ベーシックインカムとは何か?に関する簡潔で十分な解説
本ページはVan Parijs 2004. “Basic Income: A Simple and Powerful Idea for the TwentyFirst Century”, POLITICS & SOCIETY, 32(1): 7-39の抄訳である。
last update 20100824
■目次
・ベーシックインカムとは何であり、何でないか
所得であること/政治的共同体によって支払われる/その成員すべてに対して/個人ベースで/資力調査なしで/就労要請なしに
・なぜわれわれはベーシックインカムを必要とするのか?
・ベーシックインカムは財政上実行可能か?
・付録 ベーシックインカムおよび関連スキームの図式化
図1従来型最低限保証所得/ 図2ワナのあるベーシックインカム/ 図3線型の負の所得税/ 図4フラット税と結合したベーシックインカム/ 図5非線型な負の所得税/ 図6低額稼得者への超過負担を伴うベーシックインカム/ 図7部分的ベーシックインカム
・原注
全ての市民に対して、慎ましくも無条件の所得を与えよ。そして、その所得は彼らが諸他の源泉から得る所得に上乗せすることを許容せよ。
この過剰なまでにシンプルなアイデアは、驚くほど多様な系譜を持っています。直近の二世紀の間、そのアイデアは多くの場合さしたる成功をあげてはこなかったものの、様々な名称――例えば、「領土配当[territorial dividend]」、「国家ボーナス[statebonus]」、「デモグラント」、「市民賃金」、「普遍給付」、「ベーシックインカム」――のもとで、個々別々に発案されてきました。六〇年代の終わりと七〇年代初頭において、アメリカでとつぜん人口に膾炙するようになり、大統領候補者によって推進されるほどになりました[訳注:ニクソン陣営の負の所得税構想]が、まもなく棚上げされ、ほとんど忘れ去られました。しかし、ここ二〇年ほどで、EU全体において予想もされなかったほど急速に拡大し、公的議論の主題となりました。一部の論者はそれを多くの社会的病理――失業および貧困を含む――に対する決定的な治療法であると見なします。他の論者はそれを、クレイジーで、経済的には浪費的、倫理的には支持しがたい提案であると見なし、できる限り早く忘れられるべきで、直ちに思想史の屑籠へ放り込まれるべきものであるとします。
この議論に光を当てるため、ベーシックインカムとは何であり、何でないかについて、また、それを現行の保証所得スキームと画するものは何であるかについて、もう少し詳しく語ることから始めましょう。それらを踏まえるならば、なぜベーシックインカムが近年それほど多くの注目を集めるようになったのか、なぜ根強い反発が予想されるのか、かつ、最終的にその反発がどのように乗り越えられるのかといった点をより容易に理解できるでしょう。ベーシックインカムは忘れ去られることはないし、屑籠に放り込まれてはならない、これが筆者の信念です。ベーシックインカムは、この新たな世紀において、まずは議論をつづいてリアリティを形成するはずの、そんな数少ないシンプルな理念の一つなのです。
ベーシックインカムとは何であり、何でないか
ベーシックインカムは、政治的共同体によって、その成員すべてに対して、個人ベースで、資力調査または就労要請なしに、支払われる所得である
これが私の採用しようと思う定義です。それは、英語の「ベーシックインカム」の実際の用法の全て、または、諸他の欧州言語に訳された最も一般的なそれ――例えば、 Bürgergeld、 allocation universelle、 renta básica、 reddito dicittadinanza、 basisinkomen、borgerlon、といったような――の実際の用法の全てに適合しているわけではありません。それら実際の用法にはより広義なものがあります。例えば、より広義な使用法には、世帯状況によって水準が異なる給付や、税額控除[tax credit]の形態で運営されている給付といったものまで含まれます。より狭義の使われ方もあり、そこでは、例えば、ベーシックインカム水準はベーシックニーズを満足するに必要なものにマッチしていなければならない、ないしは、ベーシックインカムは諸他のあらゆる移転給付を代替すべきだ、といったことまで要求されます。上で与えた定義の目的は、その使われ方を詮索することではなく、その主張内容を明確にすることにあります。そこで、その内容に順次焦点を当ててゆくことにしましょう。
所得であること
現物ではなく、現金で支払われる
現物給付である以外はベーシックインカムの他の全ての特徴を備えた給付というものがありえます。たとえば、標準化された食料バンドルや土地の用益権といった形態をとるものです。また、たとえばフードスタンプや住宅手当[housing grant]のように、使途を限定した特別な通貨の形態で提供されることもありますし、Jaques Duboinの「分かち合いの経済[distributive economy]」[i]に見られるような、貯蓄の可能性のみを排除した、当該期に限定した、より幅広い消費の提供という形態もあります。ベーシックインカムは、それらとは異なり、現金で提供され、それによって可能となる消費ないし投資の性質またはタイミングに関して何らの制限も設けていません。ほとんどのバリアントにおいて、ベーシックインカムは無償の教育や基礎的な健康保険といった現行の現物移転給付を代替するのではなく補完することになっています。
一回限りの賦与ではなく、定期給付で支払われる
ベーシックインカムは、定期的なインターバル――例えば一週間、一月、1四半期、一年など、提案によって様々であるが――をおいて提供される購買力です。これに対して、一回限りで――例えば、成人としての生活の始めに――提供されるという以外はベーシックインカムのその他の特徴すべてを備えた給付というものを考えることができます。このような提案はこれまでにもなされてきており[ii]、古くはThomas Paine(1796)によって[iii]、最近ではBruce Ackerman and Anne Alstottによって[iv]、提案されています。定期的なベーシックインカムとそのようなベーシック・エンドウメントとの間には重大な相違がありますが、その違いは過大視されるべきではないでしょう。第一に、ベーシック・エンドウメントは受給者が死亡するまで年毎ないし月毎に均等な額の所得を生み出す目的で投資にまわすことが可能で、それは結局のところ定期的なベーシックインカムと一致します。もちろん、保険市場に委ねられる場合には、その年額水準は個人の寿命の長さによって負の影響を受けます。たとえば、女性は男性よりも低い年額を受け取ることになるでしょう。しかしながら、(PaineおよびAckerman and Alstottを含む)ベーシック・エンドウメントの擁護者たちは、ある年齢からの均等な基礎年金によってそれを補完することを提案しており、この点でのベーシックインカムとの相違を帳消しにしています。第二に、ベーシック・エンドウメントにはそれを年額受け取りにする以外の使用が可能であるという利点がありますが、ベーシックインカムの受給者が自らの将来のベーシックインカム収入を担保に借金ができるのだとしたら、ベーシックインカムとの結果的な相違は実質的に無くなるでしょう。たとえある個人が抜け目なく債権者の差し押さえからベーシックインカムを保護するのだとしても、ベーシックインカムが提供してくれる安全は、ベーシックインカム受給者が人生のあらゆる段階でローンを組むことをいっそう容易にしてくれるでしょう。結局、一回限りのベーシック・エンドウメントと定期給付のベーシックインカム、それぞれによって開かれる選択肢の範囲には、さほど違いはないでしょう。
政治的共同体によって支払われる
定義上、ベーシックインカムは何らかの政府[government]によって、公的にコントロールされる資源から、支払われます。ですが、それは国民国家である必要はありません。また、再分配的税制から支払われる必要もありません。
国民国家、それ以下またはそれ以上
「国家ボーナス」、「国民配当」、「市民賃金」といった用語の選択そのものから示唆されるように、ほとんどの提案において、ベーシックインカムは国民国家のレベルで支払われ、財源手当て(ファイナンス)されると想定されています。しかしながら、州政府[province]やコミューンといった国民国家内部の一政治的構成単位のレベルで支払われ財源手当てされることも、原理的にはありえます。じっさい、先ほど定義されたような真正のベーシックインカムをこれまでに導入した唯一の政治単位は合衆国のアラスカ州です[v]。その一方で、ベーシックインカムは超国家的な政治体によって支払われると考えることもできます。いくつかの提案が、欧州連合のレベルで[vi]、またいくつかの提案はより現実味には欠けるものの国際連合のレベルで[vii]、なされています。
再分配
ベーシックインカムは特別目的に限定した手法で財源手当てがなされる可能性もありますが、かならずしもそうである必要はないのです。ベーシックインカムも、シンプルに、他のすべての国家支出と同様、多様な財源からなる一般歳入から財源手当てされることもありえます。目的限定的な財源手当てを擁護する論者たちは、その大部分が特別税[a specific tax]を考えています。例として、一部の論者は――Thomas Paine[viii]やJoseph Charlier[ix]から、Raymond Crotty[x]、 Marc Davidson[xi]、James Robertson[xii]にいたるまで――土地税[land tax]または自然資源への課税で賄おうとします。他の論者は、もっと広く定義された所得ベースへの特別賦課[specific levy][xiii]、ないしは、大幅に拡張された付加価値税[xiv]を選好します。また、世界規模のベーシックインカムを考えている論者たちの一部は、投機的な資本移動に対する「トービン税[xv]」や情報移動に対する「ビット・タックス[xvi]」といった、新しい課税手法の可能性を強調します。
分配
しかしながら、再分配的税制が唯一の財源ではありません。アラスカの配当制度[xvii]は、州政府がアラスカの広大な油田の使用料を使ってたち上げた分散投資型ファンドからの収益の一部によって賄われています。同様に、James Meade[xviii]の公正かつ効率的な経済の青写真には、公的に所有される生産的資産で賄われる社会配当[social dividend]が含まれています。最後に、Major Douglasの社会クレジット運動[xix]やJaques and Marie-Louise Duboinの繁栄を目指すフランス運動[xx]から、より精緻化された(またより控えめな)Joseph Huberの提案[xxi]まで、貨幣創造[money creation]によってベーシックインカムを賄おうという一連の提案が存在します。
その成員すべてに対して
非市民は?
政治的共同体のメンバーシップについては、比較的に包摂的な考え方もそうでない考え方もありえます。一部の論者――とりわけ「市民所得」というラベルを選好する人々の間で――は、メンバーシップが国民ないしは法的な意味での市民に限定されると考えます。そうなると、フランス人哲学者Jean- Marc Ferryの構想[xxii]に見られるように、ベーシックインカムへの権利は完全な市民権に付随する権利義務パッケージ全体の一断片となります。しかしながら、ベーシックインカム擁護論者の大部分は――なかんずくベーシックインカムを排除に対抗する政策と見なす人々の間では――、労働市場の二重構造を深刻化させてしまうような制限的なベーシックインカム資格賦与を望みません。ゆえに、彼らはあらゆる合法的永住権者を含むような、広い意味でメンバーシップを考える傾向にあります。非市民を対照とする場合の制度運用上の基準は、過去における最短居住期間となるかもしれませんし、または、現在課税目的で使われているような居住を定義する諸条件によって与えられる可能性もあります。あるいは、それら両者の何らかの組み合わせかもしれません。
子供は?
年齢の次元においてもメンバーシップの考え方には、比較的に包摂的なものとそうでないものがありえます。一部の論者は、ベーシックインカムを定義上成人のみに限定し、それと並行するかたちで普遍的な――つまりは資力調査のない――児童手当システムを提案する傾向があります。その児童手当の水準は、子供の生まれ順の(正または負の)関数として、ないし、子供の年齢の(正の)関数として格差付けられることもあれば、そうでないこともありえます。他の論者たちは、ベーシックインカムを生存の始点から終点に及ぶ権原[entitlement]と考え、児童手当システムを完全に代替するものと見なしています。そのため、[ベーシックインカム]給付の水準は、児童の家庭状況――なかんずく彼または彼女の生まれ順――とは独立でなければなりません。また、成人と同額である――ゆえに年齢と独立である――ことを望む論者もおり、これは控えめなアラスカの配当スキームの現実においてそうですし、もっと気前のよい諸他の提案[xxiii]にもみられます。しかし、児童手当をベーシックインカム制度に統合しようとする論者の多数派は、成年ないしそれ以降になってはじめて支給される最高限度額を設けておいて、ベーシックインカム水準を年齢に応じて格差付けようとする傾向があります。
年金受給者は?
同様に、一部の論者は、ベーシックインカムを退職年齢に達していない人々に限定し、ベーシックインカムとは、個人ベースで、資力調査がなく、かつ、拠出を要求しない――または、スウェーデンやオランダのような一部の欧州諸国にすでに存在する種類の――高額な年金に、自動的に上乗せされるものであると見なします。とはいえ、大部分の提案においては、ベーシックインカムは退職年齢を超えても――若年成人と同額か、より高額で――支給されます。いずれにせよ、こういった老年者に対するベーシックインカムは、公的ないし私的な拠出型年金スキームからの所得によって――私的な貯蓄や雇用からの所得と同様に――補完されることになるのです。
施設収容者は?
妥当な成員(メンバーシップ)概念について最高に包摂的な定義をしたとしても、ベーシックインカムを支払われることのない人々はいずれの社会においてもなお存在するでしょう。犯罪者を監獄に収監しておくことは、彼らが従事させられる生産労働を最大限考慮に入れても、控えめなベーシックインカムを彼らに払うよりもはるかに社会にとって高くつくでしょう。拘留が不当なものであったと判明しない限り、被収監者が収監されていた間のベーシックインカム給付を失うことは自明なことでしょう。しかし、彼らは釈放されれば直ちにベーシックインカムを受給できます。同じことは、精神病院や老人ホームといったその他の施設の長期被収容者についても、彼らの滞在費用全額が彼ら自身によって払われているのではなく社会によって直接支払われている限り、適用されることになります。
個人ベースで
各人に支払われる
ベーシックインカムは、現存するほとんどの保証所得スキームがそうであるような全体としての世帯やその家長に対してではなく、当該社会の個々のメンバーの各々に対して支払われます。
均等額
給付が各個人に支払われるとしても、その水準はなおも世帯の構成によって変化をつけられることがあります。一人当たりの生活コストは世帯の規模に応じて減少するという事実を考慮して、現行の保証所得スキームは、カップルの成員に対しては単身者よりも低い一人当たり所得を給付しています。それゆえ、そういったスキームの公正かつ効果的な運用には、行政がその受給者たちの生活様態[living arrangement]をチェックする権能を持つことが前提とされています。それに対してベーシックインカムは、厳密に個人ベースで支払われるのです。それは、社会の個々の成員の各々が受給者であるという意味に留まらず、彼(女)らがいくら受け取るかが彼(女)らの所属する世帯のタイプがどのようなものであるかに依存しないという意味においても、そうなのです。つまり、ベーシックインカム・スキームの運用には、生活様態に対するあらゆるコントロールが無くて済み、ある人が他者と生活用品を分け合うことによって自身の生活コストを縮減する利得が完全に保持されるのです。厳密な個人主義的性質によって、ベーシックインカムは独居のワナ[isolation trap]を解消し、コミュナルな生活を涵養する傾向があるのです。
資力調査なしで
所得に関係なく
現行の保証所得スキームと比べて、ベーシックインカムの最も際立った特徴は、間違いなく、同じ水準で、富者にも貧者にも一様に、彼らの所得水準に関わりなく、支払われるという点にあります。最もシンプルな現行スキームのもとでは、世帯の各タイプ(単身成人、子供なしカップル、子供一人の片親世帯、等々)について最低所得水準が特定され、当該世帯のその他の所得源泉からの総所得が評価されたうえで、この所得と規定された最低限所得との差額が現金給付として各世帯に支払われます。この意味で、現行スキームは事後的に――暫定的には、先行する受給者の所得評価に基づいて――運用されているのです。それに対してベーシックインカムは、事前的に――あらゆる所得調査と無関係に――運用されます。給付は、規定された最低限を超過する世帯にも、それに達しない世帯と比して、まったく減額されることなく全額が支払われるのです。また、ある個人が資格付与される給付水準を決定するに際して、その他のあらゆる資力はなんら考慮されないのです。つまり、ある個人のインフォーマルな所得も、彼女が親族から求めることのできる援助も、彼女の諸々の財産価値も、考慮の対象とはならないのです。課税可能な「資力」はベーシックインカムを賄うためにより高い税率で課税される必要があるかもしれません。ですが、税-給付システムはもはや二分法的な「資力」概念――貧者にとっての広義の資力概念では、それを参照することによって給付がカットされ、裕福な者にとっての狭義の資力概念では、それを参照することによって所得税が課される――に左右されることはないのです。
富者をより富ませないか
富者も貧者も同額のベーシックインカムを受け取るという事実があるからといって、ベーシックインカムは富者および貧者の両方を以前よりも裕福にするということにはなりません。ベーシックインカムは財源手当て(ファイナンス)される必要があるのですから。
1.
ベーシックインカムが単純に現行の税-給付システムに付加されるとしたら、比較的裕福な者が、彼ら自身のベーシックインカム、および、相対的に貧しい者たちのベーシックインカムの大部分を負担せねばならないことは明らかでしょう。このことは財源手当てが累進所得税を通じてなされる場合に妥当するのは自明でしょうが、フラット課税でも、逆進的な消費課税のもとでさえ、妥当するのです。無からのベーシックインカム導入が貧者にとっての金銭的利益として機能するためには、キーとなる条件は、単純に、相対的に裕福な者が相対的に貧しい者よりも、その員数に比して(必ずしもその所得に比してではなく)、ベーシックインカムのファイナンスにいっそうの貢献をすること、なのです。
2.
しかし、大部分の提案では、ベーシックインカム導入は現在の給付や税の減免措置の部分的廃止と結び付けられています。提案されている改革が、現行では貧者に集中されている無拠出型給付[訳注:公的扶助]を単純に全市民の間で広く薄く分け合うものに過ぎないとしたら、間違いなく貧者たちが損をすることになり
ます。ですが、そんな馬鹿げた提案をしている者は一人としていません。直接税に依拠する提案のほとんどにおいて、ベーシックインカムは、無拠出型給付についてはほんの底辺部分に代替するだけですが、他方で、諸々の控除や全納税者の低い所得分位に課されている減免税率にも代替することになるのです。所得分配に対する短期的インパクトは、控えめなベーシックインカムについては、かなり狭い範囲に留めることができるでしょう。ですが、ベーシックインカム水準が高くなるほど、所得税の平均税率は高くなり、ゆえに、比較的裕福な者から比較的貧しい者への再分配もより大きなものとなるのです。
富者に与えることが貧者にとってベターなのか?
このように、万人に――富者にも貧者にも――与えることは、必ずしも富者にとって事態の改善を意味するわけではないのです。ですが、ある所与の水準の最低限所得について言えば、資力調査ありの保証所得制度よりも貧者にとって改善になると信ずる理由が何かあるでしょうか? あるのです。少なくとも三つの相互連関する理由によって。第一に、給付の捕捉率が普遍的スキームのもとでは資力調査が実施されている場合よりも高くなるでしょう。貧しい人々のうち、自らの権原について情報を得られずに、権利のある給付を手にすることができなくなる人は少なくなります。第二に、市民権の問題として万人に与えられる所得には、人に恥をかかせるようなことは全くありません。これは、困窮者や極貧者、自足できない人々に限定される給付については――たとえ人の品位を傷つける、容喙的な手続きを最小化するとしても――妥当しないことです。貧者の観点からすれば、普遍的ベーシックインカムに伴うスティグマが小さいことは、ベーシックインカムそれ自体の利点と見なされるのです。それはまた、スティグマが捕捉率に与える影響の理由としても、間接的に重要なことです。第三に、ベーシックインカム・スキームのもとではジョブを得ている間でも給付がもたらす定期的かつ頼りになる支払が中断されることはないのに対して、標準的な資力調査付きのスキームにおいてはそのような中断があります。同水準の最低限所得を保証する資力調査付きスキームと比較する場合、これはリスク回避的選択をしがちな貧しい人々に確かな見通しを与えるでしょう。このことは、これまでの給付システムに共通して付随する失業のワナの一つの側面――この側面に関しては通常、ソーシャルワーカーがエコノミストよりはるかに敏感である――を除去することにもつながるのです[訳注:つまり、エコノミストは「失業のワナ」によって、就業時の所得と失業給付所得との間に十分な差が無いために人々が就業しないという側面を強調するが、ソーシャル・ワーカーは貧困層が不安定な職に就くことによって安定的な公的扶助給付を中断されることを恐れるという側面を強調する]。
労働は割に合うか?
資力調査付きの保証最低限スキームによって生じる失業のワナの別の側面は、経済学者によって最も一般的に強調されるものである。それは、非労働と低賃金労働との間に十分な正の所得格差が存在しないことである。稼得分布の最下層において、給付における1ユーロの喪失によって、稼得される各ユーロがオフセットされる、または実質的にオフセットされる、さらにはオフセット以上にされてしまうのだとしたら、その程度の稼得しか生み出さないジョブを拒絶することは、個人が特別に怠惰であることを意味しません。彼にはそのようなジョブをアクティブに探す必然性がないのです。追加的なコスト、移動時間、内々の児童ケア問題などを考慮すれば、そのような状況下で労働する余裕はないという可能性もあります。そのようなジョブを設計して供与することは、一般的に、雇用主にとっても不合理でしょう。というのも、解雇されることを喜ぶような人々は真面目で頼りとなる労働力になるとは思えないからです。フルタイム・ジョブが保証所得よりも低い賃金を提示されることが最低賃金立法によって妨げられている場合には、保証所得を下回る賃金が提示される可能性はパートタイム・ジョブに限られます。資力調査付きの保証所得の代わりに普遍的ベーシックインカムを採用することは、失業のワナのこの第二の側面に対処する方法としても提案されることが多いのです。
各人に普遍的ベーシックインカムを与えるものの、各人の稼得のうち最低限保証額を超過しない部分については一〇〇%課税で取り去るとしたら[xxiv]、失業のワナは――この点に関しては――資力調査付き最低限保証所得と同様に存在することになるでしょう[xxv]。しかし、最も低い所得区分に適用される名目税率を一〇〇%よりも目に見えて低く抑えておく.といったマイルドな仮定を置くならば、以下の言明は妥当でしょう。すなわち、労働しようがしまいが、裕福であろうが貧しかろうが、あなたは自分のベーシックインカムの全額を保持することができるのだから、あなたは労働した際には労働から外れている場合よりも間違いなく裕福になるのだ、[xxvi]と。
負の所得税と同じか?
とはいえ、失業のワナのこの第二の側面は、稼得の上昇よりも急激でない率で給付が徐々に削減される資力調査付きスキームによっても、[ベーシックインカムと]同程度効果的に除去されうる――ように思われる――という点は銘記しておいたほうがよいでしょう。これは、いわゆる負の所得税――均等かつ還付型の税額控除[tax credit]――によって達成されることです。負の所得税の構想が最初に見られるのはフランス人経済学者Augustin
Cournot[xxvii]の著作です。それは福祉国家を削減する一つの手法としてMilton Freedman[xxviii]によって簡潔に提案され、James Tobinおよびその同僚たち[xxix]によって労働インセンティブを保持しながら貧困と戦う一つの手法としてさらに掘り下げて探求されたものです。負の所得税とは、一〇〇%で課税される所得は存在せず、かつ、線型であるとされる――定義上はそうである必要はありませんが――課税スケジュールを背景として、(ある所与の構成の)各世帯の所得税負担を固定された額で縮減する一方で、この固定額と税負担額との差額を――この差額が正である場合は――現金給付として支払う、というものです[xxx]。税額控除の固定額が、ここで考えられているベーシックインカム・スキームと同水準に設定されていると仮定しましょう。所得のまったくない――ゆえに所得税負担のまったくない――人はベーシックインカムに等しい額を受け取ることになります。旧来の資力調査付きスキームの場合と同じく、所得が上昇するにつれて給付は小さくなりますが、その率はもっとスローです。更に言えば、その率は、税を支払って給付を受け取った後の所得が、対応するベーシックインカム・スキームのもとでのそれとまったく同じ水準にキープされる率なのです[xxxi]。負の所得税タイプ[の給付システム]は、単純に、税と給付を収支均衡させるのです。ベーシックインカム・スキームでは、負の所得税の普遍的税額控除を賄うのに必要な歳入は、実際に万人から取り立てられ、万人に払い戻されます。負の所得税のもとでは、給付は完全に一方通行となります。いわゆる課税分岐点[break even point]を下回る世帯に対しては正の移転給付(すなわち負の税)が、それを上回る世帯に対しては負の移転給付(ないし正の税)がなされるのです[xxxii]。
負の所得税よりも安価か?
ベーシックインカムと負の所得税の実質的な相違がどの程度であるかは、更に細かい行政上の手続きに依存します。その相違はたとえば次のような場合には相違は縮小します。すなわち、税が(納税申告が処理された後になってではなく)源泉徴収方式で課される場合、または、税負担が――年ベースではなく――週ないし月ベースで評価される場合、負の所得税スキームにおいて、万人が(後に調整の対象となる)暫定的な税額控除を先行的に支払われ、ベーシックインカム・スキームのもとで、ベーシックインカムを現金ではなく減税として受け取る場合、などです。とはいえ、最も近いタイプにおいてさえ、債務不履行の可能性ゆえに、「事前的」に機能するシステムと「事後的」に機能するシステムとの間には相違が残ります。なお残るあらゆる相違は、失業のワナの第一の――不確実性に関連する――側面と関連して、ベーシックインカムの利点となるのです。ですが、給付の支払技術が未発達(配達夫によって現金で運ばれる!)であるとか、徴税行政が腐敗や非効率にまみれている、といったことがあるならば、負の所得税タイプ――これは税金の移動プロセスを省くことができます――を擁護する議論が圧倒的なものとなるでしょう。他方で、技術的に進んだ移転給付システムの時代にあり、かつ、合理的によく運営された課税行政が存在するとしたら、効率的な最低限保証所得スキームに付随する行政コストの大部分は、情報および管理のコスト――すなわち、すべての潜在的受給者に彼らがどんな受給資格を持っているかを知らせるために、また、申請者たちが受給条件を満たしているか否かをチェックするために必要となる支出――だけになるでしょう。この点に関して、普遍的なシステムは間違いなく資力調査付きシステムよりよく運用されるでしょう。支払と徴収の両面で自動化と信頼性が増すにつれて、すべての貧しい人に[情報が]到達する際の効率性が一定水準であるならば、二者のうち――行政上の意味で――より安価なのは普遍的システムの方である蓋然性がますます高くなるのです。これこそが、例えばJames Tobinが負の所得税タイプよりも普遍的な「デモグラント」を選好した理由なのです[xxxiii]。
就労要請なしに
現在の労働パフォーマンスに関係なく
定義のうえでは、最低限保証所得への権利というものは、何らかの保険給付の資格を与えられるに足るだけの労働を過去に遂行したとか、または、社会保険の拠出をした、といった人々に限定されるものではありません。しかしながら、Juan Luis Vives[xxxiv]よりこのかた、初期の保証所得スキームは何らかの苦役を遂行する義務と結び付けられることが――それが、旧来型の悪名高いワークハウスにおいてであれ、より多様な現代の私的および公的なワークフェア装置においてであれ――往々にしてありました。無条件であるということによって、ベーシックインカムは、あからさまに雇用保証と結び付けられたこういった形態の保証所得とは鋭い対照をなしています。それはまた、アメリカのEITCやイギリスの最近の就労家族税額控除[Working Families Tax Credit]のような、メンバーの少なくとも一人が有償雇用に就いている世帯に限定された就労内給付[in-work benefit]とも異なっています。失業のワナを除去するおかげで――つまり、純受益者[訳注:税の支払いよりもBIの受け取りの方が多い人たち]に労働のインセンティブを与えることによって――、ベーシックインカム(ないし負の所得税)は、ある種の就労内給付ないしは稼得への上乗せとして理解することが可能ですし、そのように使われる可能性があります。しかし、そのような役割に限定されるものでもありません。それが持つ無条件性ゆえに、ベーシックインカムはあらゆるタイプの雇用補助金[employment subsidy]――これがいかに広く定義されようと――からも一線を画しています。
労働の意欲に関わりなく
その無条件性はまた、ベーシックインカムを旧来型の最低限所得スキームからも画しています。後者は、受給資格を何らかの意味で労働する用意のある人々に制限するという傾向があります。この制限の詳細は、国と国との間で、また時には、一国内のある地方自治体と別の地方自治体との間で、非常に大きく異なっています。そういった違いには以下のようなものが含まれています。すなわち、提示された場合に個人は「適切な[suitable]」ジョブを受け容れなければならないが、勤務場所や要求されるスキルの観点で「適切な」が意味する中身については行政の裁量が大きい、個人はジョブ探しに前向きであることを証明しなければならない、個人は「参加契約[insertion contract]」――それが、有償雇用、トレーニング、他の何らかの有用活動のいずれに結び付けられていようと――を受け容れ、遵守しなければならない、といったものです。それとは対照的に、ベーシックインカムは権利の問題として――そして見せかけの就労を根拠とすることなく――、家事従事者、学生、休暇取得者、永続的な放浪者に[さえ]支払われるのです。Anthony Atkinsonの「参加所得Participation Income」[xxxv]など一部の折衷的提案は、社会的貢献という幅の広い条件を課していますが、その条件は次のもので満たされます。すなわち、フルタイムないしパートタイムの賃金雇用または自営業、教育、トレーニング、ジョブ探し、小さな子供ないし病弱な老年者のためのケア、承認を受けた団体での定期的なボランティア労働、などです。この条件の解釈が広ければ広いほど、ベーシックインカムとの違いは小さくなるのです。
なぜわれわれはベーシックインカムを必要とするのか?
資力調査なしを望むのであれば、労働調査をやめることが重要である
先ほど論じられた最後の二つの無条件性――資力調査の不在および労働調査の不在――は、現代の状況においてベーシックインカムが妥当性をもつ理由の核心を簡潔に定式化してくれるものです。一見したところでは、これら二つの無条件性、すなわち所得調査の不在と労働調査の不在とは、互いに独立した関係にあります。しかし、ベーシックインカム提案の力強さは、これら二つの無条件性が結びついていることに掛かっているのです。すでに見たように、資力調査の廃止は、(二つの主要な側面における)失業のワナの除去と密接に関係しており、それゆえ、低賃金ジョブが提示され、受容される可能性を創出することと密接に関係しています。しかし、そういったジョブの一部は劣悪で、人の品位を貶めるような、どん底のジョブであるかもしれず、そういったジョブは促進されるべきでないでしょう。そうではないジョブは、楽しかったり、意義があったり、跳躍台となるものであったり、それらがもつ本質的な価値やそれらが提供する訓練ゆえに、低賃金であってもあえて取得する価値のあるようなジョブです。しかし、この違いを誰が区別できるというのでしょうか? 人びとが遂行しているジョブ、あるいは取得を考えているジョブについて「上層部で」知られている事柄よりもはるかに多くを知りうるのは、立法者や官僚ではなく、個々の労働者なのです。とはいえ、彼らは選り好みできる知識は持っていても、実際にそうする権能を常に持っているわけではありません。評価の低いスキルしか持っていなかったり、移動可能性が限られていたりする場合には、とくにそうです。労働を条件としないベーシックインカムは、最も弱い人に、労働を条件とする保証所得がなしえないようなかたちで、交渉力を付与するのです。言い換えると、労働無条件性は、資力無条件性によって劣悪なジョブが拡大する危険性を防止するうえで、カギとなる手段なのです。
資力調査が存在しないならば、労働調査がないことが要求される
同時に、資力-無条件性は労働インセンティブを喚起しますので、対価なき給付が怠惰な下流階級を涵養する、といった懸念を緩和する手法として労働条件性を持ち出すことはあまり説得的でなくなります。資力調査が存在しない場合には、税と給付の構造は、受給者たちが労働を通じて――それが低い賃金率で、パートタイムであるとしても――自らの可処分所得を大幅に上昇させることのできるものとなるでしょうし、ひとたび彼らのスキルが改善するか、労働時間[の質]を改善することができれば、低賃金率のジョブに嵌まり込むことはないでしょう。それゆえ、労働の場に(再)移動することが促進され奨励されるでしょうし、社会が労働者と非労働者に二分化することを懸念する人々に対して、給付への権利を何らかの労働(を利用する)義務と一対化することを声高に叫ぶ必要性はぐっと低くなるでしょう。(過度なまでに)簡潔に表現してみましょう。資力-無条件性が不可避的に搾取を助長してしまう事態(これは、給付喪失のおそれのもとに受け入れられがちな、無価値で低賃金の労働を助長することによって起こります)を労働-無条件性が防止するのと全く同じように、労働-無条件性が不可避的に排除を涵養する事態(これは、低生産性ジョブを効率的に消滅させ、生産性の低い人をあらゆる労働参加から完全に締め出すシステムを問題視させなくすることによって起こります)を資力-無条件性が防止するのです。ベーシックインカムの二つの無条件性は論理的には独立しているのですが、それらは一個の強力な提案をなす構成要素として、内在的にはリンクしているのです。
促進的でありながら解放的である
貧困と失業という複合型の困難に対処するための一つの具体的手法としてのベーシックインカムの中心的論拠には、この二つの無条件性の連携が根底にあるのです。旧来型の保証所得スキームと比較して、ベーシックインカムの望ましさを支持する決定的な主張は、社会正義とは所得への権利の問題だけでなく(有償および無償の)活動[activity]へのアクセスの問題でもある、という広範に共有された見解に依拠しています。所得と活動の両側面に留意する最も効果的な手法は、当該個人の活動がどのようなものであれ所得移転給付を(属人的に[in gross terms])維持すること、それによって給付を「活性化する」こと、すなわち、給付を――強いられた非活動を超えて――低賃金の活動にまで拡張すること、なのです。正当にも、次のような異論があるかもしれません。すなわち、低生産性ジョブの価値を保障し、それによって最不遇者に有償ジョブを提供するという目的により能くまたはより安価に奉仕する――EITCや雇用補助金といった――政策がほかに存在するはずだ、という異論です。しかしながら、問題関心が、貧しい人々を何が何でも忙殺させておくということではなく、彼らに意義のある有償活動へのアクセスを提供することであるならば、ベーシックインカムの無条件性こそが決定的な利点なのです。それによって、より不遇な人々が魅力的または将来性のあるジョブと劣悪なジョブとの間で選り好みをすることが(持続
可能なかぎり)可能となるように、交渉力を分配することができるからです。
ベーシックインカムと社会正義
これまでの議論は、暗黙のうちに、善き生に関する当人の構想を――それがどのようなものであれ――実現することを追求するための実質的自由の公正分配としての社会正義構想というものに訴えていました。私が拙著Real Freedom for All[xxxvi]で展開し擁護したのはまさにそのような社会正義の構想だったのです。それに代わる原理的なベーシックインカム正当化論が相当数提出されてきましたし[xxxvii]、多数のプラグマティックな正当化論がベーシックインカムのために――もっと複雑な、諸々の政策手段の理想的パッケージにとっての、シンプルで扱いやすいセカンド-ベストとして――提供されてきました[xxxviii]。しかし、私には次のような確信があります。すなわち、ファースト-ベストとしての説得力あるベーシックインカム正当化論であるならば、すべからく、何らかの「実質的自由」という(単に権利だけでなく、ある個人が望むかもしれない事柄を実行する手段をも含む)概念を社会正義の分配対象[distribuendum]として採用し、それを何らかの強い平等主義的分配基準と結合せねばならない、という確信です。私が提出した独特の「リアル・リバタリアン」の構想では、わわれの実質的自由の土台とは、本質的には、われわれがその生涯を通じて受け取ってきた、非常に不平等な諸々のギフトの混合物であり、なかでも、われわれに自らのジョブを保有することを可能ならしめている諸々の機会なのである、という見解が重要な役割を演じています。[この見解を採用した]結果として、予測可能で持続可能な税収最大化所得税――この税収は普遍的かつ無条件なベーシックインカムの財源に充てられる――によって(一部が)捕捉されねばならない膨大な「雇用レント」がわれわれのジョブには含まれていることになります。私の提供する定式に改善の余地がありうることは疑いありませんが[xxxix]、ファースト-ベストのベーシックインカム擁護論が主張される場合、それは私が提案しているのと非常に近いタイプのものになるだろうという点も、疑いのないことなのです。
ベーシックインカムは財政上実行可能か?
あまりに具体性に欠ける問い
このように非常に一般的なかたちで述べられても、問いはまったく意味をなしません。次のことは銘記しておくべきでしょう。すなわち、ベーシックインカムが受給者のベーシックニーズを満足するのに十分であるという点は、ベーシックインカムの定義に含まれない――つまり、その定義との整合性から言えば、ベーシックインカム水準はそれを上回ることもありうるし、下回ることもありうる――ということです。ベーシックインカムがあらゆる現金給付を代替するという点も、ベーシックインカムの定義には含まれていません。ある普遍的な給付はある単一の給付[プログラム]である必要はないのです。ベーシックインカムが設定される水準が特定され、ベーシックインカムが代替すべき給付が――もしあるとすれば――どれなのかが規定されてはじめて、財政的実行可能性の問いに対して意味のある回答が可能になります。いくつかの具体化のもとでは――たとえば、「あらゆる現行の給付を廃止し、それに相当する歳入を低額の均等給付のかたちで万人に再分配する」――答えは自明なまでにイエスでしょう。別の具体化のもとでは――たとえば、「現行の全ての給付を維持し、それらに万人向けの均等給付を、単身者が快適に生活するに十分な水準で、上乗せする」――答えは明らかにノーでしょう。定義から、これらの馬鹿げた極端な提案のいずれもがベーシックインカムと同視されることがたまにあるのですが、私の知るかぎり、誰もそんな提案をしてはいません。真剣な提案はすべて、それらの中間のどこかに位置しており、それゆえ、あるベーシックインカム提案が実行可能であるか否かはケース・バイ・ケースで評価されねばならないでしょう。
労働-無条件性ゆえに高くつくのでは?
とはいえ、ベーシックインカムが、これまでの保証所得の水準では財政的に実行可能ではないとする一般的な根拠がいくつかあるのではないでしょうか? 一つの明らかな根拠は、単純に、ベーシックインカムはすべての人に対して――彼らに労働の意欲があろうとなかろうと――与えられるのに対して、これまでの最低限保証所得には就労意欲調査があるという点でしょう。結果として、これまでの保証所得の場合よりも、より多くの貧しい人々がベーシックインカムを受け取るようになる、または、受給者の数がそれほど大幅に増えないとしても、彼らは労働条件付きの給付システムのもとでそうであった場合よりも労働を減らすだろう、と主張されています。そのため、ネットで見れば、ベーシックインカム・スキームはよりコスト高となります。
求職者手当か国家によるワークフェアかというジレンマ
仔細に検討すれば、この[ベーシックインカムの方がコスト高であるという]予想はもろい基盤の上に成り立っていることが分かります。まず、就労調査とは、金額[給料]に見合った価値を得ることを企図している(私的または公的な)雇用主から提示があった場合に労働を受け容れる義務であると仮定しましょう。労働者が当該ジョブを取得ないし保持する欲求を持っていない場合、彼女の期待生産性および現実の生産性は、雇用主が彼女を雇用したいまたは引き留めておきたいと思う程のものにはならないでしょう。しかし、当該労働者が形式的に就労意欲ありと見なされるかぎり、彼女が(不行跡とされうる何事かを理由とするのでなく、あまりに生産性が低いことを理由に)雇用されないまたは解雇されたという事実によって、彼女が労働調査付き保証所得の資格を剥奪されることは――無条件ベーシックインカムの場合に劣らず――ありえないのです。前者と後者[BI]の間にある唯一の実質的相違は、単純に、前者は雇用主と労働者の双方に時間の浪費をもたらしているという点です。代替案として、労働調査とは、国家によって雇用を目的に提供される予備的ジョブ[fall-back job]を受け容れる義務であると仮定してみましょう。雇用可能性がなく、かつ動機の低い人々を駆り集めることは高生産性にとっての正しい方策ではありません。また、そうやって徴用されてきた人々の士気に対する、また公的セクターのイメージに対する、長期的なダメージはひとまず措いておくとしても、この扱いづらい人材をワークフェアの鋳型に嵌め込むことのコストは、普通の監獄のそれよりいくらか低める程度が関の山でしょうし、仕事嫌いな労働者たちを国民生産に貢献させる際に伴う監督コストおよび彼らがおかすヘマの矯正コストが生じるでしょう。労働調査に関する経済的擁護論は、収監に関する経済的な擁護論とまったく同程度の強度である[にすぎない]のです。
怠け者に与えるほうが安くつく
ナンセンスではないワークフェア擁護論者たちも認めるように[xl]、就労意欲条件が課される場合、それは道徳的ないし政治的根拠に基づいて正当化されるのであって、労働と一対化された給付の方が同額の給付のみの場合より必然的に安価である、という根拠の薄い前提によって喚起される薄っぺらなコスト論議に基づいているのではないのです。ワークフェアはウェルフェアよりもコスト高になりやすいという事実があるからといって、「雇用可能性のない」人々は孤独と怠惰の中で腐っていろ、ということにはなりません。彼らをそこから救い出す方法はありえますし、あるはずなのです。それは、すなわち、適切なインセンティブ構造と、普遍的ベーシックインカムが創出しようと目指すたぐいの機会とを創り出す――それに就労意欲調査が結び付けられようと、結び付けられまいと――ことによってなのです。そのような構造を組み立てるのはコストのかかることですが、これから見ていくように、労働調査を加えたところでより安価になるわけではまったくない――むしろ正反対なの――です。しかも、そういった調査がないことによってベーシックインカムの財政的実行可能性が脅かされる、などということはありえません。
所得-無条性ゆえに高くつく?
資力調査付きスキームと普遍的スキームの間での相同性
ベーシックインカムには財政的実行可能性がないとの主張は、ベーシックインカムは人々が労働の意欲を示そうと示すまいとすべての人に支払われるという事実に依拠するよりも、ベーシックインカムが富者にも貧者にも同じように与えられるという事実を引き合いに出してくることの方がはるかに多いのです。上述の資力調査の議論は、このような申し立てが誤りであり、コストに関する考え方があまりに表面的であることによって誤導されていることを明らかにしています。付録の図1と図2の比較が示しているように、ベーシックインカムによって、従来の最低限保証所得とまったく同じ粗所得[課税前所得]-純所得[給付後所得]の関係を達成することが――原理的に――可能なのです。この関係が同じであるならば、そのスキームに純貢献をする納税者たちにとってのコストは両方のケースで同じである、ということです。一方が政治的に実行可能であるならば、他方もまたそうであるはずでしょう。その関係が同じであるならば、稼得に対する限界税率は、あらゆる稼得水準において、両方のケースで同じである、ということをも意味しています。二つのスキームの一方が経済的に実行可能であるならば、他方もまたそうであるはずなのです。
富者に与えることはより安くつく
むろん、財政的コストは二つのケースで大きく異なります。そして、移転給付をその他の公的支出とまったく同じように考えるとしたら、従来型の最低保証所得は手ごろである場合でもベーシックインカムは「実行不可能」であることもある、という想定は実際に成り立つでしょう。しかし、移転給付は純粋な支出ではないのです。それらは購買力の再配分です。これは、それらが無コストだということを意味するわけではありません。移転給付は、純貢献者たちに分配コストをもたらしますし、ディスインセンティブの創出を通じて経済的コストをも発生させます。しかし既に見たように、いずれのコストも両方のスキームにおいて同じなのです。さらに、行政上のコストが存在しますが、これも先ほど指摘されたように、コンピュータ化された効率的な徴税および移転給付支払いのテクノロジーを前提するならば、普遍的で事前的なスキーム下の方が、資力調査付きの事後的なスキーム下よりも――少なくとも、貧困者に[移転給付を]届けるについての効率性水準が所与であるならば――低くなる可能性が高いのです。つまり、パラドキシカルではありますが、すべての人に与えることは、貧しい人だけに与えるよりも高くつくのではなく、安くつくのです。
底辺における労働インセンティブを創出するので高くつく?
底辺における限界税率か中間所得帯における限界税率かという大きなトレード・オフ
とはいえ、公正を期すならば、ベーシックインカムが資力調査付きでないという事実は、明示的税率が一〇〇%を下回らねばならないというマイルドな要請と自然に結び付けられています。これは、われわれが探求すべき種類のベーシックインカム・スキームは図2によって示されるのではなく、図4、または、少なくとも図6によって示されるようなものでなければならないことを意味しているのです(付録を参照のこと)。図1によって表現されるこれまでの最低限保証スキームに比較して、純増コストが発生しないなどとはもはや言えないでしょう。しかし実際のところ、それは給付が普遍的であるという性質に固有のことではありません。というのも、それ[ある水準の普遍的給付]に相応する資力調査付き負の所得税も同じ特徴を共有しているからです。とくに、現行の最低限所得保証水準での均等な還付型税額控除と組み合わされた定率税は、同様の意味で非常に高くつきます(図3)。しかし、この問題点が負の所得税と共有されているからといって、それが問題でなくなるわけではないので、この問題にはきちんと取り組まねばなりません。基本的な事実は、稼得階層の底辺にいる人々に(ある所与の最低限所得によって)提供する物質的インセンティブが高ければ高いほど、それより高い稼得階層の物質的インセンティブを低減させねばならない、という点なのです。ここには鋭いトレード・オフが存在しており、その点は以下のように説明されます。
一つの事例
すべての人にベーシックインカムを支払いながら財政均衡を保つためには、所得の最低分位において課される税率の低下を、より高い所得分位において課される税率を引き上げることによって、償わなければなりません。ですが、すべての稼得者が最低分位での所得を有しているのに対して、より高い分位ではすべての人が所得を稼いでいるわけではなく、所得分位が高くなればなるほど、納税者は少なくなります。付録の図2に描かれるタイプの――すなわち、現行の最低限保証所得スキーム(図1)の実効税率を模倣する、最低所得分位に一〇〇%課税するタイプの――ベーシックインカム・スキームから出発することにしましょう。月当たり所得〇-五〇〇ユーロのレンジで平均税率を20%引き下げるなら、より高い所得レンジでの税率引き上げによって相殺されねばならないでしょう。はたしてどの程度の引き上げになるでしょう? それは増税が考慮されている所得レンジでどれだけの納税者が所得を有しているかに依存します。それが五〇〇-一〇〇〇ユーロのレンジにおいてならば、まだ大部分の所得が増税の影響を受けるので、たとえばこのレンジにおける25%増税で財政均衡は達成されるでしょう。しかし、それが二〇〇〇-二五〇〇のレンジにおいてであるとしたら、影響を受けるのははるかに少ない数の納税者だけなので、財政を均衡させるためには例えば50%を超える増税が求められることになるでしょう。これが実際に起こるとしたら、以下の結論は不可避となります。すなわち、最低稼得分位における限界実効税率の大幅な低減を賄おうとするのであれば、かなり低めの稼得レンジに対して広範囲に、限界実効税率を大幅に引き上げなければならない、ということです。この引き上げを高い稼得分位に集中させるとしたら、それは即座に一〇〇%に向かって昂進し、(国内の税収のみを問題とする場合)その所得の大部分を消滅させることになるでしょう。
貧者により高く課税されても、当の貧者にとって改善となるのか?
これは一見するほどひどい話ではないのです。最も低い支払しか受けない労働者たち――彼らの限界税率は間違いなく上昇する――は、ベーシックインカム導入の受益者でもあるのです。というのも、彼らの賃金に対する増税は、彼らがそれ以後受け取ることになるベーシックインカムの水準を下回るからです。それゆえ、関心は[税制が]分配的であることに向けられる必要はないのです。一部の提案に見られるように、たとえ最終的に定率の所得税に行き着く――つまり、最低稼得分位が、最高稼得分位の現在の課税率とまったく同じ税率で課税される――としても、改革はなおも高額稼得者(彼の全所得分位に対する増税額はベーシックインカムを上回る)から下方への再分配となるでしょう。しかしながら、そのような改革がインセンティブに与えるインパクトについてのまっとうな懸念にはいくぶん根拠があります。それは一部のベーシックインカムおよび負の所得税に対する反対論者が強調しているものです。(すなわち、限界税率は、社会全体の限界的稼得のうち増大傾向ではあるが比較的に小さな人口しか存在しないレンジでは引き下げられるが、はるかに多くの労働者が影響を受けるレンジでは引き上げられてしまう、ということです。) 労働および訓練をするインセンティブ、真面目であろうとし、革新的であろうとするインセンティブは、最底辺の所得レンジ(たとえば、月当たり〇-五〇〇ユーロ)では増大するでしょうが、この閾値より上部では低くなるのであって、そこには、社会の労働力の大部分、とくにその最も生産的な労働力の大部分が集中しているのです。そのため、底辺所得に対する限界実効税率がより高い所得分位に対する限界実効税率より高くはならないようなシステムへと拙速に飛び込むべきではない、とのアドヴァイスが成り立つのです[xli]。
低額稼得者への超過請求か部分的ベーシックインカムか
このアドヴァイスをベーシックインカム提案に当てはめる方法は二つあります。一方は、たとえばJames Meadeが提案しているように[xlii]、定率のまたは累進的でさえあるシステムを、ベーシックインカムの純受益者に対する「超過請求overcharge」によって矯正することです(図6)。もう一つは、オランダ政府政策専門家会議 [Dutch cientific Council for Government Policy][xliii]によって提案され、それ以後オランダ[xliv]および他の欧州諸国[xlv]で検討されてきた、「部分的ベーシックインカム[partial basic income]」です。部分的ベーシックインカムは、現行の単身個人に保証されている所得水準を下回るでしょうが、現在カップルに保証されている水準の半分には近づくか超過する可能性があります。また、この部分的BIは残余的な資力調査付き保証所得スキームの維持と並行して行われます。そのため、縮小した低所得レンジに対する一〇〇%の実効税率が温存されることを意味します(図7)。どちらの手法を採っても、先ほどのパラドクスが明瞭になります。つまり、富者が貧者と同じだけ受け取ることが貧者にとってベターであるだけでなく、貧者が富者よりも高い税率を課されても貧者にとってベターなのです。
厳密に個人主義的であるために高くつく?
個人化の美点
このように、資力調査を停止することによって真正のコスト問題が惹起される、という点は否定しようがありません。それは、ベーシックインカムが貧者だけでなく富者にも与えられるという事実によるのではなく、ベーシックインカムのポイントとは貧者により強い物質的インセンティブを与えることだ、というのがその(部分的な)理由です。とはいえ、ベーシックインカム提案に内在する真正のコスト問題はそれだけではありません。もう一つの問題が、ベーシックインカムは――現行の最低限保証所得の大部分とは異なり――厳密に個人主義的であるという事実から、直接的に生じてきます。そういった[旧来の]スキームは、典型的には、カップルをなす二人の個人の一方に対して、一人の単身個人に対するよりも低い水準の所得扶助を与えています。会計が住居補助になっている場合はとくにそうであり、別個の給付として運用される[単給化される]こともあります。何故でしょう? それは明らかに、住居、耐久消費財(調理器具、洗濯機、クルマ、ベッド?)、および一部のサービス(チャイルドケア)を一人またはそれ以上の人々とシェアするほうが、そのコストを個人で負担するよりも、安くつくからです。それゆえ、ある所与の基本的ニーズに関する定義をカヴァーする最も安価な方法には、家族構成を追跡し、保証所得の一人当たり水準をそれに応じて調整することが含まれてくるのです。むろん、この世帯-条件性から生じてくるのは、[受給者にとって]規模の経済が損なわれること、偽装居住が促進されること、それゆえ、人々の生活様態に対するチェックが必要になること、これらです。ベーシックインカムの明白な利点の一つはまさに、そういったこと全てを無しに済ませられるという点なのです。お互いに折り合いをつけ、社会的に居住設備および耐久消費財を節約する人々は、彼らが創出した規模の経済の便益を給付されるのです。そのため、離れて暮らすことをあえて望む人々にはボーナスは無いので、誰が、どこで、誰と暮らしているかをチェックする必要はまったく無いのです。
もう一つのジレンマ――不十分な給付か、それとも世帯単位か?
ここまではよいのです。しかし、個人単位の無条件ベーシックインカムはどの水準で設定されるのでしょう? それがカップルの各成員が現行で享受している保証所得の水準で設定されるとしたら、一人で生活する以外に選択肢のない人が必要とするものには遠く及ばない額になるでしょう。それが、一人の単身個人に現在与えられている水準で設定されるとしたら、結果的なコストは――すくなくとも一部の国では――異常なほど高くなるでしょう。ここでも、それは単なる財政コストの問題ではありません。一人-成人世帯から、二人ないし複数-成人世帯への購買力の劇的な移転という意味での、軽視できない再分配コストが存在していることになります。また、この増額されたベーシックインカムのための支出を賄うのに必要となる限界税率の相当な引き上げを主な原因とする、これまた軽視できない経済的コストも存在するでしょう。つまりは、完全に個人化されてはいるが不十分な金額のベーシックインカムを与えるか、それとも、十分ではあるが世帯調整をしたベーシックインカムを与えるか、の間でジレンマが――短期的には間違いなく――存在するのです[xlvi]。しかし、このジレンマは、(個人化されているが低すぎるベーシックインカムに伴う)一部の世帯を不可避的に貧しくすることと(十分ではあるが世帯-依存的なベーシックインカムに伴う)あらゆる世帯の生活様態を無期限にわたって管理することとの間でのジレンマと混同されるべきではありません。後者のジレンマは、短期的なコスト制約の下でさえも、持続はしません。というのも、厳密に個人主義的ではあるが不十分な万人対象の「部分的」ベーシックインカムを、残余的な資力調査および世帯調査付き社会扶助と組み合わせることが考えられるからです。その際、その社会扶助はベーシックインカムによって底上げされても資力調査付き扶助が打ち切られる所得閾値に達するほどの稼得をできない世帯を対象とします(図7を参照のこと)。そのような部分的ベーシックインカムは、現行の社会的扶助を即座に完全代替するものとして考えられているのではなく、満額のベーシックインカムが惹起すると思われる二つのリアルなコスト問題――低額稼得者へのインセンティブから生じるそれと、個人主義化から生じるそれ――を制御する魅力的な手法をもたらしてくれるものなのです[xlvii]。
付録 ベーシックインカムおよび関連スキームの図式化
諸概念をストレートに理解するため、および、競合する諸提案の賛成論反対論についてクリアに考えるためには、各々の提案が、粗所得――すなわち、あらゆる税ないし社会保障拠出の支払、および、あらゆる給付の受け取りに先行して、人々がその労働または貯蓄を通じて稼得する所得――を純所得――すなわち、税、拠出、および給付を計算に入れた、人々の可処分所得――へと転換する方法の形式的表現を念頭においておくことが不可欠となります。以下のグラフの各々において、水平軸および垂直軸は、それぞれ、粗所得および純所得に対応しています。それゆえ、四五度の点線――これは、グロス所得の各水準に対して等しいネット所得水準を対応させる――は、再分配がまったく存在しなかった場合に純所得がどうなるかを表現しているのです。それに対して、太線は、グラフによって表現される税-給付スキームが実行された場合にある個人の純所得がその粗所得の増加に従ってどのように変化するかを示しています。
各スキームの本質的な特徴を浮き彫りにするために、考察されている再分配スキーム以外のあらゆる公的支出およびそれに対応する課税については捨象することが便宜的でしょう。同様の理由から、まずは、全世帯が一人の単身成人で構成されているケースに焦点を当てることが有益であると思われます。
図1 従来型最低限保証所得
従来型の最低限所得スキームは、すべての世帯に対して保証を目指すある特定の所得水準(G)を設定しています。粗所得がGよりも小さい世帯を同定し、それら世帯に対してその粗所得とGとの差額に等しい給付を移転給付します。そのため、そういったスキームは、個人に提供される給付額がその個人の所得に関する評価に影響されるという意味で、「所得調査付き」ないし「資力調査付き」と呼ばれるのです。世帯の粗所得がGに達したとき、支払われる給付の水準は明らかにゼロとなります。Gを下回る粗所得の世帯に支払われる給付は、Gを上回る粗所得の世帯に対する課税によって賄われています。ここでは、この課税は線型であると、すなわちGを上回るあらゆるグロス所得に同じ率で課税されると、想定されています。この税率がどの程度高くなければならないか――すなわち、グラフ上の太字直線の右側部分の勾配がどの程度押し下げられるか――は、Gを下回る粗所得の世帯がどれだけの数か、および、それら世帯のグロス所得がGをどの程度下回っているか、に依存するのです。こういったスキームの特徴の一つは――太線の左側部分がフラットであることに示されるように――G以下のあらゆる粗所得に対する限界実効税率が一〇〇%だという点にあります。限界実効税率は、一〇〇%から粗所得に対する純所得の増加率を引いたものであると理解されます。ここでは、この増加率はゼロとなります。というのも、粗所得におけるあらゆる増加は給付の削減によってちょうどオフセットされるからです。最低限保証スキームのこの特徴は、稼得能力の低い人々に対して「失業のワナ」を創り出してしまうとしばしば言われています。なぜなら、それは、まったく何もないよりはGを下回る粗所得を(あるいは、雇用されるということは何らかのコストを惹起しがちであることを考えれば、Gよりもいくぶん高い粗所得を)稼ごう、という金銭的インセンティブを完全に相殺してしまうからです。
図2 ワナのあるベーシックインカム[1]
旧来型の最低保証所得スキームとは異なり、ベーシックインカムはあらゆる世帯に、その粗所得と無関係に、支払われます。Gの水準ですべての人に支払われるベーシックインカムは最初の四五度線をGへと押し上げ、より高い四五度の点線が描かれることになります。水準Gのベーシックインカムは、明らかに、Gを下回る粗所得の世帯のみに支払われる資力調査付き給付のケースよりも集計的ボリュームがはるかに大きくなるでしょう。このより大きなボリュームを賄う一つの――実際にはまったく提案されていませんが、考えうる――方法は、G以下のグロス所得にはすべて一〇〇%で課税して、Gを超えるグロス所得には全給付のコストをカバーするのに必要な限界税率で課税する、というものです。われわれが最終的に得るのは、資力調査付きのケース(図1)で得たのと――その左側のフラットな部分と、右側の傾斜のある部分の両方において――まったく同じ(太線によって示される)粗所得と純所得の関係性である。傾斜は資力調査付きのケースと同じであるはずです。なぜなら、Gを下回る粗所得の人々に支払われる純給付はいずれのケースでも同じであり、それゆえ、それを賄うのに必要な税収および税率も同じだからです。このありそうもないケースを考察することは、一方における資力調査付きスキームvs.ベーシックインカムと、他方における失業のワナの存在vs.失業のワナの不在との間にある概念的な区別を明確にするためには、重要なのです。
図3 線型の負の所得税[2]
資力調査付きの最低所得保証スキームは、給付額を個人の粗所得水準に感応的にしておくことによって、失業のワナを回避することができるのですが、その際、給付額の低下は粗所得の上昇よりも緩やかにしておかなければなりません。それが実現すると、粗所得の関数としての純所得を表す太線にはもはや[図1および2にあった]G水準でのフラットな左側部分は存在しない一方で、人々がそれ以降は給付を受け取れなくなる粗所得水準(いわゆる「課税分岐点[break-even point]」)が上昇します。もし(図1のように)、給付を受け取らない世帯も給付を賄うために均等率で税を支払うという仮定を続けるとしたら、その税率は、支払われる給付の数および額の増加を賄うために(図1の状況と比較して)、明らかに上昇するはずです。最低限所得がGで固定されたままであるとしたら、給付の減額率は、一〇〇%(図1においてそうであったような)を下回るところへ低下させることが可能であり、それより高額の所得に対して求められる税率はそれに応じて――(課税分岐点より下の)給付の減額率が(課税分岐点より上の)正の税率と等しくなるまで――上方修正されるのです。このケースが線型な負の所得税に相当します。そしてこの線型な負の所得税スキームは、世帯の所得水準に関わりなく、純所得が――粗所得と比較して――同一率で上昇して行くようなかたちで、負の税(すなわち給付)水準および正の税水準を粗所得と関連させているのです。
図4 フラット税と結合したベーシックインカム[3]
すべての人に水準Gで与えられるベーシックインカムが、ゼロ以上のすべての粗所得に対する線型税によって賄われる、ということも考えられます。人々がベーシックインカムを受け取った後、彼らの粗所得[曲線]――四五度の点線で表現される――は上方に平行移動します。この(非課税の)ベーシックインカムを賄うのに必要となる膨大な税収額によって、ベーシックインカムを超過するすべての粗所得に課される均等税率が決定されるのであり、つまりは純所得を表している太線の傾斜が決定されるのです。太線と元々の四五度線との交点によって、そこから下では人々はベーシックインカムとして受け取るよりも少なくしか税を支払わず、そこから上では人々がベーシックインカムとして受け取るよりも多くを税において支払う、そのようなポイントが決定されるのです。決定されるそのポイントおよび太線が、図3における課税分岐点およびそれに対応する太線であることは容易に理解されるでしょう。というのも、図3の傾斜は、相対的に貧しい人に集められる負の税が、相対的に豊かな人が支払う正の税とちょうどマッチするように描かれているからです。それゆえ、図4の傾斜が図3の傾斜よりも緩やかであったり急であったりしたら、相対的に貧しい人は給付(ベーシックインカムから税を引いた額)をより少なくまたはより多く受け取ることになり、相対的に豊かな人の純貢献(税からベーシックインカムを引いた額)を使い尽くす、または、超過して使うことにはならないことになるのです。この意味で、フラット税によって賄われるベーシックインカム・スキームは、同水準の最低限所得を備えた定率所得税と「等価」であると言えるのです。そして、同様の等価性は、非線型なスキームであっても、[給付総額と定率所得による税収総額とが]マッチングしているあらゆるペアについて言えます。
図5 非線型な負の所得税[4]
最低所得水準を落とすことなく、労働者の大部分の稼得に対する限界税率をそれほど上げることもなしに、失業のワナを廃棄することを目的として、数多くの非線型な負の所得税提案がなされてきました。そこでは給付の減額率が正の税率よりも高くなり、そのため、限界実効税率が富者よりも貧者にとって高くなるという意味で、負の所得税スキームが全体としては逆進的になったと言えるでしょう。むろん、このようなスキームはそれでも図1で描かれたタイプの伝統的な最低保証スキームよりは逆進性が低いですし、より再分配的なのです。
図6 低額稼得者への超過負担を伴うベーシックインカム[5]
負の所得税論者の一部が、正の税率よりも高い負の税率を提案したのとまったく同じように、一部のベーシックインカム論者は、相対的に高額なベーシックインカムを持続的に賄う方法として、逆進的な税制を――例として、標準的な率の税に「低額稼得者超過請求low earner’s overcharge」を上乗せするという形態で――推奨してきました。線型なケースの場合ほどには失業のワナは解消されないのですが、スキルをもった労働者が労働を供給し・努力し・自らのスキルを改善するインセンティブが侵食される程度は低くなります。このような「貧者への課税」があるとしても、この種のスキームはやはり、(図1のような)同水準の最低所得を備えた現行の保証所得システムよりも逆進性が低く、貧者への再分配性が高いことは言うまでもないでしょう。さらに、後者の現行保証所得システムが累進的な正の課税によって賄われる場合でさえ、このこと[ベーシックインカムの方が逆進性は低く再分配度が高い]は妥当するのです。
図7 部分的ベーシックインカム[6]
(図6のように)逆進的な所得税で「満額の」ベーシックインカムを賄うのではなく、資力調査付き保証最低限スキームの一部存続と組み合わせた「部分的」ベーシックインカムを設定することによって、高額の最低所得保証、失業のワナの改善、大部分労働者のインセンティブの保持、これらの結合を図ることができます。この場合、普遍的ベーシックインカムはBの水準――個人が単身で暮らすために保証されねばならない最低限所得を大幅に下回る――で導入されます。これは、四五度点線をBだけ上方に平行移動させます。それを超える所得はすべて同じ率で(この率によって、Bから始まっているもう一方の線分はよりフラットな傾斜となる)課税されるのですが、Gより低い税引き後所得はすべて、資力調査付き給付によってGにまで引き上げられるかたちで、補足されるのです。このケースでも限界実効税率が一〇〇%である低稼得レンジは残ります(太線左側のフラットな部分)。しかしそのレンジは図1で描かれた旧来型スキームと比べて顕著に短くなっています(どれだけ顕著であるかは、BがどれだけGに近いかに依存します)。旧来型スキームによって惹起される失業のワナに陥る人々の大部分が、最低所得保証にほぼ近い潜在的稼得を有していたとしたら、この低額ないし「部分的」ではあるが無条件のベーシックインカム――人々はこれを自らの稼得と自由に合算できる――は、ワナの大部分を埋めるに十分でしょう。同時に、全ての人の最初の所得分位に対する一〇〇%課税をまさに温存することによって、それより上の所得分位に対しては、図3および4の線型スキームの場合よりも、はるかに低率で課税することが可能となるのです。
[1] Salverda, “Basisinkomen en inkomensverdeling.”
[2] Friedman, Capitalism and Freedom.
[3] Atkinson, Public Economics in Action. (Oxford: Oxford University Press, 1995).
[4] Mitschke, Steuer- und Transferordnung aus einem Guß; Godino, “Pour la création d’une allocation compensatrice de revenu.”
[5] Meade, Agathotopia.
[6] Dekkers and Nooteboom, Het gedeeltelijk basisinkomen, de hervorming van de jaren negentig; Wetenschappelijke Raad voor het Regeringsbeleid (WRR), Waarborgen voor Zekerheid. Een nieuw stelsel van sociale zekerheid in hoofdlijnen.
原注
[i] Jacques Duboin, L’Economie Distributive de l’Abondance (Paris: OCIA, 1945).
[ii] John Cunliffe and Guido Erreygerso, “Basic Income? Basic Capital. Origins and Issues of a Debate,” Journal of Political Philosophy 11, no. 1 (2003): 89-110.
[iii] Thomas Paine, “Agrarian Justice,” in The Life and Major Writings of ThomasPaine, edited by P. F. Foner (Secaucus, NJ: Citadel Press, 1974), 605-23.
[iv] Bruce Ackerman and Anne Alstott, The Stakeholder Society (NewHaven, CT:Yale University Press, 1999).
[v] Jim Palmer, ed., “Alaska’s Permanent Fund. Remarkable Success at Age 20. . . . But What Now?” (special issue), The Juneau Report, summer 1997.
[vi] Michel Genet and Philippe Van Parijs, “Eurogrant,” BIRG Bulletin 15 (1992): 4–7; Jean-Marc Ferry, La Question de l’Etat Européen (Paris: Gallimard, 2000); Philippe Van Parijs and Yannick Vanderborght, “From Euro-stipendium to Euro-dividend. A Comment on Schmitter and Bauer,” Journal of European Social Policy 11 (2001): 342-46.
[vii] Pieter Kooistra, Het ideale eigenbelang (Kampen: Kok Agora, 1994); Dirk Barrez, “Tien frank per dag voor iedereen,” De Morgen, 22 December 1999; Myron Frankman, From the Common Heritage of Mankind to a Planet-wide Citizen’s Income: Establishing the Basis for Solidarity (Montreal: Department of Economics, McGill University, 2001).
[viii] Paine, “Agrarian Justice.”
[ix] Joseph Charlier, Solution du problème social ou constitution humanitaire. Basée sur la loi naturelle, et précédée de l’exposé de motifs (Bruxelles: “Chez tous les libraires du Royaume,” 1848).
[x] Raymond Crotty, Ireland in Crisis. A Study in Capitalist Colonial Development (Dingle, Ireland: Brandon, 1987).
[xi] Marc Davidson, “Liberale grondrechten en milieu. Het recht op milieugebruiksruimte als grondslag van een basisinkomen,” Milieu 5 (1995): 246-49.
[xii] James Robertson, The New Economics of Sustainable Development. A Briefing for Policy Makers (Luxembourg: Office for Official Publications of the European Communities; London: Kogan, 1999).
[xiii] Helmut Pelzer, ed., Bürgergeld nach dem Ulmer Modell (Ulm: RVVerlag microedition, Reihe Wissenschaft, 1998); Helmut Pelzer, Finanzierung eines allgemeinen Basiseinkommens. Ansätze zu einer kombinierten Sozial- und Steuerreform (Aachen: Shaker Verlag, 1999).
[xiv] Ronald Duchatelet, “An Economic Model for Europe Based on Consumption Financing on the Tax Side and the Basic Income Principle on the Redistribution Side.” Paper presented at the 5th BIEN Congress, London, September 1994; Ronald Duchatelet, N.V. België. Verslag aan de aandeelhouders (Gent: Globe, 1998).
[xv] Yoland Bresson, “Il faut libérer le travail du carcan de l’emploi,” Le Monde, 16 March 1999.
[xvi] Luc Soete and Karin Kamp, The Bit Tax: Agenda for Further Research (Maastricht: MERIT, 1996).
[xvii] Patrick O’Brien and Dennis O. Olson, “The Alaska Permanent Fund and Dividend Distribution Program,” Public Finance Quarterly 18, no. 2 (1990): 139-56; Palmer, ed., Alaska’s Permanent Fund.
[xviii] James Meade, Agathotopia: The Economics of Partnership (Aberdeen: Aberdeen University Press, 1989); Id., Liberty, Equality and Efficiency (London: Macmillan, 1993); Id., Full Employment without Inflation (London: Employment Policy Institute, 1994); Id., Full Employment Regained? An Agathotopian Dream (Cambridge, UK: Cambridge University Press, 1995).
[xix] Walter Van Trier, “Everyone a King. An Investigation into the Meaning and Significance of the Debate on Basic Incomes with Special Reference to Three Episodes from the British Inter-war Experience.” Ph.D. diss, Katholieke Universiteit Leuven, 1995.
[xx] Jacques Duboin, L’Economie Distributive de l’Abondance; Marie-Louise Duboin, L’économie libérée (Paris: Syros, 1985).
[xxi] Joseph Huber, Vollgeld. Beschäftigung, Grundsicherung und weniger Staatsquote durch eine modernisierte Geldordnung (Berlin: Duncker & Humblot, 1998); Id., Plain Money. A Proposal for Supplying the Nations with the Necessary Means in a Modern Monetary System (Martin-Luther-Universität Halle-Wittenberg: Forschungsberichte des Instituts für Soziologie, 1999); Joseph Huber and James Robertson, Creating New Money. A Monetary Reform of the Information Age (London: New Economics Foundation, 2000
[xxii] Jean-Marc Ferry, L’Allocation universelle. Pour un revenu de citoyenneté (Paris: Cerf, 1995); Id., La Question de l’Etat européen (Paris: Gallimard, 2000).
[xxiii] Anne Miller, In Praise of Social Dividends, working paper 1 (Edinburgh: Department of Economics, Heriot-Watt University, 1983).
[xxiv] Wim Salverda, “Basisinkomen en inkomensverdeling. De financiele uitvoerbaarheid van het basisinkomen,” Tijdschrift voor Politieke Ekonomie 8 (1984): 9-41.
[xxv] 付録中の図1および図3を参照のこと。
[xxvi] 付録中の図2を参照のこと。
[xxvii] Augustin Cournot, Recherches sur les principes mathématiques de la théorie des richesses (Paris: Librairie Hachette, 1838).
[xxviii] Milton Friedman, Capitalism and Freedom (Chicago: University of Chicago Press,1962).
[xxix] James Tobin, “On the Economic Status of the Negro,” Daedalus 94, no. 4 (1965): 878-98; Id., “The Case for an Income Guarantee,” The Public Interest 4 (1966): 31-41; Id., “It Can Be Done,” The New Republic, 2 December 1967; James Tobin, Joseph Pechman, and Peter Mieszkowski, “Is a Negative Income Tax Practical?” Yale Law Journal 77, no. 1 (1967): 1-27; James Tobin, “Raising the Incomes of the Poor,” in
Agenda for the Nation,
edited by K. Gordon (Washington, DC: Brookings Institution, 1968), 77-116.
[xxx] 付録における図3を参照のこと。
[xxxi] 付録における図3および図4を参照のこと。
[xxxii] 付録における図3を参照のこと。
[xxxiii] Tobin, “It Can Be Done,” 14-18.
[xxxiv] Juan Luis Vives, De Subventione Pauperum (Bruges, 1526) (French translation: De l’Assistance aux pauvres, Bruxelles: Valero&fils, 1943; English translation: On the Assistance to the Poor, Toronto and London: University of Toronto Press, 1999).
[xxxv] Anthony Atkinson, Beveridge, the National Minimum, and Its Future in a European Context, working paper WSP/85 (London: London School of Economics, STICERD, 1993); Id., “Participation Income,” Citizen’s Income Bulletin 16 (1993): 7-11; Id., “The Case for a Participation Income,” Political Quarterly 67, no. 1 (1996): 67-70; Id., Poverty in Europe (Oxford, UK: Blackwell, 1998); Yannick Vanderborght and Philippe Van Parijs, “Assurance participation et revenu de participation. Deux manières d’élargir l’Etat social actif,” Reflets et perspectives de la vie économique 40, no. 1-2 (2001): 183-96.
[xxxvi] Philippe Van Parijs, Real Freedom for All. What (if Anything) Can Justify Capitalism? (Oxford, UK: Oxford University Press, 1995).
[xxxvii] PhilippeVan Parijs, ed., Arguing for Basic Income: Ethical Foundations for a Radical Reform (London: Verso, 1992).
[xxxviii] Robert E. Goodin, “Toward a Minimally Presumptuous Social Policy,” in Arguing for Basic Income, edited by Van Parijs, 195-214; Brian Barry, “Real Freedom and Basic Income,” in Real Libertarianism Assessed. Political Theory after Van Parijs, edited by A. Reeve and A. Williams (Basingstoke: Palgrave-Macmillan, 2003), 53-79.
[xxxix] 次に収められている,私がリプライを付けた批判的な諸論稿を見られたい. P. Elkin., ed., “A Symposium on Philippe Van Parijs’s Real Freedom for All,” The Good Society 7, no. 1 (1997); Angelika Krebs, ed., “Basic Income?ASymposium onVan Parijs” (special issue), Analyse und Kritik 22, no. 2 (2000); Andrew Reeve and Andrew Williams, eds., Real Libertarianism Assessed. Political Theory after VanParijs (Basingstoke: Palgrave-Macmillan, 2003).
[xl] Mickey Kaus, The End of Equality (New York: Basic Books, 1992).
[xli] Thomas Piketty, “La redistribution fiscale face au chômage,” Revue française d’économie 12, no. 1 (1997): 157-201.
[xlii] Meade, Agathotopia: The Economics of Partnership.
[xliii] Wetenschappelijke Raad voor het Regeringsbeleid (WRR), Waarborgen voor Zekerheid. Een nieuw stelsel van sociale zekerheid in hoofdlijnen, Rapport 26 (Den Haag: Staatsuitgeverij, 1985) (English summary: WRR, Safeguarding Social Security, The Hague: Netherlands Scientific Council for Government Policy, 1985).
[xliv] Jos M. Dekkers and Bart Nooteboom, Het gedeeltelijk basisinkomen, de hervorming van de jaren negentig (The Hague, the Netherlands: Stichting Maatschappij en Onderneming, 1988); Paul de Beer, Het verdiende inkomen (Houten/Zaventem: Bohn Stafleu Van Loghum & Amsterdam: Wiardi Beckman Stichting, 1993); Robert van der Veen and Dick Pels, eds., Het basisinkomen. Sluitstuk van de verzorgingstaat? (Amsterdam: Van Gennep, 1995); Loek F. M. Groot, Basic Income and Unemployment (Amsterdam: Netherlands School for Social and Economic Policy Research, 1999).
[xlv] Anthony Atkinson, “Analysis of Partial Basic Income Schemes,” in Poverty and Social Security, edited by A. Atkinson (Hemel Hempstead: Harvester Wheatsheaf, 1989); Hermione Parker, ed., Basic Income and the Labour Market (London: Basic Income Research Group, 1991); Ilpo Lahtinen, Perustulo, kansalaisen palkka (Basic Income, the Citizen’s Wage) (Helsinki: Hanki ja Jaeae, 1992); Samuel Brittan, Capitalism with a Human Face (Aldershot, UK: Edward Elgar, 1995); Bruno Gilain and Philippe Van Parijs, “L’allocation universelle: un scénario de court terme et de son impact distributif,” Revue belge de sécurité sociale 38, no. 1 (1995): 5-80; Charles M. A. Clark and John Healy, Pathways to a Basic Income (Dublin: Justice Commission, Conference of Religious of Ireland, 1997).
[xlvi] Samuel Brittan and Steven Webb, Beyond the Welfare State. An Examination of Basic Incomes in a Market Economy (Aberdeen: Aberdeen University Press, 1991); Brittan, Capitalism with a Human Face.
[xlvii] 例えば,ベルギーにおけるそのような部分的ベーシックインカムの分配的インパクトについてのミクロシミュレーションとして,Gilain and Van Parijs, “L’allocation universelle”を参照のこと。
Van Parijs, Philippe 2004. “Basic Income: A Simple and Powerful Idea for the TwentyFirst Century”, POLITICS & SOCIETY, 32(1): 7-39よりpp. 7-26およびpp.28-39を抜粋。原典であるVan Parijs, Philippe(2004) “Basic Income: A Simple and Powerful Idea for the Twenty-first Century”, POLITICS & SOCIETY, 32-1: 7-39は次のサイトから入手することができます。http:
//pas.sagepub.com/cgi/content/abstract/32/1/7)
*作成・翻訳:齋藤 拓