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「就職」「若者」「労働」「教育」あたりの年表

製作:橋口昌治* 2004.09-

last update: 20151222


 *橋口昌治:はしぐち・しょうじ
  立命館大学大学院先端総合学術研究科(2003.4入学)
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/hs01.htm
 ※大学院のHPに移す予定ですが、とりあえずここに置きます。
  これから編集などして見やすくします。(立岩)

1859年
  ダーウィン『種の起原』
    「優生学史を語るには、どうしても、十九世紀後半の、欧米世界における知の構造的変動までを視野に入れる必要がある。一八五九年の暮れにダーウィ ンの『種の起原』が出版されるまでの長い間、生物学とキリスト教とは濃密な共生関係にあった。生物や人間の合目的性こそは、創造主が存在することの有力な 物証と考えられたからである。ところが、この本の出現によって、キリスト教的な自然解釈は大きな打撃を受けた。しかもこのことは、キリスト教信仰と同時に 与えられていた安定した世界解釈や、それに立脚した人生への指針、倫理の基盤などを連鎖的に崩壊させていく危険を含んでいた。西欧人は深刻な哲学的混乱に 陥った。
 生物学としての進化論は、まもなく多くの科学者が認めるところとなったが、自然科学とキリスト教信仰との間に生じてしまった亀裂を、世界観としてだけで はなく、倫理や魂の救済をも含めた、全哲学の中のどの次元の問題と考えるかで、その危機の意味も異なっていた。この危機に対処するためにさまざまな哲学が 試みられたが、その流れの一つが十九世紀自然科学主義とでも呼ぶべき傾向である。
 ここでいう自然科学主義(scientific naturalism)とは、人間のふるまいやその社会までも含む一切の現象を、非擬人主義的、非超自然的、自然科学的に統一的に解釈しようとする哲学的 傾向のことである。具体的には、唯物論、一元論、自然主義、実証主義、自由思想、不可知論などの基本に流れる姿勢で、一言でいえば、キリスト教的世界解釈 の崩壊の後を埋める一群の経験論的な代案のことである。」(米本昌平ほか『優生学と人間社会』p.15)
    ミル『自由論』
    スマイルズ『セルフ・ヘルプ』

    アメリカ、ペンシルヴェニアで油田発見
    「私は史上初めてのパイプラインのルートを沿って車を走らせ、オレオポリス、プレザントビルを通過、タイタスビルという小さな町に達した。この町 は一八五九年、エドウィン・ドレーク“大佐”によって初めて石油が掘り当てられたところである。この町のはずれに遅まきながらこの不運な先駆者のために 「ドレーク油井博物館」が建てられていた。数多くの石油開発のヒーローたちがそうだったように、彼もまた、企業家たちがそのおかげでぼろもうけしていたの に、貧困のうちに死んだのである。(…)
 「石油地帯」の緑野を古い写真と見比べながら歩いてみると、一世紀前の最初の石油時代はまるでポンペイ時代の文明と同じようにはるか遠い昔のことのよう に思えた。それでいてこの石油時代がもたらした現象は自分の周囲のいたるところにみられる――車、電力、化学肥料など、すべて石油に依存するものだ。この ゴースト・シティは石油につきまとう最も深刻な懸念、すなわち石油は枯渇する、ということを想い起こさせるのにきわめて有益だったといえる。」(A・サン プソン『セブン・シスターズ(上)』p.38-39)

    イタリア独立戦争はじまる

1860年
    咸臨丸、浦賀を出港。勝海舟、福沢諭吉ら渡米
    桜田門外の変

1861年
    南北戦争勃発
    イエール大学がアメリカで最初の博士号を授与(ハーバードが1873年、コロンビアが1875年、ジョンズ・ホプキンスが1878年から博士号を 授与)
    マサチューセッツ工科大学設立
    イタリア王国成立

1862年
    ビスマルク、プロイセン首相に就任。鉄血政策
    「プロイセンの国境は言論や多数決によってではなく、鉄と血によって決せられる」

1863年
    アメリカ、奴隷解放宣言。リンカーンによるゲティスバーグの演説
    ラサールを会長とする「全ドイツ労働者同盟」とベーベルを指導者とする反ラサール派の「ドイツ労働者協会連盟」結成される

1864年
    第一次インターナショナル(国際労働者協会)設立

1865年
    リンカーン暗殺。クー=クラックス=クラン結成
    メンデル、遺伝法則を発表

1866年
    ドストエフスキー『罪と罰』

1867年
    大政奉還
    明治天皇即位
    坂本竜馬暗殺
    マルクス『資本論』第一巻

1868年
    王政復古。戊辰戦争。明治政府、政権奪取。
    江戸、東京に改名。政府は東亰「とうけい」と呼ばせるも、人々は「とうきょう」を呼んだ。
    「開国、そして封建制度の終焉と中央集権的国家制度の導入は、日本の都市システムにも大きな影響を与えずにはおかなかった。新しい制度が導入され るにつれ、全国の都市は、中央集権国家の拠点である東京との関係性において、再序列化させられていったのである。
 たとえば、封建制度の中で地域の中心としての役割を果たしてきた城下町はあちこちで衰退の瀬戸際に立たされた。そして、県庁や官立学校、軍隊、工場など 新しい近代的装置が立地した都市だけが長期的な停滞や衰退を免れることができた(…)。また、日本が資本主義世界経済の世界市場に組み込まれていったこと により、いくつかの都市は、世界市場と直結した形で急激な成長を遂げることとなった。開国以来、日本の主要輸出品の地位を占めてきた生糸生産に関わる北関 東や長野の諸都市、開港場としての横浜、神戸などは、その代表的な例である。世界経済の周辺部に位置する低開発国としての日本の姿が、こうした都市成長の あり方からも浮かび上がってくる。」(町村敬志『「世界都市」東京の構造転換』p.40)

    ハワイへの初めての移民。「元年者」
    福沢諭吉が東京・芝に塾を移転し慶応義塾と命名

1869年
    東京遷都
「封建都市の解体に向かう変化は、もうひとつ別の側面を東京に付け加えていた。それは、消費都市から生産都市へと向かう道筋である。天下を治める政治都市 江戸は同時に、膨大な非生産人口としての武士層――一説には50−70万人――の消費に多くを依存する都市でもあった。そこでは多種多様なサービス業や商 業が、武士層や商人・職人層自身に向けて用意されていた。
 これに対し、明治新政府がめざした殖産興業の路線とは、欧米諸国が産業革命とそれに続く産業化(工業化)を通じて達成した成果を、国家主導の形で日本国 内にいち早く導入しようとするものであった。「資本の時代」を迎えた19世紀、大都市のあり方も世界的に大きな変化を迎えていた。近代都市とはまず産業都 市としてあった。少数の例外を除けば、こう言っても過言ではない。東京の場合、新しい国家体制確立のため、政治都市(帝都)建設が優先されはしたが、しか しそれは、産業都市への変容を否定するものではなかった。いやむしろ、帝都の体面を保つためにも、近代産業は不可欠の要素であった。
 この時期、産業都市への道のりの第一歩は、全く新しい近代産業の移植という形をとった。旧武家地を中心とした官有地での官営工場や軍需工場の建設は、そ の典型であった。このうち、工部省の品川工作分局(ガラス)、深川工作分局(セメント)などは、明治10年代の後半になって、民間へと払い下げられ、産業 資本形成の基盤となっていく。」(町村敬志『「世界都市」東京の構造転換』p.42-43)

    アメリカ、大陸横断鉄道が開通

   ハーバード大学の学長にチャールズ・W・エリオットが就任
    「『ハーバードの三世紀』の著者モリソンは、かつて次のように書きしるした。
「エリオットは、他のいかなる人間以上に、アメリカの青年に対し、今世紀最大の教育上の犯罪をおかした。つまり青年たちから古典の伝統を奪い取ってしまっ たのである」。
 ここで今世紀最大の教育上の犯罪者と名指しされたエリオットとは、他ならぬチャールズ・W・エリオットのことである。エリオットは一八六九年から一九〇 九年にかけて、四〇年もの長きにわたって、ハーバードの学長の座にあった。一九世紀後半にアメリカの大学界は、「偉大な学長時代」を迎えた。(…)
 このように一九世紀の後半、アメリカの主要大学は期せずして、後世に大学長時代と呼ばれる時期を迎えることとなったが、これらの大学長のなかでもエリ オットの名は、ひときわ高く、アメリカ高等教育史のなかで輝いている。(…)
 彼が良きにつけ、悪しきにつけ、アメリカ高等教育史のなかで無視できない存在となっている理由は、彼が伝統的なカレッジのあり方に、根本的な変革を加え たからであり、またその変革がハーバードだけに限定されることなく、その程度こそ異なれ、他のカレッジにまで波及効果を与えたためである。」(潮木守一 『アメリカの大学』p.116-117)

    「事実、当時のカレッジはハーバードに限らず、どこでもいかにしたら学生の学習意欲をかきたてることができるか、頭を悩ましていた。(…)
 ところで、大学とかカレッジは学問の府であると今日でも機会あるごとに主張されはするものの、これまでの長い歴史を見ると、学生の多くが真面目に勉強す るようになった時代は、きわめて稀にしかない。(…)
そのうえアメリカの場合には、アメリカ固有の条件が作用していた。この点は一九世紀のドイツの大学と比較すると、さらに明確になる。まずアメリカのカレッ ジでは、いくら学生がカレッジでよい成績を上げたところで、そのことが彼の将来に何らかの意味をもつことはほとんどなかった。これに対してドイツの大学は すでに一九世紀には、各種の国家試験のための予備校の役割を演じており、牧師になるにせよ、官吏になるにせよ、教師になるにせよ、医師になるにせよ、大学 で教わることを十分にマスターしない限り、国家試験には合格できないしくみとなっていた。こうした構造のなかで、ドイツの大学生はいわば点取虫となり、多 少なりとも真面目に勉強しなければならない立場にあった。
もちろん、ドイツの大学にも、「遊び文化」は綿々と脈うっていた。とくに就職の心配などしないですむ上流階級出身の学生がふえれば、たちまち「遊び文化」 が「勉強文化」を駆逐した。しかし大学が国家試験のための唯一の予備校である以上、下層階級出身の学生にとっては、大学は社会的上昇のためのエレベーター であり、ここに「キャリア型の学生」が出現した。
(…)
 そのうえさらに、アメリカの土地には、カレッジなどというまわり道をしなくとも、社会的成功をおさめる道はいくらでも豊富にあった。社会的野心に燃えた 青年は、カレッジに向かうのではなく、直接実業の世界に向かった。このことは上流社会の間でさえ、あてはまった。」(p.124-126)

1870年
    工部省設置
    神道を国教にする大教宣布

    イギリス、初等教育法成立
    「十九世紀後半は、精神病・精神障害者の問題が、社会的に急に重みを増しはじめた時代であった。そのきっかけの一つは、初等教育の義務化であっ た。一八七〇年、イギリスでは教育法が成立し、大量の極貧層の子供たちが初等教育を受けることになった。ところが多くの子供たちが授業についていけず、肉 体的・精神的な欠陥があることが問題となった。一八八五年に王立障害者学級委員会が設置され、ここが五万人の小学生を対象に教師から報告を集めたところ、 九一八六人の精神・神経系の障害児がいることがわかった。これによって特殊学級の設置が勧告され、貧困家庭の子供には無償の補習授業と住宅補助費が支払わ れることになった。九八年からはイギリス各地で特殊学校が開始され、翌年には特殊学校法が成立した。」(米本昌平ほか『優生学と人間社会』p.26)

    「ブルジョワジーはまず自分自身の健康に根本的に気をかけていました。いわば、それは自己救済であると同時に力の誇示でもありました。いずれにせ よ、労働者の健康などどうでもよかったのです。十九世紀の初めにヨーロッパで起こった労働者階級に対する恐ろしい虐殺についてマルクスが語っていることを 思い出してください。ぞっとするような住宅条件のもとで栄養不足になりながら、人々は、男も女も、それからとりわけ、子供までが私たちには想像できないよ うな長い時間、働かざるをえなかった時代です。一日の労働時間が十六時間、十七時間だったわけです。死亡率がものすごく高かったのも、そういうところから 来ています。それから、ある時期以降、労働力の諸問題が別なふうに立てられ、雇われていた労働者をできるだけ長い間確保しておく必要が出てきて、労働者を 十四、十五、十六時間働かせて死なせるよりも、八、九、十時間の間みっちり働かせる方がよいということに気づいたのです。労働者階級で構成された人材が、 乱用してはいけない貴重な資源と少しずつみなされるようになったわけです。」(M・フーコー『思考集成Y』p.522-523)

    ドニ・プロ『崇高なる者』
    「神の子、大地の創造者。
     めいめいが自分の仕事に精出そう。
     陽気な労働は聖なる祈り。
     神のお気にいり、それは崇高な労働者。」(p.33)

1871年
    シカゴの大火
    「シカゴ再建の過程で、鉄骨の構造による軽量の高層オフィスビルが生まれてくるのである。鉄骨構造に加え、大型の陶板であるテラコッタを外装に用 いることによって、建物は石造建築に比べて大幅に軽量化し、高層化が可能になった。この頃、ニューヨークで実用化しはじめていたエレベーターがそこに導入 されることにより、建築は一挙に高層化するのである。ここにオフィスという新しいジャンルの建築が市民権を得てゆくのである。
 オフィスビルが成立してゆくシカゴ近郊に、オフィスと対をなす近代生活の要素である郊外住宅のプロトタイプが出現することは、ある意味では必然であった かもしれない。それは、F・L・ライトによって生み出されたプレーリー・ハウスという住宅群である。(…)シカゴ派が成立させたオフィスビルとライトに よって生み出された郊外住宅とによって、近代の職住分離の生活に応じた建築類型が完成してゆくのである。」(鈴木博之『都市へ』p.22)

    文部省設置
    廃藩置県
    「藩については、それが、次の世代のための教育の機構でもあったことを忘れてはならない。(…)
 そのかれらにとって藩の廃止と身分制度の解体は、生計の手段だけでなく教育の機会をも奪われることを意味していた。これまでは当然のこととして、無料で 藩校の教育をうけていたものが、藩と同時に藩校も廃止されてしまった。学校に行く義務はなくなったが、同時に学校に行きたければ教育費を負担しなければな らなくなった。それはまさに革命的な変化であった。自分たちが受けてきた教育の機会を、次の世代の子どもたちにも同じように保証してやりたい。それは士族 たちの、きわめて強い願いであったに違いない。
 それだけではない。かれらは新しい生計の道を切り開いていくためにも、教育を必要としていた。(…)廃藩置県、秩禄処分という一連の「革命」が進むなか で、いちばん打撃をうけたのは、いわば倒産企業の中堅ホワイトカラーとでもいうべき、中級の武士たちだったとみてよい。
 そのかれらがめざしたのは、第一に俸給生活者、具体的には役人や教師への転身の道であった。それはかれらがこれまでたずさわってきた仕事ともっとも近い 職業であっただけでなく、かれらがもっている唯一の「資産」、つまり教育によってえられた学識を生かすことのできる職業でもあったからである。」(天野郁 夫『学歴の社会史』p.28-29)

    普仏戦争
    パリ・コミューン。崩壊後、フランス第三共和制発足
    ドイツ帝国形成。ビスマルク、帝国宰相に就任。文化闘争開始
    イギリス、オックスフォード、ケンブリッジ大学の、イギリス国教徒でない限り学位につながるコースには入学できないという制約がなくなる。

1872年
    琉球王国併合。王府を維持したまま琉球藩が設置される
    「琉球処分反対論が、経済コストや差別意識といった、いわば日本と琉球だけの関係から唱えられていたのにたいして、処分推進論は別の関係を考慮す る立場からなされた。それは、欧米にたいする国防であった。 当時の日本は、ヨーロッパ列強によるアジア植民地化の脅威のなかで国境確定と周辺防備の必要にせまられていた。列強にくらべ軍事力では圧倒的に劣勢な日本 にとって、できるだけ本国から遠方に国境線を引き、国防拠点を確保することが望ましかった。すでに北方においては、第3章で後述するように幕末から対ロシ ア国防拠点として北海道の確保が進められていたが、南方の準備は琉球処分においてようやく着手されたのである。 一八七二年五月、大蔵大輔の井上馨が琉球領有を主張する建議を行っているが、そこで唱えられた理由は、「従前曖昧の陋轍を一掃し」て国境を確定すること、 そして琉球を日本防衛上の「要衝」すなわち「皇国の翰屏」として確保することであった。」(p.21)

   学制発布、近代的学校制度の創設に着手
   「「学制」は全国を八大学区に分け、各大学区に大学校を一つ、一つの大学区をさらに三十二中学区に(二百五十六中学校)、一つの中学区を人口六百人 を基準として二百十小学区(五万三千七百六十小学校)に分割するというものであった。この学区は、はじめは一般行政区域とは別建てのものとされた。 この大規模な小学校建設計画は、施行後の約二年間(一八七五年まで)で、全国に二万四千校、学童数二百万人(男子百五十万、女子五十万)、児童の就学状態 は、「名目で男女平均三五パーセント、出席状況を勘案した実質では二六パーセント程度」を達成した。しかし、経費の民間依存が強すぎたこと、児童就学で一 家の労働力が減少したことへの不満もあって、七年後の一八七九年(明治12)に「教育令」に衣替えすることを余儀なくされる。」(猪木武徳『学校と工場』 p.24)

    陸海軍省設置
    太陽暦採用

1873年
    徴兵制発布、満20歳男子の3カ年の兵役服務。各地で徴兵反対一揆
    内務省設置
    第一国立銀行設立
    三菱商会設立

1874年
    台湾出兵

    ヨークシャー科学カレッジ開設
    「一九世紀中葉のイギリスにおいては、北部および中部産業都市に見るべき実業教育機関が存在せず、ドイツの進んだ教育機関に依存せざるをえない状 況であった。新産業企業家は、諸外国との競争に打ち勝つために、政府の施策を待ちきれずに自ら資金を捻出して、実業教育機関の設置に尽力した。その結果、 産業都市に市民大学が設置された。」(川口浩編『大学の経済社会史』p.186)

1875年
    江華島事件
    東京女子師範学校開校

    ドイツ社会主義労働者党が成立

    ジョンズ・ホプキンス大学設立
    「ジョンズ・ホプキンス大学の大学院構想は、その当時のアメリカの教育界、あるいはアメリカ社会のなかではどういう意味をもっていたのであろう か。まず第一に、大学院コースは、必ずしもジョンズ・ホプキンスが最初に作り出したものではなく、いくつかの大学ではそれに相当するものはすでに存在して いた。これらの大学では学部段階の教育を修了してからも、もっと勉強をつづけたいと希望する者には大学に残って勉強をつづける機会を与えていた。(…)つ まり大学教師の養成コースは、いまだ制度化されておらず、専門化されてもいなかった。
 それにすでに述べたように、当時のアメリカ社会においては、大学とは、子供を一人前のジェントルマンにしあげることがその目的で、学者を養成するところ ではなかった。学者とか大学教師というグループは、いまだ確固たる社会的存在基盤をもっておらず、それを専門的に養成する必要性もなかった。だからその当 時、子どもにカレッジ教育を与えたいという社会的ニーズは存在していても、それ以上の教育を与えたい、あるいは受けたい、というニーズはそれほどなかった し、また社会の内部にも、そんな高度の教育を受けた者を組織的に採用しようなどというニーズも存在しなかった。(…)
 それでは大学院レベルの教育が必要だという認識は、どこにあったのだろうか。それはごくひとにぎりのインテリ、それもヨーロッパでの大学教育を受け、 ヨーロッパの大学とアメリカの大学との間の大きな格差を身をもって体験したひとにぎりのインテリの内部にしかなかった。彼らは、ある時はヨーロッパに対す る対抗意識から、ある時はヨーロッパに対する劣等感から、さらにある時には、自由に研究に没頭できる場がほしいという期待から、高度の研究を目的とする場 を求めていた。」(潮木守一『アメリカの大学』p.158-159)

 「ドイツ帰りの教授たちが、アメリカにもち帰ったものは、一言にしていえば「研究」であった。つまり一つのテーマをあきることなく、コツコツと調べ上 げ、そのなかから何らかの独創的な知見を引き出し、しかもたがいにその独創性を競い合う行動様式が「研究」と呼ばれるものの具体的な姿であった。さらにま たいえば、少年のような好奇心に目をぎらぎらさせ、他のことには一切目も向けず、もっぱら一つのことに没頭することによって、自らのアイデンティティを獲 得しようという特異なタイプの人間が研究者と呼ばれた。」(p.167)

1876年
    三井銀行創業、雇用関係の近代化
    「三井は、江戸期には呉服業と両替業を経営活動の中心に据えて事業展開をしてきたが、明治維新期の社会的・経済的変動期の危機をのりきるために、 在来的業種である祖業の呉服業を分離し、近代的業種である銀行業を中心にした経営組織の再編成をすすめ、1876年に三井銀行を創業した。これを契機に、 三野村は主人と奉公人の主従という関係を、三井家同苗と使用人は「共に社友」という対等な関係にした。また、住み込みを原則として、主人が衣食住の面倒を 見るという奉公人制度を廃止し、すべての使用人を通勤制にして、給料を支給するという使用人制度にかえた。
 奉公人制度から使用人制度への転換は、使用人制度の教育訓練に大きな影響をおよぼすことになる。奉公人制度のもとでは、教育やしつけは、奉公入りした 12-3才のころから、昼間は業務の見習い、夜は読み書き、算盤の稽古といったように日常的におこなわれたが、通勤制になると、基本的な算筆をすでに修得 しているものが求められるようになる。また以前のように大量採用・大量淘汰を人事管理の基本として、優秀なものを選抜し育成するという方式では、新入りの ものにも給料を支給するので、コスト負担が大きくなる。そのため、採用段階でかなり厳しい採用基準を設けて選考をおこない、採用人数を少なくせざるをえな い。そこで基準となったのは、一定水準の「学力」を有しているかどうか、またどの程度の学校教育を受けているかといったことであった。また銀行員は現金を 扱い、信用がとりわけ重要なので、身元の確かなものであることが求められたし、技能や適性も重視された。」(千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教 育への依存」p.18)

1877年
    東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学誕生
    西南戦争
    鉄道局設置
    上野公園で第1回内国勧業博覧会

1878年
    北海道開拓使がアイヌの呼称を「旧土人」に統一することを布達

    ドイツ、社会主義者鎮圧法

1879年
    琉球処分。琉球王国が廃止され沖縄県に改名される
    教育令公布

    ドイツ、保護関税政策に転換

1880年
    改正教育令
    朝鮮の漢城(現=ソウル)に日本公使館設置

1881年
    小学校教訓綱領が定められ、初等・中等・高等に区分した
    自由党結成、日本初の近代的な政党
    明治生命開業、日本発の生命保険会社

    フランス、「公立小学校の無償化」法案成立
    「かくして、中世以来の情報と文化の諸機能を集中したイデオロギー装置たる「教会」は伝統的な家族制度と結びついてその支配を懸命に維持しようと し、これに対し全共和派はこの「反教権」という一点では一致して「教会」に戦いをいどんでいたのである。
 そして、パリ=コミューンの崩壊の後、一八七一年にフランス第三共和制が発足する。この第三共和制こそが、反教権の旗印のもとに、「無償・義務・非宗 教」の公教育を実現するのである。(…)
 (…)
 各地での論争や議会での激論を経て、公教育相をつとめていたジュール・フェリー(一八三二−一八九三)は、精力的に「無償・義務・非宗教」教育の実現を はかろうと努力をつづけた。その結果として、一八八一年六月一六日に「公立小学校の無償化」法案が成立し、つづいて一八八二年三月二八日には「初等教育の 義務化、非宗教化」法案が成立することとなった。(…)
 かくて、フランス革命以来の共和派の悲願であった「公教育」がようやく実現することとなった。それはとりもなおさず、子どもを媒介として家族そのものを 国家の側に統合することを意味していたのである。(…)」(桜井哲夫『「近代」の意味』p.53-54)

1882年
    日本銀行営業開始
    軍人勅諭

    壬午軍乱
    アメリカ、中国人移民排斥法

1883年
    陸軍大学校開校

    アメリカ、ペンドルトン法(連邦公務員法)制定
    「このペンドルトン法によって、超党派的構成の人事委員会が設置され、任用の条件として職階に指定された公職に限定した公開試験制度の導入と、公 務員の政治活動禁止が法的に規定されるようになった。ペンドルトン法は、イギリスの公務員制度の改革内容を参考にしたと言われるが、戦後日本の公務員法が ペンドルトン法の影響を受けていることは確かである。」(猪木武徳『学校と工場』p.192)

    ドイツ、健康保険制度導入
    「営業条例(工場法)の改定と女性保護法の制定を絶対に阻止しようとした帝国宰相のビスマルクは、そのかわりに国家福祉を導入して、労働者を懐柔 しようとした。その結果、ビスマルク政権下のドイツでは、一八八三年に健康保険、八四年に労災保険、八九年に障害・老齢年金と、近代的な社会保険制度が他 のヨーロッパ諸国に先駆けてつぎつぎに法律として導入されることになった。これ以前からすでに、雇用者と被雇用者の双方が拠出する共済年金は存在したが、 従来の金庫が疾病、労災など、さまざまな領域を包括的に保障したり、あるいは特定の領域だけに限定されていたのに対して、八〇年代の社会保険は健康、労 災、障害・老齢と目的別に設定されている。
 また、従来のものと比較して新しい保険は次の点で抜本的に異なっていた。第一に、この制度は強制加入であり、工場労働者すべてが加入対象になるなど一般 性を帯びた。第二に、給付に関する最低基準が全国一律に規定された。第三に雇用主の拠出義務が法定化され、保険ごとに労使の負担割合の基準が定められた。
 この新しい制度は全国的に組織された包括的で強制的な連帯共同体であり、国家が財政援助し、また雇用主と被雇用者は何らかの形で組織運営に参加した。 (…)不十分なものであったとはいえ、雇用労働者の保障が労働と結びついた権利として認められたという意味で、この社会保険は近代的な制度であった。」 (姫岡とし子『ジェンダー化する社会』p.139-140)

    「社会保険における議論や法的規定は、労働者としての女性を弱者、二流労働者として扱い、以前から存在していた労働におけるジェンダー・ヒエラル ヒーを容認し、再編強化したのである。逆に男性はこの近代的な制度のなかで家族扶養者として正式に認定され、これにより労働者としての地位を高めることに なった。さらに女性の権利に関しては、健康保険では経済的な事柄が問題になっているという理由で選挙権が与えられたけれども、その他の保険では判断力が必 要な司法の問題として拒否され、この意味でも既存のジェンダー観が再生産されるとともに、女性労働者は弱者、すなわち「保護される者、依存する者」という 意味が強化されたのである。
 この保険はまた、家族モラルを定義する上でも重要な役割を果たした。子どもの年金や出産に関しては婚姻外の場合でも認められたが、寡婦手当てに関して は、事故後の婚姻締結を対象外とし、結婚返還金も正式な証明書が必要など、制度的な婚姻に固執した。このように社会保険法は、近代的な家族規範を浸透さ せ、労働者のジェンダー化を推進するにあたって重要な役割を演じたのである。」(p.172-173)

1884年
    秩父事件
    甲申事件

1885年
    内閣制度が発足、伊藤博文が初代総理大臣に就任
    福沢諭吉「脱亜論」
    坪内逍遥『当世書生気質』
    ハワイへの「官約移民」はじまる。横浜から出発

    「ガス・エンジンを動力にする車両」がカール・ベンツによって発明される。翌年に特許登録

1886年
    小学校令公布。義務教育、教科書検定制度など
    帝国大学令、東京大学が帝国大学に、
    「第一条 帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」

    私立法律学校特別監督条規、帝国大学総長による東京府の私立法律学校の監督

    中学校令、五年制の尋常中学校(1890年に全国で110校)と二年制の高等中学校(全国に7校設置)創設
    「この時期の標準的な進学ルートは、尋常中学校の各学年修了者あるいは卒業者が、まずは高等中学校付属の予科や補充科を受験し、入学後に、尋常中 学校の教 育課程を再度修学した上で、本科に進学するというものであった。したがって、高等中学校の入試も、本科の定員を満たすための選抜試験というよりは、むし ろ、受験段階での学力水準に応じて、尋常中学校に相当する予科や補充科の入学を許可する検定試験として実施されたのである。
(…)
 この時期の高等教育機関進学者の平均年齢は、入学規定による最短年数よりも、大幅に上回っていた。たとえば、一八九二年における第三高等中学校の予科第 一 学年(最短一四歳で入学可能)の在籍者一〇一名の年齢は、最高で二七.四歳、最低で一四.九歳、平均では一八.九歳、さらに補充科二五名の平均年齢は一 九.四歳であった。何年にもわたる受験に末、ようやく補充科の水準に到達したという者も多数いたことがうかがわれる。(…)」(川口浩編『大学の社会経済 史』p.130)

    北海道庁設置

    三井銀行、試験による行員採用法を定める
    「本人の健康状態や品行、本人と身元保証人の資産状況などの調査をしたうえで、受験が許可される。受験者の年令によって、試験科目が異なり、丁年 以上のものを対象とした試験は、和漢書、算術、楷行書、営業上往復文書、簿記、経済学、法律、洋学、会話談判の8科目で、未丁年を対象とした試験は、小学 校高等科・中等科の範囲内である。合格者は、30日間、試補として簿記課、債務課、金庫課の3課以外の課に配置されて才能が試された。」(千本暁子「ホワ イトカラーの人材育成と学校教育への依存」p.18)

1887年
    「高等文官」任用制度発足。官僚として帝国大学卒業の学士が大量採用されるようになる

1888年
    海軍大学校開校

1889年
    大日本帝国憲法公布(1890年施行)
    東海道線の新橋−神戸間の鉄道が全線開通
    三菱長崎造船所、親方職長層に代わる熟練工を自ら養成し始める
    『試験及第法』

    イギリス、技術教育法制定
    「第三に、実業教育に対して、一八八九年技術教育法の制定までイギリス政府はほぼ無為無策であったという点である。したがって、イギリス社会には 実業教育を推進する基盤が脆弱であったのであり、産業界と教育界とが協力関係を築きにくい土台があったのである。では、イギリス社会にとって、大学とはど のように位置付けられていたのであろうか。
 学卒者であることの意味が、シティの銀行家にとっては「ジェントルマンとしての素養を身に付けること」であったし、一方、世紀転換期の産業企業家にとっ ては「専門的知識を身につけて、諸外国に対してキャッチ・アップを図ること」であった。」(川口浩編『大学の社会経済史』p.186-187)

1890年
    岩崎弥之助、丸の内一帯の軍用地払い下げを受ける。「一丁ロンドン」と呼ばれるオフィス街となる。
    第一回帝国議会
    教育勅語の発布

    小学校令改正(第二次小学校令)
    「第一条 小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」
    逓信省、女子電話交換手を募集し訓練を開始

    ビスマルク辞任

1891年
    三井銀行、高等教育を受けた人材を初めて採用
    「ところが、当時高等教育を受けたものが民間企業に就職することはきわめて稀なことであった。とくに1890年頃までは、エリート校である東京大 学出身者は、官界、教育界、法曹界へと進み、民間企業にはいるものはいなかった。(…)かれらにとって民間企業は、丁稚からたたきあげた手代・番頭が、世 辞と愛嬌で商売をしている世界で、レベルの低い世界にすぎなかったのである。(…) 当時民間企業が学校出身者を採用しようとすれば、良い条件を提示しなければならなかった。そこで三井銀行では、行員の給料を大幅に引きあげ、他の民間企業 はもとより、官吏の給料よりも高くした。こうして行員に誇りをもたせ、士気を高めようとしたのである。」(千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教育 への依存」p.19)

    田中正造、足尾鉱毒事件への対策を政府に迫る
    内村鑑三不敬事件
    大津事件

1892年
    三井銀行、1986年制定の試験規則を改正。高等教育を受けた人材を多く採用するために、必要なものにだけ試験を課すようにした。
    鉄道敷設法、官設主導による鉄道網拡張の方針が本格的に打ち出される
    伝染病研究所設立、福沢諭吉が北里柴三郎の研究を助成

    シカゴ大学開校
    「シカゴ大学の新機軸は他でもない、これら高等教育の活動として考えられるものを、すべて一つの大学のなかに取り込もうとした点にあった。それは いうなれば、高等教育の一大コンツェルンともいうべきもので、そこにはカレッジ教育、大学院教育、専門職業教育、地域社会へのサービス活動、大学出版部を 拠点とする出版活動など、すべての活動が盛り込まれていた。」(潮木守一『アメリカの大学』p.220-221)

1893年
    三井銀行、履歴書の書式を改める
    「(…)履歴書に記載すべき事項として、教育を受けた学科、年月、学校や塾名、先生の名前、官庁・銀行・会社などに勤務した年月、勤務中の賞罰、 退職辞職の年月、職業・技芸をあげている。こうした改革から、採用基準が「試験の結果」や「学力」から、「出身校」や「経歴」にかわったことがわかる。」 (千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教育への依存」p.19)

    文官任用令

1894年
    日清戦争勃発
    高等学校令、高等中学校が高等学校となる。「旧制高校」の原型
    ハワイ移民事業を民営に移す

    日本で最初期の女性事務職採用。茨城県河内郡竜ヶ崎町役場と三井銀行大阪支店
    「明治後期、良妻賢母思想という新しいジェンダーのもと事務の職場で女性が「発見」されたことは、「職場は男性のもの(であり女性のものではあり えない)」というジェンダーが、そのままのかたちでは、職場世界の解釈する枠組みとはなりえないことを示していた。一方、同時に見出された男性たちの状況 はこのように多様なものであり、「男性」と「女性」の間に境界を設けることを困難にしていた。組織の拡大に伴い学卒者を含めた事務職にそれまでとは異なっ た資質が求められるようになっていたこと、それらを基準とした場合、「男性」に対するかならずしも好意的とは言えない評価、さらに、「女性」に対する積極 的な評価の存在によって、明治三〇年代の事務職の職場は、ジェンダーによっては解釈の困難な要素を数多く抱えるものだった。そこでは実際、「男性」と「女 性」というカテゴリーは、人々の視点のなかで、相互に交換可能だととらえられるものだったのである。」(金野美奈子『OLの創造』p.36)

    甲午農民戦争
    ドレフュス事件

1895年
    日清戦争終結。台湾割譲。台湾現地住民「台湾民主国」独立を宣言するも鎮圧される。三国干渉
    「廃藩置県から一五年を経た一八九四年になってさえ、沖縄を視察した内務省書記官の一木喜徳郎は、学校でせっかく教えた日本語も「一旦退校すると きは其共に交はるものは皆大和語を解せさる者かるか故に僅に記臆したる大和語も大半之を忘失するに至る」という状態であることを報告している。(…)
 しかしそうした状況を大きく変えたのは、この一八九四年に勃発した日清戦争だった。親清派士族のみならず、一般の沖縄住民にとっても清の敗北は大きな心 理的変化をもたらし、子供たちのあいだでも戦争ごっこや軍歌が他の遊戯を一掃するほどとなったという。こうしたなかで就学率は一気に男四五パーセント、女 一七パーセントを記録し、一九〇七年までには全体でも九三パーセントにまで上昇した。」(小熊英二『〈日本人〉の境界』p.39)

    日本郵船、東京大学と東京高等商業学校の学生の定期採用を開始

1896年
    アイヌの徴兵開始
    「台湾ではまだ徴兵は行われていなかったが、日露戦争は、一八九六年から徴兵されはじめたアイヌたちが、初めて日本軍兵士として参加した対外戦争 であった。アイヌからは六三名が軍人として出征し、戦士三名、病死五名、廃兵二名の反面、金鵄勲章三名をはじめ叙勲率は八五パーセントをこえた。部隊内部 の差別にもかかわらず叙勲されたことは、アイヌ史でも差別を克服するために勇敢に戦ったゆえと評価されている。アイヌの現地でも、働き手の息子を徴兵され ても「これでやっと和人と対等になったと喜んだ」事例もあるという。アイヌ兵士の戦闘ぶり、とくに北風磯吉という名前を与えられていた兵士の活躍は、当時 の新聞・雑誌で大きくとりあげられた。
 坪井が「アイヌなり蕃人なりを含んだところの日本人と云ふものが戦争をしている」と述べた背景には、こうしたアイヌたちの存在があった。勲章を受け凱旋 したアイヌ兵士の故郷では、「歓喜」したコタンの有力者が「之れ実に彼が学校に入りて学びたる、教育の結果に依るもの」と周囲のアイヌに教育の必要を説い て回ったというケースも出たそうだから、まさに坪井の願う方向通りである。彼は、報道されるアイヌ兵士たちの活躍に喝采を送りながら、これで大日本帝国で のアイヌの地位が向上すると思っていたにちがいない。」(小熊英二『単一民族神話の起源』p.84)

    明治二十九年法律第六十三号(六三法)

    河川法制定
    「河川法は、内川交通を重視した低水工事から訣別し、管理と費用負担の原則を確立した堅固な堤防に守られた高水工事を採用した。同時に、河川敷を 官の所有地へと有界化し、治水に関する一切の私権を排除し、一切の事務を内務大臣の行政権力が集中掌握した。
 このころ、河川敷だけでなく、入会地、共有地や山林原野など、作用空間としての利用が粗放であった空間は、国有地として官の所有へと次々有界化され、村 人たちは江戸時代からその身体と自生的に結びついていた空間から疎外されはじめた。この土地収奪に対し、全国各地で国を相手取った訴訟が提起されたが、ほ とんど原告の敗訴に終わり、土地収奪はかえって正統化された。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.216-217)

1897年
    京都帝国大学設立、帝国大学が東京帝国大学に改称
    三井銀行、長期勤続すればするほど退職金の支給額が累進的に増すという規定を定める
    貨幣法公布、金本位制成立
    『実業之日本』創刊

1898年
    沖縄に徴兵令施行(宮古・八重山への適用は四年後)
    公学校令制定。台湾の初等教育のあり方を決定

    民法施行
    米西戦争
    アメリカによるハワイ併合、フィリピン、プエルトリコ、グアムを植民地化

1899年
    実業学校令
    「「工業農業商業等ノ実業ニ従事スル者ニ須要ナル教育ヲ為ス」ことを目的とする実業学校は、産業界に中級の技術者を送り込むために設立された。」 (猪木武徳『学校と工場』p.46)

    横山源之助『内地雑居後之日本』、『日本之下層社会』
    不平等条約改正、内地雑居が行われることになる
    国籍法成立

    北海道旧土人保護法成立
    「政府がいったんは否決されたはずの保護法案をこの時期に提出したことについては、アイヌの窮乏が深刻化していたこともあるが、翌年に予定されて いた内地雑居が背景として見逃せない。不平等条約の改正以前は決められた居留地のみ居住していた欧米人が、日本国内を自由に往来することになるという未曾 有の事態を前に、政府はいくつもの政策を用意していた。まず国籍法が制定され、内務大臣が「品行端正」と認めた者のみに帰化の許可をあたえることが定めら れるとともに、帰化者は陸海軍将官や国会議員、国務大臣などにはなれないことが定められた。また訓令により私立各種学校を除いて、宗教教育に制限が設けら れた。いうまでもなく、忠誠心の疑わしい外国人が「日本人」となって要職につくことや、欧米人宣教師が教育に進出することを恐れたための措置だった。さら に監獄法や精神病者看護法の整備など、欧米人の視線から〈野蛮〉ないし〈汚濁〉とみなされかねない存在を隔離し被いかくす対策も準備された。
 (…)北海道旧土人保護法の制定過程は現在でも不明な点が多く、資料も十分に残されてはいないが、数年前まで政府が拒否していたはずのこの法律が上記の ような内地雑居にむけた一連の準備とともに成立したことは、留意されてよいだろう。
 こうして一八九九年に公布された北海道旧土人保護法の内容は、農耕民化をねらった土地の下付などについては以前に否決された加藤案とほぼ同様だったもの の、いくつかの重要な相違があった。一つは、一般の学校への就学促進を趣旨としていた加藤案と異なり、アイヌの「部落」に和人地域とは別個の小学校を国庫 で建てるとされたことである。しかもこの学校はやがて一般の六年制ではなく、経費を節減し科目を少なくした四年制の簡易教育とされていった。(…)
 そして第二の相違は、国庫財政への負担が削減されたことだった。農具や種子の配布および授業料の支給は、対象となるアイヌが「貧困」な場合のみに限定さ れ、教科書や要具料の配布は削減された。しかもこれらの支出は、国庫ではなく北海道庁長官が管理する「旧土人共有財産」からまかなうこととされた。 (…)」(小熊英二『〈日本人〉の境界』p.68-69)

    外山正一『藩閥之将来』
    「外山が『藩閥之将来』で主張しているのは、いま風にいえば「学歴のすすめ」である。ただかれは「学歴」という言葉は使わなかった。この当時学歴 という言葉がなかったわけではない。たとえば『言海』には「学歴=学問、教育ニ就キテノ履歴」とある。だが、それではかれの真意は伝わらない。外山は社会 学者らしく「教育資格」という、おどろくほど現代的な用語で「学歴のすすめ」を説いたのである。
 面白いのは、その「学歴のすすめ」を、外山が個人でなく府県にむかって説いたことである。福沢諭吉の『学問のすゝめ』(明治五年)は、それを読む個人に むけて書かれたものである。ところが外山は府県という「集団」にむけてそれを書いた。そこに外山の社会学者としての目をみるのは、読み込みすぎだろう か。」(天野郁夫『学歴の社会史』p.21-22)

    日本人移民810人がペルーに出発。南アメリカへの初めての移民

1900年
    小学校令改正(第三次小学校令)。「内地」で初等教育の無償化

    北海道旧土人教育会
    「坪井は、彼なりの良心からアイヌ救済運動にとりくみ、また日本民族が混合民族であることや、大日本帝国が多民族国家であることを強調した。内村 や坪井といった国体論から煙たがられる人びとが、教育による文明化に肯定的だったのは、彼らが人種差別主義者だったからではなく、ある種の博愛精神と人類 平等観に立っていたからだった。だがそれは、マイノリティを文明化の名のもとに多数文化に同化させ、さらに統合の一形態として、戦場へ動員していく論理で もあった。そして多民族混合の主張は、大日本帝国の対外進出能力賛美をも生みだした。」(小熊英二『単一民族神話の起源』p.85)

    内務官僚、「貧民研究会」結成
    「これは、社会福祉政策、労働者に対する欧米の政策事例を摂取する研究会であり、その1つの流れは、大正以降の都市社会政策につながっていく。  この都市社会政策は、各地で行われた都市社会調査という実証的な裏づけをもって行われ、次第に日常的なものとなった。
(…)
 この調査を通じ、体制から社会の火薬庫とみなされた「細民」は、体制のよりはっきりとした監視の下におかれることになった。」(水岡不二雄編『経済・社 会の地理学』p.337)

1901年
    足尾鉱毒事件で天皇直訴
    官営八幡製鉄所開業。「鉄は工業の母、護国の基礎」がスローガン

    「美的生活を論ずる」(高山樗牛)「雑誌『太陽』8月号」
     「金銭にこだわるにせよ、知識や芸術を愛するにしろ、自分の世界に没頭することが大切だ」という主張が青年の共鳴を得て流行した。学生の間で は、金がなくて、下宿にじっと引きこもっている状態を指した。
    「望を失へるものよ、悲む勿れ。王國は常に爾の胸に在り、而して爾をして是の福音を解せしむるものは、美的生活是也。」(『明治文学全集40 高 山樗牛・斉藤野の人・姉崎嘲風・登張竹風集』p.84)

    幸徳秋水『廿世紀之怪物帝国主義』
「○然りその発展の迹に見よ、帝国主義はいわゆる愛国心を経となし、いわゆる軍国主義を緯となして、もって織り成せるの政策にあらずや。少くとも愛国心と 軍国主義は、列国現時の帝国主義が通有の条件たるにあらずや。故に我はいわんとす、帝国主義の是非と利害を断ぜんと要せば、先ずいわゆる愛国主義といわゆ る軍国主義に向って、一番のけん覈なかるべからずと。
○しからば則ち、今のいわゆる愛国心、もしくば愛国主義とは何物ぞ、いわゆるパトリオチズムとは何物ぞ。吾人は何故に我国家、もしくば国土を愛するや、愛 せざるべからざるや。」(p.19-20)

    「○然り愛国心が望郷の念とその因由動機を一にすとせば、彼の虞ぜいの争いは愛国者の好標本なるかな、彼の触蛮の戦いは愛国者の好譬諭なるかな。 天下の可憐虫なるかな。
○ここにおいてか思う、岩谷某が国益の親玉と揚言するを笑うことなかれ、彼が東宮大婚の紀念美術館に千円の寄附を約してその約を履まざるを笑うことなか れ。天下のいわゆる愛国者、及び愛国心、岩谷某においてただ五十歩百歩の差のみ。愛国心の広告はただ一身の利益のためのみ、虚誇のためのみ、虚栄のための み。」(p.23)

    福沢諭吉、中江兆民死去
    愛国婦人会結成

    USスチール社設立、トラストによる垂直的統合
    「たとえば、1901年、大企業合同によって設立された持株会社U.S.スチール社は、典型的な混合企業となった。しかも、U.S.スチール社 は、第1次単位としては純粋持株会社であり、その全資産は11社の第2次構成会社の証券から成っていた。そして、これらの第2次構成会社は、総数170社 を越える第3次子会社の支配的株数を所有していた。
 持株会社U.S.スチール社は、これら構成会社の個性や自発性を保持しながら統一的な中央管理をおこなった。(…)それらの管理は、法律的であれ、経済 的であれ、地域的な条件に応じて容易に調整されえた。そして、旧経営者のかなり重要な特徴や個人的関心、それに特別な経営能力は容易に保持されえた。
 このように持株会社は、完成品を生産するさまざまな段階を包摂する産業コンビナートの形成に十分適合しており、しかも、その管理の柔軟性によって持株会 社は、さまざまな諸工程をもち、さまざまな地域で活動し、さまざまな顧客層に販売する諸単位を安定した形態で結合するのにもっともふさわしい企業組織形態 となっているのである。」(小林康助編著『アメリカ企業管理史』p.24-25)

    テキサス州ボーモントで油田発見。

1902年
    国勢調査に関する法律を公布
    台湾県民を日本国籍に編入
    加入電話と私設電話の接続が可能になる、事務の機械化

    キャデラック社設立

1903年
    小学校令改正、国定教科書制度確立
    専門学校令、公立私立の設置
    農商務省商工局『職工事情』
    人類館事件
    「人生不可解」(藤村操)

    フォード・モーター社設立
    J.A.ホブスン『帝国主義論』

    イギリスで第一次田園都市株式会社設立。ロンドン郊外のレッチワースに最初の田園都市
    「田園都市とは英国のエベネザー・ハワードが提唱した新しい都市のつくり方として知られている。(…)
 (…)
 では、彼のいう田園都市というのはどういうものか。田園でもないし都市でもない、田園であり都市であるというのがそれで、彼は三つの磁石が描いてある絵 を出し、田園のもっている魅力(引力)、都市のもっている魅力(引力)を提示し、ならば田園都市というものが考えられないだろうかと問う。つまり都市には 都市の魅力と便利さがあり、田園にもやはりおなじように安らぎの魅力があるが、そのどちらかだけというものではない、両方を兼ね備えた生活というものがで きないだろうかというのが、彼の発想であった。」(鈴木博之『都市へ』p.138-139)

    「これは基本的には低密度の都市だが、ベッドタウンではなく、職住が一体となった小都市である。ここに出てくる都市のイメージは中世の都市のス ケールをもつ、中世における自律的な都市のすがただといえる。レッチワースは順調にできあがって、ある部分の住宅地の開発にはその当時のモデル住宅のコン クールのようなことを行い実物の住宅を建てている。」(p.140)

1904年
    日露戦争

    F・ゴルトン、第一回イギリス社会学会で「優生学――その定義、展望、目的」という講演を行う。

    A・ビネー、フランスの小学校における落ちこぼれ児童を同定するための客観的方法の開発を文部大臣から依頼される。IQテストの考案
    「(…)フランスにおいて一八八〇年代に実現した「無償・義務・非宗教」の公教育制度は、子どもたちがすべて教育を受ける平等の権利があることを うたっていたのだが、そこででてきた難問こそ、知恵遅れ、「精神遅滞児童」の問題であった。学校に適応できない子どもたちが、「情緒不安定児童」、「知恵 遅れ児童」、「精神薄弱児」と名づけられ、その処遇が問題化したのは、十九世紀の末からであったのである。そして、一九〇五年に発表された、アルフレッ ド・ビネ(一八五七−一九一一)とテオドール・シモンによる「知能検査」こそ、こうした課題から生みだされた選別の方法であった。この年の四月二八日に ローマで開かれた第五回国際心理学会で「白痴、痴愚、魯鈍を診断する新しい方法」という論文が、アンリ・ボーニスによって代読され、大きな反響をよんだの である。さらに一九〇八年には、この知能検査の改訂版が出され、ビネ=シモンの知能検査は国際的な評価を受けるにいたった。そして、このビネとシモンの研 究をうけて、ドイツのウィルヘルム・シュテルンが、一九一一年に、知能指数(IQ)の概念を提唱することとなったのである(…)。」(桜井哲夫『「近代」 の意味』p.85)

    国際サッカー連盟(FIFA)設立
    ロールス・ロイス社設立

1905年
    日露戦争終結、日比谷焼き討ち事件
    実用新案法公布

    サンフランシスコ市長と各種労働組合が、日韓人排斥同盟結成

1906年
    韓国に、統監府を設置。司法権、軍事権、警察権を韓国政府から奪った。初代総督は伊藤博文。
    鉄道国有法、私有鉄道経営の幹線も国有化
    南満州鉄道株式会社(満鉄)の設立の勅令が公布、満鉄発足

1907年
    小学校令改正、義務教育6年制。就学率93%を越える
    株式大暴落、戦後恐慌はじまる
    山梨県駒橋水力発電所から東京市内への初の本格的遠距離送電
    豊田佐吉、自動織機の特許を取得
    谷中村、土地収用法によって強制破壊される
    「癩予防ニ関スル件」。ハンセン病患者の国立癩療養所への収容が開始される

    安田保善社(のち富士銀行を経て、現在、みずほフィナンシャルグループ)、練習生制度はじまる
    「今日わが国で最大の市中銀行である富士銀行も、明治末期には、大学卒の新人を採用すべき内的欲求を持ちはじめてはいたが、まだこれを実現するす べを持たなかった。そこで、大学卒サラリーマンを採用するかわりに、中学卒の青年を練習生として採用し、これらに、大学の機能にかわる社内教育をほどこし て、将来の幹部社員を養成しようとした。
(…)
 また、さらに、一般的・普遍的なもの(教養・知識)と、特殊なもの(社風・カラー)とを総合する手段として、大学卒を無条件に幹部候補生として約束して しまう方法がとられてくる。これは藩閥政府が帝大卒を幹部候補生として確保したのと軌を一にするものであった。ここからわが国の学閥的ムード、あるいは 「大学を出なければ」というムードが生まれ、これが、のちに加速度的に拡大再生産されていくことになる。
 なお、明治四十年の第一期生に始まる安田保善社の練習生制度は、大正九年の第十三期をもって終っている。つまり、この頃になってはじめて、大学卒新人の 定期採用が定着してくるからである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.17-19)

    「しかし、実際には、一般公募が日本の企業の採用パターンとして普及することはなかった。東京海上は、少なくとも戦間期になると、高等教育機関を 通して人材の推薦・紹介を受けるようになっていた。また、安田保善社は、一九〇七年以来、幹部候補生として、中等学校卒業以上の応募者を新聞広告で全国か ら募集し、学科試験と面接によって採用の当否を決定していたが、そうした採用方法は、一九二〇年を最後に中止している。」(川口浩『大学の経済社会史』 p.195)

    内務省地方局有志が『田園都市』という本を刊行
    「田園都市の考え方は都市の住民を都市から分離して、独立した快適な町に住まわせるという理想にもとづくが、日本の内務省は都市問題と農村問題を ワンセットで考えている。基本的に都市は革命の温床になりがちで非常によくない、農村を強化することが保守的な政治にとっては重要なことで、田園都市の考 え方もガーデンシティは花園都市と訳したり、花園農村という言葉を使ったりして、農村の住環境向上という側面からも捉えようとしている。その辺が日本的で あり、田園都市のように自立した職住一体の都市をつくろうという気はあまりなく、住環境のよさを都市と農村の両方にもち込めないか、ということに発想が切 り替わっている。ここに都市理論の摂取のちがい、評価のちがいが現れている。」(鈴木博之『都市へ』p.141-142)

1908年
    三菱長崎造船所、能率給を採用し、原価管理体制を強化

    第一回ブラジル移民として選ばれた781名(793人?)が笠戸丸に乗り神戸港を出港
「排日措置と移民制限によって日本人の北米やオーストラリアへの移住は低迷期に入り、日本人移民の主流はブラジル、ペルーを中心とする中南米へと転換す る。このころのブラジル移民は、主にコロノと呼ばれるコーヒー農園で、粗末な掘っ立て小屋に住み、劣悪な労働条件のもとに農場労働に従事した。日本人の移 民が、とくにサン・パウロ州内のコーヒー農園に二十万人近くも流入した背景として、イタリアのブラジル移住者が低賃金の奴隷的待遇を受けていたため、イタ リア政府がブラジルへの移住を禁止したという事情もあった。」(猪木武徳『学校と工場』p.235)

    阪神電鉄、「市外居住のすすめ」というパンフレットを刊行
「阪神間に展開した住宅地は、そうした「職住近接」の町づくりではなく、喧騒の都会から脱出して、健康な郊外住宅地を求める町づくりだった。それは基本的 には住友家の大阪逃亡に倣う住宅イメージの追及であった。」(鈴木博之『都市へ』p.231)

    赤旗事件

    ヘンリー・フォード、T型フォードを売り出す
    「平均的な人間なら、だれでも楽しめる車。そんな車をつくったこのフォードの偉大な成功によって、アメリカに大量生産と大量消費の循環が始まった のである。自動車を大量生産することになれば、ますます多くの人たちに仕事がもたらされ、かなりの賃金も与えられる。そして自動車のコストが大量生産に よって下がっていけば、労働者たちも、自分で車を購入できるようになるのだ。」(デイビッド・ハルバースタム『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史』 p.133)

    ゼネラル・モーターズ社設立
    「一九〇八年九月十六日、デュラント氏はゼネラル・モーターズ社を設立した。この会社に、氏はまず一九〇八年十月一日にビュイック社を、同年十一 月十二日にはオールズ社を、さらに翌年にはオークランド、キャデラックの両社を吸収した。統合されたこれらの会社は。新しい会社の中でおのおのの独自性を 保持しつづけた。すなわち、ゼネラル・モーターズ社は持株会社で、全体としては一つの本社を中心に、それぞれ自主的経営を営むいくつかの子会社が、衛星の ようにこれを取り囲む形となった。(…)」(A.P.スローン『GMとともに』p.7-8)

    「デュラント氏のGM設立のやり方に、私は三重のパターンを読みとることができる。第一は、嗜好も経済力もまちまちな各階層の買手にそれぞれ適合 するような、変化に富んだ車種系列への指向。これはビュイックをはじめオールズ、オークランド、キャデラック、さらにくだってはシボレーのやり方にはっき りとあらわれている。
 第二は、イチかバチかの賭ではなく、平均してかなりの好結果が得られるように、自動車の技術分野における将来の可能性を、ひろくカバーするように計算さ れたとおぼしい重点分散の傾向である。(…)
 第三は、さきにビュイック社に関する記述の中で述べたことだが、自動車の部品や付属品の自家製造の促進を眼目とした統合の促進である。デュラント氏は母 体となる会社に、あまたの部分品メーカーを統合した。(…)」(p.9-10)

    「対抗企業フォード自動車会社(Ford Motor Co.)のフォードが(H. Ford)が現有プラントの内生的膨張の過程で拡大してきた垂直的統合トラスト化を企図した――フォード社は「原料から完成車まで一貫生産(From Mine To Finished Car, One Organization)」をモットーに経営されていた――のに対して、デュラントは独占組織形成期における固有の生産拡張方式としての資本の集中を推 進した。」(井上昭一・中村宏治編著『現代ビッグ・ビジネスの生成・発展・展開』p.116-117)

1909年
    伊藤博文、安重根に暗殺される
    特許法・意匠法・商標法・実用新案法公布
    イタリア、中国を抜き、世界最大の生糸輸出国になる
    田山花袋『田舎教師』

1910年
    日本、韓国を併合
    「資本主義はその発展が進むにつれて、国と国との境界を排除するようになる。かくて日本資本主義はその発展とともに、まるで同心円を描くように外 へ外へと膨張をつづけた。その膨張運動の中での最初の同心円は「国内植民地」internal colony、つまり日本内地における農民層であったが、農民層の分化が進み彼らの利用可能性が涸渇してしまうと、今度は「国内植民地」の地位に朝鮮を据 えることになるが、1930年代になると朝鮮の役割は満州が担うことになるというわけで、絶えず新しい周辺部が築かれることによって、朝鮮はある一面にお いて半周辺的性格を帯びるようになった。日本内地の発展に不可欠な国家機構は、植民地的形態に変形されて朝鮮に移植され、この移植はさらに満州に及ぶ。こ の場合、朝鮮においても満州においても、植民地の支配機構はひたすら中心部即ち日本内地の利益に奉仕する目的のために資源を動員したのであり、近代的市場 関係の発展に必要な条件を整え支援を与えたのもそのためであった。このやり方は、どっちみちヨーロッパ人を真似たいわばそのコピーであって、やり方それ自 体が特にユニークであったのではない。ユニークであったのは、タイミングと歴史的状況であったのだ。」(ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』第1巻 p.40-41)

    大逆事件

    石川啄木『時代閉塞の現状』
「斯くて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今猶理想を失い、出口を失った状態に於て、長い間鬱積し て来た其自身の力を独りで持餘しているのである。既に断絶している純粋自然主義との結合を今猶意識しかねている事や、其他すべて今日の我々青年が有ってい る内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態を極めて明瞭に語っている。――そうしてこれは実に「時代閉塞」の結果なのである。
 見よ、我々は今何処に我々の進むべき路を見出し得るか。此処に一人の青年が有って教育家たらんとしているとする。彼は教育とは、時代が其一切の所有を提 供して次の時代の為にする犠牲だという事を知っている。然も今日に於ては教育はただ其「今日」に必要なる人物を養成する所以に過ぎない。そうして彼が教育 家として為し得る仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、或は其他の学科の何れも極く初歩のところを毎日々々死ぬまで講義する丈の事である。若し それ以外の事をなさんとすれば、彼はもう教育界にいる事が出来ないのである。又一人の青年があって何等か重要なる発明を為さんとしているとする。しかも今 日に於ては、一切の発明は実に一切の労力と共に全く無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ない限りは。
 時代閉塞の現状は啻にそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、大体に於て一般学生の気風が着実になったと言って喜んでいる。しかも其 着実とは単に今日の学生のすべてが其在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったという事ではないか。そうしてそう着実になっているに拘らず、毎 年何百という官私大学卒業生が、其半分は職を得かねて下宿屋でごろごろしているではないか。しかも彼等はまだまだ幸福な方である。前にも言った如く、彼ら の何十倍、何百倍する多数の青年は、其教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育は其人の一生を中途半端にする。彼等は実に 其生涯の勤勉努力を以ってしても猶且三十圓以上の月給を取る事が許されないのである。無論彼等はそれに満足する筈がない。かくて日本には今「遊民」という 不思議な階級が漸次其数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼等の事業は、実に、父兄の財産を食い減らす事 と無駄話をする事だけである。
(…)
斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に、遂に其「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望や乃至其 他の理由によるのではない、実に必至である。我々は一斉に起って先づ此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧と を罷めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」(『明治文学全集 52 石川啄木集』p.262-263)

   箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)、池田室町での住宅の月賦分譲販売を開始
   「阪急の沿線開発は、分譲住宅の売り方だけに特徴があったのではなく、この後、私鉄沿線に住んで大阪市内の勤め先に通勤するというサラリーマンの生 活パターンが成立したことにこそ、その本質的特徴がある。そしてそれは阪急だけの戦略ではなく、私鉄による沿線開発が全体的に沿線にもたらしたものであ る。だがさらにつけ加えるならば、こうして生み出されてゆく中産階級以上のサラリーマンたちの「健康な」郊外住宅地の裏には、「不健康な」見捨てられてゆ く大阪や尼崎の市街地住宅が見え隠れしているのである。」(鈴木博之『都市へ』p.235)

   南北朝正閏問題

   CTR社(現=IBM社)設立

1911年
    辛亥革命
    平塚らいてう『青鞜』
    工場法公布。日本における最初の労働立法。施行は1916年9月1日。

    朝鮮教育令公布
    「第八条 普通学校ハ児童ニ国民教育ノ基礎タル普通教育ヲ為ス所ニシテ身体ノ発達ニ留意シ国語ヲ教ヘ徳育ヲ施シ国民タルノ性格ヲ養成シ其ノ生活ニ 必須ナル知識技能ヲ授ク」

    「修業年限については、一九〇六年に統監府が「小学校」という名称を「普通学校」と改めると同時に、年限を六年から四年に短縮したのを引きついだ ものであった。内地の小学校が六年制になるのがこの翌年だから、台湾とおなじく、ここでも内地より先行していた教育体制が縮減され、逆に内地に追いこされ てゆく傾向をみることができる。授業料徴収は、いうまでもなく、赤字財政を抱えた総督府による経費削減だった。」(小熊英二『〈日本人〉の境界』 p.150)

    「高等遊民」が流行語
    「要するに、当時のある論者が指摘していたように、「高等遊民」発生の原因は、「わが国民の知識欲の工場及び生活欲の増大と、之れに伴はない経済 状態の切迫と、この両面の圧迫なり矛盾なりに」あるとみなされた。すなわち就職難は、一方での青年層の進学行動・選職行動の変化と、他方での不況という経 済状態とのミスマッチに由来すると考えられたのである。
(…)
 しかし、当時の「高等遊民」問題、ひいては就職難問題を社会問題化させたさらなる重要な契機も忘れてはならない。それは「危険思想」に対する恐怖であ る。一九〇八(明治四一)年の戊辰詔書、一九一〇年の大逆事件にみられる支配層の「危険思想」に対する警戒感の強さは、その担い手あるいは伝播者となりう る「高等遊民」に対しても同様に向けられていた。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』p.116-117)

    カフェ一号店、「カフェー・プランタン」が銀座にオープン

    Taylor, F. W., The principles of scientific management, New York ; London : Harper & Brothers (星野行則訳、1913、『学理的事業管理法』、崇文館→上野陽一訳編、1969、『科学的管理法』、産業能率短期大学出版部)
    「科学的管理法なるものはけっして単一の要素ではなく、この全体の結合をいうのである。これを要約していえば、
一、科学をめざし、目分量をやめる
二、協調を主とし、不和をやめる
三、協力を主とし、個人主義をやめる
四、最大の生産を目的とし、生産の制限をやめる
五、各人を発達せしめて最大の高率と繁栄を来たす」(「科学的管理法の原理」(1911)上野陽一訳『科学的管理法』p.333)

    「率を異にする出来高払制度とは、手短にいえば、同じ仕事に対して二種類の違った賃金単価をあたえるのである。すなわち仕事を最短時間にしあげ て、しかもいろいろの条件を完全に満たした場合には、高率の賃金を払い、時間が長くかかったり、またはなにか仕事に不完全な点があったりした場合には低率 の賃金を払うのである(高率で払った場合に、その工員は類似の工場で普通に払われているものよりも、よけいもうけるような単価にしておかなければならな い)。この点が普通の出来高払制度とは全然違うところで、普通の場合には、工員が生産力を増すとかえって賃金をへらされるのである。
 日給制度で働く工員を管理する方法として私が提唱する制度は「人に払うのであって、地位に払うのではない」というところが主要点である。各工員の賃金は できるだけ、熟練の程度、その仕事に尽くす努力の程度などによって決めるべきであって、占めている地位によって決めてはいけない。各工員の個人的な功名心 を刺激するようにあらゆる努力をはらわなければならない。このうちには各工員の行いのよし悪し、きちょうめんの度合い、出勤の割合、正直不正直、仕事の速 さ、熟練および精密の程度などを組織だって注意深く記録していくこと、またこれらの記録をもととして、その工員に払う給料をつねに調整していくことを含ん でいる。
 (…)
 最後に、以上述べたこの制度の効果からでてくる主な利益の一つは、工員と雇主との間に非常に親しい感情を作りだし、ひいて労働組合やストライキなどは全 く不必要になってしまうことである。」(「出来高払制私案」(1895)上野陽一訳『科学的管理法』p.4)

    「布告には、テーラー・システムの導入について明確に述べること、いいかえれば、テーラー・システムが提起しているあらゆる科学的作業方法を利用 すること が、必要である。これなしには、生産性を高めることはできないし、また生産性を高めなければ、われわれが社会主義を導入することはできない。テーラー・シ ステムの実施にあたっては、アメリカ人技師を利用すべきである。(…)労働規律違反にたいする懲罰措置についていえば、それは厳格でなければならない。禁 固をもふくむ刑罰が必要である。解雇も適用してよいが、その性格はまったく一変する。資本主義体制のもとでは、解雇は私的契約の違反の場合になされること であった。だが現在では、労働規律違反のばあいには、とくに労働義務制が実施されているさいには、刑事犯罪がおかされているのであり、それにたいしては一 定の刑罰を課さなければならない。」(「最高国民経済会議幹部会の会議での発言 一九一八年四月一日」『レーニン全集』第四二巻p.74)

    「まず、日本は戦前戦後をつうじて、アメリカ的な経営管理方式を世界でもっとも熱心に輸入してきた国のひとつだといっても間違いありません。とこ ろが、テーラーシステムの母国アメリカと比べての相違点として、以下のような三点をあげることができます。
 第一は、アメリカの場合、テーラーシステムの開発者であるF・W・テーラーがなんのために誰と闘って開発に取り組んだのかというと、労働生産性を向上さ せるため、当時生産の管理権を独占していた熟練労働者あるいはクラフト・ユニオンから生産の実権を経営側に取り戻すためでした。そこで決定的な意味を持っ たのは熟練労働者の熟練を解体することでした。そのためには、生産の計画と実行の分離を徹底してすすめなければならなかった。具体的には、作業の細分化と 労働職務区分の厳密化、動作・時間研究による標準作業量の設定、差別出来高賃金、生産計画の専門部の創設や職調整の導入など、これらがタスク・マネジメン トあるいは「科学的管理法」として体系化されたわけです。他方、日本でも一九一〇年代から官営大工場や民間大工場へのテーラーシステムの導入が能率増進と いうかたちで始まりますが、日本にはそれに抵抗し妨げるクラフト・ユニオンが存在しませんでした。だから、現場の労働者の熟練やクラフト・ユニオンを解体 するという必要性はなかった。むしろ日本では科学的管理法を工場内に適用しようとした場合、労働者の熟練や主体的な生産管理能力を積極的に引き出し活用す るというかたちがとられたのです。
 第二は、アメリカでは労働者の職務区分を狭め固定化させることが熟練やクラフト・ユニオンを解体させる手段でしたが、同時に職務区分は労働組合によって も闘う武器になりました。経営側に職務区分を徹底して守らせることによって、労働者の諸権利や人間性まで守るといった意味合いがあった。日本の場合にもタ スク・マネジメントをやるために、形式的には職務区分が導入されましたが、実質的にはそれは固定化されませんでした。要するに、日本では欧米のような職務 区分の厳密な固定化といった状態が労使関係上の慣行になってこなかったということです。
 第三の特徴は、日本ではテーラーシステムの導入過程で、労働生産性の上昇と賃金の上昇との間に密接な関係性を見出すことができない点です。このことの 持っている意味はたいへん大きい。結局日本においてはテーラーシステムが導入されたけれども、それは一口でどんなかたちだったかというと、労働者は一生懸 命「頭を使って」働けということです。しかし、頭を使っても賃金はとくに上がらないということです。一九世紀からヨーロッパではこういうふうな言葉がある わけです。’ A worker is paid to work, not to think.’「労働者は、働くことに対して賃金が支払われるのであって、考えることに対して支払われるのではない」ということです。このような考え方の 行きつくところがテーラーシステムだと思います。ところが、日本では、私流の言い方をしますと、’ Must think, but not paid to think.’(「考えなさい、けれども考えることには賃金は払いません」)ということになってしまう気がします。労働者の労働態度として、頭を使って働 けということがたえず要求されるにもかかわらず、それに対する賃金は支払われないのが日本の現実です。」(基礎経済研究所編『日本型企業社会の構造』 p.238-240)

1912年
    鈴木文治、「友愛会」結成
    明治天皇死去、乃木希典が後追い自殺
    慶応大学が山名次郎を就職の紹介・斡旋のために嘱託として招請する。

1913年
    都市への人口流出が急増
    猪苗代湖の発電所と東京までの送電線が完成。高電圧による大量電力輸送が実現し、中小企業も含めて電力による動力化が進む
    東北帝国大学(現=東北大学)が女性受験生3人の合格を発表し、初の女子帝大生が誕生

1914年
    第一次世界大戦勃発
    東京駅竣工

    フォード、最初の自動ベルト・コンベアを設置、日給5ドル制度実施
    「アメリカの工業家フォードがとった措置は、心理学の観点からも興味深いものがあります。フォードは従業員の私生活を管理し、彼らに一定の生活態 度を課す一団の監督者をかかえています。食事・ベッド・部屋の大きさ、休憩時間まで管理し、さらに細かいことまで口出しし、それに従わない者を解雇しま す。フォードは雇用者に最低賃金六ドルを支払いますが、そのかわり、会社が指示する労働と生活態度を一致させることのできる人々を求めるのです。(…)た しかに、機械化は私たちを押しつぶします。私のいう機械化とは、知的労働の科学的組織といったものをふくんだ一般的な意味です。(…)」(一九三〇年一〇 月二〇日――タチャーナへの手紙)(片桐薫編『グラムシ・セレクション』p.118)

    「大量の未熟練工を、当初、フォードは職長の権限強化によって管理しようとした。だが、彼らの情実や暴力に対する不満は強く、これが当時のデトロ イトの労働力不足や劣悪な労働環境とも相まって、無断欠勤率や離職率の上昇をまねいた。このためのちには、賃上げや人事・労務を集権的に管理する雇用部の 創設など一連の労働改革を余儀なくされた。なかでも、最も効果があったのは一九一四年に実施された日給五ドル制度だった。
 この制度は一日の労働時間を八時間へと短縮すると同時に、日給を二倍の五ドルへと引き上げるものだった。だが、日給五ドルを得るには、出勤状態、工場で の作業態度はもとより、貯蓄、節酒、住居の整理整頓、英語学校への出席など会社が定めた「適切な」個人生活の基準に達せねばならなかった。それは移民労働 者をアメリカ社会へと同化させ、工場労働者として陶冶することをねらったものだった。工場の規律に従う労働者は高賃金を獲得し、自動車の購入者となりえ た。大量生産に必要な市場も確保されるのである。かくて、日給五ドル政策はこの二重の意味においてシステムを完成させる要の位置にあった。」(鈴木直次 『アメリカ産業社会の盛衰』p.48-49)

1915年
    日本、中国に対し「21か条の要求」
    和文タイプライターが実用化、タイピストを志望する女性が増える
    「割烹着」 を「婦人之友」が家庭用仕事着として考案、動きやすさから家庭に広まる

     D・W・グリフィス監督作品『国民の創世』

1916年
    国語審議会が標準語を「主トシテ今日東京ニ於テ専ラ教育アル人々ノ間ニ行ハルル口語」と規定した
    寺内内閣、臨時教育会議を設ける。以後、学制改革は原内閣にも受け継がれ、大学、高校、高専が急増

    「主婦の友」創刊
    「「家庭」ということばが大衆化したのは、むしろ次にくる商業的な婦人雑誌の時代であった。一九一六年に創刊された『主婦の友』はその年のうちに 二万部、一九二三年には三〇万部、一九三二年には八〇万部と発行部数を伸ばしていった。『主婦の友』を代表とする商業的な婦人雑誌は「家庭」を消費と再生 産の場と位置づけており、「家庭」の主婦に家事育児のための実用的な記事を提供し、とくに家計簿をつけることを奨励した。(…)
 ところがこのような商業的婦人雑誌によって頻繁に「家庭」という語が使われるにつれて「家庭」は「家」との対立をしだいに曖昧にしていった。夫婦関係中 心の「家庭」であったはずであるのに、雑誌の身の上相談に載る家庭婦人の最大の悩みは姑との葛藤であった。(…)
 (…)当時、長男は故郷の家に両親と同居し、次男、三男は都市あるいは植民地において小家族を構成することが多かった。だが都市で結婚して「家庭」を築 いた次男、三男も分家をしないかぎりは戸籍のうえでは「家」に属し、長兄が住む故郷の家にたいする帰属意識を抱きつづけていた。長男が弟たちや姉妹あるい はその家族までを扶養する、あるいは給料生活者となった次男、三男が自分の妻子を養うだけでなく故郷の「家」のために仕送りを続けることがまれではなかっ た。(…)」(西川祐子「日本近代家族と住いの変遷」、西川長夫・松宮秀治編著『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』p.197-198)

1917年
    民間の入社試験で面接が重視されるようになる
    「二代目の秀才官僚に対する疑惑は、一方では高文試験のやり方を反省させたが、他方では、民間会社の入社試験に口述(面接)重視の原則を打ちたて ることとなった。知識の正確さを、かぎられた断面や部分で調べる高文的筆記試験よりも、全人格的把握のできる面接試験を重視し、いわゆる「人物本位」で採 用する習慣をつくったのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.38)

    「組織が巨大化する一方で、大企業は労働者の採用に突然慎重になり、新規採用を従来のように親方職工任せにはせず、健康検査はいうに及ばず身元や 性格、素行なども調べあげるようになった。選抜と採用の費用が嵩めば、移動を少なく抑えるため勤続奨励的な報酬制度が考案されるのも自然の勢いである。移 動が少なくなれば企業特殊的技能を促進するための人的投資を増加する誘引が働くから、その結果労働は一層「固定化」してくる。興味深いのは、 1910〜20年代のこのような制度的変化が、どの大企業でも一様に、あたかも申し合わせたように時期もほぼ同じくして起きたことである。」(岡崎哲二・ 奥野正寛編著『現代日本経済システムの源流』p.154)

    都市の新しい中程度の家として「中廊下型住宅」現れる
「中廊下型住宅は家族を社会から析出し、しかも外から区切られた狭い空間に夫にとっての私生活と家族団欒を保証し、外で働いて収入を得る夫と家事育児に専 心する妻の役割を分けることに成功したのであった。なお台所は土間から板張りになって床が高くなった。割烹着をつけて台所に立つ専業主婦の地位向上を表す かのように晴れがましく、地方では板張りの台所を「東京式炊事場」と呼んでいた。」(西川祐子「日本近代家族と住いの変遷」、西川長夫・松宮秀治編『幕 末・明治期の国民国家形成と文化変容』p.205)

    理化学研究所設立、半官半民で戦前最大の規模と最高水準を誇る

    ロシア革命
    BMW社設立

1918年
    米騒動
「全国で一斉に広がった米騒動は、都市の街頭に都市住民が踊り出た最も大規模な、実力を伴った都市社会運動であった。このような都市社会運動は、それまで も、東京や神戸で、日露講和反対や桂内閣打倒などの要求を掲げ、焼き討ちや関係社宅、関係施設の襲撃というような散発的な形で存在した。これと対照的な米 騒動の都市地理学的な特徴は、オフィス街、労働者街、郊外という同心円的な土地利用調整を生み出しつつあった資本主義の都市空間編成を、見事に世の中に知 らせたところにある。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.341)

    シベリヤ出兵
    ドイツ革命
    第一次世界大戦終戦

    大学令公布、公私立大学・単科大学の設立を認めた(1919年施行)
    「第四条 大学ハ帝国大学其ノ他官立ノモノノ外本令ノ規定ニ依リ公立又ハ私立ト為スコトヲ得」

    「高等諸学校創設及拡張計画」発表
「第一次大戦がもたらした未曾有の経済的好況は、高等教育拡大の絶好のチャンスであった。しかも、学制改革問題の一応の解決も、拡大の実現にとって大きな 障害が消えたことを意味した。しかし、そうした環境の変化が――一時に計画され、かつ実現したものとしては、少なくとも戦前期においては空前絶後の規模を もつ――『高等諸学校創設及拡張計画』という具体的な政策へと結実するには、「積極政策」を党是とする政友会の存在が欠かせなかった。計画は、そういう意 味でまさしく政治的な産物だったのである。しかし同時に、それがたんに地方利益誘導政策にとどまらぬ意味をもつことに留意せねばならない。「入学難」の解 消をその中心目標として掲げ、地域間の高等教育機会の均等な配分を全国規模で志向し、しかもその結果としてそれまでになく多数の若者たちを高等教育進学競 争へと巻き込んでいったこの計画は、その後に続く高等教育の大衆化過程の、幕開けを示すものでもあったからである。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』 p.50)

    貴族院、「科学及工業教育に関する建議」
「当時もまた技術革新の時代であった。産業革命より今日の技術革新にいたるまで、技術は老人・年功者には酷なもので、老兵は消えていく運命にある。「学校 出」とくに「大学出」が時代の寵児になってくると、「大学出」の若い世代は攻撃的で、古い技術者は守勢すら維持できなくなる。こうして、「大学」を出なけ ればダメだというムードが世を風靡し、大正六〜九年の学制改革・大学昇格運動と高校・高専の増設をもたらすわけであるが、これと平行して、まず理科教育、 理工系ブームがおこるのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.26)

    臨時窒素研究所設立、のちに東京工業試験所に合併される

    渋沢栄一を中心に、田園都市株式会社が設立される
    「この会社は渋沢栄一を中心に設立されたもので、渋沢自身は朝鮮の土地開発を手掛けていた畑弥右衛門が土地開発の話をもちかけたのに共鳴し、ほか のひとび とに呼びかけたのであった。そこでは「田園都市経営」が構想された。(…)
(…)
 田園都市株式会社は震災直後の一九二二年頃から洗足地区の土地分譲をはじめた。分譲直後の関東大震災での被害が少なかったため、これが好評となり、後の 住民移入の呼び水となったといわれる。ついで分譲された多摩川台住宅地は、現在田園調布として知られるもので、駅を中心にした放射線状と同心円状の道路網 に特徴があり、商店街と住宅地を分離する、宅地規模が大きいなど、高級住宅地化の条件を備えていた。」(鈴木博之『都市へ』p.303-304)

    武者小路実篤が仲間19人と自分らが掲げる理想の実現の場「新しき村」を宮崎県木城村に建設し、青年たちの間に大きな反響を呼んだ

1919年
    ヴェルサイユ条約締結
   「ヴェルサイユ条約によってなされた規則の結果から明らかになったことは、ヨーロッパの現状の維持をも回復をも不可能にした多くの原因の一つが、西 欧の 国民国家体制は全ヨーロッパに拡大し得ないものであるという点にあることだった。つまりヨーロッパは百五十年以上にもわたって、全人口のほとんど四分の一 については適用不可能な国家形態の中で生きてきたわけである。国民国家の原理の全ヨーロッパでの実現は、国民国家の信用をさらに落とすという結果をもたら したにすぎなかった。国民国家の原理は該当する諸民族のごく一部に国民主権を与えたに止まり、しかもその主権はどこでもほかの民族の裏切られた願いに対立 する形で貫徹されたため、主権を得た民族は最初から圧制者の役割を演ずることを余儀なくされたからである。被抑圧民族のほうはほかならぬこの規制を通じ て、民族自決権と完全な主権なしには自由はあり得ないとの確信を強めた。従って彼らは民族的熱望を踏みにじられたばかりでなく、彼らが人権と考えたものま で騙し取られたと感じた。」(H・アレント『全体主義の起原U』p.244)

   「無権利者が蒙った第一の損失は故郷の喪失だった。故郷の喪失とは、自分の生れ育った環境――人間はその環境の中に、自分にこの世での足場と空間を 与え てくれる一つの場所を築いてきたのだ――を失うことである。諸民族の歴史は個人や民族集団の多くの放浪についてわれわれに語っており、そのような不幸はそ こではほとんど日常的といえる出来事である。歴史的に例がないのは故郷を失ったことではなく、新たな故郷を見出せないことである。(…)それは空間の問題 ではなく、政治組織の問題だったのである。人々は長いあいだ人類を諸国民からなる一つの家族というイメージで思い描いてきたのだが、今や人類は現実にこの 段階に到達したことが明らかとなった――だがその結果は、これらの閉鎖的な政治共同体の一つから締め出されたものは誰であれ、諸国民からなる全体家族から も、そしてそれと同時に人類からも締め出されることになったのである。」(p.275-276)

   「職業も国籍もまた意見も持たず、自分の存在を立証し他と区別し得る行為の成果をも持たないこの抽象的な人間は、国家の市民といわば正反対の像であ る―― 政治的領域においては市民たることはすべての相違と不平等を消し去る巨大な力として働き、すべての市民は絶えず平均化されてゆくのだから。なぜなら、無権 利者は単なる人間でしかないといっても、人と相互に保証し合う権利の平等によって人間たらしめられているのではなく、絶対的に独自な、変えることのできな い無言の個体性の中にあり、彼の個体性を共通性に翻訳し共同の世界において表現する一切の手段を奪われたことによって、共同であるが故に理解の可能な世界 への通路を断たれているからである。彼は人間一般であると同時に個体一般、最も普遍的であると同時に最も特殊であって、その双方とも無世界的であるが故に いずれも同じく抽象的なのである。
 このようなカテゴリーの人間の存在は文明世界に対する二つの危険を孕んでいる。彼らが世界に対して何らの関係も持たないこと、彼らの無世界性は、殺人の 挑発に等しいのだ――世界に対して法的にも社会的にも政治的にも関係を持たない人間の死は、生き残った者にとって何らの影響も残さないという限りで。たと え人が彼らを殺しても、何ぴとも不正を蒙らず苦しみさえ受けなかったかのように事は過ぎてしまう。」(p.289)

    三・一独立運動
    五・四運動
    コミンテルン創立大会。レーニン、プロレタリア独裁の綱領を発表
    ベニート・ムッソリーニ、ミラノの集会でファシズムの運動を開始 ドイツ労働者党がミュンヘンで結成。9月、ヒトラー入党

    ワイマール憲法公布、施行。主権在民、基本的人権をかかげ普通選挙と議院内閣制を採用した
    「第一一九条(一)婚姻は、家族生活および国民の維持の基礎として、憲法の特別の保護をうける。婚姻は、両性の同権を基礎とする。
 (二)家族の清潔維持、健全化および社会的助長は、国および市町村の任務である。子供の多い家庭は、これを埋合わせる配慮(ausgleichende Fursorge)を求める権利を有する。
 (三)母性は、国の保護および配慮を求める権利を有する。
第一二〇条(一)子を教育して、肉体的、精神的および社会的に有能にすることは、両親の最高の義務であり、かつ、自然の権利であって、その実行について は、国家共同社会(staatliche Gemeinschaft)がこれを監督する。」(高木八尺ほか編『人権宣言集』p.203-204)

    東京俸給生活者同盟会(サラリーメンズユニオン)発会。
    「俸給生活者とは、今でいうサラリーマンのことであり、都市化が急速に進んだこの時代には、会社員・銀行員を中心とした俸給生活者が新中間層とし て登場した。彼らはしゃれた造りの一戸建ての貸家を郊外に借り、平日は電車で通勤していた。俸給生活者の数は1920年前後には、東京市の人口の約 20%、全国民の7%から8%を占めていたという。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.101)

    「第一次大戦後、会社の事務部門・流通機構・公共団体が大規模となり、官公吏・会社職員をはじめとする俸給生活者、いわゆる新中間階層が増大した といわれている。そしてその量的増大は、上下の地位の分化をともなっていた。そして、増大したのは下層の俸給生活者であった。(…)
 下層俸給生活者は、工場労働者より所得は概してやや上であるとはいえ、以前の、また当時の上層の管理や会社員とは、ほど遠かった。しかし、彼らは中間階 層なりの生活をする必要があった。ところが、大戦後の物価騰貴およびその後の不況で彼らの生活は圧迫された。(…)
 中間階層において、こうした生活難、失業の危機に直面して、従来みられた、「教養ある」「良家」の妻・娘の、職場進出に対する根強い抵抗は、少しずつ弱 められていった。そして、「小学校を卒業したが高等女学校へやるだけのふんぱつもつかぬし、さればとて女工にするのも本意でなし……」という表現にみられ るように、女工にするには抵抗があるが、「職業婦人」ならばというのが、中間階層に属する者の心理であったろう。」(岩下清子「第一次大戦後における『職 業婦人』の形成」p.47-48)

    「以上から、第一次大戦後ともなると大企業には学卒者の定期採用・長期勤続雇用が浸透し、そのため学歴による階層差が固定化することとなったと推 測できる。それゆえ、両対戦間期になっても大企業における高学歴者の優遇はたしかに変わらなかったと言いうるのであるが、理科系統の多い日立製作所とは異 なり、文科系統が多く進出した三井物産では、学卒者といえども役員にまで上り詰めるのは少数に過ぎなかった。  しかし、昇進問題以上に深刻であったのが高学歴者の失業問題であった。明治末に「高等遊民」の発生として顕在化し始めていた高学歴者の失業問題が、第一 次大戦後の不況のなかでさらに悪化したのである。(…)
(…)
要するに、給与面では高学歴者が優遇されてはいたものの、しかし文化系統では高等教育機関卒業者が急増し続け、高学歴者といえども大企業への就職は次第に 困難となっていった。かりに就職できたとしても、役職者となりうる可能性はかなり低かった。進学者の増大が、社会移動の手段としての高等教育システムを機 能不全に陥らせたのである。」(川口浩編『大学の社会経済史』p.52-53)

    大蔵省印刷局がパートタイマー制度設ける
    「大蔵省印刷局では9月から雇員の採用に時間給制度を設けることになった。苦学生が就業しやすいように便宜をはかったもので、都合のよい時間に出 勤し5時間以上働いたら任意に退局してよいという。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.104)

    「サボ」「サボる」が流行語。神戸川崎造船所の争議で初めてサボタージュ作戦が採用され賃上げに成功。一般的に使われるようになった

    都市計画法
    「日本の都市細民の居住は、すでに述べたように、被差別部落を中心とする歴史的起源を有するゲットーのような存在と、木賃宿の伝統を受け継ぐドヤ 街として の日雇労働者街の両者を空間的基盤にしていた。これは、すでに述べた封建時代の都市建造環境が、近代以降に投射され、「細民」地区のコアとして存在し続け たものである。
 大正以降になると、こうした地区の周辺にある零細工場地区に、植民地化された朝鮮半島の出身者が移住して、エスニックな居住分化を伴いつつ、その集住の 場所をインナーシティに付け加えていった。エスニックな地区として沖縄出身者の集住も並んで進行した。
(…)
 1919年の都市計画法を契機に、ようやく高水準の市街地を建造する法的基盤として、土地区画整理に関する法制が整備された。以後、こうした自然発生的 な土地利用調整がなされたインナーシティの外側に、土地区画整理の施工された、計画的な郊外市街地が徐々に登場してくる。
 都市計画は都市過程への国家の介入である。都市計画の登場は、産業資本主義の都市空間の生産に新たな画期をもたらした。この変わり目は、大正後期から昭 和の初めに見られる。産業資本主義に主導され、市場の「見えざる手」が及ぶ範囲においてのみ形成された都市に対して、市場メカニズムではまかないきれない 都市建造環境のとりまとめと土地利用調整が、国家の介入によりなされるようになった。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.338-341)

    GM、割賦金融を行うGMAC(General Motors Acceptance Corporation)を設立
    「GMは、これまたフォードが無視した販売戦略を重視した。堅実なアメリカ人であったヘンリー・フォードは自動車は貯金をためてから買うものとい う信条を頑固に曲げなかった。だが、GMは逆に、金融子会社を設けて消費者信用を整備し、下取りや割賦販売などによって車を買いやすくした。これはより高 級な車種への買い替えにも威力を発揮し、T型車の持ち主をシボレーへと乗り換えさせる大きな力となった。」(鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』 p.53)

    M・ウェーバー『職業としての学問』
    「さて、学問上の霊感はだれにでも与えられるかというと、そうではない。それは潜在的な宿命のいかんによって違うばかりではなく、またとくに「天 賦」のいかんによっても違うのである。これは疑うべからざる事実であるが、この点と関連して――といってもこの事実を結局の根拠としているわけではないが ――近ごろ若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこんにちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像と は、「個性」と「体験」のことである。このふたつのものはたがいに密接に結びつく。すなわち、個性は体験からなり体験は個性に属するとされるのである。こ の種の人たちは苦心して「体験」を得ようとつとめる。なぜなら、それが個性をもつ人にふさわしい行動だからである。そして、それが得られなかったばあいに は、人はすくなくもこの個性という天の賜物をあたかももっているかのように振舞わなくてはならない。かつてこの「体験」の意味で「センセーション」という ことばがドイツ語的に使われたものであった。また、「個性」ということばも、以前はもっと適切な表現があったように思う。」(p.27)

    S・フロイト「無気味なもの」
    「ドイツ語の「無気味な」unheimlichは明らかに、heimlich(一、秘密の、私の、内密の、知られない、二、(方言)家庭の、馴染 の、親しみある・訳者)heimisch(一、土着の、故郷の、自由な、二、気がおけない、居心地のよい・訳者)vertraut(一、親しい、親密な、 二、熟知せる、精通せる・訳者)の反対物であり、したがって、何事かが恐ろしいと感ぜられるのはまさにそれがよく知られ馴染まれていないからである、とた だちに結論を下すことができる。むろんしかし新しく・親しまれていないものすべてが恐ろしいわけではないから、この関係を逆にすることはできない。ただこ ういうことがいえるだけである、新しいものは容易に恐ろしいもの、無気味なものとなる。若干の新しいものだけが恐ろしいので、すべての新しいものがそうな のではない。新しいもの、親しまれないものは、そこにそれらを無気味なものにする何ものかがつけ加わってはじめて無気味なものになるのである。」(『フロ イト著作集 第三巻』p.327-328)

1920年
    婦人協会、婦人参政権を要求
    日本最初のメーデー

    農商務省が能率課を設ける。能率運動が全国的に高まる
    「大戦が始まると日本の海運業はすさまじい好況に見舞われ、船舶需要が急速に高まった。それにもかかわらず、従来依存してきたヨーロッパからの中 古船購入が不可能になったため、日本の不定期船業者達は一斉に日本の造船業に船舶建造を発注しだした。その結果、日本の造船業は旧来行われていた受注生産 方式ではそれに対応できないだけでなく、そのままではみすみす膨大な利益機会を逸するという状況に直面したのである。そこで造船企業は個々の企業レベルで 船型を標準化し、それを反復生産することで、大量の需要に対応しようとした。しかも彼らにとっては、いかに早く船をつくれるかが、利益の増大に直接的に結 びついたので、できる限りすばやく反復生産を行なうため工程の改善に本腰をいれた。(…)
(…)
 第一次世界大戦期に生産規模を拡大させたのは、造船業だけではなかった。他の多くの産業も市場の拡大に支えられて、生産規模を拡大させた。しかし大戦が 終わるとこれらの産業も市場の急縮に直面せざるを得なかった。そこで、製造業の多くは、一方で企業規模を縮小させつつ、他方で経営の合理化を図らねばなら なかったのである。この合理化の必要性は、企業の目を生産現場へと向けさせることになった。生産現場で無駄を排除し、いかに能率をあげていくかが、企業の 業績の悪化を防ぐことに直結すると考えられたからである。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.130-131)

    第1回国勢調査実施。総人口7700万5500人、内地人5596万1140人
    国際連盟創設

    東大文学部、就職用の掲示板をつくる
    「東京帝大もご多聞に洩れず、経済学部はまあどうにかしまつがついたが、五〇〇名の卒業生を出す法学部は青息吐息、首を切るのに精一杯の会社が、 当面ソロバンもはじけず、セールスもできない、ただ幹部候補生というだけの法学士をとるはずがない。そこで学生は、もっぱら高文試験(上級公務員試験)の 受験勉強にフウフウいっていた。そのなかで、まったく金に縁のない文学部と理学部の卒業生だけが高値で、飛ぶように売れたのだから、ウソみたいな話であ る。
 なぜそうなったかといえば、第一次大戦末期から、高等学校・高等専門学校がボカスカでき、それにつれて中学校も大増設した。また、大学令の改正で、高等 専門学校や私立大学が大学に昇格した。大学の先生は足りない。そこで、ただでさえ足りない高校や高専の先生が大学に引きぬかれ、ひいてはこれもまた増設、 増募で手いっぱいの中学の先生が高校、高専に引きぬかれる。先生の不足は、不足が不足を生み、また不足を生む、という情況だったのである。これは、学校の 増設、学生の増募と、景気変動の波がちょっとずれただけの話である。
(…)
不景気には勝てないというわけで、帝国大学の品位をけがすような就職用掲示板をつくったのなら、就職難をめぐってのいじらしいエピソードとなったろうが、 実はまったく逆で「不景気の文学士高」を誇ったデモンストレーションだったのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.108-110)

    「以上のように、就職難に最も苦しんだのは、私立の文科系の卒業者であり、逆に官公立の理科系学生はそれとは比較的無縁であった。しかし、私立文 科系学生 の大半は大都市部の学校に在籍し、しかも高等教育全体のなかで大きな割合を占めていたから、そのことが深刻な就職難のイメージを広く流布させる結果をもた らしたといえよう。とはいえ、相対的に恵まれた境遇であったものにとっても、その就職状況は大戦ブーム期の先輩たちと比べれば明らかに悪化していたのであ る。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』p.120)

    スローンの「組織研究」が取締役会で承認される
「この研究の目的は、GMの広範な事業活動の全般を通じて、権限のラインを確立するとともに、各部門の活動を調整し、しかも同時に従来の組織がもっていた 美点を、いささかたりとも損じないような新しい組織のあり方を提示することである。
 この研究は、大きくいって、以下に述べる二つの原則に基礎をおいている。
 (1)各事業部の活動の最高管理者に付与される責任事項は、どんな形にせよ制限されてはならない。最高管理者に率いられる各事業部は、必要とするあらゆ る機能を完全に備え、それぞれの自主性をフルに発揮し、筋道にかなった発展を遂げなくてはならない。
 (2)会社の活動全般の筋道にかなった発展と適切な統制のためには、なんらかの中心的組織機能が絶対必要である。」(A.P.スローン『GMとともに』 p.71)

    アメリカでロシア革命の恐怖から「赤狩り」。司法長官の指揮で1万人逮捕
    アメリカで世界最初のラジオ放送

    F・スコット・フィッツジェラルド『楽園のこちら側』
    「多分、こうした若者たちの情熱は、結局竜頭蛇尾に終わるであろう。一、二年も経てば、若者たちは分別をとり戻し、万事は元通りになるであろう。
 だが、彼らの考えは間違っていた。若者たちの反逆は、すべての地方の、あらゆる年齢の男女をとらえた生活のしかたとモラルの革命のほんの序幕にすぎな かったのである。
(…)
 さまざまな力が同時に作用し、たがいに影響し合って、こうした革命が避け得ないものになったのである。
 第一に挙げられるのは、戦争および戦争の終結によってもたらされた人びとの精神状態である。兵隊が訓練キャンプや前線に出発するときに陥る、あの「食い かつ飲んで楽しくやろうぜ、どうせ明日は死ぬんだ」という気分に、この時代のすべての人びとが感染していた。(…)伝統的なタブーがごく自然に崩壊し、そ れがごく当たり前のことになった。戦争という試練が終わっても、こうした若者たちがもとのままの姿で戻ってくるはずがない。戦時の圧迫下で、自衛手段とし て新しいおきてを身につけた連中もいた。何百万人かのそうした青年たちは感情興奮剤を与えられたようなもので、容易にやめられなくなっていた。彼らのかき 乱された神経は、スピードと興奮と情熱という鎮静剤を求めていた。戦争は若者から、バラ色の理想に満ちた楽観的世界を奪っていた。」(F・L・アレン『オ ンリー・イエスタデイ』p.131-133)

1921年
    戦前最大のストライキと呼ばれる川崎・三菱神戸造船所争議が起こる。その後企業側は、工場委員制度で労働組合を代替しようとするようになる。
    企業別組合が結成され始める
    職業紹介法成立、公益職業紹介施設の全国的設立が決定

    安田保善社、大学卒の恒常的採用に踏み切る
「「一等社員から一等重役へ」の諸氏を生んだ一九二〇年前後(大正後半期)は、今日のサラリーマン制度ができあがった時代である。制度の第一は身分制度、 すなわち微分的な階級制度である。わが国の社会は、身分制度なくしては夜も日も明けなかったのである。
(…)
 身分制度はまず学歴と直結する。王子製紙の身分制度を例にとれば、大学卒はまず準社員として採用され、準社員を半年か一年すると社員に昇格する。ところ が、中学校や商業学校卒はその下の雇員か準雇員として採用され、まずくすると大半の年月をその身分で終ってしまう。準社員から社員に進む道は閉ざされてい るわけではないが、それには気の遠くなるほどの年月を要するのである。こうして、まず出発点において、大学卒とその他では、はっきりと一線が画されてい る。(…)
 こうした趨勢にかなり長いあいだ抵抗を示していたのは安田系であった。
「ともかくも、安田一家の方針は、給仕いな小僧あがり、万やむを得ずんば中学程度に限りこれを採用して、安田一流の養成教育を実施したのであった」
 しかしこれも「とうてい時代の趨勢に勝つあたわざることが自覚され、競って学校出の秀才を採用せんとするに至った。(天外散史「面目一新したる安田家の 社員待遇法」)
 それというのも、「安田系銀行の統一の必要と、対世間的に多少の人材を募集する必要もあったから」(「安田王国の解剖」=「太陽」大正十三年三月号)で ある。
 つまり、第一次大戦後の反動恐慌にさいして、企業の集中・合併という独占ムードに応じて、家憲に反しても大学卒を取り入れるようになったのである。」 (尾崎盛光『日本就職史』p.82-84)

    「大正後半期、つまり一九二〇年代の前半に大学・高専を卒業した人々のなかには、第二次世界大戦から今日にいたるまでの時期に、長期にわたってわ が国の実業界を背負ってきた人が多い。
(…)
まず第一に、これらの人々の大半が、大学卒業後最初に足をふみいれた会社を(少くとも同一系統の会社を)終始一貫して勤め上げていることである。そして、 そこに根をはり、一歩一歩、堅実に階段をあがって、位人臣をきわめた、ということである。これを終身雇用制と年功序列制の確立ということもでき、またサラ リーマン重役(社長)制の定着ということもできる。」(p.71-77)

   「ここでおもしろいのは、明治時代の安田保全社の練習生制度と、この時代の新入社員教育とのちがいである。本質的には、愛社精神をたたきこむという あたりで一致しているだろうが、方法論としてはまったく対照的である。練習生制度の場合は、すぐ実務につかせる商業・中学卒に対し、大学教育にかわるもの をほどこして、将来の幹部を養成しようとしたのである。ところが、この時代からはじまった新入社員教育は、形式上の幹部候補生に、下っ端サラリーマンの実 務を習わせる、というのが主たる眼目であった。」(p.114)

   「第一次大戦期以降、企業が成長し、それに伴いホワイトカラー層の拡大も加速した。企業は、大卒者への需要を増大させていくことになる。他方で、不 況のために大卒者の就職難がこの時期には進んだ。そうした中で一九二〇年代になると、企業は特定の大学を介して、人材の紹介・斡旋を受けるという採用パ ターンを確立した。(…)
 安田系の企業における大学卒業生の採用については、安田保善社が一括して行っていた。保善社は系列企業に所要の人員を問い合わせたうえで、採用人数を決 定 し、特定の大学に対して志望者の推薦を依頼した。その際、それぞれの大学別に採用人数をほぼ決めていたが、実際の選考にあたってその数の変更が可能なよう に、各校には「若干名」として申し込んだ。(…)」(川口浩『大学の社会経済史』p.198-199)

    アドルフ・ヒトラーがナチスの党首に

    「恋愛の自由」が流行語。
    「前年、東北帝国大学理科大学教授で日本物理学界の第一人者とも言われた石原純が原阿佐緒への求愛を受け入れられず自殺未遂。原阿佐緒はアララギ 会員の歌人で、九条武子、柳原白蓮と共に三閨秀歌人と呼ばれていた。石原から逃れるため上京した阿佐緒だったが、家庭を捨てた石原と同棲を始め、石原は大 学を辞職。新聞各紙一斉に二人をスキャンダラスに報道したため「恋愛の自由」という言葉がこの年、流行した。石原の著書「アインシュタインと相対性原理」 は、物理学の専門書にもかかわらず、「相対」という部分で恋愛の指南書と勘違いされてよく売れた。一方、柳原白蓮は、九州の炭鉱王の妻だったが、身分の違 う年下の男性の下に走りこの人妻の恋にも世間はわいた。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.112)

1922年
    未成年飲酒禁止法公布 お産休暇
    「文部省は9月、女教員・保母の産前産後の休養を有給とすることを認めるように訓令を出した。出産休暇の始まりである。」(現代用語の基礎知識編 『20世紀に生まれたことば』p.118)

    朝日新聞社説「実業界からの教育改善運動」
    全国水平社結成
    ワシントン会議で海軍軍縮条約に調印

    朝鮮戸籍令公布
    「併合当時の朝鮮人は、保護国だった韓国時代に制定された民籍法にもとづく民籍に編入されており、さらに一九二二年には総督府の制令として朝鮮戸 籍令が公布されたが、いずれも朝鮮のみの法律で内地の戸籍法とは法体系が別であった。すなわち、朝鮮と内地では戸籍の裏付けとなっている法が異なっていた のであり、両者を連絡する規定を設けないでおけば、わざわざ朝鮮人の本籍移動禁止を法文上に記さなくとも、内地―朝鮮間での移籍手続きが存在しないことに なる。国籍の場合とおなじく、ここでも大日本帝国は、法文上に差別を明記することを巧妙にさけたのである。
 このように、国籍のうえでは強制的に「日本人」に包摂しつつ、戸籍によって「日本人」から排除する体制が出来あがった。この体制は台湾にも反映し、やは り内地の戸籍法を施行しないという手法をとって、台湾人の本籍移動が実質的に禁じられることになる。地域レベルのみならず、個人レベルにおいても、朝鮮や 台湾は「日本」であって「日本」でない位置をあたえられたのである。」(小熊英二『〈日本人〉の境界』p.161)

    「文化住宅」流行語
    「東京・上野で平和記念東京博覧会が開幕した。中でも、居間を中心とした椅子式、個室、ガラス窓、赤い屋根といった洋風の「文化住宅」が特に注目 され、大都市郊外の「文化村」に次々と建てられるようになった。翌年には関東大震災が起こり、それをきっかけに庶民の生活が郊外に移ることがこれに拍車を かける。また、大正末から昭和初めにかけては「文化生活」「文化アパートメント」「文化鍋」など、「文化○○」という造語が大流行した。」(現代用語の基 礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.116)

1923年
    関東大震災、デマで朝鮮人を虐殺

    丸ビル竣工
    「ビジネスセンターの象徴としての丸の内ビルディングが完成した大正末期、事務職女性に対する社会的な注目はひとつのピークに達していた。メディ アは、アメリカ的建築様式を取り入れた近代的なオフィスビルで働く女性オフィスワーカーたちを大きくとりあげた。(…)そして「一度……這入つた人なら、 誰でも見逃す事の出来ないのは、各階の廊下を右往左往してゐる若き女の群れである」。「立派な化粧室を備えた」女性用トイレから、「白粉頬紅」「口紅」 「襟足の化粧」「胸の化粧」など「何処を見ても大理石の如く艶やかに輝い」た女性たちが日々生み出されていく。各種の「職業婦人」調査にも、服装や化粧品 への支出をたずねる項目が設けられた。メディアのなかのこのようなイメージには、戦間期の女性事務職という存在がもっていた意味の、もうひとつの側面が表 れている。  それは、職場の秩序とは異質なもの、それを乱し、それに対立するものの象徴としての女性事務職という見方である。(…)」(金野美奈子『OLの創造』 p.86-87)

    住友銀行の新入社員教育が系統化される
    「新入社員教育が系統的かつ制度的におこなわれるようになったのは、ほぼ大正十年代に入ってからで、それ以前には、ほんの一、二ヵ月、勤務時間の 前後に、いわば業務の補助程度におこなわれただけのようだ。記録によれば、住友銀行は、大正十一年までは、入社後約五十日間、営業時間の前後に一般実務の 練習をさせていたのを、大正十二年から改めて、約五ヵ月間、新入社員を集めて就業時間内に系統的な教育をほどこすことになったとある。他社も、おおむねこ のころから制度化したと思われる。」(尾崎盛光『日本就職史』p.112)

    「大学卒の無差別待遇とならんで、震災前後を特徴づけるものは、人物試験、人格主義というようなことばである。「箱根八里は馬でも越すが」をも じった「大井川なら俺でも越すが、越すに越されぬ人物試験」という文句が、大学生のあいだに流布された。
 山名氏の指摘のとおり、試験、試験でためされた頭にたいする評価が下がってきたような時代だから、各社とも「社員採用の基準は?」と聞かれた場合、「人 格第一」という判でおしたような答がでてくるのであった。そして、社長・重役などが列席して口頭試問によって品定めをする「人物試験」が、もっとも重視さ れた。」(p.135)
    スポーツ選手に対する企業の評価が上がり始める(p.140)

「住友系各企業の場合は、関西地方の大学の卒業生については住友合資大阪本社、また関東地方の卒業生については東京本社でそれぞれ別々に採用試験が行われ ていた。いずれの場合も指定した各学校に人材の推薦を依頼し、そこで選抜された学生についてのみ選考試験を行った。試験は人物を重視した面接で行われ、採 用人数はその時の成績により多少の変動はあるものの、あらかじめ各学校別に決められた予定数が採られていたようである。」(川口浩『大学の社会経済史』 p.199-200)

    早稲田大学、1921年に設置した臨時人事係を常設にして人事係と改称(25年に人事課に昇格)
    「早稲田で就職指導を担当していた坪谷の著書から、就職活動の制度化の具体的内容を見ることにしよう。
 それによると、各学校は、企業から採用の申し込みがなされる一二月頃の前に、活発な就職活動を開始する。すなわち各校の人事課(係)は、まず各企業に対 して、「明年卒業すべき各学科の卒業人員や、其の氏名、出生地などを詳記したる宣伝書を配つて、採用の申込を求め」る。その後、「更に人を派遣し、直接に 面談して採用を請」うが、「人物採用の依頼には、先方の重役級の人に面会の必要がある為めに、何れの学校でも相当の位置の人が出張」していた。また、こう した「採用依頼の運動は年々猛烈」になっていった。
 さて、各企業からの採用申込書は、「大抵各会社銀行の人事係の名で到来する」。(…)申し込みには、各企業からいろいろな条件が付けられたが、その中で ほぼ一致している条件は、「(一)健康なること(二)学績優秀なること(三)人物の堅実なること」だった。
 企業から申し込みを受けると、大学は「申込条件に適当する様な学生の意見を聞」いて、推薦を決定し、「学校当局者」から企業に対して、推薦状、自筆の履 歴書、成績証、健康証明書、本人の写真、そして戸籍謄本が送られる。(…)」(川口浩『大学の社会経済史』p.202-203)

1924年
    京城帝国大学設置
    明治大学、人事課を設置し、理事と教授で構成する就職委員会を組織
    日本優生学会『優生学』創刊

    財団法人同潤会設立
    「この財団は「関東大震災の善後措置として、住宅の建設経営」にあたるために設立されたのであった。同潤会は木造の貸家、鉄筋コンクリート造のア パート、共同宿舎、仮設バラック、分譲住宅など総計一万二〇〇〇戸の住宅を建設し、それらの住宅経営にともなう厚生施設なども建設・運営した。同潤会の活 動は、当時の全国の公営住宅の半数を占める建設を行った実績をもったが、一九四一年(昭和十六)年五月、戦時体制への変換のなかで、住宅営団に事業を引き 継いで解散する。存在期間こそ短かったが、その影響力は後の公営住宅をはじめ、住宅全体に広く長く及んだ。」(鈴木博之『都市へ』p.333)

    スローン、「通称ポンテアック車の現状」を提出する
    「というのはポンテアックは、GMの歴史上、生産面における製品の同一規格化という面で、最初の前進を示していたからである。もちろん同一規格化 ということは、形式の違いこそあれ、大量生産の第一原則とされている。しかし当時にあっては、T型車の先例もあって単一製品ということが、大規模な大量生 産の前提条件だという考え方がひろまっていた。別の価格グループに属する車と、部分的に同一規格化されたポンテアックは、自動車の大量生産と製品の多様性 というものを、両立させられることを立証するものであった。」(A.P.スローン『GMとともに』p.204)

    ヘミングウェイ、パリに戻る
    「ミス・スタインが失われた世代についての例の言葉を口から出したのは、私と妻がカナダからもどり、ノートルダム・デ・シャン街に住んでいて、ミ ス・スタインと私がまだ良い友だちであったころのことである。彼女がそのころ乗りまわしていた古いT型フォードの点火装置に何か故障があり、ガレージに働 いていた青年――彼は大戦の最後の年に軍隊勤務した男だった――が不手ぎわだったのか、それとも、たぶん、先着の他の車からなおすという順序を狂わせてミ ス・スタインのフォードを先に修繕してくれなかったためかもしれない。とにかく、彼はまじめでないということになり、ミス・スタインが抗議を申し込んだあ とで、ガレージの主人にこっぴどく叱られた。主人は彼に向かって言った。
 「お前たちはみんな失われた世代(ジェネラシオン・ペルデュ)だね」
 「あなた方はまさにその通りよ。まさにそうよ」とミス・スタインは言った。「戦争に出たあなた方若い人たちはみんな。あなた方は失われた世代です」
 「そうですか?」と私は言った。
 「そうよ」と彼女は言い張った。「あなた方は何に対しても尊敬心をもたない。飲んでばかりいて、しまいに酒が命取りになるでしょう……」
 「あの若い修理工は酔っぱらっていましたか?」と私は聞いた。
 「もちろん、そんなことはなかったわ」
 (…)
 「あの青年の主人は、たぶん、午前十一時には、もう酔っぱらっていたんでしょう」と私は言った。「だから、あんな気の利いた文句を考え出したのですよ」
 「私と議論なんかしない方がいいわ、ヘミングウェイ」とミス・スタインは言った。「そんなことしても、まるっきり役に立たないわ。あなた方は失われた世 代よ。あのガレージの持ち主が言った通りだわ」(福田陸太郎訳「回想のパリ――移動祝祭日」『ヘミングウェイ全集』第7巻p.302)

    アメリカ、連邦移民法改正。日系移民が完全にシャットアウト

1925年
    普通選挙法、治安維持法成立
    ムッソリーニが独裁宣言
    第14回共産党大会でスターリンの一国社会主義理論を採択。党名を全ソビエト連邦共産党と改称
    松下幸之助が初めて「ナショナル」の商号を使用
    「少年職業紹介ニ関スル件」、小学校卒業後ただちに求職するものに対して小学校と職業紹介所とが提携協力して指導にあたることが指示された。労働 行政と文部行政の連携の始まり
    「軍事教練」が中学校以上の学校に課せられる

    「卓袱台」が普及する
    「俸給生活者が増えてくるにつれ、都市部では家庭生活にも変化が現れ、和洋折衷のコロッケ、オムレツ、カレーライスを食べ、箱膳に代わって一家が 卓袱台を囲んで食事をし、団欒もするという新様式が出てきた。卓袱台はラジオとともに団欒には欠かせないものとなっていく。「ちゃぶ」は中国語の食事を意 味する言葉。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.134)

    細井和喜蔵『女工哀史』
    「細井は、十三歳で尋常五年で小学校を中退し、機屋の小僧となって自活生活に入ったのを振り出しに、一九二三年(大正12)まで約十五年間、鐘紡 紡績、東京モスリン亀戸工場などで職工をした。そしてその時の経験と観察に基づいてこの本を書いた。対象は紡績と織布の女工であるが(製糸女工は含まれて いない)、一九二〇年代の女子労働者の生活記録の書として古典的な地位を占めている。
 『女工哀史』では、日清戦争後の女工の募集難、女工の争奪と強制送金制度の開始など、女工募集の「自由競争時代」を経て、大紡績工場における福利施設の 充実などをめぐる競争へと至る過程も描かれている。」(猪木武徳『学校と工場』p.61)

    「モダンガール殺人未遂事件」高級売春婦の少女(16)がイタリア人(44)の家に行き相手をしたのに代金を払わなかったため、持っていたピスト ルで股間をねらって撃ったが少しそれて太股に傷を負わせた

1926年
    大正天皇死去
    労働争議調停法・治安警察法改正公布。軍需・公共事業の労働争議に強制調停を認め、争議の扇動を処罰するためのもの
    京都学連事件で初の治安維持法適用。河上肇京大教授が、軍事教練反対のビラが撒かれた事件の疑いで家宅捜索される
    在郷軍人会の赤尾敏らが第1回建国祭を行う。紀元節が国粋化される

1927年
    昭和恐慌

    不良住宅地区改良法
    「大正中期から始まる都市での住宅難に対して、モデル事業的に小規模な市営住宅が供給されはじめるが、内務省が住宅供給に本格的に取り組みはじめ たのは、1924年設立の、国営住宅供給公社ともいえる同潤会であった。これは、俸給生活者から工場労働者、そしてスラム・クリアランスを経た住宅改良事 業をその対象とし、27年の不良住宅地区改良法の施行につながった。この法律の対象地区は、六大都市を中心に十数地区ある細民街、貧民窟、スラムであっ た。これらは、都市内被差別部落、日雇労働者地区、都市雑業層集住地区として、それぞれの都市のインナーシティに存在した。この法律により、老朽化した狭 い家屋は取り払われ、大部分は鉄筋のアパートに建て替えられた。だが、下層性という、その地区がもつ都市空間の社会編成の特徴それ自体が払拭されたとは言 い難かった。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.344)

    芥川龍之介が服毒自殺
    「我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食 色にも倦いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と 一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れ ば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美 しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美 しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は 僕の死後にも何年かは公表せずに措いてくれ給へ。僕は或は病死のやうに自殺しないとも限らないのである。」(『日本現代文学全集56 芥川龍之介集』 p.455)

    リンドバーグ、初の単独大西洋無着陸横断飛行

1928年
    最初の就職協定
    「以上のような就職活動の制度化の内容を見ると、新卒者が企業と学校の実績関係に基づき、学校を通じて、卒業期以前に、一人一社の原則によって就 職活動を行う日本特有の制度・慣行が第三期に形成されていった様子が窺われる。一九二八年には三菱、三井、安田等が主導して、採用試験の時期を繰り下げる 最初の就職協定が結ばれた。それには、早期の就職活動がもたらす教育上の弊害を避けるという理由の他に、卒業試験の結果をみてから採用を決めたいとする企 業側の意向が反映されていた。こうした協定がどの程度遵守されたかは不明であるが、実業界が高等教育機関の協力を得て、採用決定時期の取り決めを行うこと 自体、労働市場の組織化が進展した証左と言えよう。」(川口浩『大学の教育社会史』p.203-204)

    「こうした職員層への入職資格として決定的に重要だったのは学歴である。通常、大学または高等専門学校の卒業者が職員に、実業学校の卒業者が見習 生または雇員に採用された。毎年の新卒採用者の大半は、過去につながりのある学校の推薦を受けた、新規学卒者からまかなわれた。応募者は出身校の学校長や 人事課、あるいはゼミの教授の推薦状をたずさえて入社試験を受け、これに合格すれば三月ないし四月付で正式採用となった。(…)当時の調査資料によれば、 有力な会社・銀行の多くは新規学卒者の定期採用を行っており、また新卒者の就職には学校による紹介が高い比重を占めていた。要するに、大企業職員の就職= 採用は、企業と中等以上の学校との継続的な関係として制度化されていたのである。
 社員はすべて定額級で支払われ、おおむね課長以上の管理職が年給、一般職員が月給であった。雇員は月給の者と日給の者に分かれ、見習生はすべて日給で支 払われた。他に年に二回のボーナスが支給され、その合計はほぼ一年分の給料に相当した。ボーナスは職工にも支給されたが、その額はせいぜい二週間分の賃金 にしかならなかった。(…)二〇年代後半に入職した社員の追跡調査からは、解雇と病気退職と除く自発的退職は入職後八年目以降は影をひそめ、実業学校新卒 者で七割、大学・高専新卒者では実に九割が会社に定着したことが知られる。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.196-197)

    GM、ラサールを発表しフルラインを完成させる
    フォード、A型車を開発
    「たしかにGMは、一九二〇年代にモデル・チェンジを行ない、一九二三年以降、今日にいたるまで毎年新型を売り出している。しかし以上の議事録が 示すように、一九二五年には、われわれはモデル・チェンジに関する考え方を今日のような方法で、はっきりと規定していなかった。いつそれを規定したかはわ からない。それは一つの進化であって、毎年新型を売り出し、そうする必要が認められてから、徐々に定まった方針が打ち出されたのである。一九三〇年代のあ る時期に、モデル・チェンジが定期的に行なわれるようになると、年式が話題にのぼるようになった。先代のフォード氏が年式に関心を持っていたとは考えられ ない。氏が一九二八年にその当時としてはりっぱな小型車モデルAを売り出したとき、私の目にはその車は「流行に左右されない実用的な車」というフォード氏 の考え方を再び具体化したものとみえた。」(A.P.スローン『GMとともに』p.217)

    「加えてGMは、買い替えを促進するため、二〇年代後半からモデル・チェンジを始めた。フォードが消費者を欺くものとして拒否した「計画的陳腐 化」政策で ある。同社は自動車のスタイル改善に大きな関心を注ぎ、二六年にはハリウッドの自動車デザイナー、ハーリー・アールを招聘し、ラサールの設計にあたらせ た。これを機会に業者の他社に先駆け、スタイル、カラー部門を設けた。自動車は次第に外観で買われるものとなり、流行に左右される商品となる。」(鈴木直 次『アメリカ産業社会の盛衰』p.52-53)

    ソ連、第1次5カ年計画を開始
    「一九三〇年から三五年にかけて、社会‐経済学者が細いながらも有力な流れのようになってモスクワを訪れ、ソ連経済の表面的な原始性と非能率、あ るいはスターリンの集団化と大衆抑圧の過酷さ、野蛮さにもまして、ソ連の経済的成果に感銘を受けていた。彼らの理解しようとしていたのは、ソ連の現実の現 象ではなくて、むしろ自国の経済体制の崩壊、西欧資本主義の失敗の深さだったからである。ソヴィエト体制の秘密は何か。そこから何を学ぶことができるの か。ロシアの五か年計画を真似て、「計画」と「計画化」が政界に通用する言葉になった。ベルギーとノルウェーでは、それぞれの社会民主党が「計画」を採択 した。イギリスの公務員サー・アーサー・ソルター――きわめて著名で尊敬されており、いわば体制を支える柱と目される人物であった――が、『景気回復』と いう本を書き、イギリスと世界が大恐慌の悪循環から脱出するには計画化された社会を作ることが本質的に重要であることを証明してみせた。(…)ヒットラー が一九三三年に「四か年計画」を導入したように、ナチでさえもが計画という考えを盗用した(…)。」(E・ホブズボーム『20世紀の歴史(上巻)』 p.144)

1929年
    世界大恐慌
    工場法改正。婦人・少年の深夜業禁止
    大蔵省、金輸出解禁

    小津安二郎監督作品『大学は出たけれど』、1929年度には帝国大学の新卒者でさえ3割しか職がない状態に陥る
    「こうした大学卒の就職難は、一九三〇年(昭和5)に入ると不況による影響が大であったと言えるものの、大卒の就職難は実は一九二七、八年ごろか らすでに顕在化していることに注意したい。つまり、求人側の原因だけではなく、求職者(大卒)の急激な増加という供給側の事情も、こうした就職難の大きな 原因であったということである。この当時の大卒の就職難を示すエピソードとして、よく小津安二郎の『大学は出たけれど』という映画が引き合いに出される。 この映画は、一九二九年(昭和4)四月に公開されている。したがって一九三〇年からの昭和恐慌の少し前ということになる。
 『大学は出たけれど』は、大学を卒業して職もなくブラブラしている青年が、妻の献身的努力に発奮してついに就職するという喜劇である。そこでは失業がい かに人間を無気力にするかという問題だけではなく、タイトルからもうかがい知れるように、大学の卒業証書の価値の低さへの皮肉が描き出されている。しかし これは単に笑って済まされるような状況ではなく、インテリ層の不安や社会的不満を高めることにもなった。
 またこの時期、中学校入学志望者数が減少したことも注目される。当時の中学校は高等学校・専門学校へ入学するためのワンステップという性格が強く、中学 を卒業すること自体にはそれほど経済的な価値はなかった。したがって同じ中等教育を受けるのなら、卒業してすぐ役に立つ実業教育を受けさせる方が経済的に は有利だという親の判断もあり、師範学校等を含めた実業学校への入学志望者数が大きく伸びた。」(猪木武徳『学校と工場』p.76-77)

    梅田に阪急百貨店開店
    「沿線に住宅地が開発されて新しい住民が住みはじめている。彼らは大阪を脱出したひとびとであるかもしれないし、新たに大阪圏に仕事を求めてやっ てきて、沿線に住むことになった人たちかもしれない。彼らの住む郊外住宅地に対応する都市施設として、ターミナルデパートは発想された。そこには都市の各 要素を連繋させて、事業者にも消費者にもメリットのある有機的な関係を生み出そうとする意欲があった。都市はようやくこの段階になって、個々の施設がばら ばらに存在する場所から、一種の構造を備えたものになったのである。都市が構造を備えはじめた証として、ターミナルデパートの出現は特筆される出来事で あった。」(鈴木博之『都市へ』p.255)

    デンマークで断種法制定(スイスのヴォー州に続きヨーロッパで2番目)

1930年
    金本位制復帰
    郷土教育連盟結成
    第二次・第三次産業人口の合計が第一次産業人口を上回る
    「ルンペン」流行語

    第1回サッカー・ワールドカップ、開催も優勝もウルグアイ

    オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』
    「あらゆる義務から逃避するという事実は、現代の世界でいわゆる《青春》謳歌の基礎となっている、なかば滑稽で、なかば破廉恥な現象を、いくぶん か解明してくれる。われらの時代といえども、おそらくこれより異様な特徴はもちあわせてはいまい。人々は、喜劇的に、自分が《青年》であると宣言する。な ぜかというと、かれらは、青年は、熟年に達するまで無期限に義務の履行を遅らせることができるのだから、義務よりも権利をよけいにもつことになる、という ことを聞いたからである。
 つねに、青年は、青年である以上、現在偉業をなしとげるとか、過去において偉業をなしとげたことを要求されないのだと考えられている。かれらは、つねに 信 用貸しで生きてきた。信用貸しで生きるという特徴は、人間性の本質のなかに見いだされるものだ。これは、もはや青年でない人が若者に与えた、なかば皮肉 な、なかば愛情のこもったにせの権利のようなものであった。しかるに、若者たちが、これをじっさいの権利と思いこんで、すでになにごとかをなしとげた人に のみ属しているすべての権利を自分のものとするのにそれを利用するにいたっては、あいた口がふさがらない。
 まるで嘘のように見えるかもしれないが、青春はゆすりになってしまった。じっさい、われわれは普遍的なゆすりの時代に生きているのである。これは二つの 補 足的な面をもっている。暴力のゆすりと、冗談半分のゆすりである。そのどちらも同じことを望んでいるのだ。つまり、劣等な者、凡庸な人間が、いっさいの服 従からの解放感を味わおうというのだ。」(「世界の名著」第56巻p.544)

   エルンスト・ユンガー「総動員」
   「(…)ロシアの「五ヶ年計画」によって世界は初めて、一大国の全勢力を一つの河床に統一する試みの前に立った。ここで経済的思考がどのように逆転 するかを見るのは有益である。民主主義の窮極的結果のひとつである「計画経済」はおのれを追い越して権力の解放そのものへと成長する。こうした急転は我々 の時代の多くの現実に観察される。大衆の大きな圧力が結晶形成に転化するのである。
 ところで攻撃だけでなく、防衛もまた並々ならぬ努力を要求する。いやここでは世界の強制はもっと明らさまになる。どんな生命も死の萌芽を誕生と同時に産 み 落とすように、大いなる大衆の登場は死の民主制をおのが内部に宿している。我々は個人狙撃の時代をすでにまた後にしてしまっているのだ。夜の空からの空襲 命令を下す飛行大隊長は戦闘員と非戦闘員の区別はもはや知らない。致死性ガスの煙はひとつの自然の元素のようにあらゆる生あるものの上をたなびくのであ る。このような脅迫を可能とする前提条件はしかし部分動員でも、一般動員でもない。それは揺籠のなかの幼児にまで手を伸ばす総動員である。幼児は他のすべ ての存在同様に、いやそれ以上に強く脅かされているのである。
 このようにしてまだ多くのことがあげられるだろう――けれども、快感と戦慄の入り混じった感情を懐きながら、この世界には労働していないいかなる原素も 存 在せず、我々自身も狂走するこの過程の最深部に登録されてしまっているのだと予感するためには、十分に解放されながら同時に仮借ない規律の下にある我々の 生、煙を吐き赤熱する区域を持ち、交通の物理学と形而上学を持ち、発動機、飛行機、百万都市を持ったこの我々の生を直視すれば足りる。総動員は遂行される というより、はるかに多く自分自身を遂行するのである。それは戦争と平和の両者においてあの神秘で強制的な要求の表現となる。この要求に大衆と機会の時代 のなかにあるこの生が我々を服従せしめるのである。したがってどの個人の生もいよいよ一箇の労働者の生となり、騎士の、王の、市民の戦争の後に労働者の戦 争が――その合理的な構造と非常について既に二〇世紀の最初の大きな争いが我々にひとつの予感を与えてくれた戦争が、続くことになる。」(田尻三千夫訳、 『現代思想』一九八一年一月号、p.166)

1931年
    満州事変、柳条湖事件
    3月事件・10月事件。桜会・大川周明ら軍部のクーデターによる宇垣一成内閣樹立を企図、未遂ののち発覚
    重要産業統制法公布。カルテル結成を助成
    松岡洋右、衆議院本会議の代表質問で「満蒙問題は、私は是はわが国の存亡に関わる問題であり、我が国の生命線であると考えている」と発言
    日本民族衛生学会『民族衛生』創刊
    癩予防法制定

    イギリス、金本位制廃止、全世界に信用恐慌が波及

    ポール・ニザン『アデン・アラビア』
    「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。
 一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、地位ある人びとの仲間に入ることも。世の中でおのれがど んな役割を果たしているのか知るのは辛いことだ。」(p.8-9)

1932年
    5・15事件
    満州国建国を宣言

1933年
    日本、国際連盟脱退
    京大滝川事件
    小林多喜二、拷問死
    児童虐待防止法公布

    国定教科書の改訂が実施され教科書の軍国主義か進む。
    「サイタ サイタ サクラガ サイタ、ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」

    「受験地獄」流行語
    共産党幹部佐野学、鍋山貞親が獄中で転向声明を発表

    小林秀雄「故郷を失つた文学」
    「私達は生れた國の性格的なものを失ひ個性的なものを失ひ、もうこれ以上何を奪はれる心配があらう。一時代前には前には西洋的なものと東洋的なも のとの争ひが作家制作上重要な關心事となつてゐた、彼らがまだ失ひ損つたものを持つてゐたと思へば、私達はいつそさつぱりしたものではないか。私達が故郷 を失つた文學を抱いた、春を失つた年達である事に間違ひはないが、又私達はかういふ代償を拂つて、今日やつと西洋文學の傅統的性格を歪曲する事なく理 解しはじめたのだ。西洋文學は私達の手によつてはじめて正當に忠實に輸入されはじめたのだ、と言へると思ふ。かういう時に、徒らに、日本精神だとか東洋精 神だとか言つてみても始りはしない。何處を眺めてもそんなものは見附かりはしないであらう、又見附かる樣なものならばはじめから搜す價値もないものだら う。」(『新訂 小林秀雄全集第三巻 私小説論』p.37)

    アドルフ・ヒットラー、首相に就任。その後、ナチスによる一党独裁制に
    「一九三三年に成立したドイツのナチス政権は、先に述べたようにカリフォルニア州の断種の「実績」を参考にし、ナチス断種法を成立させた。そして アメリカ の優生学者の多くは、これを賞賛した。欧米の研究者が非難したのは、ナチスが行ったユダヤ人研究者の大量パージの方であった。
 ナチスは、アメリカの断種法や絶対移民制限法を、自らの政治主張の正しさを世界も認め採用した具体例として、さかんに喧伝した。ナチスの人種政策に確信 犯的に賛同する人間もいた。」(米本昌平ほか『優生学と人間社会』p.44)

    F.D.ルーズベルトがアメリカ大統領に就任。特別議会、ニューディール諸法可決

1934年
    東北地方大凶作。娘の身売り、欠食児童、行き倒れなど悲惨な状況を生み出す
    同潤会江戸川アパート落成。近代的アパートのはしり

    ヒトラー、ドイツ総統に
    毛沢東、大長征
    キーロフ暗殺。スターリンによる粛清始まる

1935年
    美濃部達吉「天皇機関説」批判
    衆議院が満場一致で国体明徴決議
    「非国民」流行語

    中野重治「村の家」
    「そしてどの晩も、「屋敷の手入れなどもお父つぁんは考えている。死んだおじいさんも木が好きじゃったが、お父つぁんはまたいかにも作家の生まれ た屋敷という風にしたいと思てるんじゃ。」といって大声で笑った。勉次は答えるすべもなく、同時に父の精神的衰弱もそこに見えるように思った。そんな言葉 にも父は我と慰めの一つを見だそうとしているらしかった。死んだ兄の耕太が祖父のすすめで生命保険にはいった時、朝鮮にいた孫蔵は反対して止めさしてし まった。祖父が家がぼろぼろになったので小さい家に造り直そうといった時には、いや、小学校のような家を造るべきですといって反対した。しばらく前からそ の父が保険の村代理店をしていた。勉次はまだ中学にいたとき見た父の夢も思い出した。父が植物標本をつくっている夢で、父もそんなことにまぎれを求めてい るのかと思って覚めたが、屋敷の文士仕立は話が現実的なだけ黙るほかなかった。」(『日本現代文学全集70 中野重治・小林多喜二集』p.27)
    デュポン社でナイロンが完成

1936年
    2.26事件
    阿部定事件
    「誰しも自分の胸にあることだ。むしろ純情一途であり、多くの人々は内々共感、同情していた。僕らの身ぺんはみなそうだった。あんな風に扇情的に 書きたてているジャーナリストがむしろ最もお定さんの同情者、共感者というぐあいで、自分の本心と逆に、ただエロ的に煽ってしまう、ジャーナリズムのやり がちな悲しい勇み足であるが、まったく当時は、お定さんの事件でもなければやりきれないような、圧しつぶされたファッショ入門時代であった。お定さんも 亦、ファッショ時代のおかげで反動的に煽情的に騒ぎたてられすぎたギセイ者であったかも知れない。」(「阿部定さんの印象」『坂口安吾全集15』 p.240-241)

    国号を「大日本帝国」に統一。外務省はそれまで「日本国」「大日本国」「日本帝国」「大日本帝国」とまちまちだった国号を「大日本帝国」に統一 し、すでに実施していると発表した
    メーデー禁止。警視庁、赤バイを白バイに変える
    日独防共協定調印

    内鮮協和会設立
    「日本内の朝鮮人は凡て協和会に登録し、それが発行する身分証明書を常時携帯しなくてはならず、就職と渡航〔故国訪問〕に必要な書類は何であれ皆 協和会の管轄下にあった。満州の朝鮮人も同じく、協和会とか、青年保護団とか、愛国勤労隊とかの組織に組みこまれていたが、その目的は労働力を動員し、朝 鮮人に朝鮮人を監視させることであった。(…)
 戦時中朝鮮人は、女性と子供を含め、大量に日本に送りこまれ、1945年になると、全労働力の32%が朝鮮人によって担われていた。1941年の数字を あげれば、総数140万の在日朝鮮人の中で、労働者は770,000であったが、その内訳は工事現場220,000、工場労働者208,000、鉱山労働 94,000。残りは農業、漁業、その他であった。しかも1941年から1945年までの5年間、更に50万以上の朝鮮人が日本に送りこまれ、その半分以 上は炭鉱で働かされた。」(ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』第1巻p.67)

    「機械工業は、決まったことを、決まった時間に、決まった手順で、しかも一定のペースで正確に成しとげることを要求し、それには規律が必要であ る。これは 農業のサイクルに時間が合わされていて、決まったことを決まったときにきちんとやることが要求されるのは、1年に何回もないという百姓の生活とは基本的に 正反対のものである。人間はそうたやすく自ら進んで、今までのライフ・スタイルを変えるものではない。彼らがそうせざるをえないのは、後ろから突っつか れ、押し出されるからに過ぎない。彼らは先ず土地から引っこ抜かれて移動可能な状態におかれなくてはならない。それから土地との繋がりを完全に切断され、 工業環境の要求する熟練と規律の型の中に流しこまれなくてはならない。朝鮮ではこのプロセスが異民族の強制の下に進められ、しかもそのための時間は10年 そこそこに圧縮されていた。それから、始まりがそうであったように、まったく突然その終わりがやってきて、労働者たちはやめたばかりの農民に、再び逆戻り をせざるをえなかったのだ。」(p.64)

    スペイン内乱
    スターリン憲法
    チャールズ・チャップリン監督作品『モダン・タイムズ』
    ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論』

    ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品(第二稿)」
    「書籍に関しては数百年にわたり、書き手は少数であるのに対し、読み手はその何千倍もいるという具合になっていた。十九世紀の終わり頃、ある変化 が生じた。新聞がますます普及し、たえず新しい政治的・宗教的・経済的・職業的・地域的機関が読者に提供されるにしたがい、しだいに多くの読者が――はじ めは散発的に――書き手の側に加わっていった。それとともに、日刊紙が読者のために〈投書箱〉を設けることが始まった。そして今日の状況は、労働過程のな かにいるヨーロッパ人のほとんど誰でもが、その労働の経験、苦情、ルポルタージュなどを発表する機会を、原理的にはどこかしらに見つけることができる。こ のことによって、著者と公衆とのあいだの区別は、その原理的な性格を失いつつある。それは機能上の区別、ケースバイケースで違った風に行われる区別にな る。読み手はいつでも書き手になることができる。極端に専門家された労働過程においては誰でも良かれ悪しかれ専門家に――たとえきわめてささいな業務の専 門家にすぎないとしても――ならざるをえないので、そうした専門家として執筆者層の仲間入りをする道が開けるわけである。労働自体が発言する。そして労働 を言葉で表現することは、労働を遂行するのに必要な能力の一部となる。ものを書く資格は、もはや特殊な教育に基づいてではなく、総合技術教育〔旧ソヴィエ ト連邦で、普通学校教育において必須とされていた総合的な自然科学・技術教育〕に基づいて得られるものとなり、したがって万人の共有財になる。」(浅井健 次郎編訳、久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』p.612-613)

    「弁証法的に思考する者にとって、今日の戦争の美学は、次のような姿で現れてくる。生産力の自然な利用が、所有の秩序によって妨げられると、技術 手段、テンポ、エネルギー源の増大は、生産力の不自然な利用を強く要求する。この不自然な利用の場は戦争に求められる。そして戦争がもろもろの破壊によっ て証明するのは、社会がいまだ技術を自分の機関として使いこなすまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な緒力を制御するまでに成 長していなかったことである。帝国主義戦争のきわめてむごたらしい諸特徴を規定しているものは、巨大な生産手段と、生産過程におけるその不十分な利用との あいだの齟齬(別の言葉で言えば、失業と販路不足)なのである。帝国主義戦争とは、技術の反乱にほかならない。技術の要求に対して、社会が自然の資源を与 えなくなったので、技術はその要求をいまや〈人的資源〉に向けているのだ。」(p.628-629)

1937年
    盧溝橋事件、日中戦争勃発
    南京大虐殺
    ゲルニカ爆撃
    輸出入品等臨時措置法、臨時資金調整法制定。戦時経済統制の開始

    奥むめお主催「働く婦人の家」が結婚相談を行う
    「一九三七年、奥むめお主催の「働く婦人の家」が行った結婚相談には、担当者の予想を大きく上回る数の男性から「求妻申込み」が殺到し、その八割 は、月収五〇円から五五円の三〇歳前後の「サラリーマン」からだった。これに対して「職業婦人」たちからは「せめて六〇円以上の収入がなければ」という理 由で、応じるものがなかったという。物価の高騰や生活水準期待の上昇という状況のなか、多くの男性俸給生活者の収入は、家族を養い、かつ「中流」の生活を 維持するのに十分な水準にはないとみられていた。」(金野美奈子『OLの創造』p.85)

    教育審議会、女子大学について討議
    「ところで、大学令も高等学校令も、男子のみに門戸が開放されていて、法的な高等教育機関としての女子大学と女子高等学校は設置が許されなかっ た。このため、女子の高等教育機関の設置・官立高等教育機関への開放の要求が高まり、一九三七年設置の教育審議会は遂に四〇年一月に女学校を五年制にして 程度を高めて女子の高等学校を認可し、大学令による女子大学を創設することを討議した結果、委員間では女子大学の設置が意見の一致をみたのであるが戦時体 制の強化に伴い、遂に実現しないままに終ったのである。女子で総合大学に入学を志望するものは、右の大学の内で女子に入学を許可している大学へしか進学す る他に道はなかったのである。」(川口浩編『大学の社会経済史』p.36)

1938年
    国家総動員法
    学校卒業者使用制限令
    職業紹介法によって職業紹介所が国営化
    厚生省設置
    満州移住協会が移住した独身男性のために「大陸の花嫁」募集

    ナチスの組織的ユダヤ人迫害起こる(水晶の夜事件)
    アメリカ、「火星人来襲」のラジオ劇のオーソン・ウエルズの名演技で全米がパニックに
    サルトル『嘔吐』

1939年
    ドイツ、ポーランド侵攻。第二次世界大戦勃発
    ノモンハン事件
    創氏改名に関する法律公布
    独ソ不可侵条約調印

    日本勧業銀行、女性事務職の二八歳定年制を導入
    「若年定年制については、女性は結婚時に退職することが多いという傾向を追認したものだという見方がある。このような見方は同時代にも存在した。 しかし、 ここでの検討が示唆するのはむしろ逆に、このような制度の導入は、女性の勤続年数の長期化傾向に対する、企業側の積極的な対応策としてとらえれるというこ とである。女性たちが、企業が想定する時期にスムーズに退職しているのであれば、わざわざ若年定年を制度化する必要はないはずである。若年定年制は、戦後 高度成長期に女性雇用管理の一大トピックとしてとりあげられることになるが、ここで見たような事例から、その発想は戦前期にすでに見られたことがわかる。 逆に言えば、戦前期の女性たちは、職場から若年定年制という発想を引きださせるほどの存在になりえていたのである。」(金野美奈子『OLの創造』 p.102)

    厚生省が「結婚10訓」を発表
    「厚生省は「結婚10訓」を発表。兵力増強のために「生めよ殖やせよ」など。翌年には、10人以上の子供をもつ親が「優良子宝隊」として表彰され た。」 (現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.215)

    「明治三〇年代のジェンダーが、職場における女性の存在という「問題」を見出したとすれば、戦間期のジェンダーは、職場の女性の「男性化」という 「問題」 を「発見」した。第一時大戦後、「職業婦人」の表象に使われるようになった言葉に、「堅い職業婦人タイプ」、「オールド・ミス」、「オールド・メイド」と いった言葉がある。これらが示唆するように、特に問題とされたのは、女性たちの結婚と出産との関わりであった。「職業婦人の結婚難の問題」が、戦間期を通 して話題になる。「現代の若い女性は『子どもなんか一生欲しくない』と朗らかに公言する。[われわれは]……女性は……自己本位であると非難する前に、何 が彼女らにさうさせるのかといふ社会的原因(=職業経験:引用者注)を考えてみなければならぬ」。」(金野美奈子『OLの創造』p.83-84)

    ニューヨーク万博
    「一九三九年四月三十日、日曜日の朝に、ニューヨーク世界博覧会の門が開かれた。この博覧会のテーマは“明日の世界”だった。開会式は“平和の 庭”と呼ばれている広大な構内でおこなわれた。巨大な雲のかかった青空の下に集まった何万人もの群衆のなかに、“明日の世界”という二つの言葉が、皮肉に も提出している問題を、じっくりと考えることができた者がいただろうか?」(F・アレン『シンス・イエスタデイ』p.450)

1940年
    日独伊三国同盟締結
    近衛文麿が新体制運動推進の決意表明。基本国策要綱を閣議決定、大東亜新秩序・国防国家の建設。
    経済新体制確立要綱が閣議決定。経済全体、企業体制全体の再編成

    勤労新体制確立要綱原案
    「企画院はこのなかで、「勤労ハ資本増殖、個人生活ノ手段トシテ観念セラルベキモノニ非ズシテ其ノ国家性、人格性、生産性ヲ一体的ニ具現スル国民 ノ奉仕」である、と強調した。勤労は「皇国ニ対スル皇国民ノ責任タルト共ニ栄誉」であり、「全人格ノ発露トシテ創意的自発的」でなければならない(…)。
 ここで戦前の労働運動の指導者が好んで用いた「人格」という言葉が使われていることは、決して偶然ではない。そのレトリックが意味するところは明らかで あ ろう――工員は〈勤労者〉の名において企業、さらには国民生産共同体の正規の構成員として認められたのである。
 (…)要するに、同原案は、企業は国家目的=高度国防国家の建設に貢献する〈生産人〉の協同体であり、その構成員は〈身分〉によってではなく各人が生産 に 寄与する仕方=〈職分〉のみによって区別される、という考え方を鮮明にしたといえよう。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.204)

    大政翼賛会結成
    教育審議会答申で、理工系統の充実が奨励される

    国民優生法制定
    「このように、国民優生法は、もともと純然たる優生断種法になるはずであった。しかし、厚生省で断種法の検討が始まった一九三八年は、人口増強策 が一挙に 推進された時期でもあり、そのため立案過程で「健全なる素質を有する者の増加」の要素が付加されることになったのである。その結果国民優生法では、優生学 的理由によらない一般の不妊手術は、すべて他の医師の意見を求めたうえで事前に届け出ることを義務づけられるようになった。」(米本昌平ほか『優生学と人 間社会』p.181)

    国民体力法制定
    「戦時下にあっては強い兵力、労働力が求められる。前年、厚生省は男子青少年の基礎体力の向上をめざし、体力検定制度を実施。この年、国民体力法 が公布。 体力手帳が交付されるようになる。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.221)

    「贅沢は敵だ」「バスに乗り遅れるな」「一億一心」「パーマネントはやめませう」などのスローガン
    国民服が奨励され、隣組が作られる

    レニ・リーフェンシュタール監督作品『民族の祭典』

1941年
    太平洋戦争勃発
    小学校が「国民学校」に
    大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件

    三菱重工業名古屋航空機製作所、「前進作業方式」導入。一定の時間内に一工程の作業を終え、合図により一斉に次工程に機体を移動させる方式。
    「企業の生産現場に対する意識が大きく変化したのは一九三〇年代半ば以降のことであった。日中戦争以後の戦時体制の進展の中で、兵器や輸送機器が 大量に必要となり、日本の製造企業は生産の拡大を迫られた。そこで企業は生産設備の拡張を行なうとともに、生産現場の全体的なシステムを見直さなければな らなかったのである。その際、彼らが意識したのは、アメリカでフォードが作り上げた大量生産システムであった。ただ、フォード・システムは多数の専用工作 機械を使用する前提で構築されていたが、アメリカと違って当時の日本では生産工程に大量の専用工作機械を投入することは不可能であり、一気に生産工程の機 械化を図れる状況ではなかった。このため、日本の企業はフォードが開発した大量生産システムを意識しつつも、それとは異なった量産化の方策を模索せざるを 得なかった。すなわち、彼らは少なくとも工程全体を流れ作業的に組織することで、効率的に物を生産しようと考えたのである。これが最も顕著に見られたのが 航空機産業であった。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.133)

    「三菱重工業名古屋航空機製作所が前進作業方式を導入したのは、「少しでも作業を容易にして生産を挙げる為と、部品を合理的に、又容易に集める 為」であった。そして同所は「部品は組立の方から逆に引張ると云った意味で、先づ組立工場から始めた」。組立工場から始めたのは「入り方として組立から 入った方がやり易い」という動機からであった。これは戦後のトヨタ生産方式の考えと一脈通じる考え方である。」(p.135)

    坂口安吾「文学のふるさと」
    「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのよ うに、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことが できる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、そ れだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
 私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさ とは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……」(『散る日本』p.44)

1942年
    「欲しがりません、勝つまでは」
    日本能率協会設立
    雑誌『文学界』、「近代の超克」を特集

1943年
    「撃ちてし止まむ」
    第一回学徒兵入隊、学徒出陣
    学生の勤労動員が始まる

1944年
    国民学校の集団疎開が始まる。最初は東京都

    海軍航空隊で特攻戦法が採用される
    「対戦の最終段階では、世紀戦闘では米軍に太刀打ちできず、特攻戦法が広範に採用された。一九四四年一〇月に海軍航空隊でこの戦法が採用されたと き、表向きには、現地航空部隊指令の発案と、パイロットたちの志願によったものとされていた。しかし実際には、事前に海軍中央で行われた協議によって、形 式上は現地で発案されたかたちをとり、中央からは何も指令を下さないことが内諾されていた。
 航空機による特攻は、「一機で一艦を屠る」というスローガンのもとで行われた。しかし爆弾を抱いた航空機の衝突は、投下爆弾にくらべ速力と貫通力が劣 り、破壊効果も少ないことが当初から知られていた。米軍の戦闘機と防空弾幕の妨害を、特攻機が潜り抜けられる可能性も少なかった。
 (…)
 現地軍から報告される特攻の戦果は、しばしば大幅に誇張されていた。フィリピン戦線でのある作戦では、二四機の特攻機が、三七隻を撃沈破したと報告され た。そして実施された特攻のなかには、故障などによって生還した者を死なせることを目的としたものも混じっていたといわれる。その理由について、フィリピ ン戦線にいたある陸軍パイロットは、回想記でこう述べている。

  当時の高級参謀たちは、上からの命令になんとか帳尻を合わせることに必死であった。つまり、特攻を出すことによって、架空の戦果をつくり出すわけであ る。
  しかも、いったん特攻に出した人間が生きていることは、彼らにとって、はなはだまずい。せっかくつくりあげた架空の戦果は台なしになるし、特進を申請 したのも嘘になる。これは何が何でも本人に死んでもらわねば面子が立たない。

 このフィリピン戦線では、多くの部下を特攻に送りだした航空軍指令の冨永恭次陸軍中将が、米軍上陸直後に飛行機で台湾に無断脱出した。しかし元陸軍次官 でもあったこの将軍は、予備役に編入されるだけの処分ですんだ。
 (…)
 航空隊の幹部や兵学校出の士官、古参パイロットなどは、部隊の維持に必要であるとされたため、特攻に出ることは少なかった。そのため特攻隊員の多くは、 戦争の後半に動員された学徒出身の予備士官や、予科練出の少年航空兵などから選ばれた。機材面でも、特攻用には、喪失しても惜しくない旧式機や練習機がし ばしば使用された。当時の古参パイロットの一人は、「特攻隊に選ばれた人たちは、はっきり言って、パイロットとしてはCクラスです」と述べている。」(小 熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』p.31-33)

1945年
    大日本帝国、無条件降伏
    日本政府、特殊慰安施設協会(RAA=Recreation and Amusement Assoiation)を設立
    黒塗り教科書
    女子教育刷新要綱、1946年度からの大学・専門学校の男女共学を認める
    労働組合法公布
    第一次農地改革
    財閥解体
    闇市
    夕張炭坑の朝鮮人労働者6000人が待遇改善を要求して一斉ストに突入

1946年
    日本国憲法公布
    教育刷新委員会設置
    500円生活

    米、雇用法成立
    アメリカで世界初の電子計算機「ENIAC」が完成

1947年
    全官公労総罷業(2.1ゼネスト)中止
    教育基本法・学校教育法公布、六・三・三・四制の新学制スタート
    大学基準協会
    全国で給食開始
    臨時石炭鉱業管理法
    職業安定法
    技能者養成規定(労働省令)
    電産型賃金
    労働省発足
    日教組発足
    日経連発足

    外国人登録令
    「1947年の外国人登録令の施行は、外国人の扱いをめぐる戦後処理のまずさを決定的にし、少数民族に関わる都市の空間編成にも特徴を与えた。す なわち、 旧植民地出身の人々が自動的にそして一斉に日本国籍でなくなり、その後長い間、在日外国人は、公共セクターと関わることができなくなった。公営住宅への入 居や、住宅金融公庫使用による住宅購入資金の借入れ、あるいは民族学校、民族学級の非公認の問題などで、都市政策に介入した国家とのつながりはまったく断 たれた。被差別部落の解放運動が、後に同和事業による都市建造環境生産として多額の公的資金を獲得したのと対照的に、在日外国人は、一足早く、新保守主義 にも似た「自助努力」の中に放り込まれたのである。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.349)

1948年
    新制高等学校発足、学区制・共学制・総合制の3原則
    文部省内に大学設置委員会設置
    教育勅語失効
    教育委員会法制定。公選による教育委員の選出、教育委員会への教育予算編成権の付与
    優生保護法
    「アルバイト」「ノルマ」流行語

    ニューヨーク郊外、ロードアイランドに最初のレヴィットタウン完成
    「誰でも自分の家と土地を持てば、共産主義者にはならない」(ウィリアム・レヴィット)
    「レヴィットは伝統的な住宅建設方法を再構成して、新しい建設方法を考案した。それはいわば自動車の組み立てラインの逆であった。すなわち、自動 車の生産ラインでは車が人から人へと動く。ところがレヴィットタウンの建設現場では、働くのは人の方である。作業員がチームを組んで、この家からあの家へ と動きまわり、一つの工程だけ完成させて、次の家でまた同じ工程を繰り返すのである。
 床作業員、タイル作業員、壁作業員、白ペンキ作業員、赤ペンキ作業員といったように分担が決められた。この方法だと熟練工が不要になるので人手不足も解 決できた。しかも重要な部分は現場に運ばれる前にあらかじめ組み立てられ、工具は電動式になっていたので、非熟練工でも簡単に作業ができるようになったの である。
 こうした新しい建設方法の開発によって、レヴィットタウンの生産効率は1日36戸にまで上昇した。戦前においては、典型的な住宅業者の建設する住宅個数 は1年に5戸弱だったというから革命的な生産性の向上だった。」(三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史 郊外の夢と現実』p.60-61)

    坂口安吾「戦争論」
    「両親とその子供によってつくられている家の形態は、全世界の生活の地盤として極めて強く根を張っており、それに反逆することは、平和な生活をみ だすものとして、罪悪視され、現に姦通罪の如き実罪をも構成していた。
 私は、然し、家の制度の合理性を疑っているのである。
 家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠 牲になるが、他人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かかる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。
 (…)
 家の制度というものが、今日の社会の秩序を保たしめているが、又、そのために、今日の社会の秩序には、多くの不合理があり、蒙昧があり、正しい向上をは ばむものがあるのではないか。私はそれを疑るのだ。家は人間をゆがめていると私は思う。誰の子でもない、人間の子供。その正しさ、ひろさ、あたたかさは、 家の子供にはないものである。
 人間は、家の制度を失うことによって、現在までの秩序は失うけれども、それ以上の秩序を、わがものとすると私は信じているのだ。」(p.196)

    「アプレ・ゲール」流行語
    「フランス語で「戦後」。特に第1次世界大戦後のフランスを中心とした新しい芸術運動を指すが、日本では、第2次大戦後のそれまでの価値観にとら われない 無軌道な戦後世代の呼び名になった。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.266)

1949年
    職業安定法改正、学校による公共職業安定所業務の分担に法的根拠が与えられる→「新規中卒労働市場」の組織化
    「この制度の特徴は、第一に、一般職業紹介と新規学卒職業紹介とを明確にわけ、後者をすべて事実上学校経由による紹介としたことである。このこと は、学生生徒にとっては、公的職業紹介を受けようとすれば、すべて学校における進路指導を経由しなければならぬこととした。
 第二に、とりわけ職業安定法第二五条三および第三三条二をとる学校においては、学校が個別企業からの求人票を直接受け付けることにより、個々の学校と個 々の企業とを直接結びつけることとなった。したがって、企業は求人にあたって、学校を選定することができ、また、特定の学校から毎年一定数を恒常的に採用 することで事実上の指定校制度的なものを形成することを可能にした。逆に、学生生徒にとっては、提供される求人情報は主としてその学校に直接出された求人 に限定されることとなった。なお、高校についてみれば、一九七〇年時点で、全国五八八一校中二五条三をとる学校が三四六〇校(五八・八パーセント)、三三 条二をとる学校が二二四二校(三八・一パーセント)となっており、この二つの方法が少なくとも高校においては完全に支配的であった。
 しかし、この体制が社会的に普及・定着するのは、戦後ただちにではない。まず第一に、この制度はいうまでもなく自営就業者については適用されない。した がって、農業など自営就業者が就職者の多数をしめた五〇年代半ば頃までの時期は、この制度が実際に適用される対象は、就職者全体の一部にすぎなかった。し かも第二に、この時期までは、自営以外の就職希望者に限ってみても、この制度は十全には機能していなかった。それはまず、この制度を通して紹介される求人 数の絶対的不足である。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.151-152)

    国立学校設置法公布、新制国立大69校が各都道府県に設置され、駅弁大学と言われた
    工業基準法公布
    ドッジ、経済安定9原則実施について声明
    優生保護法が改正され、経済的理由の妊娠中絶が許可に

    GHQが、美観上の問題から東京の露店を全部路上から消すように命令
    「戦災復興事業という都市計画の断行は、エスニシティや貧困の度合いに考慮を払わなかった。駅前の闇市の処理は1946年以降何度も行われたが、 取締りの 対象は、「第三国人」とマスコミなどに書きたてられた。このようなスクォッター・バラックは、復興事業の都市計画街路用などの空間として暫定使用が黙認さ れ、戦後の駅前景観を代表する、マーケット兼居住空間が生まれた。そしてこの駅前バラックは、消し去るべき景観として、後年の都市改造、都市再開発の最大 のターゲットとなった。
 大量の浮浪者、浮浪児は、例えば大阪では、施設収容主義の徹底につながった。1940年代末から50年代初めには、いくつかの施設にこれらの人々が「保 護」という形で収容され、都市の貧困の最も深刻な様相が可視的な形態として隠蔽された。これと並行して、大量の都市の低所得者層に対する失業対策事業も、 貧困を潜在化させることになるが、こちらの制度は、1980年代に打ち切られた。
 この保護収容主義の功罪がはっきり問われるのは、1990年代後半のホームレスの街頭や公園への大量の溢れ出しによるホームレス問題の先鋭化まで待たね ばならない。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.349-350)

    中華人民共和国成立

1950年
    朝鮮戦争勃発
    高校進学率の全国平均42.5%(男子48.0%、女子36.7%、就職進学を含む)
    波多野勤子『少年期』ベストセラー、子育てにおいて心理学者の本や心理学的測定や診断にのめり込む「心理学ママ」が都市部の新中間層に現れる
    短期大学制度発足
    共産党、「来るべき革命における日本共産党の基本的任務について」(50年テーゼ)

    京都で蜷川虎三府知事誕生、革新自治体の走り
    「革新自治体が全国に広がることを通じて、日本の経済・社会体制を社会主義に変革していく展望を、革新自治体を推し進めた当時の人々は心に描い た。
 だが、革新自治体が実際に行った行政の内容は、右肩上がりの地方税収を経済基盤にした、福祉行政の画期的な飛躍にほかならなかった。もともと、日本の地 方政府には、中央からの権益配分にあずかる支配階級同盟がしばしばみられた。この同盟のバランスが、草の根レベルの住民運動の勃興に突き動かされ、多くは 学者出身でありポピュリストとしての人気を博した革新知事、革新市長の誕生により、住民の側に振れたのである。
 それゆえ、この革新自治体の行政のありさまは、フォーディズム的な都市行政そのものだった。「いのちとくらしを守る」という革新新首長の選挙スローガン 通り、人々の生活水準はそれなりに向上したし、厳しい公害規制などにより、都市問題はそれなりに緩和した。だが、これにより貧困や生活困難は都市の前景か ら徐々に退き、経済の高度成長により一億層中産階層化が進行するにつれ、自治体住民の意識は、革新自治体をめざした活動家たちの熱望と裏腹に、次第に保守 化していった。総中産階級化を実現した「繁栄の日本」は、「企業戦士のねぐら」である郊外ベッドタウンと、これを都心に連絡する高速鉄道という、きわめて 均質な現代日本の郊外都市景観を強化した。フォーディズムがいう資本主義のもとへの社会統合が、皮肉にも、革新自治体によって達成されたのである。」(水 岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.255-356)

    日本労働組合総評議会(総評)結成
    地方公務員と公立学校教員の政治活動が禁止
    レッド・パージ
    国土総合開発法
    警察予備隊発足
    公職追放解除

1951年
    サンフランシスコ条約、日米安全保障条約調印

    トヨタ、フォードの工場を見学後、「生産設備近代化五ヶ年計画」実施(〜55年)、「創意工夫提案制度」「TWI(Training Within Industry)」を導入
     「大野耐一によれば、ジャストインタイムの思想は戦前の豊田喜一郎にまでさかのぼるが、社内でのかんばん方式の導入は一九五〇年代後半のことで ある。要するに後工程が前工程に必要な部品を取りに行き、前工程はその分だけ補充する方式である。「かんばん」はその手段として、部品箱について前工程と 後工程を行き来する、一種の循環伝票である。」(藤本隆宏『能力構築競争 日本の自動車産業はなぜ強いのか』p.157)

     産業教育振興法、高等学校の産業教育の充実
     大学入学資格検定開始

     公営住宅法、住宅金融公庫法制定
     「都市では、低所得者層の福祉住宅的意味合いを込めた厚生省の住宅政策が出されていたが、これに対し、社会政策的ソフトの面を弱めた建設省の意 向がより強く出た住宅政策として、1951年に公営住宅法が制定された。
 大都市において公営住宅は、1割以上の住宅市場を占め、入居の際の収入制限は、その低所得者住宅としての位置付けを明確にしていた。(…)
 他方、公営住宅法と同時に制定された住宅金融公庫法は、持ち家取得のための金融を政府が供与することで、自立的な個人に住宅建設を委ねるものであった。 これは、郊外の持ち家一戸建てがゴールという住宅神話をかきたて、営利的不動産ディベロッパーに主導される都市空間編成を導いた。」(水岡不二雄編『経 済・社会の地理学』p.236-237)

1952年
    中央教育審議会設置
    「こうしたなかで、一連の事態を象徴したのが、文部大臣の諮問機関として教育刷新審議会を引き継いだ中央教育審議会の設置(第一期、一九五二年 〈昭和二十七〉六月)であった。とりわけその委員構成の発表(一九五三年一月)は、教育界に大きな衝撃を与えた。委員一五名のうち経済界の代表が四名を占 め(日経連・経団連・大企業社長)、さらに反共・再軍備推進論者が多数を占める委員構成に対して、日教組をはじめとする民間の教育界は「文部省は日経連教 育局になった」、あるいは「再軍備委員会」「日教組封じ込め作戦」といった批判を浴びせたのであった(「生まれ出た中央教育審議会めざすはなにか?」)。 いずれにしても、これ以後、財界・産業界は、その教育要求を中央教育審議会や経済審議会の審議・答申に反映させることによって、教育政策への発言力を強大 なものにしていくことになる。」(渡辺治編『高度成長と企業社会』p.163)

    チャーリー・ウィルソン、「ジェネラル・モーターズにとって良いことは合衆国にとって良いことだ」と発言

1953年
    就職協定始まる

    池田・ロバートソン会談
    「(ハ)本会議参加者は,日本国民が自己の防衛に関しより多くの責任を感ずるような気分を国内につくることが最も重要であると意見一致した。愛国 心と自己防衛の自発的精神が日本において成長する如き気分を啓蒙と啓発によつて発展することが日本政府の責任である。」(外交資料館所蔵外交記録)

    サンヨーが日本初の「噴流式洗濯機」SW-53を発売。値段は28,500円と、それまでの丸型攪拌式洗濯機の半値近く。
    朝鮮戦争、休戦協定の調印

1954年
    「集団就職列車」開始、金の卵
    「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する法律」と「教育公務員特例法の一部を改正する法律」の、いわゆる「教育二法」公布

    IBM、最初の量産コンピューターといわれる小型のモデル六五〇で民間市場に参入

1955年
    「神武景気」高度成長始まる
    鳩山内閣、総合経済6ヶ年計画を発表。最初の政府の経済計画
    春闘始まる
    一ドル・ブラウス事件
    東京電力、電産型生活給にかえて職務給制度を導入
    「経済自立5ヵ年計画」
    保守合同、自由民主党成立

    日本生産性本部ができる。技術革新をテコにした生産性向上運動が展開され始める。
    「昭和二〇年代の戦後復興期におけるアメリカ型経営管理の導入は、部分的な導入が一般的であり、本格的導入は一九五五年(昭和三〇)に発足した日 本生産性 本部が、各種の視察団をアメリカに派遣して以後のことであった。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.169)

    「日本における生産性運動は、日本生産性本部の主導の下に官民一体の国民的運動として展開されることになったが、とくに生産性向上のためには、労 働者およ び労働組合の協力を不可欠の要素としていた。生産性運動は労働者の解雇につながるとして反対の強かった組合側の理解を得る意味もあって、日本生産性本部 は、生産性運動の基本的な考え方として、雇用の安定、公正な成果の配分、および労使の協議にあるとする三原則を発表した。(…)
 これらの点で、生産性向上運動は、日経連によれば戦前の企業(産業)合理化運動とは異なっている。企業合理化運動は、消極的な不況対策にすぎず、合理化 運動の中心であった科学的管理や能率増進の方法は、生産作業中心の部分的なものでしかなかった。また、資本家中心の運動で、合理化による失業者への配慮も 十分ではなかった。これに対し、生産性運動は、より幅広い運動で、国民生活の水準を引き上げて国民経済の繁栄をもたらし、経済全体と結びついた経営の管理 面と技術面の全体にわたった総合的なものであった。そして、経営者、労働者、および社会全般が参加する運動で、利益の分配も失業対策も、万全の体制を考え ていて、全国民が結集して行なう運動と位置づけられていた。」(p.171)

    日本住宅公団設立
    「だが、1955年の日本住宅公団創設は、公営住宅法が措定していた収入階層より上層の持ち家期待層も含み込み、かつユニット住宅の大量生産を通 じて、白 亜のアパートが並ぶニュータウン建設という未来への期待感を込めた心象を人々の間に作り出した。これは、都市空間レベルで、国家がフォーディズム的都市空 間編成に関わった数少ない事例であった。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.236)

    アメリカのディズニーランド開園

1956年
    『経済白書』
    「今や経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高 いかもしれないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや戦後ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとし ている。回復を通じての成長は終った。今後の成長は近代化によって支えられる。」

    地方教育行政法。教育委員会の公選制を廃し、知事の任命制にする
    「地教行法体制とは、地方教育行政をめぐる首長・一般行政部局と教育委員会部局の主導権争い=確執が厳しい地方政治の対立によって潜在化した結 果、文部省(その背景には政権党)のサポートをえて組合への対応を色濃く有した教育委員会の学校管理施策が顕在化したものであったこと(地教行法の「特 例」的規定はそれを担保する行政手段であったし、当時から近年までの文部省における教育助成局地方課の重要な位置づけを想起のこと)、そうした厳しい政治 対立に対応したハードな文部省と教育委員会の権限関係を軸に、高度成長による国の財政拡大に支えられた負担金・補助金の叢生による漸進主義的な行政手法が 文部省と教育委員会の関連事業担当部局を直接結びつけ、かつ、その周囲に文部省と専門領域的な関係をもつさまざまな全国レベルの専門的職能団体の凝集と ネットワークを形成するものであった。」(小川正人「分権改革と地方教育行政」p.10)

    中卒無業者率が10%以上
    日経連「新時代の要請に対応する技術教育に関する意見」

    石原慎太郎『太陽の季節』〈太陽族〉
    「彼は真直ぐ学校のジムに行った。時間が早い所為か二三人の部員がいるだけで中はがらんとしている。彼は黙って着換えると練習場に出て行った。
 シャドウを終え、パンチングバッグを打ちながら竜哉はふと英子の言葉を思い出した。
 “――何故貴方は、もっと素直に愛することが出来ないの”
 その瞬間、跳ね廻るパンチングバッグの後ろに竜哉の幻覚は英子の笑顔を見た。彼は夢中でそれを殴りつけた。」(p.67)

    「抵抗だ、責任だ、モラルだと、他の奴等は勝手な御託を言うけれども、俺はそんなことは知っちゃいない。本当に自分のやりたいことをやるだけで精 一杯 だ。」(「処刑の部屋」のエピグラフ、『太陽の季節』p.134)

    「氏の独創は、おそらくさういふ生の青春を文壇に提供したことであらう。われわれは文学的に料理された青春しか知らないし、自分の青春もその真似 をして、のつけから料理してかかつてゐたのである。
 (…)
 しかし今のところ、氏は本当に走つてゐるというふよりは、半ばすべつてゐるのである。すべることは走るより楽だし、疲労も軽い。しかし自分がどこへ飛ん で行つてしまふかわからぬ危険もある。やつぱり着実に走つて、自分の脚が着実に感ずる疲労だけが、信頼するに足るものだといふことを、スポーツマンの氏は いづれ気づくにちがひない。」(「石原慎太郎氏」『決定版 三島由紀夫全集29』p.203、〈初出〉1956年)

    「石原氏はすべて知的なものに対する侮蔑の時代にひらいた。日本ではこれは来るべくして、一度も来なかつた時代である。戦前の軍部独裁時代は、知 的ならざる勢力が、知的なものを侮蔑した時代である。しかし石原氏のひらいた時代はこれとはちがつてゐる。それは知性の内乱ともいふべきもので、文学上の 自殺行為だが、これは文学が蘇るために、一度は経なければならない内乱であつて、不幸にして日本の近代文学は、かうした内乱の経験を持たなかつた。日本の 自然主義文学は、反理知主義といふよりは、肉慾の観念そのものが、輸入された知的観念であつて、自然主義文学は本質的に知的な点で、一種の啓蒙主義に類し てゐた。」(「石原慎太郎氏の諸作品」『決定版 三島由紀夫全集31』p.437、〈初出〉1960年)

    「ひたすら「張って行く肉体」に対する克己の信仰には、自ら行動の無意味を要請するものがあつて、この「本当に自分のやりたいことをや」らうとす る青年 は、自ら本当にやりたいことが何であるかを知らない状況に自分を置きつづけるから、最後に彼が縛られてあらゆる行動を剥奪される成行は、いかにも象徴的に 思はれるが、作者の書きたかつたことはおそらくその先にあつて、抵抗も責任もモラルも持たない行為が、肉体の苦痛の強烈な内的感覚に還元されるところに、 一篇の主題がこもつてゐる。なぜなら、肉体の苦痛の究極は、(彼が克己であつてもなくても)、知性の介入を厳然と拒むからである。そこまで主人公を持つて 行つた作者に私は興味を抱く。
 苦痛は厳密に肉体的なものである。克己が今まで求めて来た本当の「無意味」がここにあつて、どんな野放図な行動にも平然と無意味を見てゐた主人公が、自 分の置かれた究極の無意味の中に、意味を見出さうとするところでこの作品は終る。だからこの死苦は、彼自身の必然的帰結であり、彼が自ら求めたものなの だ。
 克己の言ひたいことは、肉体にはかうした自己放棄が可能であるのに、知性にはそれが不可能ではないか、といふ嘲笑的思想であろう。(…)かくてあらゆる 行動主義の内には肉体主義があり、更にその内には、強烈な力の信仰の外見にもかかはらず、「脆さ」への信仰がある。この脆さこそ、強大な知性に十分拮抗し うる力の根拠であり、又同時に行動主義や肉体主義にまとはりついて離れぬリリシズムの泉なのだ。石原氏の共感が、いつも挫折する肉体的力、私刑される学 生、敗北する拳闘家へ向ふのは偶然ではない。」(p.443)

    Whyte, W. H., The organization man,Garden City, N.Y : Doubleday (岡部慶三[ほか]訳、1959、『組織のなかの人間 : オーガニゼーション・マン』、東京創元社)
    スターリン批判

    ハンガリー事件
    「一九五六年二月、ソ連共産党第二〇回大会において、後に共産党第一書記・首相(一九五八−六四年)に就任することになるニキータ・フルシチョフ は、いわ ゆる『フルシチョフ秘密報告』と呼ばれるスターリンへの批判をおこなった。それは、「スターリンという一人格に対する崇拝がいかに、やむことなく成長して きたかという問題」から出発し、その個人崇拝が「党の原則や党内民主主義や党内法秩序をきわめていちじるしくかつ乱暴にねじまげる一連の原因となったか」 (志水速雄訳)を暴露した。スターリン批判は「秘密報告」としてなされたにもかかわらず、その数ヵ月後、アメリカ国務省の手で全世界に公表される。「労働 者の祖国」としてユートピア視されていたソ連邦の輝ける指導者が、その後継者によって徹底的に批判されたのだから、その衝撃は非常なものであった。これ は、よく知られた世界史的な事実である。一九五三年のスターリンの死後、ソ連邦=フルシチョフは、世界資本主義のヘゲモニー国家・アメリカ合衆国に対する スターリン以来の冷戦戦略に代えて、「雪どけ」=「平和共存」路線を提唱していた。スターリン批判はその総決算でもあったと言える。
 しかし、このスターリン批判はフルシチョフ自身によって裏切られたと見なされる事件が、ただちに勃発する。スターリン批判がおこなわれたその年の六月、 ポーランドの工業都市ボズナンでの「騒乱」を皮切りに、一〇月にはいわゆる「ハンガリー事件」が勃発した。ポーランドの反乱はとにもかくにも一国内で収束 されたが、党(ハンガリー勤労者党)のスターリン主義的独裁に対する反乱と言いうるハンガリーの「民衆蜂起」に対して、ソ連は翌五七年までの二次にわたる 軍事介入をもって鎮圧した。フルシチョフのスターリン批判が全く内実を欠いたものであることが、かくも短い期間に白日のもとに暴露されてしまったのであ る。」(絓秀実『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」試論』p.15-16)

    スパーク報告がベニス六カ国外相会議で採択される

1957年
    「新長期経済計画」

    キヤノン、「推進区制工程管理」を推薦対象項目の1つとして大河内生産記念賞を受賞。同じ月に、統計的品質管理研修を実施。
    「一九五〇年代後半以降、アメリカから導入された生産管理技術が日本の製造業に急速に普及していった。(…)
 このアメリカの生産管理技術の普及と並行して、わが国の生産技術者が戦時期の生産方式の「総仕上げ」と自負していた推進区制方式は急速に忘れ去られて いった。しかし、この推進区制方式が戦時期から戦争直後にかけて日本の生産技術者が、輸入知識に頼らず自前で形作った生産方式であり、この意味で日本の科 学的管理法運動の大きな成果であったということは、評価しておく必要がある。(…)後にTQCの名の下で品質管理運動が日本企業で展開されていったとき に、現場での小単位ごとにQCサークルを形成したことや工程での品質のつくり込みなどのアイデアが、それほど抵抗にもあわず普及していったことなどは、戦 時期から現場で作業区、機械区などと呼ばれる小規模の管理単位を配置してきたことと整合的だったとも考えられるのである。戦後の一時期、推進区制が多くの 製造企業で採用されたことは、わが国における工程管理技術の成果を製造企業が吸収する点で大きな意義があったのである。」(山崎広明ほか『「日本的」経営 の連続と断絶』p.149-150)

    教師の勤務評定の実施(十月、愛媛県が発端)、勤評闘争のはじまり
    スプートニク・ショック
    東京の城南中学校が偏差値を進路指導に利用
    ロバート・ノイスを中心にフェアチャイルド・セミコンダクタ社設立

1958年
    学習指導要領の復活、「進路指導」という概念の登場。教科書検定の強化
    「そしてこの時期に教育界に少なからぬインパクトを与えたのが、一九五八年の小・中学校学習指導要領の全面的改訂であった。この改訂は、小・中学 校の教育課程への「道徳」の特設や、それまで「試案」として示されていたものが、「文部省告示」として『官報』によって告示されたことなど、戦後の教育行 政・政策史において一つの大きな転機をなすものであったが、それにも増して、一九五〇年代後半以来の、「技術革新」および「科学技術教育振興」という財 界・産業界の教育要求を大幅に反映したものであった点を見逃すことはできない。なかでも、中学校の教育課程において、従来の「職業・家庭科」を「技術・家 庭科」に再編した改訂は、その直接の現れであった。また、この改訂は、日経連「科学技術教育振興に関する意見」(一九五七年十二月)以来の、「生徒の進 路・特性に応ずる教育」という観点を強く打ち出したものでもあった。具体的には、中学三年次の選択教科(外国語、数学、職業に関する教科、音楽・美術)の 編成について、結果的に「進学組」と「就職組」のコース分けを促進・助長する指示を与え、さらに従来の「職業指導」を「進路指導」と改称したうえで、その 活動領域を「特別教育活動」のなかの「学級活動」に位置付け、時間配分の基準をも明示した。」(渡辺治編『高度成長と企業社会』p.164-165)
    職業訓練法
    「団地族」という言葉を「週刊朝日」が初めて使う
    ドル危機の顕在化、アメリカと西欧・日本との間の生産性格差の縮小
    アメリカ、国防教育法

1959年
    三池闘争(〜60年)

1960年
    安保闘争
    経済審議会答申「国民所得倍増計画」

    日経連「賃金白書」
    「このように、職務給化への以降に際しては、従来の年功的体系・秩序との間の折り合いをどうつけるかが、大きな問題となった。そうした中で職能給 制度が、 一九六〇年前後より、まずは、年功給体系から職務給体系への「移行形態の一つ*」として注目されはじめる。職務給がアメリカをモデルとしたものであったの に対して、職能給はほかにモデルがなく、「日本特有のもの」といわれている。
 *日経連は一九六〇年賃金白書において、職務給への漸進的移行形態として六つのモデルを示している。そのうちの四つは「仕事中心に職務の分析評価を行な うもの」すなわち職務給形態で、その中になんらかのかたちで年功的原理を組み込んだものであるが、残りの二つは「職務遂行能力中心に能力考課を行なうも の」すなわち職能給形態であった。なおそれ以前の日経連モデルには、職能給形態は含まれておらず、職能給形態が移行モデルとして登場したのはこの年が初め てである。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.101)

    企業の採用活動の早期化が社会問題化
    大学新聞広告社(現:リクルート)創業 「大学ニュース」創刊
    高校学習指導要領改訂、学習指導要領の法的拘束性うたう
    高校進学率 58%
    サンリオ、ソーシャル・コミュニケーション・ビジネスの確立をめざし設立(当時:株式会社山梨シルクセンター)

    社会党委員長・浅沼稲次郎、元大日本愛国党員・山口二矢(おとや)に刺殺される
    「やがて二矢の暗い苛立ちは「反共」の装いをもつに至る。それは、昭和三十年代前半という、日本全体が一種の「政治の季節」の到来に浮き足立つよ うになっていたことと無関係ではなかった。
 中学時代のことだ。社会科の教師があまりソ連を礼賛するので、
「ソ連には自由がなく、反対する人は殺されることがあるらしい」
と二矢が反駁すると、教師は、
「いや、ソ連にも自由はある」
と強圧的にいった。
 そこで激しい言い合いになったが、ついに、「あるといったら、あるんだ!」と怒鳴ることで、その教師は論議を終わらせようとした。
 (…)
 彼には「強いもの、流行するもの」に対する反撥心が強かった。彼にとっては左翼こそが強者であり、流行に便乗するもの、と映っていく。」(沢木耕太郎 『テロルの決算』p.53-54)

1961年
    中学二・三年生全員を対象にした「全国一斉学力テスト」始まる。都市出身の「新興中間層」に「教育ママ」が出現(1920年から30年出生 コーホート)
「このように八幡製鉄の場合、五〇年代前半の不況による採用停止時期をはさんで、五〇年代後半の高度成長と技術革新の同時進行の中で、ブルーカラー労働者 の採用が高卒に切り替えられることとはほぼ並行して新規学卒定期採用方式が成立していった。そして六〇年代前半の労働力需給の逼迫が、とにかく新卒時(四 月一日)に「取りあえず優秀な人材を大量に確保する」というかたちでその傾向を促進し、六〇年代後半には田中の定式化したような新規学卒定期採用方式が確 立・定着したといえる。
 その際注目すべきことは、ブルーカラー労働者採用の中卒か高卒への切り替えは、全体的には六〇年代半ばといわれている中で、八幡製鉄(技術的条件から いってこれは八幡だけでなく日本の鉄鋼産業全体であろうが)が五〇年代半ばすぎにはすでに切り替えを行っていたこと、そして、新規学卒採用の方式が、それ とほぼ同時に始まっていることである。「日本的雇用」の中での新規学卒定期採用慣行は、いうまでもなく終身雇用制を前提とした採用方式である。しかし、六 〇年代を通して中卒者の職場への定着率は非常に低下している。この期間、高卒者の離職率はもちろん上昇しているが、中卒者のそれは高卒者を数倍も上回るも のであった。そのことを考えれば、ブルーカラー労働者をも含めた終身雇用制を前提とした新規学卒定期採用方式が確立・定着することと、採用対象をある程度 の職場定着の見込まれる高卒者以上に切り替えることとは、少なからぬ関係があったと思われる。
 さらに、そこで個別具体的な職業資格・能力を重視しないということが、その反面で一般的学力重視という形態を生み出すこととなったことも、重要なポイン トであろう。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.160-161)

    高等専門学校制度が設けられる
    配偶者控除制度はじまる、核家族の増加
    農業基本法制定、農業構造改善事業はじまる

    トヨタ、TQC(全社的品質管理)導入
     「(…)戦後、日本企業はアメリカのSQC(統計的品質管理:引用者注)を吸収したが、その後、独自にTQCを発達させてきた。TQCの特徴 は、品質管理専門部署のみならず全階層の社員および全部門の参加を指向する「全社的活動」であること、および、現状維持より継続的改善のプロセスを重視す ることだ。このほか、「QCサークル活動」(品質管理・改善のための小集団活動)、「方針管理」(トップダウン的な目標・施策の展開)、定型的な統計手法 (QC七つ道具)や問題解決手順(QCストーリー)の現場での活用、教育・訓練の重視、企業横断的なTQC普及組織(日本科学技術連盟など)、「デミング 賞」を頂点とする表彰制度などが挙げられる。いずれも、「全員参加・改善指向」というTQCの基本に深く結びついた仕かけである。」(藤本隆宏『能力構築 競争 日本の自動車産業はなぜ強いのか』p.301〜302)

    「デミングはその生涯を通じて、アメリカではほとんど知られることなく、自分の国では名誉なき予言者にとどまった。しかしその一方で、彼は第二次 産業革命、すなわち西洋に対する東アジアの挑戦においては、最も重要な人物の一人となったのである。彼は日本人に対し、日本の最も優れた資源、すなわち人 的資本を、最大限に活用できるシステムを授けたということで、他のだれより大きな貢献を果たした、品質を管理するために彼が教えたのは、数学的思考から割 り出した一連の実務訓練で、日本人の気風、伝統に合った集団参加という方法がとられた。要は生産ラインにのって作られる製品を、数学を利用して、できるだ け製品ムラをなくすよう品質管理することなのである。
 デミングと、もう一人のアメリカ人の品質管理の権威者だったジョセフ・ジュランが、日本人に言っていたことは、品質というものは、最下級にいる労働者を 一〜二回の授業に出したり、数人の監視員を配置するくらいで、簡単に達成できるわけではないということだった。本当の品質向上には、経営トップに始まる組 織全体の参加が必要不可欠だった。もし、トップマネジメントが品質問題に関与していたら、そして管理職への昇進も品質に結びついていたなら、自分の仕事と してまず何を優先すべきなのかが、中間管理職から初級管理職にいたるまで浸透していき、ひいては労働者レベルまでその考え方が必然的に伝わるはずである。 (…)」(デイビッド・ハルバースタム『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史』p.528)

    「日本的な品質管理論の代表的な人物は、東京大学にいた石川馨氏やトヨタの大野耐一氏などですが、彼らの書いているものを丹念に読んでみますと、 結局こういうことになる。
 連合軍がやってきて、アメリカの最新の品質管理手法を教えてくれたが、それは役に立たなかった。アメリカの品質管理手法は統計的管理手法(SQC)で、 管理図を書いたり、抜き取り検査を行なったりが手法の主な内容です。それは、製造が終わった段階での製品についての品質検査が中心で、それを行うのは専門 的な検査部門の要員です。しかし、こうした品質管理の体制はコストがかかるうえ、品質が製造工程から抜本的に改善されるインパクトは弱い。そこで、資本力 の弱い日本の場合、コストの徹底的な削減という観点から、品質管理の手法を変えざるをえなくなった。つまり、最終製品の検査そのものを不用にするやりかた です。生産現場の労働者にQC責任を担わせ、製造工程のレベルで不良品が発生しない仕組みをつくっていく体制です。そして、さらに特定の部門だけに任せず に、製品の設計、開発、製造、販売まで全社的な品質管理を行なう体制がめざされます。」(基礎経済研究所編『日本型企業社会の構造』p.240-241)

    前年の浅沼稲次郎刺殺を受け、大江健三郎「セブンティーン」、文学界1月号、2月号に発表
    「おれだって、少し煩いくらいおれの問題に介入してきてもらいたいと感じることがあるのだ、今のようなのはアメリカ風か自由主義流かしらないが、 父親でな くて他人みたいなものなのだ。おれの父親は学歴がなくてずいぶん多くの職業につき苦労して独学した、そして検定試験に合格してから今の位置につけたのだ、 そのためにできるだけ他人とかかずりあわずに今の地位をまもってゆこうとしているのだ。他人からあやうくされたり他人のマキゾエをくったりして、また苦し い下積生活をおくるのが怖いのだ。その護身本能の鎧を息子の前でも脱がない、裸になって威厳をそこねないように、感情を表にださないでいつも無責任で冷た い批評ばかりしているのだ。今もその父親のアメリカ風の自由主義の最も代表的な態度をとっているつもりなのだろう……」(新潮日本文学64『大江健三郎 集』p.392)

    「おれの男根が日の光だった、おれの男根が花だった、おれは強烈なオルガスムの快感におそわれ、また暗黒の空にうかぶ黄金の人間を見た、ああ、お お、天皇 陛下!燦然たる太陽の天皇陛下、ああ、ああ、おお!やがてヒステリー質の視覚異常から回復したおれの眼は、娘の頬に涙のようにおれの精液がとび散って光っ ているのを見た、おれは自涜後の失望感どころか昂然とした喜びにひたり、再び皇道派の制服を着るまでこの奴隷娘に一言も話しかけなかった。それは正しい態 度だった。この夜のおれの得た教訓は三つだ、《右》少年おれが完全に他人どもの眼を克服したこと、《右》少年おれが弱い他人どもにたいしていかなる残虐の 権利をも持つこと、そして《右》少年おれが天皇陛下の子であることだ。」(p.419)

1962年
    高校全員入学問題全国協議会結成。総評、日教組、母親大会、日本子どもを守る会など17団体が参加
    「運動は制度理念として「高校三原則」(小学区制・男女共学・総合制)をかかげ、文部省の「適格者主義」による進学抑制と「多様化政策」に対抗し た。そのなかでとくに教育課程分化にかかわっては、理念的には「総合制」が提起されたが、むしろ実際に各地で要求としてかかげられたのは、普通高校の増設 だった。運動は、教育運動史上かつてない父母と世論の支持を背景に、各地で多くの普通高校を増設させるとともに、さらに職業化の普通科転換が追求された。 その結果、多様化の進行は押しとどめられ、六〇年代末以降は、生徒数に占める普通科の割合ではさらに増加に転じていった。」(乾彰夫「進路選択とアイデン ティティの形成」p.217-218)

    暉峻康隆「女子学生亡国論」
    文部省『教育白書 日本の成長と教育』

    全国総合開発計画制定
    「1962年に制定された全国総合開発計画(全総)は、このような開発=成長戦略を、拠点開発という形でいっそう強く貫徹したものである。空間的 にみると、成長の極(growth pole)として全国に新産業都市(新産都市)を建設し、集中的に資源配分を行って、そこからの波及効果で周辺の経済を発展させることが唱えられた。諸資 源の適切な空間的配分によって、都市の過大化防止と国土の経済的不均等縮小を図ることが主張された。
(…)
 こうした工業化は、同時に大都市圏の都市化も著しく進めた。とくに池田勇人内閣期における、フォーディズム的な大量生産・大量消費の実現を通じ、都市圏 レ ベルの空間スケールにおいて、官民双方によるニュータウンの建設、大量の集合住宅の供給、市街地改造が行われ、都市化は一挙に戦前レベルを越え、かつての 規模をはるかに凌駕する形で実現されていった。」(水岡不二雄『経済・社会の地理学』p.235-236)

    サラ金(サラリーマン金融)が浜田武雄(レイク元会長)によって始められる
    「「当時、公団住宅の団地に入れるというのは一定のレベル以上の階層で、その意味では公団がしっかりと資格審査をしてくれているわけでしてね。そ れに団地 に入るのは大変な倍率だったから、よほどのことがない限り出ていかない。だから取りっぱぐれがない。担保を取らなくったって意外に大丈夫なのですよ」
 つまり“団地に入っている”ということ自体が担保になったわけだ。ところが、浜田は一九六二年に大阪で、今度は一般サラリーマン相手の融資、つまりサラ 金を始めているのである。“団地”という担保もなしで、なぜ融資に踏み切れたのか。
「実は、担保はあるんですよ。“恥”という担保、そして“人生”という担保です」
 浜田は微笑していった。
「たとえば大学を卒業するまでに、当時でも百万円以上のカネがかかっている。しかもちゃんとした会社に入って、順風満帆の出発をしたサラリーマンが簡単に 人生を棒に振るわけがない。逆にいえば、人生を棒に振りたくないという金額しか貸さない。ここが金融業の一番大事なところでして……。私たちは、“人生” のもっと手前、『サラ金に借りたカネを返さなくて催促されると会社の周りの連中に恥ずかしい、そんな思いをするより返したほうがいい』という“恥”を担保 にスタートしたのですよ」」(田原総一郎『「円」を操った男たち』p.168-169)

    ケネディ大統領、インフレの主要な原因として、恒例となっていた鉄鋼価格の値上げ発表を撤回させる

1963年
    経済審議会答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」(六三答申)
    「六〇年代当初、労働力をめぐっては次のような諸問題がよこたわっていた。
 まず第一に量的な問題である。たとえば「国民所得倍増計画」は、計画期間中の非第一次産業雇用者の需要増を一九六九万人と見込み、新規学卒者による充足 だけでは二六六万人の不足が生ずるとした。さらに、戦後ベビーブーム世代による新規学卒増がピークをこす六五年以降は全般的な若年労働力不足に見舞われる であろうと予測した。この点、たとえば一九五七年の「新長期経済計画」が、農村に滞留する多数の潜在的失業人口の問題を背景に、計画策定の第一の意義の 「生産年齢人口の高い増加率に対応した雇用機会の増加をはかること」としていた状況認識からは大きく変化している。
 第二には質的問題である。一九五〇年代後半以降の技術革新の流れは、それ以前の経験的熟練に頼った生産方式を一変させ、機械化オートメーション化に対応 する技術労働・半熟練労働への需要を大きく生みだした。その結果、企業内部では、新しい技術・技能に柔軟に対応できる若年層を中心とした労働力需要を著し く増大させつつ、他方で旧技能労働力(中高年層)が過剰になるという労働力構成の質的アンバランス問題を抱えることとなった。さらに、このような労働力構 成の質的転換をはかるための養成訓練については、新しい技術そのものが輸入技術であることや、戦前以来技能養成・訓練の体系的制度が社会的に未確立であっ たことなどから、明確な見通しを欠いていた。
 さらに第三に、労務管理秩序・経営秩序の問題である。技術革新にともなう労働力構成の質的転換は、経験的熟練という生産技術・技能やこれまた経験にもと づく作業管理能力という生産方面での役割を土台に形成・維持されてきた年功的職場秩序や、これを基礎につくられていた企業の労務管理秩序・経営秩序を、大 きく脅かす可能性を秘めていた。したがって、技術革新にともなって、労務管理秩序・経営秩序をどのように再編するかは、各企業にとっては、一・二に劣らず 重大な問題だった。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.41-42)

    「さて、以上のような二つの論理をもって、人的能力開発政策が描こうとしたのは、どのような社会像だったのだろうか。それは結局、ヨーロッパ・ア メリカ型 の近代社会をモデルとした、多元的能力主義社会だったといえる。(…)
 具体的には、労働力について、その活用、養成、移動、生活といった各機能・場面ごとに、企業の労務・人事管理(活用)、学校および社会的養成訓練制度 (養成)、労働市場(移動)、公共・福祉(生活)等がそれらに対応する各制度として構想された。そしてまず活用面での企業の経営秩序としては、労働者は職 務ごとにその職務に必要な具体的労働能力やそれを社会的客観的に証明する資格を持つものが雇用・配置され、職務ごと一律に決定された賃金が支払われるとと もに、職場の人的秩序は、職務ごとの重要度・困難度などをもとにつくられた職務序列、すなわちそこで発揮されるべき能力秩序にしたがって秩序づけられるも のとされた。次に労働力移動面では、職種別の横断的労働市場の形成が目標とされ、それを通して各労働力は、職種ごと・水準(資格・経験等)ごとに社会的に 標準化された価格評価を受けるとともに、近代化された企業からの職種別・水準別の労働力需要に対応するものとされた。そしてそのことによって企業間・産業 間の労働力移動は円滑化すると考えられた。さらに養成面については、労働力養成機能の主たる部分は、職種ごとの横断的労働市場と結びつきながら、その需要 に応じて具体的な――つまりここの職業技能・技術ごとの――労働力養成を行うものとされた。そして後期中等教育が、この個別的な職業技能養成制度の一環に 位置づけられたのである。」(p.70-71)

    教科書無償法
    三菱樹脂事件
    「カギっ子」「三ちゃん農業」が流行語
    中学校の職業・家庭科が廃止され、女子が家庭科、男子が技術科となる
    「OL」という言葉が登場。それまでの「BG」が売春婦にとられるということで「女性自身」が代案を募集した。

    新住宅市街地開発法
    「郊外化は、この大衆消費社会独特の男女の性別役割(ジェンダー)をさらに強化する。なぜなら、郊外化は、仕事は都心、家庭は郊外という形で職住 を分離する。そしてその分離がそのまま男女の役割意識と結びつき、男は都心で仕事に従事し、女は郊外で家事・育児・消費を担当するというライフスタイルを 完成させるからである。地図(132・133ページ)で見るように、郊外ほど専業主婦率は高いのである。」(三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史 郊外の 夢と現実』p.130-131)

    「日本のニュータウンは、職住を近接させて都市の人口を分散させるものであるより、大都市圏へ通勤するひとびとのための巨大住宅地であり、建設当 初は交通網の整備が不完全だったため通勤に困難が生じ、交通網が完成すると都心への通勤ラッシュを激化させる方向に進んだ。彼らは、故郷をもたず、彼らの 住む新しい町を故郷にしようとも思わない、きわめて不安定な住民の集団として出発した。戦後日本に建設されていった多くの新都市は、多かれ少なかれ故郷喪 失風のデザインと住民たちによって満たされてきたのである。」(鈴木博之『都市へ』p.369-370)

1964年
    学校教育法改正、短期大学制度の恒久化

    東京オリンピック
    「一九六四年の東京オリンピックで、全競技データのオンライン・リアルタイム処理をIBMのコンピューターで行うことになり、そのためにプログラ ムが組まれることとなった。そのプログラムは、それまでにない大きなものになることが分かっており、しかもオリンピックの開催時期は決まっていて、残る日 数はいくらもない。そこでそのプログラム作成をこれまでのソフトウェア業界の慣習に任せて、「職人的」あるいは「手作り」で作っていたのでは対応できない と判断した管理側は、IBM本社の指導を得て工場生産方式を取り入れ、プログラミングの管理体制を強化することにした。これが日本におけるソフトウェア工 業化の最初の大規模実施例である。
 その方法は、大勢の人間によって同時並行してプログラムを作るという手段であった。(…)
 こうしてソフトウェア生産は、工場での生産形態と同じように流れ作業式になっていった。こうなると、コンベアライン労働でしばしば問題となった、ひとり の労働者が自己の労働の意義を勤労の中で見いだしにくいという労働疎外の問題が、ソフトウェア開発技術者の間にも発生することとなる。一九七〇年代後半か ら一九八〇年代にかけて、ことに中堅ソフトウェア開発会社の低い職階の技術者たちにその訴えが多かった。」(森清『ハイテク社会と労働 何が起きている か』p.158-159)

    新幹線・首都高速道路開通
    「また、一九六四年(昭和39)十月に開通した東海道新幹線も、海軍の航空技術を活用して完成させたものであった。この超特急列車の開通までの経 緯をみておこう。「弾丸列車計画」は、日中戦争が始まってから、大陸への輸送力増強のために東京―下関間を九時間で結ぶという計画としてスタートしてい た。この計画は、太平洋戦争の進展で立ち消えとなったが、昭和三十年代に入って東海道本線の輸送が行きづまるようになり、再び浮上する。当時は鉄道斜陽が ささやかれ始めていたが、戦前から「弾丸列車計画」に深く携わってきた十川信二国鉄総裁、島秀雄国鉄技師長が中心となって、この計画は再び実現へ向けて推 し進められるようになった。(…)」(猪木武徳『学校と工場』p.101-102)

    通産省企業局「労働力不足の影響と対策」
    国連貿易開発会議
    トンキン湾事件、ベトナム戦争勃発

1965年
    日韓国交正常化
    高校進学率が70%を超える

    戦後ベビーブーム世代による新規学卒増のピーク
    「教師や教育学者たちの目から見れば、文部省の教員統制や受験競争の激化により、教師の自由な教育実践が不可能になり、高校受験への対応に終われ るように なった60年代は、中学校教育が差別・選別教育へと再編成されていっていると映ったかもしれない。しかし、教育を受ける側からすれば、貧しく停滞した旧来 の生き方とは別の可能性が、進学によって開けてくるという意味で、この変化は、新たな人生への可能性の広がりを意味していた。受験勉強はたとえ苦しくと も、明るく希望に満ちあふれたものであった。
 (…)
 学校が果たしたのは、進学のための学力をつけさせることだけではなかった。進学先の選定や就職の世話のような面でも、親たちには担えない役割を教師は子 供たちに対して果たすことになった。進学の相談にのってやり、学校に来る求人を紹介してやり、高校や会社をまわって卒業する教え子を売り込んでいく。ま た、就職のために集団で上京する子供たちには付き添って行ってやる――。
 (…)
 解体しつつある地域共同体、急激な社会変化にとまどう「遅れた」家族、親世代とは異なる生き方を余儀なくされる子供たち――それらを相手にしながら学 校・教師がやるべきことは山ほどあった。新しい社会の中でうまくやっていく機会と知識や技術とを子供たちに提供することで、学校は親からも子供たちからも 信頼と支持を得ることができた。いうなれば〈学校の黄金期〉であった。」(広田照幸『日本人のしつけは衰退したか 「教育する家族」のゆくえ』p.108 -110)

    日経連、一時的景気後退に対して「日本的レイオフ制度」を提案
    「たとえば中高年層の流動化と若年層の定着化という点では、六五年の一時的景気後退期に、日経連などは「日本的レイオフ制度」の提案を行なうが、 その際こ れが「日本的」と名づけられたことの意味は、アメリカの制度が先任権制にもとづき若年者から解雇を始めるのに対して、相対的低賃金でかつ適応力の高い若年 層は残し中高年層から先に解雇できるような制度を、ということであった。これは総資本的立場からの提案であるが、ここでも、中高年層と若年層との関係につ いての配慮が強く働いていたことがわかる。
 しかも問題は、流動化政策を推進したとき、そのような動きが実際にまず始まったのは、企業の期待する中高年層からではなく、若年層からであった。これは 当 然の結果といえる。年功的秩序になれ親しんだうえ、生活を抱え、しかも求人状況も悪い中高年にとって、容易に流動化を受け入れることはできない。逆に、需 要も大きく、しかも身軽な若年層にとっては、会社が気に食わなければほとんどリスクを負うことなく転職することができた。そのため新卒採用者の定着率は六 〇年代を通して、ほぼ一貫して急速に低下していった*。
 *たとえば労働省労働市場センターの中卒者調査では、一九六五年三月卒業者の卒業後三年間の離職率は合計五二・二五パーセントである。 したがって、各企業の態度が流動化に傾くか、それとも定着化に傾くかは、中高年層の輩出と若年層の定着確保との、どちらの圧力が高くなるかで、容易に逆転 する状況にあったといえる。そして六〇年代半ば頃にはすでに、定着化を必要とする現場の圧力は相当に高まっていた。
(…)
 また、新入社員の職場定着化のため、採用後一定期間、公私にわたりマンツーマンで世話・指導する職場指導員制度や世話係制度などが、各企業に普及した。 た とえば、住友金属和歌山製鉄所の世話係制度は次のようになっていた。世話係に任命されるのは、二五〜三〇歳程度の現場の先輩格で、任命されるとまず、現場 教育に必要な安全知識から政治、経済までの分野の特別教育を二週間ほど受ける。その後教育課での五〜八日程度の入門教育を受けた新入社員を引き継ぎ、三か 月間にわたり、マンツーマンで指導をおこなう。そして指導機関終了後に指導報告を担当上司に提出する。この制度の目的は、@新入社員の気持ちを安定させ、 A職業意欲を持たせ、B正しい企業イメージを与えて、C将来への基礎をつくることとされている。(…)そしてこの制度の効果として、@会社、仕事に早くな れる、A職場での連帯感が強まる、B企業意識が強くなり、責任感がわいて労働意欲が向上する、などがあげられている。
(…)
 こうして、定着化が労務管理の切迫した要求となったとき、勤続年数の長さそれ自体を評価する処遇制度である年功制・終身雇用制的システムの再評価が起 こっ てくるのも必然であった。職能給制度が、職務給化への過渡的形態という位置づけを離れて、独自の原理として承認されるに至った有力な物質的根拠がここに あったといってよい。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.116-119)

    高卒者の中には自宅待機も

    小島信夫『抱擁家族』
    「花が受精するとき、何か歓喜があるのだろうか。男と女がしっかりと抱き合うような感覚があるのだろうか。きっとあるだろう、と俊介は嫉妬をかん じながら、思った。
 いや、土くれや石にも、何か充実した歓喜があるにちがいない。それならば、さっき寝返りをうったあの時子と自分とは、いったい何ものだろう。この自分は 何ものだろう。  カメの中に水があった。水がなぜ気にかかるのだろう。なぜカメの中の、とるにたらぬ水が、そこに在る、そこに在ると思えるのだろう。」

    「俊介はこのとき自分の中に変化がおこっていることに気がついた。
 彼の視線は時子の首筋あたりと、それから組んだ脚に注がれていた。彼は静かな口調でそういったが、落着いているわけではなかった。好奇心をそそる首筋も 脚も、その若者の入念な愛撫をうけたのだ、ほんとに計画的だったのかもしれない、と俊介は思った。しかしそれを憤るよりも、そこにひとりの女がいるという ことのまぶしさに圧倒されていた。
 この女は彼がいま感じている眩しさを、自分でも認めたいと思い、ひとにも認められたいと長い間思ってきたのだろうか。彼はそれを拒否してきた。眩しいと 思わず滑稽だと思ったのだろうか。だから、顔をそむけてきたのだろうか。なぜ滑稽と思わねばならなかったのだろうか。いや、俊介が滑稽だと思うときに、実 は彼は時子を眩しいと思って、愛着をかんじていたのだろうか。
 俊介は時子の血管の中の血の流れから、それが皮膚にもたせるつやから、しぼんだり開いたりするマツ毛の動きから、首筋から肩へ流れる骨組から、ゼイ肉を 適度につけて二つか三つのヒダを作っている下腹部から心持ち大きさの違う二つの乳房から、しっかりした足をもった比較的長い脚などを造物主のような気持で 眺め、自分の手を離れて独り立ちした人間の重さにおどろいた。この状態から早く逃れたいと俊介は思った。
(家の中をたてなおさなければならない)」

1966年
    東京都による学校群制度の導入

    中央教育審議会答申「後期中等教育の拡充整備について」
    「六〇年代教育政策は一般に、「能力主義的多様化政策」と特徴づけられる。これは、この時期の能力主義教育政策の内容上の特徴を、中央教育審議会 六六年答 申「後期中等教育の拡充整備について」に典型的な「後期中等教育の多様化」に代表させるとらえかたである。しかし同時に、多様化は「多様化」と括弧つきで 用いられることが多い。それは、あとでもくわしく述べるように、この「後期中等教育の多様化」政策が結果としてもたらしたものは、高校教育の内容上の多様 化よりはむしろ、「偏差値」に象徴される。学科間の内容上の相違を捨象した高校間の一元的序列化であったからである。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』 p.6-7)

    「六三答申は「教育投資論(人的資本論)」と「マンパワー=アプローチ(人材=需要方式)」の観点から、それまでの「中学校の出口」問題に焦点付 けられていた中等教育政策の重点を、本格的に「後期中等教育(高校)の能力主義的多様化」へと転換させ、大学・(工業)高校・職業訓練機関の全面にわたる 「産学協同」の拡充・推進を提起するとともに、「ハイタレント=マンパワー」の養成ともからめながら、「能力主義」に基づく社会と学校制度の大がかりな再 編の必要を提起した。そして、これらの提起の一部は一九六六年十月の中央教育審議会答申「後期中等教育の拡充整備について」に持ち込まれ、一九六〇年代後 半の工業高校を中心とした職業高校の増設と多様化・細分化を進める「後期中等教育の多様化」政策を具体化させることになる。それは、一方で企業内職業訓練 を高校に単位認定する措置(いわゆる「連携法」=学校教育法一部改正、一九六一年)およびその範囲の拡大(一九六七年)や、中堅技術者の確保を目的とした 五年制工業高等専門学校の設置・発足(一九六二年四月)といった大胆な制度改革を伴いつつ、他方で富山県の「三・七体制」(「人材=需要方式」に基づき普 通高校三、職業高校七の割合とする政策)や「四国開発マスタープラン」にみられるように、教育計画が地域産業開発計画の一環として進められる状況を生み出 すことになった。」(渡辺治編『高度成長と企業社会』p.166-167)

    釜が崎に対して「あいりん体制」導入

    英、産業再編成公社法

1967年
    トヨタ、労働力の定着対策として臨時工一年でほぼ自動的に社員登用を行なうようになる

    江藤淳『成熟と喪失』
    「つまりそこには父に対する「恥づかしさ」がかくされている。この「恥づかしさ」を媒介にして母と息子はコタツの下で足に爪を立てるような切迫し た関係に追いこまれるのである。もし彼らが伝統的な農民的・定住者的な感情のなかに安住しているのなら、これほど極端な父を恥じる気持が母と息子のあいだ に生れるわけはない。そういう静的な文化の中では、いわば父親そっくりに子供を育てることが母のつとめであり、そのためにこそ母子の密着した結びつきが生 じるからである。
 羞恥心は自他を比較するところから生じる。より正確にいえば、自他を比較し、自分は他人になれたはずなのにどうして自分のままでいなければならないのだ ろ うと疑うところから生れる。(…)彼女が「獣医」でしかない夫を恥じる心は、そのままそういう男としか結婚できなかった自分を恥じる心に裏返される。その ために彼女は自信を持つことができず、おそらく自分を憎んでいる。しかも彼女は、夫とはちがったものになってほしい息子が、ほかならぬ夫の子でしかないと いう事実のために息子を信じ切ることもできない。さらに息子の出来がよければよいなりに、彼は母親の属する文化を離れて「出世」して行かなければならず、 母親は確実にとり残されることになる。」(p.13-14)

    「女性的な農耕社会全体をまきこんだこの「出発」が、現実の女性にもっとも大きな影響を及ぼしたのも当然である。もし女であり、「母」であるが故 に「置き去りにされる」なら、自己のなかの「自然」=「母」は自らの手で破壊されなければならない。しかも産業化の速度がはやければはやいほど、この女性 の自己破壊は徹底的なものでなければならない。「置き去りにされる」不安が深刻なものであれば、それをのりこえる手段は一歩先んじて自己破壊するところし かないからである。戦後に、特に昭和三十年代に、母性の自己破壊が一般化したのはおそらく以上のような心理メカニズムからである。」(p.113)

    「江藤の弱さは、まずはじめに「アメリカ」なしにはやっていけない日本という「国家」の弱さをつうじて見られた。しかしそのもう少し深いところに は、彼の 内面が「国家」を必要としていることからくるもう一つの弱さが沈んでいる。
 「国家」に統治される「内面」とは何か。
 ぼく達はそれを「治者」と呼んでおくことができる。「治者」という概念は、必ず「自分を越えたなにものか」を、それに支えられるために必要とする。それ はそのなにものかを支えそして支えられる。そのことをつうじて自己の内面を見えるものと化し、そしてそのなにものかに接続する。」(加藤典洋『アメリカの 影 戦後再見』p.116)

    Debord, G., La Societe du spectacle, (Buchet-Chastel, 1967; Champ Libre, 1971; Gallimard, coll. Folio, 1996) =木下誠訳、1993→2003、『スペクタクルの社会』、平凡社
    「1 近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のう ちに遠ざかってしまった。」(p.14)

    「33 己れの生産物から分離された人間は、自己の世界のあらゆる細部を作り出すことにますます意を注ぎ、その結果、ますます自己の世界から分離 される。いまや、彼の生が彼の生産したものであればあるほど、彼は自分の生から分離されるのである。

34 スペクタクルとは、イメージと化すまでに蓄積の度を増した資本である。」(p.30)

1968年
    パリ五月革命、安田講堂封鎖
    「教員と学生が協同して「真理」へと接近するコミュニティーとしての大学というフィクションが可能となるためには、教員が学生のオイディプス的父 権である という条件が成立していなければならない。教員は学生大衆の先行的なモデルであり、ある場合にはのりこえの対象であるという意味で、父権である。その意味 でも、日本の六八年も「アンチ・オイディプス」でしかありえなかった。「大学解体」とは、そのことを含意しているスローガンにほかならない。
 それはともかく、より平たく言えば、大学というイデオロギー装置は、大学という過程をへれば学生には国民=市民の理念型たる教員と同程度の、アッパーミ ドル・クラスのステイタスが保証されるという「信用」の上に成り立っていたと言える。いうまでもなく、その信用を保証していたのが、アメリカ合衆国におい ては第一次大戦後以来の福祉主義的リベラリズム政策(ウィルソン主義)であり、日本においても、一九四〇年代の戦時経済に端を発し、戦後の占領軍政策が全 面展開した民主主義体制であった。かかる体制が米ソ冷戦という名の戦争における「戦時体制」であることは岩田弘やウォーラーステインが言うとおりだが、そ れが兵站地域たる先進資本主義本国の「平和」を意味してもいることから、その「平和」がイコール「戦時体制」であることは容易に認識されえなかったのであ る。もとより、その等号の隠蔽こそが戦時体制の戦時体制たるゆえんにほかならない。」(絓秀実『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」試論』 p.230)

    「(注4)(…)フランス五月革命をシニカルに分析したブルデュー『ホモ・アカデミクス』の唯一の意義は、それが失業不安に起因することを明らか にした点 にあるが、日本の六八年革命もまた、潜在的には失業問題ではなかったのか。四半世紀後の六八年の学生たちへのアンケート集『全共闘白書』は、その企図・内 容ともに愚劣この上ない代物といえるが、かつてのアクティヴィストたちの現在の職業・年収の回答からうかがえるのは、六八年の大学が生み出した、国民=市 民から脱落しつつある膨大なジャンク的ロウアークラスの存在である。事実、日本の六八年は塾・予備校教師、校正者、ライター、エディター等の、「日本的雇 用」に包摂されない膨大な「フリーター」を生み出した。たとえ、彼らが八〇年代のバブル期に、つかの間の、資本主義からの剰余利得を得ていたとしても、彼 らがジャンク的ロウアークラスであることには変わりない。」(p.344)

    「つまり日本社会の高度化の結果、大卒者の雇用市場は拡大したといっても、その拡大は年々増加して行く大卒者の六割を吸収するほどにすぎなかっ た、という ことになる。それでは残りの四割はいったいどういう形で吸収されたのであろうか。それはもっぱら各職業の学歴水準を高める形で吸収された。その傾向がとく に強かったのは、販売的職業と、ここでは「その他の職業」と一括してある生産工程従事者を中心とする、いわゆるブルー・カラー的職業である。販売的職業に ついて見ると、この職業は一九六〇年から七〇年までに総数として一六四万人増加したが、この職業のなかに占められる大卒者の比率が一九六〇年の五.九%の ままだとすると、この職業の規模の拡大することによって生じた大卒者の雇用機会は一〇万人ほどの増加にすぎなかったはずである。ところが、現実にはこの職 業に吸収された大卒者は、四三万人も増加しているわけで残りの三三万人はいわばそれまで中卒者、高卒者の占めていたポジションに進出する形で吸収されたこ とになる。それよりも、もっと顕著なのはブルー・カラー的職業の場合で、ここに吸収された大卒者は三三万人も増加したが、そのうち三一万人はそれまで中卒 者・高卒者の占めていたポジションを交替する形で吸収されたことになる。」(潮木守一『学歴社会の転換』p.132)

    「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」(橋本治作・十九回東大駒場祭ポスター)
    「就職ジャーナル」創刊

    日経連による傘下企業を対象とした労務管理諸制度に関する実態調査(1958、1963,1968年の3回実施)
    「以上、三回の日経連労務管理諸制度の結果からは、おおよそ次のことを読みとることができる。
 まず第一に、職工身分制度の消滅に代表されるように、戦前から一九五〇年代初めまで支配的であった労務制度は解体され、能力的資格制度や定期異動・定期 昇進などの諸制度、定型的教育訓練が普及・定着するなど、労務管理諸制度の、ある種の近代化といえるような、大幅な改革・整備が進んでいる。
 しかし第二に、こうした改革・整備は、経済審六三年答申が描いた「経営秩序近代化論」の筋道とは、かなり大きくずれている。その最大の点は職務給制度の 停滞・衰退と職能給制度の普及であるが、これは後に詳しく検討するとして、そのほかの問題をあげれば、たとえば技能者養成訓練では、認定訓練など社会的に 制度化されたものはほとんど普及せず、各企業独自の訓練制度・システムが企業ごとに確立・普及した。技術者教育についても同様であった。採用については、 企業間・産業間の労働力流動化と中途採用の増加という見通しとは裏腹に、六〇年代中盤、各企業の中途採用はかえって減少した。また、企業外の社会的公共的 諸制度によって今後肩代わりされるであろうと見通された福利厚生についても、住宅問題などを含めて企業内福利厚生がそのより多くを受け持つこととなった。 教育訓練や福利厚生等についての経済審六三年答申の方向が、これらの主要な部分を企業外の社会的制度へと開いていく、いわば“社会化”であったとすれば、 現実のとった方向は“企業内化”であったといってよかろう。
 それでは第三に、こうした“企業内化”はなぜ生じたのだろうか。その制度的イデオロギー的側面の検討は次節以下にまかせるとして、報告書の中から直接読 みとれることは、この時期の労働力事情である。たとえば賃金体系のところで「勤続および経験給」が予想に反して伸びている事情や、福利厚生の拡充している 理由について、すでに見たように報告書は、労働力不足問題、とりわけ労働力の定着化のためと説明している。これはどういうことだろうか。この時期、需要の 大幅な増加にともなう労働力不足は、経済審六三年答申の予想どおり、あるいは予想をも越えて進行した。そして答申は、この事態に対応するためにも横断的労 働市場を形成し労働力流動化をはかるべきと提言したわけである。だがむしろ各企業の対応は、不足すればするほど、一度獲得した労働力を長期にわたって定着 させる方向をとった。したがって、労務管理の現実の進行も、定着管理という方向へと向かっていった。それがここから読み取れる点であろう。」(乾彰夫『日 本の学校と企業社会』p.83-84)

    総世帯数を総住宅戸数が上回る(総務庁統計局編 1968年 住宅統計調査報告)
    「都市政策大綱」

    Erikson, E.H., Identity ; Youth and Crisis, Norton (岩瀬庸理訳、1973、『アイデンティティ−青年と危機−』、金沢文庫)
    コールマン報告

1969年
    日経連能力主義管理研究会報告『能力主義管理《その理論と実践》』
    「現在の職務においては顕在化されずとも、過去の職務において証明された能力や、将来発揮されるかもしれない潜在的能力、直接生産過程において業 績として顕在化されずとも労務管理部面で企業に貢献する忠誠心など、具体的限定的には評価しきれないものが、その主要な構成要素に含まれることになる。そ して、「能力」の範囲が不明確であればあるほど、「姿勢態度」や「人柄」「人格」といった、客観的能力以外の価値的主観的なものがそこには入り込むことに なるわけである。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.108)

   「採用については、新規学卒採用を原則とし、そのうえで、「企業内教育の可能性と教育投資との採算」の中で可能な職種については中途採用も導入する とされた。そして、新卒採用の場合も含め、今後はこれまでのような「全人的採用」ではなく、予定する職務をあらかじめ決め適正等を重視することが必要、と した。また、現業職の新規学卒採用については、労働市場の状況からも「高卒中心となろう」と、その見通しを述べている。
(…)
 しかし、年功制・終身雇用制という大枠の維持が基本方向として出された以上、新卒採用をほぼ無条件に原則とする「要約」の表現のほうが、論理的にも整合 的であったし、またその後の事態の推移もこの方向に進んだのは周知のとおりである。
 さらにいえば、「要約」が提起していた「職務採用」も実際にはそれほど進まなかったが、これも終身雇用制の枠による制限のせいであったといってよい。」 (p.127-129)

    職業訓練法改正
    「ここでは、まず公共職業訓練の主な対象を中卒から高卒へと広げ、同時に職業訓練は「労働者の職業生活の全期間を通じて段階的かつ体系的に行われ なければ ならない」として、大企業ですでに取り組まれていた生涯職業訓練の構想を取り入れ、さらに、公共職業訓練と企業内訓練を一貫した体系だての中で整理し、職 業訓練に関する基準の統一をはかった。」(日本労働研究機構編『教育と能力開発 (リーディングス日本の労働; 7)』p.5)

    アニメ「サザエさん」放送開始
    パケット交換技術に基づく分散型システム・ARPANETの実験開始。のちのインターネット

1970年
    高校新規学卒就職者のピーク 私立大学に対する補助金制度
    採用早期化と自由応募による就職が進む
    大阪万国博覧会 富士ゼロックス「モーレツからビューティフルへ」

    平凡出版(現マガジンハウス)、「アンアン」創刊
    「一九七〇年、学園紛争が敗北して時代が翳り出した冬、都内の路上で過激派の女子学生が逮捕された。そのとき彼女は、くるぶしまで届くマキシコー トにひざ 上の超ミニスカート、という流行の最先端を行くファッションで、トンボめがねをかけるという、当時の典型的なキメ方をしていた。ファッショナブルな美人過 激派女子学生、というのは、それだけで十分新聞ダネになる。事実、翌朝の各新聞は、路上逮捕のときの光景を、こぞって写真入りで報道した。その上、話題を 呼んだのは、そのとき彼女が、こわきに『アンアン』をかかえていた、という事実だった。」(上野千鶴子『増補〈私〉探しゲーム 欲望私民社会論』 p.143)

    三島由紀夫自殺
    「もし、北一輝に悲劇があるとすれば、覚めてゐたことであり、覚めてゐたことそのことが、場合によつては行動の原動力になるといふことであり、こ れこそ歴史と人間精神の皮肉である。そしてもし、どこかに覚めてゐるものがゐなければ、人間の最も陶酔に充ちた行動、人間の最も盲目的な行動も行はれない といふことは、文学と人間の問題について深い示唆を与へる。その覚めてゐる人間のゐる場所がどこかにあるのだ。もし、時代が嵐に包まれ、血が嵐を呼び、も し、世間全部が理性を没却したと見えるならば、それはどこかに理性が存在してゐることの、これ以上はない確かな証明でしかないのである。」(「北一輝論 ――「日本改造法案大綱」を中心として」〈初出〉三田文学・昭和44年7月)

1971年
    ニクソン・ショック
    1893年から続いてきたアメリカの貿易黒字が赤字に転ずる
    サンフランシスコ郊外の産業集積地が「シリコン・バレー」と呼ばれるようになる
    マクドナルド第1号店銀座にオープン
中教審(第八期・第九期)最終答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」(七一答申)、教育費の「受益者負担」論(個人 的教育投資論)
    通信簿の自由化
    モーテル乱立

1972年
    田中角栄『日本列島改造論』。そのタイトルは同郷の北一輝の著書『国家改造案原理大綱』にヒントを得たといわれる
    「つまり日本列島の歪みは、大都市圏に工場や人口が集中しているために過密と過疎が起きているのではなく、大都市圏に情報と権力が集中しているか 起きていたのである。構想はあくまでも国土を水平的なネットワークで結ぶものであり、具体的に名前があげられる都市群も、場所の個性を生かされたわけでは なく、結節点としてピックアップされたにすぎない。そこを是正することなく、中央から地方に構想と施設をばら撒いても、事態は基本的に変わらない。
(…)
 列島改造構想は、地方を豊かにするという狙いをもってはいたが、結果的には地方都市の中央への従属を強めた。大都市一極集中は進み、工業化の掛け声のな かで農林業は競争力を落とし、田舎は都市に売り渡された。」(鈴木博之『都市へ』p.382)

    川端康成自殺

    金子功によるブランド、ピンクハウス誕生
    「金子は、ピンクハウスの最大の魅力であるリボンがシャネルやディオールからの引用であることを全く否定しない。しかし同時に何度もコピーをし微 修正を繰り返すことで「私のオリジナル」に行きついた、と主張する。
 この、コピーを続けることで生じるオリジナリティなり美というのはひどく説明しにくい。例えば金子と同じ「コピーであることのオリジナリティ」につい て、実は三島由紀夫が「文化防衛論」その他で語っていることは注意してもいいかもしれない。金子のこの発言は、三島との同時代的な意識の発露としてむしろ あったとさえ思う。(…)こういったコピーの果てに現われるある種の洗練は吉本ばななにも見られる事態だが、この閉じ方こそが八〇年代のサブカルチャーの 一つの特徴であり、可能性である。
 金子功のピンクハウスが達成したのはこの過度の記号性である。」(大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』p.145)

    富山事件
   「このうち最大の暴動事件は、四十七年六月十七日(土)から十八日(日)の早朝にかけて起こった、富山市駅前大通りにおけるいわゆる「富山事件」で ある。このときは、一〇〇名以上のサーキット族が衝突事故をきっかけにして三〇〇〇名近くの群集をまきこんで暴動を起こした。サーキット族と群集は、車両 や付近の商店を破壊し、規制しようとする警察に、カンシャク玉や爆竹、投石などで抵抗し、この事件に関連する検挙件数は、刑法犯等一六件、交通違反九八八 件にのぼる。
 サーキット族の活動の主体は、勤労青少年であり、彼らは、主に夏期の土曜夜から日曜の朝にかけて、特定の道路を「サーキット」として「サーキット遊び」 あ るいは「レース遊び」を行った。カミナリ族時代も、サーキット族時代も、モーターサイクルギャング・グループの凝集性はそれほど高いものではなく、「集 団」というよりは、多くは群衆に近い集団であった。」(佐藤郁哉『暴走族のエスノグラフィー』p.9)

   Jensen, A. R. Genetics and Education, Associated Book (岩井勇児・松下淑訳、1978、『IQの遺伝と教育』、黎明書房)

1973年
    第一次オイルショック
    高卒の求人倍率が8倍

    鎌田慧『自動車絶望工場――ある季節工の日記』、現代社出版会
    「コンベアはゆっくり回っているように見えたが、とんでもない錯覚だった。実際、自分でやってみなければわかるものではない。たちまちのうちに汗 まみれ。手順はどうにか覚えたのだが、とても間に合わない。軍手をしているので、小さなボルトを、それも使う数だけ掴み取るだけでも何秒もかかる。うまく いって三台に一台やるのが精一杯。違った種類のミッションが来ると、それは難しくてお手上げ。カバーをはめるのにコツがいるので新米ではできないのだ。喉 はカラカラ。煙草どころか、水も飲めない。トイレなどとてもじゃない。誰がこんな作業システムを考えたのか。息つく暇のないようにギリギリに考えられてい るのだ。」(p.33)

    中上健次「十九歳の地図」が『文芸』に掲載
    「玄関の戸と戸の隙間に新聞をさしこみながら、不意にぼくは、この家の中では人間があたたかいふとんの中で眠っているのだというあたりまえのこと に気づ き、その当たり前が自分にはずっと縁のないものだったのを知った。午前五時半をもうすぎたろう。夜はまだあけない。空は薄暗くところどころまっ黒に塗りつ ぶされたままある。雨がぼくの顔面をたたいた。それが心地よくぼくはひとつ鼻でおおきく息をすった。そして神の啓示のようにとつぜん、二十歳までなにごと かやる、そうして死ぬ、と思った。それはぼくにとって重大な発見だった。なんとかその年齢まで生きてやろう、しかしその後は知らない。松島悟太郎、この家 は無印だが、発見した場所を記念して、一家全員死刑、どのような方法で執行するかは、あとで決定することにする。右翼に涙はいらない、この街をかけめぐる 犬の精神に、感傷はいらない。」(中上健次『十九歳の地図』p.119)

    通産省、インテリア産業振興対策委員会を発足
    Herrnstein, R. J. I.Q. in the meritocracy, Little, Browm (岩井勇二訳、1975、『IQと競争社会』、黎明書房)
    「電子掲示板」(BBS)開発

1974年
    戦後初のマイナス成長
    高等進学率が90%を超える

    高卒就職率は48%、大学・短大進学率は32%
    「ちなみに、七四年から七六年にかけて、高卒就職者数は約八・三万人減少するが、この数は同期間における大企業採用者の減少八・五万人にほぼ等し い。それではこの八万人あまりはどこに移動したか。この二年間で高卒者総数は一・一万人ほど減少したが、のこりは大学・短大進学者の一・九万人増と、「無 業者」「教育訓練期間入学等」をあわせた五・二万人増へと吸収されることとなる。ちなみにこの二年間での大学・短大志願者数の増は四・一万人である。結 局、この二年間の変動は、大企業の採用減に連動するかたちで就職者が減少し、そのかなりの部分が進学志望者増にまわったものの、大学入学定員の抑制により 大学・短大進学者はさほど増えず、その大部分が「無業者」および「教育訓練機関等入学者」へと滞留することになったもの、といってよかろう。
 こうした状況は、一九六六年の例から見ても、大学入試競争への圧力を高めるのには、十分な条件であったといえる。しかしさらに、大量の配転、出向、一時 休業、希望退職者募集といった雇用調整索の広がりは新規学卒労働市場への直接影響のあらわれ以上に、社会的な不安意識を生み、競争意識をかりたてることと なった。とくに企業の雇用調整の対象が中高年に向けられ、中高年の雇用不安が広がったことは、自らが中高年にさしかかりつつあった中・高校生の親世代を大 きく刺激した。つまり中高年に近づく親たちの企業内での「生き残り競争」と、その子どもたちの「受験競争」という、二つの「能力主義競争」の激化の同時進 行が、この時期に生じたわけである。はじめに見たような一般マスコミの七四〜七六年頃の「受験フィーバー」状況には、このような社会的背景があった。」 (乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.236-237)

    日教組の委嘱を受けた教育制度検討委員会の最終報告「日本の教育改革を求めて」(七四報告)

    OECDのCERI(教育研究革新センター)と文部省が「カリキュラム開発に関する国際セミナー」でSBCD(学校に基礎をおくカリキュラム開 発)を提唱
    「カリキュラムをたんに学習指導要領や教科書と考えずに、学習者に与えられる学習経験の総体ととらえ、カリキュラムがそこで形成され、開発さ れ、評価され、修正されていく場として、学校と教師の役割を重視するものでした。いわゆる「ゆとり」「生きる力」のスローガンで知られる一九九八年教育課 程審議会答申が、「総合的な学習の時間」を創設したのもその考え方にもとづく具体策である、といわれます。」(岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会へ』 p.47〜48)

     小坂明子「あなた」大ヒット

     サンリオ、「ハローキティ」を開発
     「部屋の一隅には、とくにこれもまたお伽の国の家のように区切られたスペースがあって、そこでは専任デザイナーの手で日々キティに新しいデザイ ンが加えられていっている。
 いわばこの部屋が、サンリオのキャラクター商品を生み出す魔法の箱だ。若い魔法使いたちは誰からも強制されず、好きなときにお茶を飲みに出かけたりしな がら、優雅にデザインする。
 その反面、いったんデザインにとりつかれると、夜遅くまでスケッチブックに向かうのをやめない。この芸術家工房的で自由な雰囲気が、つぎつぎに新しい人 気キャラクターがつくり出される要因のひとつになっているといえる。
 ただ、労働基準監督局はまったく別の見方をしていて、若い女性をあまり遅くまで働かせすぎると、と二度この工房は注意を受けたことがある。」(上前淳一 郎『サンリオの奇跡 夢を追う男たち』p.7)

    「コンピューターを使って末端の小売店と商品倉庫とをこのようなかたちで直結させている企業は、おそらく日本にサンリオのほか一つもない。同社が 独自に開 発したご自慢のシステムだが、その利点はつぎのように数えることができる。  第一に、いま全国でどんな商品がどの程度売れているかを本社がいち早く把握でき、それに基づいて下請への発注量を決めることができる。
 (…)
 こうした利点をまとめて一口でいえば、本来キーパンチャーがいなければコンピューター相手にできない作業を、誰にでもできるように、しかもきわめて安い コストで標準化した、というふうに表現することができる。
 (…)
 これを同社ではTDE(テレホン・データ・エントリー)システムと呼んでいるが、同社がわずか七百七十人の従業員で年間三百五十億円を売り上げるという 驚異を実現しえているのは、このシステムによって、日々伝票処理に明け暮れるような事務員を追放してしまった結果にほかならない。」(p.11)

    「菓子ケースをつくりながら、なんとか付加価値の高いデザインを自分たちの手で生み出せないか、と考えるようになる。あるとき、下請業者のひとり が小物に つけていた小さなイチゴを見て、あっ、かわいいな、と思った。
 この、あっ、かわいいな、というのは、五十歳になったいまも辻が失っていない一種の少女的感覚で、ふつうのまともな大人なら気にもとめず見過ごしてしま うものに、少年少女なら必ず気持を奪われるに違いないことを発見する独特の嗅覚を彼はもっている。」(p.37)

1975年
    私学振興助成法成立
    「七五年に成立した私学振興助成法は私学助成とひきかえに私立大学の水増し入学を厳しく抑制した。さらにその後の大都市部での新・増設抑制などの 結果、そ れまで一貫して上昇をつづけていた大学・短大入学者数は、七五年以降の一〇年間にわたって、六〇万名弱で停滞する。八〇年代後半は一八歳人口急増対策とし て臨時定員増などの措置がとられ、入学者数は増加するものの進学率そのものは停滞する。」(乾彰夫「企業社会の再編と教育の競争構造」p.330)

    女性の労働力率の底 オイルショック後の「減量経営」による所定外労働時間の増加とパートタイム労働者の増加で労働時間構造の二極分化が進む
    「一九七五年の世界同時不況以後の問題を理解するためには、さらにもうひとつ、新しい生産力基盤としてのME化の、日本における独特の導入方法に ついて考えてみる必要があるだろう。ME化は、本来的には生産(FA)、流通、管理(OA)のあらゆる部面における労働時間短縮、無人化、省力化をもたら すものとして、労働現場における人間の苦痛を緩和させ、かつ肉体労働と先進労働の分離をもふたたび統一できるものとして、いわば「普遍的労働」ないしは 「一般的労働」への萌芽として位置づけられるものである。しかし、日本ではこれが導入される場合、従来の生産至上主義の延長として、長時間高密度労働を加 速させ、機械と競争し、それに代替するものとして、いわば軽薄短小への転換の、「合理化」の最大の武器として使われている。
 (…)
 かくして、わが国におけるME化の進展は、それが兼業メーカーによる標準メモリーチップの低コスト、高品質、大量生産として広範に展開されるため、それ は新鋭、在来の重化学工業を問わず、さらには軽工業までを含む全産業をエレクトロニクスで精緻化し、自動化・省力化したため、日本産業全体の底上げと競争 力強化をもたらすことになった。その意味では、わが国のME化の進展は全産業貫通効果をもったといえよう。その結果、以前にもました輸出拡大となって現れ ることになる。」(関下稔『日米経済摩擦の新展開』p.234-235)

    マイクロソフト社設立

1976年
    日本青少年研究所『学歴社会調査』
    高校卒と大学卒、しかも大学卒を一般大学卒と有名大学卒にわけて、人事担当者に評価を求めた調査(対象企業は約500社)。     「こうした評価は、あくまでも主観的なものであり、額面通りに受けとれないことはいうまでもない。しかし、企業が大学卒に期待し、高卒よりも大学 卒を優先的に採用する際に判断の基準としているのが、大学での授業を通して獲得される知識や技術よりも、おそらくは四年間の学生生活のなかで、たくまざる 形で身についてくる人間的な能力や特性のほうであることは、どうやら間違いなさそうである。(…)
 それにしても、企業が大学に期待するのが知識や技術だけではなく、いわば人材の(入学試験による)ふるい分け(スクリーニング)の機能であり、その上で の、学生生活を通しての人間形成機能だけだとしたら、いったい大学教育とは、なんなのだろうか。それはちょうどウィスキーの原酒が、樽につめられて、熟成 の期間を待つように、人間としての「熟成」を待つだけの四年間に過ぎないのだろうか。」(天野郁夫『試験と学歴』p.211-212)

    「こうした大学での教育の内容そのものが、採用にあたって軽視される傾向は実はアメリカでも広がりつつある。
 この問題をはじめて取り上げたのは、おそらく経済学者のアイバー・バーグである。かれは教育と職業との関連を問題にした著書(Education and Jobs, 1971)に、「大いなる訓練泥棒」(the great training robbery)という副題をつけた。それが意味しているのは、教育と職業との間に対応関係があるというのは、神話にすぎず、大学教育に費やされているカ ネの大半はむだづかい、浪費にすぎないということである。(…)大学を卒業しているということは、その人間が中流階級的な価値を持ち、勤勉で、真面目で、 それなりの生活スタイルやマナーを身につけていることのあかしである。」(p.212)

    文部省による業者テストに関する実態調査

    専修学校発足
    「それでは、予備校をのぞく専修・各種学校入学者はどのような性格をおびた存在だろうか。ここではまだ、その内部分析を行うだけの準備がないの で、縁辺的 推定にすぎないが、それは多分に半失業的性格をおびていると推定してまちがいなかろう。(…)
 また、専修・各種学校進学者が多数をしめる高校を、高校タイプ別に見たとき、その多くが普通科のいわゆる「底辺校」であるということからも、半失業状態 という性格は推定できる。普通科「底辺校」は、学力的に大学・短大への進学が困難な生徒が多くをしめているにもかかわらず、就職市場においては、職業科よ りはるかに不利な立場におかれている学校が多い。そのため、定員抑制のつづく大学・短大進学からも、また悪化をたどる労働市場からも締め出された普通科 「底辺校」の生徒たちの多くが、とりあえずの居場所を求めるかたちで、専修・各種学校へと進学するケースは多い。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』 p.239-240)

    「暴走族対策会議」新設が閣議決定される

    「ワンルーム」マンションが作られる
    「一九七六年に東京のアパート管理専門会社「マルコー」が新しいタイプのマンションをつくった。一室の平均一五−一六平米と狭いがバス・トイレと コンパク トなキチネットつき「ワンルーム」のマンションである。一室ごとに個人投資家に売り、それを別の個人に貸して維持、管理、家賃の徴収はすべて会社が請け負 うという新しい方式であった。家賃は当時、月額四万円で高かったが、人気が出て、以後、都市にふえつづけ、若者の生活様式を変えたといわれる。」(西川祐 子「日本近代家族と住いの変遷」、西川長夫・松宮秀治編著『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』p.217)

    Bowles, S. & Gintis, H. Shooling in Capitalist America : Educational Reform and the Contradictions of Economic Life, Basic Books (宇沢弘文訳、1986、『アメリカ資本主義と学校教育 T』、岩波現代選書、宇沢弘文訳、1987、『アメリカ資本主義と学校教育 U』、岩波現代選書)

1977年
    国立大学共通一次試験のため大学入試センターがスタート
    「実際、六〇年代に高校入試に登場した「偏差値」は各都道府県ごとにその県の大多数の中学校・中学三年生を組織する「模擬試験」を実施している独 占的なテ スト業者によって提供されるが、共通一次の実施は数校の大手予備校がそれぞれ数十万名単位の受験生の「自己採点票」を集計して、それをもとに算定した全国 の大学を網羅した正確な「偏差値表」の出現を可能にした。」(乾彰夫「企業社会の再編と教育の競争構造」p.279)

    第三次全国総合開発計画(三全総)策定、「地方の時代」がキャッチフレーズ 公団住宅の分譲住宅建設数が賃貸住宅建設数を上回る

    山田太一「岸辺のアルバム」放送
    「謙作「お前には働くということが、どういう事か分かっていない」
繁「すぐそうやって勿体つけるんだ。働くなんて、どうって事ないじゃないか」
謙作「お前は働いていない」
繁「だから働くっていってるんだろ。自分ひとりで働いてるみたいにいって、さも大変で難しくて神聖みたいにいいたがるけど」
謙作「そんなことはいわん」
繁「働くなんて、たいしたことないじゃないか。女を輸入しなきゃ食って行けないってもんじゃないだろう!」
謙作「――」
繁「人をバカにしてみりゃあいいさ。立派にひとりで食べて行くから見てりゃあいいさ」
謙作「お母さんの事を聞こう」
繁「本人に聞けよ」
謙作「律子の事もだ」
繁「だから本人に聞けよ!本人がいるのに、何故、僕に聞くんだ!本人に聞けよ!(と二階へ)」
謙作「――」」(『岸辺のアルバム』p.269)

    「謙作「他になにがある?この家の他になにがあるんだ」
則子「なにがって――」
謙作「律子は、あんな男と一緒になるという。繁は出て行った。お前は、なにをした!」
則子「お父さん――(反論ではなく、なだめようとしていう)」
謙作「会社は倒産同然だという。その上この家はやられてたまるか。この家だけだ。この家だけが、俺が働いて来た成果だ。この家しかないじゃないか!」」 (p.329)

    小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』
    Willis, P. E. LEARNING TO LABOUR How working class kids get working class jobs, Aldershot (熊沢誠, 山田潤訳、1996、『ハマータウンの野郎ども』、筑摩書房)

    THE CLASH、1stアルバム『白い暴動』発表
「1977
IT'S THE 1977, I HOPE I GO TO HEAVEN
I'M TOO LONG ON THE DOPE AND I CAN'T WORK AT ALL

DANGER DANGER, YOU BETTER FIND YOUR PLACE
NO ELVIS, BEATLES OR ROLLING STONES

IN 1977 GUYS WHO WORK 'TIL ELEVEN
AIN'T SO LUCKY TO BE RICH
STAY UNDER THE BRIDGE

IN 1977 YOU'RE ON THE NEVER-NEVER
YOU THINK IT CAN'T GO ON FOREVER
BUT THE PAPERS SAY IT'S BETTER

I DON'T CARE, IT'S NOW OR NEVER
THE WORLD'S PEOPLE ARE BEHIND THE EIGHT BALL

IN 1977 THERE'S NOTHING TO BELIEVE
IN 1978, IN 1979, IN 1980
IN 1981 THE TOILET DON'T WORK, IN 1982
IN 1983 HERE COME THE POLICE
IN 1984」(『CLASH ON BROADWAY / クラッシュ・オン・ブロードウェイ』収録)

1978年
    円高不況、大学生の大企業志向が強まる
    「7%成長目標」、ボン・サミットで、公共投資の積み増し等により成長率を予定よりも1.5%高めることを明言、以後、公債依存度高まる

    大卒ブルーカラー論、潮木守一『学歴社会の転換』
    「最近テレビの番組でさまざまな職業についた大卒者を追跡しているレポートを見た。そのなかで大学では哲学を勉強し、現在はタクシーの運転手とし て働いている青年の話がでてきた。印象的だったのは、インタービューアーが「あなたにとって大学とは何だったのですか。大学で勉強したことと現在の職業と はどういう関係にあるのですか」という質問に対して、その青年が「学職分離」ということばを使ったことであった。つまり大学で勉強したことは、それはそれ でためになったが、それが現在の職業に直接役立つということは全くない。それでいて大学生活が無駄だったというわけではないし、また現在の自分の職業が自 分にとって不満だというわけでもない。(…)自分が大学出であるといった肩をはった意識ももっていないから、就職する場合でも、どんな職業でもこだわらな い。四年間の学園生活を十分に楽しんだのだから、これからの職業生活も大いに楽しみましょうというのが彼らの価値観なのである。」(p.134-135)

1979年
    第二次オイルショック
    大手メーカーが採用を復活するなど「採用大手」以外の求人増加
    Vogel, E. F., Japan as number one : lessons for America, Harvard University Press (広中和歌子,木本彰子訳、1980、『ジャパンアズナンバーワン : アメリカへの教訓』 、TBSブリタニカ)
    共通第一次学力試験制度始まる 村上春樹『風の歌を聴け』
    富野由悠季『機動戦士ガンダム』アニメ放送開始(79・4〜80・1)
    ソニー・ウォークマン発売

    サッチャー政権誕生(〜90年)

1980年
    ロボット元年(ファナック本社工場山梨県忍野に完成)
    「トヨタ自動車は、一九八〇年春に、その時のロボット保有台数二〇〇台を、八二年までに九〇〇台にすると発表して注目を浴びた。しかし、日産自動 車は、その時すでにロボット化では一歩先をいっており、座間工場(神奈川)の第三車体工場のスポット溶接(点溶接。二枚の薄い鉄板を重ねて点状に溶け合わ せる)作業の九七%をロボット化していた。」(森清『ハイテク社会と労働 何が起きているか』p.23-24)

    雇用者世帯の専業主婦が1093万人でピーク
    韓国・光州事件
    「とらばーゆ」創刊
    川崎市で浪人中の予備校生が両親を金属バットで撲殺
    竹の子族流行

1981年
    レーガン大統領誕生(〜89年)
    「一九八〇年代のアメリカ経済を特徴づけるものは、「空洞化」・軍事化・寄生化であるが、とりわけ寄生的な性格が強まってきている。パクス・アメ リ カーナの支柱である軍事とドルそれ自体の維持と展開に、同盟国、とりわけ日本の助力を必要とし、それにもたれかかろうとすることもさることながら、アメリ カ国内の「空洞化」の穴埋めを日本企業の対米進出によってはたさせ、なおかつみずからは生産基盤を海外に移しつつ、全体としては金融的「錬金術」に傾斜し がちである。これは明らかにアメリカ経済の衰退であるが、巨大独占体・金融資本はこのなかでますます多くの超過利潤と「あぶく銭」を獲得し、金融資産を増 大させている。アメリカ経済の「空洞化」とアメリカ多国籍企業の世界的な拡大とが両立すること、またアメリカ国内の生産停滞と金融的膨張とが両立するこ と、あるいは表裏一体的にしかすすまないこと、そしてそれはいずれは爆発してもおかしくないような不安定な基盤のもとでの「繁栄」にすぎないものであるこ と、これこそが現在の局面を特徴づけているものである。」(関下稔『日米経済摩擦の新展開』p.245)

    田中康夫『何となくクリスタル』〈クリスタル族〉
    「淳一と私は、なにも悩みなんてなく暮らしている。
 なんとなく気分のよいものを、買ったり、着たり、食べたりする。そして、なんとなく気分のよい音楽を聴いて、なんとなく気分のよいところへ散歩しに行っ たり、遊びに行ったりする。
 二人が一緒になると、なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方ができそうだった。
 だから、これから十年たった時にも、私は淳一と一緒でありたかった。」(p.210-211)

   「田中の小説に江藤がみた「批評精神」とは、実はアメリカなしにやっていけないという、この小説の基底におかれた「弱さ」の自覚なのではないか。  この「弱さ」の自覚、アメリカなしにやっていけず、アメリカにたいして独立してやっていくことも叶わないという不可能性の自覚こそが、江藤のいう「批評 精神」であり、実をいえば江藤をつつみ、同様に田中を呑みこんでいる「ニヒリズム」の顔なのではないか。」 (加藤典洋『アメリカの影 戦後再見』p.28)

   「日本の文壇は日本が韓国と同じだ、とふいに出来の悪い子に本当のことをいわれたので腹をたてたのだが、江藤は、日本と韓国が同じだ、という基本的 認識をもつからこそ、ヤンキー・ゴウ・ホーム!という村上のメッセージに思わず腹をたてるのである。」(同・p.42)

1982年
    中曽根政権誕生(〜87年)
    「From A」創刊
    全国六三七校の中・高校卒業式に校内暴力懸念のため警察官が立ち入り警戒

    IBMおよびAT&Tとの同意判決、巨大企業を独禁法の拘束から開放

1983年
    東京ディズニーランド開園
    任天堂(株)ファミリーコンピューター発売 「おたく」という語を中森明夫が現在の意味で初めて用いる

    浅田彰『構造と力』
    「超コード化の段階においては媒介者というのは絶対のかなたにあるわけで、それを模倣し追いつこうということ自体ナンセンスなんですね。絶対に追 いつけないからこそ絶対他者なのだと。ところが今や脱コード化によって基本的には位置のうえでの差異がなくなっているわけですから、媒介者というのは自分 よりも先に出発した人であるというだけで、努力さえすれば追いつける、そしてまた追いこすことも夢ではない。このことを最も典型的に示すのがいわゆるエ ディプス三角形の家族なんです。ボクはパパの介入によってママとの直接的合一を断念しなきゃならない。だけど、パパだって神様じゃないんで、ボクより先に いたというだけなんだと。だから、ボクだって、パパをモデルかつ障害物として追いつけ追いこしさえすればいいわけです。こうして、パパ−ママ−ボクのおぞ ましい三角関係が、欲望の流れを《追いつけ追いこせ》の回路へと誘導していく。彼らの議論をはなれて言うと、これを引きつぐのは学校ですね。エディプス的 家族+学校、これが、質的な位置の体系の不在という条件のもとで、量的な流れの運動へと欲望を駆り立てていく。
 こうした誘導はやがて内面化にまで行きつくわけです。こうなると、各人は自分自身に負債を負い、それをうめるべく走りつづけるという悲惨な状況になる。 これこそが近代的な《主体》の姿なんですね。フーコーはそれを《経験的−超越的二重体》と呼んだわけだけれども、実際、その中にはオブジェクト・レベルと メタ・レベルがくりこまれていて、その落差が《主体》をひとりでに走らせ続けるわけです。」(浅田彰『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』p.84-85)

    アメリカの「教育の卓越に関する国家委員会」が『危機に立つ国家』:A Nation at Risk を報告・発表
    Hochschild, A. R., The managed heart: commercialization of human feeling, University of California Press (石川准, 室伏亜希訳、2000、『管理される心 : 感情が商品になるとき』、世界思想社)
    Monden, Y., Toyota production system : an integrated approach to just-in-time, Industrial Engineering and Management Press (Institute of Industrial Engineers) (1985、『トヨタシステム:トヨタ式生産管理システム』、講談社)

    島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』
    「バージニヤは、いや一般的に女の子は何かうっとりさせるようなもの、何か眠りに似ているもの、かすかに色のついた空気のようなものが好きらし い。
(この赤い市民運動にも、女をうっとりさせるような何かが必要だ。雑誌づくりや集会も結構だが、今一つ、冴えない。おそらく、ファッション性に欠けるの だ。スタイルを洗練しなければならないのだ)
そのためにはどうすればいいのかという問題は、今の彼には胸やけを起こさせた。そんなことより、もっと身近な問題から処理していった方が都合がよいのだっ た。先ず、バージニヤをものにすること。」(p.113-114)

    「「普通、反抗期といわれてる時期には僕はおとなしいもんだったじゃないか。何一つ心配かけなかった。このまま一生、反抗しなかったらやっぱりま ずいと思 うんだ」クルシマは舌打ちを混ぜた笑いを浮かべながら自室に引籠もった。「やっぱりまずいと思うんだ」
 彼は天井の蛍光灯を見つめていた。赤ん坊の泣き声がマンションの中庭に鋭く反響していた。部屋の白い壁、レースのカーテン、窓のアルミ格子、ベッド。ま るで病院だ。
 クルシマは一流企業という最終到着地点を目前にしながら、パックツアーから脱け出そうともがいているのだった。国家殿が用意した子宮から這い出ようとし ていた。(僕は生まれてやる。自分の意志で子宮から……へその緒をひきちぎって……)」(p.209-210)

1984年
    臨時教育審議会(〜87年)
    「一九八四年(昭和五十九)に首相の諮問機関として設置された臨時教育審議会は、第一次答申(一九八五年)で「自由化」と「個性重視」の原則のも とに「後期中等教育の構造の柔軟化」を提起し、続く第二次答申(一九八六年)は二一世紀に向けての「生涯職業能力開発の総合的推進」を課題とし、その一環 として中等教育および中等後教育における職業能力開発の機会拡充を提起した(…)。そして第三次答申(一九八七年)では、第二次答申とあいまって「生涯学 習体系への移行」や「国際化・情報化への対応」など、産業構造再編・労働市場再編を見通した総合的な教育改革への筋道を打ち出した。」(渡辺治編『高度成 長と企業社会』p.188)

    米国でのトヨタ・GM 合弁会社(NUMMI )生産開始
    日本のエンゲル係数が30%を切る
    麻布十番に「マハラジャ」オープン
    電電公社民営化
    「無業者率」から「自宅浪人」を除いた「純粋無業者率」が80年代の最高の4.8%(岩木 1999)

    「就職ノート カネよりヒト 中小の求人も高学歴化」(朝日新聞1984年10月23日)
    「商工組合中央金庫が九月にまとめた「中小企業の昭和六十年度新卒採用計画アンケート調査」によると、中小企業の新卒採用計画人数は全体で前年実 績比9% 増となり、大卒については53.8%の高い伸び率だった。短大・高専卒、高卒、中卒の採用計画人数はいずれも前年実績を下回っているので、中小企業の求人 にも、高学歴化への流れがはっきりと読みとれる。」

    「就職ノート 揺れる協定 優秀な学生求め争奪戦」(朝日新聞1984年10月2日)
    「来春卒業予定の大学生の会社訪問が一日、解禁された。採用試験は十一月一日から始まるが、最近はペーパーテストよりも面接が重視される傾向が強 いので、 就職活動のスケジュールの中で会社訪問の持つ意味は大きい。
 企業の大卒採用には、「自由公募」と「学校からの推薦」という二つの方法がある。大ざっぱにいって、事務系が自由公募、技術系では推薦方式が主流だ。自 由公募方式をとっている企業を学生が回り、採用担当者と“お見合い”をするのが会社訪問である。水面下の接触ですでに内定の感触を得ている学生にとって は、会社訪問は入社への意思をはっきりさせる場になるだろう。
 企業の採用活動は、低成長時代に入ってから「量より質」を重視している。採用の方式も、いろいろな層の担当者が学生と面談を重ね、人物本位に採否を決め るやり方が定着してきた。一握りの優秀な学生をめぐる争奪戦は激化し、他社より一歩でも先んじるために、協定破りは絶えなくなった。」

1985年
    プラザ合意
    米、産業競争力委員会によるヤングレポート(「新技術の創造・実用化・保護(イノベーションによる技術優位)」「資本コストの低減(税制・資本流 動効率化による生産資本の供給増大)」「人的資源開発(技能・順応性・意欲の向上と教育改善)」「通商政策の重視(輸出拡大が国家の最優先政策)」)
    吉本・埴谷コム・デ・ギャルソン論争
    加藤典洋『「アメリカ」の影』
    大都市圏整備局「首都改造計画」
    都内に第一号のブルセラショップ開店
    小沢雅子『新「階層消費」の時代』
    「人々が農村から都市に出てきてサラリーマンになるのは、サラリーマンになった方が高い所得を得ることができると判断したからであった。一九六〇 年代中頃までは、図表Pに見るとおり、農家や公務員よりも民間企業のサラリーマンの方が所得が高く、この判断は正しかったといえる。ところが、六〇年代後 半以降、この関係は逆転している。」(p.164-165)
    「所得格差、賃金格差が拡大した原因は、一九七〇年代後半になって経済成長率が低下して、労働需要が減少したことである。高度成長期には、労働需 要が労働供給を上回っていたので、労働市場は、慢性的に人手不足な状態であった。それゆえ、必要な労働力を確保するためには、中小企業であろうと大企業な みの賃金を支払わねばならなくなった。こうして、新しい勤労者だけでなく、すでに働いている勤労者もまた、「転職」を武器にすることによって、高い賃金を 要求することができるようになり、二重構造と言われたもろもろの賃金格差は縮小傾向にあった。
 ところが、低成長期には労働需要よりも労働供給の方が多く、勤労者に不利な状態になったため、再び賃金格差が発生した。そして、賃金の格差が発生して も、労働供給の方が多い状態では、勤労者は転職を武器にすることができないので、賃金格差は拡大していった。賃金は、労使の交渉によって決まるが、労働供 給の方が労働需要より多い状態では、中小企業の勤労者や女性労働者のように、交渉力の弱い勤労者の賃金は、相対的に切り下げされる。しかし、彼らは、労働 移動によってそれを平準化することができないでいる。
 このように、勤労者のなかでも、産業別、企業規模別、男女別、職種別に賃金格差は拡大している。一九七〇年代に入ってジニ係数の低下現象が止まり、横ば いあるいは微増傾向を示しているのは、七五年以降の上記の格差拡大の結果といえよう。」(p.170-171)

    「85就職ノート高卒の求人 好転したが地域格差も」(朝日新聞1985年7月2日)
    「高学歴化の流れの中で、高卒の就職は大卒、短大卒に押され、かつて中卒の職場だったところに高卒が配置されることが多くなった。金融機関などの 高卒への 求人が大幅に減ったため、先輩と同じところへ行けず、「志望の変更が必要になるケース」が増えている。特に高卒女子の場合、オフィスオートメーション (OA)と、女子の勤続年数が長くなっていることの影響が大きい。」

    「85就職ノート 青田買いの弊害 内定取り消しに泣く」(朝日新聞1985年11月6日)
    「就職シーズンはいよいよ終盤。マスコミ志望者や地元志向の強い地方大学生の就職活動、求人難に悩む中小企業の採用選考などはまだ続いている。だ が、ほと んどの大企業は面接で事実上の採用を決めており、1日から解禁された採用試験を入社後の配属のための参考資料などに使っているところが多い。この秋の就職 戦線は、全体としてヤマ場を越えた。
 今年の最大の特徴は、「学生側の売り手市場」との予測から企業側の採用活動が昨年以上に早期化し、一部有名校の学生を対象にした青田買いが続出したこ と。有名校の学生の多くは、就職協定による会社訪問解禁日である10月1日より前に内定したが、それ以外の学生が早い時期に会社訪問をすると、「協定通 り、10月1日から受け付ける」と断られる場合が多かった。就職の機会均等を目的としているはずの協定が、有名校とその他の大学の学生の差別に使われた、 と大学関係者が指摘している。
 秋が深まるとともに、青田買いの弊害が目立ってきた。「内定したあとで、どうしようか、と迷っている学生が少なくない」と、早大の多熊一郎就職課長はい う。自分の将来について、はっきりした方針が固まらないうちに、就職先が決まってしまうためだ。都市銀行に内定した学生が「自分は銀行には向いていないの では……」と悩み、あとでメーカーを回ったりするケースもあった。
 複数の会社から内定をもらった学生による「内定辞退」の動きが絶えない半面、採用予定枠以上に学生を採りすぎた企業の内定取り消しもボツボツ出てきた。 就職協定の建前から、企業は11月にならないと、内定の通知を学生に出すわけにはいかない。青田買いは水面下の動きなので、内定取り消しといっても、口約 束の場合には学生と会社との間で「(内定と)言った」「言わない」の水かけ論になりがち。一方、内定したはずの学生に逃げられ、再募集に動いている会社も ある。青田買いの後遺症は、学生、企業の双方に、なおしばらく残りそうだ。
 しかし、こうした動きは、主として有名校の男子学生と大企業の間で起きている現象だ。女子学生の就職戦線も、男子に引きずられる形で全般に早期化してい るが、男子に比べれば、やはり厳しい。(…)」

1986年
    前川レポート(内需拡大、所得減税、労働時間短縮など)
    「日本の特質が量産型の製造工業における多品種大量生産にもとづく薄利多売にある以上、どんなに生産を海外にシフトしても、国内での生産基盤を すっかり失えば、たちまちのうちに敗北と没落が待ちうけていることは目に見えている。アメリカの場合は、国内経済基盤を失って「空洞化」しても、寄生的な 国家として「旦那商売」・パトロン生活をつづけることができる。それは、資本主義世界の政治的・軍事的・金融的指揮権を握っているからである。しかし日本 にはそれがない。とすると、国内における生産基盤を残しながら、できるところから徐々に海外へ生産の一部をシフトする道を選ばざるをえない。だから、日本 経済がアメリカのようには全面的に「空洞化」(しないのではなく)できないのは、日本資本主義の限界=制約性として私には映るのである。そして、そこに全 知全霊を傾けなければならないとしたら、日本の前途はきわめて危ういタイトロープを渡るような、危険に満ちたものであろう。」(関下稔『日米貿易摩擦の新 展開』p.240)

    男女雇用機会均等法成立
    一般職・総合職のコース別採用はじまる
    労働者派遣法

    「86就職ノート サービス経済化 新卒採用、高い伸び」(朝日新聞1986年11月11日)
    「(…)今年の就職戦線の大きな特色は、経済のサービス化、ソフト化の流れが、企業の採用活動の面からもはっきりと読みとれることだ。労働省は、 来春の新 規学校卒業者について、事務系、技術(技能)系、販売・サービス系の職種ごとに、前年に比べた採用計画の伸び率を学歴別にまとめている。それによると、高 専、中学を除く各学歴とも、販売・サービス系の伸び率が最も高い。大学の場合、事務系1.9%、技術系7.7%に対し、販売・サービス系は15.3%の高 い伸びを示した。
 大卒に対する採用意欲が強い業界は、電算機のソフトウエア関係と金融機関、さらに流通、住宅などの内需関連産業だ。大学生の場合、輸出企業を中心とする 製造業の求人の落ち込みを、非製造業の求人増が補ったと見られる。
 一方、60万人を上回る高校生の就職戦線は厳しい。急激な円高の影響で、高校生に対する製造業の求人が大幅に減っているうえ、百貨店などの非製造業で も、高校生の採用を大学、短大に切り替える動きが続いているためだ。高卒への求人の長期低落傾向には、なかなか歯止めがかからないようだ。」

    台湾、民主進歩党の結成が非合法に宣言される

1987年
    国鉄民営化
    「フリーアルバイター」という語が、リクルート・フロムエー『若者しごとデータマガジン』で使われる

    「87就職ノート 崩れた協定 違反の追随相次ぐ」(朝日新聞1987年9月1日)
    「(…)
 今年の協定の新しい試みは、企業と学生が個別接触をしない形の企業説明会の開催である。そんな説明会が8月20日から全国各地で開かれる一方で、有名校 の先輩が後輩を呼び込むなど、大企業の個別面談も進められているのが実情だ。このような人材争奪戦は、男子大学生だけでも20万人を上回る就職希望者の中 では限られた現象だが、不公平感を抱く学生は多いだろう。(…)」

    「87就職ノート 売り手市場 金融中心に明るさ」(朝日新聞1987年10月20日)
    「今年の就職戦線は終幕に近い。地方の大学生や女子学生などの中には、なお就職活動を続けている人も少なくないが、ここで今年の状況を振り返り、 来年への 問題点を考えてみよう。
 今年の大きな特色は、景気の回復基調を背景に雇用情勢が夏ごろから好転し、大卒の就職戦線にも明るさが広がったこと。大卒男子の場合には、全体として売 り手市場としての色彩が昨年以上に濃くなり、企業側は焦り気味。証券会社の大幅な採用増をはじめ、金融関連企業の採用意欲がとくに強く、人材争奪戦は激し かった。銀行、証券など非製造業が理科系への求人を増やしたことから、理科系学生の間にも非製造業への関心が強まってき た。全般に大企業の採用攻勢のあおりで、中小企業は苦戦を強いられた。(…)」

1988年
    大阪過労死問題連絡会が「過労死一一〇番」始める
    サッチャー英首相による「教育改革法」、「全国共通カリキュラム」の導入

    「88就職ノート 女子の戦略 経済ソフト化に乗る」(朝日新聞1988年7月19日)
    「(…)経済のサービス化、ソフト化が進むにつれて、女性の雇用が増え、大卒女子の活躍する場は広がっている。最近はとくにソフト技術者の不足に 悩む情報 処理業界で、女性の進出が目立つ。大手のCSKは来春、大卒女子を100人採る計画だ。東京都の多摩ニュータウンに教育研修設備が6月に完成、女子採用の ための受け入れ体制が整ってきたことが理由とされている。
 (…)
 男女雇用機会均等法が施行されて3年目。好況を追い風に、かつては狭き門だった大卒女子の就職戦線にも明るさが見える。
 オフィス・オートメーション(OA)の影響で事務職の採用は減少傾向が続いているが、女性の感性を商品開発に生かすなど、全般に女子の戦力を営業面など に活用する企業が増えた。幹部候補としての女子総合職の採用は、まだ数が少ないため、男子以上の能力を要求される傾向もみられるが、その門戸は徐々に広が る方向にある。」

1989年
    日米構造協議(〜90年)
    「協議の結果だが、アメリカは「率基準」の採用こそ勝ち取れなかったものの、日本に以後一〇年間(一九九一年〜二〇〇〇年)の公共投資「総額」を 明示させることに成功した。米側要求額五〇〇兆円、日本側の回答素案四一五兆円からスタートし、激しいもみあいの経て最終的に合意されたのが四三〇兆円 (別枠のJRなど旧三公社分を加えると四五五兆円)であった。生活関連分野への重点配分も、最終報告案に明記された。」(坂井昭夫『日米経済摩擦と政策協 調』p.193)

   男子大学生の平均内定社数が2.26社
   「新学力観」のカリキュラム施行
   盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言える日本』

   「89就職ノート 協定110番 上位都銀がフライング」(朝日新聞1989年7月18日付朝刊)
「「就職協定110番」が日経連に設置されたのは4月17日。日経連は、今年の採用活動が求人増を背景に前倒しになることを警戒し、協定違反を監視するた めの110番の開設を昨年(7月1日)より2カ月半近く早めて、学生からの電話を受け付けた。
 (…)
 「深夜の1時や2時に銀行からの電話がかかり、寝ていられない」「銀行からの呼び出しで国家公務員試験の勉強ができない」などの苦情、不満が目立つ。都 銀上位行の呼び出しが金融志望ではない学生にまで及んだことが、110番情報が急増した一因とみられる。さらに、「信州に連れて行かれた」など、拘束の情 報も、11日までの累計で24件ほどあった。(…)」

   ブッシュ米大統領、全米の州知事を招いて「教育サミット」を開催し「全国共通教育目標」を設定
   技術教育の国際標準を定めるための国際協定「ワシントン・アコード」締結

1990年
    「90就職ノート 協定順守は第2関門に」(朝日新聞1990年7月10日)
「大学の就職部などでまとめている「先輩の体験記」を読むと、「就職活動は情報戦争」といった感想を述べたものがしばしば出てくる。友人のネットワークを 通じて、企業の採用活動について生の情報を集めることが重要だ、という趣旨のことが書かれている。
 採用活動のピーク時に乗り遅れたら大変、と学生同士が情報交換をしている。企業側は、学生を通じて同業他社の動きを探る。さまざまなウワサが飛び回る。 「先頭を切って批判されたくはないが、同業他社に遅れるわけにはいかない」というのが採用担当者の本音で、企業同士のにらみ合いの状態になってきた。
(…)」

1991年
    「91就職ノート 景気減速の影響 採用拡大にも変化のきざし」(朝日新聞1991年6月11日付朝刊)
    「(…)「いざなぎ景気」に迫る大型好況も、ここへきて疲れ気味。それが来春の新卒者の採用面にどんな影響を与えるかが、今年の焦点だ。
 (…)
 1990年代後半は若年労働力の減少が見込まれるので「採れるうちに採っておこう」という、人材備蓄の考え方も根強い。石油危機後の減量経営期に新卒の 採用を減らし、企業の人員構成がいびつになったことへの反省もある。(…)」

    Reich, R. B., The work of nations : preparing ourselves for 21st-century capitalism (中谷巌訳『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ : 21世紀資本主義のイメージ』、ダイアモンド社)
「高付加価値型企業においては、利益は規模と量に規定されるのではなく、ニーズと解決策を結びつける新しい組み合わせを絶えず発見することによって生まれ る。そして、「商品」と「サービス」の区別は無意味になっている。というのも、成功している企業が提供する価値の大半は、サービスをも含むからである。事 実、そのようなサービスの価値は、世界中どこを探しても容易には創りだせないという点に求められる。具体的には、問題を解決するために編みだされた特別調 査、設計、デザイン・サービスであったり、問題を発見するために必要な特別な販売とマーケティング、コンサルティング・サービスであったりする。また、問 題発見と解決策を媒介する独自の戦略、財務上・経営上のサービスであったりする。すべての高付加価値型企業は、このようなサービスを提供することによって 事業を展開している。
 たとえば、製鉄業も今やサービス事業になっている。新しい合金が、特定の重さと耐久力を持つように作りあげられる時には、もろもろのサービスは、最終製 品の価値の中で非常に大きな割合を占めるようになる。鉄鋼サービス・センターは、顧客が必要とする鉄鋼や合金を選び、そのあと検査し、切断し、塗装し、配 送する。(…)」(p.115)

    「本質的な観点から見て、競争的な立場の異なる職業に対応した、三つの大まかな職種区分が生まれつつある。この三つとは、「ルーティン・プロダク ション(生産)・サービス」、「インパースン(対人)・サービス」、「シンボリック・アナリティック(シンボル分析)・サービス」である。こうした区分 は、今や米国以外の先進国にも当てはまりつつある。」(p.241)

1992年
    宮崎義一『複合不況』
    新就職協定、92年度より実施
    <新就職協定による92年度の採用・就職活動の日程>
 7月1日    大学側の求人票公示
 同月初旬以降  ▽大学・企業が主催する企業研究会・説明会開始
 (目標)    ▽学生とリクルーターの接触開始
 8月1日前後  採用選考開始
 (同)
 10月1日   採用内定開始
(朝日新聞1991年12月11日付朝刊)

    「92就職ノート 長引く終盤 女子学生受難、活動終わらず」(朝日新聞1992年8月11日付朝刊)
「今年の就職戦線は、学生にとって、予想以上に厳しい。景気の低迷が続き、産業界に雇用調整の動きが広がったことが響いて、新卒の採用にも急ブレーキがか かったからだ。
 大企業の採用予定数が減少に転じ、採用経費も削減されたため、ここ数年過熱の一途だった求人競争は、落ち着きを取り戻した。学生向けダイレクトメールや テレビCMなども地味になり、採用活動は正常化に向かっている。
 例年、採用活動のピーク時には、内定した学生を他社に奪われないようにするために、あの手この手の拘束が行われる。だが、今年は経費のかさむ拘束が沈静 化した。
 (…)
 質の高い人材を求める競争は、相変わらず激しい。その結果、いくつもの会社から内定をもらう学生が出る半面、多くの会社を回って空振りを続ける者もあ り、二極分化の傾向が際立ったのも今年の特色だ。
 これからの問題点は女子学生の就職難。企業の採用数の減り方が、男子より女子の方が大幅である。リクルートリサーチの調査によれば、大学男子の求人倍率 が2倍台を維持したのに対し、大学と短大を合わせた女子学生は0.93倍と、「1」を割り込んだ。
 証券、コンピューターソフト業界の大幅な採用減や産業界の事務部門合理化の動きが、事務職志望者の多い女子学生を直撃している。
 (…)」

    PKO協力法案成立
    改正大店法施行

1993年
    細川内閣誕生、55年体制の終焉
    平岩レポート(規制緩和)
    「業者テスト・偏差値廃止」の文部省通達

1994年
    政治改革4法案成立(小選挙区比例代表並立制の導入)
    「自・社・さ」連立による村山内閣誕生
    ニューヨーク市場で史上初めて1ドル100円割れ

    米、「学校から職業への機会法」「二〇〇〇年の目標法」制定

1995年
    阪神大震災
    地下鉄サリン事件
    日経連『新時代の日本的経営』
    経済同友会「学校から『合校』へ」
    経済審議会「次代を担う人材」
    就職「超氷河期」
    庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始(95・9〜96・3)

    WTO発足
    メージャー英政権、教育雇用省を創設

1996年
    「就職協定」廃止
    経済団体連合会「創造的な人材の育成に向けて」
    第一五期中央教育審議会第一次答申「二一世紀を展望した我が国の教育の在り方について」
    「RECRUIT BOOK on the Net」サービス開始(現:リクナビ)
    住専処理に6850億円の税金をつぎ込む
    母体保護法成立
    らい予防法廃止法
    米軍楚辺通信所の土地契約切れ
    沖縄米軍基地用地、代理署名命じる判決

    Ritzer, G., The McDonaldization of society, Pine Forge Press (正岡寛司監訳、1999、『マクドナルド化する社会』、早稲田大学出版部)

1997年
    消費税引き上げ、3%から5%へ
    金融機関の経営破綻が相次ぐ。山一證券廃業、北海道拓殖銀行経営破綻
    財政構造改革法成立(翌年停止)
    アイヌ保護法成立、北海道旧土人保護法廃止

    ブレア英首相、労働党の最優先政策を尋ねられ「教育、教育、そして教育」と答える
    クリントン米大統領、「すべての者が、八歳で読むことができ、十二歳でインターネットに接続でき、十八歳で大学に進むことができる」社会を目指 し、教育予算を大幅に増やすことを発表

1998年
    NPO法成立     改正外為法施行、金融ビッグバン
    長期信用銀行、日本債権信用銀行の一時国有化

    Giddens, A., The third way : the renewal of social democracy, Cambridge : Polity Press (佐和隆光訳、1999、『第三の道 : 効率と公正の新たな同盟』、日本経済新聞社)

1999年
    地方分権一括法成立(2000年施行)
    「このように旧来の文部省−教育委員会の「庇護」のもとにあった地方の教育行政や学校が一般行財政や政治の「舞台」に強く押し出されていくという のが今回の分権改革に連動した教育行政改革であり、学校の組織や管理運営の見直しは、そうした新しい「舞台」でその正統性を確保するための手段ともいえる ものであって上意下達の学校管理強化という文脈とは次元を異にすると考えた方が妥当であろう。」(小川正人「分権改革と地方教育行政」p.14)

    経済戦略会議最終答申     「日本技術者教育認定機構」発足
    2ちゃんねる開設
    改正男女雇用均等法施行
    周辺事態法、国旗・国歌法、通信傍受法、改正住民基本台帳法成立
    ピル承認
    石原慎太郎、東京都知事に
    iモードのサービスを開始

    WTOシアトル会議、大規模な抵抗運動が起こる。閣僚会議決裂のまま閉会
    ユーロ導入

2000年
    教育改革国民会議発足
    「21世紀日本の構想」懇談会編、河合隼雄監修『日本のフロンティアは日本の中にある――自立と協治で築く新世紀――』

     Reich B. R. THE FUTURE OF SUCCESS : Working and Living in the New Economy, Vintage Books (清家篤訳、2002、『勝者の代償 ニューエコノミーの深遠と未来』、東洋経済新報社)
    「アメリカ人はスローダウンするべきだとの声が、いっせいに高まるのが聞こえる。それにもかかわらず、われわれの多くは、逆にスピードアップして いる。われわれはかつてないほど家族を大切にしなければならないと叫んでいる。それなのになぜ私たちの家族は衰退し、家族のきずなはぼろぼろになってし まったのか。子どもの数が減り、あるいは子どもを持たない人が増加し、結婚も減少し、一時的な同棲が増え、食事の用意をしたり悩みを聞いたり相談相手に なったり、あるいは子どもの世話をしたりする家族機能の下請けビジネスがますます増殖している。また私たちはコミュニティの美点についてかつてないほど情 熱的に語っている。それにもかかわらず、私たちのコミュニティは、似たような所得の人々の集団に分裂している。富む者は壁で囲われ、ゲートで遮断され、貧 しい者は孤立し無視されている。」(p.9)

2001年
    「大学(国立)の構造改革の方針」

    Virno, P., Grammatica della moltitudine : per una analisi delle forme di vita contemporanee, Rubbettino Editore, Catanzaro (廣瀬純訳、2004、『マルチチュードの文法 現代的な生活形式を分析するために』、月曜社)
    「グローバル化された社会の本質的な局面――他のすべての局面がそこから生じるような局面――は、言語活動と労働との共生関係にあるように私には 思われま す。かつて、すなわち、マニュファクチュアの時代から始まったフォーディズム的工場の絶頂期までは、活動は無言のものでした。労働する者は、黙して語らな かったのです。生産は音を立てない鎖をなしており、また、この鎖においては、前後間の機械的でよそよそしい関係しかなく、あらゆる同時的な相互関係が排除 されていました。生きた労働は、機械システムの付属品として、自然な因果関係に従うことでその力を利用していました。これこそ、ヘーゲルが労働することの 「狡知」と呼んでいたものです。そして、この「狡知」は、周知の通り、寡黙なものでした。ポストフォーディズム的大都市においては、反対に、具体的な労働 過程は、言語活動行為の複合体として、一連の主張の系列として、あるいは、共生的な相互行為として経験的に描き出すことができます。というのは、一方で、 生きた労働の活動が、いまや、機械システムの傍らに位置付けられ、維持、監視、調整といった任務を与えられているからなのですが、他方で、とりわけ、生産 過程が、知、情報、文化、社会関係をその「第一質料」としているからです。
 労働する者は饒舌であり、そうでなければならない。ハーバーマスによって設定された「道具的行為」と「コミュニケーション的行為」との(あるいは労働と 相 互行為との)有名な対立は、ポストフォーディズム的生産様式によって根底から覆されることになります。(…)労働は相互行為そのものなのです。」(p.6 -7)

    「ポストフォーディズムにおいては、剰余価値を生産する者は、ピアニストや舞踏家のように、したがって、ひとりの政治家のように振る舞うのです (もちろん これは構造的な観点から見た場合のことです)。現代の生産においては、パフォーマンス芸術家の活動と政治家の活動とについてのアーレントの見解が清澄に鳴 り響いています。すなわち、労働するためには「公的構造を備えた空間」が必要だというものです。ポストフォーディズムにおいて、《労働》は、ひとつの「公 的構造を備えた空間」を必要としており、また、(作品を欠いた)名人芸的なパフォーマンスに似ることになるのです。このような公的構造を備えた空間を、マ ルクスは「協働」〔cooperazione〕と呼んでいます。社会的生産力がある一定の水準まで発展すると、労働的協働は、言葉でのコミュニケーション を自らのうちに取り込み、その結果、名人芸的なパフォーマンスに、あるいはまさに、政治的行動のひとつの複合体に、似てくるのだと言うことができるかも知 れません。
 職業としての政治についてのマックス・ヴェーバーの有名な議論を覚えていらっしゃるでしょうか。ヴェーバーは、政治家を特徴付ける様々な資質を列挙して います。すなわち、自分の魂の健康を危険に晒すことができること、信念の倫理と責任の倫理とのあいだの均衡、目的への没頭といったものです。この議論をト ヨティズム〔トヨタ主義〕――すなわち、言語活動に基づく労働、あるいは、認知能力の生産的動員――との関わりにおいて再読する必要があるかも知れませ ん。ヴェーバーの試論が私たちに教えてくれるのは、物質的労働において、今日、要請される諸々の資質についてのことなのです。」(p.91-93)

     アメリカ、中枢部への同時多発テロ。アフガニスタンに「報復」

2002年
    「ゆとり・生きる力」のカリキュラムが小中学校で施行(高校では2003年4月から)
    経団連と日経連が統合、日本経済団体連合会結成

2003年
    アメリカ、イラク侵攻
    有事法制成立

2004年


参考文献

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鈴木直次、1995、『アメリカ産業社会の盛衰』、岩波書店
田原総一郎、1987、『円を撃て』、講談社→1991、『「円」を操った男たち』、講談社
高木八尺・末延三次・宮沢俊義編、1957、『人権宣言集』、岩波書店
上前淳一郎、1979、『サンリオの奇跡 世界制覇を夢見る男達』、PHP研究所→1982、『サンリオの奇跡 夢を追う男たち』、角川書店
潮木守一、1978、『学歴社会の転換』、東京大学出版会
潮木守一、1993、『アメリカの大学』、講談社
渡辺治編、2004、『日本の時代史27 高度成長と企業社会』、吉川弘文館
Willis, P. E.,1977, LEARNING TO LABOUR How working class kids get working class jobs, Aldershot (熊沢誠, 山田潤訳、1996、『ハマータウンの野郎ども』、筑摩書房)
山田太一、1985、『山田太一作品集‐2 岸辺のアルバム』、大和書房
山崎広明・橘川武郎編著、1995、『日本経営史4 「日本的」経営の連続と断絶』、岩波書店
米本昌平・松原洋子・島次郎・市野川容孝、2000、『優生学と人間社会 生命科学の世紀はどこへ向かうのか』、講談社


REV: 20151222
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