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「就職」「若者」「労働」「教育」あたりの年表

製作:橋口昌治* 2004.09-



 *橋口昌治:はしぐち・しょうじ
  立命館大学大学院先端総合学術研究科(2003.4入学)
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/hs01.htm
 ※大学院のHPに移す予定ですが、とりあえずここに置きます。
  これから編集などして見やすくします。(立岩)

1786年
    タウンゼンド『救貧法論』
    「アダム・スミスからタウンゼンドへの時代の雰囲気の変化は、実にめざましいものであった。スミスは、トマス・モアやマキャヴェリ、ルターやカル ヴィンといった国家の創案者たちとともに始まった時代の終焉を画したのにたいし、タウンゼンドは一九世紀の人間であって、リカードやヘーゲルが各々の対極 的角度から国家の法に従属することなく、逆に国家をみずからの法則に従わせるような社会の存在を発見した時代の人であった。」(ポラニー『大転換』 p.151)

1787年
    ベンサム、円形監獄・パノプティコンを考案(1794年に議会で採用の決定がなされるも実現せず)
    「社会改革者のうちで最も実を結んだ人物ジェレミー・ベンサムが、貧民を大規模に使って、彼よりさらに発明の才ある弟のサミュエルのつくった機械 を運転して木材や金属の加工をさせる計画を立案したのは、それからちょうど一世紀後のことであった。サー・レスリー・スティーブンは、「ベンサムは弟と一 緒になって蒸気エンジンを探しもとめていた。そして今や、蒸気の代りに囚人を雇うことを思いついたのだ」といっている。これは一七九四年のことであった。 ジェレミー・ベンサムの円形監獄(パノプティコン)の計画は、監獄を安上りで効果的に監視できるように工夫されていたが、その計画は二年も前から存在して おり、彼は今やそれを自分の囚人経営工場に適用することを決意したのだ。そして貧民が囚人にとって代わるはずであった。(…)これによると二五〇を下らな い工場が設立され、そこに約五〇万人が収容されることになっていた。その計画にはさまざまの範疇の失業者について詳細な分析が付せられていたが、その分析 においてベンサムは、この領域での他の研究者の成果に比して一世紀以上も先んじていた。彼の分類好きな精神はその最善の場合には現実への適応能力を示しえ たのである。近年になってあらわれた「行き場のない職人」は、「偶発的不況」ゆえに雇用先を見つけだすことのできない者とは区別されていた。つまり、季節 労働者の「周期的不振」は「免職された職人」とは区別されていたのだ。そのような職人とは、たとえば「機械の導入によってはじき出さ」れた者、あるいは もっと近代的な言葉でいえば、技術的失業者のことであった。このグループは、ベンサムの時代に対仏戦争によって目立つようになったもう一つの近代的範疇、 すなわち「除隊職人」から構成されていた。しかしながら最も重要な範疇は上述の「偶発的不況」による失業者であった。それには「流行に左右される」仕事を している職人や工芸家ばかりでなく、それよりはるかに重要な「全般的工業不況が発生したばあいの失業者グループが含まれていた。ベンサムの計画は、失業者 を大規模なスケールで商品化することを通して景気の循環を平準化するものにほかならなかったのだ。」(ポラニー『大転換』p.143-145)

    「密集せる多人数、多種多様な交換の場、互いに依存し共同するさまざまな個人、集団的な効果たる、こうした群集が解消されて、そのかわりに、区分 された個々人の集まり〔という新しい施設〕の効果が生じるわけである。看守の観点に立てば、そうした群衆にかわって、計算調査が可能で取り締まりやすい多 様性が現われ、閉じ込められる者の観点に立てば、隔離され見つめられる孤立性が現われるのだ。
 その点から生じるのが〈一望監視装置〉(パノプティック)の主要な効果である。つまり、権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉 じ込められる者にうえつけること。(…)」(フーコー『監獄の誕生』p.203)

1789年
    ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』

1790年
    本居宣長『古事記伝』刊行始まる(〜1822年、起稿1764年、脱稿1798年)
    イマヌエル・カント『判断力批判』第一版出版

    バーク『フランス革命の省察』
    「敢えて言うならば、水平化を試みる人間は決して平等を生み出さない。市民の多様な階層から成り立つ社会では、必ずや一部の人々が高い地位を占め るはずであり、従って、水平化する人間は事物の自然的秩序を改変し歪曲するだけである。」(岩波文庫版(上) p.92)

    アメリカで世界初の国勢調査
    「アメリカ合衆国、ピッツバーグの博物館には、新設されたネイティブ・アメリカンの展示場がある。このビデオの中で、ある女性が「私たちインディ アンはこれまでいろいろな形で白人に殺されてきた。ある時は銃で、ある時は病気で。しかしセンサスによって皆殺しにされた」と一人語りのように語っていた のが印象的であった。それは初期の国勢調査では、課税されていないインディアンは国勢調査人口にされなかったことを意味している。換言すれば、当時のアメ リカにインディアンは存在しなかったことになる。別立ての調査票を使って、保留地のインディアン人口について初めての調査が行われたのは1900年であっ た。」(青柳真智子編『国勢調査の文化人類学』p.11)

1791年
    混浴禁止令
    「構造化された体系が、本来、矛盾・対立の関係を内在する支配の体系であることを繰返すまでもないものとするなら、構造化の未成立な状態は、矛 盾・対立の関係を容易に運動に転化せしめる状況であることも明らかである。細民層の貨幣である銭の金銀貨に対する価値の低下によつて増幅された日常生活物 資の小売価格の急激な騰貴に基く生活難という起爆材が、まず場末町細民層を蜂起させ、それが一応構造化されていた中心部細民層の広範な運動を誘発させた。 江戸大打毀の経過の示すものが、そこに存するとみるのである。
 それ故にこそ、打毀後の江戸町政の力点のひとつは、場末町の構造化に据えられたのであつたと思う。男女混浴禁止令は、湯屋組合の番組制への組織化を町民 一般の反対にも拘らず強行しようとする権力側の意図につらなるものであつたことを思い起すならば、それは単なる風俗矯正を目的としたものではなく、場末町 対策の一環であつたと解すべきであると筆者は考えるのであり、そこには構造化されていた筈の中心街細民層の蜂起に表われている在来の体系的秩序の大きな揺 らぎと共に、近世都市の歴史に一時期を画する天明江戸大打毀の意味と、事態を収拾しようと計る権力側の政策意図の方向を理解するための、ひとつの手掛りが 含まれていると思うのである。」(中井信彦「寛政の混浴禁止令をめぐって」『史学』p.128-129)

    モーツアルト『魔笛』『レクイエム』

1792年
    コンドルセ「公教育の全般的組織についての報告と法案」
    「教育の目的
 諸君、
 人類に属するすべての個人に、みずからの欲求を満たし、幸福を保証し、権利を認識して行使し、義務を理解して履行する手段を提供すること。  各人がその生業を完成し、各人が就く権利のある社会的職務の遂行を可能にし、自然から受け取った才能を完全に開花させ、そのことによって市民間の事実上 の平等を確立し、法によって認められた政治的平等を現実のものにする方策を保証すること。
 これらのことが国民教育の第一の目的でなければならない。そしてこの観点からすれば、国民の教育は公権力にとって当然の義務である。」(コンドルセ他著 『フランス革命期の公教育論』p.11)

    ラボー・サン=テチエンヌ「国民教育案」
    「国民教育は心を鍛えなければならない。公教育は知識を与え、国民教育は美徳を与えなければならない。前者は社会の輝きをなし、後者は社会の内実 と力をなすであるだろう。公教育には、リセやコレージュやアカデミーや書物や計算の道具や方法が必要であり、壁のなかに閉じこもって行なわれる。国民教育 には、円形競技場や体育館や武具や公開競技や国民の祭典が必要であり、年齢や性別にかかわらない友愛の競技会、威厳に満ちた甘美な人間社会の結集のスペク タクルが必要である。国民教育は広い空間と野外で行なわれる自然のスペクタクルを要求するのである。国民教育は全員に必要な栄養物であり、公教育は若干の 人々の分け前である。両者は姉妹だが、国民教育が姉である。それどころか、国民教育は全市民の共通の母である。国民教育は、全市民に同じ乳を与え、彼らを 兄弟として育て扱い、共通の心遣いによって、このように育てられた人民を他のすべての人民から分かつ、たがいに似通った家族的雰囲気を彼らに与えるのであ る。したがって、国民教育の全原則は揺りかごの段階から、さらに誕生の前から人間をとらえることにある。生まれる前からというのは、子供は生まれる前から 祖国に属しているからである。国民教育はすべての人間をずっととらえつづけるのであり、したがって国民教育は、子供のためというのではなくて人生全体のた めの制度なのである。」(コンドルセ他著『フランス革命期の公教育論』p.158-159)

    ロシア使節ラクスマンが、漂流民大黒屋幸(光)太夫を移送し根室に来航。通商を求める

1793年
    喜多川歌麿『寛政三美人』
    フランス、旧制度の特権的団体としてパリ大学を廃止
    ルーブル美術館開館

    ルペルティエ「国民教育案」
    「体力と健康につづいて、公立学寮が全員に与えるべき計り知れない利益がある。私が言いたいのは労働の習慣である。
 ここではあれこれの産業については何もふれない。しかし一般に、骨の折れる仕事に取り組む勇気、それを実行する活動、それをつづける粘り強さ、達成する 根気、これらこそ勤勉な人間の特徴だと考えている。
 このような人間を育てたまえ。そうすれば、共和国はまもなく壮健な要素で形作られ、農業と産業の生産物は倍加するであろう。
 このような人間を育てたまえ。そうすれば、ほとんどすべての犯罪は消滅するだろう。このような人間を育てたまえ。そうすれば、貧困の忌まわしい光景が諸 君の目を悲しませることはもはやなくなるであろう。
 諸君の若い生徒たちの心のなかに、このような好み、欲求、労働の習慣を作り出したまえ。そうすれば、彼らの生活は保障され、彼らは自分自身にしか依存し なくなるであろう。」(コンドルセ他著『フランス革命期の公教育論』p.188-189)

    ロム「共和暦についての報告」
    「市民諸君、
 私は、公教育委員会の名において、諸君が委員会に求めた共和暦にかんする審議の結果を提案し、諸君の審議にゆだねよう。
 諸君は、技術と人間の精神の進歩にとってもっとも重要で、革命期にしか成功しない仕事の一つを企てた。すなわち、たえず商業と産業を阻害してきた度量衡 の多様性、一貫性の欠如、不正確さを解消し、地球の尺度そのものにもとづいた、単一で不変の新しい尺度のタイプを採用することである。
 技術と歴史にとって、時間は一つの要素ないし道具であり、技術と歴史は、また、時間の新しい尺度、すなわち、信じやすい人々と迷信に満ちた因習によって 同じように無知の時代から現代まで伝えられてきた誤謬から解放された時間の新しい尺度を、諸君に求めている。」(コンドルセ他著『フランス革命期の公教育 論』p.239-240)

1794年
    東洲斎写楽『市川鰕蔵』

    フランス、エコール・ポリテクニーク創設
    「まずわれわれは一九七四年という創設の年代に注目する必要がある。まさにフランス革命のさなかである。当時のフランスはヨーロッパ諸国と戦って いた。隣国との戦争に勝利するためには、優れた高級技術将校が欠かせなかった。その当時、フランスにも中世に起源を持つ大学はあった。しかし、ドイツの章 でも触れたように、当時の大学はすでに教育活動、研究活動が低下し、人材育成の責任を果たせる状態ではなかった。だからナポレオンは大学を廃止してしまっ た。その後、フランスは一八九六年まで、大学不在の時代に入る。(…)
 こうした空白状態を埋めるために登場したのがエコール・ポリテクニークである。はじめは、革命、それに引き続く混乱期の人材不足に応じるための臨時的な 養成所であったが、それだけでは終わらなかった。大学が消滅した後のフランスにとっては、理工系の理論と技術を教育する唯一の高等教育機関となった。 (…)
 この学校は日本語に翻訳される時「陸軍理工科学校」と訳されることがあるが、その理由は、文部省所管ではなく、国防省の所管であるためである。名称か ら、その卒業生が軍務に就くものと思われがちだが、現在では軍務に就くものは一割以下でしかない。しかし入学すると、まず一年間は軍務に就き、二年目から 教育が始まる。つまり三年間の教育課程だが、実質的には二年間しかないので、卒業後、さらにほかのグランゼコールに進学するものが多い。」(潮木守一『世 界の大学危機』p.124-125)

1795年
    スピーナムランド法制定
    「イギリスでは、労働に先んじて、土地と貨幣が流動化された。労働についてはその物理的移動にたいする厳しい法的制限によって、全国的な労働市場 の形成が妨げられていた。というのは、労働者は、事実上、教区に拘束されていたからである。一六六二年の定住法は、いわゆる教区農奴制の規則を定めていた が、それは一七九五年にいたりようやく緩和された。この緩和措置は、もしも同年にスピーナムランド法もしくは「給付金制度」が導入されなかったとすれば全 国的な労働市場の確立を可能にしていたことであろう。このスピーナムランド法の意図するところとは逆であった。すなわち、それはテューダー朝やステュアー ト朝から継承されてきた温情主義的な労働組織のシステムを強力に補完するものであった。一九七五年五月六日――当時は、大変な不況の時期であった――に、 ニューベリーに近いスピーナムランドのペリカン館に会したバークシャーの治安判事たちは、賃金扶助の額はパンの価格に応じて決められるべきであり、した がって貧民の個々の所得に関係なく最低所得が保証されるべきだと決定した。(…)なるほど、賃金システムがスピーナムランドで認められたような「生存権」 の撤廃を絶対に必要としているということは何にもまして自明なことであった。新しい、経済人の体制の下では、何の労働もせずに生計を立てられるものとすれ ば誰も賃金のために働きはしないであろうから。」(ポラニー『大転換』p.104-105)

    メートル法制定

1798年
    マルサス『人口論』
    「貧しい労働者の安楽が、労働の維持に予定されている基金の増大に依存するものであり、そして、この増大の運動にきわめて正確に比例することは、 ほとんどあるいはまったく、うたがいの存在しえないことである。このような増大がひきおこす労働需要は、市場での競争をつくりだすことによって、必然的に 労働の価値を騰貴させるにちがいないし、また必要な数の追加労働者が成長するまで、増大した基金は、増大する前と同じ人数に分配され、したがってすべての 労働者が比較的安楽に生活するであろう。しかしおそくら、アダム・スミス博士は、社会の収入あるいは資材のすべての増大がこれら基金の増加であると考えて いることで、まちがっている。このような剰余の資材あるいは収入は実際つねに、それを所有する個人によって、もっとおおくの労働を維持できる追加基金と考 えられるであろうが、しかしそれは、社会の資材あるいは収入の増大の全部、あるいはすくなくとも大部分がそれに比例した量の食料にかえられないかぎり、追 加労働者数の維持のための真実かつ有効な基金ではないであろうし、またそれは、その増加が労働の生産物からだけ生じたのであって、土地の生産物から生じた のではないばあいには、食料にかえられるものではないであろう。このばあい、社会の資材が雇用しうる労働者の数と土地が扶養しうるその数との区別が、生じ るであろう。」(角川文庫版 p.177-178)

    「この国の対外ならびに対内取引はたしかに、前世紀に急速に増大した。ヨーロッパ市場において、その土地と労働との年々の生産物の交換価値は、う たがいもなくひじょうにおおきく増大した。しかし、検討してみると、その増大はおもに労働の生産物についてであって、土地の生産物ではなく、したがって国 民の富ははやい速度で増大してきたけれども、労働の維持のための有効な基金ははきわめてゆっくりとしか増大せず、そしてその結果は、予期されるとおりのも のであることが、わかるであろう。国民の富の増大は、貧しい労働者の状態を改善する傾向をほとんど、あるいはまったくもたない。かれらは、生活必需品と便 宜品にたいする支配権を増大させていないと、わたくしは信じる。そして、かれらのうち、(名誉)革命の時期よりはるかにおおくの部分が、製造工業に雇用さ れて、密閉した不健全な部屋にむらがっている。」(p.180-181)

1799年
    ブリュメールのクーデター。ナポレオンが総裁政府を倒し、執政政府を樹立

1800年
    オーウェン、「ニューラナーク撚糸会社」設立
    「オウエンが近代的労務管理制度の先駆者と言われるゆえんは、彼の方法、つまり「人間性に関する知識」を意識的に適用した点である。(…)
(…)
 オウエンは、賞罰など、外から加えられる力によって、人間を操ることを適切なものとは考えなかった。内発的に労働意欲を引きだすことが環境決定論の眼目 である。日報制も「サイレント・モニター制」も、ともに工場の動態を数量的に把握できるようにした点で合理的な管理方法であった。また、労働の評価は現場 の管理者が一方的に下すのではなく、労働者がその判断に不満である場合には、上級の管理者に不服を申し立てる権利を認めていた。双方向の対話が成りたつ余 地を残すことによって、納得のいく公正な評価となるシステムを構築しようと心がけていた。一種の「不服審判」制度の先駆となる発想である。」(土方直史 『ロバート・オウエン』p.28-29)     「労働意欲が内発的に引きだすためには、経営者側の意図が、労働者に素直に理解され、両者の間に信頼関係が築かれなければ効果的ではない。次の二 つの方策が有効であった。一つは、工場の売店では、全商品を原価で販売するという方針がとられた。当時、雇用主は賃金の一部を現物で支給することが一般的 であった。その場合、しばしば高い価格がつけられたり、粗悪品が支給されることがあった。良質な商品が公正な価格で供給されれば、販売者たる雇用主への信 頼を高めることは言うまでもない。「公正な取引」が日常生活のなかで実感されるというメリットがあった。
 もう一つは、人間の性格そのものを教育によって変えて、永続的に労働意欲を向上させる企画であった。そのために、工場の敷地内に学校を設立するとの計画 が構想された。(…)」(p.30)

    伊能忠敬、蝦夷を測量

    ワシントンD.C.に遷都

1801年
    グレートブリテン王国とアイルランド王国が合同し、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国成立

    イギリス、第一回国勢調査
    「イギリスにおいて非常時の軍隊規模の把握、移民政策の策定などを目的として国勢調査実施案が初めて下院を通過したのは、実はこれより半世紀も早 い1753年であった。しかしこの時は上院での審議前に議会が終了し、法案は失効してしまった。国勢調査施行に対する反対者も多く、彼らは、人口統計はイ ギリス国民の自由制限に直結するものであり、新たな課税や徴兵に道を開くことになる、さらに貴重な情報を公表することは、イギリスの敵を利するものである と論じた。
 しかしその後、食料は算術的級数で増加するのに対して、人口は幾何学的級数で増加することを唱えたマルサスの『人口論』が1798年に出版された。この 時期イギリスは1795年以来の凶作で、マルサスの人口論は現実味を帯びていた。こうした状況のもとで人口統計の必要性が再認識されるようになり、法案 「グレートブリテン人口統計とその増加ないしは減少に関する法案(for taking an Account of the Population of Great Britain, and of the Increase or Diminution thereof)」が議会に上程され可決されたのは、1800年のことであった(…)。
 第1回の国勢調査は、1801年3月10日にイングランドとウエールズにおいて実施され、これ以後10年目ごとに調査を行うことが決定された。1831 年までの4回の国勢調査は、教区民生委員(overseers of the poor)や教区(parish)の有力者などの手によって行われている。」(青柳真智子編『国勢調査の文化人類学』p.15)

1802年
    イギリス、最初の工場法制定
    徳川幕府、蝦夷奉行を置く(後に箱館奉行となる)
    十返舎一九『東海道中膝栗毛』(〜1822年)
    
1804年
    ナポレオン、フランス皇帝となる

    太田蜀山人、日本人として初めてコーヒーを飲んだ記録を残す
    「焦げ臭く、味わふに堪えず」

1805年
    トラファルガーの海戦

1806年
    神聖ローマ帝国終焉

1807年
    西蝦夷地を幕府直轄化、全蝦夷地が直轄化される。箱館奉行を廃止し松前奉行を置く

    イギリス、奴隷貿易廃止法成立
    ヘーゲル『精神現象学』

1808年
    間宮林蔵、樺太を探検

    フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』
    ゲーテ『ファウスト』第1部出版(〜1832年)
    アメリカ、奴隷貿易を禁止

1809年
    式亭三馬『浮世風呂』
    「三馬が三笑亭可楽の落語に取材して『浮世風呂』を書いて刊行したのは一八〇九年。四迷が三遊亭円朝の『怪談牡丹灯篭』の文体に着目して『浮雲』 を書いて刊行したのは一八八七年。この八十年の差には決定的な違いがあると、当時は誰もが信じていた。戯作と文学の違い、芸人と芸術家の違いである。中村 光夫たちは、彼らが信じていたそのことを額面通りに受け取って、その理想主義をさらに拡大させた。それだけのことにすぎない。
 だが、三馬も四迷も、落語家の話芸に着想をえたことに変わりはないのである。文語が口語への関心を捨てることもなければ、その逆もない。太宰治が自身を ほとんど落語家と見なしたのは、文学者の本能というべきだろう。」(三浦雅士『青春の終焉』p.209)

1810年
    ドイツ、ベルリン大学発足
    「ベルリン大学は宗教公教育庁長官W・v・フンボルトの献身的努力によって、しかし彼がその職をすでに去ったあと、一八一〇年十月、教授陣総数五 八名、学生数二五六名(内自邦出身者一五二名)をもって開講された。この大学は、伝統的なウニヴェルジテートの名称とその団体原理および四学部制を保持 し、諸学問を有機的に統一する総合大学として成立した。そこではまた、それまで下級学部としての性格を払拭しえなかった哲学部がほかの三学部と同格にな り、大学が学問の批判的研究と教授を二つの柱とする自治的共同体として組織され、同時にその研究・教授を自主・自律的に遂行するための自由(大学の自由) が、出版の自由をも含めて、原理的に確認された。しかもそこで確認された大学の自由が学生の学習の自由を再確認し、さらに遊学(転学)の自由にまで及んで いたことは、この大学がもはや領邦大学でなく、まさしく全ドイツ的・国民的大学であることを示していた。」(仲新監修『学校の歴史 第4巻 大学の歴史』 p.323-324)

    「フンボルト理念という言葉で、人々はさまざまなことを語るが、たとえば、スウェーデンの高等教育研究者ニボーンは、次の五つを挙げている。
(1)研究と教育の統一、(2)さまざまな学問の統合、(3)研究の重視、(4)高度な教育が人格の陶冶につながるという信念、(5)学術、科学、人間形 成を政府の責任事項として強調している点。
 ニボーンはこの五つを挙げているが、筆者としては、これに加えて、次の二点を追加しておきたい。(6)大学運営に要する経費を国家から直接支出する「国 営大学」方式が、ベルリン大学とともに登場したこと、(7)教授の選考を学部教授会に任せずに、国家行政機構のもとに置いたこと、この二つである。
(…)
 また現代では、大学の教師が研究をすることは、当然の職務とされているが、かつてはそうではなかった。大学教授の職務は学生を教えることで、研究するこ とは必ずしも教授の職務のなかに入っていなかった。研究をしなくとも、それで職務怠慢として非難されることはなかった。しかしベルリン大学創設の頃から、 学生を教育する仕事と並んで、研究が大学教授の職務のなかに加えられることとなった。つまり大学教授は、教師であると同時に、専門研究者であることが期待 されるようになった。大学教授の能力・資格を研究成果で判定する方式は、一九世紀初頭のドイツの大学から始まったと、筆者は見ている。」(潮木守一『世界 の大学危機』p.54-55)

1812年
    ナポレオン、モスクワ遠征
    米英戦争はじまる(〜1814年)

1813年
    オーウェン『社会に関する新見解』(〜1814年)
    「このように不幸な境遇に置かれた第一の人たちは、労働階級中の貧困で無教養なならず者たちであって、彼らは今罪を犯すよう仕込まれ、そしてその 犯罪のために、後になると罰せられる。」(「世界の名著」42巻 p.103)

    「この諸原理は、すべての国の統治者たちが、その臣民の教育と一般的な性格形成のために、合理的な計画を立てるべきことを指示する。(以下、傍点 略・引用者)これらの計画は、子どもたちを、最も幼い時期から、あらゆる種類の良い習慣〔それは、もちろん。子どもたちが嘘をついたり、人をだましたりす る習慣に染まることを防ぐだろう〕にしつけるよう、工夫されていなければならぬ。彼らはその後に、合理的に教育され、彼らの労働は人の役にたつよう導かれ ねばならぬ。かかる習慣と教育とは、あらゆる個人――宗派や党派や国や風土によって差別するようなことは毛頭なく――の幸福を増進させよう、という積極的 で熱烈な願いを、彼らに強く抱かせるであろう。かかる習慣と教育はまた、ほとんど例外なしに、身体の健康と強さと活力を保証するであろう。なぜなら、人間 の幸福は、健康な肉体と安らかな心という土台の上にのみ、築かれうるからである。」(p.109)

    「オーウェンはキリスト教を、「個人主義」という点で、すなわち、人格の責任を個人に負わせ、かくして社会の現実と人格形成に与える強い影響を否 定しているとして非難したのである。「個人主義」を攻撃する真意は、人間のもろもろの動機は社会にその起源があるのだという彼の主張のうちにあった。すな わち、「個人個人となった人間、およびキリスト教において真に価値があるとされるものはすべて、あまりにも分断されているため、およそ結合することなど未 来永劫にわたってありえないのである。」オーウェンがキリスト教を乗り越え、さらに進んだところへと到達したのは、ほかでもない社会の発見によってであっ た。社会は実在するがゆえに、人間は結局それに従わねばならぬという真理を彼は把握した。彼の社会主義は、社会の現実についての認識を通してなされるべき 人間意識の改造にもとづいていたといえよう。」(ポラニー『大転換』p.172-173)

1814年
    スティーブンソン、蒸気機関車を開発

    滝沢馬琴『南総里美八犬伝』起筆(〜1842年)
    葛飾北斎『北斎漫画』

1815年
    ワーテルローの戦い
    ウィーン条約

    杉田玄白『蘭学事始』

1816年
    ラダイト運動激化
    1ポンドの金貨鋳造をはじめる、金本位制のはじまり

    琉球にイギリス船に来航、通商を求めた

1817年
    リカード『経済学および課税の原理』

1818年
    ヘーゲル、ベルリン大学の正教授に着任
    メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』

1819年
    小林一茶「おらが春」
    「目出度さも ちう位也 おらが春」

1821年
    ヘーゲル『法の哲学』
    「イギリス人が快適な(comfotable)と呼ぶところのものは、まったくきりのないものであって、無限に進んでゆくものである。というの は、どんな便利なものもふたたび不便さを示すし、こうした新工夫には限りがないからである。だから欲求は、直接欲求している人々によって作り出されるより もむしろ、その欲求が生じることによって儲けようとする人々によって作り出される。」(「世界の名著」44巻 p.424)

    「ところで労働における普遍的で客観的な面は、それが抽象化してゆくことにある。この抽象化は手段と欲求との種別化をひきおこすとともに、生産を も同じく種別化して、労働の分割(分業)を生み出す。個々人の労働活動はこの分割によっていっそう単純になり、単純になることによって個々人の抽象的労働 における技能も、彼の生産量も、いっそう増大する。
 同時に技能と手段とのこの抽象化は、他のもろもろの欲求を満足させるための人間の依存関係と相互関係とを余すところなく完成し、これらの関係をまったく の必然性にする。生産活動の抽象化は、労働活動をさらにますます機械的にし、こうしてついに人間を労働活動から解除して機械をして人間の代わりをさせるこ とを可能にする。」(p.428-429)

1822年
    スタンダール『恋愛論』

1823年
    二宮尊徳、野州桜町に赴任
    モンロー宣言
    サン=シモン『産業階級の教理問答』

1825年
    オーウェン、アメリカで理想社会ニューハーモニー=コミュニティの建設を開始(1828年失敗)

    文政の外国船打払令

1828年
    イギリス、ユニヴァーシティ・カレッジ開校(現・ロンドン大学)
    「一九世紀のなかばまで、オックスブリッジはイギリス国教徒でなければ、入学できなかった。しかしその当時イギリスには、イギリス国教徒とは異 なった宗教を信じる人々(非国教徒。ディセンターズDissentersといった)がおり、しかも彼らの多くは実業界で活躍していた。こうした経済的実力 を蓄えはじめた非国教徒にとっては、オックスブリッジの宗教的閉鎖性(それと階級的閉鎖性)は批判の標的となった。そこで彼らの民間資金を集めて、株式会 社組織をもとに、一八二七年一〇月、ロンドン大学の前身(正式にはユニヴァーシティ・カレッジと称した)を開校した。オックスフォード、ケンブリッジに対 抗するためである。
 当然のことながら、この学校は国教徒でなければ入学できないといった宗教上の制限を撤廃した。さらにまたどのような所得層でも入れるように、できるだけ 教育コストを削減するため、全寮制をとらず、通学制を採用した。さらにまた教育内容面でも革新を図り、オックスブリッジでは教育していない教科、たとえば 医学、法学、経済学、工学などの教科を取り入れた。オックスブリッジは都市から離れた田園地帯にあったが、ロンドンの新しいカレッジは、だれでも容易に通 学できるよう、ロンドンの街中に作られた。今日流にいえば、それは「都市型大学」のはしりである。」(潮木守一『世界の大学危機』p.22)

1829年
    キングス・カレッジに設立勅許状が与えられる
    「このようにして登場したロンドンのユニヴァーシティ・カレッジに対しては「信仰心の欠けた大学」、あるいは「バブル時代の産物、学位授与権も持 たない、ロンドンの下町の少年相手のインチキ合資基金学校」といった悪口が飛び交った。ロンドンの街中にこうした学校が出現すると、国教会側も黙って見て いるわけにはいかない。こうした動きに対抗するために、ただちに国教会の教義に基づいた学校を設立した。その学校とはキングス・カレッジである。」(潮木 守一『世界の大学危機』p.23)

1830年
    リヴァプール・マンチェスター間に鉄道開通

    シャルル10世、アルジェリア侵攻
    フランス7月革命、「国民王」ルイ・フィリップ即位し立憲君主制へ移行

    スタンダール『赤と黒』
    ドラクロア『民衆を導く自由の女神』
    ショパン「革命のエチュード」(12の練習曲 Op10-12 ハ短調)

1831年
    葛飾北斎『富嶽三十六景』初版
    十返舎一九病死
    「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙りと共に 灰左様なら」(辞世の句)

    ベルギー王国成立(オランダから独立)
    バルザック『ゴリオ爺さん』

1833年
    イギリス、学校教育への国庫助成開始

    歌川広重「東海道五拾三次之内」

1834年
    イギリス、改正救貧法制定
    「市場システムの落とし穴は、すぐには明らかにならなかった。これをはっきりと確認するためには、イギリスの労働者が機械の導入以降蒙った有為転 変の経過をいくつかに時代区分してみなければならない。まず、一七九五年から一八三四年のスピーナムランドの時期の転変。ついで、一八七三年以後一〇年間 の救貧法修正によって生じた困窮。そして第三に、一八三四年以降の、有害な結果をもたらした競争的労働市場の時期――労働組合の意義が認識され十分な保護 が与えられるにいたった一八七〇年代まで――。年代記的にいえば、スピーナムランドは市場経済に先行した。そして、修正救貧法の一〇年間は市場経済への移 行期であった。最後の時代は前の時代と重なるが、まさに市場経済の時代そのものであった。
 三つの時代は、はっきりと異なっていた。スピーナムランドは、大衆のプロレタリア化を妨げることを狙っていたか、あるいは少なくともそれを遅らせようと するものであった。その結果もたらされたものは大衆の貧困化にほかならず、彼らはその過程で、人間としての姿をほとんど失ってしまった。
 一八三四年の救貧法改正は、労働市場にたいするこうした障害を取り払った。つまり、「生存権」は廃棄されたのである。その法律の科学的な残酷さは一八三 〇年代や一八四〇年代の大衆の感情にとって極めて衝撃的であって、当時の強烈な抗議は後世の目に映る像を曇らせたほどであった。(…)
 第三の時期の問題は、それとは比較にならぬほど一層深刻であった。一八三四年以降新たに中央に集中された救貧法当局から貧民にむけられた官僚主義的な残 虐行為は散発的なものにすぎず、あらゆる近代的諸制度のうちでもっとも強力な労働市場の万能的効果に比べれば無に等しかった。労働市場は、それがもたらし た脅威の大きさという点ではスピーナムランドと似たものであったが、競争的労働市場の欠如ではなくその存在が今や危機の源泉であるという点において、以前 とは異なっていた。スピーナムランドが労働者階級の出現を妨げていたとするならば、いまや労働貧民は、見えざるメカニズムの圧力によって労働者階級へと形 成されつつあったのである。(…)スピーナムランドが退廃的な居心地良い困窮を意味していたとするならば、いまや労働者は社会において帰るべき所を失って いたのだ。スピーナムランドが隣人、家族、農村環境といった諸価値を酷使していたとするならば、いまや人々は家庭や親族から引き離され、その根を断ち切ら れ、効ある環境すべてから引き離されたのであった。要するに、スピーナムランドが不動性から生ずる腐敗を意味していたとするならば、いまや危険は生身をさ らすことから生ずる死の危険であった。
 一八三四年になってはじめて、イギリスに競争的労働市場が確立した。それゆえに社会システムとしての産業資本主義は、それ以前に存在したとはいえないの である。だが、ほとんど間を置かずに、社会の自己防衛が開始された。すなわち、工場法・社会立法および政治運動・工業労働者階級の運動が出現したのであ る。防衛行動が、そうした市場メカニズムのもつまったく新たな危険を食い止める試みにおいてであった。一九世紀の歴史は、市場システムが一八三四年の修正 救貧法によって解き放たれて以降、市場システム固有の論理に規定されたといっても、決して言いすぎではない。この動態(ダイナミクス)がスピーナムランド 法であった。」

1835年
    トクヴィル『アメリカの民主政治』

1836年
    ロンドン大学設置
    「現在日本では認証評価機関のことが話題を集めているが、その当時のイギリスの設置認可機関といえば、王室しかなかった。王室が新たに作られた大 学にロイヤル・チャーターを発行して、はじめて大学であることが公認され、そこの発行する学位が正式に公認されることになっていた。キングス・カレッジに はいち早くこのロイヤル・チャーターが与えられたが、ユニヴァーシティ・カレッジにロイヤル・チャーターを授与するか否かは、大きく意見が分かれた。 (…)
 結局のところ、両派で妥協が図られた。一八三六年になって、相対立する二つの学校の一つ一つにロイヤル・チャーターを授与するのではなく、両方の学校の 学生を試験し、その結果に基づいて学位を授与する機関として、「ロンドン大学」が設置された。そしてロイヤル・チャーターはこの「ロンドン大学」に授与さ れることとなった。その意味で、ロンドン大学は、教育機能を持たない、試験機関兼学位授与機関として成立した。教育はユニヴァーシティ・カレッジとキング ス・カレッジの両方で行われることとなった。(…)」(潮木守一『世界の大学危機』p.23-24)

    イギリス、出生・死亡・婚姻登録法制定

    テキサス共和国独立(〜1845年)

1837年
    大塩平八郎の乱

    ヴィクトリア女王即位

1838年
    ロンドン労働者協会が人民憲章を公表。チャーティスト運動起こる

1839年
    蛮社の獄

    イギリス、反穀物法同盟成立

    キルケゴール『死に至る病』

1840年
    アヘン戦争(〜1842年)
    イギリス、ペニー・ブラックと呼ばれる世界初の郵便切手を発行。近代郵便制度の始まり

    プルードン『所有とは何か』
    「所有とは盗みである」

1841年
    フリードリッヒ・リスト『経済学の国民的体系』

1842年
    南京条約

    バクーニン「ドイツにおける反動、一フランス人の覚え書きより」
    「破壊を求める情熱はまた創造する情熱なのだ」

1844年
    イギリス、兌換紙幣の発行始める

    コント『実証的精神論』
1845年
    テキサス共和国がアメリカ合衆国のテキサス州となる
    ジョン・オサリヴァンが「USマガジン・アンド・デモクラティック・レヴュー」誌で「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」という言葉を使 う

1846年
    イギリス、穀物法改正
    教師見習制の導入

    カリフォルニア共和国成立後、アメリカに吸収合併
    米墨戦争

1847年
    ギゾー「選挙権が欲しければ金持ちになればいいのだ。すぐにデモを解散しろ」

    大英博物館完成

1848年
    フランス2月革命、第2共和制開始
    ドイツ・オーストリア3月革命、フランクフルト国民会議

    マルクス=エンゲルス『共産党宣言』
    「ブルジョア階級は、世界市場の搾取を通して、あらゆる国々の生産と消費とを世界主義的なものに作りあげた。反動家にとってはなはだお気の毒であ るが、かれらは、産業の足もとから、民族的な土台を切りくずした。遠い昔からの民族的な産業は破壊されてしまい、またなおも毎日破壊されている。これを押 しのけるものはあたらしい産業であり、それを採用するかどうかはすべての文明国民の死活問題となる。しかもそれはもはや国内の原料ではなく、もっとも遠く 離れた地帯から出る原料にも加工する産業であり、そしてまたその産業の製品は、国内自身において消費されるばかりでなく、同時にあらゆる大陸においても消 費されるのである。国内の生産物で満足していた昔の欲望の代りに、あたらしい欲望があらわれる。このあたらしい欲望を満足させるためには、もっとも遠く離 れた国や気候の生産物が必要となる。昔は地方的、民族的に自足し、まとまっていたのに対して、それに代ってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面に わたる依存関係があらわれる。物質的生産におけると同じことが、精神的な生産にも起る。個々の国々の精神的な生産物は共有財産となる。民族的一面性や偏狭 は、ますます不可能になり、多数の民族的および地方的文学から、一つの世界文学が形成される。」(岩波文庫版 p.44)

1849年
    カリフォルニアでゴールドラッシュ

    ソロー「市民の反抗」

1850年
    オックスフォードおよびケンブリッジ大学に対する王立調査委員会設置

    ホーソーン『緋文字』

1851年
    太平天国の乱

    ワシントン−ボルチモアの間に電車が開通。世界最初の電車
    「ニューヨーク・タイムズ」創刊

    イギリス、オウエンズ・カレッジ設立
    ロンドン万国博覧会開催

    メルヴィル『白鯨』

1852年
    ナポレオン3世が皇帝。第二帝政はじまる
    マルクス『ルイ・ボナパルト、ブリュメール18日』

    ハリエット・ストウ『アンクルトムの小屋』

1853年
    ペリー提督らの黒船、浦賀へ来航

    クリミア戦争勃発
    リーバイ・ストラウス、ジーンズを発売

    プルードン『株式投資マニュアル』

1854年
    日米和親条約

    ソロー『ウォールデン-森の生活』
    シャーロック・ホームズ生まれる

1855年
    幕府が蝦夷地全域を直轄地とする
    
    ホイットマン『草の葉』

1856年
    アロー戦争

1857年
    セポイの乱

    吉田松陰が松下村塾の主宰者となる
    「夷人(いじん)」「蝦夷人(えぞじん)」と呼ばれていたアイヌの呼称を「土人(どじん)」に統一

    フローベール『ボヴァリー夫人』(無罪判決の後)

1858年
    日米修好通商条約など安政五カ国条約
    安政の大獄

    イギリスがインドを併合

1859年
    ダーウィン『種の起原』
    「優生学史を語るには、どうしても、十九世紀後半の、欧米世界における知の構造的変動までを視野に入れる必要がある。一八五九年の暮れにダーウィ ンの『種の起原』が出版されるまでの長い間、生物学とキリスト教とは濃密な共生関係にあった。生物や人間の合目的性こそは、創造主が存在することの有力な 物証と考えられたからである。ところが、この本の出現によって、キリスト教的な自然解釈は大きな打撃を受けた。しかもこのことは、キリスト教信仰と同時に 与えられていた安定した世界解釈や、それに立脚した人生への指針、倫理の基盤などを連鎖的に崩壊させていく危険を含んでいた。西欧人は深刻な哲学的混乱に 陥った。
 生物学としての進化論は、まもなく多くの科学者が認めるところとなったが、自然科学とキリスト教信仰との間に生じてしまった亀裂を、世界観としてだけで はなく、倫理や魂の救済をも含めた、全哲学の中のどの次元の問題と考えるかで、その危機の意味も異なっていた。この危機に対処するためにさまざまな哲学が 試みられたが、その流れの一つが十九世紀自然科学主義とでも呼ぶべき傾向である。
 ここでいう自然科学主義(scientific naturalism)とは、人間のふるまいやその社会までも含む一切の現象を、非擬人主義的、非超自然的、自然科学的に統一的に解釈しようとする哲学的 傾向のことである。具体的には、唯物論、一元論、自然主義、実証主義、自由思想、不可知論などの基本に流れる姿勢で、一言でいえば、キリスト教的世界解釈 の崩壊の後を埋める一群の経験論的な代案のことである。」(米本昌平ほか『優生学と人間社会』p.15)

    ミル『自由論』
    スマイルズ『セルフ・ヘルプ』

    アメリカ、ペンシルヴェニアで油田発見
    「私は史上初めてのパイプラインのルートを沿って車を走らせ、オレオポリス、プレザントビルを通過、タイタスビルという小さな町に達した。この町 は一八五九年、エドウィン・ドレーク“大佐”によって初めて石油が掘り当てられたところである。この町のはずれに遅まきながらこの不運な先駆者のために 「ドレーク油井博物館」が建てられていた。数多くの石油開発のヒーローたちがそうだったように、彼もまた、企業家たちがそのおかげでぼろもうけしていたの に、貧困のうちに死んだのである。(…)
 「石油地帯」の緑野を古い写真と見比べながら歩いてみると、一世紀前の最初の石油時代はまるでポンペイ時代の文明と同じようにはるか遠い昔のことのよう に思えた。それでいてこの石油時代がもたらした現象は自分の周囲のいたるところにみられる――車、電力、化学肥料など、すべて石油に依存するものだ。この ゴースト・シティは石油につきまとう最も深刻な懸念、すなわち石油は枯渇する、ということを想い起こさせるのにきわめて有益だったといえる。」(A・サン プソン『セブン・シスターズ(上)』p.38-39)

    イタリア独立戦争はじまる

1860年
    咸臨丸、浦賀を出港。勝海舟、福沢諭吉ら渡米
    桜田門外の変

1861年
    南北戦争勃発
    イエール大学がアメリカで最初の博士号を授与(ハーバードが1873年、コロンビアが1875年、ジョンズ・ホプキンスが1878年から博士号を 授与)
    マサチューセッツ工科大学設立
    イタリア王国成立

1862年
    ビスマルク、プロイセン首相に就任。鉄血政策
    「プロイセンの国境は言論や多数決によってではなく、鉄と血によって決せられる」

    ユーゴー『レ・ミゼラブル』

1863年
    アメリカ、奴隷解放宣言。リンカーンによるゲティスバーグの演説
    ラサールを会長とする「全ドイツ労働者同盟」とベーベルを指導者とする反ラサール派の「ドイツ労働者協会連盟」結成される

1864年
    第一次インターナショナル(国際労働者協会)設立

1865年
    リンカーン暗殺。クー=クラックス=クラン結成
    メンデル、遺伝法則を発表

1866年
    ドストエフスキー『罪と罰』

1867年
    大政奉還
    明治天皇即位
    坂本竜馬暗殺
    マルクス『資本論』第一巻

1868年
    王政復古。戊辰戦争。明治政府、政権奪取。
    江戸、東京に改名。政府は東亰「とうけい」と呼ばせるも、人々は「とうきょう」を呼んだ。
    「開国、そして封建制度の終焉と中央集権的国家制度の導入は、日本の都市システムにも大きな影響を与えずにはおかなかった。新しい制度が導入され るにつれ、全国の都市は、中央集権国家の拠点である東京との関係性において、再序列化させられていったのである。
 たとえば、封建制度の中で地域の中心としての役割を果たしてきた城下町はあちこちで衰退の瀬戸際に立たされた。そして、県庁や官立学校、軍隊、工場など 新しい近代的装置が立地した都市だけが長期的な停滞や衰退を免れることができた(…)。また、日本が資本主義世界経済の世界市場に組み込まれていったこと により、いくつかの都市は、世界市場と直結した形で急激な成長を遂げることとなった。開国以来、日本の主要輸出品の地位を占めてきた生糸生産に関わる北関 東や長野の諸都市、開港場としての横浜、神戸などは、その代表的な例である。世界経済の周辺部に位置する低開発国としての日本の姿が、こうした都市成長の あり方からも浮かび上がってくる。」(町村敬志『「世界都市」東京の構造転換』p.40)

    ハワイへの初めての移民。「元年者」
    福沢諭吉が東京・芝に塾を移転し慶応義塾と命名

1869年
    東京遷都
「封建都市の解体に向かう変化は、もうひとつ別の側面を東京に付け加えていた。それは、消費都市から生産都市へと向かう道筋である。天下を治める政治都市 江戸は同時に、膨大な非生産人口としての武士層――一説には50−70万人――の消費に多くを依存する都市でもあった。そこでは多種多様なサービス業や商 業が、武士層や商人・職人層自身に向けて用意されていた。
 これに対し、明治新政府がめざした殖産興業の路線とは、欧米諸国が産業革命とそれに続く産業化(工業化)を通じて達成した成果を、国家主導の形で日本国 内にいち早く導入しようとするものであった。「資本の時代」を迎えた19世紀、大都市のあり方も世界的に大きな変化を迎えていた。近代都市とはまず産業都 市としてあった。少数の例外を除けば、こう言っても過言ではない。東京の場合、新しい国家体制確立のため、政治都市(帝都)建設が優先されはしたが、しか しそれは、産業都市への変容を否定するものではなかった。いやむしろ、帝都の体面を保つためにも、近代産業は不可欠の要素であった。
 この時期、産業都市への道のりの第一歩は、全く新しい近代産業の移植という形をとった。旧武家地を中心とした官有地での官営工場や軍需工場の建設は、そ の典型であった。このうち、工部省の品川工作分局(ガラス)、深川工作分局(セメント)などは、明治10年代の後半になって、民間へと払い下げられ、産業 資本形成の基盤となっていく。」(町村敬志『「世界都市」東京の構造転換』p.42-43)

    アメリカ、大陸横断鉄道が開通

    ハーバード大学の学長にチャールズ・W・エリオットが就任
    「『ハーバードの三世紀』の著者モリソンは、かつて次のように書きしるした。
「エリオットは、他のいかなる人間以上に、アメリカの青年に対し、今世紀最大の教育上の犯罪をおかした。つまり青年たちから古典の伝統を奪い取ってしまっ たのである」。
 ここで今世紀最大の教育上の犯罪者と名指しされたエリオットとは、他ならぬチャールズ・W・エリオットのことである。エリオットは一八六九年から一九〇 九年にかけて、四〇年もの長きにわたって、ハーバードの学長の座にあった。一九世紀後半にアメリカの大学界は、「偉大な学長時代」を迎えた。(…)
 このように一九世紀の後半、アメリカの主要大学は期せずして、後世に大学長時代と呼ばれる時期を迎えることとなったが、これらの大学長のなかでもエリ オットの名は、ひときわ高く、アメリカ高等教育史のなかで輝いている。(…)
 彼が良きにつけ、悪しきにつけ、アメリカ高等教育史のなかで無視できない存在となっている理由は、彼が伝統的なカレッジのあり方に、根本的な変革を加え たからであり、またその変革がハーバードだけに限定されることなく、その程度こそ異なれ、他のカレッジにまで波及効果を与えたためである。」(潮木守一 『アメリカの大学』p.116-117)

    「事実、当時のカレッジはハーバードに限らず、どこでもいかにしたら学生の学習意欲をかきたてることができるか、頭を悩ましていた。(…)
 ところで、大学とかカレッジは学問の府であると今日でも機会あるごとに主張されはするものの、これまでの長い歴史を見ると、学生の多くが真面目に勉強す るようになった時代は、きわめて稀にしかない。(…)
 そのうえアメリカの場合には、アメリカ固有の条件が作用していた。この点は一九世紀のドイツの大学と比較すると、さらに明確になる。まずアメリカのカ レッ ジでは、いくら学生がカレッジでよい成績を上げたところで、そのことが彼の将来に何らかの意味をもつことはほとんどなかった。これに対してドイツの大学は すでに一九世紀には、各種の国家試験のための予備校の役割を演じており、牧師になるにせよ、官吏になるにせよ、教師になるにせよ、医師になるにせよ、大学 で教わることを十分にマスターしない限り、国家試験には合格できないしくみとなっていた。こうした構造のなかで、ドイツの大学生はいわば点取虫となり、多 少なりとも真面目に勉強しなければならない立場にあった。
 もちろん、ドイツの大学にも、「遊び文化」は綿々と脈うっていた。とくに就職の心配などしないですむ上流階級出身の学生がふえれば、たちまち「遊び文 化」 が「勉強文化」を駆逐した。しかし大学が国家試験のための唯一の予備校である以上、下層階級出身の学生にとっては、大学は社会的上昇のためのエレベーター であり、ここに「キャリア型の学生」が出現した。
(…)
 そのうえさらに、アメリカの土地には、カレッジなどというまわり道をしなくとも、社会的成功をおさめる道はいくらでも豊富にあった。社会的野心に燃えた 青年は、カレッジに向かうのではなく、直接実業の世界に向かった。このことは上流社会の間でさえ、あてはまった。」(p.124-126)

1870年
    工部省設置
    神道を国教にする大教宣布

    イギリス、初等教育法成立
    「十九世紀後半は、精神病・精神障害者の問題が、社会的に急に重みを増しはじめた時代であった。そのきっかけの一つは、初等教育の義務化であっ た。一八七〇年、イギリスでは教育法が成立し、大量の極貧層の子供たちが初等教育を受けることになった。ところが多くの子供たちが授業についていけず、肉 体的・精神的な欠陥があることが問題となった。一八八五年に王立障害者学級委員会が設置され、ここが五万人の小学生を対象に教師から報告を集めたところ、 九一八六人の精神・神経系の障害児がいることがわかった。これによって特殊学級の設置が勧告され、貧困家庭の子供には無償の補習授業と住宅補助費が支払わ れることになった。九八年からはイギリス各地で特殊学校が開始され、翌年には特殊学校法が成立した。」(米本昌平ほか『優生学と人間社会』p.26)

    「ブルジョワジーはまず自分自身の健康に根本的に気をかけていました。いわば、それは自己救済であると同時に力の誇示でもありました。いずれにせ よ、労働者の健康などどうでもよかったのです。十九世紀の初めにヨーロッパで起こった労働者階級に対する恐ろしい虐殺についてマルクスが語っていることを 思い出してください。ぞっとするような住宅条件のもとで栄養不足になりながら、人々は、男も女も、それからとりわけ、子供までが私たちには想像できないよ うな長い時間、働かざるをえなかった時代です。一日の労働時間が十六時間、十七時間だったわけです。死亡率がものすごく高かったのも、そういうところから 来ています。それから、ある時期以降、労働力の諸問題が別なふうに立てられ、雇われていた労働者をできるだけ長い間確保しておく必要が出てきて、労働者を 十四、十五、十六時間働かせて死なせるよりも、八、九、十時間の間みっちり働かせる方がよいということに気づいたのです。労働者階級で構成された人材が、 乱用してはいけない貴重な資源と少しずつみなされるようになったわけです。」(M・フーコー『思考集成Y』p.522-523)

    ドニ・プロ『崇高なる者』
    「神の子、大地の創造者。
     めいめいが自分の仕事に精出そう。
     陽気な労働は聖なる祈り。
     神のお気にいり、それは崇高な労働者。」(p.33)

1871年
    シカゴの大火
    「シカゴ再建の過程で、鉄骨の構造による軽量の高層オフィスビルが生まれてくるのである。鉄骨構造に加え、大型の陶板であるテラコッタを外装に用 いることによって、建物は石造建築に比べて大幅に軽量化し、高層化が可能になった。この頃、ニューヨークで実用化しはじめていたエレベーターがそこに導入 されることにより、建築は一挙に高層化するのである。ここにオフィスという新しいジャンルの建築が市民権を得てゆくのである。
 オフィスビルが成立してゆくシカゴ近郊に、オフィスと対をなす近代生活の要素である郊外住宅のプロトタイプが出現することは、ある意味では必然であった かもしれない。それは、F・L・ライトによって生み出されたプレーリー・ハウスという住宅群である。(…)シカゴ派が成立させたオフィスビルとライトに よって生み出された郊外住宅とによって、近代の職住分離の生活に応じた建築類型が完成してゆくのである。」(鈴木博之『都市へ』p.22)

    文部省設置
    廃藩置県
    「藩については、それが、次の世代のための教育の機構でもあったことを忘れてはならない。(…)
 そのかれらにとって藩の廃止と身分制度の解体は、生計の手段だけでなく教育の機会をも奪われることを意味していた。これまでは当然のこととして、無料で 藩校の教育をうけていたものが、藩と同時に藩校も廃止されてしまった。学校に行く義務はなくなったが、同時に学校に行きたければ教育費を負担しなければな らなくなった。それはまさに革命的な変化であった。自分たちが受けてきた教育の機会を、次の世代の子どもたちにも同じように保証してやりたい。それは士族 たちの、きわめて強い願いであったに違いない。
 それだけではない。かれらは新しい生計の道を切り開いていくためにも、教育を必要としていた。(…)廃藩置県、秩禄処分という一連の「革命」が進むなか で、いちばん打撃をうけたのは、いわば倒産企業の中堅ホワイトカラーとでもいうべき、中級の武士たちだったとみてよい。
 そのかれらがめざしたのは、第一に俸給生活者、具体的には役人や教師への転身の道であった。それはかれらがこれまでたずさわってきた仕事ともっとも近い 職業であっただけでなく、かれらがもっている唯一の「資産」、つまり教育によってえられた学識を生かすことのできる職業でもあったからである。」(天野郁 夫『学歴の社会史』p.28-29)

    普仏戦争
    パリ・コミューン。崩壊後、フランス第三共和制発足
    ドイツ帝国形成。ビスマルク、帝国宰相に就任。文化闘争開始
    イギリス、オックスフォード、ケンブリッジ大学の、イギリス国教徒でない限り学位につながるコースには入学できないという制約がなくなる。

1872年
    琉球王国併合。王府を維持したまま琉球藩が設置される
    「琉球処分反対論が、経済コストや差別意識といった、いわば日本と琉球だけの関係から唱えられていたのにたいして、処分推進論は別の関係を考慮す る立場からなされた。それは、欧米にたいする国防であった。 当時の日本は、ヨーロッパ列強によるアジア植民地化の脅威のなかで国境確定と周辺防備の必要にせまられていた。列強にくらべ軍事力では圧倒的に劣勢な日本 にとって、できるだけ本国から遠方に国境線を引き、国防拠点を確保することが望ましかった。すでに北方においては、第3章で後述するように幕末から対ロシ ア国防拠点として北海道の確保が進められていたが、南方の準備は琉球処分においてようやく着手されたのである。 一八七二年五月、大蔵大輔の井上馨が琉球領有を主張する建議を行っているが、そこで唱えられた理由は、「従前曖昧の陋轍を一掃し」て国境を確定すること、 そして琉球を日本防衛上の「要衝」すなわち「皇国の翰屏」として確保することであった。」(p.21)

   学制発布、近代的学校制度の創設に着手
   「「学制」は全国を八大学区に分け、各大学区に大学校を一つ、一つの大学区をさらに三十二中学区に(二百五十六中学校)、一つの中学区を人口六百人 を基準として二百十小学区(五万三千七百六十小学校)に分割するというものであった。この学区は、はじめは一般行政区域とは別建てのものとされた。 この大規模な小学校建設計画は、施行後の約二年間(一八七五年まで)で、全国に二万四千校、学童数二百万人(男子百五十万、女子五十万)、児童の就学状態 は、「名目で男女平均三五パーセント、出席状況を勘案した実質では二六パーセント程度」を達成した。しかし、経費の民間依存が強すぎたこと、児童就学で一 家の労働力が減少したことへの不満もあって、七年後の一八七九年(明治12)に「教育令」に衣替えすることを余儀なくされる。」(猪木武徳『学校と工場』 p.24)

    陸海軍省設置
    太陽暦採用

1873年
    徴兵制発布、満20歳男子の3カ年の兵役服務。各地で徴兵反対一揆
    内務省設置
    第一国立銀行設立
    三菱商会設立

1874年
    台湾出兵

    ヨークシャー科学カレッジ開設
    「一九世紀中葉のイギリスにおいては、北部および中部産業都市に見るべき実業教育機関が存在せず、ドイツの進んだ教育機関に依存せざるをえない状 況であった。新産業企業家は、諸外国との競争に打ち勝つために、政府の施策を待ちきれずに自ら資金を捻出して、実業教育機関の設置に尽力した。その結果、 産業都市に市民大学が設置された。」(川口浩編『大学の経済社会史』p.186)

1875年
    江華島事件
    東京女子師範学校開校

    ドイツ社会主義労働者党が成立

    ジョンズ・ホプキンス大学設立
    「ジョンズ・ホプキンス大学の大学院構想は、その当時のアメリカの教育界、あるいはアメリカ社会のなかではどういう意味をもっていたのであろう か。まず第一に、大学院コースは、必ずしもジョンズ・ホプキンスが最初に作り出したものではなく、いくつかの大学ではそれに相当するものはすでに存在して いた。これらの大学では学部段階の教育を修了してからも、もっと勉強をつづけたいと希望する者には大学に残って勉強をつづける機会を与えていた。(…)つ まり大学教師の養成コースは、いまだ制度化されておらず、専門化されてもいなかった。
 それにすでに述べたように、当時のアメリカ社会においては、大学とは、子供を一人前のジェントルマンにしあげることがその目的で、学者を養成するところ ではなかった。学者とか大学教師というグループは、いまだ確固たる社会的存在基盤をもっておらず、それを専門的に養成する必要性もなかった。だからその当 時、子どもにカレッジ教育を与えたいという社会的ニーズは存在していても、それ以上の教育を与えたい、あるいは受けたい、というニーズはそれほどなかった し、また社会の内部にも、そんな高度の教育を受けた者を組織的に採用しようなどというニーズも存在しなかった。(…)
 それでは大学院レベルの教育が必要だという認識は、どこにあったのだろうか。それはごくひとにぎりのインテリ、それもヨーロッパでの大学教育を受け、 ヨーロッパの大学とアメリカの大学との間の大きな格差を身をもって体験したひとにぎりのインテリの内部にしかなかった。彼らは、ある時はヨーロッパに対す る対抗意識から、ある時はヨーロッパに対する劣等感から、さらにある時には、自由に研究に没頭できる場がほしいという期待から、高度の研究を目的とする場 を求めていた。」(潮木守一『アメリカの大学』p.158-159)

 「ドイツ帰りの教授たちが、アメリカにもち帰ったものは、一言にしていえば「研究」であった。つまり一つのテーマをあきることなく、コツコツと調べ上 げ、そのなかから何らかの独創的な知見を引き出し、しかもたがいにその独創性を競い合う行動様式が「研究」と呼ばれるものの具体的な姿であった。さらにま たいえば、少年のような好奇心に目をぎらぎらさせ、他のことには一切目も向けず、もっぱら一つのことに没頭することによって、自らのアイデンティティを獲 得しようという特異なタイプの人間が研究者と呼ばれた。」(p.167)

1876年
    三井銀行創業、雇用関係の近代化
    「三井は、江戸期には呉服業と両替業を経営活動の中心に据えて事業展開をしてきたが、明治維新期の社会的・経済的変動期の危機をのりきるために、 在来的業種である祖業の呉服業を分離し、近代的業種である銀行業を中心にした経営組織の再編成をすすめ、1876年に三井銀行を創業した。これを契機に、 三野村は主人と奉公人の主従という関係を、三井家同苗と使用人は「共に社友」という対等な関係にした。また、住み込みを原則として、主人が衣食住の面倒を 見るという奉公人制度を廃止し、すべての使用人を通勤制にして、給料を支給するという使用人制度にかえた。
 奉公人制度から使用人制度への転換は、使用人制度の教育訓練に大きな影響をおよぼすことになる。奉公人制度のもとでは、教育やしつけは、奉公入りした 12-3才のころから、昼間は業務の見習い、夜は読み書き、算盤の稽古といったように日常的におこなわれたが、通勤制になると、基本的な算筆をすでに修得 しているものが求められるようになる。また以前のように大量採用・大量淘汰を人事管理の基本として、優秀なものを選抜し育成するという方式では、新入りの ものにも給料を支給するので、コスト負担が大きくなる。そのため、採用段階でかなり厳しい採用基準を設けて選考をおこない、採用人数を少なくせざるをえな い。そこで基準となったのは、一定水準の「学力」を有しているかどうか、またどの程度の学校教育を受けているかといったことであった。また銀行員は現金を 扱い、信用がとりわけ重要なので、身元の確かなものであることが求められたし、技能や適性も重視された。」(千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教 育への依存」p.18)

1877年
    東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学誕生
    西南戦争
    鉄道局設置
    上野公園で第1回内国勧業博覧会

1878年
    北海道開拓使がアイヌの呼称を「旧土人」に統一することを布達

    ドイツ、社会主義者鎮圧法

1879年
    琉球処分。琉球王国が廃止され沖縄県に改名される
    教育令公布

    ドイツ、保護関税政策に転換

1880年
    改正教育令
    朝鮮の漢城(現=ソウル)に日本公使館設置

1881年
    小学校教訓綱領が定められ、初等・中等・高等に区分した
    自由党結成、日本初の近代的な政党
    明治生命開業、日本発の生命保険会社

    フランス、「公立小学校の無償化」法案成立
    「かくして、中世以来の情報と文化の諸機能を集中したイデオロギー装置たる「教会」は伝統的な家族制度と結びついてその支配を懸命に維持しようと し、これに対し全共和派はこの「反教権」という一点では一致して「教会」に戦いをいどんでいたのである。
 そして、パリ=コミューンの崩壊の後、一八七一年にフランス第三共和制が発足する。この第三共和制こそが、反教権の旗印のもとに、「無償・義務・非宗 教」の公教育を実現するのである。(…)
 (…)
 各地での論争や議会での激論を経て、公教育相をつとめていたジュール・フェリー(一八三二−一八九三)は、精力的に「無償・義務・非宗教」教育の実現を はかろうと努力をつづけた。その結果として、一八八一年六月一六日に「公立小学校の無償化」法案が成立し、つづいて一八八二年三月二八日には「初等教育の 義務化、非宗教化」法案が成立することとなった。(…)
 かくて、フランス革命以来の共和派の悲願であった「公教育」がようやく実現することとなった。それはとりもなおさず、子どもを媒介として家族そのものを 国家の側に統合することを意味していたのである。(…)」(桜井哲夫『「近代」の意味』p.53-54)

1882年
    日本銀行営業開始
    軍人勅諭

    壬午軍乱
    アメリカ、中国人移民排斥法
    ルナン『国民とは何か』

1883年
    陸軍大学校開校

    アメリカ、ペンドルトン法(連邦公務員法)制定
    「このペンドルトン法によって、超党派的構成の人事委員会が設置され、任用の条件として職階に指定された公職に限定した公開試験制度の導入と、公 務員の政治活動禁止が法的に規定されるようになった。ペンドルトン法は、イギリスの公務員制度の改革内容を参考にしたと言われるが、戦後日本の公務員法が ペンドルトン法の影響を受けていることは確かである。」(猪木武徳『学校と工場』p.192)

    ドイツ、健康保険制度導入
    「営業条例(工場法)の改定と女性保護法の制定を絶対に阻止しようとした帝国宰相のビスマルクは、そのかわりに国家福祉を導入して、労働者を懐柔 しようとした。その結果、ビスマルク政権下のドイツでは、一八八三年に健康保険、八四年に労災保険、八九年に障害・老齢年金と、近代的な社会保険制度が他 のヨーロッパ諸国に先駆けてつぎつぎに法律として導入されることになった。これ以前からすでに、雇用者と被雇用者の双方が拠出する共済年金は存在したが、 従来の金庫が疾病、労災など、さまざまな領域を包括的に保障したり、あるいは特定の領域だけに限定されていたのに対して、八〇年代の社会保険は健康、労 災、障害・老齢と目的別に設定されている。
 また、従来のものと比較して新しい保険は次の点で抜本的に異なっていた。第一に、この制度は強制加入であり、工場労働者すべてが加入対象になるなど一般 性を帯びた。第二に、給付に関する最低基準が全国一律に規定された。第三に雇用主の拠出義務が法定化され、保険ごとに労使の負担割合の基準が定められた。
 この新しい制度は全国的に組織された包括的で強制的な連帯共同体であり、国家が財政援助し、また雇用主と被雇用者は何らかの形で組織運営に参加した。 (…)不十分なものであったとはいえ、雇用労働者の保障が労働と結びついた権利として認められたという意味で、この社会保険は近代的な制度であった。」 (姫岡とし子『ジェンダー化する社会』p.139-140)

    「社会保険における議論や法的規定は、労働者としての女性を弱者、二流労働者として扱い、以前から存在していた労働におけるジェンダー・ヒエラル ヒーを容認し、再編強化したのである。逆に男性はこの近代的な制度のなかで家族扶養者として正式に認定され、これにより労働者としての地位を高めることに なった。さらに女性の権利に関しては、健康保険では経済的な事柄が問題になっているという理由で選挙権が与えられたけれども、その他の保険では判断力が必 要な司法の問題として拒否され、この意味でも既存のジェンダー観が再生産されるとともに、女性労働者は弱者、すなわち「保護される者、依存する者」という 意味が強化されたのである。
 この保険はまた、家族モラルを定義する上でも重要な役割を果たした。子どもの年金や出産に関しては婚姻外の場合でも認められたが、寡婦手当てに関して は、事故後の婚姻締結を対象外とし、結婚返還金も正式な証明書が必要など、制度的な婚姻に固執した。このように社会保険法は、近代的な家族規範を浸透さ せ、労働者のジェンダー化を推進するにあたって重要な役割を演じたのである。」(p.172-173)

1884年
    秩父事件
    甲申事件

1885年
    内閣制度が発足、伊藤博文が初代総理大臣に就任
    福沢諭吉「脱亜論」
    坪内逍遥『当世書生気質』
    ハワイへの「官約移民」はじまる。横浜から出発

    「ガス・エンジンを動力にする車両」がカール・ベンツによって発明される。翌年に特許登録

1886年
    小学校令公布。義務教育、教科書検定制度など
    帝国大学令、東京大学が帝国大学に、
    「第一条 帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」

    私立法律学校特別監督条規、帝国大学総長による東京府の私立法律学校の監督

    中学校令、五年制の尋常中学校(1890年に全国で110校)と二年制の高等中学校(全国に7校設置)創設
    「この時期の標準的な進学ルートは、尋常中学校の各学年修了者あるいは卒業者が、まずは高等中学校付属の予科や補充科を受験し、入学後に、尋常中 学校の教 育課程を再度修学した上で、本科に進学するというものであった。したがって、高等中学校の入試も、本科の定員を満たすための選抜試験というよりは、むし ろ、受験段階での学力水準に応じて、尋常中学校に相当する予科や補充科の入学を許可する検定試験として実施されたのである。
(…)
 この時期の高等教育機関進学者の平均年齢は、入学規定による最短年数よりも、大幅に上回っていた。たとえば、一八九二年における第三高等中学校の予科第 一 学年(最短一四歳で入学可能)の在籍者一〇一名の年齢は、最高で二七.四歳、最低で一四.九歳、平均では一八.九歳、さらに補充科二五名の平均年齢は一 九.四歳であった。何年にもわたる受験に末、ようやく補充科の水準に到達したという者も多数いたことがうかがわれる。(…)」(川口浩編『大学の社会経済 史』p.130)

    北海道庁設置

    三井銀行、試験による行員採用法を定める
    「本人の健康状態や品行、本人と身元保証人の資産状況などの調査をしたうえで、受験が許可される。受験者の年令によって、試験科目が異なり、丁年 以上のものを対象とした試験は、和漢書、算術、楷行書、営業上往復文書、簿記、経済学、法律、洋学、会話談判の8科目で、未丁年を対象とした試験は、小学 校高等科・中等科の範囲内である。合格者は、30日間、試補として簿記課、債務課、金庫課の3課以外の課に配置されて才能が試された。」(千本暁子「ホワ イトカラーの人材育成と学校教育への依存」p.18)

1887年
    「高等文官」任用制度発足。官僚として帝国大学卒業の学士が大量採用されるようになる

1888年
    海軍大学校開校

1889年
    大日本帝国憲法公布(1890年施行)
    東海道線の新橋−神戸間の鉄道が全線開通
    三菱長崎造船所、親方職長層に代わる熟練工を自ら養成し始める
    『試験及第法』

    イギリス、技術教育法制定
    「第三に、実業教育に対して、一八八九年技術教育法の制定までイギリス政府はほぼ無為無策であったという点である。したがって、イギリス社会には 実業教育を推進する基盤が脆弱であったのであり、産業界と教育界とが協力関係を築きにくい土台があったのである。では、イギリス社会にとって、大学とはど のように位置付けられていたのであろうか。
 学卒者であることの意味が、シティの銀行家にとっては「ジェントルマンとしての素養を身に付けること」であったし、一方、世紀転換期の産業企業家にとっ ては「専門的知識を身につけて、諸外国に対してキャッチ・アップを図ること」であった。」(川口浩編『大学の社会経済史』p.186-187)

    イギリス、大学に対して初めて国庫助成を行う
    「イギリスの国全体に対しその将来に非常に大きな影響を及ぼすことになるもう一つの転換点は、ユニバーシティ・カレッジに国庫補助金を支給すると いう政府の決定であった。政府はすでにイギリスの高等教育財政に関与していたが、奇妙なことに、イングランド自体はその対象外に置かれたままであった。 (…)しかしながら、一八八九年以降こうした例外は除かれ、イングランドの高等教育機関に対しても、大蔵省からの補助金が規則的に、また次第に多く支給さ れるようになった。(…)それと同時に、一八八九年に制定された技術教育法により、各地方の技術教育振興のために地方税を充当することも可能となった。ま もなく、かつては営業許可の更新を受けていないパブのために計上されていた財源(「ウィスキー・マネー」)が、市民大学を含め技術教育に転用されることに なった。
 これらの措置によって支給されることになった補助金の額はたいしたものではなかった。だが、補助金額の多寡よりもっと重要なことは、ここにおいて、イン グランドの大学教育に対して国が財政支援をおこなうという原則が確立されたことであった。また、国庫補助金を管理する必要から大学補助金委員会(UGC) の前身が設立されたことも、イギリスの大学の将来にとって重要な出来事であった。(…)」(M・サンダーソン『イギリスの大学改革 1809-1914』p.135-136)

1890年
    岩崎弥之助、丸の内一帯の軍用地払い下げを受ける。「一丁ロンドン」と呼ばれるオフィス街となる。
    第一回帝国議会
    教育勅語の発布

    小学校令改正(第二次小学校令)
    「第一条 小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」
    逓信省、女子電話交換手を募集し訓練を開始

    ビスマルク辞任

1891年
    三井銀行、高等教育を受けた人材を初めて採用
    「ところが、当時高等教育を受けたものが民間企業に就職することはきわめて稀なことであった。とくに1890年頃までは、エリート校である東京大 学出身者は、官界、教育界、法曹界へと進み、民間企業にはいるものはいなかった。(…)かれらにとって民間企業は、丁稚からたたきあげた手代・番頭が、世 辞と愛嬌で商売をしている世界で、レベルの低い世界にすぎなかったのである。(…) 当時民間企業が学校出身者を採用しようとすれば、良い条件を提示しなければならなかった。そこで三井銀行では、行員の給料を大幅に引きあげ、他の民間企業 はもとより、官吏の給料よりも高くした。こうして行員に誇りをもたせ、士気を高めようとしたのである。」(千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教育 への依存」p.19)

    田中正造、足尾鉱毒事件への対策を政府に迫る
    内村鑑三不敬事件
    大津事件

1892年
    三井銀行、1986年制定の試験規則を改正。高等教育を受けた人材を多く採用するために、必要なものにだけ試験を課すようにした。
    鉄道敷設法、官設主導による鉄道網拡張の方針が本格的に打ち出される
    伝染病研究所設立、福沢諭吉が北里柴三郎の研究を助成

    シカゴ大学開校
    「シカゴ大学の新機軸は他でもない、これら高等教育の活動として考えられるものを、すべて一つの大学のなかに取り込もうとした点にあった。それは いうなれば、高等教育の一大コンツェルンともいうべきもので、そこにはカレッジ教育、大学院教育、専門職業教育、地域社会へのサービス活動、大学出版部を 拠点とする出版活動など、すべての活動が盛り込まれていた。」(潮木守一『アメリカの大学』p.220-221)

1893年
    三井銀行、履歴書の書式を改める
    「(…)履歴書に記載すべき事項として、教育を受けた学科、年月、学校や塾名、先生の名前、官庁・銀行・会社などに勤務した年月、勤務中の賞罰、 退職辞職の年月、職業・技芸をあげている。こうした改革から、採用基準が「試験の結果」や「学力」から、「出身校」や「経歴」にかわったことがわかる。」 (千本暁子「ホワイトカラーの人材育成と学校教育への依存」p.19)

    文官任用令

1894年
    日清戦争勃発
    高等学校令、高等中学校が高等学校となる。「旧制高校」の原型
    ハワイ移民事業を民営に移す

    日本で最初期の女性事務職採用。茨城県河内郡竜ヶ崎町役場と三井銀行大阪支店
    「明治後期、良妻賢母思想という新しいジェンダーのもと事務の職場で女性が「発見」されたことは、「職場は男性のもの(であり女性のものではあり えない)」というジェンダーが、そのままのかたちでは、職場世界の解釈する枠組みとはなりえないことを示していた。一方、同時に見出された男性たちの状況 はこのように多様なものであり、「男性」と「女性」の間に境界を設けることを困難にしていた。組織の拡大に伴い学卒者を含めた事務職にそれまでとは異なっ た資質が求められるようになっていたこと、それらを基準とした場合、「男性」に対するかならずしも好意的とは言えない評価、さらに、「女性」に対する積極 的な評価の存在によって、明治三〇年代の事務職の職場は、ジェンダーによっては解釈の困難な要素を数多く抱えるものだった。そこでは実際、「男性」と「女 性」というカテゴリーは、人々の視点のなかで、相互に交換可能だととらえられるものだったのである。」(金野美奈子『OLの創造』p.36)

    甲午農民戦争
    ドレフュス事件

1895年
    日清戦争終結。台湾割譲。台湾現地住民「台湾民主国」独立を宣言するも鎮圧される。三国干渉
    「廃藩置県から一五年を経た一八九四年になってさえ、沖縄を視察した内務省書記官の一木喜徳郎は、学校でせっかく教えた日本語も「一旦退校すると きは其共に交はるものは皆大和語を解せさる者かるか故に僅に記臆したる大和語も大半之を忘失するに至る」という状態であることを報告している。(…)
 しかしそうした状況を大きく変えたのは、この一八九四年に勃発した日清戦争だった。親清派士族のみならず、一般の沖縄住民にとっても清の敗北は大きな心 理的変化をもたらし、子供たちのあいだでも戦争ごっこや軍歌が他の遊戯を一掃するほどとなったという。こうしたなかで就学率は一気に男四五パーセント、女 一七パーセントを記録し、一九〇七年までには全体でも九三パーセントにまで上昇した。」(小熊英二『〈日本人〉の境界』p.39)

    日本郵船、東京大学と東京高等商業学校の学生の定期採用を開始

1896年
    アイヌの徴兵開始
    「台湾ではまだ徴兵は行われていなかったが、日露戦争は、一八九六年から徴兵されはじめたアイヌたちが、初めて日本軍兵士として参加した対外戦争 であった。アイヌからは六三名が軍人として出征し、戦士三名、病死五名、廃兵二名の反面、金鵄勲章三名をはじめ叙勲率は八五パーセントをこえた。部隊内部 の差別にもかかわらず叙勲されたことは、アイヌ史でも差別を克服するために勇敢に戦ったゆえと評価されている。アイヌの現地でも、働き手の息子を徴兵され ても「これでやっと和人と対等になったと喜んだ」事例もあるという。アイヌ兵士の戦闘ぶり、とくに北風磯吉という名前を与えられていた兵士の活躍は、当時 の新聞・雑誌で大きくとりあげられた。
 坪井が「アイヌなり蕃人なりを含んだところの日本人と云ふものが戦争をしている」と述べた背景には、こうしたアイヌたちの存在があった。勲章を受け凱旋 したアイヌ兵士の故郷では、「歓喜」したコタンの有力者が「之れ実に彼が学校に入りて学びたる、教育の結果に依るもの」と周囲のアイヌに教育の必要を説い て回ったというケースも出たそうだから、まさに坪井の願う方向通りである。彼は、報道されるアイヌ兵士たちの活躍に喝采を送りながら、これで大日本帝国で のアイヌの地位が向上すると思っていたにちがいない。」(小熊英二『単一民族神話の起源』p.84)

    明治二十九年法律第六十三号(六三法)

    河川法制定
    「河川法は、内川交通を重視した低水工事から訣別し、管理と費用負担の原則を確立した堅固な堤防に守られた高水工事を採用した。同時に、河川敷を 官の所有地へと有界化し、治水に関する一切の私権を排除し、一切の事務を内務大臣の行政権力が集中掌握した。
 このころ、河川敷だけでなく、入会地、共有地や山林原野など、作用空間としての利用が粗放であった空間は、国有地として官の所有へと次々有界化され、村 人たちは江戸時代からその身体と自生的に結びついていた空間から疎外されはじめた。この土地収奪に対し、全国各地で国を相手取った訴訟が提起されたが、ほ とんど原告の敗訴に終わり、土地収奪はかえって正統化された。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.216-217)

1897年
    京都帝国大学設立、帝国大学が東京帝国大学に改称
    三井銀行、長期勤続すればするほど退職金の支給額が累進的に増すという規定を定める
    貨幣法公布、金本位制成立
    『実業之日本』創刊

1898年
    沖縄に徴兵令施行(宮古・八重山への適用は四年後)
    公学校令制定。台湾の初等教育のあり方を決定

    民法施行
    米西戦争
    アメリカによるハワイ併合、フィリピン、プエルトリコ、グアムを植民地化

1899年
    実業学校令
    「「工業農業商業等ノ実業ニ従事スル者ニ須要ナル教育ヲ為ス」ことを目的とする実業学校は、産業界に中級の技術者を送り込むために設立された。」 (猪木武徳『学校と工場』p.46)

    横山源之助『内地雑居後之日本』、『日本之下層社会』
    不平等条約改正、内地雑居が行われることになる
    国籍法成立

    北海道旧土人保護法成立
    「政府がいったんは否決されたはずの保護法案をこの時期に提出したことについては、アイヌの窮乏が深刻化していたこともあるが、翌年に予定されて いた内地雑居が背景として見逃せない。不平等条約の改正以前は決められた居留地のみ居住していた欧米人が、日本国内を自由に往来することになるという未曾 有の事態を前に、政府はいくつもの政策を用意していた。まず国籍法が制定され、内務大臣が「品行端正」と認めた者のみに帰化の許可をあたえることが定めら れるとともに、帰化者は陸海軍将官や国会議員、国務大臣などにはなれないことが定められた。また訓令により私立各種学校を除いて、宗教教育に制限が設けら れた。いうまでもなく、忠誠心の疑わしい外国人が「日本人」となって要職につくことや、欧米人宣教師が教育に進出することを恐れたための措置だった。さら に監獄法や精神病者看護法の整備など、欧米人の視線から〈野蛮〉ないし〈汚濁〉とみなされかねない存在を隔離し被いかくす対策も準備された。
 (…)北海道旧土人保護法の制定過程は現在でも不明な点が多く、資料も十分に残されてはいないが、数年前まで政府が拒否していたはずのこの法律が上記の ような内地雑居にむけた一連の準備とともに成立したことは、留意されてよいだろう。
 こうして一八九九年に公布された北海道旧土人保護法の内容は、農耕民化をねらった土地の下付などについては以前に否決された加藤案とほぼ同様だったもの の、いくつかの重要な相違があった。一つは、一般の学校への就学促進を趣旨としていた加藤案と異なり、アイヌの「部落」に和人地域とは別個の小学校を国庫 で建てるとされたことである。しかもこの学校はやがて一般の六年制ではなく、経費を節減し科目を少なくした四年制の簡易教育とされていった。(…)
 そして第二の相違は、国庫財政への負担が削減されたことだった。農具や種子の配布および授業料の支給は、対象となるアイヌが「貧困」な場合のみに限定さ れ、教科書や要具料の配布は削減された。しかもこれらの支出は、国庫ではなく北海道庁長官が管理する「旧土人共有財産」からまかなうこととされた。 (…)」(小熊英二『〈日本人〉の境界』p.68-69)

    外山正一『藩閥之将来』
    「外山が『藩閥之将来』で主張しているのは、いま風にいえば「学歴のすすめ」である。ただかれは「学歴」という言葉は使わなかった。この当時学歴 という言葉がなかったわけではない。たとえば『言海』には「学歴=学問、教育ニ就キテノ履歴」とある。だが、それではかれの真意は伝わらない。外山は社会 学者らしく「教育資格」という、おどろくほど現代的な用語で「学歴のすすめ」を説いたのである。
 面白いのは、その「学歴のすすめ」を、外山が個人でなく府県にむかって説いたことである。福沢諭吉の『学問のすゝめ』(明治五年)は、それを読む個人に むけて書かれたものである。ところが外山は府県という「集団」にむけてそれを書いた。そこに外山の社会学者としての目をみるのは、読み込みすぎだろう か。」(天野郁夫『学歴の社会史』p.21-22)

    日本人移民810人がペルーに出発。南アメリカへの初めての移民

1900年
    小学校令改正(第三次小学校令)。「内地」で初等教育の無償化

    北海道旧土人教育会
    「坪井は、彼なりの良心からアイヌ救済運動にとりくみ、また日本民族が混合民族であることや、大日本帝国が多民族国家であることを強調した。内村 や坪井といった国体論から煙たがられる人びとが、教育による文明化に肯定的だったのは、彼らが人種差別主義者だったからではなく、ある種の博愛精神と人類 平等観に立っていたからだった。だがそれは、マイノリティを文明化の名のもとに多数文化に同化させ、さらに統合の一形態として、戦場へ動員していく論理で もあった。そして多民族混合の主張は、大日本帝国の対外進出能力賛美をも生みだした。」(小熊英二『単一民族神話の起源』p.85)

    内務官僚、「貧民研究会」結成
    「これは、社会福祉政策、労働者に対する欧米の政策事例を摂取する研究会であり、その1つの流れは、大正以降の都市社会政策につながっていく。  この都市社会政策は、各地で行われた都市社会調査という実証的な裏づけをもって行われ、次第に日常的なものとなった。
(…)
 この調査を通じ、体制から社会の火薬庫とみなされた「細民」は、体制のよりはっきりとした監視の下におかれることになった。」(水岡不二雄編『経済・社 会の地理学』p.337)

1901年
    足尾鉱毒事件で天皇直訴
    官営八幡製鉄所開業。「鉄は工業の母、護国の基礎」がスローガン

    「美的生活を論ずる」(高山樗牛)「雑誌『太陽』8月号」
     「金銭にこだわるにせよ、知識や芸術を愛するにしろ、自分の世界に没頭することが大切だ」という主張が青年の共鳴を得て流行した。学生の間で は、金がなくて、下宿にじっと引きこもっている状態を指した。
    「望を失へるものよ、悲む勿れ。王國は常に爾の胸に在り、而して爾をして是の福音を解せしむるものは、美的生活是也。」(『明治文学全集40 高 山樗牛・斉藤野の人・姉崎嘲風・登張竹風集』p.84)

    幸徳秋水『廿世紀之怪物帝国主義』
「○然りその発展の迹に見よ、帝国主義はいわゆる愛国心を経となし、いわゆる軍国主義を緯となして、もって織り成せるの政策にあらずや。少くとも愛国心と 軍国主義は、列国現時の帝国主義が通有の条件たるにあらずや。故に我はいわんとす、帝国主義の是非と利害を断ぜんと要せば、先ずいわゆる愛国主義といわゆ る軍国主義に向って、一番のけん覈なかるべからずと。
○しからば則ち、今のいわゆる愛国心、もしくば愛国主義とは何物ぞ、いわゆるパトリオチズムとは何物ぞ。吾人は何故に我国家、もしくば国土を愛するや、愛 せざるべからざるや。」(p.19-20)

    「○然り愛国心が望郷の念とその因由動機を一にすとせば、彼の虞ぜいの争いは愛国者の好標本なるかな、彼の触蛮の戦いは愛国者の好譬諭なるかな。 天下の可憐虫なるかな。
○ここにおいてか思う、岩谷某が国益の親玉と揚言するを笑うことなかれ、彼が東宮大婚の紀念美術館に千円の寄附を約してその約を履まざるを笑うことなか れ。天下のいわゆる愛国者、及び愛国心、岩谷某においてただ五十歩百歩の差のみ。愛国心の広告はただ一身の利益のためのみ、虚誇のためのみ、虚栄のための み。」(p.23)

    福沢諭吉、中江兆民死去
    愛国婦人会結成

    USスチール社設立、トラストによる垂直的統合
    「たとえば、1901年、大企業合同によって設立された持株会社U.S.スチール社は、典型的な混合企業となった。しかも、U.S.スチール社 は、第1次単位としては純粋持株会社であり、その全資産は11社の第2次構成会社の証券から成っていた。そして、これらの第2次構成会社は、総数170社 を越える第3次子会社の支配的株数を所有していた。
 持株会社U.S.スチール社は、これら構成会社の個性や自発性を保持しながら統一的な中央管理をおこなった。(…)それらの管理は、法律的であれ、経済 的であれ、地域的な条件に応じて容易に調整されえた。そして、旧経営者のかなり重要な特徴や個人的関心、それに特別な経営能力は容易に保持されえた。
 このように持株会社は、完成品を生産するさまざまな段階を包摂する産業コンビナートの形成に十分適合しており、しかも、その管理の柔軟性によって持株会 社は、さまざまな諸工程をもち、さまざまな地域で活動し、さまざまな顧客層に販売する諸単位を安定した形態で結合するのにもっともふさわしい企業組織形態 となっているのである。」(小林康助編著『アメリカ企業管理史』p.24-25)

    テキサス州ボーモントで油田発見。

1902年
    国勢調査に関する法律を公布
    台湾県民を日本国籍に編入
    加入電話と私設電話の接続が可能になる、事務の機械化

    キャデラック社設立

1903年
    小学校令改正、国定教科書制度確立
    専門学校令、公立私立の設置
    農商務省商工局『職工事情』
    人類館事件
    「人生不可解」(藤村操)

    フォード・モーター社設立
    J.A.ホブスン『帝国主義論』

    イギリスで第一次田園都市株式会社設立。ロンドン郊外のレッチワースに最初の田園都市
    「田園都市とは英国のエベネザー・ハワードが提唱した新しい都市のつくり方として知られている。(…)
 (…)
 では、彼のいう田園都市というのはどういうものか。田園でもないし都市でもない、田園であり都市であるというのがそれで、彼は三つの磁石が描いてある絵 を出し、田園のもっている魅力(引力)、都市のもっている魅力(引力)を提示し、ならば田園都市というものが考えられないだろうかと問う。つまり都市には 都市の魅力と便利さがあり、田園にもやはりおなじように安らぎの魅力があるが、そのどちらかだけというものではない、両方を兼ね備えた生活というものがで きないだろうかというのが、彼の発想であった。」(鈴木博之『都市へ』p.138-139)

    「これは基本的には低密度の都市だが、ベッドタウンではなく、職住が一体となった小都市である。ここに出てくる都市のイメージは中世の都市のス ケールをもつ、中世における自律的な都市のすがただといえる。レッチワースは順調にできあがって、ある部分の住宅地の開発にはその当時のモデル住宅のコン クールのようなことを行い実物の住宅を建てている。」(p.140)

1904年
    日露戦争

    F・ゴルトン、第一回イギリス社会学会で「優生学――その定義、展望、目的」という講演を行う。

    A・ビネー、フランスの小学校における落ちこぼれ児童を同定するための客観的方法の開発を文部大臣から依頼される。IQテストの考案
    「(…)フランスにおいて一八八〇年代に実現した「無償・義務・非宗教」の公教育制度は、子どもたちがすべて教育を受ける平等の権利があることを うたっていたのだが、そこででてきた難問こそ、知恵遅れ、「精神遅滞児童」の問題であった。学校に適応できない子どもたちが、「情緒不安定児童」、「知恵 遅れ児童」、「精神薄弱児」と名づけられ、その処遇が問題化したのは、十九世紀の末からであったのである。そして、一九〇五年に発表された、アルフレッ ド・ビネ(一八五七−一九一一)とテオドール・シモンによる「知能検査」こそ、こうした課題から生みだされた選別の方法であった。この年の四月二八日に ローマで開かれた第五回国際心理学会で「白痴、痴愚、魯鈍を診断する新しい方法」という論文が、アンリ・ボーニスによって代読され、大きな反響をよんだの である。さらに一九〇八年には、この知能検査の改訂版が出され、ビネ=シモンの知能検査は国際的な評価を受けるにいたった。そして、このビネとシモンの研 究をうけて、ドイツのウィルヘルム・シュテルンが、一九一一年に、知能指数(IQ)の概念を提唱することとなったのである(…)。」(桜井哲夫『「近代」 の意味』p.85)

    国際サッカー連盟(FIFA)設立
    ロールス・ロイス社設立

1905年
    日露戦争終結、日比谷焼き討ち事件
    実用新案法公布

    サンフランシスコ市長と各種労働組合が、日韓人排斥同盟結成

1906年
    韓国に、統監府を設置。司法権、軍事権、警察権を韓国政府から奪った。初代総督は伊藤博文。
    鉄道国有法、私有鉄道経営の幹線も国有化
    南満州鉄道株式会社(満鉄)の設立の勅令が公布、満鉄発足

1907年
    小学校令改正、義務教育6年制。就学率93%を越える
    株式大暴落、戦後恐慌はじまる
    山梨県駒橋水力発電所から東京市内への初の本格的遠距離送電
    豊田佐吉、自動織機の特許を取得
    谷中村、土地収用法によって強制破壊される
    「癩予防ニ関スル件」。ハンセン病患者の国立癩療養所への収容が開始される

    安田保善社(のち富士銀行を経て、現在、みずほフィナンシャルグループ)、練習生制度はじまる
    「今日わが国で最大の市中銀行である富士銀行も、明治末期には、大学卒の新人を採用すべき内的欲求を持ちはじめてはいたが、まだこれを実現するす べを持たなかった。そこで、大学卒サラリーマンを採用するかわりに、中学卒の青年を練習生として採用し、これらに、大学の機能にかわる社内教育をほどこし て、将来の幹部社員を養成しようとした。
(…)
 また、さらに、一般的・普遍的なもの(教養・知識)と、特殊なもの(社風・カラー)とを総合する手段として、大学卒を無条件に幹部候補生として約束して しまう方法がとられてくる。これは藩閥政府が帝大卒を幹部候補生として確保したのと軌を一にするものであった。ここからわが国の学閥的ムード、あるいは 「大学を出なければ」というムードが生まれ、これが、のちに加速度的に拡大再生産されていくことになる。
 なお、明治四十年の第一期生に始まる安田保善社の練習生制度は、大正九年の第十三期をもって終っている。つまり、この頃になってはじめて、大学卒新人の 定期採用が定着してくるからである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.17-19)

    「しかし、実際には、一般公募が日本の企業の採用パターンとして普及することはなかった。東京海上は、少なくとも戦間期になると、高等教育機関を 通して人材の推薦・紹介を受けるようになっていた。また、安田保善社は、一九〇七年以来、幹部候補生として、中等学校卒業以上の応募者を新聞広告で全国か ら募集し、学科試験と面接によって採用の当否を決定していたが、そうした採用方法は、一九二〇年を最後に中止している。」(川口浩『大学の経済社会史』 p.195)

    内務省地方局有志が『田園都市』という本を刊行
    「田園都市の考え方は都市の住民を都市から分離して、独立した快適な町に住まわせるという理想にもとづくが、日本の内務省は都市問題と農村問題を ワンセットで考えている。基本的に都市は革命の温床になりがちで非常によくない、農村を強化することが保守的な政治にとっては重要なことで、田園都市の考 え方もガーデンシティは花園都市と訳したり、花園農村という言葉を使ったりして、農村の住環境向上という側面からも捉えようとしている。その辺が日本的で あり、田園都市のように自立した職住一体の都市をつくろうという気はあまりなく、住環境のよさを都市と農村の両方にもち込めないか、ということに発想が切 り替わっている。ここに都市理論の摂取のちがい、評価のちがいが現れている。」(鈴木博之『都市へ』p.141-142)

1908年
    三菱長崎造船所、能率給を採用し、原価管理体制を強化

    第一回ブラジル移民として選ばれた781名(793人?)が笠戸丸に乗り神戸港を出港
「排日措置と移民制限によって日本人の北米やオーストラリアへの移住は低迷期に入り、日本人移民の主流はブラジル、ペルーを中心とする中南米へと転換す る。このころのブラジル移民は、主にコロノと呼ばれるコーヒー農園で、粗末な掘っ立て小屋に住み、劣悪な労働条件のもとに農場労働に従事した。日本人の移 民が、とくにサン・パウロ州内のコーヒー農園に二十万人近くも流入した背景として、イタリアのブラジル移住者が低賃金の奴隷的待遇を受けていたため、イタ リア政府がブラジルへの移住を禁止したという事情もあった。」(猪木武徳『学校と工場』p.235)

    阪神電鉄、「市外居住のすすめ」というパンフレットを刊行
「阪神間に展開した住宅地は、そうした「職住近接」の町づくりではなく、喧騒の都会から脱出して、健康な郊外住宅地を求める町づくりだった。それは基本的 には住友家の大阪逃亡に倣う住宅イメージの追及であった。」(鈴木博之『都市へ』p.231)

    赤旗事件

    ヘンリー・フォード、T型フォードを売り出す
    「平均的な人間なら、だれでも楽しめる車。そんな車をつくったこのフォードの偉大な成功によって、アメリカに大量生産と大量消費の循環が始まった のである。自動車を大量生産することになれば、ますます多くの人たちに仕事がもたらされ、かなりの賃金も与えられる。そして自動車のコストが大量生産に よって下がっていけば、労働者たちも、自分で車を購入できるようになるのだ。」(デイビッド・ハルバースタム『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史』 p.133)

    ゼネラル・モーターズ社設立
    「一九〇八年九月十六日、デュラント氏はゼネラル・モーターズ社を設立した。この会社に、氏はまず一九〇八年十月一日にビュイック社を、同年十一 月十二日にはオールズ社を、さらに翌年にはオークランド、キャデラックの両社を吸収した。統合されたこれらの会社は。新しい会社の中でおのおのの独自性を 保持しつづけた。すなわち、ゼネラル・モーターズ社は持株会社で、全体としては一つの本社を中心に、それぞれ自主的経営を営むいくつかの子会社が、衛星の ようにこれを取り囲む形となった。(…)」(A.P.スローン『GMとともに』p.7-8)

    「デュラント氏のGM設立のやり方に、私は三重のパターンを読みとることができる。第一は、嗜好も経済力もまちまちな各階層の買手にそれぞれ適合 するような、変化に富んだ車種系列への指向。これはビュイックをはじめオールズ、オークランド、キャデラック、さらにくだってはシボレーのやり方にはっき りとあらわれている。
 第二は、イチかバチかの賭ではなく、平均してかなりの好結果が得られるように、自動車の技術分野における将来の可能性を、ひろくカバーするように計算さ れたとおぼしい重点分散の傾向である。(…)
 第三は、さきにビュイック社に関する記述の中で述べたことだが、自動車の部品や付属品の自家製造の促進を眼目とした統合の促進である。デュラント氏は母 体となる会社に、あまたの部分品メーカーを統合した。(…)」(p.9-10)

    「対抗企業フォード自動車会社(Ford Motor Co.)のフォードが(H. Ford)が現有プラントの内生的膨張の過程で拡大してきた垂直的統合トラスト化を企図した――フォード社は「原料から完成車まで一貫生産(From Mine To Finished Car, One Organization)」をモットーに経営されていた――のに対して、デュラントは独占組織形成期における固有の生産拡張方式としての資本の集中を推 進した。」(井上昭一・中村宏治編著『現代ビッグ・ビジネスの生成・発展・展開』p.116-117)

1909年
    伊藤博文、安重根に暗殺される
    特許法・意匠法・商標法・実用新案法公布
    イタリア、中国を抜き、世界最大の生糸輸出国になる
    田山花袋『田舎教師』

1910年
    日本、韓国を併合
    「資本主義はその発展が進むにつれて、国と国との境界を排除するようになる。かくて日本資本主義はその発展とともに、まるで同心円を描くように外 へ外へと膨張をつづけた。その膨張運動の中での最初の同心円は「国内植民地」internal colony、つまり日本内地における農民層であったが、農民層の分化が進み彼らの利用可能性が涸渇してしまうと、今度は「国内植民地」の地位に朝鮮を据 えることになるが、1930年代になると朝鮮の役割は満州が担うことになるというわけで、絶えず新しい周辺部が築かれることによって、朝鮮はある一面にお いて半周辺的性格を帯びるようになった。日本内地の発展に不可欠な国家機構は、植民地的形態に変形されて朝鮮に移植され、この移植はさらに満州に及ぶ。こ の場合、朝鮮においても満州においても、植民地の支配機構はひたすら中心部即ち日本内地の利益に奉仕する目的のために資源を動員したのであり、近代的市場 関係の発展に必要な条件を整え支援を与えたのもそのためであった。このやり方は、どっちみちヨーロッパ人を真似たいわばそのコピーであって、やり方それ自 体が特にユニークであったのではない。ユニークであったのは、タイミングと歴史的状況であったのだ。」(ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』第1巻 p.40-41)

    大逆事件

    石川啄木『時代閉塞の現状』
「斯くて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今猶理想を失い、出口を失った状態に於て、長い間鬱積し て来た其自身の力を独りで持餘しているのである。既に断絶している純粋自然主義との結合を今猶意識しかねている事や、其他すべて今日の我々青年が有ってい る内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態を極めて明瞭に語っている。――そうしてこれは実に「時代閉塞」の結果なのである。
 見よ、我々は今何処に我々の進むべき路を見出し得るか。此処に一人の青年が有って教育家たらんとしているとする。彼は教育とは、時代が其一切の所有を提 供して次の時代の為にする犠牲だという事を知っている。然も今日に於ては教育はただ其「今日」に必要なる人物を養成する所以に過ぎない。そうして彼が教育 家として為し得る仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、或は其他の学科の何れも極く初歩のところを毎日々々死ぬまで講義する丈の事である。若し それ以外の事をなさんとすれば、彼はもう教育界にいる事が出来ないのである。又一人の青年があって何等か重要なる発明を為さんとしているとする。しかも今 日に於ては、一切の発明は実に一切の労力と共に全く無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ない限りは。
 時代閉塞の現状は啻にそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、大体に於て一般学生の気風が着実になったと言って喜んでいる。しかも其 着実とは単に今日の学生のすべてが其在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったという事ではないか。そうしてそう着実になっているに拘らず、毎 年何百という官私大学卒業生が、其半分は職を得かねて下宿屋でごろごろしているではないか。しかも彼等はまだまだ幸福な方である。前にも言った如く、彼ら の何十倍、何百倍する多数の青年は、其教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育は其人の一生を中途半端にする。彼等は実に 其生涯の勤勉努力を以ってしても猶且三十圓以上の月給を取る事が許されないのである。無論彼等はそれに満足する筈がない。かくて日本には今「遊民」という 不思議な階級が漸次其数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼等の事業は、実に、父兄の財産を食い減らす事 と無駄話をする事だけである。
(…)
斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に、遂に其「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望や乃至其 他の理由によるのではない、実に必至である。我々は一斉に起って先づ此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧と を罷めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」(『明治文学全集 52 石川啄木集』p.262-263)

   箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)、池田室町での住宅の月賦分譲販売を開始
   「阪急の沿線開発は、分譲住宅の売り方だけに特徴があったのではなく、この後、私鉄沿線に住んで大阪市内の勤め先に通勤するというサラリーマンの生 活パターンが成立したことにこそ、その本質的特徴がある。そしてそれは阪急だけの戦略ではなく、私鉄による沿線開発が全体的に沿線にもたらしたものであ る。だがさらにつけ加えるならば、こうして生み出されてゆく中産階級以上のサラリーマンたちの「健康な」郊外住宅地の裏には、「不健康な」見捨てられてゆ く大阪や尼崎の市街地住宅が見え隠れしているのである。」(鈴木博之『都市へ』p.235)

   南北朝正閏問題

   CTR社(現=IBM社)設立

1911年
    辛亥革命
    平塚らいてう『青鞜』
    工場法公布。日本における最初の労働立法。施行は1916年9月1日。

    朝鮮教育令公布
    「第八条 普通学校ハ児童ニ国民教育ノ基礎タル普通教育ヲ為ス所ニシテ身体ノ発達ニ留意シ国語ヲ教ヘ徳育ヲ施シ国民タルノ性格ヲ養成シ其ノ生活ニ 必須ナル知識技能ヲ授ク」

    「修業年限については、一九〇六年に統監府が「小学校」という名称を「普通学校」と改めると同時に、年限を六年から四年に短縮したのを引きついだ ものであった。内地の小学校が六年制になるのがこの翌年だから、台湾とおなじく、ここでも内地より先行していた教育体制が縮減され、逆に内地に追いこされ てゆく傾向をみることができる。授業料徴収は、いうまでもなく、赤字財政を抱えた総督府による経費削減だった。」(小熊英二『〈日本人〉の境界』 p.150)

    「高等遊民」が流行語
    「要するに、当時のある論者が指摘していたように、「高等遊民」発生の原因は、「わが国民の知識欲の工場及び生活欲の増大と、之れに伴はない経済 状態の切迫と、この両面の圧迫なり矛盾なりに」あるとみなされた。すなわち就職難は、一方での青年層の進学行動・選職行動の変化と、他方での不況という経 済状態とのミスマッチに由来すると考えられたのである。
(…)
 しかし、当時の「高等遊民」問題、ひいては就職難問題を社会問題化させたさらなる重要な契機も忘れてはならない。それは「危険思想」に対する恐怖であ る。一九〇八(明治四一)年の戊辰詔書、一九一〇年の大逆事件にみられる支配層の「危険思想」に対する警戒感の強さは、その担い手あるいは伝播者となりう る「高等遊民」に対しても同様に向けられていた。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』p.116-117)

    カフェ一号店、「カフェー・プランタン」が銀座にオープン

    Taylor, F. W., The principles of scientific management, New York ; London : Harper & Brothers (星野行則訳、1913、『学理的事業管理法』、崇文館→上野陽一訳編、1969、『科学的管理法』、産業能率短期大学出版部)
    「科学的管理法なるものはけっして単一の要素ではなく、この全体の結合をいうのである。これを要約していえば、
一、科学をめざし、目分量をやめる
二、協調を主とし、不和をやめる
三、協力を主とし、個人主義をやめる
四、最大の生産を目的とし、生産の制限をやめる
五、各人を発達せしめて最大の高率と繁栄を来たす」(「科学的管理法の原理」(1911)上野陽一訳『科学的管理法』p.333)

    「率を異にする出来高払制度とは、手短にいえば、同じ仕事に対して二種類の違った賃金単価をあたえるのである。すなわち仕事を最短時間にしあげ て、しかもいろいろの条件を完全に満たした場合には、高率の賃金を払い、時間が長くかかったり、またはなにか仕事に不完全な点があったりした場合には低率 の賃金を払うのである(高率で払った場合に、その工員は類似の工場で普通に払われているものよりも、よけいもうけるような単価にしておかなければならな い)。この点が普通の出来高払制度とは全然違うところで、普通の場合には、工員が生産力を増すとかえって賃金をへらされるのである。
 日給制度で働く工員を管理する方法として私が提唱する制度は「人に払うのであって、地位に払うのではない」というところが主要点である。各工員の賃金は できるだけ、熟練の程度、その仕事に尽くす努力の程度などによって決めるべきであって、占めている地位によって決めてはいけない。各工員の個人的な功名心 を刺激するようにあらゆる努力をはらわなければならない。このうちには各工員の行いのよし悪し、きちょうめんの度合い、出勤の割合、正直不正直、仕事の速 さ、熟練および精密の程度などを組織だって注意深く記録していくこと、またこれらの記録をもととして、その工員に払う給料をつねに調整していくことを含ん でいる。
 (…)
 最後に、以上述べたこの制度の効果からでてくる主な利益の一つは、工員と雇主との間に非常に親しい感情を作りだし、ひいて労働組合やストライキなどは全 く不必要になってしまうことである。」(「出来高払制私案」(1895)上野陽一訳『科学的管理法』p.4)

    「布告には、テーラー・システムの導入について明確に述べること、いいかえれば、テーラー・システムが提起しているあらゆる科学的作業方法を利用 すること が、必要である。これなしには、生産性を高めることはできないし、また生産性を高めなければ、われわれが社会主義を導入することはできない。テーラー・シ ステムの実施にあたっては、アメリカ人技師を利用すべきである。(…)労働規律違反にたいする懲罰措置についていえば、それは厳格でなければならない。禁 固をもふくむ刑罰が必要である。解雇も適用してよいが、その性格はまったく一変する。資本主義体制のもとでは、解雇は私的契約の違反の場合になされること であった。だが現在では、労働規律違反のばあいには、とくに労働義務制が実施されているさいには、刑事犯罪がおかされているのであり、それにたいしては一 定の刑罰を課さなければならない。」(「最高国民経済会議幹部会の会議での発言 一九一八年四月一日」『レーニン全集』第四二巻p.74)

    「まず、日本は戦前戦後をつうじて、アメリカ的な経営管理方式を世界でもっとも熱心に輸入してきた国のひとつだといっても間違いありません。とこ ろが、テーラーシステムの母国アメリカと比べての相違点として、以下のような三点をあげることができます。
 第一は、アメリカの場合、テーラーシステムの開発者であるF・W・テーラーがなんのために誰と闘って開発に取り組んだのかというと、労働生産性を向上さ せるため、当時生産の管理権を独占していた熟練労働者あるいはクラフト・ユニオンから生産の実権を経営側に取り戻すためでした。そこで決定的な意味を持っ たのは熟練労働者の熟練を解体することでした。そのためには、生産の計画と実行の分離を徹底してすすめなければならなかった。具体的には、作業の細分化と 労働職務区分の厳密化、動作・時間研究による標準作業量の設定、差別出来高賃金、生産計画の専門部の創設や職調整の導入など、これらがタスク・マネジメン トあるいは「科学的管理法」として体系化されたわけです。他方、日本でも一九一〇年代から官営大工場や民間大工場へのテーラーシステムの導入が能率増進と いうかたちで始まりますが、日本にはそれに抵抗し妨げるクラフト・ユニオンが存在しませんでした。だから、現場の労働者の熟練やクラフト・ユニオンを解体 するという必要性はなかった。むしろ日本では科学的管理法を工場内に適用しようとした場合、労働者の熟練や主体的な生産管理能力を積極的に引き出し活用す るというかたちがとられたのです。
 第二は、アメリカでは労働者の職務区分を狭め固定化させることが熟練やクラフト・ユニオンを解体させる手段でしたが、同時に職務区分は労働組合によって も闘う武器になりました。経営側に職務区分を徹底して守らせることによって、労働者の諸権利や人間性まで守るといった意味合いがあった。日本の場合にもタ スク・マネジメントをやるために、形式的には職務区分が導入されましたが、実質的にはそれは固定化されませんでした。要するに、日本では欧米のような職務 区分の厳密な固定化といった状態が労使関係上の慣行になってこなかったということです。
 第三の特徴は、日本ではテーラーシステムの導入過程で、労働生産性の上昇と賃金の上昇との間に密接な関係性を見出すことができない点です。このことの 持っている意味はたいへん大きい。結局日本においてはテーラーシステムが導入されたけれども、それは一口でどんなかたちだったかというと、労働者は一生懸 命「頭を使って」働けということです。しかし、頭を使っても賃金はとくに上がらないということです。一九世紀からヨーロッパではこういうふうな言葉がある わけです。’ A worker is paid to work, not to think.’「労働者は、働くことに対して賃金が支払われるのであって、考えることに対して支払われるのではない」ということです。このような考え方の 行きつくところがテーラーシステムだと思います。ところが、日本では、私流の言い方をしますと、’ Must think, but not paid to think.’(「考えなさい、けれども考えることには賃金は払いません」)ということになってしまう気がします。労働者の労働態度として、頭を使って働 けということがたえず要求されるにもかかわらず、それに対する賃金は支払われないのが日本の現実です。」(基礎経済研究所編『日本型企業社会の構造』 p.238-240)

1912年
    鈴木文治、「友愛会」結成
    明治天皇死去、乃木希典が後追い自殺
    慶応大学が山名次郎を就職の紹介・斡旋のために嘱託として招請する。

1913年
    都市への人口流出が急増
    猪苗代湖の発電所と東京までの送電線が完成。高電圧による大量電力輸送が実現し、中小企業も含めて電力による動力化が進む
    東北帝国大学(現=東北大学)が女性受験生3人の合格を発表し、初の女子帝大生が誕生

1914年
    第一次世界大戦勃発
    東京駅竣工

    フォード、最初の自動ベルト・コンベアを設置、日給5ドル制度実施
    「アメリカの工業家フォードがとった措置は、心理学の観点からも興味深いものがあります。フォードは従業員の私生活を管理し、彼らに一定の生活態 度を課す一団の監督者をかかえています。食事・ベッド・部屋の大きさ、休憩時間まで管理し、さらに細かいことまで口出しし、それに従わない者を解雇しま す。フォードは雇用者に最低賃金六ドルを支払いますが、そのかわり、会社が指示する労働と生活態度を一致させることのできる人々を求めるのです。(…)た しかに、機械化は私たちを押しつぶします。私のいう機械化とは、知的労働の科学的組織といったものをふくんだ一般的な意味です。(…)」(一九三〇年一〇 月二〇日――タチャーナへの手紙)(片桐薫編『グラムシ・セレクション』p.118)

    「大量の未熟練工を、当初、フォードは職長の権限強化によって管理しようとした。だが、彼らの情実や暴力に対する不満は強く、これが当時のデトロ イトの労働力不足や劣悪な労働環境とも相まって、無断欠勤率や離職率の上昇をまねいた。このためのちには、賃上げや人事・労務を集権的に管理する雇用部の 創設など一連の労働改革を余儀なくされた。なかでも、最も効果があったのは一九一四年に実施された日給五ドル制度だった。
 この制度は一日の労働時間を八時間へと短縮すると同時に、日給を二倍の五ドルへと引き上げるものだった。だが、日給五ドルを得るには、出勤状態、工場で の作業態度はもとより、貯蓄、節酒、住居の整理整頓、英語学校への出席など会社が定めた「適切な」個人生活の基準に達せねばならなかった。それは移民労働 者をアメリカ社会へと同化させ、工場労働者として陶冶することをねらったものだった。工場の規律に従う労働者は高賃金を獲得し、自動車の購入者となりえ た。大量生産に必要な市場も確保されるのである。かくて、日給五ドル政策はこの二重の意味においてシステムを完成させる要の位置にあった。」(鈴木直次 『アメリカ産業社会の盛衰』p.48-49)

1915年
    日本、中国に対し「21か条の要求」
    和文タイプライターが実用化、タイピストを志望する女性が増える
    「割烹着」 を「婦人之友」が家庭用仕事着として考案、動きやすさから家庭に広まる

     D・W・グリフィス監督作品『国民の創世』

1916年
    国語審議会が標準語を「主トシテ今日東京ニ於テ専ラ教育アル人々ノ間ニ行ハルル口語」と規定した
    寺内内閣、臨時教育会議を設ける。以後、学制改革は原内閣にも受け継がれ、大学、高校、高専が急増

    「主婦の友」創刊
    「「家庭」ということばが大衆化したのは、むしろ次にくる商業的な婦人雑誌の時代であった。一九一六年に創刊された『主婦の友』はその年のうちに 二万部、一九二三年には三〇万部、一九三二年には八〇万部と発行部数を伸ばしていった。『主婦の友』を代表とする商業的な婦人雑誌は「家庭」を消費と再生 産の場と位置づけており、「家庭」の主婦に家事育児のための実用的な記事を提供し、とくに家計簿をつけることを奨励した。(…)
 ところがこのような商業的婦人雑誌によって頻繁に「家庭」という語が使われるにつれて「家庭」は「家」との対立をしだいに曖昧にしていった。夫婦関係中 心の「家庭」であったはずであるのに、雑誌の身の上相談に載る家庭婦人の最大の悩みは姑との葛藤であった。(…)
 (…)当時、長男は故郷の家に両親と同居し、次男、三男は都市あるいは植民地において小家族を構成することが多かった。だが都市で結婚して「家庭」を築 いた次男、三男も分家をしないかぎりは戸籍のうえでは「家」に属し、長兄が住む故郷の家にたいする帰属意識を抱きつづけていた。長男が弟たちや姉妹あるい はその家族までを扶養する、あるいは給料生活者となった次男、三男が自分の妻子を養うだけでなく故郷の「家」のために仕送りを続けることがまれではなかっ た。(…)」(西川祐子「日本近代家族と住いの変遷」、西川長夫・松宮秀治編著『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』p.197-198)

1917年
    民間の入社試験で面接が重視されるようになる
    「二代目の秀才官僚に対する疑惑は、一方では高文試験のやり方を反省させたが、他方では、民間会社の入社試験に口述(面接)重視の原則を打ちたて ることとなった。知識の正確さを、かぎられた断面や部分で調べる高文的筆記試験よりも、全人格的把握のできる面接試験を重視し、いわゆる「人物本位」で採 用する習慣をつくったのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.38)

    「組織が巨大化する一方で、大企業は労働者の採用に突然慎重になり、新規採用を従来のように親方職工任せにはせず、健康検査はいうに及ばず身元や 性格、素行なども調べあげるようになった。選抜と採用の費用が嵩めば、移動を少なく抑えるため勤続奨励的な報酬制度が考案されるのも自然の勢いである。移 動が少なくなれば企業特殊的技能を促進するための人的投資を増加する誘引が働くから、その結果労働は一層「固定化」してくる。興味深いのは、 1910〜20年代のこのような制度的変化が、どの大企業でも一様に、あたかも申し合わせたように時期もほぼ同じくして起きたことである。」(岡崎哲二・ 奥野正寛編著『現代日本経済システムの源流』p.154)

    都市の新しい中程度の家として「中廊下型住宅」現れる
「中廊下型住宅は家族を社会から析出し、しかも外から区切られた狭い空間に夫にとっての私生活と家族団欒を保証し、外で働いて収入を得る夫と家事育児に専 心する妻の役割を分けることに成功したのであった。なお台所は土間から板張りになって床が高くなった。割烹着をつけて台所に立つ専業主婦の地位向上を表す かのように晴れがましく、地方では板張りの台所を「東京式炊事場」と呼んでいた。」(西川祐子「日本近代家族と住いの変遷」、西川長夫・松宮秀治編『幕 末・明治期の国民国家形成と文化変容』p.205)

    理化学研究所設立、半官半民で戦前最大の規模と最高水準を誇る

    ロシア革命
    BMW社設立

1918年
    米騒動
「全国で一斉に広がった米騒動は、都市の街頭に都市住民が踊り出た最も大規模な、実力を伴った都市社会運動であった。このような都市社会運動は、それまで も、東京や神戸で、日露講和反対や桂内閣打倒などの要求を掲げ、焼き討ちや関係社宅、関係施設の襲撃というような散発的な形で存在した。これと対照的な米 騒動の都市地理学的な特徴は、オフィス街、労働者街、郊外という同心円的な土地利用調整を生み出しつつあった資本主義の都市空間編成を、見事に世の中に知 らせたところにある。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.341)

    シベリヤ出兵
    ドイツ革命
    第一次世界大戦終戦

    大学令公布、公私立大学・単科大学の設立を認めた(1919年施行)
    「第四条 大学ハ帝国大学其ノ他官立ノモノノ外本令ノ規定ニ依リ公立又ハ私立ト為スコトヲ得」

    「高等諸学校創設及拡張計画」発表
「第一次大戦がもたらした未曾有の経済的好況は、高等教育拡大の絶好のチャンスであった。しかも、学制改革問題の一応の解決も、拡大の実現にとって大きな 障害が消えたことを意味した。しかし、そうした環境の変化が――一時に計画され、かつ実現したものとしては、少なくとも戦前期においては空前絶後の規模を もつ――『高等諸学校創設及拡張計画』という具体的な政策へと結実するには、「積極政策」を党是とする政友会の存在が欠かせなかった。計画は、そういう意 味でまさしく政治的な産物だったのである。しかし同時に、それがたんに地方利益誘導政策にとどまらぬ意味をもつことに留意せねばならない。「入学難」の解 消をその中心目標として掲げ、地域間の高等教育機会の均等な配分を全国規模で志向し、しかもその結果としてそれまでになく多数の若者たちを高等教育進学競 争へと巻き込んでいったこの計画は、その後に続く高等教育の大衆化過程の、幕開けを示すものでもあったからである。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』 p.50)

    貴族院、「科学及工業教育に関する建議」
「当時もまた技術革新の時代であった。産業革命より今日の技術革新にいたるまで、技術は老人・年功者には酷なもので、老兵は消えていく運命にある。「学校 出」とくに「大学出」が時代の寵児になってくると、「大学出」の若い世代は攻撃的で、古い技術者は守勢すら維持できなくなる。こうして、「大学」を出なけ ればダメだというムードが世を風靡し、大正六〜九年の学制改革・大学昇格運動と高校・高専の増設をもたらすわけであるが、これと平行して、まず理科教育、 理工系ブームがおこるのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.26)

    臨時窒素研究所設立、のちに東京工業試験所に合併される

    渋沢栄一を中心に、田園都市株式会社が設立される
    「この会社は渋沢栄一を中心に設立されたもので、渋沢自身は朝鮮の土地開発を手掛けていた畑弥右衛門が土地開発の話をもちかけたのに共鳴し、ほか のひとび とに呼びかけたのであった。そこでは「田園都市経営」が構想された。(…)
(…)
 田園都市株式会社は震災直後の一九二二年頃から洗足地区の土地分譲をはじめた。分譲直後の関東大震災での被害が少なかったため、これが好評となり、後の 住民移入の呼び水となったといわれる。ついで分譲された多摩川台住宅地は、現在田園調布として知られるもので、駅を中心にした放射線状と同心円状の道路網 に特徴があり、商店街と住宅地を分離する、宅地規模が大きいなど、高級住宅地化の条件を備えていた。」(鈴木博之『都市へ』p.303-304)

    武者小路実篤が仲間19人と自分らが掲げる理想の実現の場「新しき村」を宮崎県木城村に建設し、青年たちの間に大きな反響を呼んだ

1919年
    ヴェルサイユ条約締結
   「ヴェルサイユ条約によってなされた規則の結果から明らかになったことは、ヨーロッパの現状の維持をも回復をも不可能にした多くの原因の一つが、西 欧の 国民国家体制は全ヨーロッパに拡大し得ないものであるという点にあることだった。つまりヨーロッパは百五十年以上にもわたって、全人口のほとんど四分の一 については適用不可能な国家形態の中で生きてきたわけである。国民国家の原理の全ヨーロッパでの実現は、国民国家の信用をさらに落とすという結果をもたら したにすぎなかった。国民国家の原理は該当する諸民族のごく一部に国民主権を与えたに止まり、しかもその主権はどこでもほかの民族の裏切られた願いに対立 する形で貫徹されたため、主権を得た民族は最初から圧制者の役割を演ずることを余儀なくされたからである。被抑圧民族のほうはほかならぬこの規制を通じ て、民族自決権と完全な主権なしには自由はあり得ないとの確信を強めた。従って彼らは民族的熱望を踏みにじられたばかりでなく、彼らが人権と考えたものま で騙し取られたと感じた。」(H・アレント『全体主義の起原U』p.244)

   「無権利者が蒙った第一の損失は故郷の喪失だった。故郷の喪失とは、自分の生れ育った環境――人間はその環境の中に、自分にこの世での足場と空間を 与え てくれる一つの場所を築いてきたのだ――を失うことである。諸民族の歴史は個人や民族集団の多くの放浪についてわれわれに語っており、そのような不幸はそ こではほとんど日常的といえる出来事である。歴史的に例がないのは故郷を失ったことではなく、新たな故郷を見出せないことである。(…)それは空間の問題 ではなく、政治組織の問題だったのである。人々は長いあいだ人類を諸国民からなる一つの家族というイメージで思い描いてきたのだが、今や人類は現実にこの 段階に到達したことが明らかとなった――だがその結果は、これらの閉鎖的な政治共同体の一つから締め出されたものは誰であれ、諸国民からなる全体家族から も、そしてそれと同時に人類からも締め出されることになったのである。」(p.275-276)

   「職業も国籍もまた意見も持たず、自分の存在を立証し他と区別し得る行為の成果をも持たないこの抽象的な人間は、国家の市民といわば正反対の像であ る―― 政治的領域においては市民たることはすべての相違と不平等を消し去る巨大な力として働き、すべての市民は絶えず平均化されてゆくのだから。なぜなら、無権 利者は単なる人間でしかないといっても、人と相互に保証し合う権利の平等によって人間たらしめられているのではなく、絶対的に独自な、変えることのできな い無言の個体性の中にあり、彼の個体性を共通性に翻訳し共同の世界において表現する一切の手段を奪われたことによって、共同であるが故に理解の可能な世界 への通路を断たれているからである。彼は人間一般であると同時に個体一般、最も普遍的であると同時に最も特殊であって、その双方とも無世界的であるが故に いずれも同じく抽象的なのである。
 このようなカテゴリーの人間の存在は文明世界に対する二つの危険を孕んでいる。彼らが世界に対して何らの関係も持たないこと、彼らの無世界性は、殺人の 挑発に等しいのだ――世界に対して法的にも社会的にも政治的にも関係を持たない人間の死は、生き残った者にとって何らの影響も残さないという限りで。たと え人が彼らを殺しても、何ぴとも不正を蒙らず苦しみさえ受けなかったかのように事は過ぎてしまう。」(p.289)

    三・一独立運動
    五・四運動
    コミンテルン創立大会。レーニン、プロレタリア独裁の綱領を発表
    ベニート・ムッソリーニ、ミラノの集会でファシズムの運動を開始 ドイツ労働者党がミュンヘンで結成。9月、ヒトラー入党

    ワイマール憲法公布、施行。主権在民、基本的人権をかかげ普通選挙と議院内閣制を採用した
    「第一一九条(一)婚姻は、家族生活および国民の維持の基礎として、憲法の特別の保護をうける。婚姻は、両性の同権を基礎とする。
 (二)家族の清潔維持、健全化および社会的助長は、国および市町村の任務である。子供の多い家庭は、これを埋合わせる配慮(ausgleichende Fursorge)を求める権利を有する。
 (三)母性は、国の保護および配慮を求める権利を有する。
第一二〇条(一)子を教育して、肉体的、精神的および社会的に有能にすることは、両親の最高の義務であり、かつ、自然の権利であって、その実行について は、国家共同社会(staatliche Gemeinschaft)がこれを監督する。」(高木八尺ほか編『人権宣言集』p.203-204)

    東京俸給生活者同盟会(サラリーメンズユニオン)発会。
    「俸給生活者とは、今でいうサラリーマンのことであり、都市化が急速に進んだこの時代には、会社員・銀行員を中心とした俸給生活者が新中間層とし て登場した。彼らはしゃれた造りの一戸建ての貸家を郊外に借り、平日は電車で通勤していた。俸給生活者の数は1920年前後には、東京市の人口の約 20%、全国民の7%から8%を占めていたという。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.101)

    「第一次大戦後、会社の事務部門・流通機構・公共団体が大規模となり、官公吏・会社職員をはじめとする俸給生活者、いわゆる新中間階層が増大した といわれている。そしてその量的増大は、上下の地位の分化をともなっていた。そして、増大したのは下層の俸給生活者であった。(…)
 下層俸給生活者は、工場労働者より所得は概してやや上であるとはいえ、以前の、また当時の上層の管理や会社員とは、ほど遠かった。しかし、彼らは中間階 層なりの生活をする必要があった。ところが、大戦後の物価騰貴およびその後の不況で彼らの生活は圧迫された。(…)
 中間階層において、こうした生活難、失業の危機に直面して、従来みられた、「教養ある」「良家」の妻・娘の、職場進出に対する根強い抵抗は、少しずつ弱 められていった。そして、「小学校を卒業したが高等女学校へやるだけのふんぱつもつかぬし、さればとて女工にするのも本意でなし……」という表現にみられ るように、女工にするには抵抗があるが、「職業婦人」ならばというのが、中間階層に属する者の心理であったろう。」(岩下清子「第一次大戦後における『職 業婦人』の形成」p.47-48)

    「以上から、第一次大戦後ともなると大企業には学卒者の定期採用・長期勤続雇用が浸透し、そのため学歴による階層差が固定化することとなったと推 測できる。それゆえ、両対戦間期になっても大企業における高学歴者の優遇はたしかに変わらなかったと言いうるのであるが、理科系統の多い日立製作所とは異 なり、文科系統が多く進出した三井物産では、学卒者といえども役員にまで上り詰めるのは少数に過ぎなかった。  しかし、昇進問題以上に深刻であったのが高学歴者の失業問題であった。明治末に「高等遊民」の発生として顕在化し始めていた高学歴者の失業問題が、第一 次大戦後の不況のなかでさらに悪化したのである。(…)
(…)
要するに、給与面では高学歴者が優遇されてはいたものの、しかし文化系統では高等教育機関卒業者が急増し続け、高学歴者といえども大企業への就職は次第に 困難となっていった。かりに就職できたとしても、役職者となりうる可能性はかなり低かった。進学者の増大が、社会移動の手段としての高等教育システムを機 能不全に陥らせたのである。」(川口浩編『大学の社会経済史』p.52-53)

    大蔵省印刷局がパートタイマー制度設ける
    「大蔵省印刷局では9月から雇員の採用に時間給制度を設けることになった。苦学生が就業しやすいように便宜をはかったもので、都合のよい時間に出 勤し5時間以上働いたら任意に退局してよいという。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.104)

    「サボ」「サボる」が流行語。神戸川崎造船所の争議で初めてサボタージュ作戦が採用され賃上げに成功。一般的に使われるようになった

    都市計画法
    「日本の都市細民の居住は、すでに述べたように、被差別部落を中心とする歴史的起源を有するゲットーのような存在と、木賃宿の伝統を受け継ぐドヤ 街として の日雇労働者街の両者を空間的基盤にしていた。これは、すでに述べた封建時代の都市建造環境が、近代以降に投射され、「細民」地区のコアとして存在し続け たものである。
 大正以降になると、こうした地区の周辺にある零細工場地区に、植民地化された朝鮮半島の出身者が移住して、エスニックな居住分化を伴いつつ、その集住の 場所をインナーシティに付け加えていった。エスニックな地区として沖縄出身者の集住も並んで進行した。
(…)
 1919年の都市計画法を契機に、ようやく高水準の市街地を建造する法的基盤として、土地区画整理に関する法制が整備された。以後、こうした自然発生的 な土地利用調整がなされたインナーシティの外側に、土地区画整理の施工された、計画的な郊外市街地が徐々に登場してくる。
 都市計画は都市過程への国家の介入である。都市計画の登場は、産業資本主義の都市空間の生産に新たな画期をもたらした。この変わり目は、大正後期から昭 和の初めに見られる。産業資本主義に主導され、市場の「見えざる手」が及ぶ範囲においてのみ形成された都市に対して、市場メカニズムではまかないきれない 都市建造環境のとりまとめと土地利用調整が、国家の介入によりなされるようになった。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.338-341)

    GM、割賦金融を行うGMAC(General Motors Acceptance Corporation)を設立
    「GMは、これまたフォードが無視した販売戦略を重視した。堅実なアメリカ人であったヘンリー・フォードは自動車は貯金をためてから買うものとい う信条を頑固に曲げなかった。だが、GMは逆に、金融子会社を設けて消費者信用を整備し、下取りや割賦販売などによって車を買いやすくした。これはより高 級な車種への買い替えにも威力を発揮し、T型車の持ち主をシボレーへと乗り換えさせる大きな力となった。」(鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』 p.53)

    M・ウェーバー『職業としての学問』
    「さて、学問上の霊感はだれにでも与えられるかというと、そうではない。それは潜在的な宿命のいかんによって違うばかりではなく、またとくに「天 賦」のいかんによっても違うのである。これは疑うべからざる事実であるが、この点と関連して――といってもこの事実を結局の根拠としているわけではないが ――近ごろ若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこんにちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像と は、「個性」と「体験」のことである。このふたつのものはたがいに密接に結びつく。すなわち、個性は体験からなり体験は個性に属するとされるのである。こ の種の人たちは苦心して「体験」を得ようとつとめる。なぜなら、それが個性をもつ人にふさわしい行動だからである。そして、それが得られなかったばあいに は、人はすくなくもこの個性という天の賜物をあたかももっているかのように振舞わなくてはならない。かつてこの「体験」の意味で「センセーション」という ことばがドイツ語的に使われたものであった。また、「個性」ということばも、以前はもっと適切な表現があったように思う。」(p.27)

    S・フロイト「無気味なもの」
    「ドイツ語の「無気味な」unheimlichは明らかに、heimlich(一、秘密の、私の、内密の、知られない、二、(方言)家庭の、馴染 の、親しみある・訳者)heimisch(一、土着の、故郷の、自由な、二、気がおけない、居心地のよい・訳者)vertraut(一、親しい、親密な、 二、熟知せる、精通せる・訳者)の反対物であり、したがって、何事かが恐ろしいと感ぜられるのはまさにそれがよく知られ馴染まれていないからである、とた だちに結論を下すことができる。むろんしかし新しく・親しまれていないものすべてが恐ろしいわけではないから、この関係を逆にすることはできない。ただこ ういうことがいえるだけである、新しいものは容易に恐ろしいもの、無気味なものとなる。若干の新しいものだけが恐ろしいので、すべての新しいものがそうな のではない。新しいもの、親しまれないものは、そこにそれらを無気味なものにする何ものかがつけ加わってはじめて無気味なものになるのである。」(『フロ イト著作集 第三巻』p.327-328)

1920年
    婦人協会、婦人参政権を要求
    日本最初のメーデー

    農商務省が能率課を設ける。能率運動が全国的に高まる
    「大戦が始まると日本の海運業はすさまじい好況に見舞われ、船舶需要が急速に高まった。それにもかかわらず、従来依存してきたヨーロッパからの中 古船購入が不可能になったため、日本の不定期船業者達は一斉に日本の造船業に船舶建造を発注しだした。その結果、日本の造船業は旧来行われていた受注生産 方式ではそれに対応できないだけでなく、そのままではみすみす膨大な利益機会を逸するという状況に直面したのである。そこで造船企業は個々の企業レベルで 船型を標準化し、それを反復生産することで、大量の需要に対応しようとした。しかも彼らにとっては、いかに早く船をつくれるかが、利益の増大に直接的に結 びついたので、できる限りすばやく反復生産を行なうため工程の改善に本腰をいれた。(…)
(…)
 第一次世界大戦期に生産規模を拡大させたのは、造船業だけではなかった。他の多くの産業も市場の拡大に支えられて、生産規模を拡大させた。しかし大戦が 終わるとこれらの産業も市場の急縮に直面せざるを得なかった。そこで、製造業の多くは、一方で企業規模を縮小させつつ、他方で経営の合理化を図らねばなら なかったのである。この合理化の必要性は、企業の目を生産現場へと向けさせることになった。生産現場で無駄を排除し、いかに能率をあげていくかが、企業の 業績の悪化を防ぐことに直結すると考えられたからである。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.130-131)

    第1回国勢調査実施。総人口7700万5500人、内地人5596万1140人
    国際連盟創設

    東大文学部、就職用の掲示板をつくる
    「東京帝大もご多聞に洩れず、経済学部はまあどうにかしまつがついたが、五〇〇名の卒業生を出す法学部は青息吐息、首を切るのに精一杯の会社が、 当面ソロバンもはじけず、セールスもできない、ただ幹部候補生というだけの法学士をとるはずがない。そこで学生は、もっぱら高文試験(上級公務員試験)の 受験勉強にフウフウいっていた。そのなかで、まったく金に縁のない文学部と理学部の卒業生だけが高値で、飛ぶように売れたのだから、ウソみたいな話であ る。
 なぜそうなったかといえば、第一次大戦末期から、高等学校・高等専門学校がボカスカでき、それにつれて中学校も大増設した。また、大学令の改正で、高等 専門学校や私立大学が大学に昇格した。大学の先生は足りない。そこで、ただでさえ足りない高校や高専の先生が大学に引きぬかれ、ひいてはこれもまた増設、 増募で手いっぱいの中学の先生が高校、高専に引きぬかれる。先生の不足は、不足が不足を生み、また不足を生む、という情況だったのである。これは、学校の 増設、学生の増募と、景気変動の波がちょっとずれただけの話である。
(…)
不景気には勝てないというわけで、帝国大学の品位をけがすような就職用掲示板をつくったのなら、就職難をめぐってのいじらしいエピソードとなったろうが、 実はまったく逆で「不景気の文学士高」を誇ったデモンストレーションだったのである。」(尾崎盛光『日本就職史』p.108-110)

    「以上のように、就職難に最も苦しんだのは、私立の文科系の卒業者であり、逆に官公立の理科系学生はそれとは比較的無縁であった。しかし、私立文 科系学生 の大半は大都市部の学校に在籍し、しかも高等教育全体のなかで大きな割合を占めていたから、そのことが深刻な就職難のイメージを広く流布させる結果をもた らしたといえよう。とはいえ、相対的に恵まれた境遇であったものにとっても、その就職状況は大戦ブーム期の先輩たちと比べれば明らかに悪化していたのであ る。」(伊藤彰浩『戦間期日本の高等教育』p.120)

    スローンの「組織研究」が取締役会で承認される
「この研究の目的は、GMの広範な事業活動の全般を通じて、権限のラインを確立するとともに、各部門の活動を調整し、しかも同時に従来の組織がもっていた 美点を、いささかたりとも損じないような新しい組織のあり方を提示することである。
 この研究は、大きくいって、以下に述べる二つの原則に基礎をおいている。
 (1)各事業部の活動の最高管理者に付与される責任事項は、どんな形にせよ制限されてはならない。最高管理者に率いられる各事業部は、必要とするあらゆ る機能を完全に備え、それぞれの自主性をフルに発揮し、筋道にかなった発展を遂げなくてはならない。
 (2)会社の活動全般の筋道にかなった発展と適切な統制のためには、なんらかの中心的組織機能が絶対必要である。」(A.P.スローン『GMとともに』 p.71)

    アメリカでロシア革命の恐怖から「赤狩り」。司法長官の指揮で1万人逮捕
    アメリカで世界最初のラジオ放送

    F・スコット・フィッツジェラルド『楽園のこちら側』
    「多分、こうした若者たちの情熱は、結局竜頭蛇尾に終わるであろう。一、二年も経てば、若者たちは分別をとり戻し、万事は元通りになるであろう。
 だが、彼らの考えは間違っていた。若者たちの反逆は、すべての地方の、あらゆる年齢の男女をとらえた生活のしかたとモラルの革命のほんの序幕にすぎな かったのである。
(…)
 さまざまな力が同時に作用し、たがいに影響し合って、こうした革命が避け得ないものになったのである。
 第一に挙げられるのは、戦争および戦争の終結によってもたらされた人びとの精神状態である。兵隊が訓練キャンプや前線に出発するときに陥る、あの「食い かつ飲んで楽しくやろうぜ、どうせ明日は死ぬんだ」という気分に、この時代のすべての人びとが感染していた。(…)伝統的なタブーがごく自然に崩壊し、そ れがごく当たり前のことになった。戦争という試練が終わっても、こうした若者たちがもとのままの姿で戻ってくるはずがない。戦時の圧迫下で、自衛手段とし て新しいおきてを身につけた連中もいた。何百万人かのそうした青年たちは感情興奮剤を与えられたようなもので、容易にやめられなくなっていた。彼らのかき 乱された神経は、スピードと興奮と情熱という鎮静剤を求めていた。戦争は若者から、バラ色の理想に満ちた楽観的世界を奪っていた。」(F・L・アレン『オ ンリー・イエスタデイ』p.131-133)

1921年
    戦前最大のストライキと呼ばれる川崎・三菱神戸造船所争議が起こる。その後企業側は、工場委員制度で労働組合を代替しようとするようになる。
    企業別組合が結成され始める
    職業紹介法成立、公益