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正義論にケアの視点を導入する

――Iris Marion YoungとEva Feder Kittayの依存概念を中心に――

大阪大学大学院人間科学研究科(社会学) 樋口明彦
E-mail : looking4ujp@ybb.ne.jp
アイリス・ヤング研究会(2004/01/19報告 01/23改訂版)



◇Young, Iris Marion
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/young.htm
◇Kittay, Eva Feder
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/kittay.htm


1 ロールズ批判の動向

  ロールズが『正義論』のなかで「公正としての正義」というテーマに基づいて、「正義の二原理」を提示して以来、かずかずの批判がなされている。とりわけ、ロールズの哲学的構想の基盤である合理的個人主義に対する批判は、彼の正義概念そのものが前提とする暗黙の諸条件をあぶりだして、いっそう具体的な問いを提示することにつながったと言える。つまり、いったい誰の正義なのかと。
1−1 コミュニタリアンによる批判
1−1−1 「負荷なき自己」の批判(サンデル)
1−2 フェミニズムによる批判
1−2−1 家族内部による正義(オーキン)(Okin 1989=1994)
  フェミニズム批判の嚆矢であるオーキンは、ロールズの正義論が家族内部における正義に関心を払わず、もっぱら家族の伝統的な家父長的性格を追認していると批判する。オーキンによれば、正義に対する合意を取り交わす当事者たちとは、「家長」にほかならず、女性・子ども・老人などは、そうした合意の当事者から外されている。いわば、女性は、私的なつまりは正義原理にかなうことのない領域=家族に属するものとされ、家族とはあくまで未成年が社会性を育む限られた空間でしかない。ロールズの正義論は、公的領域と私的領域の二元論的な性格=性別役割分業を兼ね備え、その境界に沿って男性と女性の活動範囲が不均等に配分されたものとなっている。
1−2−2 「正義の倫理」VS「ケアの倫理」(ギリガン)
  こうした区分の成立経緯を女性の道徳的発達の見地から論証したギリガンは、男性と女性の道徳に関する捉え方の違いを「正義の倫理」と「ケアの倫理」として対置した。キムリッカは、道徳的概念の違いを次のようにまとめている(Kymlicka 1990=2002: 418-28)。
@ 普遍性 VS 個別的関係の配慮
→普遍性や公平性VS既存の人間関係のネットワークと言い換えることもできるが、ネットワークの範囲を人類全てと捉えれば、普遍的な意味を持ちうる。
A 共通の人間性の尊重 VS 特異な個別性の尊重
→一般化された他者VS具体的な他者に対する視点と言い換えることもできる(ベンハビブ)。ただし、ロールズの原初状態が、具体的な他者に対する推論を封じているわけではない。
B 権利の主張 VS 責任の受容
→自己防御のメカニズムVS他者に対する福祉への配慮と言い換えることができる。しかしながら、リバータリアニズム以外の政治理論は他者への配慮を積極的に認めている。
  実際は、この三つの区別は非常に曖昧なものであり、相互補完的であるとさえ言える(後述のキムリッカ参照)。その後の経緯を見れば、正義に対するケアの対置というアプローチは、男性と女性の二項対立を強めるというよりは、いわば、男性主義的な特徴を多分に兼ね備えた正義論に対する組み換え可能性という地平を切り開いたと言える。おそらく、キッテイとヤングの論説も、そのような系譜に入る。

2 依存概念の導入(キッテイ)(Kittay 1999)

  このような批判を受けて、自立した諸個人同士の合意に基づく正義理論の射程に、他者へのケアや配慮という要素が積極的に導入されることとなった。以下では、キッテイの『愛の労働』で展開されている議論を追うことにしたい。
2−1 依存概念によるリベラリズム批判
  依存に基づく批判は、リベラリズムが前提とする平等に対するフェミニズム的な批判を意味する。平等なものたちの集合として見なされる社会概念は、不公正な依存、つまりは幼児、子ども、高齢、病気、障害らの依存を覆い隠す。われわれが依存的であっても、社会的協働による財をめぐる競争に平等に参入するようにはしつらえられてはいない。さらに、依存者をケアする者は、ハンディキャップを抱えながら、社会的財をめぐる競争に参入する(例えば、就労義務のあるシングル・マザー)。実際、平等とは非常に曖昧な概念であると言える。誰のための平等なのか?いかなる手段による平等なのか?何の平等なのか?キッテイの目論見は、われわれが避けることのできない依存を視野に収めるような平等理論を構築することにある。
  キッテイによれば、曖昧な平等概念に対する批判は、以下の4点が挙げられる(Kittay 1999: 8-17)。
@差異概念による批判 
→女性性の擁護。差異の抑圧にこそ目を向ける。
A支配概念による批判
→Catharine MacKinnonによれば、平等と差異ではなく従属と支配こそが、フェミニズムによる変化にとって意味のある基準である。支配による批判は、支配が差異に先行すると考えるので、ジェンダー中立性にも差異の容認にも反対する。支配アプローチは、男女間の権力格差をなくすため国家権力の使用を求める。
B多様性概念による批判
→男性と女性という性別だけではなく、人種・階級・障害・年齢などの格差に基づいて、女性同士のあいだでも問題が生じうる。
C依存概念による批判
→依存による批判は、平等な者たちから成る社会への女性の包摂、男性が保持していた権利や特権へのアクセスを女性に与える包摂に批判的に応えるものである。
  第一に、この社会概念は、子ども、年寄り、病人という人間の生存条件の一部であって避けることのできない依存や非対称性を隠蔽している。自由と平等を共に考えるとき、世帯主だけを想定するのか、あるいは家族に属するすべての者を想定するのかで、意味が違ってくる。
  第二に、平等という仮定は、われわれの社会行為の多くが対称的な立場にいる人同士のあいだで行われているわけではないことを隠蔽する。
  第三に、このような社会概念に基づく平等は、性別役割分業を一面的にしか見ていない。つまり、女性を男性側に包摂するだけで、女性側にある労働の再配分をまったく考慮していない。依存労働の分配をどうするか?中産階級の女性が依存労働を放棄しているとすれば、その労働は、それほど生活の豊かでない他の女性たちの間で再配分されているのではないのか。Marilyn Friedmanによれば、多くの女性がサービスセクターに移動して、裕福な家庭の家事サービスに従事している。
  したがって、問うべきなのは、依存労働が望ましいか、望ましくないかではない。むしろ依存労働がそれを担う者を平等な者たちからなる階級から排除するかどうかであって、そうであるならばそのような排除をやめねばならない。諸個人の自立に基づいて平等を理解すれば、包摂と同時に、排除もまた生み出すことになる。

2−2 依存労働とは何か
2−2−1 繋がりを基盤とした平等性
  もし、合理性や利害を兼ね備えた個人として人々を考えるのではなく、ケアや気遣いという繋がりのなかにいる者として人々を考えれば、そのような関係性を特徴づける共通性を考えるようになる。その共通性は、われわれがずっと親しんでいる個人を基盤とした平等性individual-based equalityというよりはむしろ、繋がりを基盤とした平等性connection-based equalityを形作るものなのである。繋がりを基盤とした平等性にとっては、特別な関係に立っている他者に対する私の責任は何なのか、他者の私に対する責任は何なのか?という問いこそが重要な意味を持つ(Kittay 1999: 28)(→権利の主張VS責任の受容)。
2−2−2 依存労働、依存労働者、被保護者
  キッテイは、依存する者たちのケアは仕事だという点を強調するため、workという言葉を使用する。この言葉は、フェミニストが労働として強調してきた他の活動の特徴も含んでいる。たとえば、ケアや性的な気配り=世話を伴う愛情労働affectional laborは、依存労働と重なるが、それと同じと言うわけではない。依存労働は、愛情的側面がなくても行えるが、セクシュアリティは依存労働のなかには入らない。また、家事労働のような家庭における労働も依存労働とは異なる。依存労働は、家庭のなかだけで行われるのではなく、保育所や病院でも行われうる。また、有償か無償かという問題も重要だが、家族に対する義務として女性によって行われているという事実はかわらない。
  また、こうした仕事を行う者を依存労働者dependency workerと呼ぶ。依存労働者は、自らのエネルギーや注意を受益人、つまり被保護者chargeに直接向ける。依存労働者とその被保護者の関係を、依存関係dependency relationshipと呼ぶ。私がここで使う意味での被保護者とは、他者のケア、保護、管理、支援に預けられている者を指す。
2−2−3 依存労働と女性の従属、「協調的な対立」、副次的依存
  たとえ依存労働者とジェンダー中立的に呼んだとしても、女性が圧倒的に多いのは事実である。また、彼女たちは、貧困、虐待、副次的な地位に甘んじることも多い。また、家父長的結婚のもとでは、女性はしばしば経済的搾取と同じく、精神的・性的・身体的虐待を受けることもある。
  また、女性と男性の家族生活には、利害的に一致するものと対立的なものがありえる。それを、センは「協調的な対立cooperative conflicts」と呼んでいる。核家族の中で、家族の依存労働者は、家族単位の外でのみ手に入れることのできる資源を持つ他の非依存者と協調的な対立の関係にある。そのとき、しばしば依存労働者は脆弱な立場におかれることになる。こうした関係を踏まえると、依存関係に関して、「キッテイの提起した関係性は、二項関係ではなく、むしろ三項関係――依存労働者、その相手、依存労働が依拠する資源を保証・提供する「供給者」――であった」(Ruddick 2002: 217)と言える。こうした関係には二種類の不平等がある。一つは、依存する被保護者と依存労働者間の能力の不平等である。もう一つは、依存関係にあるメンバーと第三者との権力の不平等である。端的に言えば、この第三者を「提供者provider」と呼ぶことができよう。また、依存労働者の場合、提供者による資源管理が依存労働に対する一般的な評価の低さと結びついて、依存労働者の自立の可能性を奪っている。依存労働者と提供者の権力の不平等は、状況の不平等でもある。交渉する足場が悪いということは、副次的依存の状態、つまり依存労働者自身が依存状態にいることを意味している。その状態を耐えるには、第一に自分自身、依存者、その関係を維持するために必要な外的資源へのアクセス、第二に道徳的にも社会的にも価値ある人間だという自己認識が重要な役割を担う。
  このような依存労働者に対する評価の低さは、アリストテレスによる奴隷や女性に対する道徳的ヒエラルキーに遡る。平等のイデオロギーは、依存関係とは関係のない自立した個人というビジョンに依拠している(Kittay 1999: 42-8)。

2−3 ロールズ再考
  ロールズの理論は、人間の依存という事実、そしてこうした依存が社会組織にもたらす影響を捉えていない。彼は、政治的なものから依存するものへの責任を脱落させている。これは、平等というリベラルな理想にも当てはまることである。
  平等は、ロールズ理論の要である。「すべての人々は道徳的に等しい存在である」「社会組織は、すべての者によって等しく享受される政治的自由、平等な機会を持った公平な経済的配分をもたらすべきである」。とはいえ、依存関係にある者は、ロールズの平等主義の概念領域から外れている。
2−3−1 ロールズの五つの前提
  以下のロールズの五つの前提を批判する(Kittay 1999:81)
@正義の環境が、うまく秩序づけられた社会の概念範囲を規定している。
  ロールズの言う正義の環境には、依存が考慮されていない。ロールズは、平等な傷つきやすさについて語るが、依存から生じる傷つきやすさは、すべての者が等しく傷つきやすいという状態ではない。それは、誰かが特別に傷つきやすいという状態なのだ。確かに、ロールズは世代間の関心については語るが、依存する者のケアについては触れていない。
A規範は、「すべての市民は、全生涯にわたって完全に協働する社会成員である」という理想化に訴えかけ、かつ向けられている。
  依存が正義の環境の一つとして理解されるとすれば、依存する者は、依存の時期にいる完全に機能する市民として表象することができよう。このように、弱い解釈は包摂されるべき依存する者への配慮を可能にしてくれる。
B自由な人間とは、自らを「妥当な要求を自ら生み出す源」と見なす者を指すという考え方。
  ロールズは、良き社会にいる市民を「正当な要求を自ら証明する源泉」としてとらえる。だが、「正当な要求を自ら証明する源泉」を言うことは、依存労働者にとっての自由を誤って特徴づけている。なぜなら、自由とは、独立に生じてきた要求と結びついているように、他人から生じる要求とも結びついているのだ。例えば、他人の望みをかなえることが私の望みだとすれば、私の望みは利己的なものではなく、非強制的で、他人と結びついた、セカンドオーダーの望みだといえる。最終的に、デューイ講義の中で使われた正当な要求の自己発案者self-originatorという概念は、当事者は正当な要求の「自ら証明するself-authenticating」源泉だという考え方に取って代わられた。
C正義に関する人間の道徳的力とは、1)正義感覚、2)自分自身の善に対する考え方である。このような道徳的力に基づく基本財のリストは、福祉を間主観的に比較する際の指標として役立つ。
  ロールズの基本財のリストには、ケアへのコミットメントから生じる財を無視している。こうした財が必要だとすれば、自分自身をケアできなくなったとき、すぐに応えてくれる依存関係のなかでケアされ、そして自分自身が過剰に犠牲を負わずに他人のニーズを満たすという財こそ、ロールズ的意味での基本財である。
D社会的協働という考え方は、協働的に配置されている人々の平等を前提とする。
  社会的協働という概念のなかで、依存への関心は政治的正義にピッタリ当てはまる。Doulaとは、ギリシア語で奴隷や従者を意味し、今では他人のためにケアをする人々のためにケアするケア提供者を意味する。Douliaの原則とは、生き残るためにケアを必要とするように、他人(ケア労働をしている者を含む)がケアを受け取れるような状況を提供しなくてはならない。ケア提供者の福祉を満たす方法を考えれば、それはDouliaの公共的な考え方と言える。

3 基礎構造を捉え直す(ヤング)

3−1−1 多元的な家族形態の承認(Young 1997)(Young 2002)
  ギャルストンは、経験的側面(離婚やシングルマザーの社会的悪影響)と規範的側面(自立independenceという市民的徳)という二つの側面から、「損なわれていない両親からなる家族」を擁護するが、ヤングは彼の見解に批判を加える。
  経験的側面に関しては、ギャルストンは、離婚や一人親という家族形態が子どもの養育に悪影響を与えると指摘し、結果的に婚姻を推奨するが、ヤングは彼の見解に懐疑的である。確かに、一人親世帯の望ましくない唯一の説得的な例証として、貧困である場合が多いという事実が挙げられる。しかしながら、ギャルストンは、共稼ぎの多くの家族で、男性賃金と女性賃金に大きな格差があることに触れていない。つまり、ギャルストンの議論は、ジェンダーの不平等と男性支配に対する視点の欠落に行き着く。自立はリベラルなシティズンシップの手本となる徳だが、母親の徳には男性への依存が含まれている。男性は、家事労働や育児に対する平等な責任を取らずにいる。なぜなら、彼らはそうしなくてもいい力を持っているからだ。また、女性の従属や依存によって、女性は殴打やレイプの危険に晒されるようになる。女性の離婚や再婚の拒否は、むしろ不正な従属からの解放と捉えるべきなのだ(Young 1997: 114-23)。
3−1−2 自律autonomyと自足self-sufficiencyの対比
  規範的側面に関しては、自立independenceという規範を再吟味する必要がある。ヤングは、市民的価値そして徳のあり方として自立を評価する共通感覚に疑問視している。なぜなら、第一に、子ども、老人、病人、身体障害者や精神障害者など、自立できない多くの人々が存在している。第二に、主に女性からなる依存労働者が存在する(Kittay 1999)。自立を規範と見なせば、依存する人々とその特質が二級市民と見なされることになるだけでなく、見えない存在となってしまう。
  依存する者たちも自立したくないといっているわけではない。つまり、自立を二つの意味に分けるべきなのだ。一つは、自律autonomyである。これは、自分の人生に対する選択を行うことができ、なおかつ他人の強制を受けることなくその選択に基づいて行動することを意味する。もう一つは、自足self-sufficiencyである。これは、自分のニーズを満たすときに誰かの助けや支援を必要とすることなく、自分の人生プランを実行することを意味する。かつての伝統ではこの両者の意味を合致させることが目指されたが、現代の平等主義的な社会運動によって自足と自律の連携が崩れ去ることになったのである(Young 1997: 123-7)。
3−1−3 社会貢献と就労の区別
  自律と自足を混同する背景には、ギャルストンが社会貢献をなすことを仕事を持つという意味での自立とを誤って同一視している事実を指摘できる。金を稼ぐことだけが社会貢献ではない。公正な社会は、依存労働者にまともな物質的満足を与えることによって、依存労働を社会的貢献と認めることになるだろう。コミュニティ作りやサービス提供なども、労働市場に含まれない社会貢献の最終カテゴリーと言えよう。ホームヘルプ、子育て、移送手段の改良、職場設備の改善、フレキシブルな労働時間など(Young 1997: 127-33)。
  社会的貢献を職につくことから区別しなければ、以下のような問題が生じうる(Young 2002: 42)。
@自らの尊厳を損なうような仕事を断ることができなくなる。
A無償労働、私的なケア労働、家事労働の位置づけが曖昧になる。
B期間に限定が設けられることで、スキル開発が特権化される。
C「強くて元気な労働者」という規範が常態化することになって、あまり働けない者、仕事が遅い者に対するスティグマが強くなる。
D社会的理想とすべき「意味のある仕事meaningful work」が、ますますユートピア的なものへと後退してしまう.
  こうしたヤングの見解は、社会政策的には、新たなジェンダー化された二重労働市場を生み出して、ジェンダーの不平等を強化する福祉改革(ウェルフェア・トゥ・ワーク政策)への批判へとつながる。さらに、ヤングは、ロールズのいう基礎構造の問題へと批判の矛先を拡大していく。
3−2 基礎構造への視線(Young 2003)
  初期ロールズ『正義論』、中期ロールズ『政治的リベラリズム』、後期ロールズ『公正としての正義:再論』に分けて考えてみる。
  ロールズは、正義の主題を基礎構造と見なしていた。ロールズによれば、基礎構造とは、社会の主要な政治的・社会的制度が、社会協働の一つのシステムとなる方法であり、それらの諸制度が権利と義務の割り当てを行って、時を通じた社会協働から派生した利益の分配を規制する方法のことである。例えば、司法の独立を伴った政治制度、法的に保証された所有制度、経済構造(生産手段の私的所有を伴った競争市場システム)、ある種の家族など。ロールズの正義論は、正義の主題として、個人行為やその相互行為か、それとも諸制度が適当なのか、という問題を提起した。正義と不正義の評価は、何よりも社会の基礎構造に関わるのではないか。
  ロールズの論点には、一つの緊張がある。それは、一方で、財の公正な配分に関するもの(権利と自由、職と地位、所得と富)、他方で、基礎構造のあり方である。配分に着目すれば、基礎構造の作用そのものから、この作用の結果へと目をそらせることになろう。また、このように焦点を当てれば、労働分業、意思決定力の規則、人々の行動や特質を正常化させるプロセスなどの、分配以外の同じく重要な論点を無視するか、曖昧なものへとしてしまうだろう。配分に関する関心が他の関心によって取って代わるべきだと言いたいのではない。むしろ、わたしの言いたいことは、社会の基礎構造を含む正義の問題は、財の配分と言う概念にとどまる問題よりも大きな問題で、それらに還元すべきではないということである。特に、われわれが住んでいる社会の基礎構造は、たとえ配分に関する効果をもたらすとしても、労働の社会的分業、意思決定力、配分以外の正常化を含むものなのだ。
3−2−1 経済的正義と労働分業
  ジェンダーの正義からみた労働分業について。オーキンは、女性に対する不正の源は、性別分業であると論じている。家族内における正義の問題を考慮していない点で、ロールズを批判している。しかしながら、後期ロールズ『再論』では、家族内における正義の問題を扱うようになった。ロールズは、家庭にいる女性も、夫の稼ぎを平等なかたちで法的に共有すべきであると論じて、オーキンの意見に従っている。
  オーキンと後期ロールズは、家族の労働分業における正義の問題を配分の視点から概念化している。有償労働と無償労働の構造的分業のなかで、女性と男性は家庭内労働を等しく共有するか、無償労働を行う者は、賃金を稼いでいる者に金銭的に補償されるべきである。しかしながら、ここでの議論は、私的な家庭のケアワークと公的な賃労働との構造的な分業に直接反論するわけではない。労働の性別分業の最も基本的な構造的問題は、さまざまな種類の労働に対する広範なインプリケーションを担っている。例えば、出勤日の形態や長さに対する雇用者や労働市場の期待、有償労働における性差別やジェンダーに対するステレオタイプである。ケアワークが、何よりも家族の私的責任として理解される限り、社会政策はそれに十分な注意を払うことができない。だが、こうした関心から、ケアワークは商品化され、官僚主義的に行われるべきだと言うことはできない。基礎構造をいかに組織化すれば、ケアワークが適切にニーズを満たし、ふさわしい承認を受け、他の労働と平等に協調することができるか、こうしたことに関して、リベラル民主主義ではほとんど何も考えられていない。
3−2−2 意思決定での正義
  意思決定における問題点。主要な意思決定の力を持っているエリートと、ほとんど制度に対する意思決定の力を持っていない者がいるように、協同的・教育的・宗教的・その他の制度が構造化されているのは、正しいことだろうか。社会制度における意思決定がいっそう民主的に組織化されるように、正義は求めるのか。
  私はイアン・シャピロに同意して、すべての制度に民主的な意思決定という仮定を主張する。ここで、私の言いたいことは、いかにして意思決定における正義の問題が、正義を理論化するロールズのアプローチを乗り越えるかということである。ロールズは、公的機関と民間機関の区別を前提として、政治的自由を前者にのみ適用している。
  だが、こうした視点は別の問題に触れていない。それは、生産や金融にまつわる民間機関での意思決定である。ロールズは、労働管理のシステムは、正義の2原則と一貫していると言う言明以外は述べていない。だが、こうした応えには満足できない。いっそう強く言えば、個人的自由や富や所得の配分に終始する正義アプローチの偏りは、特徴的である。
3−2−3 正常性normativity
  初期の著作で、配分パラダイムで上手く捉えることのできない正義問題の第三のカテゴリーは「文化」に関連すると言ったことがある。だが、この言い方は曖昧すぎる。テイラー、ハーバーマス、フレイザーも、承認の政治やマルチカルチュラリズムを取り上げているが、あまりにも曖昧だし、広すぎる。
  正常性の問題が、重要で、時には広範な配分の問題を含意する一方、それ自身は配分の問題そのものではない。ロールズは、理論のなかから、彼が正常な範囲を超えていると見なした人々や環境を排除することで、正常性の問題を捉えている。つまりロールズは、正常と非正常のあいだの区別を問題とみなしていない。
  障害の問題。ある種の身体的・精神的インペアメントを抱える人々は、社会に貢献する人々とは見なされないと、ロールズ理論の前提には隠されている。
  能力の「正常な範囲」から逸脱している人々のニーズと望みを満たすことは、しばしば配分の問題と見なされている。正常と逸脱の区分を前提としている制度を構築するように資源が配分されているとすれば、逸脱した者たちのためのコストを払うように依頼されたとき、「正常な範囲」にいる人々は不正に負担していないかどうか、自らに問いかけることになる。しかしながら、もし物理的構造と社会的期待が、すべての人々の能力が必要とするべき人々の範囲にまで落ちれば、その組織は間違いなくいま正常と見なされているものとは異なるだろう。いかにして差異を正常から離れた間違った側へと追いやらずに、それを承認して、そのニーズを満たす社会や制度を組織化するか、それが問題である。基礎構造の問題は、せいぜい部分的にだけ配分に関するものでしかない。

4 キッテイ批判(野崎綾子)(野崎 2003: 36-8)

  キッテイやヤングのような論者たちが、従来の正義論の枠組みにケアという視点を導入するのに対して、法哲学者の野崎はそのようなアプローチに懐疑的である。確かに、ケアを行うことが個人の不利益になってはならないということを認めつつも、野崎は「ケアの能力」という自然な感情の広い結びつきを正義の構想の前提とすべきではないと論じる。彼女が提示する反対論拠は、以下の三点である。第一に、正義の構想の前提となる仮定はより少ないほうが望ましい点。第二にケアの能力を重視した視点は正義の構想にかかわるのではなく、むしろ善の構想に結びついたものである点。第三に、一般にケアといっても、その最適な程度や方法に関しては必ずしも人々のあいだで簡単に合意を得ることのできるものではなく、その内容は非常に論争的な正確を備えている点。野崎は、キッテイのように依存概念を導入することで正義論を組み替えるのではなく、むしろセンやナスバウムが提起するケイパビリティ概念を支持するのである。

5 ケアの配分をいかに考えるか(樋口明彦)、参考(樋口 2004)

  以上の議論を踏まえて、私なりのいくつかの論点を簡単に提示することにしたい。確かに、ケアという視点を導入することで、家族内における性別役割分業と、それに伴う女性に対する機会の不平等を積極的に問題することができるが、ケアを万人が抱える「傷つきやすさvulnerability」の応答へと普遍化することで、ケアそのものが抱える個別的問題が看過されてしまう。実際、所得配分とはちがって、ケアを配分することは、その配分を行うことに対するいくつかの前提条件を要請する。第一に、ケア提供者そのものが、フレキシブルな提供を行う必要があるため、ある程度「近い場所に」いる必要がある。この点から、コミュニティを基盤としたケアという発想も生まれてこよう。第二に、ケア提供者とケアを受ける者のあいだには、十分な信頼関係が必要となる。こうした信頼関係の醸成には、ケア提供者の年齢、性別、性格などの属性にも大きくかかわりうる。この点が、ケア労働が女性に不平等に分配されてきた事実の背景の一つとなっていよう。
  このような条件を踏まえて、いかにケアの配分を考えるべきなのか。キムリッカが、「ケアの倫理」と「正義の倫理」の対立は非常に曖昧で、もろいものであることを示唆していたように、ケアという財を正義論に組み替えることに加えて、ケアの配分が要求する諸条件を考慮する、つまりケアの提供という財の属性に照らして、限定した諸条件のもとで、いかに配分するかを問う必要がある。そのように考えた場合、財そのものの種類によって、配分の仕方・範囲を区別するという問題設定がありえると考えられる。
  ケアの配分という問題に関しては、別稿で論じたいと思う。


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UP:20040123
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