HOME >

障害とセクシュアリティ――企画展「性的少数者の現在」を担当して考えたこと

松永真純(大阪人権博物館学芸員) 20040509
障害学研究会関西部会第21回研究会



障害学研究会関西部会第21回研究会記録
日 時:2004年5月9日(日) 14:00-16:45
会 場:クリエイトセンター(茨木市市民総合センター) 203号室
報告者:松永真純さん(大阪人権博物館学芸員)
テーマ:障害とセクシュアリティ
    −−企画展「性的少数者の現在」を担当して考えたこと−−
司会:三島亜紀子(会津大学短期大学部)

●参加者自己紹介(14:00-14:10):

●松永さんのお話(14:10-15:00)
 大阪人権博物館(リバティおおさか)は差別問題をテーマとした博物館であ
る。勤めて今年で7年目になり、これまでさまざまな仕事をしてきた。
 HIV、被差別部落、障害者に続いて、昨年11月18日〜12月21日、性的少数者
に関わる差別問題の展示を担当した。今日の話は、その展示を担当して考えた
ことが中心となり、異性愛の男性障害者に関わる話が多くなる。
 前述したように、リバティでは障害者問題だけでなく他の差別問題に関わる
展示も担当してきた。そういったさまざまな差別問題に仕事として関わってい
くことの意味について、最近よく考える。そこでは、問題毎によって現場の雰
囲気や話されていることの内容の違いを強く感じることが度々ある。自分を振
り返ってみれば、ぼくの考えは障害者運動の現場などで話されていること、あ
るいはリバティを取り囲む雰囲気に影響を強く受けていることを、それとは違
った雰囲気に触れることによって強く実感させられる。これは、当たり前と言
えば当たり前の話だが、自分の考えや話していることの中身が、どのような場
に規定されているのかを自覚することは非常に大切なことだと思う。このよう
な経験の連続から、障害者問題の視点からだけで考えていくことの問題点につ
いて考えたい。

1.企画展「性的少数者の現在」の経験から
(1) 障害と性の関わり
◇障害をもつ身体/男らしい身体
◇健常者幻想/男幻想

 企画展を準備する段階で、半陰陽の人たちが病院で性器をさらされる経験を
強いられてきたことを知った。ぼくも子どもの頃、静岡で二分脊椎の診療を受
けてきて、定期的に通院していたのだが、そのときには全裸で診療台に寝かさ
れ、医者や看護士の多くの視線にさらされた。この病院での経験は、自分の障
害や身体を恥ずかしいもの、人には言ってはいけないものと思わせるに十分な
ものだった。このことについて、ぼくは性的少数者の企画展を担当するまで、
障害者の身体を恥とする社会の障害観や身体をさらされる子どもの気持ちを考
えない医療関係者の問題だと考えてきた。しかし、なぜぼくは自分の身体を恥
ずかしいと感じたのか。なぜこの経験を長い間、人に言えなかったのか。それ
は、ぼくが生物学的には典型的な男として生まれ、自分が男にあることに違和
感を感じることはなく、男は男らしくあるべきだという価値観の中で育ったこ
とと関係していると思うようになった。男として生まれた以上、男たるに相応
しい身体をもっているべきであり、男らしさを積極的に身に付けていかなけれ
ばならない。このような男の姿は、人の視線にさらされる、弱々しい身体を持
った私の対極にあり、病院での経験を語ることは、この「男」という存在から
の逸脱として受け取られるのではないか。そのような恐怖がぼくにはあったん
だと思う。ではなぜ、自分の経験をこのような性に対する価値規範との関係で
考えることをしてこなかったのか。それは、男であるということが考える必要
もない前提であったからではないか。特権的な立場にいる者が、そのことに対
して無意識であったり、無自覚であったりすることはよくあること。
 これまで、ぼくは障害に対する向き合い方は多様であっていいと思ってきた
し、その多様性を認めない圧力こそ、問題だと感じてきた。しかし、男に対す
るぼくの価値観は、自分自身の障害観、障害との向き合い方の幅を何と狭めて
きたか。健常者幻想が障害者自身の障害観に影響を与えることはこれまで障害
者運動の世界の中でも語られてきたが、男幻想による障害観への影響もかなり
大きいのではないかと思う。健常者幻想というとき、その「健常者」の中身は
かなり「男」というものに重なるのではないか。

(2)「マッチョ」な空間
◇ホモソーシャルの問題と障害者運動
・同性愛嫌悪と女性嫌悪

 「ホモソーシャル」とはセジウィックが、男たちの社会的連帯の中に同性愛
的な欲望が入っていると指摘したこと。しかし、その同性愛的な欲望を隠蔽す
るため、男性間で女性の交換をおこない、また男性を異性愛者たらしめんため
に男性の同性愛を排除する。このように、ホモソーシャルには同性愛嫌悪と女
性嫌悪が含まれている。ある飲み会に参加していたときのこと、その飲み会は
男だけでCPの人もいたのだが、その人が好きな女性の話題になった。その人は
風俗にも行っているということであり、そのことに対して参加者の1人が「だ
けど彼は純粋な目をしている」と語っていた。一途にその女性を思っていると
いうことを言うために、風俗の話が引き合いに出されていたわけだが、それは
セックスワーカーをひどくおとしめていることではないかと感じた。この男同
士の会話の中には、「純粋」な恋愛の対象としての女性と、障害者にも「自
然」にある性欲の対象としての女性(セックスワーカー)という2つの女性像
があり、一方では女性を崇め、一方では貶めている。異性愛を前提とした、こ
うした男同士の会話は、そのグループの絆を確かめる役割を果たしているよう
に思う。

(3)「グループホームの集い」に参加して感じたこと
◇結婚と障害者/性的少数者
・「結婚して一人前」「一人前の人間じゃないと結婚できない」

 昨年の11月におこなわれた「グループホームの集い」に参加した。身体、知
的、精神のそれぞれの障害者で、実際にグループホームで生活をしている人が
パネリストとなり、地域で自立生活をすることやグループホームの役割につい
て考えるものだった。その中で、今後何をしていきたいかと進行役が質問する
と、一様にみな「結婚したい」と言う。本人がそれを言う分には構わないのだ
が、聞き手がそれを期待して、「結婚」が自立生活の一つのゴールであり、一
人前の生活の証として思っているように感じた。結婚という制度自体にももち
ろんさまざまな問題があるが、参加者の中にも同性愛者などの性的少数者がい
てもおかしくないのに、このやりとりは性的少数者の存在を無視している。
「一人前でなければ結婚できない」「結婚できてこそ一人」という圧力は、障
害者にも性的少数者にも現れ方は違ったとして覆い被さっており、その抑圧に
加担していくことは「一人前の人間」という価値観をより強め、そこから外れ
る人たちへの差別も増大していくのではないだろうか。

2.ワークショップ「孕み得るレズビアン−生殖補助技術と優生思想を知る」に参加
して

(1)「孕み得るレズビアン」という視点
◇生殖補助技術による生殖の可能性
◇性的少数者は優生思想から自由か
◇性的少数者は優生思想の対象にはならないか
◇視点の転換の必要性

 2004年2月7日、「孕み得るレズビアン−生殖補助技術と優生思想を知る」
というワークショップを「町家助産院」というホームページを開いている方が
開催され参加した。非常に考えさせられることが多い経験だった。現在、さま
ざまな生殖補助技術が次から次へと開発され、セックスをせずとも生殖できる
ようになってきている。だが生殖補助技術には優生思想の問題が拭いがたくし
みこんでおり、優生思想が社会の隅々に蔓延しているこの社会に生きている限
り、性的少数者も優生思想から自由ではないと思う。また、性的少数者の遺伝
子なるものがもし発見されるようなことがあったとき、この強制異性愛社会に
おいて、性的少数者は優生的選別の対象とされるのではないか。優生思想の問
題について考えても、障害者と性的少数者はそれぞれに起こる問題は違ったと
して、共通に考えることができる問題はたくさんあると思う。
 そして、何よりもこのワークショップに参加して影響を受けたのは、生殖と
は無関係な存在としてこれまでゲイやレズビアンを考えてきたが、「孕み得
る」という視点の転換を迫られたことだった。

(2)(男性)障害者運動は優生思想をどのように語ってきたのか
◇重度障害者、産まれてくる子どもの立場として

 それでは、異性愛男性の障害者運動はこれまで優生思想をどのように語って
きたのだろうか。これは、町家助産院の方がおっしゃっていたことだが、多く
の場合、産まれてくる子どもの立場として、そこから考えてきたのではないだ
ろうか。横塚晃一さんが著した『母よ、殺すな』という本のタイトルからもそ
う思う。

(3) 男性障害者は性をどのように語ってきたのか
◇風俗、武勇伝として
◇「一人前の〈男〉」になる、ということ
・女は「一人前の〈男〉」になるための存在証明の道具?

 では、異性愛の男性障害者は、性についてはどのように語ってきたのだろう
か。先述したような風俗に関わる話や武勇伝に関わるものが多いと思う。倉本
智明さんが書かれているように、それらの語りによって自分が「一人前の
〈男〉」であることを証明しようとし、女はその存在証明のための道具である
かのようだ。

(4)「孕ませ得る男性障害者」という視点
◇セックスあるいは生殖における男性性の問題

 このような「男」としての語り口を考えると、セックスあるいは生殖におけ
る男性性の問題は、男性障害者と言えど、非常に問われていると思う。ワーク
ショップの視点の転換に学べば、「孕ませ得る男性障害者」という視点で性や
優生思想との関わりを考えることも重要ではないだろうか。

3.障害とセクシュアリティ
(1) 着床前診断の報道
◇消去される男性の関与

 2004年2月4日、神戸の産婦人科医による着床前診断が大きく報道された。
その医師の語り口は、「出産を希望する女性の肉体的、心理的負担を軽減した
かった」「女性には健康な子どもを出産し、幸せになる権利がある」「女性の
体を傷つけたくなかった」「(患者の希望があり)受精卵を診断しなければ、
出産をあきらめるなどのつらい決断をさせることになったと思う」といったも
ので、そこには生殖に関わっているはずの男性の関与が見事に消去されている
ことに気づく。

(2) 障害者差別禁止法について
◇障害をもった胎児の中絶禁止条項

 また、現在、議論されている障害者差別禁止法の「出生」の項目には、「す
べての人は、胎児に対して、障害を理由とした中絶をしてはならない」(第1
次案)、「すべての人は、胎児に対して、障害を理由とした選択的中絶をして
はならない」(第2次案)とある。胎児が障害をもっているかどうかをどのよ
うにして調べるのか、胎児は法的主体たりえるのか、実際に誰を罰するのかな
ど、さまざまな問題点があるだろうが、中絶という女性の自己決定や主体性に
関わる事柄を、ジェンダーの視点を踏まえず、障害の文脈だけで考えていいの
だろうか。あるいは、妊娠や出産に関わる問題を女性の問題としてのみ捉え、
男性や社会の関わりを消去してしまってはいないだろうか。2002年におこなっ
た特別展「障害者でええやんか!」で協力して頂いた米津知子さんが『現代思
想』の身体障害者特集でおこなっていた対談に、「女への差別は軽くて、障害
者差別は大変で、男はどこにもいないというのは、まさに現実のありかたその
もの」とあったが、堕胎罪がまだ残っている現状なども踏まえ、複合的な視点
が求められているのだと思う。

(3)「障害者」の立場から語るとは?
◇セクシュアリティ、ジェンダー、民族などとの関わり

「障害者」の立場から語るとは一体どのようなことだろう。これまで、「障害
者」として語ってきたことは、すでにセクシュアリティやジェンダー、民族に
関わる内容が含まれていたのだと思う。障害の問題は障害の問題、ジェンダー
の問題はジェンダーの問題、あるいはセクシュアリティに関しても同様にとい
ったようなとらえ方をするのではなく、これまで障害の問題として考えてきた
ことがジェンダーやセクシュアリティの視点を通したときに、どのように新た
な語り口が開けてくるのか、そのようなことを意識しつつこれからも考えてい
きたい。


●休憩(15:00-15:15)

●質疑応答(15:15-16:45)
(A)着床前診断の医師の話は、医師ということも消去されて二重の消去にな
っているのが興味深い
(松永)たしかにそうだと思う。医師はまるで自分が中立的立場にいるかのようだ。
(B)自分はレズビアンマザーのコミュニティ作りをしているが、障害者運動
の中で選択的中絶を主張することは、実は、胎児が障害者とわかるためにはそ
もそも、出生前診断を必要としてしまうというディレンマがあるという点が、
興味深かった。セクシュアルマイノリティの運動でも同性婚をめぐって、ディ
レンマがある。結婚幻想、カップル幻想が含まれてくる。生殖補助技術に関し
て人工授精等の対象が夫婦に限るとされることでも、排除されることに対する
反対と、技術推進するわけではないというディレンマになる。今日の運動はシ
ンプルではおれないという共通性を感じる。
(松永)障害者運動の中でも、女の問題は女の問題というように、ジェンダー
やセクシュアリティに関する問題を障害者問題とは別の事柄として考えるよう
な雰囲気があると思う。一緒くたに考えたら、問題がややこしくなるというこ
とだろうか。だが、そういう時点で、ジェンダーやセクシュアリティの問題に
関わらないという関わり方をしているんだと思う。それは、結局は障害に関す
る問題に対する追求も狭めてしまっているのではないか。確かにシンプルでは
おれないはずだ。
(C)その話と近いことは、いわゆる「男性障害者ソープランド問題」でもあ
るのではないか。10年ほど前、ある障害者団体の機関誌にソープランドへ行っ
たという武勇伝が載り、反響を呼んでシンポジウムをやった。女性差別だとい
う批判があってフェミニストの方も呼んだのだが、講演録を読んで不毛な印象
があった。セックスワークに関する議論を全く反映していない。「とにかくそ
ういうところへ行くべきでなく対等な異性パートナーを見つけたほうがいい」
「あなた(主催側の男性障害者)も魅力的だ」などと言うばかり。ジャーナリ
ストは「別の趣味を見つけなさい(ガマンしろ)」とまで言っていた。フェミ
ニストは説教者、という受け取られ方をしたのではないか。(だから「女の問
題には踏み込むな」という印象だったかも。)話が噛み合っていないし、フェ
ミニストもセクシュアリティ自身にきちんと向き合っていなかった。これまで
障害者問題とジェンダー問題を交差させて議論してこなかったということ。障
害者問題としてだけ語ることの限界をもっと意識すべき。また、交差させる議
論ができる場を作らなければと思った。
(松永)これまで障害者運動の現場の中で語られてきたことを振り返れば、す
でにジェンダーやセクシュアリティに関わる問題のことも語ってきたんだと思
う。今まではそれを障害の文脈、障害者運動の世界の中での言葉として語って
きたがために、そうとは気づかなかったのではないか。ジェンダーやセクシュ
アリティの文脈で見つめ直したときに、新たな障害の語り口がうまれるのでは
ないかとも思う。掘り起こし作業をしてみてもおもしろいだろう。
(D)企画展をやってみて、博物館に来た参加者の反響や反応は?
(松永)入場者数は季節によって変わるが、それにしても1万人以上とかなり
来場者は多かった方である。団体見学もあったからかもしれない。一部の男の
子たちの反応として、展示室にグループで入ってきて「きしょい」「きもい」
と言いながら、展示を見ることをせずに部屋を出ていくということが何度かあ
った。ホモソーシャルの問題とも重なることだと思う。また、性同一性障害の
問題がクローズアップされていた時だったので、そのテーマに関するパネルを
じっと読んでいる方もいた。今回の企画展では、14人の当事者に自分が性とど
のように向き合ってきたのか(向き合っているのか)について、メッセージを
書いて頂いたため、そのパネルをじっくり読んでいる方も多かった。あるい
は、学生服(詰め襟とセーラー服)や赤黒ランドセルなどから性別二元論を考
える展示をしており、何で制服が展示してあるのか?という反応もあった。ア
ンケートは採らなかったのでそれ以上にくわしくはわからない。
(D)学校から来てどういう啓発効果があるか、ネガティブな反応だけもって
帰らないか、という懸念も考えられるが、リバティのなかで反省会などは?
(松永)展示の正解はこれだというのはなくて、基本的には見る人に委ねてい
る。差別意識の顕在化も含めて、展示を見ることでなにがしかの変化が起これ
ば展示としての力があったのだろうとは思う。しかし、これは担当している学
芸員が当事者かそうではないかという問題とも関わる。自分が被差別当事者で
ある場合、自分の発言などに対して、如何なる結果も引き受けるということが
あると思う。しかし、今回の企画展は異性愛だと認識しているぼくが担当した
ので、さまざまな葛藤があった。また、大阪人権博物館としての展示というこ
とで考えた場合にも、館を被差別者と同一化することはできず、自らの立場が
どこにあるのかは当然問われていることだ。ぼくとしても決まった解答がある
わけではなく、展示に対する反応については、これらの問題と絡めながら考え
たい。ただ、展示を準備していくときには、先ほどの館の立場性とも関わる
が、さまざまな当事者のグループや個人と信頼関係を築いていく作業が不可欠
であり、これらの問題はその上での話であるとは思う。
(D)社会教育機関である博物館としての役割として、一般人はともかく、学
校との関係はもっとフィードバックするなどあるのかなと思ったので意外な感
がする。
(松永)学校教育との連携はプロジェクト委員会などをつくり、これまでもお
こなってきたが、それは常設展示に関してだった。個別の企画展でそれをした
ことはない。
(C)学校などの団体ではわーっと行ってわーっと帰ってくるという感じにな
っている。事前学習などはやっていない印象。「障害者でええやんか」の企画
展の時には感想ノートを見ても「差別はいけない」という型どおりの感想が多
かった。セクシュアルマイノリティ企画展のとき、後ろの壁に、ウェディング
ドレスなどを使った結婚差別反対のポスター(人間にとって結婚がいかに重要
かを強調するもの)が貼ってあって好対照になっていた。自分の身内に起こる
ときに根深さがわかる。でも、別の角度からの取り上げ方が必要。
(E)結婚制度などを相対化しなければいけないというのはまったくそのとお
りだが、それらは一人ひとりのリアリティのなかに根深く埋め込まれてお
り、、理屈だけで簡単に動くものではない。状況を変えていくためにも、問題
を相対化することと個々のリアリティによりそうことの両方が必要だろう。た
とえば、昨年の暮れ、特別展と連動した連続セミナーの1回として、性=人格
論を問いなおす企画があり、ぼくも発題者の一人としてしゃべらせてもらった
が、偶然にもその同じ日、障害者の性を考えるセミナーが同じく市内であっ
て、そちらは、結婚した先輩に学びましょう、といったような企画だった。個
人的には残念に思うが、おそらくは、そちらのほうが多くの障害者にとって魅
力的だったのではないか。客観的な話だけでなく、強固なリアリティにどう働
きかけていくかが課題であるように思う。
(松永)大学の時、部落解放研究会に所属していたが、先日、先輩が結婚する
という電話をもらったのだが、それに対しては素直に「おめでとう」と言って
いた。「愛と性は一体か」というセミナー案を企画していたときは、付き合っ
ている人もおらず、愛と性を一体とするイデオロギーは幻想だなどと思ってい
たのに、当日になるとちょうどその頃はぼくに声をかけてくれる人がいたので
自分のトーンががた落ちになった。
(E)カップルになることそれ自体が悪いのではなく、みんなカップルになら
なければいかんという規範の存在、カップル単位で生きるよう強制する力が働
くことが問題なんだろうと思う。幻想をもっててもかまわない。それが押しつ
けられなければ。多様なあり方の一つであればいいのではないか。
(C)まったくその通り。「どうせ私なんて結婚できないわ」と言う女性障害
者に、つい「いつかいい人が現われるよ」とか社交的に言ってしまう状況もあ
る。そういう現実はあり続ける。だが、別の状況や場の中ではそう言わなくて
もいいこともあるだろう。
(F)結婚や優生思想、部落問題にしても障害者差別にしても、結婚したい、
カップルになりたい、という幻想は、もしかしたら本当はそうなわけではなく
て、社会の側から奪われているからそう思っているのかもしれない。本当に根
っこからそう思っているのだろうか?
(松永)運動は奪われているものを取り戻す活動をする側面があるだろう。だ
が、個人として考えたときにはどうなのだろう。
(F)理屈の上で考えれば、結婚しましょうというほうが魅力的に見えるの
は、結婚の可能性が奪われているから羨ましく見えるということ。奪われてい
ることは個人にとってはリアルな現実。
(E)おそらくそういう面があると思う。奪われているがゆえにとり戻した
い、そのことで一人前であることを証明する。少なくない障害者男性にとっ
て、セックスは、ただセックスであるだけでなく、存在証明のための方法でも
あるんだろうと思う。結果、そこには一種の同化圧力がはたらくこととなる。
だから健常者以上に結婚、カップル、セックスにあこがれる。そこに存在証明
がかかっているから。いわば過剰適応してしまう。障害者運動の流れとして、
既存の社会への統合を目指してきて、それが多少なりとも達成されそうになっ
たことで、さらに同化圧力は強くなっているかもしれない。
(G)カップル幻想や結婚への同化圧力から自由であるべき、という物言い
は、まったくその通りだと思うと同時に、それもまた個人へ抑圧的になること
もあるように思う。結婚やカップルを望んでいないと伝えると「なんてひどい
男だ」と受け取られることもあるだろう。強固なガチガチのリアリティを前
に、どううまく相手に伝えるか、ということを、考えて伺っていた。
(D)結婚しなければいけないという同化圧力は昔からあった。たとえばイタ
コの場合、実家から独立しなければならなかったので、たいてい夫がいる。し
かし今の時代はちょっと同化圧力が違うのでは。結婚しなくてもいいけれども
結婚したい、セックスしなくてもいいけれどいいセックスならしたい、という
社会かも。健常者よりも障害者のほうが結婚にあこがれるというのもわかる
が、健常者が自分たちロマンチック幻想を障害者に投影しているというのもあ
るように思う。健常者の若者などが結婚への障碍、純粋さを求めているように
も思う。結婚しなければならない社会では相手は誰でもいいが、今のあこがれ
はそうではないように思う。
(C)昔でもずっと障害者は圧力を受けていた(私には縁談が来ない、な
ど)。障害者は期待が少なくて、しかも成功者が見えるときに、よけいにあこ
がれが強まるのでは。
(E)おもしろい指摘だと思う。健常者はオリエンタリスティックに障害者の
結婚や恋愛を見ていて、障害者の側は違う目でそれらを見ている。同じ対象を
見ながら、その視線は非対称ということか。
(C)当のマイノリティに楽な状況が生まれているわけではない。
(D)よけいにしんどくなっている。
(H)障害者に結婚や恋愛に対しての憧れが強いという面もあるかと思うが、
それだけでないように思う。例えば共同作業所で働く重度障害者など、職業を
もつという存在証明を得てもそこには自ずから限界がある。次なる存在証明と
して、結婚くらいしかないという現実もあるのではないか?
(D)今のは大事なポイントで、普通の健常者の女子学生でも就職活動がうま
くいかないと結婚を考えるようになることがある。結婚については、さまざま
な自己実現の機会が用意されているともいえる。自己実現の機会が制限されて
くると結婚が大きな目標になる。
(C)男子学生は就職活動がうまくいかなくて結婚を考えることはない
(笑)。やはりジェンダー差がある。結婚が究極の自己実現というのは障害者
にも健常者にもあるが、女性のほうがより強く「愛されて自分の価値が証明さ
れる」と思わされている。(職業で自己実現しにくい女性障害者は、なおさら
かもしれない。)
(E)女性が結婚してもなお働いているということで、自分に対する評価が下
がる、理想型から逸脱する、という面もあるのでは? 経済的な問題だけでな
く、意味をめぐるせめぎ合いもそこにはあるように思う。
(松永)来年12月にリニューアルオープンする。常設展を変えて、障害者コー
ナーも充実させる。また協力、来館などよろしくお願いします。

★松永さんを除く参加者28名
(うち介助者2名)


UP:20040708
障害者と性  ◇障害学研究会関西部会  ◇全文掲載  ◇全文掲載(著者名50音順)
TOP HOME (http://www.arsvi.com)