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「生と死の自己決定」を教える?

大谷 いづみ 2003/12/01
『現代思想』(青土社)2003年12月号 p.206(研究手帖)



  高校教育の場に身を置きながら、バイオエシックスとカタカナで呼ばれた時代から生命倫理学の動向を眺めて20年。今や「生と死の問題群」は、高校「倫理」や「現代社会」だけでなく、中学校でも取り扱われるようになって来た。
  その間、医療従事者や科学者、あるいは生命倫理学者といった専門家集団の議論と一般市民の素朴な疑問や不安との乖離を紡ぐのは、教育とジャーナリズムだと考えて、生と死の問題群を教材化してきたのだから、現在のような状況は、それはそれで悦ばしいことではある。だが他方で、西欧の新しい<学>が日本に輸入され、さらには公教育の場にそれがどのように導入されようとしているかを目の当たりにして、考え込んでしまっているのも事実だ。
  本誌11月号の拙稿で指摘したように、中学「公民」や高校「現代社会」の教科書では、憲法学習の一環で、「新しい人権」にもとづく自己決定権の実例として安楽死や尊厳死が語られるという状況が存在する。だが、自己決定権なるものが、実際にはいかに困難なものであるかは、高校生たちに、たとえば「高校に来ない自由があったか」を聞けば、一目瞭然である。一目瞭然であるにもかかわらず、そんなことをおくびにも出さずに自己決定権が権利として語られ、それを子どもたちは、答案用紙に平然と書き付けていく。自らの進路を選ぶにあたって、文系に進むか理系に進むかさえ決められず、数学と国語の点数を比較してわずか数点高い方のコースを選んでいる子どもたちに、「生と死の自己決定」が、あたかも選べるようなものとして、提示される。
  そうやって、自らの自由意思で生死に至るまでの自分の人生を設計し、決定し、そして実現できるかのような生命観が語られようとしている現在、「生と死の自己決定」は、実際には、迷いながら揺らぎながら、そして真に自由な自己決定など不可能な関係性を生きている/生きてゆかねばならない市井の人々に、何より子どもたちに、果たしてどのような装置として作動するのだろうか。
   (おおたに いづみ・生命倫理学/生命倫理教育)


UP:20031228
全文掲載  ◇安楽死/尊厳死
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