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「精神障害者」が可能性を模索しながら生きていく上で、今後必要だと思うこと

安原 荘一(精神医療ユーザー、日本解放社会学会) 2004



はじめに

  大変残念なことに、「心身喪失者等医療観察法案」は、1年4ヶ月、3会期、2度にわたる「強行採決」の末2003年7月10日、衆議院で可決、成立してしまいました。
  多くの精神障害者の仲間同様、私自身も、疲労困憊し、休養を兼ねて、2ヶ月ほど各地を旅行し、気分転換と様々な人との出会いを少し楽しんで参りました。そして、この間、大阪の精神医療人権センターやぼちぼちクラブ、すいすい、We Can京都等を訪れる機会もあり、関西のいろいろな当事者活動も、勉強させていただきました。
  この間廃案運動を通じて学んだものは、大変多く、また特にインターネットの活用というのは、今回の運動の大変画期的な側面だと思います。単なる情報交換のみならず、各種メーリングリスト上での様々な議論は、全国の病者、精神障害者、各種関係者が議論の質を高め、相互のつながりを保つ上で、大変有効だったように思います。(ただし、多くの精神障害者が、インターネットを自由に使えるような状況ではまだありません。デジタルディバイド(情報社会弱者)の問題等克服していかねばならないし、FAX通信等を有効に利用している、大阪の当事者運動のやりかたもおおいに参考にしていかねばならないと思います。)
  さて、本稿では、私が「社会復帰」「精神障害者福祉」「労働(作業所)」という問題に関して、重要だと考えていることを、主に当事者と言う観点から、述べさせていただきます。

1運営形態の違いのもたらす、スペースの「雰囲気」の違い

  完全に当事者主体で運営しているところは、どこも、ゆったりとした、くつろげる「居場所」としての感覚が、あります。例えばイラク反戦等の、いわゆる「政治主張」を積極的に行っているグループもあります。そのようなグループは一部に「過激」だと思われるむきもあるかもしれませんが、むしろ逆で、そのようなグループのほうが一般にスペース自体はきわめてのんびりとそして民主的に運営されています。
  逆に、例えば福祉専門職の人が、主導権を持っているようなところでは、精神障害者は、ある種「子供扱い」されています。「○○ちゃん元気ー」「そんなことすると危ないわよー」、言葉は悪いかもしれませんが、母親と子供が、ある種「共依存」を、起こしている現象と、類似しているといっても良いかもしれません。
  私の知る限り、当事者主体で運営されているスペースのほうが、圧倒的に開放的なように思います。今後、単に作業所の会計の当事者への公開だけでなく(これは当たり前のことです!)、各種社会復帰施設等の運営のあり方全体を、大きく見直さないと、いわゆる「作業所飼い殺し」と呼ばれる事態は根本的になくならないように思います。

2「労働(作業所)」ということに関して

  私が、学生だった時期は、80年代高度大衆消費社会のまっさかりの時代で、従来の高度経済成長期の「生産」「労働」といったそれまで社会全体で共有されていた基本的価値観が大きく揺らぎ、問い直された時代でした。その後バブルの崩壊以降、多くの若者がフリーターという行き方を選び、低賃金労働をしながら、何か自分の生き方らしきものを30才過ぎても模索している、そして現在、かなり多くの人にとって労働それ自体は「自己実現」の手段では、もはやない時代なのではないかと思います。
  そのような時代に、「精神障害者」が、作業所等で、最低賃金の半分以下の低賃金で、働かされているというのは、どういうことなのか。それは、「精神障害者」の「自己実現」に果たして、貢献しているのか。私には、大変疑問に思えます。また「労働」を人間の力能を高め、関係性と可能性を広げていくものとして、とらえた場合でも、多くの作業所で行われている単純作業の繰り返しは、チャップリンの映画「モダンタイムズ」を持ち出すまでもなく、「疎外」された形態の労働であり、そのような労働が、多くの作業所や社会復帰施設内で行われている現状は、「作業所飼い殺し」、あるいは社会の(最底辺の)歯車に埋め戻すための「訓練(らしきもの)」でしか率直ないのではないでしょうか。
  私自身精神病院で「作業療法」を体験いたしましたが、正直面白くも何ともなかったです。まあ逆らうと、出れない場所だと思っていましたので、いちおう「作業」はやっていましたが、はっきりいって機械が出来る仕事を、機械を使うより安い入院患者にやらせているだけで、なおかつ「療法」なので、病院にはお金が落ちる。そのほか、文部省唱歌、昔の流行り歌等の歌詞を、模造紙に書いたものを前にはって、みんなで、鈴やタンバリン、カスタネットを持って、幼稚園児並みに合唱する「音楽療法」を含め、この際、精神科医の皆さん、各種「療法」をEBMどうこう以前に一度、ご自身で体験してみられるのが、一番良いのではないでしょうか。自分がつまらない、ばかばかしいとおもうものが、入院患者には意味があるということは、ありえないと思います。
  さて各種作業所や社会復帰施設あるいは、病院でのディケアといったものには、一人当たり少なくない金額のお金が支出されています。例えばディケアには、1日1万円以上のお金が支出されているそうですが、そんなお金があるならその分当事者に直接よこせ、使い道は自分たちで決めるという主張は、当事者主権という考え方に立てばもっともだと思います(この点は4で詳しく論じたいと思います)。

3「精神障害者」の社会的孤立の現状を乗り越えるために必要だと思うこと

  とはいえ、作業所等は、障害者同士の「出会いの場」として、機能している現状もあります。「精神障害者」は、社会的な差別等により、きわめて、社会的に孤立しやすい存在であり、この孤立した状況が病状の悪化、再発、そして時として多くの場合家族間で生じる「不幸な事件」の原因のひとつのようにも思います。
  多くの「精神障害者」は、結婚相手どころか、友人、雑談相手、各種相談相手さえもなかなか見つからず、一般的な社会的関係からいわば「疎外」された状況にあります。無論親からの経済的、精神的自立さえままならないのが実情です。私が、興味深いと思ったのは、大阪のぼちぼちクラブで行っている、当事者による電話相談(アメリカでは「ワームライン」と呼ぶそうです)です。いわゆる各種悩みの相談の他に、雑談や世間話等、人によっては20-30分ぐらい話し、また常連さんのような人もいるそうですが、専門家による「ホットライン」的な電話相談とは別に、当事者による電話相談の試みは、社会的に孤立した状況下にある「精神障害者」にとって、きわめて重要なこころの支えになっているように思います。
  さて、社会的に孤立した状況に置かれているのは、「精神障害者」だけではありません。いわゆる「ひきこもり」のほかに、30さらにそれ以上の高齢のフリーター、中高年失業者、単身高齢者、母子家庭その他様々な人が、現在様々な意味で「孤立」しています。
  わたしは、そういった人達が、当事者として、対等な立場で自由に出会え、交流し、新しい人間関係を作っていけるような場が、本来何よりも必要なのだと思います。
  そしてやや乱暴ですが結論的にいって、社会的「受け皿」、あるいは「社会資源」という発想自体に、私自身は大きな違和感を感じます。
私ごとになりますが、例えば今回の廃案運動で、多くの各種障害当事者の仲間のほかに、精神科医、弁護士、PSWといった人々とも知り合いになる機会があり、私の人生にとって、大変勉強になり、また今後生きていくうえで大きな参考になりました。 また、東京にAという、いっぷう変わった店があり、そこは「交流」と「生き方の実験」をモットーに、自称詩人、芸術家、革命家、あまりにつまらなくて企業をやめた人、(大学を含む)不登校児、「精神障害者」等(ココロ系と呼ばれます)等が集まって、ミニコンサート、詩の朗読会、勉強会、映画の上映会等を客やスタッフの自主企画で、行っていました。私自身最後の退院後2年弱は、実家の自室に実質引きこもって、本を読む以外は、一時期チャットばかりやっていたのですが、ある日ネットでさそわれて行ってみて、独特の雰囲気に興味をもち、その後月2回ほど店に行くようになりました。大変恥ずかしい失敗等もいたしましたが、そこにくる、いろいろな異質な世界の人々と出会うことが出来、また専門を生かしたアルバイトもそこで運良く紹介してもらえました。
  さて私は、いま必要なのは、社会的「受け皿」というような「消極的発想」ではないのだと思います。もっと積極的な、当事者主体の、そしてさらに多くの人をもまきこんだ、ともに支えあい、試行錯誤し、議論し、交流し、様々な「生き方の実験」を試みることが出来るような、多くの様々な人々との人生の出会いとそれぞれの人生の無限の可能性の永遠の出発点の場所でもあり続けるような、そんなスペースの確立とその実現と運営を可能にする、ゆるやかな自律的な人間的ネットワークの形成なのではないのではないでしょうか。

4精神医療、福祉の分野での現状のパターナリズムを乗り越える上で必要だと思うこと

  上記のような試みを行う上でも、また最低限生きていく上でも絶対に必要なのはまずは最低限の「お金」であり、スペースであり、親から自立出来る住居の確保です。
  図式的に言いますと、ただでさえ乏しい、精神医療、福祉関係予算は、まずは医療にまわされ、次に専門家主導の各種社会復帰施設や、その人件費に回され、当事者主体で行われている社会復帰の試みやピアサポート等には、現在すずめの涙ほどのお金しか出ていません。またさらにそれを大幅に削減しようという動きさえあります。(ちなみに、強制入院施設には、来年50億円の予算が組まれ、強制入院患者一人あたり年間1500万円のお金が支出されるそうです。)
  現在日本の高齢者福祉の分野でも、「契約」という考え方が、主流になりつつあります。イギリスでは、福祉(welfare)という考え方は、恩恵的な意味合いが強いので、(万人が等しく受ける権利を持つ)社会的サービスと呼ぶのだそうです(山井和則『世界の高齢者福祉』岩波新書)。
  生きる権利主体として、また契約主体として、真の当事者主体主義の時代が到来しようとしつつある今日、「福祉」という概念も今後大きく変わらざるをえないのではと思っています。
  専門家による「福祉」の「対象」としての「障害者」から、「障害者」自身が自分の生き方を選び、必要に応じて、自身で判断し選択する、真に有用な「社会的サービス」へ。
  そのうえで、先ほど、ディケアの問題でも述べましたが、直接当事者に、必要に応じた「お金」を分配し、その上で、当事者が各自の必要に応じて様々な「社会的サービス」を選択し、また自分たちでスペースやネットワークを作り上げていく、そのようなかたちに、「お金」の分配のあり方も含め、今後大きく変えていく必要があるように思います。
  いわゆる、医療、福祉パターナリズムは、「精神障害者」医療、福祉の分野だけでなく、現在あらゆる分野でみられますが、自分で自由に使えるお金がない「自己決定権」というのは、かつてマルクスが述べた労働者の二つの「自由」(資本家のもとで働く自由と餓死する自由)、同様、およそ「自己決定権」の名に値しないのではないでしょうか。
一般的にいって、「お金」を払う側のほうが、受け取る側の方より、力関係の上で、優位になるのです。精神医療、福祉の分野で顕著なパターナリズムを乗り越えていく上で、「お金」の分配の仕組みを当事者中心に変えていくことは、今後大変重要な課題だと思います。
  「福祉」は、大切な仕事ですが、決して「聖職」ではないと思います。無意識に潜む「聖職意識」が、逆に「善意」のパターナリズムを生み、結果的に現在、当事者主体主義の実現を阻んでいる面もあるように思えます。
  「多くの「精神障害」関係の福祉専門職員や社会復帰施設、作業所等の職員は、行政や各種福祉医療法人に雇われており、その給与は、主に公的財源によってまかなわれているのですが、今後は労働条件等に充分留意しつつも、基本的に「精神障害者」や当事者のグループが、「契約」によってサービスを選択し、支援費のように、まずは直接当事者に、お金が分配されるように、いわば「下部構造」の仕組み全体を、改めていく必要があると私は思います。これは、当事者主体主義を実現する上で、重要であるばかりでなく、結果的に、本当に当事者にとって必要なサービスを提供することへとも繋がり「福祉関係労働者」の仕事の内実を、より充実したものへと、結果的に変えていくことにもなると思います。

 なお、「精神障害者」という言葉にすべて、括弧をつけましたのは、「障害」という概念自体が英語圏では、議論を踏まえて、handicapからdisableへと、言葉のみならず、捉え方まで、大きく変わってきているのに、日本では「障害」の「害」の字を、かな書きにするか、かなり難しい「碍」という字に変える試みが現在一部なされている程度で、私自身まったく新しい言葉がこの際、必要だと考えているからです。(試案 「障害者」ではなく「支援必要者」と呼称変更する。例「精神的支援必要者」「身体的支援必要者」「知的支援必要者」「視覚支援必要者」。高齢者のばあいも、「高齢支援必要者」というカテゴリーがあると、大変有益だと思います。「痴呆性老人」といった、全人格を否定するような、自分でも絶対呼ばれたくないような呼称を今後絶対使うべきではないと思います。自立支援という言葉もありますし、「支援費」問題という深刻な問題がある現在、「支援必要者」というのは、ポリティカルにも、良いように思います。)

安原 荘一
社会学(保険論、リスク論)
関東社会学会、日本解放社会学会所属
社会臨床学会(近日 所属予定)


UP:20021207
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