためには、障害とは何かという問いかけが必要になってきます。そもそも学とはなんでしょうか? 学というのは、その問題を議論し、突き詰める作業だと、わたしは規定しています。学的な突き詰めをもっとも必要としているのは、それを抱え込まされている「障害者」自身です。勿論、非「障害者」が抑圧的なところで関わってくることにはきちんと繰り返し批判していくことが必要なのですが、・・・。
  誤解のないように書いておきますが、わたしは言葉遊びをしているのではありません。言葉の問題がきちんと押さえられないことが、障害問題を巡っての考え方の基本的転換・考え方の枠組みからの転換(パラダイム転換)の妨げになっている、更に運動にも混乱を生み出していることを押さえ、パラダイム転換を貫遂させたいと思っているのです。
  この文章は、障害学研究会のメーリングリストで議論していた/されていたことをわたしサイドからまとめた文です。議論の深化のためにオープンにしておきたいと思います。

(1)言葉の混乱

   'しょうがい''障がい'という言葉が出てくるというのは、どうも、'障害'という言葉には悪いイメージがあるから、言葉を置き換えることによって緩和しようという意識性から来ているようです。これは、明らかに「「障害者」と呼ばれるひとが障害をもっている」という考えから来ています。
  障害の社会モデルからすると、単純な善悪論には抵抗がありますが、あえて、それに乗れば、障害は紛れもなく「悪」です。「悪」であることを強調せねばなりません。それなのに、なぜ、「悪」であることを曖昧にしようとするのでしょうか?
  もうひとつ、'障碍'という言葉については、以前から繰り返し書いていますが、差別形態論が抜け落ちているのです。差別には二つの型があります。端的な言葉で言えば、「社会の迷惑にならないように、社会の片隅で生きよ!(時には死ね!)」という排除型の差別。もうひとつは、「努力して障害を克服しろ!(健全者に近づけ!)」という抑圧型の差別です。その差別形態論を抜け落としたところで、「重度-軽度」という医療モデルからのとらわれから、「軽度障害が、障害が軽い」というとらえ方をすることによって、障害問題がとらえにくくなっているのです。'障碍'という言葉は、色んなひとからの指摘があるように、確かに漢字の歴史的な使われ方からするとこちらの方が古いのかも知れませんが、「妨げる」「排除する」ということを強調する中で、否定的なニュアンスが'障害'よりも薄められているというところで、医療モデルにひきづられたところでの置き換えになっているのではないかと思えます。(同化と言うことに端的に現れる)抑圧型も含んだ障害ということをとらえ返せば、むしろ今流通している'障害'という言葉の方を使う方が、社会モデルの立場からは、よりよいと言えます。
  障害規定の深化の普及に影響力を持っていたWHO(世界保健機構)の障害規定ICIDH(「国際障害分類」)を、医療モデルにまだとらわれているとしてそれを深化させようとした試みが、ICF(「国際生活機能分類」)として出されたのですが、結局これも、医療モデルから転換できませんでした。そもそもWHOという医療関係機関でそのような審議をしたこと自体が間違いだったのですが、・・。
  わたしは障害を社会モデルに沿って、そして、差別のもうひとつの形をもりこんで、「障害とは社会が障害者と規定する人たちに作った障壁と(「努力して障害を克服しろ」という)抑圧である」と規定します。

(2)反障害概念の導入

  そもそも「障害を障害者がもっている」という表現が社会モデルを採るというひとからも出てきます。なぜでしょうか?
  以前、書いた文です。一部校正して引用します。
  ■'障害者'という言葉は社会モデルからすると全く逆の使い方をされていると思っています。例えば、'差別者'という言葉は、差別するひとを指します。差別されるひとを指す場合、'被差別者'ということばがあります。従って、今まで「障害者」と呼ばれてきたひとは、社会モデルからすると、'被障害者'という言葉が妥当します。言葉は社会的に通じないと意味がないという意味で、「障害者」をあえて使うと、どうしても「」を外せないという思いに至っています。
  ■さて、問題はもうひとつ、わたし自身も以前「障害者」と「」をつけて使っていたのですが、それでは名づけられた者という意味になり、「障害者」運動主体という意味で自らを積極的に突き出すとき、「」をつけているとどうも抵抗感があるということがありました。で、「」を外すようになっていました。この問題をどうするのか? この場合は、'反障害者'という表記を考えました。そうすると、運動の当事者性を突き出すときにどうするのかが問題になってきます。'反障害者'では、障害者差別に反対するひとはすべて'反障害者'になります。だから、その場合は、'反・被障害者'というような表記を使えるのではと思います。
  ■この提起をしていると、どうしても起きてくる問題があります。それは「個別障害」をどう表わしていくのかということです。医療モデルにひきづられて身体の部位にあわせて、「個別障害」が表記されてきた歴史があります。医療モデルへのひきづられということは深刻なものがあります。例えば、そもそも障害の医療モデルからの転換を謳って、WHO(世界保健機構)のICIDHの見直しの作業に入ったのに、それがWHOという医療関係の機関でなされ、結局転換に失敗したこと。障害基礎年金が二つの制度に分けられていて、「中途障害者」が医療保険制度にならって、拠出制度の下に置かれ、無年金問題が生じていることなどなど・・・・。
  それらに合わせて、個別障害は身体的部位ではなく、障害の種類によってなされるように転換していくことだと思っています。例えば、'移動障害'、'介助障害'、'情報障害'、'コミュニケーション障害'、・・。個別「障害者」表記もそれに合わせて、'移動被障害者'、'介助被障害者'、'情報被障害者'、'コミュニケーション被障害者'、・・。言葉は現実に通じなれば意味がないというという意味では、過渡的にこれまで使われてきたことばに「」をつけて使っていくことだとも思っています。時々は新しい使い方を示しつつですが、・・・。
  ■こういう議論をしていると「ためにする議論」−「議論好きなものが遊びで議論している空論」というような批判が起きてきます。ですが、わたしはこの障害規定を巡る議論をし、医療モデルから社会モデルへの転換を成し遂げていくことは、反障害運動の方向性を出していく基底的作業と思っています。「障害者福祉」といわれることが、恩恵・慈悲としての施策から抜け出せないこと、被障害者自身が諦観にとらわれていくことから抜け出していくには、この転換をきちんとなしていかなくてはいけないと思っています。そもそも医療モデルから社会モデルの転換自体がきちんとなされていないのです。このあたりのことは「反障害(者)宣言」(仮題)という形で文を出して行きたいと思っています。
 
(3)様々な誤解と問題の突き詰め

  さて、上記の文を出したとき、被障害者から猛烈な反発が返ってきました。「私にはこの生きがたさがあり、医療的なところで障害をなくす、軽減するということ求めている、あなたの言っていることは、そのこと自体を否定するのか」という内容の批判です。わたしが提起している内容が伝わっていないようなので、整理してみます。

  「障害の苦しさ」の「障害」って何?
  まず、病気ということにおける苦しさと言う問題と、障害の直結の問題があります。病気と医療モデルでの「障害」(「」つきの「障害」)も区別されています。更に社会モデルでの障害(「」はつけません)は病気とどうつながるのでしょうか? 病気と「障害」はかっての規定では時間的普遍性の問題で区別していたのですが、今は時間性では区別できなくなっています。わたしはむしろ、病気を苦しさの除去の問題、すなわち狭義の医療の対象の問題として押さええます。これは、一応「ないにこしたことはない」といえるかと思います。ただ、死にも繋がることですが、全否定しうえることかどうか、病気に対する見方も、いろんな人が語ってきた問題があることを押さえた上で、ですが、・・。「障害の苦しさ」ということは、その中身は一体何でしょうか? 「障害」の英語はdisabilityで、「障害」の規定には「できない」ということがベースにあると押さえています。要するに「障害の苦しさ」というのは、「できないことの苦しさ」ということにつながるのでしょうが、二つの問題があります。ひとつは、「ひとりできない」という問題と「介助を得てできる」という問題の混同、「介助が思うようにならない」という問題と「ひとりでやるべきものだ」という問題の混同があります。もうひとつは、そのできると言うことが、そもそも、価値のあることなのかどうかの問題、しかも「ひとりでできる」ということに限定し価値づけていく問題です。それは身辺自立の「健全者幻想」ということへのとらわれの問題につながっています。所謂身辺自立というような標準的人間像を描き、それから外れるものを「障害者」と規定していく構造があるわけで、ひとはひとりで生きているのではなく、協働的連関の役割分掌の中で生きている、その中で、平たく言えば歴史的蓄積の中で、社会的に助け合って生きている、そもそもその社会から遊離した存在は考えられないところで、何故身辺自立すべきとされるのでしょうか? そもそも「ヒトは障害者として生まれる」と言われるように、極めて他者依存的存在として生まれるがゆえに、助け合う関係として社会を作り上げたと言い得ます。何故、身辺自立だけが取り上げられ、問題にされるのでしょうか?
  「 障害の苦しさ」を主張する被障害者の多くは、実は「介助を受けないで、自分でなんでもやれるようになりたい」という障害の医療モデル・リハビリテーションモデルにずっぽりはまっています。この被障害者への差別的社会の価値観、医療モデルでの「障害の否定性」の論理にすっかり絡めとられてしまっています。WHOのICIDHのレベルでも、「障害の苦しさ」の内容のとらえ返しはある程度できることですが、それらのことが何故届いていかないのでしょうか?

  「障害の肯定」と「「障害の否定性」の否定」の混同
  わたしはこの間掘り下げてきた自分のテーマを「「障害の否定性」の否定」と表現していました。で、これを「障害の肯定」と短絡的にとらえるひとが出てきます。「障害の肯定」ということは、医療モデルにとらわれた個性論にもつうじることがあります。「障害の否定性」ということ自体が医療モデルで、括弧をつけて使うもので、その「「障害の否定性」の否定」は医療モデル自体の否定という意味ももっています。そして、否定の否定が単純な肯定ではないように、「障害の肯定」ではありません。「障害の肯定」は、ある種反転させてみせるという文化運動的なことにすぎません。それが過渡的なこととして意味はあるのかもしれませんか、現実の差別に対する闘いには余り意味をもちえません。「そんなことを言ってもわたしの苦しさをどうしてくれるのだ」と言う反発が返って来るだけです。障害を肯定して見せても、現実の差別がなくならないところでは、それはいわば文化運動がそれなりの有効性はあるにせよ、それだけではマイドコントロールで問題を解決しようと言うようなことでしかありません。「「障害否定性」の否定」はひらたく言えば、障害-問題が浮かび上がる構造自体を否定しようと言うことで、問題が浮かび上がらない、平たい言葉で言えば、「できない」ということが普遍的には問題にならない、「どうでもいいこと」にすることです。

  発達保障論批判と「できるようになること」の否定の混同
  もうひとつ、発達保障論批判をめぐる混乱の問題があります。発達保障論というのは、標準的人間像を描き、それに外れるものを「障害者」として規定し、「ひとは無限の発達の可能性がある、障害者も例外ではない、その発達の可能性を求めていくべきだ」という考え方です。それが分離教育の推進力にもなりました。それに対する批判をしていくとき、「できるようになること自体を否定するのか」と言うような反批判が出てきました。「できるようになる」ことを「発達」と言う概念でくくること自体の進歩史観的な見方への批判もありますが、「できるようになること」自体を別に否定するようなことではありません。問題になるのは、「できるようになるべきだ」として、できるようになることを強いていくこと自体が問題なのです。ここで問題なのは、本人が強いられているという自覚的意識がないまま、社会的な価値観にとりこまれ、自己決定として「できるようになりたい」と思っていく、それは強いられているのか自己選択なのか区別がつかないという問題です。例えば、話し方教室のようなサークルがありますが、そこに通うひとが趣味として上手く人前で話すこと自体、人前で上手く話すことができるようになることを、否定するひとはいませんし、必要もありません。ただ、上手く話すことができるようになる、と言っても、趣味としてやるのか、例えば大学の雄弁部のように政治家の登竜門的にスキルをみがくこととしてやるのか、「言語障害者」が「障害の克服」のためにやるのか、意味が違ってきます。趣味でやるひとは、まさに自己選択ですが、「言語障害者」は何らかの差別の中で差別から逃れると言う意味での「障害の克服」という意味をもってしまいます。「言語障害者」が差別がないところで、ということは、「言語障害者」という概念自体がほとんど作用しないところで、上手く話すことができるようになりたいと思うことは、何ら問題にするようなことではありません。「どうでもいいこと」(社会的な価値観の押し付けがないという意味で、「どうでもいい」ことなのであって、個人的に「どうでもいい」かは、また別問題です。それは現在社会で「趣味にのめりこむ」という「趣味」にも類比できます)の中から自らがやりたいことをやる、それがまさに自己選択-決定なのです。別に個人的に自分の選択として、医療モデル的な意味での「障害をなくす」ということを選択しようとすることを、いけないというようなことは言い得ません。ただ、そのような言説を広めようとすることには批判していかねばならないし、また多分、医療モデル的なところで「障害の克服」ということにとらわれている限りは、障害自体をなくす、障害問題の根本的解決の道に踏み入っていけないとの思いは抱いているのですが、・・。

  社会モデルを採っても「障害者が障害をもっている」と言えることがある?
  「社会モデルを採っても、障害者が障害をもっているといえることがある」という主張は、「それでもできないということは歴然とした事実としてある」という主張ですが、その「できないということがある」ということは、まず「できない」ということは障害そのものではないし、そのできないということが問題として浮かび上がっている、そのこと自体が社会モデルでは、関係性の問題-社会性の問題だと主張しているわけです。例えば、「「聴覚障害」ということは、聞こえない-聞こえの程度に「健聴者」と言われる多くのひとに比べて差があると言う事実、そのものはある、それは障害として歴然としてある」という主張は、とりあえず、聞こえないという事実はあるとしても、それは例えば手話を知っているひとの間では障害とはならないという問題があり、更に手話の世界では聞こえないと言うこと自体が浮かび上がらない場合もあると言う主張もできえます。それでも、例えば「危険を知らせる呼びかけが届かないという、それ自体がある」という主張が出てくるとしたら、そもそもそういう危険な関係性を作らないように提起できるひとという反転させた浮かび上がれさせ方もできるわけです。
  こういう話をしていくと「それは聴覚障害の特殊性において成り立つのだ」と言う主張も出てきます。「日常的活動に介助を要する重度の障害者の場合は障害は歴然とある」という主張ですが、はたしてそうでしょうか? 例えば、最近「非物質的労働」とか、「サブシステンス(基底的労働)」いう言い方が出てきています。そもそも労働と言われることの中でひとに本当に必要な労働は何かと言うことを考えていったときに、何も自分ですべてのことをやっているわけでなく、協働連関の中で生きていて、そういう中で、何が最後にやらなければならない、他者に任せられないことは何かと考えたときに、残ることはひととひととの関係をどう作っていくのかということなのではないかと思います。それをひとの基本的活動として押さえたときに、果たして今「障害者」と呼ばれているひとは逆に、「ひととひととの関係を作っていくときに、基本的な提起ができるひと」という見方はできないでしょうか? 勿論、「言葉で提起できない」とされるひとも含めてです。
  こういう話をしていくと、「障害者の置かれている状況を押さえない空論だ」とかいう主旨の批判が出てきます。被差別の中で苦しんでいる被障害者は、その苦しみの中身を押さえないままに、他者に「自分の苦しみを感知する想像力をもて」という主旨の提起をするのですが、想像性といえば、逆に「できない」ことを生活の中で工夫して、そして介助を得て「できる」ようにしていく想像性もあるし、反転させてみる想像性-創造性もあるのではと思います。そして、その中で新しい関係性を創り出していく、創造性・想像性の問題です。

(4)障害問題のパラダイム転換

  「イギリス障害学」の突き出した「障害とは・・」という社会モデルの規定は、哲学・自然科学・社会科学総体の中で起きてきているパラダイム転換という内容の反障害学版とも言えることです。ところが、そのあたりのことを総体的にとらえる作業がなされない中で、社会モデルのもつ意味がつかめず、揺らぎが起きています。それが障害規定の混乱や、語句自体の「ひとの数ほど障害規定がある」という情況なのです。パラダイム転換の中身は、実体主義から関係の一次性への転換という内容なのです。かって「障害個性論」が「障害者」運動の中で、大きな意味をもった時期がありました。ここから新しい「障害者」運動が生まれたのですが、今日新たな飛躍が問われている中で、実体-属性という実体主義にとらわれた「個性論」自体も運動の桎梏になってきています。転換を成し遂げ、社会モデルを深化発展させていく必要があります。

(5)学批判-障害学から反障害学へ

  かって障害ということは、医療モデルそのものの中でとらえられていました。ですから、「障害学」ということが医療的にどうするかと言うことの中に落とし込められていました。それに対して「イギリス障害学」が医療モデルへの批判として新しい学を生み出そうとしたときに、学批判という内容を持っていたはずです。そして新しい障害概念から言えば、反障害学とでも言うべき内容を持っていたはずです。そのことをはっきりつかめなかったが故に、今の「障害学」の混乱が生み出されているのです。ここに改めて、障害ということのはっきりした規定から、反障害運動を飛躍させ推し進めていくときにきているのではないでしょうか?

(6)「イギリス障害学」との対話

  「イギリス障害学」の入門書とでもいうべき本の翻訳『ディスアビリティ・スタディーズ』が出版されました。外国語に弱いわたしとしては、「イギリス障害学」への色んなひとからのコメントからの吸収をしてきたのですが、翻訳を待ち望んでいました。ようやくその一段ともいえる本が出版され喜んでいる次第です。この文章を書いている中でその本を入手しました。その本との対話の中で、問題を煮詰めたいと思います。

  訳語の問題から
  さて、一番注目されるのは、イギリス障害学がアメリカで使われているpeople with disabilityが医療モデルにひきづられているとして、disabled person という言葉を使っていることを紹介しているのですが、前者を'障害者'として訳するとしたら(わたしは「障害者」と訳せると思いますが、これについては後述)、後者をどう訳するのでしょう、この本では、同じように'障害者'と使っているのですが、区別できなくなります。さらに、disabled というのは、受動詞の形容詞的使用ですから、ここはわたしが本文で使用している'被障害'と言う言葉がぴったり当て嵌まります。逆にわたしが使う'障害者'という言葉を、「イギリス障害学」の地平で英語に訳すると、disabling personとなるのではと思ったりしています。英語が不得手なわたしの自信のない提言ですが。
  さらに、disabling disablish ・・・という語がこの本の中で出てくるのですが、原語をほとんどそのまま使用しています。で、ひとつだけ、disablementという語を'無力化'と訳しているのですが、この訳はいただけないとの思いがあります。というのは、確かに、原語からするとそう訳したらフィットするというのがあるかと思うのですが、訳語がその国の中で以前から使われている概念として、どういう意味をもってしまうかを考える必要があると思うのです。日本では、長く、障害問題の根底に能力主義の問題があると語られてきました。無力化と言う言葉は、能力主義にとらわれているような言葉です。ここは思い切って'障害化'という造語的訳語をあてるのはどうだろうと思っています。むやみに、派生語の多い英語をそのまま使うより、造語の方が分かりやすいと思います。disabling は若い人の造語感覚で、'障害する'。disablishは'障害的な'という訳になるでしょうか?  disablement は文字通り'障害化'と訳せると思います。

  障害概念の煮詰め
  さて、もうひとつ気になっているのは、impairment disabilityを原語のまま、カタカナ表記していることです。そもそも、「イギリス障害学」自体が、そのあたりの問題で論争のさなかにあり、そういった中での入門書的なこととして書かれている本の翻訳ですから、そのようになってしまったのでしょうが、今後の問題としてこの問題について、わたしサイドからコメントしておきたいと思います。
  「イギリス障害学」自体で、3種類位の対応が出ているのではと読み取っています。ひとつは、ICIDHの手法に乗って、もしくは引きづられて、impairment disabilityの用法を使っている場合。もうひとつは、impairmentを括弧にくくって、それについては、論じないという手法。更に、もうひとつは、impairment自体を、構築されたものとして脱構築しようという途。この本は入門書で、それらについて、詳しくコメントしていません。ただ、最後の途についても、紹介されています。更に、この本ではフェミニズムとの対話ということも書かれています。その内容について詳しくは書かれていません。フェミニズムでは、ジェンダー(性役割)という概念を持ち出すことによって過渡的に問題が明らかになったけれど、逆に、ジェンダーと言う概念を持ち出すことによって、sex(性差)そのものは歴然としてあるというとらえ方をしてしまい、混乱を生み出してしまった。まさに『ジェンダー・トラブル』(ジュディス・バトラーの書いた本の書名)が起きてしまった。「性差そのものは歴然とある」ということから脱構築していく必要がある、という主張が出ています。これは反障害学にも同じようなことが言えます。それが、impairment自体を、構築されたものとして脱構築しようということです。わたしはこの主張に共鳴しています。

  提起・・全体のまとめも含んで
  わたしは、むしろ訳語問題から派生する'障害'と言う言葉の使い分けは、impairment disabilityではなく、医療モデルと社会・関係モデルとして分けられるべきだと考えています。基本的にimpairmentは医療モデルですが、disabilityという語とその派生・類似語が、曖昧に使われているのではとも思います。そもそも論考が整理されないと訳語自体の曖昧性は解決されえないのですが、わたしは、医療モデル―impairmentを'「障害」'、社会モデルにおいては、disability とその派生語・類似語の中に、impairment disability という使い分けにおける混乱が生じているのですが、impairmentから脱構築しつつ、社会モデル的な意味で純化して'障害'という語を使っていけるのではと思います。
  「障害者」という言葉も、現在的に優勢な医療モデルによって規定された言葉として括弧をつけて使用していくことではないかと思います。勿論、こちらの積極的な突き出し方として被障害者、反障害運動という使い方の浸透こそが必要になっていると思っています。

(7) 反障害宣言(案1)

  さて最後に、これまでの主張をまとめる意味で、(2)の最後に予告した「反障害宣言」の案文を出して置きます。

   反障害宣言(案1)

  「障害者」は、長い間医療とリハビリの対象者として考えられ、そして「障害」は、「障害者」が持っているという医療モデルでとらえられていた。
  「障害者」を中心とする「イギリス障害学」が、「障害とは、社会が「障害者」と規定する人たちに作った障壁である」という、障害規定の根底的転換をなした。
  もう一歩進んで、障壁という排除の問題だけでなく、「障害者は努力して、健常者に近づいていかねばならない」という抑圧型の差別も押さえて、「・・障壁と抑圧である」と書き足さねばならない。
  その上で、混乱した言葉をきちんと整理して使っていかねばならない。
  「イギリス障害学」の障害規定では、英語のディスエイブルド パーソンは、被障害者と訳されねばならない。今まで、全く逆の意味で使われていた'障害者'という言葉は、ディスエイブリュシュ パーソン、もしくは、ディスエイブリング パーソンの訳として使われるだろう。被障害者に対して差別的なひと、障壁を作っていく・維持しようとしていくひとという意味である。
  障害の中身の規定も、医療モデル的な身体の部位に合わせたとらえ方から、障害の中身から、とらえ返す作業が必要になってくる。移動障害、情報障害、コミュニケーション障害、介助に関わる障害、「美意識」障害、標準化による障害、排除と抑圧がもたらした障害・・。
  障害学と言う言葉自体も曖昧になっていると指摘できる。医療モデルの中で「障害学」なるものが進んできた。その医療モデルを批判して作られる新しい学は、障害ということをなくしていくという志向性をもった、反障害学(論)となずけられるべきである。
  そして、反障害学は反障害運動と結びついた学、障害とはなんであり、障害をどうとらえ、どうなくしていくのかというところで、被障害者の立場に立った学として進められるだろう。
  反障害学も、まだ途についたばかりである。未だに、インペアメントとディスアビリティの使い分けが論じられている。インペアメントは医療モデルにひきづられているというとらえ返しの中で、更にとらえかえされ、止揚されるであろう。インペアメントは医療モデルを論じるところで、使われるだろう。日本語で言えば'「障害」'として、括弧をつけて使われるだろう。
  わたしたちは標準的人間像に外れるとして、排除され、そして標準的人間像に少しでも近づくべしと抑圧されてきた。わたしたちは今はっきり、それを差別としてとらえ、その差別と闘って行く、排除と抑圧という障害をなくすために闘って行くことをここに宣言する。
  この闘いは、わたしたち被障害者が生きやすい社会こそが、みんなが生きやすい社会であるというところで、すべてのひとと共に、すべてのひとが生きやすい社会を作る闘いである。わたしたち被障害者は、その闘いの水先案内人である、ありえる存在である。


UP:20041128
三村 洋明  ◇全文掲載  ◇全文掲載(著者名50音順)
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