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「「こんな夜更けにバナナかよ」の世界」
障害学研究会関西部会第20回研究会記録

20031227 茨木市福祉文化会館.


障害学研究会関西部会第20回研究会記録

日時:12月27日(土) 午後2時〜5時
会場:茨木市福祉文化会館 203号室
テーマ:「こんな夜更けにバナナかよ」の世界
報告者:渡辺一史さん(フリーライター)

●自己紹介(14:00-14:10)

●渡辺さんの話(14:10-15:30)
 実家が兵庫県川西市にあるので(育ったのは大阪府豊中市)、今回の研究会は帰省も兼ねて年末に設定してもらった。
 本を読んでくれた方はどのくらいいるんでしょうか?(ほとんどの参加者が挙手)。
 フリーライターになったきっかけはというと、北大へ行って、ミニコミ誌(講義選択の資料になるキャンパスマガジン)を作っていた。それが評判がよく、新聞やテレビやラジオに呼ばれるうちにこの仕事に入った。ライターとしては、約10年間、会社案内、パンフレット、観光案内、市町村史などを手がけていた。もともとノンフィクションを書きたいという思いがあったのだが、テーマがなかなかみつからなかったところへ、今回の夜バナの仕事が舞い込んだ。
 1999年に北海道新聞が鹿野さんとボランティアの物語を企画記事に取り上げたのを読み、鹿野さんのことを初めて知った。その数ヶ月後に道新(北海道新聞)出版局の編集者から、取材して本を書いてみないかという話があった。
 最初は尻込みした。医療・福祉のように専門的なものが自分の手に負えるかどうか不安だったし、身の周りに障害者がおらず、自分から遠い世界の出来事のように思っていた。それに、障害者もの・ボランティアものは、24時間テレビのように美談や感動ドラマにされがちだが、そういうのは書きたくなかった。だが、編集者から介助ノートのコピーを渡されてじっくり読んでみたところ、意外に面白かった。そこには美談でない人間ドラマが率直に語られていて、「聖なる障害者を献身的に支えるボランティアたち」というイメージはなかった。自分のイメージとは違った世界なのかもしれないと、興味を持った。
 興味をもった理由がもう一つある。その当時、私は32才で、時間的な自由はあるが、すべてのスケジュールを自分で決めなければならない「自由のつらさ」も肩にのしかかってきていた。その頃は「人に迷惑をかけない代わりに、迷惑をかけられたくない」というのが信条だった。それに対して鹿野さんは、24時間他人と生きなければ生きていけない。自分とは対極の生き方を強いられる中で生きていた。
 また、若い人が大勢ボランティアに来ていることを知って、「いったい何を好きこのんでボランティアをするのだろう」という好奇心もあった。
 取材と執筆に2年半、それから本になるまでに半年、計3年かかった。2000年4月から取材を始めた。
 シカノ邸に足を踏み入れてみてわかったこと。まず、鹿野さんのキャラクター。とても我が強く、自己主張が強い。
 言ってみれば、障害が重いことを逆手にとって、威張っているようなところさえあった。たとえば、4月に来る新人ボランティアに介助を教える「先生」になる。「介助を受ける・ボランティアをしてもらう」というイメージとは正反対で、むしろ「感謝されるのはおれの方だ」みたいなところがある。
 鹿野さんは、もともと少年時代は内気で神経質だったが、自立生活をするようになって、生きていくために必然的に徐々に図太くなったようだ。
 介助を受けるのは、「お願い」ではなく、「当然の権利」なのだという思いがあったのだろう。
 これに対して、しばしばボランティアの人たちは人を助けたいとか感謝されたいとか思っていることがあるが、そうすると鹿野さんとの間に必然的に葛藤が起こる。
 たとえば山内太郎君の場合、「ストレスがたまるからタバコ吸いたい、タバコ買ってこい」といわれて、「タバコ吸うのは自殺行為だ、イヤだ」と言って買ってこず、鹿野さんとバトルになる。最終的には鹿野さんも納得して別の人に頼んだ。でも、そこで鹿野さんとやり合ったことが後々のためになったし、そうでなければボランティアは続かなかっただろうという。
 「なんてワガママな人なんだ」と鹿野さんから離れていくボランティアもたくさんいたのに、2002年8月に鹿野さんが亡くなるまで7年間続けた。今は帯広の大谷短期大学の教員になり、在宅看護について研究している。鹿野さんの1年後の命日に結婚した。このように、鹿野さんとの間に、イヤなことはイヤだと言える関係を築けるかどうかが大きい。もっとも、どういう関係がいいかは、いろんな議論が必要だが。
 自分(渡辺さん)自身も、鹿野さんといろいろな葛藤があった。
 まず、排泄介助とマスターベーションのことを突っ込んで聞いてゆく過程で、緊張関係が生じた。たとえば自分のおしりが自分でだんだん拭けなくなるということの喪失感について聞きたかったのだが、鹿野さんにとっては語るのはシビアなことだったようだ。それから、鹿野さんは過去のことを忘れていくタイプなのかもと思った。「できないことはしょうがない」としか語らないので、「いや、そんなことはないでしょう。もっといろいろあったのでは?」と質問しつづけたりした。
 そこまで根ほり葉ほり聞いたのは、安易に書き手(自分)の想像力でディテールを埋めてはならないと、自分自身に課したからだ。鹿野さんの大変な状況はなんとなく想像できるが、安易に想像して、鹿野さんの代弁者になることだけは、しまいと思った。
 作品全体を通して、心がけていたことでもあるが、さも障害者のことを理解したふりをして、彼らの代弁者になってしまってはいけないということ。私が健常者である以上、健常者として見たことを率直に書いていくことにこそ、意味があると思った。
 でも、そうした私の思いは、ときに鹿野さんを苛立たせ、編集者のほうに鹿野さんから苦情が行って、しばらくは気まずい状況になった。やがて気まずい関係は元に戻ったが、それでも聞きづらいこともどんどん聞くという姿勢は曲げなかったつもりだ。
 また、国立療養所八雲病院のことを聞き出そうとしたときに、頑強に抵抗を受けた。鹿野さんは筋ジス病棟での暗い想い出・屈辱感・劣等感をトラウマとして抱えていた。鹿野さんの中ではお話として出来上がっているけれど、友達の多くがデュシャンヌ型筋ジストロフィーで、20才を待たずしてどんどん亡くなっていく。元の結核病棟を筋ジス病棟に振り替えたので、暗くて、絶えず死の影がそばにある。その頃のことを根ほり葉ほり聞こうとして、勘弁してくれということになった。
 鹿野さんは、ごく普通のワガママなオヤジ。自分(渡辺さん)もたとえば、夜中に「そうめんを食わせろ」と頼まれて、つゆが濃いだの薄いだの、ゆでかたが下手だの、何度もやり直しさせられて、最後はベテランの高橋さんにやってもらって「やっぱり高ちゃんはわかってるよなあ」と言われたということがあった。
 そういう憎たらしい部分がある反面、ふと鹿野さんの大変さを実感することがあって、申し訳なかったと思うこともあり、そういう気持ちの揺れ動き、愛憎を両方含み込んだ関係になっていく。
 家族、兄弟、恋人同士、夫婦のような、人間関係の位相にある。お葬式に集まった何百人ものボランティアの一人一人が、そういうドラマを持っていたわけで、これはすごいことだ。
 本当にいろいろあったからこそ、相手の中に自分の人生が含まれていて、大きな喪失感をもつのだろう。自分の人生が鹿野さんの人生につながっている。
 ボランティアについて。ボランティアを始めたきっかけを掘り下げて聞こうとすると、その人なりの生活背景や人生経験が納得されてくる地点が見つかる。今の時代、生きるのが大変なのは健常者も一緒だ。日常生活での不遇感や存在意義への疑問などを持っている。
 「人を支えること」で支えられるという人たちがいる。人を助けることでしか自分の存在意義を維持できない「ボランティア依存」の人もいる。これは職場関係や男女関係の「共依存」と同じだろう。どちらが障害者でどちらが健常者かわからない。鹿野さんのほうがよほどしっかりしていると思える点もある。「感謝されるのはおれのほうだ」という逆転と同じような逆転がある。
 逆転といえば、ボランティアにインタビューする自分がボランティアになっていって鹿野さんの死に立ち会って、ボランティアの人たちに訃報を書いて伝えることになったという逆転もあった。自分は鹿野さんの死の一部始終を見て、訃報を書き、鹿野さんの死をみんなに伝えるために、ここに呼ばれて来ていたのではないか、という不思議な感慨も覚えた。
 鹿野さんの自立生活の意義。ご両親は当時は健在(お父さんは今年9月に亡くなった)なのに、親の介助でなく他人の介助で生きていた。親とか妻とか嫁とか子供とかの家族に介助されるのではなかった。親に介助される限りは息子の域を出られない。他人が介入して自立生活をすることによって初めて、「先生」になったり「社会運動家」になったり「人生の先輩」になったりして、「患者」や「障害者」と別のステージに至れる。でも日本は家族介助の風潮が強い。自立生活には、障害を基盤にして「疑似家族」ないし「親密圏」が形成されるという特色がある。
 結局のところ本で描いたのは「自分と他者、人が人と生きるのはどういうことか」ということ。ほんとうに濃密な人間関係が失われている社会で、「他人と生きることを宿命付けられた人たち」である重度身体障害者の生活に、そういう人間関係が凝縮されている。わずらわしさはあるが、とっても豊かで、あたたかい。鹿野さんは全部さらけ出して生きていた。自分だったらどうなのか、自分が死んだらこんなに人が泣いてくれるか、何が残せるのか、と思った。自分って何だろうと自分一人で考えていても答えは出てこなくて、自分を意味づけてくれるのは他者でしかない、ということを実感した2年半だった。
 障害者の代弁者になるのでなく、健常者であるままで書くことに苦労した。これをたたき台にしていろいろ議論してほしい。
 
●休憩(15:30-15:50)

●質疑応答(15:50-17:00) 
(A)三点コメントがある。一点目は、自己決定できない状態に置かれている障害者が多いので、渡辺さんの話の感銘を受けた。二点目は、聞かれたくないプライバシー、たとえば恋愛関係とかあると思うので、ご配慮頂きたいと思う。三点目は、私は家族と住んでいるが、家族は私が幼い頃から一人の人間として対等に扱う関係の中で生活して、自分の生活は自分で決める自己決定をやってきている。でも多くの人にとって家族と暮らすことは甘えている関係を前提にしている。対等であれば、家族であれ他人であれ、同じ一人の人間として共に人生を生きることが可能になると思う。
(渡辺)プライバシーについては微妙な問題を含む。市野川容孝さんが「ケアの社会化について」という論文で、介助する側と介助される側の非対称性について問題提起されていて、大切な問題と思う。鹿野さんの場合、自分(渡辺さん)がプライバシーをさらけ出すことはない、という非対称性がある。それを是正すべきなのか、という問題がある。鹿野さんは非対称性に乗っかって生きて(「上手に利用して」)、非対称性を乗り越えてしまったところがあるのがすごい。しかしプライバシーについては是正すべきところがある。私の知っている範囲では、小山内美智子さん(札幌いちご会)、佐藤きみよさん(ベンチレーター使用者ネットワーク・自立生活センターさっぽろ)の場合も、プライバシーの問題にはとても敏感で、介助者と自分たちの関係は雇用主と雇われ人としていて、ドライな関係を望んでいる。鹿野さんの場合はまったく逆で、ドライでない関係を望んでいた。どう考えるかはとても難しいが、マスターベーションとか恋愛については、鹿野さんも、誰にでもさらけ出していたわけではない。
 家族と住んでいることについては、対等な関係が築けていればまったく問題はない。『生の技法』の「制度としての愛情」の章でも、親が最も障害になるといわれているが、他人介助を受け容れるのが最も重要なと。家族とそういう関係ができていれば問題はない。
(B)関西で全障連の障害者たちが自立生活運動を始めた25年前くらいには、このような本が書かれるとは考えられなかった。その点は高く評価したい。しかし、「ボランティア」という言葉を使ったことにはこだわりがある。
 p.319〜320に「人に遠慮して本音を語り合わない日本の国民性、摩擦や対立を「対話」で乗り越えることになれていない日本の風土が、自立生活の普及を妨げている」という旨の指摘があるが、これは非常によいと思った。
 また、鹿野さんが亡くなったことがこの本の完成度を高めているように思えると言われているようだが、亡くなっていなかったらどのように本をまとめただろうか?
(渡辺)「ボランティア」という言葉を使わない方がいいのは本当にそのとおりだが、痰の吸引という医療行為を福祉職に認めていないということがあり、鹿野さんの場合はケア付き住宅にいるのにもかかわらず24時間のボランティア体制を組まなければならなかった。つまり「ボランティアは自分の家族だから事故が起きても責任を負う」と主張するために「ボランティア」という言葉を使っていた。
 あと、この本は、一般の人向けに書いたので、戦略的に、「介助者」よりも「ボランティア」の言葉を使ったほうが通りがよいと思ったこともある。
 国民性についてはどうでしょうか?
(C)国民性だけで説明するのは難しいと思う。たとえば、人々が遠慮せずよくしゃべる中国でも福祉は西洋型ではない。また、遠慮せずよくしゃべるからといって、必ずしもきちんと対話が成立しているわけではない。対話が成立するためには人の話をよく聞くことが大事。
(A)今年見た映画の「障害者イズム」の中で「人の手を借りてまでやりたいんか」という言葉があったが、こういう言い方が日本の自立生活を遅らせている要因だと思う。
(渡辺)この本は鹿野さんの死をもって完結しましたね、とよく読者から言われるし、立花隆さんからも、鹿野さんの死で作品の完成度が高まったと授賞式で言われた。でも、それに対しては、鹿野さんは出版を心待ちにしていたので、やはり生前に出版したかったといまだに思う。もし亡くなっていなかったら、書き上がっていた原稿を鹿野さんに見せて、どこまで公表するかという点で「対決」していただろう。じっくり話してみたかった。
(D)鹿野さんが亡くなったことで完成度が高まったというのは、違うと思う。最終章以前にとてもいいところがあった。亡くなったと言うことで本が意味づけられるのは残念。それは読む人が読めばわかるはず。
(E)プライバシーに絡んでの感想だが、介助していた方が亡くなったとき他の介助者たちと話してみると、人によって全然故人の姿が違う、ということがあった。人に応じて、いろいろな面を見せていたのかもしれない。彼なりのプライバシー管理だったのだと思う。
 また、その人の介助者の中には他の人の介助には入らない人がいた。少なくとも僕自身はそうだった。それはやはり、彼とのひとつの人間関係の中での介助であったからなのだと思う。
(F)渡辺さん自身には鹿野さんと関わる中でどんな変化があったか?
(渡辺)大きく変わったみたいだ。講演して回ったりローカル番組に出たりしていると、自分をさらして生きてきた鹿野さんを受け継いで、どこにでも行こうと思う。昔の自分からは大きく変わった。
 ノンフィクションは他者と自分の間にようやく成立するもので、自分一人の作品ではない。だから一人でも多くの人々に読んでほしいと思う。いまでも介助者仲間とは、月命日に鹿野さんの実家に集まっている。そういうつながりは不思議なコミュニティだと思う。いまではそのコミュニティの幹事のようなことをやっている。以前の寂しかった独り者の自分とは違う。
(G)自立支援における社会と家族のバランスについて聞きたい。ひきこもりの人の支援をしているが、ケアの社会化を前提とした上で、もう一度家族の役割を考え直してみたいと思っている。家族の役割をどう考えるか?
 また、父と母とでは役割が違う。介助に関しては母の比重が高くなって、硬直化した役割分担になる。それが自立を妨げる要因にもなる。性の違いについてはどう考えるか?
(渡辺)鹿野さんの家のことしか話せないが、シカノ邸にはとても多彩な人たちが出入りしていて、いろんな人間関係ができていたことが大きい。お父さんとお母さんは鹿ボラの中では「何かあれば出てくる」ゴッドファーザー・ゴッドマザー的な存在だが、いろんな役割を果たしているボランティアの中で風通しのよい関係ができている。それは他者が入ることでできたのかもしれない。ひきこもりのことについてはよくわからないが、硬直化した関係を流動化するためには「レンタルお姉さん」のようなことが効果的かもしれない。
(H)感想だが、たとえば私が介助しているAさんの要望は自分の要望と同じ、人間としての当たり前の要望。そう思えないとやっていけないのだろう。自分もそうなったら、と考えたりして、介助することで勉強になってきている。
(I)文学としてと、障害者問題本としてとの、二つの見方があると思うが、どちらからのアプローチに重点を置いて書いたのか?
(渡辺)それは完全には切り離せない。普遍的な文学的問題があると思いながら、それを描くためには鹿野さんをしっかり描かなければならないし、障害者運動や自立生活のことも書かなければならない。でも、障害者問題が文学的問題もたくさんはらんでいるし、その面白さを描ければいいと思った。
(C)障害者問題の本としても読めるところがこの本の特色ではないかと思う。
 それから、「デュシャンヌ」は「デュシェンヌ」と書いた方がいいと、以前筋ジス研究班の医師に言われたことがあるし、医学辞典にもそう表記されているので、「デュシェンヌ」のほうがいいと思う。
(渡辺)取材中、先の佐藤きみよさんから、「ボランティア礼賛の本を出されると、社会保障をまた十年遅らせることになるから、それだけはやめてくれ」とクギを差されたことがあった。だが、24時間公的介助が充実して、鹿野さんがローテーションのことを心配しなくなったときに、鹿野さんは鹿野さんであり続けられたかどうか、と思うこともある。日々格闘しながら生きることが鹿野さんの生き甲斐にもなっていた。かといって公的介助を充実させなくてよいということは全くないけれど。

★参加者37名(うち介助者3名)



UP:20090717
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