最近、西ヨーロッパの各国においてベーシックインカムを導入すべきとの声が高まっていることはご承知のとおりであろう。ベーシックインカムとは、その国のすべての成人に対して何らかの水準の給付を一律に、無条件に支給しようという制度であり、給付の方法、給付の水準、ファイナンスの方法、などをめぐってさまざまなバリアントはあるものの、多くの経済学者が検討に値するものとして注目している。
さて、このようなベーシックインカムは、社会保障の用語で言うところの「ユニバーサル=普遍給付」の最たるものであろう。しかし、ベーシックインカムが実現したとしても、それは国民国家、特に裕福な上に社会権の思想がある程度共有されている先進諸国家(すなわち西欧であり、アメリカは違う)において「正当な」社会の成員であると認められている人間に対してのみ与えられる権利である。その意味ではベーシックインカムは決して「ユニバーサル=全世界的」ではない。
ベーシックインカムは、一見すると、「絶対的な」貧困や生存そのものを深刻に考える必要がないほどに裕福になった社会であるからこそ云々できるもののように思える。しかし、西欧諸国においてベーシックインカムが議論されていながら、ほとんど実現の見通しが立たないのは、まさにその国々が裕福だからだという逆説がある。つまり、それらの社会に住む「普通の」人間であれば「見苦しくない生存」にとって十分なだけを労働市場で稼ぐことができるし、そうでない人間は生活保護(扶助)という最後の砦がある。「相対的」貧困が問題とされる国々において、「ベーシック」の保障などいまさら再論の必要などないのだ、というわけである。逆に、南アフリカのような貧困者がマジョリティを占める国でベーシックインカムが現実味を帯びてきている(1)。A・ネグリが「帝国」においてマルチチュードの三つの要求の中の二番目に「最低限の所得保障」を掲げたのは、「国民」という現代社会における最も包括的なカテゴリーからさえこぼれ落ちてしまうような移民、難民、不法移住者など、真の意味で「ベーシック」を保障されねばならない人々を見ていたからであろう(2)。「ベーシック」インカムは後進国においての方が切実な関心の対象であるし,必要とされてもいるのだ。
ベーシックインカムがそのユニバーサリティを「全世界規模」という意味で捉えねばならない理由のもうひとつとして、政治的なフィージビリティ(実行可能性)の問題がある。ベーシックインカムが財政的に実行可能であるとしても、それは政治的には絶対に実行不可能であると指摘される。先進国においてベーシックインカムは多数派の賛同を得られない、という点も政治的フィージビリティの問題であるが、グローバリゼーションの文脈でベーシックインカムの政治的フィージビリティが問題となるのはキャピタルフライトと国境管理について語られる場合である。一国レベルでのベーシックインカムの導入は、個人所得税でまかなうにせよ、富裕税などでまかなうにせよ、金持ちの海外逃亡と貧乏移民の大量流入をまねくとされる。世界規模の政治的意思決定機関を欠いた現在の国家間体制では各国が互いに牽制しあってベーシックインカムの導入には至らない、という結論になる。特に政策決定者が「合理的」であればあるほど、囚人のジレンマ状況は避けられないというのだ。これは、現在のグローバリゼーションと呼ばれる、国家という生産拠点同士の競争激化状況において各国が社会保障の水準を切り下げ,法人税・個人所得税の最高水準の引き下げ、規制緩和などを行っていることを見れば妥当な懸念であるといえるだろう。
この問題はベーシックインカムの擁護者たちの間でもかなりの関心を集めていて、まず先進諸国でベーシックインカムを導入し、後進各国にも倣わせてゆくか,まず世界規模で広く薄いベーシックインカムを立ち上げて徐々に水準を高めてゆくか、という二つの戦略が拮抗している。ベーシックインカムの擁護者たちはベーシックインカムの財政的フィージビリティについてはかなり楽観的であり、それが実行されても個人へのディスインセンティブ効果はベーシックインカム反対論者が懸念するほどではなく、マクロ経済への影響もあまりないと見ている。そして現行福祉国家の抱える問題の大部分――貧困の罠、失業の罠、スティグマタイゼーション、パターナリズム、家父長制的家族像の再生産、膨大で無駄な行政コストなど――が解消されると見ており、「議論の段階は終わった、とにかく実行してみろ」というのが今の彼らの気持ちである。それゆえ、ベーシックインカムをどのように実行に移すかについては、どのような方向性が「現実的」であるかが問題であって、どのような方向性が「望ましいか」は二の次であるといってもよい。国家レベルでのベーシックインカムという「現実主義」よりも、世界規模のベーシックインカムというユニバーサリズムの夢物語のほうが――水準はきわめて低いとしても――現実的ではないかとさえ思える状況があるならば、まずはそちらからはじめてみることにも大きな異論はおこらないであろう。ただし、あまり低すぎるベーシックインカムを拙速に導入しても、その効果の薄さに人々の失望を誘い、ベーシックインカムが愚策の代名詞となってしまい、それ以後一顧だにされなくなってしまうような事態を懸念する向きもある。これについては、わが国で数年前に出された公明党の「地域振興券」などが物笑いのタネになっていることを考えれば、故なしとはしえない懸念であろう。
ベーシックインカムをめぐる論点はさまざまである。そしてベーシックインカムを実施する主体の規模――自治体、国家、世界――の問題はその中でもとりわけ大きな論点の一つなのである。ここでは2002年のBIEN(3)の世界大会で発表されたもののうち、ベーシックインカムと国境・移民などとの関連や世界規模のベーシックインカムを扱った論文をいくつか紹介する。
(1)牧野久美子 2002「ベーシック・インカム・グラントをめぐって−南アフリカ社会保障制度改革の選択肢」,『アフリカレポート』、34号(2002)。また、南アにおけるベーシックインカム導入の動きについては、ここで紹介するVanParijsの論文でもふれられている。また、2001年に多くのNPO団体が連合して結成されたBasicIncome Grant Coalitionなどが積極的に活動している。
(2)山森亮 2003「基本所得 マルチチュードの第二の要求によせて」,『現代思想』,2003年2月号,130‐147頁
(3)Basic Income European Network。ホームページはこちら http://www.bien.be/
内容
本稿において、ヴァンパライスはベーシックインカムを世界規模のプロジェクトとするには、二つの方途を分けて考えてみるべきだとする。第一にベーシックインカムの「膨張swelling」であり、第二にベーシックインカムの「拡散spreading」である。
「膨張」戦略とは、ベーシックインカムを真にユニバーサルな仕方で――グローバルレベルでの運営・ファンド――組織することである。パライスは、ドイツ人アーティストPieterKooistraの"UNO basisinkomen voor allemensen"に見られるこのような考え方を、現実性の面で疑義を呈しながらも、理念としては高く評価している。この戦略で問題となるのはファイナンスをどうするかであるが、世界規模の所得税やトービン税的な新税構想は退けられる。前者は世界的に一律な課税ベースは決定できないためであり、後者は財源として不十分だからである。
その代わりに、もっと検討に値するものとして、世界単一通貨への切り替えと、その通貨のシニョリッジ権を世界全体のGDP成長の水準でのインフレ回避型のベーシックインカムをまかなうために使うべきだとしている。これは、フーバーやロバートソン、そして後述するMyronFrankmanなどが主張しているものである。また、グローバル・タックスとしての排出権取引なども有望であるとしている。
とはいえ、これらの施策が実行に移される可能性は今のところ低いし、やはり長期的には、このようなベーシックインカムの「膨張」戦略はグローバルレベル以下でファンドされるベーシックインカムを代替することはなく、あくまでそれの補助に留まるだろうとしている。パライスとってはやはり国家レベルのベーシックインカムが基本である。
次に「拡散」戦略であるが、これは一国レベルのベーシックインカムを先進福祉国家だけでなく、後進国でも導入させようというものである。ヴァンパライスはこの戦略がうまくいくかどうかについて、結局のところ、それは「それぞれの国次第である」と言っているように思える。彼は、コンゴ、南アフリカ、ブラジル、コロンビア、ウルグアイの各都市を訪問して、南アフリカ以外ではベーシックインカムが真剣な議論の対象となる可能性すら疑わしいとしている。
1. Introduction
筆者の立場、ODAの現状、現在の新自由主義優位の政治-経済論壇、グローバルな民主的コントロールの不在、などについて。
2. A global agenda
世界規模の問題は世界規模の解決策を必要としており、現在の機能主義的アプローチにおける部分的解決の組み合わせでは間に合わないが、私の見解として、それは以下のような相互に関連する三つの要素を含まねばならない。
・地域からグローバルへという能動的な市民の参加を備えた民主的世界連邦主義
・単一の世界通貨
・グローバルな公的財政:グローバルな公共財やグローバルな再分配(地球規模の市民所得:PWCIを含む)のためのグローバルな公的支出とそれをまかなうグローバルな歳入
2.1. Democratic world federalism
2.2. A Single Workd Currency
現在の貧困の原因の大部分は通貨レートにある。先進国と貧困国の為替レートはのきなみ開いているし、アルゼンチン、ブラジル、コンゴ、ペルーなどでは90年から2000年までの間に交換比率が10、000倍以上になっている。これは中産階級の創出を阻害し、逆進的な分配にいたる。通貨の統合がもたらす平等的な分配の帰結については、アメリカの通貨統合がよい例を提示してくれる。
2.3. Global public finance
グローバルな公的財政の唱道者として以下の二人の先人を紹介。
JamesLorimer
C.Wilfred Jenks
3. A planet-wide citizen's income
現行の貧困対策――ボランタリズムのODA政策――は現実的なものとなっておらず、来世の救済の約束に等しい。
グローバル・アパルトヘイトが広く認識されれば、PWCIはリーズナブルなものとして認知されるようになるだろう。とりあえずCIがどのレベルで実現されるかは問題ではなく、ひとまずはその理念を大事にすべきであろう。ただ、私としては、その国の一人当たり所得の50%を下回るべきでないとしたPatriceSpadoniの言を容れたい(BIENNews Flash No. 8、 p.4)。
現行政策(ODA)および代替案――ILO議長のJuanSomaviaによる提案:一日当たり1ドル以下で生活する人12億人に対して1日1ドルを支給――、そしてPWCIのコストを比較すると以下のようになる。
USドル(単位:兆)/年
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現実のODA額(1998年)
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0.05
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ODA目標額:ドナー国のGNP比0.7%(1998)
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0.15
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Juan Somavia案(1ドル以下の人々に1ドル)
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0.44
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Juan Somavia案への上乗せ(2ドル以下の人々に1日2ドル)
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1.47
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PWCI(世界の一人当たり所得の%)
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20%(=$1036/year)
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6.1
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25%(=$1295/year)
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7.6
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50%(=$2590/year)
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15.2
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また、PWCIを世界の所得階層上位25%のみで負担させると、以下のとおり。
一人当たり世界所得に対するWPCIの水準(%) | PWCIの総額(兆USj) | 世界の所得上位25%に対するPWCIの粗税負担率(%) |
世界の所得上位25%に対する純税負担率(%)
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20
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6.1
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25.7
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18.3
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25
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7.6
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32.2
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24.1
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50
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15.2
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64.4
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48.3
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4. Conclusion
コメント
ODAの増額という戦略が効果的であるかは疑問。世界規模でのベーシックインカムというものを考える場合、ベーシックインカムの最大の特長である「個人主義」がネックになることは必然的である。世界レベルにおいて、人間一人一人を脱コンテクスト的に「1人」としてカウントし、捕捉し、権利の主体として保護する制度的主体は存在しないのである。世界の所得階層上位25%には多くの日本人が入ってくるであろうし、上位25%の中にはかなりの格差が存在するはずであり(たとえば、ビル・ゲイツと日本の中流上層世帯)、それに対する一律の課税というのは乱暴すぎるであろうから、細部の制度設計をどうするかの余地がかなり大きい。
(注)主にシステム論の用語。より上位のシステムレベルでよりも、下位のサブシステムに任せたほうが問題がうまく処理されるので、上位システムはあくまで下位サブシステムの守備範囲を超える問題を「補完的に」処理することに専念すべきである、というもの。地方分権の推進などでよく語られる。最近では介護保険の導入の際に補完性の原則が持ち上げられた。ここでは、上位システムから下位システムへという方向だけでなく、それぞれの問題を処理するにはそれぞれに適したレベルの制度や単位があるので、時には下位システムから上位システムへの問題処理の委託が必要だと説いている。詳しくはこちら。
内容
グローバル化の時代において――すなわち、各国家が自らの国境に対する支配力を喪失した時代において――ベーシックインカム受給の適格性とは何であろうか?グローバル化の時代において、旧来のベーシックインカムの議論は二つの点で見直しを迫られている。
@(特にヨーロッパで)移民が恒常的現象となっている時代において、シティズンシップがベーシックインカムを求める妥当な原理となりうるのか?
A個別諸国家が政策の自律性をますます喪失している過程で、国家はなおもベーシックインカムの適切な分配単位でありうるのか?
欧州各国は二次大戦後から現在に至るまで徐々に統合を進めてきたが、この高度の統合化が各国単位のベーシックインカムを難しくしている。とりわけ、移動の自由を保障するEUの各種規則は、他の福祉国家の国民を社会保障において差別することを禁じているが、これは労働者のみならず、その家族にも広げられている。ある一国がベーシックインカムを導入すれば、その国は他のEUメンバー国家の国民にもそれを自国の市民にと同様に与えねばならないのである。これは「福祉移民」の脅威をこの上なく高めるものである。「移民たちは労働力として入ってくるのだから、彼らはむしろ歓迎されるべきだ」という福祉移民脅威論への反論は、残念ながら正鵠を得ていない。実際に統計を見れば、ドイツでもオランダでも、エスニック・マイノリティの失業率は一般国民よりかなり高い。「ダッチ・ミラクル」もエスニック・マイノリティにまでは浸透しなかった。移民のバックグラウンドを持つ人々は、一般国民よりも労働市場への統合度合が低いのはまぎれもない事実であり、福祉移民脅威論はこの現実を背景としている。
これに対して、世界規模でのベーシックインカムとヨーロッパ規模でのベーシックインカムという解決策が考えられるが、前者は非現実的であり、後者にしても問題の本質的な解決にはなっていない。終局的には、平等と開放的な国境は分配に関するグローバルな基盤を必要とするように思えるのである。
ではどうするのか?現状において現実的で実効的な分配の主体は国家のレベル以外にありえない。グローバルレベルでのベーシックインカムと国家レベルでのベーシックインカムとを比較すれば、今のところ後者を採るしかなかろう。ただ、その際にはその適格要件を修正する必要がある。いわゆる「デニズンdenizens」を含めるのである。
欧州域内における格差の大きさから、ハーモナイゼーションの困難は常に指摘されてきた。移民政策においてもそうであるのに分配政策についての困難はその比ではないだろう。確かに、純粋に経済的な視点のみ見れば、このグローバル化の時代においてベーシックインカムのような国家レベルの解決策は愚策に違いない。ドイツやオランダの労働市場政策も移民的バックグラウンドの濃い人々にはそれほど利いてはいない。しかし、政治的、社会的、経済的生活への移民の統合という点では前進が見られたのであり、悲観的になりすぎるべきではない。
コメント
ベーシックインカムには、社会的連帯感が必要だと言う議論は当然である。ベーシックインカムのような制度が社会的連帯を強めるという意見も多い。たとえば、[Ackerman、Bruce/Alstott、Anne、 1999、 The Stakeholder Society、 Yale UniversityPress.]は、2%程度の富裕税によって、21歳を迎えるすべての若者に対して8000ドルのステークを一括して渡すという構想を提案しているが、そこで彼女らは、現在のアメリカの所得格差の広がりと貧困層の拡大を批判しながら、自由とチャンスの平等の国という「アメリカ本来の」姿に立ち返るべきだと言い、このアメリカンドリーム(と言う幻想)を全ての人が共有できることが重要なのだと主張する。このアメリカの自己像については、われわれから見れば多少噴飯ものといった気もするが、この意見は、「自由」を声高に叫びながら「再分配」を批判する最近の風潮に対して、素朴だが強力な疑義を呈するものとなるだろう。「努力した人が報われる社会」にすべきだ!という意見、「再分配は拠出をせねばならない側の人間の自由を制約するものであり、財産権の侵害であり、強制労働も同然である」といった粗雑な意見に対して、彼らのいう「自由」がそれほど大事なものであるのならば――彼らのいう「自由」はおそらく市場世界において高いステータスを得ること(それは、事業に成功すること、労働市場で高い評価をえる、つまり高いサラリーを得ること、高い金銭と引き換えにしか手に入らないものの消費者となることなどであろう)である――、分配を受ける人々(いわゆる「負け組」)がこの自由を享受しえない現実は正義に悖ると言わねばならないはずである。それは当然のことながら、この競争におけるスタートラインの絶対的な不平等、そしてますます大きくなる不平等に対して是正を求めるものでなければならないはずである。
国内レベルでは、このスタートラインの不平等を是正するものとして「再分配」が拡張されてきたし、デモクラシーの制度上、それを今後も拡張することは可能であろう。しかし、国家間でのこの不平等の大きさは、先進諸国内の不平等の大きさの比ではないし、国際社会にはそれを矯正する制度が決定的に欠けている。やはり、グローバルな再分配のネックは強制力ある不平等の矯正装置(政府)の不在に尽きるのである。
誰がベーシックインカム給付の対象となるべきかについての合意形成は、その社会にどの程度の連帯感があるのかに帰着するであろうが、そのような連帯感は制度によって「つくられる」という面が強い。ただ、ーシックインカムの合意可能性は連帯感の強度の単純な比例関数ではないだろう。というより、そのような連帯感は「距離」や「規模」といったものの単純な関数ではないであろう。われわれがベーシックインカム実施を考えるとき、都道府県単位や基礎自治体単位のベーシックインカムはほとんど想定されない。それは単純に自治体の実行能力の低さや自治権の弱さという理由ばかりでもないであろう。ここに、われわれは近代国民国家というものの忠誠調達能力の強さという特殊性を認めざるを得ない。これが国家という「制度」の強さであり、人々の行為が制度をつくるのではなく、制度の存在が人々の行為を律するという実例である。そもそも、人間の素朴な連帯感を云々するには、国家は大きすぎる単位なのだから――だからこその「強制力」であろうが。
現在のところ、唯一のベーシックインカムの実現形態であるアラスカ・パーマネント・ファンド(APF)は州レベルの所得給付ではないか、という反論はあろう。ただ、私の現時点での見解は、APFは、アラスカという辺鄙で過酷な位置に暮らし、そこにある大自然の管理人という立場さえ担っている地元住民への「補償」という意味合いが強かろうと思う。日本における、電源地域の特別交付金を受け取るのと同じような感覚ではないだろうか。
とはいえ、この論文で示された重要な点は、やはり、所得移転を進んで受け入れるような社会的連帯とはどのようなものか、という点であろう。「社会など存在しない」と放言して福祉国家解体を仕掛けたサッチャーや、福祉を切り捨てる現在の日米首脳が国民に半ば強要する社会的連帯とそれとは質的に異なるものなのだろうか。個々人の心理としては同じメカニズムに発するものが、社会の文脈によって、異なった社会現象として顕現するものなのか、それとも、個々人の心理メカニズムの段階ですでに両者の間に何らかの違いがあるのか、など、社会科学者が、自らの領分の理論や方法のみによって、これに一定の回答を与えることはかなり困難である。
だが、社会科学者が「社会的連帯」の質を問題とする視点を持たなかったという指摘には答えてゆかねばならないだろう。現在、この国の論壇では、「偏狭なナショナリズム」と「健全なナショナリズム」という区別がよく語られるが、両者が質的にどう異なるかを示す政治家も学者も皆無である。日本人の多くはこれが個人の思想・信条――日本人にとっては私的な「好み」と大差ない――の問題だと考えているためだろう。ナショナリズムや社会的紐帯といったものに関して、このようなほとんど使い道のない区別ではなく、「所得移転の拡大を容認する社会的紐帯(ナショナリズム)」と「排他的な安全保障を主張する社会的紐帯(ナショナリズム)」という区別が与えられることは、もう少し客観的にナショナリズムの質を判断するための材料となるかもしれない。